カルカッタ編
3月22日。昨晩出発したバスは、真夜中ドライブインにストップした。タルカリダルバートと呼ばれるネパールの定食を食ったら、むちゃ辛かった。水とスプーンが欲しいよ〜、と日記帳に書いてある。このバスではケツが痛くてあんまり寝れなかった記憶がある。
こっから寝ぼけていたせいか、まったく記憶が思い出せない。往きに通ったスノウリではない国境に着いたはずだが、地名すら思い出せない。僕らはバスが止まった場所から国境の出国チェックポイントまでサイクリリキシャに3人乗りこみ、ザックを落っことした記録がある。出国ポイントは朝早いせいか開いておらず、開店時間まで僕らはチャイを飲み、欧米人ツーリストは本を読んでいた。ようやく開いたので、蚊がわんさかいるチェックポイントで出国手続きをし、歩いて国境を越えた。
こっからパトナー(かな?)の駅までバスでも使ったんだろうか?このパトナーからカルカッタへ向かう電車においては、北大に行っているツーリストが、窓から喜捨を求める女の子乞食に、冷たく「チャロ!」(行け!)と言ったことと(この記憶はここだったかどうか自信がない)、コミカルなドイツ人ツーリストと話していたら「へぇ〜」と日本人特有の相づちを真似されて悔しかったことと、相席になったインド人夫妻の足を、出発を見送りに来ていたらしい息子等がいとおしげに触っており「これがインドカルチャーなんだよ」と説明されたことと、真夜中電車が何かに衝突してストップしたとき、インド人と一緒になって、電車の外に降りて畑みたいな所に出たら、むっちゃくちゃ星が綺麗だったことを覚えている。
一つだけ補足すると、寺院でお参りするときとか、大切な人に挨拶するとき、必ず足というかスネというか足の甲を触り、リスペクトを示すという習慣がインドではあるのだが、僕が04年インドに行ったとき、一度だけ誰かとそこらへんの人に合ったとき、僕に感動したのかもしくは旅の無事を祈ってくれたのか、僕のスネを触られたということがある。
3月23日。6時30分、電車はカルカッタに到着。旅も大詰め、最終ステージである。駅から安宿が集まるサダルストリートまではタクシーを使った。が、このときもボラれそうになり反抗し、殺し合いになりかねないほど緊迫したムードになった記憶がある。とりあえずホテル探しをするが、いっぱいだったのか、それともひどいホテルばっかりだったのか記憶にないが、5,6軒歩いて回った気がする。ネパール出発前からミッチャンの体調はすぐれなかったが、カルカッタに付いてミッチャンの体調はもう歩けないほど最悪になっていた。朝飯を食った後、結局インターナショナルなんちゃらというホテルに決定。
イーシャンはアメックスに手紙を送りに行き、僕は久しぶりのシャワーを浴び、ミッチャンは体調がすぐれないため寝ることにした。熱をはかったら、ミッチャンは39.5℃の熱があるらしい。僕は今、単にインド人をからかい&からかわれつつのバックパッカー的な対話ではなく、本物のお友達を作るためにはどうしたらよいかを考え、下痢したり熱出したりと体調が悪いもののあっちこっち見て回った彼女だけが、唯一この旅において冒険をしたのではないかと考えている。たいていホテルを決定するときは、シングル1つとダブル2つの部屋を取るようにしていたが、結局2人用のダブルしか開いておらず、1つのベッドに3人が寝たときもよくあったしねぇ。
ぷらりとこのあたりを歩いたら、きゅうりを50パイサで売っていたり、ライターを修理したりと、いろいろ道端に露店があって面白かった。角のラッシー屋でラッシーを飲みつつ、夜は中華を食した。夜から大雨。
3月24日。朝は引き続き大雨。(ミッチャンの体調が悪かったからだと思うが)ホテルをチェンジしてグレードをあげる。なんちゃらパレスホテル。ブルースカイカフェで朝飯を取り、3人はアメックスに両替に行く。僕はサンダルを履いていたが、牛のう○こを「ぐにゅう」と踏んづけてしまい、泣いた記憶がある。雨が降ったり止んだり。お土産買いがてらエンポリウムに行った後、ニューマーケットに出かける。テープや本を買ったりした後、夜はおしゃれな生演奏の店で夕食を取る。日本にこんなレストランがあっても、この歳では入れなかっただろう。夜は3人でなんだか熱い話をし、興奮して寝れず。何を話したんだろう?
びしょびしょのカルカッタ。
3月25日。かどっちょの店で(どこだろ〜、全然思い出せないよ〜)バナナカードを食した後、再びアメックスに行き、州物産展&セントラルコテージエンポリウムでお土産を物色する。僕は念願のタブラを買った。昼もちょっとリッチなところでタンドゥーリチキンと豪華なメシを食った。レストランのトイレが有料で焦った記憶もあるし、僕とイーシャンは手を洗うためのフィンガーボールのお湯を飲んでしまった記憶がある。
街をぷらぷらする度に出会う、カバン売りの少年と仲良くなり、僕とこの少年とのツーショット写真をミッチャンに撮ってもらった。お土産を買いがてら、ニューマーケットに行く。僕は客引きの2人組と仲良くなり、一緒に日本人をボッタくってやろうという計画を立てた。なんでだかわからんが、最後に来て僕は調子を上げていったのだが、今思うと「水を得た魚のようだった」なぁと思うし、「水を得た魚」ってのは自信を取り戻したというよりも、新たな自信を付けたという意味なんだと思う。夜半より、とうとうこれまで一人ぴんぴんしていたイーシャンが下痢になる。
3月26日。体調が優れないイーシャンを部屋に残し、僕は一人朝飯を食いに出かける。街をぷらぷらしていたところ、紅茶ショップのおっさんにつかまり、なんでだかわからんが店の中に入り、しばし店番を任された。
サダルストリート。
ホテルに戻ってみるとイーシャンが大変なことになっていた。記憶が淡すぎて思い出せないが、どうやらこの日は体調の優れないミッチャンとイーシャンを部屋に残し、単独で行動していた模様。夜は(確か)深夜特急で沢木耕太郎が泊まったリトンホテルでなんか夕食を食べた。ここには日本人が結構おり、旅系の雑誌を書いていそうな人がいた記憶がある。また、地球の歩き方パキスタン編を書いた人は、パキスタン人に殺されたから、98年度版が出ていないのだということを聞いた気がする。
3月27日。最終日。この日はブルースカイカフェで朝食を取る。抗生物質を飲んで1日休み、大方イーシャンは回復していた気がする。最後のお土産を買いつつ、タクシーに乗ること1時間、カルカッタの空港に到着。ちゃんちゃん。
これにて僕のインド3部作の第1部が終了。
自転車の冒険から帰国し、誰かにあって「楽しかった?」と聞かれると、けっこう素直に「楽しかったよ」と言えず、戸惑ってしまうものだ。そういうものではないからだ。だが、このときは帰国してからただ単純に「インド楽しかったよ〜」と言えた気がする。僕はこの旅でインド世界が世界のスタンダードであると錯覚した。帰国後は池袋のインドカセットテープ屋でカセットを集めて普段からインドポップスを聞いたし、大学3年から始まるゼミナールではインド経済史を研究した。
そしてここから「僕らの冒険の締めくくりとして、インドをチャリンコで走れたら至上の喜びだろう。そして最高だった。」という99年のインド第2部につながり、「パキスタン・アフガニスタンのチャリンコを終え、もう刺激を感じなくなったインドをどうやって冒険的にインド最南端まで走ってやるか」という04年のインド第3部でインド3部作シリーズが完成するのである。