9.27歳、三度デリーへ。(インド)

Attack.00 From Kanyakumari to Narita

(2004年3月24日〜2004年4月4日)

<24.Mar.2004 Day-158>

From Kanyakumari to Thiruvananthapurum by taxi

朝、ベッドから出ることなく、昇りつつある朝日を見ることができた。どうも寝不足でまた寝てしまうが、再び起きだし、コーヒーにバタートーストを食す。

本日は10時にタクシーでティルバナンタプラムへと移動する予定だったので、出発の時間まで、ここカニャクマリのホテルに置いていく一次切り離し荷物をすべてメモし、写真を撮る。

念のため10時前に旅行代理店に行くともう用意ができているらしく、ドライバーさんもすでにおり、ここ最終目的地インド亜大陸最南端カニャクマリを出ることにした。出発しようと外に出ると、ホテルの従業員からチップを要求されたが、自分の部屋の中を指差し、「これ全部あげるからチップにしてちょ」と説明してホテルを出た。

そして、これまでの27年間のうちでもっとも「感動をした(与えた)走り」ができた、つまりもっとも興奮し、その思想や歴史を表現することができた国道47号をタクシーは逆走する。残り10km地点、そして最後の休憩をした残り13km地点の前を通る。そしてそれらの場所では、僕がそこを感動しながら走りぬけたという歴史を刻み込みながら、何事もなかったように人々が行き交い、通常ベースの生活が行われている。確かにこの世界に思想及び歴史が確実に刻み込まれ、また世界は確実に動いているのだ。

いろいろと考え事していると、欧米人のサイクリスト2人組を発見!結構な荷物を積んでいたので、大陸横断型ツーリングでカニャクマリが最終目的地ではないかもしれないが、いい表情をしていたし、できればこのカニャクマリが最終目的地であって欲しいという気がした。今回欧米人のサイクリストを見たのは4組目になるだろうか、そのうちこのサイクリスト含め、3組が男女のカップルだった、なんでだろう。

そしてあっというまにタクシーは僕が走った道を逆走して突き進んでいく。結構いろんな場所を覚えているもんだなぁと思いつつ、タクシーはやっぱり早すぎる。思考がまとまる間に次の情報が入ってしまうから、やっぱチャリンコのスピードがいいな、と単純に思った。あっというまに2時間でティルバナンタプラムの街へ到着。カニャクマリへの到着前日にも泊まったHOTEL REGENCYに泊まる。部屋に入ったとたんに思わずミネラルウォーターを1本頼んでしまう。別にそんなに汗かいたわけでもないし、明日の飲み水に困るということはもうないのに、習慣とは恐い物である。

とりあえずそこらへんにあったトーマスクックに行き、チェックを両替した後、昼飯にする。チキンビルヤーニを食したら、中にバナナではなくパイナップルが入ってた。カレー味の骨付きチキンと茹で卵1個が中に入っているピラフにパイナップルが入っているとこれがまた美味いんだなぁ。そしてカニャクマリのあるタミルナードゥ州からケーララ州に戻ってきたせいか、レストランでは水ではなくお湯が出てきた。

ちらりと郵便局(GPO)に行く。ある程度かさばる荷物は、帰ってからの浮浪者生活に影響を与えないよう(帰国に間に合うよう)航空便で送ってしまおうと考えていたからだ。聞いてみると日本まで10kgで2,150Rsらしい。ガイドブックにはDHLを使ってインドからUSAやUKに送ると10kgで5,000Rsと書いてあったので、それを考えると安いもんだ。ただ、航空便でも10〜20日間くらいかかってしまうのがネックだが、梱包サイズは関係なく、あくまでも重量のみによって課金されるらしい。それなら全部送ってしまうかとも考えてみた。

郵便局で情報を得た後、ティルヴァナンタプラム中央駅に行き、首都デリーへと戻る電車のチケットの予約に行く。ガイドブックに「けっこうここ発の電車は混んでます」と書いてあったので、1週間先だけど早めに列車の予約にいったのだが、30日発の特急列車「ラージダーニエクスプレス」の個室クラス(コンパートメント)の席、つまりA/C1st,A/C2Tier,A/C3Tierはすべていっぱいらしく、ウェイティングリスト、つまりキャンセル待ちらしい。これは困ったと思い、外に出て、コーヒーを飲んで一服する。ちなみに、デリーから3,500km走ってきたんだから当然といえば当然だが、このティルヴァナンタプラムからデリーまで車中2泊、まるまる二日かかるという長旅なので、荷物もいっぱいあるし盗難防止のためにも、なるだけ個室の列車に乗りたい。ただ、ラージダーニエクスプレスよりも、もうちょっと時間がかかるケーララエクスプレスってのが毎日1便走っていたなぁと思いだし、予約申込書を書き直し、再度窓口へ並ぶ。が、結局ケーララエクスプレスもコンパートメントはすべていっぱいらしい。が、たまたま火曜日だけデリーまで走っている「ニザムウッディンエクスプレス」ってのがあるらしく、またまた予約申込書を書き直し、再度窓口へ並ぶ。まぁ、2、3時間はかかるだろうと思ってやってきてたので、そんなにカリカリはしなかったけど、僕の前にいたおばさんはかなりオカンムリ。このおばさんが持っていたボールペンで、長い行列ができているのに「ティータイム」を楽しんでいたらしい窓口のおばさんを刺しそうな勢いだった。そしてなんとか座席は取れたものの(1,600Rs)、個室に上下2段のベッドがある2Tではなく、上下中の3段ベッドがある3Tになってしまった。これだとやっぱり航空便で自転車も一緒に送った方がいいかもしらん。

ぷらぷら街を歩く。ちょうどクリケットの「インド−パキスタンシリーズ最終戦inラホール」が開かれている日らしく、街頭のテレビにみんな釘付けである。バザールの中に入ると、コラム(クイロン)と同じく香辛料貿易のメッカらしく、唐辛子をメインにしたスパイスが軒先の「どかん」と並べてある店が、「ずらり」と並んでいる。また、この南インドで取れる紅茶(ダージリンではなくニルギリ)やコーヒーの店も多い。お土産入れる用の袋(5Rs/袋)を25袋を購入し、自転車をくるむシート「青ビニ」1,600mm×1,600mmを90Rsで購入。日本のガイドブックにかかれていた紅茶ショップを見つけることはできなかったが、お土産用にニルギリのOP(オレンジペコー)100gを20個購入。ふぅ、疲れた。そこらへんでコーヒーを飲んで一服し、ペプシを買ってホテルへ戻る。

明日郵便局にてだいたいの荷物を送ることができるよう、ホテルの部屋で荷物の選別作業をする。別に手帳(日記帳)抜かし、全ての荷物を送ってしまい、手ぶらで日本へ帰ってもよかったが、いちおうここはインド、日本に帰るまで必要そうな物と、送ってしまってもいい物とを選別していく。

夜飯はホテルの屋上でチキンストロガノフを食す。なんで欧米人はルーフトップレストランが好きなんだろう、欧米人観光客数組がディナーを楽しんでいた。前職関係に「到着しましたよ」手紙を書こうと思った矢先、久々の雨が降ってきた。部屋に戻り、クリケットのインドパキスタンシリーズを見ながら、再度パッキングをする。よくわからんが、40ランの差でインドが勝ったらしく、大騒ぎしておる。

<25.Mar.2004 Day-159>

Stay Thiruvananthapuram

ルームサービスを電話で頼もうとするが、何回やっても電話がつながらない。しょうがなく1階のレストランへ行き、コンチネンタルブレックファストを食した後、10時半から作業開始する。今日中に荷物の選別作業と自転車の梱包をして、郵便局で全部送ってしまおう。

送ってしまってもいいものを選び出し、全てをベッドの上にならべ、1つ1つメモし、写真に撮る。何故かというと、1月にデリーの中央郵便局から船便で日本へ送った、不要になった冬用・パキスタン及びアフガニスタン用の荷物を入れた段ボールは、3月中旬に実家へ到着したというメールが実家から来ていたが、けっこうしっかりと中身を税関でチェックされたっぽいよ、という情報を得ていたからである。最終的に航空便で日本に送る荷物は、リアパニア2つ分と大き目のコンプレッションスタッフバック1つという3つの荷物になったが、これまたけっこうな重さだ。

昼飯にする。ホテルのレストランでエッグフライドライスとワンタンスープを食したが、ワンタンは決して想像しているようなワンタンではなく、また想像しているようなワンタン以上に美味かった。

