ジャンボ、ハバリ!−その2−


ジャンボ、ハバリ!−その3−へ!
●3年ぶりのカランジャ(てるおのアフリカンネーム)のアフリカ里帰り旅行報告

 ◎今年8月7〜18日まで3年ぶりに僕はパパ(ババ・カランジャ)とママ(ママ・カランジャ)と3人でアフリカ旅行をしました。その旅行での思い出を書きます。

 ○2000年8月7日(出発初日)

 午前中からお昼にかけて必死にこのHPのレスづけやメール読みやらをして旅行に備えていた僕は(笑)、お仕事からパパが帰ってくるのを待ってママと3人で自動車で成田のANAホテルに向いました。アフリカには8日に出発ですが、飛行機の時間が早いので、今日はここにお泊りです。去年パパとママがアフリカに行った時も、3年前に僕も行った時もやはりここに泊まりました。今日は旅行の前夜祭ということで、開放感一杯のパパは、2日前がママのお誕生日だったこともあって、そのお祝いも兼ね、鉄板焼きを大盤振る舞い・・。とてもおいしいステーキを食べました。いわく「旅行中はこんなに美味しいお肉は食べられないと思うからな〜」・・ははは、このパパの言葉は後できちんと裏切られることになりました(^^;)。

○8日(2日目、日本からの出発日)

 前日TVを観ながら寝た僕は、明け方に目が覚め、ずっとTVを観ておりました。不規則は相変わらずです、これで身体が良くなるのか?・・旅行の先が思いやられる〜(笑)! 朝バイキングの朝食を済まし、9時半頃のバス・・・ちなみにこの辺のホテルは飛行機の乗務員のお客さんも多く、空港まで定期的にバスで送迎してくれます・・・で10時頃空港について早速飛行機のチェックイン。初めて乗るシンガポール航空のラッフルズクラス(いわゆるビジネスクラスですが、この会社ではこう呼んでいます。ラッフルとは富くじ札のこと)なので、スムーズに終わり、トランク類も預けます。スルーで預けたのでこれらの大荷物はウガンダのエンテベ空港まで見ることはありません。

 そして、このクラス専用のラウンジで搭乗案内まで一休み。今度の旅行は概ねビジネスクラスだったので、その意味では楽だったし、ラウンジも使えて飛行機の待ち合わせ時間は大体楽でした。贅沢だ、などと言うことなかれ〜(^^) 割引もあるし、パパとママはもうお年寄り
(わはは)! 老後の楽しみで貯金下ろしてるし、エコノミーでは身体が持ちません。また僕はパパとママの世話係りなので、いわばお仕事、立派に「ビジネス」なのです〜(笑) しかも僕の体格ではそれこそエコノミー席が壊れるかも・・!?(わっほっほ)というわけで、やむをえない仕儀ではありました・・。

 3人でラウンジで旅の前途を祈って乾杯し、案内の放送を待って搭乗。そう、ビジネスクラスのラウンジでは基本的に搭乗の案内を放送等で時間になると知らせてくれるのです。12:00の予定からちょっと遅れて無事飛行機は出発。飛行機に乗るのは2年ぶり、海外旅行は3年ぶりで前回のアフリカ行き以来だった僕はちょっと離陸が怖かった(^^;) さ〜て、これからいよいよ久々のアフリカ行き・・一体どうなるのかな〜?

 6時間半のフライトの間僕は前日の睡眠不足もあってか、食事を相変わらずもりもり食べた後(笑)、席に備え付けのビデオを観ながらヘッドホーンをしたままよく眠ってしまいました〜。 そして飛行機はほぼ予定通りシンガポールの空港に到着。日本と1時間時差があるので17時半頃着きました。まず乗り換えて次に寄るドバイまでのチェックインをするためトランスファーカウンターを探します。ここチェンギ空港はターミナルが2つあって、到着したターミナル1からなんとスカイトレインという電車に乗って2分程でターミナル2に移動します。似た制度は成田にもあったような気がします。 カウンターは直ぐ見つかり、申し込むと、なんとウガンダのエンテベまでのチェックインが出来てしまいました。ここからエンテベまでエミレーツ航空という会社の便を使いますが、同じ航空会社だからできたのでしょう・・。それで、そこの係りのお姐さんに 「ビジネスクラスのラウンジはどこ?」 と訊くと、 「それならちょっと行ったとこの服飾品関係のお店の後ろのエレベーターに乗って上がった所でエスカレーターに乗って、すぐ上ですよ」 と親切に教えてくれ、近いと思ってそそくさとラウンジを目指しました。これが運の尽きの〜始まり!(^^;) 今回の旅行はとても楽しかったけど同時に色々トラブルネタも多く、このラウンジ探しがその前触れとなりました・・。

 すぐ後ろだと思ったエレベーターは何処にも見つからず、やいのやいのあちこち見た挙句、重い荷物を下げて(車がついている鞄とかもあるけど)、初めての場所で案内板を見ながら歩いてもよく分からないわ、似たようなつくりで初めて通った通路か前に通ったかも分からず、人に聞いても言葉がお互いうまく通じなかったり、と、大変な探検になってしまいました・・。年寄りのパパとママ、特にママは 「あたしはもういや〜!」 とか疲れているし、若いはずの僕もうんざりです・・。でもようやくエスカレーターがあり、そこを昇ると、色々な航空会社のラウンジが並んでいる所に出ました。ここだ、と思ってその1つに入って受付の男性に訊こうとすると、何も言うな、分かっている、という風に盛んに通路の奥を指して「あな、あな!」 と叫んでいます。何かと思ってそちらに行くと、「ANA」のラウンジがあったのでした〜(笑)。彼は僕らを身なり風体や様子から日本人と判断できたところまでは良かったのですが、だからといって日本の航空会社の客とは限らない、という事が分かってはいなかった〜(わはは・・)!

 その後ようやく僕らのためのラウンジを見つけることが出来ましたが、その時ふと時計を見ると19時を回っています。チェックインをしてからなんと1時間もラウンジを探してうろうろしていたのでした〜。さっき初めての場所、と書きましたが、実はシンガポールには21年前に来た事があります。前ページで書いたナイロビで入院した時の旅行で帰りに寄った事があります。その時はエンジントラブルでいつ飛ぶか分からない便をパパが怒ってキャンセルし、別会社の便のチケットを買って成田まで帰ったのでした。この時はそのためシンガポールで一泊することになり、別の日本人のグループの方々と行動をともにすることになりました。その中に著名な作家のお母様が折られて、とてお仲良くなってしまいました。この方自身旅行好きとして知られていて世界中を旅して周られていました。お名前が僕と似ていたので、そういうこともあって仲良くしましょう、と仰り、シンガポールにいた間一緒に自動車に乗ったりして色々お話しました。良い思い出です・・。

 このHPの常連のmiochikaさんがこの春ロシアに旅行された時のことをご自分のHPで書いておられますが、その時寄られたこのシンガポールでのことを読んで、僕は実は密かに不安でした(笑)。彼女の場合乗り換えの待ち時間が24時間で、ロビーや空港内の映画館で寝たそうですし、あまり暇なので無料市内観光にまで行ったそうです。僕は21年前の事もあり、なんかシンガポールの飛行ダイヤについて不信感があり、今回の旅程でもここでの待ち時間が一番長くて7時間弱あったので、無事ドバイに向かえるのかどうか、不安だったのです。しかし同時にmiochikaさんから聞いていた空港内のゴージャスな各施設を見るのも楽しみでした〜。

 そこで成田で買った鉄火の海苔巻を3人で食べて、シャワーを浴びた後・・そう、このラウンジは中にシャワー室もあるのです・・僕はくたびれて眠ることにしたパパとママをおいて1人でビデオ片手に空港の中を探検に行きました。僕がよくあちこちふらふらとうろつき人を心配させる放浪癖がある事知っているパパは、1時間位で帰ってくるように、と釘を指したので、僕はやむなくさっと見て周ることにしました。でもラウンジを探した時も感じましたがとにかく広くて何処もかしこもお店だらけ・・ほんと迷子になりそうでした。でもマーライオンの形のチョコやらナッツやら買って、TVゲームやPCゲームを見ていたりするとあっという間に時間は過ぎました。今回の旅行、ゲーマーの僕はしっかりGBとWSを持ってきました。でも飛行機の中ではできないので、大荷物に入れてしまい、どの道暫くは出来ないのです。でもお店で売っている最新のゲームを見ていると嬉しくなってきます。それも殆どが日本のゲーム。何も旅行に出てまでそんなもの見なくてもいいではないか、といわれそうですが、こういう機会だからこそゲームの意義もひときわ浮き彫りになります(^^)/ 

