2. 私の大学院体験記:総括と評価

2-1-1 指導教官の持つ役割

大学院での「成功、不成功」を決定する要素はただ一つしかありません。それは「良い」指導教官につけるか否かということです。なぜ「良い先生につくこと」が重要なのか、繰り返しになりますがもう一度述べましょう。第一に学問的な側面から述べますと、学生は、論文書き、発表いずれの場合においても、主題の選定、参考文献の選択、構成、最後には表題の決定まで細々と指導教官から指導してもらわねばなりません。このような側面は誰にも理解されるでしょうが、まだ大学院経験の無い学生の方には見えにくい指導として、一段高い所から見た論点の相互関連を教えてもらったり(こういうものは本には書いてないうえに理解するのに特に年季が必要で、自分一人でいくら勉強してもなかなか理解には到らないものなのです)学会の現在の状況を教えてもらったり(これを押さえてない論文は多くの人に対していかにも素人臭い浮いた感じの論文であるという印象を与えます)といった指導が挙げられます。

しかし本音を語るなら、決定的に重要なのは、様々な、いわゆる「プッシュ」です。まず認識すべきなのは、奨学生、非常勤、常勤講師への採用などに際して、推薦状を書くことなどの「各種推薦行為」は、ほとんどの場合それらに決定的な役割を果たすと言うことです。極端な話、指導教官からの電話が一本あるかないかで決定してしまうことすらあります。このように大学院におけるある学生の処遇は、すべてが上の人の一存や上の人同士の間の話し合いで決まります。指導者の何の手助けもなしに奨学金を受け取り、就職するのは絶対に不可能です。(私の大学教授恐怖症がこの業界では致命的であることも、これで分かると思います。)同時にこれらを認識するなら、指導教官が何の「各種推薦行為」もしないことがどのような意味を持つのかは明らかでしょう。指導教官に嫌われた場合や、そのような推薦行為を全く放棄している、ないしそれにひどく不熱心な教官に師事してしまった場合にどうなるか想像して下さい。もし何もしてくれない指導者についてしまったなら全く何も起こりません。つまりいつまでも学者として成長せず、職もありません。逆もまさに真です。例えばわがX大大学院の哲学科のある教授が、体験記でも触れた学術振興会の審査委員に当ったとき、滅多に出ないはずのその奨励金が自分の教え子、それも3名に支給されることが決まって周囲を驚かせたことがありました。(私はこの奨学金の給付の決定方法についてある疑問を持っています。)また別のX大大学院のある教授から非常に可愛がられていた先輩の大学院生は、博士課程の途中で助手につき、さらにその教授と仲の良い教授のいる東京の大学の助手に転身し、さらに退官によってちょうど空いた我がX大学教養部のポストに東京から帰ってきて納まりました。(噂によるとその退官教授自身にはこの人事について事前にほとんど何の相談もなく、学生に不満を漏らしていたそうです。)いずれの段階でも彼の先輩を何人も飛び抜かしての出世でした。これで分かるように、大学院ではポスト、奨学金等すべてが上から落ちてくるものです。それはちょうど天の恵みと同じで、自分の上に雨を降らせるつもりのない神様の下に居たら干涸びてしまいます。だからといって下界の人間が泣こうが騒ごうがそれで雨が降ることはありません。それでは困る人は自分の上にたくさん雨を降らせてくれる神様の居る所に移って行くしかありません。実社会では成功はある程度まで自分の努力で呼び込むものですが、この世界はただひたすら上から落ちてくるのを期待するだけです。学生にできるのは「おすがり」することだけです。しばしば現役の研究者の世界では publish or perish という競争原理があると言われますが、学生の世界の競争原理は polish or perish であると言えます。(そのせいで polish に努力を惜しまない学生もいます。しかしその努力に見合った見返りが期待できるかは、十分に計算しておく必要があるでしょう。)

ついでに認識しておいて欲しいことは、これらの「各種推薦行為」は指導教官の義務ではまったくないという点です。少なくとも授業を行わなかった場合、服務規定に違反し、職務怠慢を責められるはずです。(例えばB教官もひどい手抜きながら一般学生相手の授業だけは余り休みませんでした。身内だけが出席するので公になりにくい演習は平気で休んでいましたが。)しかし奨学金の推薦状を書くとか、非常勤講師を紹介するとか、常勤職に推薦するとかいうことを全く行わなかったとしても、それは服務規定などに違反しないことはもちろん、「非難を受ける事や後ろめたさを覚えるようなことでは全くない」ことなのです。これは丁度一般人にとっての「慈善活動」が、やらなかったといっても非難されるようなことではないのと同じです。しかし慈善活動と違うのは、上に述べた通りその行為がそれらの決定の際に決定的な役割を果たす場合が多いと言うことです。そのような重大な行為が、大学内では「慈善」程度にしか考えられていない事は覚えておくべきです。またこれは「授業に対する不熱心さ」と全く異なり、「慈善に対する消極性」に対しては何の圧力もかからないことを意味します。つまり各種推薦行為を全く放棄したり、特定の学生に対してのみこれを拒否する教官が、圧力よって方針を変更することは永久にあり得ないということです。

付け加えておきますと、このような「慈善に消極的」な教官が、実はかなり多いことを知っておいて下さい。そのように不熱心な理由の第一位は単に面倒だということでしょう。また「自分はそんな世俗的な汚いことはしない」という人もいるでしょう。また猛烈に研究をしている学者にもそういう人がいます。(ある日本人ノーベル賞学者は他人の世話を全くしないので有名です。)いずれにせよ、この点は指導教官選びの最も重要ファクターです。その失敗は即大学院での失敗に結び付くと言ってもよいと言えます。もちろん逆も正しいのです。

既に何度も述べた通り、大学院では全てが指導教官の意志によって左右されます。奨学金や就職の世話など、研究を続けて行く上で決定的な部分の生殺与奪を一人の人間だけが決定し、他の誰もそれに影響を与えることすらできないということの重大性を、まずは良く認識して下さい。

最後に大切なことを付け加えます。実社会では成功は自分の努力で呼び込むものですが、この世界はただひたすら上から落ちてくるのを期待することしかできません。自分でできることは、せいぜいそういう環境に自分を持っていくことだけです。また、それをわきまえず自分の力でどうにかしようと色々画策することは、大きな失敗につながることが多いことは絶対に忘れないように。

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