デリー編

 

この文章は、1998年3月1日から3月27日までの僕、俗称「アキ」(21才♂)を中心に、戸塚のラーメンライス系冒険旅人I氏、俗称「イーシャン」(20才♂)と竜ヶ崎のロマンチシズム系冒険旅人O氏、通称「ミッチャン」(21才♀)と3人で味わったインドでの感動を、2004年5月書き綴ったものである。今回の日記帳は、前半戦さえしっかり日記らしく書き込みがされているのだが、後半はまた意味深でヒエログラフみたいな文字しか書かれていないので、実際の歴史との相違点があるかもしれないことを、まず先にご了解いただきたい。

俗っぽいが、旅に出るまでの曖昧な事実を明らかにしておくことにする。98年の1月くらいだろうか、たまたまイーシャンが遠藤周作の「深い河」を読んだことと、たまたま僕とミッチャンが話をしていたとき「インドなんて面白そうだなぁ」という話が出たことが、うまく相乗効果をもたらし、3人をインドに辿り着くまでに到らせたという、ありがちな、ただそれだけの話である。まぁこの時、インド、ネパールといった南アジアや、タイやカンボジア、ベトナムといった東南アジアを、でっかいリュックサック1つで安宿を泊まり歩いて貧乏旅行をする、いわゆる「バックパッキング」に出かける大学生は少なくなかったし、すでに日本をある程度チャリンコで見て回っていた僕らはこのとき、満を持して海外に飛び立つ絶好のタイミングだったのだ。

出発前は、僕は初めての海外旅行だったので、あれやこれやとそれっぽく準備をした。チケットはHISで買ったが、チケットとはいったいどんなもんなだか最初はさっぱりわからんかったし、ビザとはいったいどんなもんなんだか最初はさっぱりわからんかった。ただ、ある程度出発前、これまたゲスな話だが、一生懸命ガイドブック「地球の歩き方」を見たのも、今後につながっているんだろうなぁと思う。なぜなら、この97年度版のインド地球の歩き方は「インドにはこういう観光地とホテルとレストランがあります」というガイドブックというよりは「貧乏な若者はこうやって旅をするべきである」という聖典に近いものだったからだ。結局僕は98年99年03年と3回インドに行ったが、3回ともこの97年度版ガイドブックを持っていったし、一つの典型的な旅のスタイルの見本として活用&応用したものだ。

ちなみこの出発前の1ヶ月間も、毎日日雇い労働にあけくれ、毎日お小遣い帳を付けた。また、海外旅行傷害保険はどのランクにしてどの付帯を付けたらよいのか、T/C(トラベラーズチェック)はどこのT/Cをどれくらい持っていったらよいか、ドルの現金はどのくらい持って、どのように貴重品入れに分散して持っていったらよいか、薬はどれをどのくらい持っていけばよいか、抗生物質は持っていった方がよいのかなどなど、いろいろと討論し、走り回ったものだ。この努力も今後につながっていると思う。何故ならそれぞれ一つ一つに、そこらへんを旅するバックパッカー以上のこだわりを持つことができたからだ。

3月1日。記念すべき日記帳の最初には「妥協のためのチャンスにした」と、なにやらかっこいいことが書かれている。が、実際のスタートは非常にかっこわるい。ただ、ハワイやグアム、そして韓国やアメリカなどに行って、それからタイ・インドと順序よく制覇していくのではなく、初めての海外旅行がいきなりのインドだったからこそよかった。今思うと初心者っぽい失敗だらけで、今振り返って見ると恥ずかくなることも多かったが、いきなりのインドだったからこそ、そのショックをピュアに受けとめることができたのはないかと思う。

出発前夜、今回の旅に持っていく120分のカセットテープ1本に、どの曲を選んでいったらよいかと朝4時くらいまで検討した結果、やや寝坊気味で自宅を出発。外は雪。MYおかんfeat.MYおとんに恥ずかしくも駅をバックに写真を撮られた後、駅のホームに向かうと、雪のため電車が遅れておる。普段なら10分に1本以上は走っている新京成線も、この日は雪の影響で1時間に数本しか走っていないようだ。京成線も佐倉の辺りで、何十分か時間調整のため停車するはめになってしまった。遅延証明書を発行してもらっても、フライトは予定時刻に出発するだろう。9時の集合時間から1時間遅れで、ようやっと成田空港第二ビル駅に到着。初心者の僕は駅に外人が多いだけでドキドキ。空港第二ビル駅を出たところのパスポートチェックシステムも知らなかった僕は、非常にあたふたと手際が悪い。イーシャンとミッチャンは既に空港に到着しており、とりあえず謝るしかナス。ボーディングパスをもらい、機内荷物を預け、外でタバコを吸い、遅れた言い訳をして初めて落ち着きを取り戻すことが出来た。

落ち着きを取り戻し、とりあえずう○こをすると、腰に巻いている貴重品入れのヒモに、う○こがひっ付いてしまった。黄色いその痕跡は、どう洗っても今日明日で消える気配がなく、あとでバレるに違いないと判断し、イーシャンとミッチャンにそのヒモを見せ、3人はこのヒモについたう○この件についてよく話し合った。