そして飯くった後に、自転車を送ってもいいように(手荒い?取り扱いにも耐えられるように)梱包し直し、最後に昨日買った青ビニでくるみ、14時すべての作業終了。

オートリキシャに荷物を詰め込み、郵便局へ行く。と、昨日相談した、話しの分かるおっさんが郵便局のどのカウンターみても見当たらない。本当に容量は関係なく、重量だけで料金が決まるのか、また、いったいこれらの荷物がどれくらいの重さになるのかを再確認したかったが、いなけりゃしょうがない。縫師のところへ行き、すべての荷物を布でくるんでもらう。自転車は300Rs、その他は1個150Rsも取られた。デリーでも荷物1個に150Rsかかり、ボラれたんじゃないかと思っていたが、どうやらガイドブックを見てみるとそうでもないらしい。大の大人が3人荷物によってたかって、大きな布を切って荷物に巻いて、針と太い糸で縫って、ロウソクのロウを縫い口につける。自転車は結構しっかり梱包したつもりだったけど、この縫師は納得いかなかったらしく、段ボールとヒモで梱包し直していた。縫師らがそうしている間に、荷物1つに対して2枚づつ、計8枚の税関申告書を書く。発送元を書かなくてはいけないところが1枚に2個所あったが、Thiruvananthapuramは長い・・。

とりあえず梱包の終わった自転車以外の3つの荷物を窓口に出す。結局、全ての荷物に布を巻いて梱包が終わるのに2時間以上かかったと思う・・。約20kgで4,400Rs、船便の倍くらいだろうか。よくわからんが窓口に、僕と同様のルートで、タスキがけリレーで歩いてインドを縦断したというおっさんがおり、お話をする。「体動かすっていいっすよね」と話していると、縫師が梱包の終わった自転車を窓口まで持ってきた。すると「これは郵便局では送れません!」とこのタスキがけリレーおじさんが言い出した。やはり容量ではなく重量だけで料金が決まるらしいので、かさばる自転車は航空便では取り扱いたくないのだろう。

「ティルヴァナンタプラム空港にあるエアインディアでエアカーゴ(航空貨物)としてなら送れるよ」とのことだったので、自転車を担いで「なくなく」郵便局を後にし、トーマスクックまで歩き、念のためドルのキャッシュを多少両替し、ホテルへ戻る。

ホテルの部屋に戻り、ルームサービスでコーヒーを飲みながら、航空貨物で送ったらいったいどのくらいお金がかかるんだろうかと思いつつ、ゆっくりする。そしてちらりと夕飯までの間ネットカフェに行くが、日本語ソフトインストールできず。ただ、日本語を読むことだけはでき、メールチェックすると、続々と「到着おめでとう」メールが届いておりうれしかった。さっそくベッソン氏から「コングラッチレイション!」というメールも届いており、またウダイプルで自転車メンテナンス中の僕の写真や、ウダイプルのホテルのおっさんおばさん等3枚写真を貼付して送ってくれた。また、ゴア州境で出会った日本人チャリダー「イワサキさん」からも「今どこにいるんですか〜?」というメールが来ておった。イワサキさんら一行はマンガロールから進路を東にとり、今バンガロールにいるらしい。そのまま東に進み、マドラス(チェンナイ)まで出てから南下し、最南端カニャクマリを目指すとのこと。

ホテルへ戻り、屋上のルーフトップレストランへ行き、カニャクマリ到着前日にも食べた「コンチネンタルリゾット」を食す。やっぱりこれが、この骨付きチキンの上に「ジュワッ」と鎮座している甘辛い「タレ」が最強に美味しく、しかもこの前食べたときには付いていなかった、トマトやパイナップルを焼いたのまで付いておった。この「コンチリゾット」を食うためにこのホテルへ来たようなもんだ。

食後コーヒーを飲みながら、思い腰をあげ、前職関係に7通の手紙を書く。結局3時間近くかかり、5匹以上蚊に食われながらの格闘だった。「拝見皆様方に置かれましては益々ご清祥の・・」という硬さ無く、かつ「到着しましたよ〜」とまで軽くない手紙を書くってのは本当に難しい。

<26.Mar.2004 Day160>

Stay Thiruvananthapuram

「蚊」対策として、寝るときでも天井に付いている大扇風機を消さずに1ヶ月以上生活しているが、やっぱりどうも呼吸困難?になるせいか、毎日睡眠が浅い。が、何故か昨晩はゆっくり寝れた気がして嬉しい。昨日に続き、部屋の電話でルームサービスを頼んだがノットポッシブル。廊下を歩いていた従業員をとっ捕まえて、なんとか電話でルームサービスを頼む。ルームサービスだと朝コーヒーをゆっくり飲みながらタバコを吸えるのがいいのです。

オートリキシャ捕まえて、ティルヴァナンタプラム空港へ行く。国内線と国際線2つターミナルが有るらしく、とりあえず国際線のターミナルに行ってみる。コロンボ(スリランカ)線やドーハ、ドバイ、アブダビ等の中東諸国への線がけっこうあるらしく、そこそこ空港は混んでいる。エアインディアのエアカーゴ受け付け場所を適当に聞いて行ってみると、インディアンエアラインズのエアカーゴ受け付け窓口だった。案の定国内線しか扱っていないらしく、ちょこっと離れたところにある、国際線貨物ターミナルみたいなところへ、オートリキシャ乗って潜入。

「3kmはある」とリキシャのおやじがいっていたので30Rs払ったが、1kmもないところにあった。また、この空港が海の近くにあるということをこの時初めて発見した。中へ入り、エアインディアカーゴの事務所へ行ってみるが、どうもエアインディア自身では個人持ち込みをやっていないらしい。よくわからんが、エアトラベルエンタープライズというところの事務所へ行って交渉する。英語が達者でない僕だけど、無事交渉できて良かったなぁと思う。(たぶん、成田で日本語で交渉しても結構面倒な事だったと思う)結局4月5日の成田空港受け取りで計21kg5,000Rsだった。こんだけかさばる荷物を100$ちょっとで運んでもらえるなら安いもんだ。しかも、本人立ち会いで荷物を開梱して、税関検査官のチェックを受けることができたので、空港までいって良かったなぁとも思った。

こうして僕の自転車だけスリランカンエアラインズに乗り、コロンボ経由で東京に帰ることになった。ただやっぱり「税関の偉い人へ。自転車日本へ送りたいです、どうかお許しを!」というサイン入りのレターを書かされたし、書類は10枚くらいになった。やっぱりここらへんはビジネスになるんだなぁと思う。

歩いて国際線ターミナルまで戻る。ビーチというか漁港では、おばさんが道端で魚を売っていたけど、イワシっぽい姿だった。国際線ターミナルにつき、コーヒーを飲んで一服。展望デッキに行こうとしたけど、チケット持ってないと入れないらしく、オートリキシャに乗り、ティルヴァナンタプラム駅まで戻る。そして、運送状の控えのみが武器になるだろうと思い、とりあえず運送状をコピーしてホテルまで歩いて戻る。

部屋に戻り、再度パッキングをする。よし、これでバックパッキングでも使っているサンタフェというジャックウルフスキンの60Lザックとパタゴニアのストームフロントという20Lくらいのザック2つにできた。これで超過料金取られるということはないだろう。

身軽な気分で下のレストランに行き昼飯を食い、郵便局へ向かう。途中、昼飯のチキンヌードルが足りなかったので、チャイ屋で甘いパンとチャイを食す。ちなみにここのチャイ屋のおじさんの名前はシバンさん。ポストカードは7枚で56Rsなり。これで大体の仕事終わった!あとはカニャクマリ分の掲示板更新をするだけだ〜と思い、ネットカフェに行く。

1軒目はCD、FDなく退散。2軒目は準備中。3軒目に行ったネットカフェがCDドライブ可でカニャクマリ4日分更新したところで停電。どうやらこの南インドでは、きりのいい時間、7:30〜8:00とかの間で、計画的に停電させているんだと思う。ワードに入れて保管し、ホテルへ戻り、最強のコンチネンタルリゾットを食す。停電も終わっただろうと思われる頃に再度ネットカフェに行き(そこそこいいホテルだと、自分のところで発電機を持っている)、このティルヴァナンタプラム滞在中の更新を試みたが、2日分終わったところで、誤って1日分を消してしまった!「うぁ〜、なんだよ〜」と嘆き続けるが、ホットメールに書いていたので(ワードに書いていれば・・)どうしようもない。22時半の閉店時間になったので、諦めてミリンダ買って帰る。