 そしてなんと売られているゲームの中に僕が大好きな「MIGHT&MAGIC」シリーズの「TRILOGY」という新しい作品を見つけてしまいました〜! これは今まで出た「M&M」の3、4、5の3作品が1つになったCD版です。僕は昔PCEやMDで3を、PCのディスク版で4をやった事はありますが、5だけやった事がありませんでした。それでこの「TRILOGY」とても欲しかったのですが、荷物をこの時点で増やすわけにも行かず泣く泣くあきらめました(ううう・・)。 それで仕方なくせめて何か変わったことをしたくて、ラウンジの探索の時目をつけていたKFCのブースに行って、チキン2ピースセットを取り、隣のソーセージのブースで30センチ位ある巨大フランクフルトを注文し、一気に食べました。チキンは日本でいうジンガーチキンしかないのですが、まずまずの味で、フランクフルトはかけたケチャップが良いのかとても美味しかったです〜(^^)。 他にサボテンの植物園とか色々面白そうな施設もありましたが、パパの高血圧に悪いので(笑)、そそくさとラウンジに帰り、搭乗に備えました。

 そして深夜2時、エミレーツ航空の便に乗り換え、中東のドバイを目指す事になりました。

○9日(3日目、シンガポール〜ドバイ)

 エミレーツ航空はアラブ首長国連邦(UAE)の航空会社ですが、乗務員は外国からの出稼ぎが多く、人種や国籍もまちまち・・欧米系の人が多いようです。女性乗務員の制服、特に頭から首にかける白いヴェールはちょっと神秘的で面白いです。ただここの会社は荷物のことに厳しくて、ちょっと大きい荷物をおいておくと 「預かります」 とか 「こっちにしまって下さい」 とかよく言われました。これは結構有名な話らしいです。でも最新鋭の飛行機で快適な7時間一寸のフライトの後、5時過ぎにドバイの空港に着きました。

 ここドバイの空港は、そのショッピングモールの豪華さと品揃えで世界的にも有名ですが、それを目の当たりにすることになりました。シンガポールでとは違って(笑)、あっさりビジネスクラスのラウンジを発見した僕達は、早速その見上げるような高い天井と二階建ての豪勢なラウンジに落ち着くと、僕の場合またしてもグロッキーなパパとママをおいてビデオ片手にモールの探検に行きました。

 開放的なガラス張りの大きな廊下の両側にはラウンジやお店が並び、中には掘立小屋風のアイリッシュパブまであります。そして随所に見上げる天井まで届く巨大なヤシの木がが生えてて・・と思ったらそれらはみな模造の木でした〜。 そして二階建ての廊下を進んで階段から下を見ると、階下にはほんと巨大な 「お店の街」 が並んでいました。噂の自動車もメインの廊下の、真中に堂々と何台も並んでいましたし・・尤もこれらはクジか何かの賞品のようですが・・そこの近くでは金の取引のお店まで出ていました。その金のお店の所には、これまた巨大な全部金ピカのヤシの木が立っていて、よく見ると、その木の肌は全部金の延べ棒の形をしていました! しかも根元には大きな宝箱があって、その中にも延べ棒の模型がざくざくでした〜(^^)! 日本では見た事もないような直径20センチもあるような、キャビアの大きな缶詰とかチョコやタバコ、コンピューター関係商品なども一杯〜・・。 僕は小さなスナックとお土産用の小さなキーホルダーや絵葉書位だけ買いましたが、もっと時間とお金が欲しかったですね(あはは)・・。

 昔アフリカ旅行の帰りに近くのアブダビの空港は寄った事があるのですが、その時も絢爛豪華な真っ青に輝く宮殿のような建物の造りに唸ったものです。そこで食べた本場のシシカバブはほんと美味しかった・・。でもアブダビは窓から見える外の風景が全部砂漠でした。でもドバイは砂漠なのでしょうが、外の風景に緑が多かったのが印象的でした。加工貿易立国の日本にとって中東諸国は仲良くしていかなければならないエリアだとはよく聞きますが、ここに寄ったのは、石油のパワーって大きいものだ、と実感させられる体験でした。

 ラウンジに帰ってそんな話をしてパパとママを驚かせ、「金ピカ・ヤシ」とかを見てから、8時過ぎにドバイを発つことになりました。

○9日(3日目、ドバイ〜ウガンダ)

 予定よりやや遅れてドバイを発ったエミレーツ航空の飛行機で、いよいよ一路アフリカ大陸を目指します。最初に5時間程飛んでケニアのナイロビに寄り、そこから最終目的地のウガンダはエンテベへと飛びます。

 途中スムーズなフライトの後ナイロビはジョモ・ケニヤッタ空港に到着。僕にとっては3年ぶりですが、1時間の寄港なので、そのまま機内で待ちます。周りにいた殆どのお客さんは皆ここで降りてしまい、機内に残っているのは僕達と後2、3組。すると、あれこれ面倒を見てくれていたパーサー氏がウガンダの入国カードを持ってきてくれて一言、 「ナイロビを発つと、当機はダルエスサラームへ向かいます。そこまで行かれる方はこのカードをお配りしますのでお申し出下さい」 ・・えっ、ダルエスサラ−ム!? だってダルエスサラームはタンザニアの首都ですよ、この飛行機はウガンダに行くはずでしょ〜!?・・パパがあわてて 「僕らはエンテベまで行くんだが・・」 というと、このパーサー君、二ヤッと笑って、「ははは、軽いジョークです!」 ・・僕らは一気に噴出しました。客が少ないと乗務員もお客さんと親密になり易いみたいですね〜(笑)。彼は外見は南欧の人のような感じですが、色々話すと彼はレバノンの出身だそうで、パパがレバノンが中東にあることは知っているけど、というとなんだか喜んでいました・・。

 そして1時間程して午後2時半頃エンテベ空港に到着。途中着陸の少し前に、雄大なヴィクトリア湖の姿が見えました。九州が丸ごと中に入ってしまうという世界第三の大きさを誇るこの湖はケニア、タンザニア、ウガンダの東アフリカ3国にまたがって位置し、昔から欧米の探検家たちが好んで探検に赴いた場所です。前述のように機内がガラガラだったので、窓際の席に陣取って、窓から見えるその雄姿をビデオやカメラに収めました。このページの上欄の右上の写真はその時のものです。手前が飛行機のエンジンで、その先の雲海の下の遠景が岸辺と湖、その中に中州も見えます。

 ヴィクトリア湖の湖畔に位置するエンテベ空港は、独裁者として知られたアミン大統領の時代、ハイジャック事件が起きた場所として有名です。イスラエル空軍がこの時電撃作戦で人質救出に当たった話は 「エンテベの勝利」 という小説になり、「エクソシスト」のリンダ・ブレア主演で映画化もされました。

 エンテベの空港の入国審査や税関はスムーズでしたが、一寸面白いエピソードがありました。暫く前ウガンダのムセベニ大統領が来日した際、日本からの旅行者にはビザを不要にするよう努力する、と仰っておられました。が、まだそれは制度化されていないようで、僕達3人のうち最初に入国審査に臨んだ僕のパスポートを見て中々日本で取ったビザを見つけられない審査官が、 「あそこの発行所へ行ってビザを貰ってきなさい」 と言い出しました。でもパパがすかさず後から来て自分のパスポートのビザを見せ、 「これでしょ?」 といい、同行者であることを納得した審査官は僕のビザを今度は見つけ、「OK! ハバナイスステイ!」 と言ってくれました。

 一方税関では場合によっては荷物などを事細かにチェックすることもあるのですが、自然保護活動の関係で、パパがウガンダのある名誉職に任命されており、今回そのウガンダ政府発行の身分証明書を持っていったので、それを見せました。すると係官はまずその表敬訪問の趣旨を喜び、ついで「このお名前はウガンダにも多いですよ〜!」 と喜んでくれて、軽くチェックして審査は終了しました。あ、勿論これは権限乱用でも、不正でもありませんよ〜(笑)! むしろ何年か前まで、アフリカ各国の空港関係官吏の旅行者への対応は極めて悪い場合が多く、不必要なチェックをしたり、過度な身体検査をしたりして、嫌がられることが多かったのです。場合によっては因縁をつけて袖の下を要求する官吏もいて、沢山の旅行者からクレームが各国政府につき、近年大分その辺の対応が改善されてきた、というのが実情なのです。僕も昔は随分待たされて荷物を開けさせられ、色々根掘り葉掘り聴かれたりする事も経験しました・・。 というわけで非公式ながら政府の名誉職にある者とその家族が表敬訪問をした、というわけで、その玄関口の国の代表機関(?)にまずその挨拶をした、というわけでした〜(^^)。