タバコを買った後(免税店で買わなかったんだなぁ)、税関・出国検査を抜け、10時30分過ぎ、僕らをデリー国際空港へと運ぶエアインディアAI301に搭乗する。スッチーは「ナマステ」と挨拶したので、僕は「ハロー」と小さな声で返した。僕らが座る席は機内のかなり後ろの席だったが、シーズンということもあり学生でいっぱいだった。飛行機は無事出発。飛行機は陸路を走っているようなスピードで飛んでいる。(僕はそう感じたらしい)飛行機に乗るのは10年ぶりの僕は、よくわからず手元にある「緊急助けてボタン」を連打し、何かと思って駆け付けてきたスッチーに「コーヒー」と頼み、そのうちボタンを連打してもスッチーは来なくなった。ちなみに手元のヘッドホンは壊れて動かなかった。英語は分からないけどMr.Beanなら面白い。

下に畑が見えたと思ったらインドに着いた。空港にある銀行で20$だけT/Cを両替し、145Rs(この当時1Rsは3円くらい)払い、プリペイドタクシーに乗る。ヤッホー、インド!旅行者&安宿が集まるメインバザールに着くと、もうびつくり。「興奮の3乗」と日記帳に書かれているが、これは間違いのない乗数であり、次から次へと「リキシャ乗るか?」「ホテル探しているのか?」「マリファナ吸うか?」とインド人に攻められ、僕はなめられたらあかんと思って真夜中なのにサングラスをかけたほどだ。この日は3人で250RsのDJKOOPホテルに決定。(スペルに自信なし)ミッチャンがとりあえず実家に電話をしに行っただけでこの日は興奮のまま飯も食わず就寝。

3月2日。昨晩は興奮のまま飯も食わなかったので腹は減っていたが、とりあえずT/Cを両替しにアメックス(アメリカンエクスプレス)に歩いて行く。道には牛が歩いており、彼のう○こだらけで汚いし、朝から騒々しい。最高に楽しい。アメックスに着いたがまだ開いていないようだ。インド人に会いお話をする。このときイーシャンが「僕は法学を勉強しているロイヤーですよ〜」と説明したら「あんた嘘ついてるライアーだ!」と返されたことを僕は今でも鮮明に覚えている。

とりあえずT/Cを両替した後、この25才くらいのインド人「ヒラール君」にそこらへんのレストランへと連れて行かれる。この時なんかを食し、初めてチャイ(ミルクティwithジンジャー)を飲む。これって結構歴史的瞬間だわ。とりあえず昨晩は適当に宿を決めてしまったので、いろいろな宿に泊まってみたいとこのヒラール君に言うと、彼はメインバザールにある彼お薦めのホテルを紹介し、僕らはホテルを鞍替えした。

この後オールドバザールにあるヒラール君宅にお邪魔し、お茶をごちそうになった後(このとき見ず知らずのインド人に勧められたお茶を飲んでいいかどうか悩んだと、後から3人は語り合ったものだ)レストランに行った。僕らはアーグラ・カジュラホ・バラナシを観光するため、電車のキップを手配する必要があったのだが、「そこらへんの旅行会社は平気でボッタくるので、ちゃんとしたツーリストインフォメーションで買う方がよい」と言われ、そのツーリストインフォメーションに連れていってもらう。そろそろ気付けって感じだが・・。ツーリストインフォメーションで40$払いキップの手配をした後、エンポリウム、お土産屋さんに行き、僕とイーシャンはクルータパジャマ、みっちゃんはパンジャビードレスを買った。終日付き合ってもらったヒラール君と一緒に夕食を食い、彼とのツーショット写真をそれぞれ撮った後、彼と別れる。なんだ、ガイドブックには全てのインド人が悪い奴みたいに書かれているが、いい人もいるじゃないか。夜はぷらりとチャイを飲みに行くくらいまで成長した。

3月3日。朝風呂というかシャワーを浴びていた途中停電になり泣いた、そんなインドの首都デリーである。僕らはぷらぷらと街を歩き出し、アメックスに行きまた両替をする。昼飯にはターリー(大皿一枚の定食)を食し、昨日行ったツーリストインフォメーションに、電車のキップを受け取りに行くが、なかなか見つからない。よくわからないうちに、政府観光局にたどり着く。確かそのツーリストインフォメーションの場所を聞きに立ち寄っただけのはずだが、早い話「あんたらその兄ちゃんに騙されてるのよ、政府観光局はデリーでここだけなの!」と言われた。ヨークホテル近くにあったツーリストインフォメーションを改めて見つけだし、チケットを受け取った後、再度政府観光局に行く。確か10$もしない金額を40$くらいボッタくられたというオチだった気がしたが、結局ボラれたお金は戻ってこなかったものの、ちゃんと話を聞いてくれた政府観光局の人は、そのツーリストインフォメーションをPunishすると言っていた。

こんな感じのいかさまツーリストオフィスが、デリーにはいっぱいあった気がしたが、04年再びデリーに来てこのコンノートプレイスをくるくるまわったとき、こういったツーリストオフィスはすべて潰れてカラーコピー屋に変わっていた気がする。

とりあえずなんというかインドの洗礼をまともに受けた僕らは、いいor悪い人とは別に、インド人であるヒラール君といろいろおしゃべりもできたし(英語はミッチャン以外できなかったが)良い意味でインドスタートを始めることができた気がする。夜飯はWimpyというインドではちょっと高級なマクドナルドみたいな所へ行く。ここに来ているお客さんもみんな金持ちそうというか身なりがリッパだった。しかもここには珍しくレジが置いてあったが、店員さんが「85Rs、会計」と勢い良くレジのボタンを「パシッ」と叩いたら、「ぽよーん」と一つ「会計」ボタンが吹っ飛んで床に落ちた。「これがインドなんだなぁ」とまたまたインドの洗礼を受けることになったのである。