2. 私の大学院体験記:総括と評価

2-1-3 大学教授というもの

学部生のころ、私は大学の先生は偉い人で、多少変人であっても基本的にはきちんとした人たちだろうと考えていました。まずもってこの段階から私の失敗はもう始まっていたと言えます。大学教授とはどのような人種であるかを熟知することは、大学院における「成功」への鍵となります。以下では私が実際に接した教官を中心に、大学教授とはどのようなものであるかについて私見を述べてみます。大学教授に対する一般論を先に述べてみましょう。

まず、大学教授の特性を一言で言い表すなら、それは「徹底したエゴイストである」ということになると私は思います。多くの学生の皆さんは、大学教授に接したとき独特の人を寄せつけない冷たさを感じると思います。これは彼らが徹底したエゴイストだからなのです。(大学教授に限らず、徹底したエゴイストはみなこのような冷たさを持っています。)それではなぜ彼らは皆エゴイストなのでしょうか。私にはこれは分かります。なぜなら研究と言うものはそれ自身非常にエゴイスティックなものだからです。どのような研究者に対しても、なぜ研究するのかと突き詰めて問うなら、それが面白いから、と答えが返るはずです。人類の役に立つとか、誰かがやらねばならないとかいろいろ理屈を付けていても、究極的には「自分に取って面白いから」研究を行っているわけです。つまり大学教授と言うものは、社会的にはまだ未成熟な年齢から、一貫して自分が面白いと思うことだけを行って生きて来ているということになります。また、研究優先という態度は、裏返せば自分にとって面白くないことはしないということに外なりません。このような人生を送って来れば、だれでもエゴイスティックになって行くのは当然であると思います。しかし研究優先という態度はそれ自身では肯定的に評価されるものなので、彼自身そういう態度を取ることが自己のエゴイズムを強化していることには気づきません。最終的には「自分に取って面白くないもの=研究を妨げるもの=排除すべき対象」という方程式が自分の中で確立するようになります。「研究優先=良いこと」という方程式がこれを正当化します。私は大学教授の様々な態度について述べて来ました。このような態度も、それが「自分にとって面白くないこと=排除すべきこと」という方程式でほとんどが説明できるような気がします。

もう一つの大学教授の特徴は、そのプライドの高さです。彼らのプライドは極めて傷付きやすいものです。従って彼らに接するときにはどれだけ気を付けても付け過ぎとは言えません。例えば体験記で私はF教授に対して出した手紙で大失敗をしたことを述べました。私のこの失敗例は、どのような簡単な手紙や小さなお願いでも、決して気を緩めず最大限の注意を払わねばならないという教訓です。また彼らのプライドを傷付けた人に対しては必ず彼の怒りの鉾先が向けられます。ただしそれが表面的な行動に出るか、もっと陰湿なものになるかは人によりけりです。例えば私は次のような例を見ました。ある学会の会員への事務的な手紙の発信をある大学院生が担当したとき、彼はその学会の役員の偉い教授にその手紙の文章についてお伺いを立てにいきました。しかし彼は少し前にその先生の機嫌を損ねてしまっていて、その手紙の文書についてもこの表現は失礼だとか何とか色々と注文を付けられたらしい。ところがその注文を付けられた文章は、前年当のその教授が合格を出した文章そのものなのでした!彼らがプライドを傷付けられた時の特徴的表現は「失礼」と「不愉快」です。あなたが大学教授からこのような言葉を投げつけられたら、間違い無くあなたはその教授のプライドを傷つけているという覚悟をするべきです。(ちなみに彼らのエゴイズムを象徴する表現は「僕は時間が無いんだ」と「僕は忙しいんだ」です。)

以上の二点を理解するなら、大学教授に「お願い」をする際の難しさが十分に理解できると思います。一方で、大学院では大学教授への「お願い」が生命線を握っていることは既に述べた通りです。大学院生は、全員この困難な状況を各自解決せねばならないのです。