 ついで空港の玄関に出ると、僕達の名前の書いたボードを持った現地の人が外で待っていてくれました。彼は今回の旅行で世話になった旅行社と提携した現地の旅行社の運転手で、仮にK.Tと呼びましょう。このK.T君僕らのウガンダ滞在中ずっと担当の運転手を務めてくれました。決して人は悪くないようなのですが、色々とトラブルネタになった人でもありました〜。

 まず、ようやく成田以来見ていなかった預けの大荷物を受取った僕らが車に向かうと、さっとポーターが2人程現われて荷物を駐車場の僕ら用の車まで運んでくれました。そしてさて、車に乗り込もう、という時早くも第1のトラブル発生! パパが最近この国に来ていなかったのでチップのレートが分からず、K.Tに 「幾ら位上げたらいい?」 と訊きました。するとK.Tは 「2人分で大体10米ドル位です」 ・・エッ、10米ドルといえば1000円ちょい、ウガンダの通貨シリングで1500シリング位ですよ〜!(この米ドルとウガンダ・シリングの交換レートもまた後でトラブルネタになりました・・) いくらなんでもちょっと荷物をそれもほんの僅かな距離を運んだだけでこの値段は高すぎます・・! パパもそういいましたが、それが普通とのK.Tの返答で、慣れない場所で押し問答しても仕方ないので、しぶしぶパパも10米ドルを2人に上げることにしました。アフリカではこの手の事が多いのですが、着いて直ぐで、いきなり先制パンチをくらったような気がしました。でもそれでこそ、ああ、久しぶりにアフリカに帰ってきたな〜、という気にもなりましたが・・(^^)。

 K.Tの話ではエンテベから首都カンパラまで大体40分位ですが、午後2時過ぎから夕方にかけては通勤等のラッシュなのでもう少し掛かるという事で、実際50分掛かりました・・。エンテベからカンパラまでの道路沿いの風景は東アフリカの他2国とあまり変わらず、緑の木々や畑が沢山あり、農業国であるなあ、という印象を強くしました。また途中で沢山の日本車とすれ違いましたし、僕ら用の車も日本の四駆車でした。一説には99%近くが日本車らしいです。すれ違う車の中には「〜工務店」「〜商店」というような宣伝がボディやガラスに貼り付けているのもありましたが、これは別に日本のそういうお店とかが進出してきているわけではなくて(笑)、中古車を買う時そのまま前の持ち主のデザインとかを流用してしまうからなんだそうです。

  初めて見る首都カンパラはさすがに伝統のある、アフリカとしては大きな都市でした。下町は他の町同様ごみごみしてますが、小さなお店とかにパソコンやその関連器具等が置いてあるのは印象的でした・・。また山の手はとても静かで洗練されていて、議会の建物や、省庁の大きなビル等は大都会を印象付けるものでした。僕は個人的に、下町はタンザニアのアルーシャの町に、山の手はルワンダの首都キガリによく似ているような気がしました。中段左下の写真は車内から観たカンパラの町並みです。ケニアとの国境近くの町アル−シャは「ハタリ」というジョン・ウェイン主演の動物映画で小象が街中を走り回るシーンで出てきましたし、その時使われたホテルに僕は行った事もあります。キガリは木々が繁る小高い丘の上に点在するとてもこざっぱりした綺麗な都市で、僕が高校生の時に言った時は平和で快適な所でした。しかし日本でも自衛隊の派遣等で問題になった数年前の内戦のため、かなり破壊されてしまったようで、その後行っていませんが、今の状況が気になるところです・・。

 さて、時間がないのでホテルに行く前に今回お世話になる現地旅行社に寄って明日のケニア行きの航空チケットのリコンフォメーション(チケットを予約した時は航空会社に事前にこの手続きが必要で、これをしないと予約が取り消される場合もあります)をしに行く事になりました。旅行社では、人のよさそうな中年のおばさんのマネージャーが色々と説明してくれました。パパのリクエストとその人のアドバイスに従い、急遽王城を観に行く事になりました。また日本にも前に来たことがあり、パパの名誉職にも関係あるウガンダの政府の方をこのマネージャーはよく知ってて、パパが代わりに宜しく伝えて欲しい、というと、 「承知しました。でも一日だけの滞在とは短すぎるのが残念です。今度是非もっと長くいらしてウガンダをあちこち観て下さい」 と快諾してくれました。

 ここでウガンダの独立時から現在までの事を少し説明します。内陸国のウガンダは14世紀頃までに多くの王国が建設され、中でも最大部族ブガンダの王国は独立後も存続しました。ベルリン条約により英国が1894年ウガンダを保護領としましたが、東アフリカの他の2国ケニア、タンザニアと違って英国はブガンダ王朝に大きな自治権を認め間接統治をしたため、自主独立の傾向が強く残りました。国土も肥沃で平坦な土地が多く、湖にも恵まれ、英国宰相チャーチルをして 「アフリカの真珠」 と言わせしめた所です。しかし王国の伝統の中でブガンダ族以外の部族への差別などもあり、他の国同様部族問題が深刻化していたようです。

 1962年、ブガンダのカバカ(王)、ムテサ2世を大統領、有力なランゴ族のオボテを首相としてウガンダは独立。しかしオボテは66年に軍司令官アミンに命じて王宮を急襲せて、ムテサを追放し、ムテサはロンドンに亡命し、ここにブガンダ王朝は終焉。67年の憲法改正で大統領権限の大幅強権化、外国人財産の国有化を断行。69年軍の基金の費消事件でアミンへの非難が強まったため、71年オボテのシンガポール出張中にアミンがクーデターを起こし、オボテはタンザニアに亡命。アミン大統領は30万人といわれる人々を拷問虐殺、インド人を中心にアジア人らの追放など恐怖政治を敷く。国は困窮し、野生動物は象牙や肉のために兵隊に殆ど射殺され、観光資源も喪失。内外からの非難に対して追い詰められたアミンは78年10月タンザニアに対して開戦し、攻め込む。しかしニエレレ大統領に率いられたタンザニア軍は数ヵ月後ウガンダに反撃し首都カンパラは陥落しアミンはリビアに亡命。79年4月に戦争は終結し、給料が支払われないタンザニア軍兵士は略奪や動物射殺を繰り返す。ルレ、ビナイサ、が大統領になるも次々失脚、亡命し、オボテが復権。ところがオボテも失政が続き、配下の軍の長老オケロがこれを打倒。しかしオケロの政権も腐敗が続き、一時国防大臣も務めたムセベニが西部で主に10代の孤児を中心に、圧制者のためではなく国民のために奉仕するという教育を受けたNational Resistance Army(NRA)を結成。NRAは27人のメンバーからやがて2万人のゲリラ軍に成長し、政府軍を撃破。オケロの和睦案を拒否して、86年1月NRAはカンパラを制圧。オケロらはスーダンに亡命。北西の国境を越えて亡命していた30万人が逆に帰還。現在ムセベニ現大統領による治世はかなり安定し、経済も復興、農業生産も再開、外国からの投資も増加しつつあり・・。
 
 僕はこのウガンダの決して安定してはいない独立の頃からの血みどろの40年の歴史を見て、色々考えさせられる事があります。「食人大統領」 といわれたアミンは日本でも知られた独裁者でしたが、かといって他の政権が 「善い者」というわけでもありません。個人的には中国の辛亥革命の歴史とよく似ているような気がしますし、NRAは明治維新期の長州の奇兵隊とよく似ている気もします・・。ただNRAを軽々しく英雄視するのも問題で、91年のウガンダからルワンダに攻め込んだ軍隊がNRAの武器を携行していたという噂もありますし、世界中から非難を浴びた94年のウガンダ亡命中のツチ族によるルワンダへの侵攻、内乱とも無関係とは言い切れません・・。まだ北西部ではオケロの勢力との小競り合いも続いており、かつてゾウの王国とまで言われたマチソンフォールスは動物もいませんし、更に北の国境付近は大変危険な場所となっており、観光にも行けません。パパが最初にウガンダに来た30年前は、マチソンフォールスは素晴らしい野生動物の宝庫だったそうで、そこを観たパパが今回僕とママを連れて行けないのことを大変残念がっていました・・。

 さて、話を今回の旅行に戻します。旅行社から出た僕達は、閉館の時刻を気にしてまず王宮に行きました。オボテやアミンの政権下では王宮の話をするのすらタブーだったそうで、パパが30年前に来た時、王宮を見たい、といったら誰もがそんなものはないし、知らない、と答えたそうです。政治は史跡や観光にも影響するものなのですね〜・・。

 63年にでき最近近代的な立派な邸宅に作り変えられたという白亜の王宮は、ブガンダ王朝最後の王ムテサの子孫が今でも住んでおり、日本の天皇制同様主権はないもののカバカ(王)として、現在でもここに住んでいるそうです。小高い丘の上に聳える王宮の入口の門にはライオンの彫像が構えており、いかにも王宮という感じがします。K.Tが門番と交渉し、守衛所でサインして全員で5ドル払えば、庭園に入って写真をとってもよい、という許可を得ましたのでそうしました。ヨ−ロッパ建築の建物は素敵でしかも丘からの眺めも最高です。中段左上の写真はこの王宮の丘から観たカンパラの風景です。また、建物の周りは更に塀で囲まれていましたが、その中にも入ってよい、ということでしたので、王様が暮らしている建物のすぐ脇まで入って、その建物を背景に家族3人で写真を撮りました。上段左上の写真はその時のものです。近くには王立の小学校もあり、色々な人が王宮の敷地内にはいて、一緒に写真を撮ったり連絡先を教えあったりしました。ただし連絡先を教えるのは勿論注意が必要な場合が多いですので皆さんご用心〜!