寝るまで「うぁ〜、なんだよ〜、ちくしょ〜」と嘆き続ける夜。

<27.Mar.2004 Day-161>

From Thiruvananthapuram to Covalam

朝ルームサービスでコンチネンタルブレックファーストを食す。電話でルームサービスにはつながらなかったので、レセプションから繋いでもらった。新聞を読みながら優雅な朝食を取るが、昨晩ネットカフェで、せっかく書いた1日分を消してしまったことが、頭から離れず。10時半頃ホテルを出る。が、よく分からん料金の計算で、300Rsを追加で取られてしまった!納得いかないので当然「納得いきません!」と言い張るが、「おら、早く金払え。早くここにサインせいっ!」とフロントのねぇさんも譲らない。このホテルのフロントにおいてある料金表だと450Rsだけど、ディスカウントしてくれるということで、1週間前は430Rsで泊まったのに、今回は部屋も狭くなったのに550Rsになったわけだ。「今からどこへ行くのですか?コヴァーラムならまたここに戻ってくるのですか?」とフロントのねぇさんの隣にいたおばちゃんにいわれたが、「戻ってきたとしても、ここには泊まらないよ。とにかく料金は結局1泊550Rsなのね?」と言い、結局レシートももらえず、金を払って出た。南インドではフロントをおねぇさんがやっているところが多く、彼女らは英語も達者だったが、どこかで僕が不満に感じるという点で、トラブルが多かった。

気を取り直し、オートリキシャに乗り、30分くらいだろうか、15km先にある、コヴァーラムビーチへ行く。荷物も全部送ったし、掲示板の更新除いてほとんどやることやったので、たったの3泊だけど、やっとこさ羽伸ばし出来るのだ。ちなみにこのコヴァーラムビーチは、ガイドブックに「南インドで1番」と書かれているビーチであり、ガイドブックの他のページに「ここが1番」と書かれている所はなかったから、やっぱり1番いい所なんだろうと、結構期待して楽しみにしてたのだ。僕は最南端まで到着したら、このインドで1番の海をもつこのコヴァーラムビーチへ行くか、飛行機に1時間乗って、世界で1番の海を持つ、モルジブのビーチどちらかに行こうと前から考えていた。

地球の歩き方やロンリープラネットに、ここコヴァーラムの宿紹介は乗っていたが、別にめぼしいところはなかったため、コルヴァビーチへ到着してオートリキシャを降りると、客引きに連いて行くことにした。スマンガリホテルはビーチから歩いて5秒のビーチみたいな所にあった。ホテルとコテージに別れていたが、気分よさそうな200Rsのコテージにすることにした。部屋も清潔だし、目の前がビーチみたいな感じで、バルコニーも付いているし、何も問題無し。日本人も数組泊まっているらしく、外をぷらつこうかと部屋を出たら、3部屋あるコテージに、1組のカップルが住んでおり(バルコニーにある椅子と机の上に、何冊かの本と何本ものミネラルウォーターが積み重なって置いてあったので、かなり生活感が出ており、「泊まっている」というよりも「住んでいる」という表現に近い。)、ちらりとお話する。この彼&彼女は千葉出身の大学生で2ヶ月くらいインドをぶらぶらしているらしい。大学が始まる前に日本へ帰る予定だった、が、ここコヴァーラムを出る予定が不明になり、まぁ適当な時期に日本へ帰るといっていた。ここでは「南インドのカレーはそんなに期待したほど美味くない」というところで合意。

ぷらぷらビーチを歩く。なんというんだろう、しっかりとした、整然としたビーチである。半径1kmくらいあるビーチはしっかりと「湾」というか「凹」の字になっており、「凹」の左先端には灯台があり、「凹」の右先端は見晴らしよさそうな岩山になっている。このちょうど弓なりのビーチに、真っ正面から海と真っ白い砂浜が見えるようにずらりとレストランやホテル、お土産屋さんが50軒くらい並んでいる。ヤシの木が潮風に揺らいでいる。

ビーチの先端まで歩いた所で、日本人旅行者に会い、一緒に食事をする。彼はミールス、僕はスパゲティを食べた。話が尽きないので、彼がお気に入って毎日通っている「フュージョン」というカフェに行く。ちょっとかっこよさげな、この長身で短髪の「タケ」は僕と同じ27歳なのでちょっと紹介する。彼は北海道の釧路出身、大学は札幌だったらしく、この時は「大谷地」という、僕が札幌に3年間住んでいた場所の近くにいたらしい。時系列不明だが、彼は大学を出た後、ハワイに2ヶ月滞在してライフセィバァの免許を取り(何気にこういうタイプの人間は北海道に多いと思う)、オーストラリアで1年ライフセィバァやりながらワーホリしていたらしい。彼は今回なんでインドに来たか。彼はもともとギタリストだったのだが、転向してプロの三味線弾きになり(シャミセニストとでもいうんだろうか)、大会なんかにも出ていたらしい。ただ、三味線で飯を食っていたものの、津軽三味線はトランス効果があるらしく、「はまって」しまい、ノイローゼにかかったかのごとく三味線を弾き続けたら、残念ながら腱鞘炎になってしまい、あらゆる治療を試したものの効果なく、そのリハビリティションのために今回旅へと繰り出したのだ。彼は単身神戸から船に乗り、中国からチベット、ネパール、インドと旅しており、ちょうど僕と同じ5ヶ月目くらい。中国では少林寺に入り、「クンフー」の病気直す系修行を1ヶ月受けたが効果なし。ただ、インドのダージリンにて、「ヨガ」の病気直す系修行を5日受けたら、これまでのあらゆる西洋治療で直らなかった腱鞘炎がふと直ったらしく、その後自分でもその「ヨガ」をできるようマスターしてきたらしい。僕はこういう精神世界を否定しない。

彼はぼちぼち保険が切れるので、一度日本に帰ってからまた戻ってくるといっていた。財布を取られたり(現金は保険効かないので、5,000円の財布を、ハワイで買った牛皮の30,000円の財布にして請求したらしい)、持ってきた三味線がホテルで浸水に会いダメになったり(よく警官に事故報告書を書いてもらえたなぁと思う。日本のギターとでも説明したんだろうか)と保険をフルに使っているらしく、半年以上の保険がなかなか降りないらしい。僕がいうのは何だけど、彼は27歳にしてはりっぱな考えを持っているなぁと思ったけど、今まで社会人として働いたことがない事に引っかかってしまっていることが残念だった。ちなみにこのカフェでは本当のコーヒーを使ったモカが飲めたし、ティフィズという、アイスティにジンジャエール入れて、ハチミツとレモンでシェイクした粋な飲みもんを飲んだ。僕はこのカフェというかレストランをインドで一番こじゃれていると思った。

ホテルへ戻り、本を読む。このコルヴァの目標は本を2冊読むことである。1時間ほど昼寝をして夜飯に繰り出す。夜飯はレストランの前に並べてあったでっかい魚(キングフィッシャー)を輪切りにして、タンドゥーリ(釜)で焼いたのを食す。キングフィッシャーはマグロ、つまりツナの味だった。ちょっと魚臭かったので、塩と胡椒をガリガリかけたら、むちゃくちゃ美味かった。

そして、ネットカフェに行き、ティルヴァナンタプラム2日分を書き、またホテルへと戻る。

部屋でゆっくりと本を読み、1冊本を平らげた。今回日本から何冊か持ってきた本の中で、もっとも大正解だったなぁと思う、サルトル本である。サルトルの本ではなく、サルトルのこと(生涯・著書の内容・考え方)を漫画入りで紹介している本なのだが、僕は今回、旅を確実に掴みながら突き進んでいくことができたのは、この本がきっかけであると考えている。この書き込みを最初から読んでもらっている方ならわかるだろうか?僕が旅に出て3週間めくらい、ちょうどパキスタンのイスラマバードに入る手前くらいで、この本を読みはじめており、このころから僕の考え方、この冒険の取り組み方に、ある種の統一性が出てきており、この文章を読みやすくなってきているのが解るのではないだろうか?

