3、修善寺危機

 蝉時雨のやかましいうだるような日であった。狩野道一は蝉の声以外のけたたましい音を表に聞いた。外を覗くと山道を馬にまたがった息子の為茂一行が土ぼこりをあげて駆け下ってきていた。彼等は韮山へ足利家の法事に出ていたはずである。
「何をその様に急いでおるのか。」
 彼はまたまた急報を聞かねばならない。
「父上、堀越御所が伊勢新九郎に降りました。法事の儀の最中奇襲を受けてござります。屋敷は焼け落ち、足利の者はほぼ全滅したかと存じます。公方茶々丸殿の安否も定かではありません。」
為茂は見聞きした詳細を父に報告した。
「これはもはや安穏とはしておれんぞ。我が狩野家は風見の鶏といわれようと大につかねばならん。祖先の茂光公の時にも源頼朝の旗揚げについた。命懸けでな。畠山と足利が争うた時も足利についた。戦国の世を生き延びるにはそうするよりないのだ。此度も伊勢に従うよりないであろう。大なる敵はつくれん。」
 伊勢新九郎長氏が途方もない強敵であることは具体的な個人データが無くとも武士の直感で道一にもわかる。
 新参者に服従するのは武士のプライドがなかなか許さないものであるが、弱肉強食の世の中を生き存えるのにはより強大なものにつき従うのも止むを得ない選択である。さっそく道一は伊勢に協力する旨書状をしたため始めた。
 ところが翌日のことである。僧に身をやつした公方茶々丸と家臣の関戸が山を越えて狩野家の日向の館に駆け込んできたのである。
 道一は迷った。彼等を捕えて伊勢に差し出すべきか、匿い逃がすべきか。後から考えればこの時、本当は伊勢に差し出すべきであった。しかし、狩野にはできなかった。側近の者たちも女朧たちも茶々丸たちに同情してしまった。彼等が丸一日何も食っていないというのでとりあえず飯を与え、湯につからせた。
 一方、伊勢は追手を修善寺に送り込んでいた。茶々丸の首には懸賞金がついた。
 修善寺の日向にはちょっとした田園が拡がっている。農作業中の者がお忍び姿の公方様を見かけたといううわさがすでに界隈に広まっていた。そこへ懸賞金と聞いて実情など知らない、まして狩野道一の苦悩など知る由もない彼等はさっそく山狩りをしていた伊勢方の侍に公方様は日向の館においでなさる様だと告げてしまった。
 ここぞとばかりに飢えて苛立っていた追手は日向の館に攻め込んだ。何が何だかわからない門番の衛兵たちは、当然反射的に槍を交えた。道一がまずいとばかりに戦闘を制しようとしたがタイミングが遅れていた。追手の兵たちは次々に倒されており、残ったものは山へ引き上げていった。
 まずいことになった。伊勢は狩野を敵視するだろう。こうなったら茶々丸たちを至急伊勢に差し出すしかない。そして追手を死傷させたことを突発的な事故的なものだったとして平に詫びるよりない。
 ところが事情を察知した茶々丸と家臣の関戸は騒ぎに乗じてすでに逃げおおせてしまっていた。匿ってもらった礼の言葉と甲斐の国へ落ちのびるつもりだという書き置きを残していた。
 さらにまずいことになった訳である。茶々丸を匿い逃亡の手助けをしたとあっては伊勢は絶対に容赦しまい。
 しかし狩野も武将である。くよくよとばかりはしていられない。毅然とした態度をとり然るべき事実の経緯を伊勢に説明するべきである。道一は早速書状をしたため、自ら馬にまたがり修善寺の山を越え韮山に赴いた。もはや一刻の猶予もない。

 韮山では伊勢が城を普請しているところであった。もとよりあった韮山平野の東の方の山の麓の元足利の城を増改築しているのである。そこに狩野が金子と猪や鹿の干し肉、きのこなど特産物を土産に持ち現われた。
 狩野一行は工事現場の傍らに建てられていた仮設の居館にとおされた。仮設とはいえなかなか立派な建物である。さらに建築進行中の城はますます立派なものの様である。狩野はそこにやがて建つであろう巨大な軍事施設のそびえる姿を想像し戦慄を覚えた。周囲は湿地である。そこにかきつばたを植えればまた眺めもよかろう。
「ようこそおいでになった。まだ、仮住まいゆえ落ち着かぬところでござるがご容赦下され。」
言葉は丁寧であるが、その響きに有無を言わせぬ凄味がある。
 はじめは伊勢も緊張した面持ちであった。シャープな彫りの深いマスクに金属的な光を感ずる眼が険しい。五十を過ぎているそうだが老いを感じさせない。山水画の掛軸を背景に背筋をピンと伸ばして座している姿は威厳に満ちており、周囲に放射されているエネルギーは寄る者を圧倒する。
 狩野にしてみればこれほどの男を見たのは初めてである。何の演出効果も小細工もいらない。この男は居るだけで周囲を圧倒する本物の豪傑である。
 狩野道一は超大物を目の前に不覚にも武者震いを覚えたが意を決して己の素性を述べ要件に入った。緊張のため声が上ずりそうになったが動揺をよまれまいと努めて心を落ち着けた。それでも己の心は見透かされてしまっているだろうとついつい不安になる。この男に小細工やはったりは無効である。ここは誠意をもって言をつくし切り抜けるしかない。彼は抑揚のない声で朗々と述べた。
 伊勢は狩野が書状をもって事のいきさつを述べ、敵意の無いことを説明されようやく怒りをおさめたのである。伊勢の語気や表情がやや緩んだのを見て狩野はひとまずほっとした。当面の危機は回避できた。しかし顔ではわずかに微笑んだようだがその眼はあいかわらず油断のならない鋭い光を放ち続けている。狩野は直観的にこの男こそ天下をとるにふさわしい人物だと感じた。
 実は、伊勢は全く狩野に気を許したわけではなかった。伊勢としても狩野とは初対面であったから初めは真意がわからず警戒していたのだが、とりあえず向こうからすぐに仕掛けてくることはなさそうだと一応矛先を収めただけである。伊豆を制覇するにはいずれは立ちはだかる相手だと伊勢も狩野の実力を感じていたのだ。
 この日は修善寺の熊坂地域において狩野川を両者の領地の境界とすることで話しをまとめて終わった。
「わざわざ、御足労いただきかたじけない。」
伊勢はねぎらいのことばを狩野にかけたが狩野の胸中は複雑であった。

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