 王宮から見える別の丘の頂上には、また何か立派な建物があります。K.Tに聞くと、それは王様の事務所だ、ということで、早速王宮を後にしてそこに車で向かいました。議事堂のような建物の前がロータリーになっていて、綺麗な花壇や彫像があり、入口にはウガンダの伝統的な服装の白いゆったりしたローブをまとった人々が屯していて、近づくと 「ようこそ、ウガンダへ」、僕の方を観て 「ようこそジェントルマン」 等と言ってくれました(笑)。この事務所の中には王様の私設ラジオ局もあるそうで、面白いな〜と思いました。近くには最高裁判所もあり、その横も通りましたが、並木道の綺麗なこの辺りがカンパラの中心のようです。ケニアのナイロビはヨーロッパ人が造ったものだが、カンパラはウガンダ人自身の手による都市である、というのが彼らの誇りだそうですが、ここには  「アフリカの東大」 といわれ、アフリカ中から英才が集まる名門マケレレ大学もあり、落ち着いた気風があります。前述のタンザニアのニエレレ大統領もマケレレの卒業生です。

 普段王様がいて執務を行うという事務所を後にし、僕らは王宮跡である王墓に向かいました。入口事務所で女性が王墓に入る時には身にまとうのがしきたり、という民族衣装的なスカートを借りて着たママは「俄か女官」に早変わり(笑)。女性差別的というなかれ・・これは伝統と墳墓の主である故王たちへの儀礼ですからね〜。墓は大きな藁葺き屋根の小屋で、その周りにも小さな藁葺きの小屋が沢山並んでいました。上段右中の写真が王墓で、その右端に写っているのは僕です。案内人の説明によると、周りの小屋は王の親族で相続権がある人々が沢山暮らしているとのことで、周りのヤシの木の葉なども織物製品などの原料に使用するとの事でした。王墓の中は薄暗い祠のようで、黒い暗幕に壁(?)を覆われて、中央にお墓や槍等の武器の棚、そして歴代の王や王族の肖像画や写真等が飾ってありました。そばで織物を編んでいる女性がいましたが、この人も王族だそうです・・.そして案内人が絵や写真を示しながら古いブガンダ王朝の慣わしや前述した独立時の様々な経緯等を一時間以上に亘って詳しく説明してくれましたが、その歴史は日本の皇室とも似ているような気もしました。とくにお墓のある部分の周りは黒い暗幕が掛かっていましたが、これは森の象徴だそうで、王は死ぬ事はなく、ただ森の中に隠れてしまう、という考えの現われだそうです。日本でも天皇が崩御される時昔は「お隠れになる」と言いましたからこの辺も同じ考え方があるのですね〜。

 さて、帰りに入口近くのお土産屋に寄りましたが、ここでまたトラブル発生! 動物の絵を2枚買おうとすると、1枚500シリングで、1000シル払って欲しい、とのこと。僕らは1日の滞在なのでお金をシリングには換えておらず、一応使用できる米ドルやTCで済ますつもりでした。そこで米ドルで払いたい、と言うと、店員が、 「では10ドルをK.Tに払って欲しい、彼がその分シリングで払うだろうから」 と答えました。K.Tもそうして欲しいと言います。でもパパが 「確かレートは1500シルで10米ドルのはずだから、もし10ドル払うのなら1枚500シルの絵は3枚買えるはずだ」 と反論しました。するとK.Tは 「最近交換レートが変わって、1000シルで10ドルになったのです」 と答えます。そこで仕方なく彼に10ドル払い、彼がお店に1000シル払って、絵を買いました。ところが後で空港のレートの表示で確認すると、やはり10米ドルは1500シルだったのです〜! そういえば入口で入場料を払う時もK.Tは現地の旅行社関係者として無料で入っていましたが、店員らとは当然顔見知りで、恐らくマージンについて取り決めでもあるのでしょう。まんまと彼は利ざやを稼いだわけです。ポーターの事もあり、この一件で僕らの彼への信頼感は一気に崩れ去りました。しかも翌日更に一悶着あったのです・・。

 さて、大統領とカバカ夫妻が一緒に写っている写真等を観て、ホテルへと向かいます。カンパラは「七つの丘」といわれる丘の地帯に発展した町ですが、僕らの泊まるシェラトンもその一角の高台にあり、近くに議事堂や省庁の建物など高級な官庁ビジネス街があります。このホテルは昔アポロホテルといって、30年前にパパが一人で来た時泊まったのもここでした。緑とビルが並ぶ落ち着いて洗練された雰囲気の良い区画で、ホテルも立派で快適でした。入口で偶然僕らの現地旅行社のオランダ人の女性マネージャーがいて僕らに挨拶してくれました。ホテルの部屋から眼下に眺めるカンパラの風景はとても幻想的で素敵でした。中段右上の写真がそれです。 また、ホテルのレストランで食べた夕食のナイルパウチ、テラピアといった地元で取れる魚、そして大きなエビのホワイトソース仕立て、またウガンダビーフのロースト等、ウガンダならではのナイル川やヴィクトリア湖、そして陸の産物は本当に美味しくて、思わず食べ過ぎてまた太ってしまいました〜(笑)。前ページ中段左上の写真はホテルでの夕食の風景でママと僕が写っています。

○10日(4日目、ウガンダ2日目、カンパラ〜ジンジャー〜ナイロビ)

 この日は駆け足です。まずカンパラからジンジャーに向かい、そして再びカンパラに帰ってきてそのままエンテベ空港へと向かってケニアに行くのです。 ホテルでランチボックスを用意してもらった僕らは朝7時半にホテルを出発し、ウガンダ第二の都市、そしてナイル河の源流の町ジンジャーを目指しました。カンパラの中でバスが山のように沢山集中しているバスの総合出発所を古いのと新しいのと2ヶ所見ましたが圧巻でした。100台以上の真っ白なバスの群れはスクラップ場みたいでしたが、そこから国中、いやケニアやルワンダにも国境を越えてゆくバス便があるそうで、K.Tも車でナイロビまで半日かけていった事があるそうです。またカンパラから少し外れた所には日本企業も建設に関ったという大きなスタジアムやコーラの工場など色々な近代的な建物がありました。

 またかなり走ると紅茶やコーヒー、バナナや砂糖黍の大きな農園もあり、とても綺麗ですが、やはりケニアやタンザニアの風景とよく似ていました。その辺はサホロという農園地帯ですが、北海道にもサホロという場所があるし、しかも同じような場所だと思うので、その名前の偶然に今更ながら驚きました。 そして大分走った所で、道の両側が鬱蒼とした森になっている所へ来ました。このマビラ熱帯林が東アフリカ最大の森林地帯で、緑の高い木や草の間の真直ぐな長い道を進むのは愉快でした。テントが道の側に見えたのでK.Tに何か、と訊くと、スーダンからの難民のキャンプだといいます。1998年8月7日にケニアとタンザニアの米国大使館が爆弾テロに遭い、多くの死傷者が出て、8月20日に米軍がアフガンとスーダンの軍事施設を報復爆撃した事件がありました。犯人は特定できないものの、これには米国とイスラエルの政治経済の関係、ユダヤ教対イスラム教の対立の構図、中東でのイスラエルとパレスチナの民族問題などが色々絡んでいるといわれています。僕はそこでこのキャンプはその時の問題での難民か、と訊きましたが、そうではない、ということで、オケロの追放とムセベニ政権成立の時に大量に流入してきた難民の物のようです。でも道の向かって右側がカトリックの集落で、左側がイスラムの集落だそうで、こんな所にも宗教問題が顔を出すのだな〜、と尽々感じました・・。

 更に寂しい集落の中に忽然と聳える東洋風の建物を見つけました。これは実は中華料理店でした。パパの話だと、昔から中華料理店はアフリカでも相当地奥地のエリアでも必ずあったそうで、華僑の商魂の逞しさはさすがに凄い、と感動してしまいました(笑)。 さて、そして午前10時前にジンジャーに着きました。中段右中の写真はジンジャーの整備された道を通行中に、町を車から撮った物で、道の果て遠く中央に少しだけヴィクトリア湖が見えます。落ち着いた綺麗な町ですが、それほど大きな都市ではありません。