これは、「現象学」というサルトルが用いた物の考え方をうまく自分に取り入れ、またサルトルの著書数作や、新潮文庫から出ている大江健三郎の本は全て読んだ僕の頭の中の思考回路(そしてそれは僕自身の考え方、つまりライフスタイルにもなっているといえる)を整理させることができたから(と信じているから)である。すなわち、旅人が「その」旅に関して書を書けば、誰でも小説家・エッセイストになれるというわけではない。何故なら、どうしても見たい知りたいだけの統一性のない「バラバラ」な書になってしまうからだ。

せっかくなので、一言。サルトルはこういっています。「私たちは自由の刑に処せられている」

<28.Mar.2004 Day-162>

Stay Covalam

天井の扇風機をハエが止まるくらいにその回転を遅く出来たためか、ゆっくり寝れた気がする。近くのレストランでバナナポリッジとコーヒーを食す。ただ、観光地とあって高い。

ホテルの部屋に戻り、洗濯をし、ネットカフェに行く。昨晩書いた掲示板をアップロードし、一区切りということで、1月からのこの掲示板の内容をワードにコピペしつつ、またホットメールにコピペして、自分のメールに送る。

昼飯にする。今日は、今回まだ全く読んでいない、ヘンリーミラーをゆっくり読みたいのだ。昨日行った「フュージョン」に行くと、短髪のタケがいた。ピザマルゲリータを食し、打ち寄せる波を見ながらタケとお話する。ライフセイバァ&サーファーやってただけあって、タケは波に詳しく、話しながら「お、これはいい波だ」と時折溜め息を漏らす。ちなみに、もう1ヶ月前だったら、ここの海は真っ青でもっと綺麗だったらしい。だいぶモンスーンで風が強くなり、海は汚れてしまい、波は1メーターくらいだろうか、結構高い。ビーチでは平和的に草クリケットをやっているインド人の若者がいる。そして、ゴアのコルヴァビーチと比べ、若い欧米人が多く、ビキニ姿で波と戯れたり、ボディヴォードやったり、日光浴をしたり、フリスビーやったりと、至って鮮やかで健康的な風景がそこにある。

短髪のタケと僕を結びつかせるものは、同じ27歳ということと、共に一時期長渕剛教に入っていたということだろう。彼はホテルへ戻り、僕はそのままカフェでヘンリーミラーを読んだ。

いったんホテルへ戻り、カメラを取って、砂浜へ戻る。そう、アラビア海へ沈んでいく夕陽を写真に収めるのだ。今回アナログフィルムを9本日本から持ってきたが、なんとか全て撮りきりそうだ。

ちらりとホテルへ戻りゆっくり本を読んだ後、夕飯食うためにビーチの歩道を歩いていると、日本人に巻き込まれ、一緒に飯を食う。ここでは、海、砂浜、歩道、レストランが「湾」というか「凹」に沿って4層になしており、レストランは全て海向きのテーブルと椅子になっているから、湾に沿って歩道を歩くと、絶えずレストランにいる日本人に挨拶をしなくてはいけないのだ。

3人で飯を食ったのだが、1人は、カニャクマリのネットカフェで会った青年である。その時はあんまり会話が弾まなかったが、そういえば次はコヴァーラムに行くといっていた。ロンゲの彼の名も「タケ」といい、そしてまた僕と同じく27歳だ。兵庫出身の彼は、これまた時系列不明だが、東南アジアやヨーロッパ等、あっちゃこっちゃ世界を旅しているらしい。オーストラリアやニュージーランドでワーホリやった後に、東南アジアや南アジアを旅行して日本へ帰るのはよくあるパターンだが、彼はタイに2ヶ月、インドを数ヶ月旅行してからオーストラリアでワーホリに入るらしい。そう、ワーホリのビザ取ってから、1年のうちにオーストラリアに入ればいいらしいのだ。

彼もゴアにいったらしく、アンジュナビーチにいたらしい。アンジュナビーチには日本からの代表選手としてコギャル軍団や、欧米から蒼々たるメムバァが集まっていたらしい。トップレスのおねぇちゃんはともかく、ボトムレス(?)のにぃさんまでいたらしい。皆揃って昼間っからビールを飲み、夜な夜なパーティが開かれ、葉っぱだけではなく、ケミカル系のドラッグが蔓延しているというこの世の楽園みたいなところだったらしい。ガイドブックには「そういう世界は無くなりました」と書いてあったけど、それに騙されずに行ってみればよかったなぁと今更ながら思ったりした。まぁ、僕の場合はゴアで静養が目標だったので、目標自体は達成できているのだが・・。

もう1人は50歳近くになる、トヨさんというおじさん。トヨさんは体の調子が悪いらしく、夏は半年日本の別荘におり、冬になると半年インドにいるという生活を13年連続で続けているらしい。目当てはサイババ。サイババさんも忙しいのかなかなか人々の前に現れないらしく、1年のうち会えるチャンスは3ヶ月だけらしい。なので、3ヶ月はサイババのおっかけをやった後、3ヶ月はこのコヴァーラムビーチで滞在している。今年は1月からずっとここにいるので、このレストランを通り過ぎる日本人を見ると、「あれは自称小説家だよ」とか「あの若者は2週間前に来て、あそこのホテルにいる」とか、全部「知っている」。

夜飯はトヨさんがこのレストランの調理場まで入って教え込んだという天ぷらを食す。残念ながら、期待していた天ぷらそばは、天ぷらヌードルスープではなく、天ぷらヌードルになってしまったが(日本で「天ぷらそば」ってゆうと、必ず汁物を想像し、絶対やきそばの上に天ぷらが乗っかったものは出てこないというイメージに洗脳されているわけだ!「そば」は「そば」なのに!)、地元で取れたイカとエビと白身の魚の天ぷらは魚臭くなく、むちゃくちゃ美味かった。

トヨさんは日本ではボランティアに近い、金にならない仕事をして、どうにかどうにか暮らしているらしい。「生きていくってことは、この目の前に見える波とおんなじようなもんですよ。生きている以上、繰り返し繰り返し波を乗り越えなくちゃいけない。それをどう乗り越えていくかってことなんですなぁ。そんでまたそれらの波を超えていくことはできるけど、波のほとんどない沖に出るってことがこれまた難しいわけですよ。これはもう悟りとかの世界になってくる。シャンティ(平安)の世界よ。」と、トヨさんの語る言葉は何か深いものに根づいている。

途中から短髪のタケとも遭遇し、4人で話をした後それぞれ別れ、僕はネットカフェに向かった。いつも掲示板の更新が終わってからメールの返信をしているが、一斉送信「到着しましたよ」メールを送ったので当たり前かもしれないが、気がつくと「到着おめでとう」メールは13通になっていた。そしてこれを全て返信するのに2時間かかった。

<29.Mar.2004 Day-163>

Stay Covalam

昨晩は本を読みつつ、いろいろ考え事して2時に寝た。そしてどんどん起きるのが遅くなってくる。近くのレストランでフレンチブレックファストを食したが、クロワッサン2つとポットに入ったティで95Rsと高い。

午前中はホテルのバルコニーにて、部屋から枕を持ち出してきて、ゆっくりと横になって本を読む。ところでなかなかこのヘンリーミラーは勢いがないと、勢いのある部分が読めない。そして、僕の隣の部屋に、日本人の女の子が入ってきた。つまり、3部屋あるコテージ全て日本人で占領したわけだ。昨日トヨさんがいっていたが、ちょうど僕が来た日くらいから、ぞくぞくと日本人が増え、この小さなビーチに30人くらい日本人ツーリストがいるらしい。まあこれでも全観光客の10%も満たないだろう。

昨晩天ぷらヌードルを食ったレストランへ行き、チキンビルヤーニを食す。ポケっとしていると、カニャクマリで会い、昨日の夜一緒に飯を食った、ロンゲのタケに会った。彼はちょうど歩道を歩き、灯台の近くにあるモスクへ行こうとしていた途中だった。ロンゲのタケと話し込む。途中、僕は泳げないので、小一時間ほど、彼が海に出て波と戯れいている風景を見ていた。ここでは日本人の女の子も水着になって泳いでいたが、「キャー」というシャウトが、どうもこのビーチに合わない。むしろ、その隣で、水着というか尻の上にタトゥーのある韓国人の女の子2人組が、静かにビーチチェアでコウラボシをして、その背中とタトゥーを焼いている風景の方がこのビーチに合う。このビーチには数匹犬がおったが、町中で見る犬と比べ、毛並みが良く、そして何より幸せそうだ。時折海入ってひんやりとした波を浴びた後、ブルブルッとその白い毛並みから海水を弾き飛ばしたら、また砂浜でひなたぼっこしておる。

海からあがってきたロンゲのタケと、昼間っからビールを飲む。なんて最高な生活なんでしょう。ロンゲのタケは、タイを2ヶ月回ったとき、タイマッサージを覚えたらしく、腰の悪いトヨさんに、是非ともマッサージしたいという熱情に駆られており、また、同じホテルにいるトヨさんを今日は朝から見ていない、彼はどうしたんだろう、どこかでぶっ倒れて動けなくなっているんではないか、とえらく心配していた。オープンレストランなので風が涼しいせいか、心地よい酔いを続けることができる。夕方タケと別れ、ちらりとホテルへ戻り、昼寝する。