以上は大学教授に共通する一般的傾向でした。ここからは私の直接、間接的に見聞きした教授様のカタログです。
まず分析哲学のA教官について述べてみましょう。彼については、学問的指導者としての力量に欠けるということに尽きます。まず第一の問題として、彼の知識の狭さが挙げられます。文系の学者は理科系のように「狭く深く」では全く駄目です。勿論普通の教官は、自分の専門に関わる必要な知識は恥ずかしくない程度に身につけているのですが、この教官は学識が狭いという点ではちょっと特異的と言えるほどでした。(これについてはぜひ付け加えるべきことがあります。それは、それしかやっていないのだから当然と言えば当然なのですが、彼は自分の狭い得意分野については良く理解しており、最初私にはA教官がその分野について書いたものはよくまとまっていて明快であるように見えたという点です。これは、大学院選びの中心である教授選びにおいて、決して書かれたものだけを見たり、あるいは話を聞いただけでその教授を評価してはならないという一つの大きな教訓となると思います。)この教授の持つもう一つの問題は、彼は他人の論文をよく読めない、つまり緻密に筋を追ってきちんと論文を読むことができないらしいということです。他人の論文をきちんと読むのは非常に骨の折れることです。(他人の論文を読む際には他人の思考法に自分を合わせねばなりませんが、これはそれなりの実力がないと難しいのです。)一般に手抜き教官は、怠惰から人の論文をいい加減に読んだりすることがしばしばありますが、A教官の場合は真に実力的によく読めないようです。そのくせよく読みもせず罵詈雑言を投げ付けるのであるから手に負えません。私もひどい目にあいましたし、先に首都圏に行った方の分析哲学専攻の大学院生も、一度論文を見てもらった時にいい加減なことを言われてひどく腹を立てていたことがあったと聞いています。私はA教官を研究者として100%駄目だとは思いません。しかし少なくともこの人を「指導者」として戴かざるを得ないのは学生にとっては悲劇です。いずれにせよ、この教授は少なくとも人を指導するような器ではなかった、あるいは未熟なままに終った私としては大変僭越な言い方になりますが、それほど頭が良くなかったということになると思います。

私がこのように思うようになったのは、体験記にあるようにA教官からの批判に不信を抱き、D先生に意見を求めたことから始まりました。この体験からは実に多くのことを学びました。まず、批判というものの恐ろしさを知りました。批判するということは、批判されるものだけでなく、批判する側の力量まで暴いてしまうということが身に染みて分かりました。そして、同じ大学教授と言ってもその実力には天と地ほどの差があるということを知りました。無論差があることは容易に想像できましたが、ここまで違うのかという驚きがありました。後に多くの経験から分かったことですが、教授というのは駄目な人は徹底的に駄目だし、できる人は徹底的にできるのであって、全員がある基準以上にあるといったものではないのです。そして大学教授のレベルはその所属大学の入試の難易度と関係が薄いことも覚えておいて下さい。難関大学の教官でも橋にも棒にも掛からないようなものが散見されます。大局から見れば散見でしょうが、それを指導者とする学生にとってはたまったものではありません。

そういうわけで、大学教授に自分の論文を批判してもらうときには、決して一人だけの意見を聞いて判断してはいけません。大学教授のレベル差は天と地程のものがあります。たまたま「地」に当たるかも知れません。また一人の人間に全ての知識を求めるのも間違っています。また同じ専門家と言えども、知識の背景や学問への姿勢が違う人も沢山います。ある教授に論文を読んでもらってもその批判に納得が行かない場合はもちろん、納得できた場合でも別の教授に読んでもらうのは多いに得るものがあります。医療診断と同様にセカンドオピニオンが絶対に必要です。(ただし言うまでもありませんが、トラブルを避けるため、セカンドオピニオンを求めることはどちらの教授にも絶対に秘密にしておくように。もっとも優秀な教授は他人の意見を聞くことを全く恐れませんが。)ただし、私のように、教授にも問題があったが、論文も悪いという場合もあるのですから、どのような批判も一度はきちんと検討するべきであることをもちろん忘れてはなりません。私自身にも反省するところが多くありました。実は、体験記に述べた数々の「素人的欠陥」に気付かせてくれる最初の一撃はD先生の批判でした。(彼は一言もそのようなことは述べてはいませんでしたが。)とにかく一流の人間に批判してもらうことは物凄く得るものがあるということを実感しました。

