4、下田侵攻

 伊勢にとって目下のターゲットは足利茶々丸である。どこに逃れたのかしばらくは皆目見当がつかなかった。甲斐の国に落ちのびたという情報もありその為にも甲斐を攻めたが茶々丸はいなかった。が、一緒に逃亡した家来の関戸の本拠地が下田にあると聞きおよび、翌年、密使を偵察に遣った。使いは一週間後復命した。果たして彼等が下田の深根に城を構え反攻を準備していることが伊勢に伝えられた。
 伊勢はまず使いを下田に送った。
「今、抵抗をやめて茶々丸を差し出せば領地を認めてもよいだろう。」
当然、気骨ある関戸はこんな要求を呑むはずはない。
 伊勢はただちに侵攻の準備を進めた。下田の軍備の規模も探った。今度こそ茶々丸を討ちとる決意である。いや、深根城そのものを壊滅させる計画である。伊勢は命じた。
「将来に禍根を残してはならない。一人たりとも討ち損じてはならぬ。討ち損じたなら必ず将来報復の刃を向けてくる。関戸家も根絶やしにするのだ。」
 1493年8月10日伊勢軍二千および千騎は韮山を発った。狩野川を遡上するのでは途中狩野氏が邪魔である。今、狩野と衝突する気はない。それで三津浜まで出て海岸伝いに海路、南下した。8月12日田牛で上陸し陣を整えた。先に偵察部隊数名が下田の深根城めざして走った。偵察部隊(忍者)によると、深根城には兵五百人、馬二百騎、城の周囲には堀が巡らしてあり逆茂木で囲っている。逆茂木とは茨のようなとげとげの木をバリケードに張り巡らせ、敵の矢をそれに引っかけよう、それでいて見通しは得ようという防御の工夫である。
 また石弓も仕掛けられているという。石弓とは城の塀あるいは土塁の下部に開けた穴より紐を通しそれに大きな石を結び付け敵が塀をよじ登ろうと近づいたらこれを落として攻めようというものである。一度落としてもまた引き上げ、紐を切られぬ限り何度でも再利用できる工夫である。なかなか敵も準備は万全整えているとみた。
 伊勢は忍者部隊に命じ夜の闇に乗じて深根城を遠巻きに包囲させた。関戸方はまだ包囲に気付いていない。さらに少しずつ包囲の輪を縮めた。また兵はそれぞれ一人一担ぎの土嚢を運び堀を直ちに埋められる準備をした。
 伊勢の掛け声とともに一斉に火矢が放たれ逆茂木が燃え上がった。堀の外の周囲を警備していた関戸の兵に矢が次々と襲いかかった。木の衝立に矢がタンタンタンと音をたて次々と突き刺さる。衝立もろとも守備兵は倒れる。先発の突撃隊が土嚢を堀に投げ込み通路を造りすばやく石垣に梯子をかけた。堀をまたいで乗っている櫓の門が郭の入り口でもある。ここに殺到した兵は門を突き破り郭内になだれこんだ。そして城によじ登る者、城門を壊す者、そして城内にヤーッと攻め込んでいった。
 寝込みを襲われた深根城の関戸ははようやく攻撃に気付き、防戦体制をにわかに整えようとした。しかし伊勢軍の動きには無駄が無い。充分にシミュレーションによる訓練がなされており、計画通り進撃している。
 さらに堀はたちまち全体的に埋められ、次々と伊勢方の兵が城内の郭内に後から後からなだれ込んでいった。関戸方は防戦一方である。館内からわらわらと出てきた兵たちは出てきたところを伊勢軍に襲われたし、まだ兵舎の中に兵がおり、戸が閉まっている場合にはその戸に外からつっかえ棒がかまされた。そのため中の兵は出られない。
 城内では勇敢に渡り合う関戸の兵もあったが無惨にも次々と血飛沫をあげて斬り伏せられていった。
 関戸方の抵抗もおよそ二時間ほどであった。茶々丸と関戸吉信は捕えられ、伊勢の前に連行された。伊勢は
「御腹を召されい。」
と二人に切腹を命じた。さらに城内にて捕えられたものは女、子供までも含め合計千人に達した。そして全員斬首され、城の廻りに晒された。逆らうものはこうなるという、見せしめである。徹底した惨たらしい殺戮であった。戦国の世を象徴するような大量殺戮であった。 

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