本を読んだ後、夕食を食べにまたレストランへ行ってみると、ロンゲのタケともう一人の青年がビールを飲んでいた。この35歳の青年も会社辞めた後オーストラリアにワーホリ行って2ヶ月車でオーストラリアを回った後、中国からトルコまでユーラシアを見てまわったり、東南アジアや南アジアをちょくちょく回っているらしい。まさにアジアを一通りみて回った人間が集まるごみ箱のようなビーチである。そして、このごみ箱に集まったツーリスト達は、ラオスのビール「ビアラオ」は最高であるという一致した意見を持つ。そしてごみ箱に入ってしまったツーリストはなかなかここから出ることが出来ず、僕のように3泊で脱出できる人間はマレで、だいたいこのビーチからの脱出に、2〜3週間かかっているようだ。

夕食は天ぷらヌードルスープ。ベジタブルヌードルスープにイカとエビと白身の魚の天ぷらが乗っかっているだけなのだが、新鮮なだけに魚がうまいのか、またこの天ぷらからかってにダシが出ているのか、むっちゃくちゃ美味かった。

途中35歳の青年はホテルへ戻ってしまったが、僕とロンゲのタケと夜12時近くまでビール飲みながら話す。波を見ているだけで、波の音を聞いているだけで、酒の肴にすることができる。イカ釣り漁船が30台くらい沖に出ており、水平線にその灯りがちらばっているが、このビーチの地形が「凹」になっているので、ちょうど橋を架けたよう見え、天然のレインボーブリッジのように見える。飲んでいると30分間くらい停電し、あたりは真っ暗になってしまうが、それは、グラスに入ったロウソクの灯かりでビールを飲むことが出来ることを意味している。なんて最高なんだろう。ロンゲのタケと話しながら、この時代において、27歳という歳がどういう歳なのか、どういう歳であるべきかに関して、なんとなく解った気がする。僕は彼を立派だと思う。

昼から何本ビールを開けたんだろう。夜半、酔っ払った27歳の二人は「ほんと一緒に飲めてよかったっすよ」「いや僕もっすよ」と言い合い、なんのこっちゃわからんが、硬い握手を交わし、それぞれのホテルへ戻る。

・・結局あんまり考え事も出来ず、また本もあんまり読むことができなかったが、僕と同じ2人の27歳に出会い、最高のビーチを堪能できたのは扱く最高だった。何故なら日本に戻ったら、ここまで「近い」ものを持った人なんて、そう簡単には見つけられないから。そして、1ヶ月いても、ここで飽きることはなかっただろうと思った。

 

<30.Mar.2004 Day-164>

From Covalam to Delhi.1

朝、8時半に携帯の目覚しが鳴る。ここコヴァーラムに来てから、遅寝遅起きが続いていたので久しぶりに目覚しを使ったのだ。ココナッツグルーブというレストランで、バナナポリッジとコーヒーを食す。50Rsと周りに比べ値段もまぁまぁだった。レストランの池垣にでっかい伊勢エビというかでっかいコルヴァエビが泳いでいたので、つんつんしたりしていると「調子はどうだい?」と声がかかる。トヨさんである。「昨日はちゃんと天ぷらそば食えたんで調子いいですよ!」と返す。昨日ロンゲのタケが心配してたけど、まったく元気そうだ。

今日3月30日、ティルヴァナンタプラム発14時の電車に乗って、デリーに着くのは4月1日。帰国は4月4日だから、デリーであんまり時間がない。なので、昨晩コヴァーラム分の掲示板の更新をしようと思っていたのだが、いい感じに酔っ払って寝てしまったので、朝早く起きて(早くもないけど)掲示板の更新しようと思ったわけだ。そして身支度終えて部屋を出ようとしたら「ぶちっ」と電気が消えた。ンゲ。念のためネットカフェにいってみると、案の定停電しており、店員は力ない声で「ノーパワー」といった。

これじゃしょうがない。「フュージョン」に行き、コヴァーラム出発までの1時間弱を、ティフィズ飲みながら本も読まずにゆっくり過ごすことにした。ただなんで欧米人(というかアメリカ人だろうか)は朝からをあんなに飯を食えるんだろう。

11時頃、後ろ髪を引かれながらコヴァーラムを出ることにした。ここはほんといいところだった。オートリキシャに乗りティルヴァナンタプラム中央駅に向かう。(125Rs)

12時前に駅へ到着したが、よく考えてみると、電車もまだ来てないし、することがない。ホームではタバコ吸えないし、えらく暇だったので、体重計りマシーンに乗ってみた。計ってみると体重は56kgだった。確か会社で健康診断やったときも、ポッケに財布を入れたままだった気がするので、旅に出てから4〜5kgくらい増えたということだろう。意識的に、チャリンコ終わってから食べる量を減らしているのだが。ついでだったので、ザックも体重計に乗っけて計ってみると、21kgだった。20kg以下ではないけど、JALマイレージクラブクリスタル会員分がプラス20kgOKなので、これなら問題ないだろう。

とりあえず、駅前にあるインディアンコーヒーハウスで昼飯食いに行くことにした。南インドに入ってから何回か朝食でお世話になったこのインディアンコーヒーハウスというチェーン店だが、ここのインディアンコーヒーハウスのみ、日本のガイドブックに紹介が載っている。というのも、外見が巻き貝のようになっているのだが、中に入ると、ただ円形の螺旋(らせん)階段なのである。解ります?ひたすらぐるぐる螺旋階段になっていて、階段がテーブルになっているのである。チキンビルヤーニを食べてる時、欧米人ツーリストが、珍しがって店内の写真を撮っていた。つまり、僕は現地人の視点で、欧米人を見ているということなのだろう。

駅に戻ると、コヴァーラムで何回か会って話した日本人男女を発見する。昨日昼間っから飲んでいたせいか、僕をみた瞬間に「今日も飲んでるの?」といわれる。彼には僕がチャリダーであることを言ってなかったので、完全に単なるノンベツーリストだと思われている。彼らは今日チェンナイ(マドラス)に行く予定だが、全く寝台の席が取れないらしく、90度の硬い椅子に、インド人とぎゅうぎゅうになって乗る「セカンドクラス」で夜を過ごさなくちゃあかんかも・・と、嘆いていた。

長旅なので、水と雑誌を購入する。僕をデリーまで運ぶ「ニザムウッディンエクスプレス」は1時間前に2番線ホームにやってきた。中に入ってみると、別に個室にはなっておらず、ただの寝台車にエアコンが入っているだけだった。ついでにエアコンのないスリーパークラスを見てみたが、別にエアコンクラスの方が広いという訳でもなさそうだ。エアコンクラスは全て個室だと思っていたのだが、本当の1等しか個室ではないらしい、な〜んだ。これでチャリンコとバカみたいな荷物を送ってなかったらどうしてたんだろう。

電車は定刻に出発。電車の旅は電車の旅で楽しいもんだ。が、2時間であっというまに駅のホームで買った2冊の雑誌を読み終えてしまう。(英語なので読み終えるというよりも、見終えるという方が正しいが・・)ヘンリーミラーはまだ150ページしか読んでいなかったので、あと250ページ分あったが、なんだかもう飽きてしまった。こりゃ困った、14時に出発して、明後日の21時に着くのにまだ16時ということは、まだあと53時間もあるってことだ!うぁ〜どうしよう。

暇だったので、デッキに出てみる。こちらでは2等車両のデッキというか、電車のトビラがブラブラとオープンになっているので、デッキに座り込み風を浴びながら外を眺めた。どういう教育を受けているのかわからんが、子供たちは電車が来ると、必ず電車に手を振っている。草クリケットしている少年らも、クリケットを中断して、手を振っている。夕方到着するコーチンまでは、ほぼ僕が走ったルートを通るので、いろんなことを思い出しながら、外の風景を眺める。

夜になると風景が見れなくなるのでつまらない。しかも電車は僕が自転車で走った西海岸のコーチンを離れてしまうのでなおつまらない。その後、インドの内陸部を突っ切り、東海岸のチェンナイ(マドラス)の方まで行って、そこからまた内陸部に戻り、あとはひたすら北上してデリーを目指すという3,000kmの行程である。ちなみにラージダーニエクスプレスを希望したのは、デリーまでの到着時間が早いというのもあったが、この電車の場合、僕が走ったルートをほぼそのまま走るということがあった。