(レベルの高くない)大学教授が批判をする際の、これもA教官の件をはじめとする多くの経験から学んだ典型的振るまいを挙げましょう。まず、(レベルの高くない)大学教授は、自分のよく理解できないものに対して、決して分からないとは言わず、必ず否定的評価をします。その時の態度は非常に特徴的で、いくつかのタイプがあります。一番多いのは、印象で判断したり目についた一部分だけを取り上げてけなすという態度です。そういう人は場所や理由を挙げずにただけなすだけなのに対して、まともな人は必ずどこがどういう理由でどう悪いと具体的に述べるはずです。また別のタイプとして、日本語や論文の形式などの、主題とは本質的に関係ない欠点を取り上げてけなすという態度があります。やれ漢字が違うだの句読点がどうだの表の書き方がおかしいだのといった批判がそれです。このタイプは批判そのものは正しいので、ありがたく御説を拝聴する以外ありません。(もっと本質的な批判はできないのか、とは言えませんから。)もう一つはとにかく自分の知っている得意分野に議論を引き込んで、そこで議論を展開しようという態度です。こういう人は、何を論じても常に、…(ここに得意分野が入る)ではどうだとか、…への配慮が足りないとか言い出します。(ちなみにA教官のその当時の得意分野は「志向性」。何を言っても志向性。)

(もっとも、自分の専門分野をきちんと決めている理科系の人には、話が自分の分野に及ばないかぎり黙っているが、自分の熟知した分野に及ぶと俄然自説を展開する人もいますが、こういう人は逆に信用できる場合が多いと思います。有名なワトソンとクリックの「二重らせん」の中には次のような一節があります。ワトソンの提出したモデルに対してある結晶学者が批判をしました。これについて、ワトソンはその批判を受け入れるのですが、その根拠の一つとして、その結晶学者はその分野で一流であるだけではなく、これまでずっと横で議論を聞いていながら、自分の知らない分野に一度も横槍を入れることはなかったことを挙げていました。結局後になってその批判が正しかったことが判明したのです。注意するべきなのは、何を言っても…、といった人です。)

そして最終的に、根拠を挙げずに、あるいは内容と関係ない無い根拠で「だめだ」と断定します。分析哲学のA教官はまさにこれら全ての態度が見られました。何とも正直なことに「何だか知らないがとにかくだめだ。」と発言したのです。その理由は「出来事だけを取り上げてもだめだ」からだそうです。(これについて興味深いことがあります。私が「出来事」に関心を持っていた同じ時期に、やはり「出来事」について執拗に研究を続けていた方がいました。私はこの主題を諦めざるを得なかったのですが、この方は更に研究を続け、その成果は一冊の立派な研究書として実りました。ところがある書評でこの本のことを取り上げた人が、「出来事だけを取り上げてもつまらない」と述べているのを見ました。私にとっては大変印象の深い一言でした。)

私としてはむしろ指導教官であった手抜き教授様Bの方にひどい憎悪を抱いています。ニーチェと現象学専攻という専門が全く違う教官から「おまえは哲学を全く分かっていないからもう辞めて出てゆけ」と言われたとき、「じゃあおまえは分析哲学をどれだけ知っているのか」と言い返したくなるのを押さえるのは非常な忍耐を要しました。ラッセルは、その自伝の中で、学生時代のケンブリッジでのある経験について感動を込めて述べています。それは、授業中に学生から間違いを指摘された教官が「自分は永年こう教えてきた。しかし君の方が正しい。」と答えたことで、彼はこれを深い感慨をこめて「知的誠実」と呼んでいます。しかしA、B両教官の振る舞い、すなわち自分の知らない分野に平気で口を出すこと、論文をよく読みもせずに罵詈雑言を投げ付けたりすることはそのような誠実な態度の逆であり、正しく「知的不誠実」の名で呼ばれるべきことだと思います。彼らは学者としての不誠実さを非難されるべきであると考えます。(A教官については、もちろん知的不誠実に対する嫌悪感はありますが、正直言ってなんとなく憐憫を感じるところもあります。)