 そして更に10キロ程走り、いよいよナイルの源流の公園に入ります。と、この入口でまたトラブル! K.Tがゲートで車を降りて、すぐ横の入園管理事務所に行き、係員と何やら話し込んでいます。少ししてから帰ってきたK.Tは、パパに 「入園のため10ドル払って下さい」 と言いました。パパは 「それはおかしい、渡された契約書には入園料等が必要な場合、それらの費用も全て契約に含まれる、と書いてある。ここで自分たちが払う必要はないはずである」 と反論しました。すると、K.Tはその契約書を見て、また何やら係員と話しています。そして僕達に向かって、 「ここに書かれた費用は入園する自動車のためのもので、人は別です。自分は旅行社の人間なので無料ですが、人は本来外国人であれば大人1人1000シル、3人で3000シルです。でも今係員にあなた達はウガンダに住んでいる人だと説明しましたので、ウガンダ人扱いで、3人で10ドルでよい、ということになりました。そこで、自分がシリングで払っておきますから、自分に10ドル払って下さい」 というのです。パパは納得できないが、時間もなく少しでもナイルの源流を観たいので、やむなく払う、と言ってしぶしぶ10ドルをK.Tに払いました。現地旅行社からもらった契約書には確かに「Price includes」の項目に「Lunch and all entrance fees」とあり、どこにも車と人の入園料の費用の区別など書いてありません。ただ、後でパパが撮っておけ、というのでゲートの入園料の案内板の写真を撮りました。中段右下の写真がそれですが、不鮮明で字がよく読めずにすみません! それによると、確かに非ウガンダ人の大人は1人1000シル、ウガンダ人の大人は1人500シル、オートバイは500シル、小型車は1000シルなどと書かれており、人と車などは別の料金の記載となっています。しかしこれはあくまで入園の管理事務所と入園者との間の話。問題は現地旅行社がそれを既に負担済みであるはず、という点にあるわけです。しかもよく見ると看板には「免除の項目なし」とあり、入園者は等しく入園料を払わなければならないことになっています。すると「人」の項目に当たる我らがK.T君の場合はどうなるのでしょう? 王墓の時のこともあり、確かに旅行社関係者が無料で入れる、というのはあるようです。しかし、もし「免除なし」だとすると、10ドル即ち1500シルは彼の入園料として払われた可能性もあるのです。彼が立替えた分のシリングをいくら係員に払ったかは見ることができなかったので確認の仕様もないのですが、彼はウガンダ人ですから、そうだとすると500シルでよく、1000シル分浮くことになります。しかも案内板の表示によればウガンダ人−この場合、K.Tが言うように「ウガンダ人」にウガンダに居住する外国人」も含む場合ですが−は1人500シルですから、僕ら3人で1500シルになり、それを10ドルでよい、というのは昨日の王墓のお店での彼の主張である、 「10米ドル=1000シル」 という説明と矛盾します。やはり 「10米ドル=1500シル」 と考えないと辻褄があわなくなります。まさか1日で交換レートがこれほど大きく変わるはずがないのですから(笑)。これで彼の昨日のうそがばれたと見ていいのですが、この時はそこまで気づかなかったので、とりあえずその話はその場ではそのままとなりました・・。

 リゾート地となっているナイル河の源流ポイントは、キャンプ場等もある山がちの緑の芝生のような場所に、突然河が開けていて、向こう岸と行き来する発着場になっていました。そしてその船着場の所に大きな説明版があり、英語で説明があります。 「ここは、ヴィクトリア湖からナイルの水が流れ出て地中海に注ぐまでの3ヶ月かかる6400キロの旅の出発点です。現地の言葉で<オムガキイラ>と呼ばれるこの河の場所は、非アフリカ人としては英国の探検家ジョン・スピークによって1862年に発見され、英国王立地理院の所長の名をとって、この辺の滝が<リポンの滝>と命名されました。その後水力発電のダムが建設され、1954年に完成。ここは東岸ですが、西岸にはスピークがここを初めに見下ろした場所に、その記念碑が建っています。」 上段右下の写真は、この看板をバックに僕を撮った物です。その後鳥が沢山集まる小さな中州をバックに写真やビデオを撮ったり、発着場の売店でジュースを飲んだり−またK.Tが「親切に」立替てくれました(笑)−生暖かくて鉄っぽい味のナイルの源流の水にちょっぴり触れたり舐めたりして、近くの見晴台と開けた河岸のリポンの滝に行きました。中段左中の写真は見晴台の所で、手前のヤシの木の向こうにナイル河が見え、向こう岸にはスピ−クの碑があります。また前ページの中段右上の写真はリポンの滝をバックに僕ら3人を撮った物です。この発電設備はウガンダだけでなく、ケニア等の電力源にもなっているそうで、往きに通ったこの側の橋の上から設備の一部が見えました。でももうすぐ英国の会社がリポンの滝の辺りも発電用に埋め立ててしまうそうで、豊かな自然の観光スポットがまた1つなくなるのを、K.Tもパパも嘆いていました。開発と環境保全の問題はこんな所でも出てくるのですね〜。

 死体の灰の一部がナイル河にも撒かれたという縁で、近くにガンジーの胸像がインド政府の手で1997年に建てられていたり、インド資本の設備が周囲には少しありました。かつてアミンが恐怖政治を敷いた時代、インドの裕福な資本家達は、財産没収の上、着の身着のままで3ヶ月以内に国外退去を命ぜられましたが、ジンジャーにはインド風の建物や寺院等もあり、今その頃の苦い思い出を良い活動で洗い流そうとしているようにも見えました・・。 さて、僕ら14:55発のナイロビ行きの飛行機に乗らなければならないので、11時半頃出ればよい、とのんびり言っているK.Tをパパがせかし、11時過ぎにはナイルを出発しました。案の定途中道がラッシュにかかり、カンパラまで2時間弱、更にそこを素通りしてエンテベまで40分以上かかり、結局空港に着いたのは13時半を回っていました〜(汗)。アフリカは全てポレポレ(スワヒリ語でのんびりゆっくりの意)ですが、飛行機の時間はそうも行きません。K.T君には最後まで気をもまされました〜(笑)。 空港近くの道路の脇に灰色の飛行機の残骸があって、何かと思ったら、前述のイスラエル空軍の電撃作戦の時、彼らが乗ってきた飛行機が作戦終了後、破損してそのまま廃棄された物だそうです。その生々しさが残り、僕もウガンダの血塗られた歴史を思い起こしました・・。

 トラブルはあったものの愛想の良かったK.T君ともここでお別れです。名残を惜しんでさよならし、僕らはウガンダ航空の便−乗入れのため実際はケニア航空の便−に乗るためチケットと荷物のチェックに行きました。と、飛行機の時間が違っているように見えます。また今回エンテベとナイロビの間だけエコノミーなので、荷物の許容量が少ないためか、やや重さがオ−バー気味。慌てて職員に問い合わせると、時間は予定通りで、記載だけ誤謬があったそうですし、荷物はこの程度なら超過料金はいらない、ということで、「ハクナマタ−タ」(スワヒリ語でノープロブレムの意)と言われ、ホッと一安心。かつてケニア、タンザニア、ウガンダの3国は共同で「イーストアフリカ航空」という航空会社を経営していたくらいで、ケニアとウガンダは国際線といっても、国内線みたいなもので、移動は楽です。出国手続き後、こざっぱりした出発ロビーでお土産を買ったりして、一路ケニアはナイロビに向けて出発です。 「クワヘリ、ウガンダ!」(ウガンダ、さようなら!)