向かい合わせで3人3人が座るボックス席に、僕を入れていつのまにか5人のメムバァが集まっていた。皆さんだいぶお歳を召した方々である。夜は駅弁というか、車内販売のチキンビルヤーニを食ったが、これは大衆向けなのかむちゃくちゃ辛かった。向かい合わせになっている席は、それぞれ上下に寝台というかシートがあり、昼間は下の寝台というかシートに3人座れるようになっている。21時に、背もたれになっていた中寝台のシートというかベッドを、上寝台にヒモでぶらさげ、消灯時間となった。ただ、コヴァーラムでずっと遅寝遅起きしていたので、寝れるハズがない。困るのはA/C車両だとタバコが吸えないことである。電車がホームに着いたとき、ホームに降りてタバコを吸っていると、車掌さんに怒られるので、電車が走っているときに、2等列車のドアが空いているデッキに行って、タバコを吸うしかない。が、21時半に2等とエアコン車両の列車のつなぎ目部分をシャッターで客室係の兄さんが締めてしまった。う〜ん、これじゃタバコ吸えに行けないじゃないか〜。が、昼間デッキで民衆に手を振られつつも手を振り返していた時に、この客室係の兄さんとお話していたので、この客室係の兄さんに、エアコン車両のデッキのトビラの開け方を教えてもらい、一緒にタバコを吸った。2等車両とエアコン車両を繋げたままじゃ夜は危ないから、と客室係の兄さんはいっていた。

気がつくといつのまにか寝てた。

<31.Mar.2004 Day-165>

To Delhi.2

7時半に目を覚まし、車内販売のオムレツブレッドを食す。7年前電車に乗ったときはエアコンのない寝台車だったからかもしれないが、車内販売の飯はたいしたことなかったと思う。(「電車」という単語を用いているが、たぶんディーゼルなので、正しくは「列車」だ)飯はちゃんと銀紙のアルミホイルにつつまれてくるし、前に電車に乗ったときは飯を手で食った気がするけど、昨日ビルヤーニ食べた時には、ちゃんとのプラスティックのスプーンがついていた。そして、飯を食い終わるとすぐに、次の飯のためのオーダーを取りに来る、う〜ん、素晴らしい。

ただ、な〜んもすることナス。昼まで空いてる席で横になって寝る。

昼は卵カレーを食す。これはなかなかタマネギが甘くて美味かった。昼飯を食い終わると、お掃除乞食が四つんばいになって人々の足元に入り込み、床の雑きんがけを始めた。インドの人たちは、よくぼろぼろ飯をこぼすから、これは素晴らしいことである。僕は他の乗客と同じように、この乞食の少年に1ルピー渡した。ら、この四つんばいになって床を雑きんがけする少年を、客室係が思いっきりひっぱたいた。たぶん、勝手に乞食がエアコン車両に入ってきてはいけないというルールがあるのだろう。電車のドアには「無賃乗車は罰金1,000Rsです」等と書かれた注意書きがあり、そのなかに「Please discourage beggars」と書かれていた。

なんもすることナス。タバコを吸いにデッキへ行くと、足のない乞食が大の字になって寝てたり、また乞食少年軍団が残飯漁ったのをビニール袋にまとめ、それを美味そうに食っておった。車内で歩き売っているコーヒーを飲むか、それともチャイを飲むか、それともタバコ吸うかくらいしか選択の余地ナス。

だいぶヤシの木が減ってきて、普通の木が増えた。(チープな言い方だなぁ)インドのど真ん中、デカン高原を走っているらしい。僕の座っているボックスのメムバァ5人は、すでに戦意喪失しており、うまく空いてる席見つけて、死んだようにシーツにくるまって寝るか、もしくは携帯をいじくるかしかない。特に携帯には負荷がかかっており、僕は、1日中おじさんにいじくられている携帯がかわいそうに思えたほどだ。

夜はまたチキンビルヤーニを食す。今日は昨日に比べ辛くなかったということくらいしか、目新しいことナス。

<1.Apr.2004 Day-166>

To Delhi.3

昨日はあんだけ昼間寝たのに良く寝れたもんだ。朝オムレツブレッド食ったらまた寝すしかナス。電車はボーパール、ジャンシーと、だいぶ北インド世界に入ってきた。ちなみに、2ヶ月くらい前にアーメダバードで、暇つぶしかねて「トレインアトラス」という雑誌を買ったのだが、これは持っててよかった。「この電車が停車する20くらいの各駅にそれぞれ何時に着くかと」いうのが書かれていたので、だいたい今電車がどのあたりを走っているかがわかったからである。これがなかったら全く時間と空間の概念を失い、発狂していたに違いない。

あ、思い出したので書いておく。この「トレインアトラス」を買ったのは、自転車で、アジャンタ・エローラというインドで一番最初に世界遺産に指定された遺跡群に寄ってから、最南端まで目指すという予定を変更し、遺跡には寄らず後で電車で見てまわろうと思って買ったのだった。が、結局ゴールしたもののアジャンタ・エローラに行く時間も無くなったし、たいして行きたいとも思わなかったので、別になんとも思っていないのだが、コヴァーラムで会った話した、あまり時間と空間を意識せず、1年とか2年とか自由に旅している旅行者10数人から、アジャンタ・エローラに行ったという話はひとつも聞かなかった。そして、1年とか2年とか旅行している旅行者ははっきりと「大学生バックパッカー」を意識していたし(自分たちとは別物と考えていたし)、ロンプラは持っていても、地球の歩き方という日本のガイドブックを持っていた奴は皆無だった。やっぱりアジャンタ・エローラというのは、デリー・アーグラ・バラナシを見てまわる、大学生バックパッキングの延長だろうと思った。

昼はベジタブルカレーを食した。というか、ダールとダールフライという、北インドの料理に変わった。ただしこれはあんまり美味くナス。

20車両くらいあるこの急行列車のうち、エアコンがついている車両は3台だったが、そのうち外国人ツーリストはエアコン車両に僕含めて3組だった。1組はまじめそうな感じの欧米人カップルで、もう1組の欧米人カップルは、腕にタトゥが入っているこわ持ての感じだったが、このタトゥ兄さんはいつもファンタオレンジを手に持っていた。飲み終えるとすぐに列車のどこかで購入しているようで、ファンタオレンジを持っていないことはなかった。

なんも本を読む気もなく、何も考える気にもならず、2日間が過ぎたが、最後の8時間くらいでやっと考え事をする気になった。僕は今回、基本的な命題、特に生きること、生活することに関して、だいたいのカードが作れたと思っている。(今、捉えている)つまり、自分なりの考えをまとめることが出来たが、ここまでなおざりになっていた、彼女とかのことを考え、自分なりの考えをまとめてみた。これは帰ってみてからじゃないとわからんが、一番僕の苦手な、不得意な所であることは間違いない。

17時に電車はアーグラに到着。あと300kmくらいだろうか。もういい加減飽きてきた。「長いよ〜、飽きたよ〜、することないよ〜。」と呟くほか、また何もすることがなくなった。夜飯はもうチキンが無くなったらしく、エッグビルヤーニを食す。僕は北海道にて月に何回か夜行列車に乗る生活をしていたし、夜行列車に乗って朝着いてすぐゴルフコンペに参加したりしてたので、結構夜行列車には慣れているはずだが、さすがに55時間ずっと電車に乗っているというのは辛い。真面目そうな欧米人ツーリストも、そのぶ厚い本を1冊読み終わりそうになっているではないか。そしてタトゥある欧米人は、おそらく500mlのファンタオレンジを合計20本近く飲んだに違いない。

やっとデリーの灯かりが見えてきた。ほぼ定刻どおり、21時半にデリーにある、H.ニザムッディン駅に到着。同じボックスに座っていた5人のメムバァ、つまりおじさんおばさん達が「やっと・・戦争が・・終わったよ・・」という、偶発的な連帯意識の中に見出した奇妙な達成感を共感するがごとく、明るい未来を感じさせる微妙な笑顔で、言葉なくお互いを見合う。55時間だもんなぁ。