ところでこのB教授様については昔から疑っていたことがあります。この教授様は日本一優秀と言われるT大学(それも「帝国」のついていた頃)の出身でしたが、偏差値的に大きく劣る我がX大学の学生たちを内心軽蔑していたように思われるのです。質問をしたときの面倒臭そうな馬鹿にしたような態度はいかにもそれらしく見えました。特にある学部生が自分の意見を言ったとき、「百年早いわ」と吐き捨てるように言ったのは強烈に印象に残っています。この疑いは他の哲学科の教授様にも同じくあてはまります。スチューピッドクエスチョンに対する態度はB教授様ほどではないにしろ、同じようなものがありましたが、一人は同じ日本一のT大学、もう一人はその次と評価されているK大学(いずれも「帝国」つき)の出身でした。いずれの先生方にとっても、我々は大した学生ではなかったのであろうという疑いを捨てきれないでいます。もちろん確証がないので何とも言えませんが。

いずれにせよ、学生が未熟なのは当たり前であって、それを高い立場から指導するのが指導者の役目でしょう。例えば学生が見当違いのことを言ったとき、
 (1) どこがどうおかしいかを指摘し、正しい方向を示す。
 (2) 理解を深めるための資料や、さらに進めるべき学習の方針を示す。
 (3) 問題点について学生自身が円滑に学習が進められるのに必要と思われるだけ(1)(2)を繰り返す。
というのが理想的でしょう。ところがB教官はつぎのような方針のように見えました。
 (1) 日頃軽蔑している学生から馬鹿なことを言われて不愉快になる。
 (2) 不愉快な気分から抜け出すために学生を馬鹿にする。
 (3) 不愉快な気分から抜け出すのに必要なだけ(2)を繰り返す。
自分たちを軽蔑している人間を指導者にせねばならないというのは、非常に不幸なことだと思います。これは学生に対する指導者としての大きな不誠実です。

ですが、何といってもこれだけは我慢できないのは、国民の税金で悠々と暮らし、国民の税金から退職金を受け取り、さらに死ぬまで国民の税金から年金を受け取るのに、その職責に対して余りに怠惰である点です。この教授の手抜きぶりは既に書いた通りですが、他の教授様はずっと真面目であるか、あるいは少なくとも表立って非難できるかできないかの微妙な手抜きをしていたのに対して、B教授様は文学部の教授全体のなかでも突出していました。これが私学であったとしたら、補助金という税金を含むにせよ、事情は違うと言えましょう。しかしB教授様は国家公務員です。この人は自分が公務員であるという自覚を持っているようには私には思えません。彼は給与を奨学金の感覚で受取っていると想像します。これは第三の不誠実、職務に対する不誠実です。私は学者として、指導者として、そして公務員としてのこれらの三つの不誠実に対して激しい嫌悪感と憎悪を感じます。(ちなみにこのB教授様の学問的業績に関しては、専門の遠い私は評価できるような立場にはないことを付け加えておきます。)

程度の差こそあれ、A,B両教授のようなタイプの教授(特にB教授様のタイプ)はあちこちで見られると思います。以下ではさらに、この他に私が見た教授様について書いてみましょう。まず挙げられるのは気難しい教授様です。これには老人型と幼児型があります。老人型気難し教授は、常に不機嫌で怒っており、不平や他人の悪口をぶつぶつつぶやいています。こういう教授様にものを頼むのは大変です。たとえそれが、教授の当然の義務であっても、まず露骨に不快感を示す渋面を作り、次にこの忙しい私がそのような詰まらない事に貴重な時間を割かねばならない事に対する不満を述べ、最後にそのような煩わしいことを持ち込んだ憎き学生に対して文句を言います。(挙げ句の果てに断られることさえあります。)また発話媒介行為(窓を開けさせるのに「ここは空気が悪いねえ」と言うことでそれを実現させるような行為)を活用するのも特長です。