 約1時間のフライトで、ナイロビのジョモ・ケニヤッタ空港に到着。パパとママには1年ぶり、僕には3年ぶりのケニアです! 外に出ると、すぐに若い日本人女性が僕達の方にやってきます。パパとママのことを直ぐに分かったようで挨拶してくれました。今回ケニアでお世話になる旅行社の担当のS.Kさんです。彼女は実は去年の旅行でパパとママがお目にかかっており、それですぐ分かったようでした。S.Kさんと、今日と明日の担当の運転手を務めてくれる、キクユ族のM.Nさんの案内で、今度は何のトラブルもなく(笑)、荷物を積んで、今日泊まる市内のホテルに向け出発。パパとママはともかく、3年ぶりに見る僕にとって空港の周囲もナイロビの市内も随分変わり、新しい建物とかが増えていて新鮮でした。S.Kさんの説明では、2年位来ないと状況が分からなくなるそうです。 20分程のドライブでホテルに到着。ここ「ザ・スタンレーホテル」は前から何度も泊まっていますが、来る度にデラックスになっている気がします。 そして、到着するとロビーには現地旅行社の社長のY.Eさんと、前に何度かお世話になった社員のM.Mさんがわざわざお出迎えに来て下さり、そこで、今後のスケジュール調整をしました。今回お世話になったこの旅行社は前から何度もお世話になっており、社長以下多くの社員は日本の方ですし、日本の旅行社と提携してお仕事をされていて、何かと面倒見の良い会社なのでよく利用させて頂いております。 さて、細かい打ち合わせの後、夕食をどうするか、ということになり、何年か前に食べた事がある鉄板焼きステーキのお店に行きたい、と僕らがリクエストを出すと、Y.Eさんは、 「丁度それならつい最近その支店のようなお店が近くにできて、評判もいいし、経営者も知っているので、自分がご案内しましょう」 となんと社長自ら申し出て下さいました〜。 あ、勿論これはお客さんのエコ贔屓とかでななくて(笑)、個人的にも前からよく知っている、という仲であったればこそですし、勿論料金は折半ですので、念のため(^^)。

 今丁度水不足で水が出ないホテルもあると聞いていましたが、幸いそういうこともなく、ホテルの部屋で一休みして、待ち合わせをした19時に近くの鉄板焼きレストラン、「FURUSATO」に行きました。ここは前に行った、近くのホテルで鉄板焼きをやっていた韓国人シェフが独立して出したお店で、半分は鉄板焼き、半分は寿司屋、という変わったお店です。奥では確かに見覚えのあるオーナーと、現地の「寿司シェフ」が高いコック帽を被ってカウンターで寿司を握っています。僕達は鉄板焼きのテーブルで色々動物の情報の話などY.Eさんと興味深い会話を楽しみ、魚や野菜、オーナー夫人のお手製の「特製韮キムチ」や野菜と肉を混ぜて焼く、一風変わった鉄板焼きステーキに舌鼓を打ちました。赤坂で修行したシェフのメニューは日本のそれと一寸違いますが、美味しかったですよ〜! 隣では大きな宝船型のまな板にお刺身を乗せて供されたフルコースを楽しんでいる外人さんのご一行もおられました。 オーナーも夫人も後に挨拶に見えられ、前にホテルでお目にかかりましたね、と驚くべき記憶力を発揮されていました・・!

 すっかり満腹してよい気分になり、ホテルに帰って、この長かった一日はようやく終わりました。

○11日(5日目、ケニア2日目、ナイロビ〜ナクル湖)

 さあ、今日からいよいよ本格的な動物を観るサファリの始まりです。朝早く起きたママと僕はホテルのレストランで朝食を食べていました。すると突然ママが 「あ、あれ、N先生じゃない!?」 と叫び声を上げます。振り返ってみると、確かに言語学者として有名なN先生が少し離れた席で食事をして折られます。N先生は僕ら一家も入っているアフリカの同好会の役員で、一家でお世話になっています。N先生の方も僕らに気づかれたようで、会釈され、早速僕らもご挨拶しました。N先生は少し前にヨーロッパからケニア入りされたばかりで、これから暫くあちこち研究に周られるそうです。僕も昔からキクユ語のお話等を聴かせて頂いたこともあり、小さい頃から存じてますが、暫くぶりにお目にかかったので、先生も 「いや〜、横幅も大きくなりましたね〜最初分かりませんでした〜!」 などとユーモラスなことを仰います(^^)。また滞在中お目にかかれそうだ、ということになって、N先生とお連れの助手の方と別れ、ロビーでS.Kさんに会って予定を確認し、ナクル湖に出発です。ドライバーのM.Nさんに待っててもらっい、いつも最後にトイレに行くパパが帰っ来て、S.Kさんにさよならをして正9時に、トゥエンデー(スワヒリ語で、「レッツゴー」)〜! ナクル湖まで2時間半のドライブです。

 9時半頃途中の山道で、「地球の臍」といわれる、グレートリフトバレーを見渡す、高い展望台に到着。ナクルに行く時はいつもここに寄りますが、ほんといつ来てもその雄大な大地は絶景です〜。遠くに白亜のテレビ放送の施設があり、更に遠くに、休火山のノゴロット山の雄姿が見えます。でもここはお土産屋が一杯で、車が止まると、ワッと、売り子が車に殺到してきて、お土産の押し売りが始まります。毎度の事なのでこちも慣れたもの、3年前はここで散々ディスカウントで粘って、できの良い石製のここ周辺の地図を二束三文で買いました・・。今回は店の中に案内した熱心な売り子がいて、やはり僕は 「ハティレ、べシャ」(キクユ語で、「お金がない」の意)と喚きながら、いい品を物色しました。この辺はキクユの土地なので、英語やスワヒリ語で話すより、キクユ語で話た方が、効果は絶大です(笑)。無知な一元の客ではなく、事情が分かっているベテランだぞ、というアピールにもなり、向こうの親愛感も増しますので、確実に値段交渉は有利になります。それでもかなり高く買わせるのはやはり生活がかかっている彼らの根性でしょうが〜。 結局割と気に行ったキリンのお面など幾つかのお土産を買って、更に交渉しようとする店員を振り切り、展望台の説明版の前で皆で写真を撮って出発。

 途中マイマヒヨ−キクユ語で「熱い水」を意味しますが、ナイロビがマサイ語で「冷たい水」を意味する二ヨロベがなまった意であることとの対比が面白いです。やはり水は生活に大事で、水のある所に町が発展するのは自然なことと言えます−と言う町を通り、数10万年前の人骨か発掘されたというカリアンデスの遺跡の山を横目に見て、やがてナクル湖の町に入り、ナクル湖の国立公園へとやってきました。ちなみに最古の人類の骨が発見されたのは、タンザニアのオルドパイ渓谷です。前に何度か僕もタンザニアに行った時寄ったことがあります。専門家の説明などがあり立派な施設のある場所です。ここの人骨を発見したのは人類学者のリーキー博士夫妻ですが、その子供は後にケニアで環境保護の責任者のような重職も務めました。

 さて、公園のゲートを通ってしばらく走ると、インパラがいました。今回初の野生動物です! 記念に写真を撮り、進むと今度はシマウマが・・。これも撮って途中少しサファリをしながら、いつもお昼を食べる<ライオンヒルロッジ>を今回は素通りし、まもなく<レイクナクルロッジ>に到着。今日はここに泊まります。

  入口に豪勢な赤い花のような大きな飾りが幾つもあって、造花かと思ってみたら、なんとフラミンゴの羽を集めて造った造花でした〜。受付で部屋のカギを受取ると、これが木星の大きなサイの形をしたホルダーについていて、そこに 「White Rhino Suite」 と書かれてあり、3人いっしょの続き部屋でした。綺麗な花々が咲き乱れる中庭を通り−前ページ中段左中の写真はその中庭での僕です−、渡り廊下を歩いて行くと、大きくてゴージャスなスイートがありました。その前の屋外の廊下でママを撮ったのが前ページ中段右中の写真です。ママが指差す遠くには小さくバッファローが見えます。またママの直ぐ下の廊下の手すりには 「バブーンにエサをやらないこと!」 と注意書がしてあります。実際ここではバブーンを沢山見ましたし、この廊下を僕のすぐ脇1メートル位横を悠然と歩いていくのに出くわしたこともありました。野生動物は可愛いものも多いのでついペット気分でエサをやりたくなりますが、そうすると学習して人間を襲うようになるため、サバンナではエサをやるのは厳禁されているわけです。 スイートでは奥の僕の寝室のベッドは豪華な天蓋と蚊帳つきの物で、つい嬉しくなってその上でトランポリンのように飛び跳ねてしまいました〜(笑)。

 バイキング形式のお昼−カレーとかが多いです−を食べた後、午後からM.Eさんの運転で、公園内を本格的にサファリしました。インパラやトムソンズガゼル、シマウマなど色々な草食獣を見かけました。そして高い崖の上の展望台に来ると、はるか眼下には広大なナクル国立公園の壮大な風景が見え、しかも一面真っ青なナクル湖の美しい湖面が広がり、その中に広くピンクの部分がこれまた美しく広がります・・・湖面に留まる沢山のフラミンゴです! その壮大な美しさは言葉では表せません・・。ふと見ると崖の上の岩陰からハイラックス(リスによく似たゾウの仲間の小動物)が出てきて、ちょこんと座っています。可愛いのでいっしょに写真を撮ることにしました。上段左下の写真(横向きになっていますので90度首を傾けて観て下さい)は、この時の物です。右側に僕、左の岩の上に小さくハイラックス、そして背後の崖の下にはナクル湖とその上の沢山のピンクのフラミンゴの群れ・・中々壮大でしょう? ハイラックスはこの写真を撮った場所から少し歩いた横にも崖の途中の部分でくぼみから出入りしているのを何匹か見かけました。どうやらその所に巣があるようです。でもハイラックスはとても臆病で、人間が側に寄るとすぐ走って逃げてしまいます。このときもそうでしたが、写真のハイラックスだけは、なぜか僕達がそばにいてもじっとして逃げ出さないので、その意味でも感心して写したのです。