やっしゃ!デリーだ。デリーに戻ってきた。てきとうにオートリキシャに乗って旅行者の集まるメインバザールがあるパハールガンジ地区に向かう。吹っ飛ばして20分くらい走ったと思うが、「ここらへんインド門でしょ」「そこ曲がるとコンノートでしょ」と、大体の地理が分かっているデリーである。僕はその生涯を過ごした場所をそれぞれの期間で並べるとたぶん、千葉、北海道、東京、デリーになる。すなわち、第四の故郷である。ニューデリー駅前でリキシャを降り、歩いてホテルまで向かう。もちろんホテルは決まっており、今回でおそらく通算25泊目くらいになるアヌープホテルへ直行する。22時でなんとか部屋は残っていたものの、1泊250Rsである。昨年の10月は200Rsで、今年の1月は220Rs、そして今回250Rsと、えらく物価が上昇しておる。

はぁ、やっと着いた〜。8年前、僕が最初にインドに来たとき、このデリーのメインバザールに着いたときは、あまりにインドでびっくりしてしまい、怖さのあまり夜中なのにサングラスして歩いた街なのに、もう僕の中でほぼ故郷化されてしまった。つまり、もう旅が終わった〜という、実家に着いたような錯覚を覚えてしまうのだ。

屋上のレストランへ行き、コーヒーを飲みながらゆっくり到着の実感を味わう。(だから実家じゃないってば!)明日1日で掲示板の更新を終了させ、明後日1日で最後の買い物して、明々後日は帰国するだけだ。

ちらりとネットをチェックすると(アヌープでは1時間60Rsと高かったからか、40Rsに値下げしていた、これでも相場考えると高いけど)父上殿からメールが届いていた。成田から自転車が到着したという連絡が来たとの事。なるほど自転車はコヴァーラムでゆっくりすることなく、コロンボ経由でお先に日本へ着いたわけだ。

体は疲れており眠かったが、なんだかずーっと体がガタゴト揺れており、3時くらいまで寝れず。

<2.Apr.2004 Dau-167>

Stay Delhi

昨晩はなかなか寝付けず、8時半に起床。ホテルのルーフトップレストランでフレンチブレックファストを食す。コヴァーラムでは全てのレストランが、むちゃくちゃ観光地価格で商売していたので、40Rsでも安く感じる。

部屋に戻ってゆっくりした後に最後の洗濯をし、1時間ほどヘッドホンで音楽を聴く。この冒険中に、スピーカーではなく、ヘッドホンで音楽を聴くなんて始めてかもしれない。最南端カニャクマリまでの最後の一本に聞いた「ロックアルバム」を、実家でくつろいでいるような感覚で聞く。

外に出てプラリとメインバザールを歩く。昨年の10月、今年の1月と間隔を空けて何回もここデリーを訪れているせいか、いろんなものが見える、よく見える。トレペを買ったり、ダーラーメンディというこれまた僕のお気に入りのパンジャビー系ミュージシャンプロデュースのCDを買ったり、お土産用にインドで一番お気に入りだった「フレーク」というタバコを10箱購入。そんなに腹が減ってなかったので、屋台でバターチャパティ&ダールを食した後、ネットカフェに向かう。今日中にコヴァーラム3日間分と電車での移動3日間分を更新しなくてはならない。

ネットカフェに向かって通りを歩いていると、旅行代理店の兄さんに捕まるやいなや「Where is your cycle?」と聞かれる。う〜ん、3ヶ月前に会って「なんで日本人なのにきったねぇかっこしてんのよ、床屋行けよ床屋!」「うるさいなぁ。」と会話したことを僕は覚えているけど、この兄さん達もよく僕のことを覚えているもんである。

「チカコ知ってるっけ?」と言われる。あぁ、あのデリーに住んでヒンドゥー語学校に行ってる子のことだ。聞くと彼女は病気になってしまい、日本へ戻ってしまったらしい。店の中に入り、この旅行代理店のオーナーから詳しく話を聞く。僕は医学用語に関する英単語力は皆無だが、どうやら彼女は、内臓の中にある左右二つの臓器から、何かが出過ぎかもしくはまったく出てこないため(さっぱりわかってない)デリーのアポロ病院という夢見がちな名前の病院に1週間入院した後、このオーナーの提案で日本に帰国して今療養中らしい。

彼女はこのオーナーに英語で手紙を書き、3月末の日付で送ったが、ブロック体で書けばいいものを、筆記体で書いて送ったため(日本人が書く筆記体とインド人が書く筆記体は似て非なるものである)僕は手紙の翻訳を頼まれた。最初は「日本ですることないので、ずっとインドでの良き日を思い出してます」というくらいのもんだったが、後半は「朝起きた時、隣にあなたがいる幸せ・・」という、読んでて恥ずかしくなってしまうような内容が書かれていたので、途中で断念。

この旅行代理店で働いている、オーナーとは別の、背の高い兄さんはジャパニーズテクノロジーバカなので、僕が日本から持ってきたペンと、この兄さんが持っていたペンを交換する。また、時計も互いに交換した。実は、1月にこの兄さんに会ったとき、僕はパキスタンのラホールで買ったお気に入りのカシオのデータバンクをはめていたが、交換してくれとうるさく言われ、また次に会った時にね、と逃げたのだが、この兄さんはデリーで避けられないだろうと思い、ティルヴァナンタプラムでセイコーのセイコー5を150Rsで買っていたのだった。このセイコー5もお気に入ってはいたが、自動巻き、つまりオートマティックはオートマティックだったものの、2時間時計をシェイクしていないと止まってしまう、例えば夜寝て朝起きると時計は止まっているという、時計であった時計の意味を果たさない時計だった。ので、それだけ説明し(じゃあ寝ている間も腕に付けてれば問題無いでしょ、と言っていた)、お気に入りのデータバンクを失うことなく時計を交換したわけだ。

やっとこさ、1月にデリーで開拓したネットカフェに辿り着き、コヴァーラム滞在3日分の書き込みを行うのに、結局4時間もかかってしまった。コヴァーラムではいろんな日本人に会ったが、「こんな人に出会いました」ではなく、「出会った人と、どんな環境の中、どんな雰囲気で話をしたか」を書いたらえらく難しかった。「彼」ではなく、例えば「タケ」でここまで書けるんだから、現代小説作家になれるかもしらん。

書き込みを中断し、これまた1月にデリーで開拓したネパール料理屋、愛称は「モモ屋」に行き、エッグチョウメンとチキンスチームモモを食す。このモモ、も〜、最高。近くの屋台でチャイを飲み、そういや南インドのチャイには生姜が入っていなかったことに気が付く。どこから生姜が入らなくなっていたんだろう。

そして書き込みの続きをし、電車での移動3日分を終了させ、何日にどこまで走ったかというデータをエクセルに打ち込む。できれば帰国する前に、今回の冒険のまとめや、ホームページの作成くらいしたかったが、このデータをエクセルでまとめるくらいが限界である。このちょっとしっかりしたホテルのトイレを借りることができ、またコーヒーも持ってきてくれるこのネットカフェを1月に開拓したことはでかい。

トロピカーナを買ってホテルに戻り就寝。

<3.Apr.2004 Day-168>

Stay Delhi

昨晩はいろいろと考え事をして寝れず、3時頃に寝た。考え事をしたというよりも、3日間の電車移動中に、あまりにすることがなく、昼間ちょこちょこと寝ていたせいか、睡眠サークルが変になってしまったらしい。

10時半に起床し(日本なら2時じゃないですか?!)ホテルのルーフトップレストランでバナナポリッジとコーヒーを食す。

部屋でちらりと音楽を聴いた後、街へ繰り出す。昨日掲示板の更新を終了させたので、今日は終日、最後の買い物デイである。

旅行代理店の前を歩くと、やっぱり兄さんに捕まる。このジャパニーズテクノロジーバカの兄さんは、目からウロコが出るほど日本製のCDウォークマンが欲しいらしく、「見せるだけ」ということで僕のCDウォークマンを持ってきたのである。案の定交渉が始まり、最終的にカシミールティ2kg分と交換しようという話になったが、どう考えてもイコールじゃないので、「まぁ考えておくわ」ということでその場を逃げる。どうでもいいが、ここのオーナーは僕と色違いの、同じ型式の携帯を持っており、僕の携帯のカラーが気に入ったらしく、携帯を交換する。そう、中のチップさえ交換すれば、携帯を交換しても、今までどおり使えるのだ。

コンノートプレイスはちょっとした街の中心であり、ここに銀行やレストラン、お土産屋などの店がくるっと円をつくるように集まっているのだが、ここをくるっと一周してみた。日本に帰ってから買わなくちゃいけないであろう、また日本に帰ってから買ったら高くつくであろう、使い捨てコンタクトや今回ぼろぼろになってしまった手帳、シャツやズボン、電化製品などを買おうとしたが、なかなかいいものが見当たらず、結局何も買わなかった。パリカバザールという地下のデパートにて、(いつもの?)CD屋に行き、CDを3枚購入する。ちなみにこのパリカバザールは300軒近く小さなお店が集まっているデパートメントなのだが、ここでお気に入りのお店に直行できるのは相当なもんだと思う。