振る舞いという点では幼児型気難し教授は老人型のそれとは全く異なります。この手の教授様はその振舞いにどこか子供じみたところがあります。彼らには機嫌が悪い時だけではなく、機嫌の(それも非常に)良い時があり、その間をランダムに飛躍します。そのせいで周囲の気の使い様は並大抵のものではありません。機嫌の良いときには冗談を飛ばしたり(周囲は緊張したまま笑う)こちらの都合を全く気にせず遊びに誘ったりします。ですが今機嫌が良いからといって気を許していてはいけません。ちょっとしたことでたちまち彼の笑顔は氷りつき、見る間に眉間に皺が寄って、周囲に緊張が走ります。ところで私は理学部と文学部でそれぞれこの手の教授様を見たのですが、非常に印象に残る経験をしました。不思議なことに彼らには、隣の研究室の悪口を言うという共通の振る舞いが見られたのです。それも隣の研究室の特定の誰かではなく、とにかくその研究室に属するものは教授様から新入りの学部生まですべて悪口の対象になります。そして悪口を言う方の教授様が属する研究室では、学部生から助手までみんなが真似をして隣の研究室の悪口を言い、そこでは隣の研究室の悪口を言うことが大きな正の価値を持つようになります。原因理由は全く分かりませんが、理学部で悪口を言われる立場で呆れた後、文学部で再び悪口を言われる立場として同じ現象を見たのですから、強く印象に残っているというのも理解してもらえるでしょう。

勿論この他にもたくさんの素晴らしい教授さまがおられます。例えば陰険な教授様。この手の教授様は老人型気難し教授様と共通した多くの特長を持っていますが、すべてがより内にこもっています。例えば頼み事に対する不満もその場で当人に言わず、別の機会に別の人に言ったり、ずっと後になって「お願い」を剣もほろろに断ったり、といった具合です。この手の教授の中には一見おとなしそうに見えるのもいる事には十分注意しなければいけません。このタイプに対しては、外見に騙されてつい気を緩めてしまいがちです。しかもその場では露骨には不満を言ったりしませんから、ご機嫌を損ねたことに気が付かないことも多くあります。しかしいつかはどこかで仕返しがやって来ます。いやむしろおとなしい教授様ほど気を引きしめてかからねばならない事を十分銘記しておくべきです。

いつも人の粗捜しをし、上げ足を取り、何かというと薄ら笑いを浮かべて馬鹿にしたように嫌味を言う教授様も良く見掛けました。この手の教授様は他人を批判するのは驚くほど巧妙です。これは皮肉やレトリックでそういうのではなく、よくそういうことに気が付くなとしか言えないような批判や、再批判ができないような巧妙な批判を、本当に見事に提出するのです。例えば、私は以前ある教授と彼の専門とは関係ない分野について話していて、「それは××の第二法則と呼ばれるそうです」と言ったら、即座に「じゃあ××の第一法則はどんなものですか、説明して下さい」と切り返されてしどろもどろになったことがあります。後で考えてみればその話しには第一法則は関係ないのですが、相手をたじろがせて自分の優位を保つと言う点では見事な切り返しです。このような人は本当はそれなりに頭が良いのではないでしょうか。それがうまい方向に進まず、そのことがその後の人生を屈折させたのかとも考えます。

ここからは間接的に聞いただけの話です。ある人の指導教官は、融通の利かない、冗談の通じない、厳格な教授様だったそうです。この手の教授様はとにかく頭が固く、現実から遊離した価値観を信奉し、それ以外の価値観を頭から否定し、それを他人すべてに押しつけ、それを受け入れないものを頭から否定する、という傾向になりがちです。あらゆること(特に芸術)に対して「高尚、重厚」と「卑俗、軽薄」という区別を押しつけ、「卑俗、軽薄」なものを極度に軽蔑します。(もちろん自身の評価では、自分は「高級」グループの中心にいます。)クラシック音楽の熱烈なファンであることが多いようです。

