言い残したこと

(1)私のような理科系から文系への転向は、多くの人に疑問を持たれます。しかし私が大学院に進んだ当時まで、科学哲学を専攻できる学科は国立T大学に一つあるきりで、私のような経歴をたどるしかありませんでした。現在では多くの大学でこのような学科が設立されています。羨ましい限りです。

(2)「大学院で成功すること」とは何かについて、最後まで曖昧なままにしてきましたが、ここでこれを定義しましょう。まず私のような経験をすることは「大学院で失敗すること」です。そして大学院で失敗しないことが「大学院で成功すること」です。特に評価の項で述べた1) 不条理感、2) 未達成感、3) 無力感を抱かずに済むことが最も大切なことだと考えています。

(3)大学院の外的な条件についてばかり述べながら、本人の研究者としての資質について最後まで全く触れないのを、大学院とは無縁の人などは奇異に思っておられるに違いありません。そこで一つだけ象徴的な例を挙げましょう。

ある学会に参加した時、そこであるシンポジウムがありました。そのテーマは「デイビッドソンの真理論的意味論」についてで、先端の話は別として、基本的内容は分析哲学をやる人にとっては必修項目の一つと言えます。型どおり呈題者の報告が一通り終った所で、取り合えず質問を受け付ける事になりました。そのときまだ若そうなある助教授が手を挙げて「よく話題になるので自分もデイビッドソンの真理論的意味論を読んで見たがどうも良く分からん。分かりやすく説明してくれんか。」といった質問をしました。専門の学会のそのまた専門のシンポジウムで、そのテーマに付いて自分は良く分からんから説明しろはないでしょう。司会者も呈題者も困っていました。多くの人は呆れたと思いますが、ほとんどの大学院生は別の意見を持ったと思います。「あんなんで助教授か…。なら俺も」と。学会にはこの他にも「アー、○○○大学名誉教授の××だが…」でトンデモな質問を始めて発表者を困らせる常連など、「なら俺も」と思いたくなる人ががゴロゴロしています。大学教授は無資格無審査でなれる事を痛感させてくれます。

(4)私の経験のような失敗情報はもっと多く公開されるのが望ましいと考えています。しかし私は、情報の公平性を保つためにも、その逆の情報も同様に公開されるべきだと考えています。素晴らしい授業を受け、素晴らしい演習に出席し、その他様々な機会を通じて学問の喜びを感じている大学院生(ていた元大学院生)もどこかにいるはずです。そのような人はぜひ自分の体験を公開して下さい。私自身もそのようなものを読んで見たいと切実に思います。(私はそのような状況に強い憧れがあります。一体どのようなものなのでしょうか。)ただし、そのような好ましい情報をもって好ましくない情報を駆逐しようとするなら、それは断固退けられるべきであるとも考えています。

結語


表紙