マックで昼飯にする。チキンマックグリルにポテトとコーラのSサイズがついたバリューセットで69Rs。ムンバイでマックに行った時も感じたが、インド人が好きそうな味である。つまり、そこらへんの屋台で売っているハンバーガーとそう味が変わらないのである。そこらへんの屋台で買ったら20Rsしないのだから、その(高級な)雰囲気だけで商売させるマックもすごいなぁと思う。

ぷらぷら歩き再開。道端で、ホテルの備品や機内での備品を売っているところがあり、エアインディアやタイ航空のマークがついた歯ブラシやブリティッシュ航空の手提げかばんに惹かれたが、ここでは何も買わず、その隣で携帯のストラップを2つ購入した。ジャンパト通りに入り、いかにもなお土産屋を物色しながら、セントラルコテージインダストリアルエンポリウムという、政府経営で、すべての物に値札が貼ってあるお土産屋に行く。観光客はこのお土産屋に辿り着けず、そこらへんのお土産屋でだまされるパターンが多いが、ここに来るともう旅も終わりだなぁという気がしてくる。

6階建のお土産屋を数時間かけてくまなく歩き回ったが、今回は「これっ」というものに出会わず、レターセット1つしか買わず。外に出てコーヒーを飲み一服する。

夕方である。ほとんど何も買わなかったが、それはそれで縁がなかったということだろう。ふと空いた時間、デリーで1月にあったデリー在住の「チカコ」氏がお気に入りといっていた「ラージガート」に行く。オートリキシャで50Rs。このオートリキシャのおっさんは英語ができ、「働かずにお金稼ごうという乞食がインドをだめにしているんだよ」「日本にはこんなに乞食がいないので、なかなか理解しがたいですねぇ」という話をしている最中に、交差点の信号で止まったら、乞食からお金をせびられ、しょうがなく乞食に2Rs渡し、このおっさんと苦笑いした。

このラージガートはガンジーが銃弾に倒れたとき、ガンジーを焼いたという、ある意味お墓みたいなところである。広い公園の真ん中にある、墓石みたいなところへサンダルを脱いで入る。墓石の側で、聖者がぽこぽこ太鼓を叩きながら、お経をあげている。そしてその墓石の前で、参拝客が手を合わせ、お祈りをしている。今のインドを、今のインドの状況を見たら、ガンジーはなんというんだろうと思いながら、このポコポコ太鼓とお経を聞いていたら、なんだかもの悲しい気分になった。

ペンチに座り、都会の町並みに沈みつつある夕陽を見ながら、明日日本に帰るんだなぁと思い出す。いろいろとこの冒険を思い返してみたが、あまりにも多くものが現われてくるので、一言でまとめることは難しかった。ただ、2003年10月19日から2004年4月3日までの間、僕は全く意味のないことをしたなぁ!と思った。そして、この世界で初めて意味のあることをしたなぁ!と確信した。これは別に言葉遊びではない。社会人として、目標というかノルマ持って3年働いたんだから、社会人やってたときのほうが、よっぽど意味があったはずなのだが・・。今、この世界で、意味のあることをしてやったぜよ!と(自分勝手に)考えることができる人間は強いだろう。

陽が落ちたのでホテルへ戻る。リキシャで帰ろうと思ったが2kmくらいなのに70Rsと高い。歩きながら近寄ってきたリキシャに聞いてみると、デリー駅の西口はこの時間渋滞するので、値段が高くなるようだ。そういや1月僕も自転車で渋滞にはまった気がする。デリー駅東口まで20Rsという交渉が成立した。サイクルリキシャはなかなかいい走りをした。これはチャリンコやった人間しかわかるまい。

メインバザールに戻り、お土産用として、ブルックボンドのタージマハルティを購入し、そして、タバコをさらに10箱購入し、CDを1枚購入する。カニャクマリでTVを見ていたら「YUVA」という映画のサントラが気に入ったので、昨日この店の兄さんに、今日の夕方受け取りで、このCDを取り寄せてもらっていたのだ。

最後の夕食である。ビールでも飲みながら、とも思ったが、そういう気分ではなく、「モモ屋」に行き、エッグチョウメンとチキンモモスチームを食す。当分このモモを食うことができないと思うと、ここで働いているネパール人を日本へ連れて帰りたい気分になる。

メインバザールはにぎわっている。そういえば今日か明日、なんとかというお祭りの日だったことを思い出す。ホテルへと戻る。

今日買ったCDは全部あたりのようで、ちょっと嬉しい。パッキングというか帰り支度をした後、ホテルの屋上のレストランにて、ファンタオレンジを飲みながら最後の夜を味わう。ファンタなんて日本に帰ったらもう2度と好んで飲まないだろう。

屋上にて物思いにふけった後、ふと、「あ、そうだ!」とひらめき、1階にあるネットカフェに行く。ネットカフェにて時間を気にしながら、この掲示板を更新しているということもあり、張本人である僕は、今までこの掲示板を見直したことがなかったのだ。2時間くらいかかって、最初からアフガニスタンまでの冒険を読み返す。インド到着直後、書き始めは日記程度のもので読むには値しないが、アフガニスタンの8日間の歴史はうまく文字で表現することができていて、本当によかったなぁと思う。ある意味財産である。

そして今回、1回に15秒間から30秒間くらいの動画をちょこちょこと撮っていたが、これに関しても、動画はむちゃくちゃ電池を消費するということもあり、ほとんど後から見ることはしていなかったが、最初から動画を見たら1時間分くらいあった。

アフガニスタンからの動画しかないし、出発前にホテルの部屋で、「今日は頑張って走りたいです」という映像しかないのだが、明らかに500km、1,000km、2,000kmと距離が進むにつれ、その表情が変わっていくので、1つのドラマを見ているようで面白かった。

これを帰って編集できたらさぞかし面白いだろうと思いながら、最後の夜はいつのまにか寝てしまった・・。

<4.Apr.2004 Day-169>

Stay Delhi

最後の朝食も、ホテルのルーフトップレストランでバナナポリッジとチャイを食す。

最終の荷造りをした後、ちらりと音楽を聴き、20$だけチェックを両替する。お土産用にアユールベーダ石鹸とタバコを追加で購入し、ネットカフェに行き、デリー分の更新をする。

そして、僕は今、最後の書き込みを行っている。自宅に着くまで冒険の可能性があるという点で、自宅に着くまでが遠足という格言に、僕は否定しないが、この掲示板はあくまでも海外から発信するということに重点が置かれているので、別に帰国後の書き込みはしないつもりだ。

おそらく僕はこの後、遅い昼飯をどこかで食べ、デリー国際空港に向かい、現地時間21時半発のJAL472便に乗り、明日の昼には自宅へ着いていることだろう。僕は今、日本へ帰りたくないよ〜という気分にもなっているわけでもないし、むしろ、日本に帰ったら日本に帰ったでやることいっぱいあるぜよ〜、あ〜忙しい、という気分になっている。まぁ、50万を超す借金をどうしていくかもあるのだが・・。

面白いことに、今僕は手に汗を掻きながら、ドキドキしつつ、この書き込みを行っている。わかってもらえるだろうか?僕がアフガニスタンの冒険を追える瞬間や、インド亜大陸最南端カニャクマリに到着する瞬間のような気分なのである。ま、頑張ってよくここまで文字を書いたということだろう。

ちょっと前にワードで文字をカウントしたら、この書き込みはすでに25万字近くになっている。25万字というと、400時詰め原稿用紙600枚分以上、文庫本で300ページ以上の厚さになると思う。ほんと、この掲示板を最初からチェックしてもらった皆さんに感謝します。「掲示板見てるよ〜」という声がなかったら、正直ここまで続かなかったと思う。しかも、誤字脱字ばっかだし、自分しかわからない部分とか、途中で内容がちょぎれている部分とか、内容が重複している部分が多く、つたない文章なのに・・。できればそのうち50万くらいかけて100刷くらい自費出版できればと考えている。

なんだろう、25万字書いたからといって、最後だからといって、特別に書くことがどうしても見つからない。おそらく、この25万字に及ぶ全ての1字1字の書き込み自体が僕のモラル、僕の歴史や思想になっているからだろう。よって、最後に、サルトルの言葉を引用する。彼はこう言っている。

「私は私の可能性である」