 この高所の展望台に僕らが来た時実は地元の学校の修学旅行のグループが来ていて沢山の子供達が綺麗な制服を着て、先生と一緒に写真を撮ったり、そこら辺で遊んだりしていましたが、僕達を見るとちょっと珍しそうに、こっちを観たりひそひそ話していました。子供達にとっては僕達が珍しかったのかも知れません・・。そして暫くすると先生に率いられて子供達はバスにのって帰っていきましたが、こっちに笑いかけたり手をふったりする子もいて、その天真爛漫な姿が、大人たちや土産を押し売りにくる子供達と違って、なぜか凄く新鮮でした。勿論こういう子供の方が恵まれていて、観光客に食い下がってくる子供の方が可哀相な状況であろうことはよく分かっていますけど・・。
 
 学校の子供達のバスの賑やかな一団が去って暫くしてから僕らも展望台を後にしました。実は今日のこのナクル湖のサファリでは特別なお目当てがありました。それはヒョウです。ナイロビを発つ頃からM.Eさんが仲間や会社から情報を得ていて、最近ナクル湖でヒョウを見かけたグループがいる、という話を聞いていました。パパは特にこのヒョウが見たいと強く希望し、M.Eさんに 「何とかヒョウを見つけて欲しい」 と頼み込んでいました。M.Eさんも 「できるだけ一生懸命探します」 と約束してくれて、今日も出発前からロッジのスタッフやすれ違う他の車のドライバー達からヒョウの情報を得ようと必死に訊きまくっていました。しかしスタッフは誰も直接は見ていないし、ドライバー達もその日見かけた、という人は誰もいませんでした。ただ一昨日見た、という情報を得る事ができました。でもヒョウはライオンなどと違い、一匹で単独行動をすることが多く、場所も頻繁に移動します。ですから間があいた情報はあまりあてにはなりません。またヒョウはナクル湖にいることは知られていましたが、ここに限らず見つけるのが一般に非常に難しい、珍しい動物です。僕も今までの旅行で見かけたことは殆どありません。それでもパパの拘りも分かりますので、皆で車の窓から一生懸命ヒョウはいないか、とあちこち探し回ります。

 そうこうするうち、途中沢山の草食獣は見つけて写真も一杯撮りましたが、肝心のヒョウは陰も形もありません。午後一杯探しても見つからず、辺りが暗くなってきて、いよいよサファリを終わる時間になってしまいました。国立公園は一般に防犯や安全のため、夜間の出入りは禁止されています。そこで仕方なく、夕飯を食べにロッジに帰ることになりました。僕ら、特にパパはとてもがっかりして、うなだれています。でもこればっかりは仕様がありません。かなり暗くなった道路をロッジに向けて走り、少し離れた場所に僕らのロッジの灯が見えてきました。・・と、その時です。前方に車が何台か止まって、左手の小高い丘の方を人が見ている所に急に出くわしました。左の丘は木が沢山生えていて、ちょっとしたブッシュになっています。運転手同士で話した後、M.Eが僕らの方を見て一言 「やりました、あそこにヒョウがいます!」 と嬉しそうに笑って指差しました。 指の先を見ると、ブッシュの中の手前に少し高い木が生えていて、どうやらその木の中にヒョウがいるらしいのです。

  よく観ると、あ、いました、いました〜! 木の中の比較的高い大きな枝にチーターの大きいような感じのヒョウが一匹乗っかって動き回っています。どうやら下に下りようと枝を伝わっていく様子。ヒョウはよく木の上の枝で寝てますし、もずのように、捕まえた動物を高い枝に引っ掛けてエサを保存し、ライオンやハイエナ、そして他のヒョウ等にエサを取られないようにします。家族単位でなく単独で動くヒョウには必要な知恵なのでしょう。だから確かに枝にいたのは不思議ではありませんが、もう殆ど日も暮れかけていて、その意味で動く様がかろうじて観みられただけ、というのが残念です・・。パパは興奮して早速写真を撮りまくっていましたが、きちとんとは撮れない、とぼやいています。そうこうするうち、やがてヒョウはゆっくり枝を下り、右手の少し離れたブッシュに向けて歩いていきました。シルエットだけだと、大きなメスライオンそっくりです。僕はずっとビデオを回しつづけていましたが、最大に拡大してようやく写るかどうか、という微妙な線でした。パパは、ビデオだけが記録として頼りだ、などといって僕にプレッシャーをかけていましたが、後日ビデオを観てみると暗いながらもはっきりとヒョウの姿とその動きが撮れていて、皆満足でした〜(^^)。 ヒョウはゆっくりと身体を揺らすように歩いて、やがて右手のブッシュに消えてゆきました。観られたのはほんの5〜6分程度ですが、とても貴重なシーンではありました・・。

 出発してロッジを目指すと、なんと走って僅か5〜6分で着いてしまいました〜! ほんとにロッジの直ぐ近くでヒョウを観た訳で、一日サファリで走り回ったのが、何だかあほらしい状況ではありました。でもギリギリで見つけられたことが却って劇的で、このヒョウとの対面は僕ら皆にとってとても思い出に残るエピソードになったのは確かでした。

  さて、ロッジに帰り、夕食になって上機嫌のパパを中心に祝杯を上げると、ボーイさんがレストランの中を周って、 「9時からラウンジのホールでアクロバットショーをやりますので、是非皆さんご覧下さい〜!」 と叫んでいます。パパとママはもう疲れたし−2人ともさすがに年です〜あはは−、今日は寝るといって部屋に帰りましたが、僕は滅多にない機会なので、観ることにしました。食事を終わると丁度9時頃になったので、ラウンジに行くともう黒山の人だかりでした。普段食後にコーヒーや紅茶を飲む所で、すぐ横がバーのカウンターなのですが、今日はその一部がイスやテーブルがどけられ、広くなっています。バーテンがすかさず後ろに並んだ僕のとこにきて 「お酒はいかが?」 と勧め、僕も気分が乗って、「ライノ・スペシャル」というコーラベースの特別なカクテルを飲みました・・安かったですけど(笑)。 さて、ショーはすぐ始まり、3人組のアクロバットチームが、カポエラ風のダンスを踊り、リンボーダンスを踊り、すごく身体が柔らかい事を強調します。確かに蛇みたいに棒と床の僅かな間をクネクネ通る様は異様ながらも凄い離れ技で息を呑みました! 2人が身体を組んで一人がその上に乗ってピラミッドやら何やら色々な形を作り、その度に急ごしらえの客席からやんやの喝采が飛びます。 そしてやがて3人が交互に何と火のついた棒を飲み込み、口から火を噴出しました〜! 歓声が上がり、火を飲んだり噴いたりした本人達はニコニコぴんぴんしています〜。僕は夢中でビデオを回しました。カメラを持っておらず写真が撮れなかったので、ここで皆さんにその画像をお見せできないのが残念です。 そうこうするうち文字通り大変な興奮の熱気に包まれてショーは終わり、拍手喝采の中、3人組は麦藁帽子を広げて客席を周っておひねりを集め始めました。僕の所まできたとき、一寸酔っ払っていた僕は 「素晴らしいショーだった。特別に素敵なお金を上げよう〜!」 と、何と日本の100円玉を相手に見せてから、帽子に入れてあげました。相手はびっくりしながらも喜んで「サンキュー、アサンテ〜!」 と笑っていました。

 こうして劇的なヒョウ発見等のあったサファリ一日目は他にも印象の多いエピソードを残して暮れました。

○12日(6日目、ケニア3日目、ナクル湖〜ナイロビ)

 さて、今日はナイロビに帰り、その足でマサイ・マラまで行きます。朝食後8時45分頃ロッジを出発。サファリをしながらゲートへと向かいます。

 途中インパラの集団を沢山見ました。インパラはオス一匹が沢山のメスを率いて集団で生活するハーレム(?)を作る習性があり、その近くには大抵あぶれたオスだけの集団がいて、時々ハーレムの主とオス集団の代表が一騎打ちで戦って、勝った方が新たにハーレムの主になる、という生態パターンを持っています。人間も昔地域や文化によってはそういうパターンもあったのかな?(笑) 

 またここではロスチャイルドジラフという白いハイソックスを履いたような模様を足に持つ珍しい種類のキリンがいまして、今回は2匹観ました。 そして9時半にゲート到着。昨日来た道を今度はナイロビに向けて逆戻りです。

