4. 追記

4-5 中退後10年のタイミングで


(1) 最近の大学での驚くべき変化について

最後の更新が3年前ですから、もう誰も読んでいないかとも思いますが、最近「愕然とする」という表現が大げさでない程驚いた話題があるので紹介します。それは東北大学が半年毎に学業成績を親に通知することを決めたと言う話題です。これに対する一般的反応は判で押したようなものばかりでした。今時の大学生は小学生並だ、怒鳴り込んで来る馬鹿親が増えた、大学側も学生を甘やかしている、情けない世の中だ、etc、etc…。しかし私は、そのニュースの一部を見て、かつてない程の、それこそ衝撃的と言って良い程の驚きを覚えました。それは次の部分です。
学内には反対の声もあったそうだが、「丁寧な修学指導は教育機関の責務」として通知することに決めたとのこと。
そして最も衝撃を覚えたのは次の一節でした。
同大は「4月の法人化により、『もっと早く連絡してくれれば、4年で卒業できたはずなのに』といった親からの提訴もありうる。親にも成績が通知されるということで、学生の意識をピシッとさせたい」と言う。
余りのことに驚きを通り越してしばし呆然としてしまったというのが事実です。

かつて私は、『再び大学院における「教育」について』において、組織内の常識が世間一般の常識と解離した組織に付いて触れ、ついて
「そのルールが裁判の場その他で一般社会の前に明らかになったとき、それは常識の範囲内であると判断されるか、どのような組織もこれを基準としたルールに従うべきなのです。」
と主張しました。ついで大学院の現状に触れ、それが「教育サービス期間」であるにも関わらず、その中での常識が世間の常識と全く解離していること、そしてその解離は関係者を含む多くの人々に取って「解離」とは認識されていない、と言う現状を指摘しました。

私が驚いたのは(索強付会だと嘲笑されるかも知れませんが)東北大の反応は、正に私がそうあるべきだと主張していた方向を追認しているということです。私は東北大の最初の見解を『大学が「教育サービス機関」であることを自覚し、それに相応しい振舞をなすことを宣言した』ものだと受け取りました。これだけでも驚きですが、愕然としたのは東北大の第二の見解に現われる「提訴」という言葉です。かつて私の主張は、組織内での常識が一般社会では非常識であることが露呈されるのは裁判の場に於いてであろうという予言のつもりでした。(この予言については、既にある大学院での事例が裁判となっています。しかしまだ判決は確定してません。)東北大の関係者は、通知表はその裁判への対策であると明解に述べています。明らかに東北大も、「裁判」を正にそのような場であると捉えているように思われます。私はここに、『これまでの大学内での常識は世間の常識と解離していたが、たとえそれが裁判の場に持ち出されたとしても耐えられる、言い替えると世間の常識での判断に耐え得るものに変えるのだ。』と言う東北大の明白な意志を読み取りました。大学の発想の根底からの転換を見た、大げさに言えばこのようなことでしょう。また私の主張やこれに類似した主張に対する「責任転嫁」「甘え」論による批判は、これらの主張と批判のレベルが全く違っているということもこれで明らかになったかと思います。私が問題にしていたことは、「甘え」とかの感覚的問題ではなく、社会の一組織としての責任と義務の問題なのです。「甘え」論者はこれを全く理解していなかったと思います。経験的に大学とは批判に答えるどころか批判の意味すら理解しない組織であることを良く知っていたつもりだったので、このような根底からの発想の転換が大学自身から出て来たことに心底驚いたのです。

大学自身はこのように変化している一方で、大学とはほとんど関係ない一般人の間からは「甘え」論が多かったのは全く皮肉なことです。その理由は明白です。独立行政法人化、これに尽きます。要するに裁判の当事者となった場合、「知らん」「それはウチでは通用せん」では通らないと言うだけのことです。関係ない一般人が相も変らずの甘え論を展開するのは、自分が「当事者」でないからです。裁判を起こさされて勝てるか?当事者でないものにとっては単にそれは「他人事」でしょうが、当事者に取っては正に一大事です。しかしたったそれだけでここまで大学が変るのなら、なぜもっと早くこれを進められなかったのかと思います。今年で私が退学して丸10年が過ぎました。たった10年でここまで変るかという驚きを感じると同時に、将来大学院へ進む人々に対する羨望を禁じ得ません。

さて、もし大学がこのような方向へ変るなら、本当に学業不振、怠学で進級不可や退学処分を下された学生が、大学側の対応に問題があったと提訴するという事態を想定する必要すら生じるでしょう。これまでは「何を馬鹿な」で済んだことでしょうが、もし大学側が反論に成功しない場合は、たとえその学生が本当に無能であっても大学側が敗訴する可能性すらあるのです。大学なら試験の点数等客観的な判断材料はそろえ易いでしょうが、大学院となるとそうはいかないでしょう。実験系の研究者なら必ず実験ノートをつけていると思いますが、これからはすべての教師が「指導ノート」を持ち、「×月×日。A君に原データの統計処理に誤りがあることを指摘。同じことがこれで3度目だ。指導は限界だ。」のような記述を積み重ねて行くしか無いのかもしれません。(このようなメモは裁判では極めて有力な証拠とされます。ついでに言うと、私は冗談でこれを書いたのではありません。この例を冗談であると笑った大学関係者はまだ分かっていない人、何処かで痛い目に合わないと分からない人である、と言えるかと思います。)しかしながら、進級を含む一切の決定が教授の裁量一つで決まり、しかもその根拠を挙げる必要が無いという事態そのものが本来異常だったのです。このような事態が「常識」であった大学そのものが異常だったのです。

私自身は、私が考えていたのと正に同じ方向に大学が変り出したことに満足はしています。索強付会だと嘲笑されるかも知れませんが、この変化は、私が考えていたことは間違っていなかったこと、「甘え」論による非難は全く議論を理解していない暴論だったことを証明するものであると考えています。しかし繰り返し述べて来たように、私は日本の大学がどうなろうと知ったことではないし、またこのような変化が進んだとしても、それで私の忌まわしい経験が帳消しになったり、抱えた負債が解消される訳でもありません。



4 追記:目次


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