その外に良く耳にしたのは、いわゆる「ボス」教授です。大学内や学会で要職を占め、講座では帝王のごとく振舞うというタイプの教授です。聞いた話によると、学会でも大物のある哲学の教授様の研究室では、ある大学院生が教授様のお伺いを立てずに教員の公募に応募して大変なことになったそうです。このようにこの手の教授様の下でやって行くには気難しい教授様とはまた一種異なった気の使い方が必要です。その一方で、もしうまく行けば、様々な利便をはかってもらった上に確実に就職できます。そういう意味で付き合い甲斐はあるタイプです。人間的には偏狭で策を弄するタイプから大雑把で政治家的な人まで様々です。所で、これまでの私のB教授様の描写を読んで、彼は果たしてボス的な権威主義者であったかどうか分かるでしょうか。ボス的教授に「仕え」続けた経験のある人ならすぐに答えはNOであると分かるはずです。ポイントは私が博士課程に進むことができたことです。普通の教授様なら自分になつかない奴は放っておけということになるでしょうが、ボス的な教授様なら、自分に逆らうものは勿論、なつかないものでさえ絶対に「排除」しようとするはずです。私が進学の際に教室から排除されなかったということは、B教授はそこまでボス的ではなかったという証拠です。一般に手抜き教授はボス的側面はあまり強くないものです。

以上は私の直接、間接的に見聞きした教授様のカタログでした。教授も一般に若い頃にはまだ救いがあるのが普通です。従って若い人を指導者に選ぶのはある意味で賢い選択とも言えます。しかしこれには危険もあります。若いだけにまだ政治力に欠けていたり、あるいはこちらが丁度その力を借りねばならないときに別の大学に移ってしまったりすることもあるという点を忘れないようにして下さい。

もう一つ、脅かしになるのかもしれませんが、次の警告を付け加えない訳には行かないでしょう。人文系の大学教授の最大多数派は、やる方が良いことについてはまずやらず、やるべきことについてはやらないと大変にまずいことになることだけをやるという、簡単に言うと「何もしない人」です。そのような教授にとって学生など最初から関心の外にあることは明らかでしょう。このようなタイプの教授を指導教官にしなければならないなら、それはそれでかなり悲惨なことです。しかし比較にならない程遥かにその上を行く悲惨な境遇にある学生もいます。それは指導教官から無視、嫌がらせ、いじめ、妨害行為等を受けている学生です。繰り返し述べて来たように、研究室における教授の影響力は絶大で、全能とすら言えます。そのような権力者から積極的な嫌がらせ、いじめ、妨害を受けることがどのような苦痛をもたらすかは想像もつかないでしょう。なお悪いことに、そういう空気は研究室の他のメンバーにも微妙に影響を与え、周囲からも無言の圧力(場合によっては教官に同調したいじめ行為)となって学生を苦しめます。(一体誰が自分にまで攻撃の鉾先が向けられる危険を犯してまで味方になってくれるでしょうか。)そのような耐えがたい境遇の中で精神を病んでしまう学生は決して少なくないということ(従って自分がそういう目に合う可能性は決して少なくないということのだということ)を記憶しておくべきです。私の場合を考えると、指導教官だったB教官は、どちらかというと何もしない人タイプの教授であり、私は「積極的な」嫌がらせやいじめを受けてはいないと言えます。その意味ではまだまだましな事例であることは明らかです。積極的ないじめで精神を病んだ人に比べれば、私などそこまで酷い目にも合わされていないのに勝手にノイローゼになった脆弱な人間に過ぎないと言えます。あまり書きたくなかったことですが、やはり避けて通る訳には行かないことなのであえて触れた次第です。


しつこいですが、大学院で成功するか失敗するかは指導教官次第です。そのためにも、大学教授に付いてより一層の理解を深めることが重要です。このページがその一助となれたらと希望します。

総括と評価:目次


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