 途中マイマヒヨを過ぎて少し行った峠道で、パパが昨日通った時に気になった、教会に寄りたい、と言い出して、11時15分頃峠の教会に寄りました(前ページ中段左下の写真参照)。ここは単に「カトリック教会」 と呼ばれていて、特別に名前はないそうですが、建設には由来話があります。 第二次世界大戦の最中エチオピアで捕まったイタリア軍兵士が捕虜として、ここまで連れてこられて、道路工事の強制労働をさせられたそうで、その時この教会が建てられたそうです。ただこの点については2つ説があって、M.Nさんの説明によれば、そのイタリア軍兵士が建設したという話で、パパが聞いていた話では、道路工事で犠牲になったそのイタリア軍兵士達の鎮魂慰霊のために後から建てられた、ということです。教会には少女の案内人がいて、この教会が1942年に建てられたと説明してくれましたが、どちらの説が正しいかは分かりませんでした。ただ戦争中に建てられたとすると、M.Nさんの説の方が正しそうに思えますがはっきりしません。中は小さな祭壇と席があるだけのシンプルな造りで、教会というより祠のような感じでしたが、清潔で綺麗でした。また周囲にはカラフルな花や木々の花が咲き乱れていて、そちらもとても綺麗でした。

 11時半に「カトリック教会」を出発し、一路ナイロビを目指します。そして12時45分頃ナイロビの「日本人倶楽部」に到着。ここで旅行社のM.Mさん、S.Kさんと待ち合わせ、以後のスケジュール確認などを行う手筈になっていました。このお店は日本人の方が経営する日本食のレストランで、ケニアに在住の日本人や旅行者、またケニアの人達や外国の方々も利用するレストランです。たまたま経営者の方もおられてお目にかかり、久々の日本食を頂きました。パパの好きな特製かき揚丼、僕やママは鉄火丼や唐揚、キツネうどんなどをとり、日本酒も頂きました。体調が優れないママはウイスキーの氷水割を飲んで身体を温めていました。 すると、入口から見知った方が入ってくるではありませんか。なんとザ・スタンレーでお目にかかったN先生と助手の方でした〜! 丁度お昼にこられたという事で、偶然にも連動しているスケジュールに全員が驚いてしまいました・・。

 N先生は今回は8年ぶりのケニアで、アメリカから回られてきた、ということです。 と、そこに旅行社のM.Mさん達が徹夜明けで来られ、テキパキと予定確認などをして下さいます。また、マラから帰ってきた日の夜に、たまたま同時期に日本から来ている別のグループの方との合同パーティーをやろうという予定を組んで下さっていました。このグループの団長はアフリカの同好会でのパパの友人のH.Oさんで、昔から家族ぐるみでお付き合いして下さっています。H.OさんはN先生とも大変親しい方なので、M.Mさん達に提案して、丁度スケジュールの都合がよいと仰る、N先生にもこのパーティーへのご参加をお願いして快諾して頂きました。

 14時過ぎにレストランを出て、国内線用のウイルソン空港へと出発です。昔はナイロビからマサイ・マラへは陸路車で6時間位かけて行ったものですが、近年は国内線が発展したお陰で、飛行機を使うのが一般的です。ただ途中の動物や景色を観るには車の方が情緒があるという意見もあり、今でも車で行く人々もいて、人によってまちまちですが・・。
 
 14時15分頃ウイルソン空港に到着。マラに持っていかない荷物をそのまま車に預けます。中に入ると、さすがにシーズンだけあって空港内は混んでいました。でもS.Kさんが手続きを手早く済ましてくれ、行き先によって、青や赤、紫など色とりどりの搭乗券が配られます。乗る飛行機や目的地ごとに違いますが、これって中々面白いです。アナウンスがあって「次、今から青の搭乗券をお持ちの方は滑走路までお進み下さい」 といった感じで、次々呼ばれていきます。そしてついに僕達の番がきて、出発です。15時10分、30人乗り位の少し大きめの小型飛行機で、いよいよケニアでも有数の、多種の動物が沢山観られるエリア、マサイ・マラ国立動物保護区に向け出発です。

飛行機に最初乗ったらベルトが届かなくなりそうで、慌てた乗員が付足用のベルトを持ってきてくれる、という有難くないハプニングもありましたが、自分の体型が外人さんの標準でも間尺に合わないという恐るべき現実を突きつけられてショックを受けながらも、無事1時間程の空の旅を楽しみました。低地を飛ぶので地上の景色もある程度見え、また地上から見るのとは違った美しさが目に残ります。今度はバルーンサファリもしたいな、とこの時感じました。

約50分してやがてマラに着き、降りると、地上には四駆が待っていて、僕ら一家は白人女性と黒人女性2人のグループと一緒になりました。彼らは後で聴いた話では大学の友人同士らしく、モンバサに住む黒人女性がイギリスに留学中に知り合った白人女性を、彼女が祖国ケニアに招待し、一緒にサファリをして周るということのようでした。彼らとはマラを発つ日の朝のヒッポプールでの朝食の時、記念に乗っていた四駆をバックにママと僕とで記念撮影をしました(前頁下段左下の写真)。四駆の運転手はスラッと背の高い、一目でマサイと分かる顔立ちの男で、S.Nと言いました。彼は開口一番「今からサファリにそのまま行って、後でロッジにチェックインするか、それともまず荷物を置きにロッジに行ってサファリを後にするか?」 と問いますが、親切な申し出ながらいかにも、ここでのことはプロの俺に任せとけ、といったやや高慢な印象を与えました。この印象はやがてもっとはっきりしたトラブルの予兆でもあったのですが・・。

で、結局5人でその場で話して、まずロッジへとうことになり、「ロッジは力その方がいい」 とまたS.Nがもっともらしく言い、10分程の所のM.Sというロッジへ向かいました。ロッジはこざっぱりした感じの良い施設でプールもあり(下段右中の写真)、レストランやフロントなどがある本館施設を中心に(前頁下段右中の写真)、客室はバンガロー形式に独立して横や下方の坂下に放射状に存在しています。僕らは坂下の部屋で、蜂の巣を図案化したような面白い黄色の石造りの建物でした。ここは各部屋の周りに広がる敷地の周囲の庭も綺麗で色々な修理の花や木が咲き、中でもハイラックスが沢山いて、人間になれているせいか、人間がそばにいても逃げたり隠れたりしません。エサを拾う習慣が出来ているのでしょう。僕も何度も見かけ数10センチまで近づきましたが大丈夫で、お陰でナクルとは違い、ビデオもばっちり撮れました(笑)。

16時40分頃いよいよマラのサファリに出発です。同じS.Nの運転の四駆に例の2人組と一緒で僕らを加えて総勢6人組でサファリ開始! 今回の目玉はなんと言ってもこの時期にしか観られない、ヌーの大群の川渡りです。ヌーは毎年この時期になると食料の草を求めてケニアのマラ側からタンザニアのセレンゲティーに大群で移動します。その時川を渡るのですが、この場面のダイナミズムと迫力はつとに有名で、ここを観に毎年多くの観光客や写真家が大挙して押寄せます。丁度その時季なので、是非とも観たいものです。パパがS.Nにそれを強調すると、彼は「分かってる、場所は分かるので、それは明日連れてゆく」 ともう、余計な事を言うな、とばかりの態度です。パパも一寸怒ったようですが、運転手にむくれられて動物のいる場所に連れて行ってもらえず、サファリが台無しになっても困ります。そこは抑えて、明日に期待する、ということになりました。そこで、今日の夕方は普通に広いサバンナのエリアで見られるものを観ることになりました。ライオン、エランド、サイやシマウマなど色々と見られ典型的な東アフリカのサバンナです(前頁上段左上、右上、右中の写真等)。そして夕方18時半頃ロッジへと帰りました。ロッジでは本館のサロンでお茶を飲んだり(前頁下段右下の写真)、レストランでの夕食も美味しかったです(前頁下段右上の写真)。隣の席の女性の誕生日らしくコックさんたちが丸いケーキを歌いながら持ってくるサービスもやっていました。夕食後はマサイの衣装を着た従業員がサロンのエリアで歩いたりダンスしたり(下段左中の写真)、動物のスライド上映があったり、ボーイさんがギターを片手にフォークやケニアの民謡を歌ったりしてくれました。僕らのリクエストに答えて、「マライカ」という有名なタンザニアの民謡も歌ってくれました。これは僕らの入っているアフリカの同好会の会歌でもあり、本場のネイティブのスワヒリ語で、広大なサバンナを見下ろしながらお酒を片手に聴くと、また何とも味があります・・。こうしてマラでの初日は暮れました。(以下続く)
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