空はまだ暗いが、東のほうが少し白けてきている感じである。群青の空に明けの明星が輝く。狩野勢約五百は河原に集結していた。柿木の城にはもう五百程守備の兵を残してきている。
その日の狩野川の水かさはそれほど多くはない。馬でも渡れそうだ。
河原には戸板の様な置盾を何枚も方形に並べ、家紋の入った幔幕を廻りに一周張って即席の砦を築いた。さらに全面にも置盾を並べ、家紋入りの旗竿を立てる。馬上の道一が陣頭指揮をとる。兵は鎧、兜で武装している。置盾の上からは弓や槍、長刀などの先端が並んで覗く。さらに最前列には流木などを組んで柵を築いた。敵の馬の突入を妨げるためである。
対する柏窪城には佐藤以下の将兵が待ち構える。
双方戦闘準備は整っている。城からは馬にまたがり甲胄にて完全武装の佐藤以下の武将が数騎進み出てくる。各家の紋や紅白、黒白の縦、横、斜めの縞模様、黒地に丸く朱の日の丸模様などをあしらった様々な旗がカラフルに立ち並んでいる。地位ある将兵は身体を甲胄や具足で隙間無く覆っている。
また腹巻一つの軽装の足軽歩兵も隊を組む。元冦や応仁の乱以降重装備の騎兵や将以外に、軽装の足軽の起動力が作戦上重視されてきていた。
「我こそは狩野道一。柿木の城主なり。川は天より与えられたる道と心得申す。古来この川を民百姓上り下りし生業をたてて候。何故塞ぎ候えるか。これにより我が民、往来 の不便なること甚だしく、もはや食住、耐えるに能わず。早急に封鎖を解かれんことを求めるもの也。」
狩野はまずは言論で迫った。しかし、言論が通じないのが戦国の世である。決して、「はい、すみませんでした。善処いたします。」などと戦国武将がいうわけがない。これを戦線布告と看做すのが常識的解釈となってしまっている。それは双方承知の上である。
両軍の将はにらみ合っていたが、いつまでも陣の前で突っ立っている訳にはいかない。双方の大将は陣幕に引き下がった。そしてどちらも間髪をおかず弓矢部隊がゾロゾロと前方に展開し、鬨の声をあげ、法螺貝の音と共に射撃を開始した。双方敵の騎馬隊をターゲットとしている。騎馬隊もじっとはしておれないから敵の薄みを突くように突撃を開始する。
置盾を持った歩兵もゾロゾロと続いて突入していく。歩兵の盾には三枚羽根の矢がビュンビュン回転しながら飛んできてタンタンタンと高音をあげてたて続けに突き刺さってくる。盾は木の板を貼り合わせた戸板の様なものなので薄いところに矢が刺さると、鏃が貫通してきて思わず兵はのけぞる。とても盾を構成している板の隙間から前方など落ち着いて覗いていられるものではない。
やや安全なポジションを得たなら、盾を置き、その脇から覗き、弓を射る。そこへ敵の兵が突っ込んでくる。
双方入り乱れ白兵戦が繰り広げられた。騎馬隊も射合い、太刀打ち、組み打ちを展開している。士気を鼓舞するように法螺の音が鳴り響き、陣太鼓が打ち鳴らされる。太刀の交わる金属音、兵の掛け声、奇声、悲鳴、馬の蹄の音、いななき声、狩野川の河原や土手一帯は修羅場と化した。
小一時間もすると、倒れた兵の姿が目だってくる。死体から流れ出す血液が川水に赤い帯をひいている。
戦域は拡大し、その分狩野勢が柏窪に迫った格好である。狩野勢の臨時の本陣も大部荒され、川の南岸へ一時後退した。本陣といっても廻りを囲っているものは置盾だから、簡単に移動可能である。
一方柏窪では戦線が迫ってきており、じきに弓の射程に入らんとしていた。そこへ柏窪からの急報を得た大見から援軍が到着した。ざっと五百はいそうである。狩野としてはその前に決着をつけたかったが、多勢に無勢である。一挙に戦線は河原まで圧し戻され大見軍は川を渡ってくる勢いであった。
さらに大見川から船で一団が下ってきた。彼等も軽装備である。横瀬付近の川の南岸に着岸した彼等は狩野部隊の後方を急襲し撹乱に出た。ここでもかなりの犠牲が出た。後退を続けた狩野軍は兵力の半数を失い、柿木に向かって山を尾根伝いに引き上げた。山中に入れば、大見軍もそれまでの様には進撃できない。彼等も深追いせず、引き上げた。森林の中の戦はまた勝手が違うのだ。その頃にはもう昼時となっていた。
城に引き上げた狩野道一は、いよいよ迫った危機に対して、防御を一層固めることに専念した。難題は食料確保であった。彼は山の斜面を切り開き段々畑を造らせ増産をはかった。
もはや軍事的に状況を好転させるのは困難だ。かといって経済的にも余力はない。政治的に伊勢と和睦して生き残りを謀りたいがそのネタがない。卑屈な譲歩は却って危険であるし腐っても武士、武士のプライドが許さない。領民だって同じ思いであろう。
こうなったら地道に守りを固め食料自給に努めるよりないと彼は考えるしかなかった。
まず、横瀬から熊坂の山中には伏せ兵を配備した。山の尾根には堀切を施した。山を進軍するときは尾根伝いに進むルートが通常採られる。この進路に堀を切り敵の進軍を妨げようというものである。落し穴構造のものもある。(堀切という地名は現在もあちこちの山中に残っている。)
強敵を持つまいとした狩野ももはや後退できない。どうにか活路を見い出すしかない。
片や、伊勢はそのころ小田原戦線で苦闘していた。昨年小田原の大森氏を滅ぼし入城の悲願を果たしたが、その後も不安定な政情は続き、この年(1496年)山内上杉の大反撃を受け、彼は弟、弥次郎を小田原で失っている。新九郎の長子氏綱はまだ八歳である。
彼は思いを巡らせた。
「相模の支配を安定させるには三浦が邪魔だ。それにはいちはやく伊豆の足場を固めなければならない。」
本拠地韮山のすぐ南にはまだ降らない狩野が抵抗を続けている。伊勢は狩野掃討作戦を練っていた。かつて柿木まで攻め込んだ高橋や、大見の地元侍たちに情勢を聞き、山野や川べりでの合戦方法を練ったのだ。
時は熟した。1497年師走、伊勢は本隊二千と野戦特殊部隊二百を組織し、柏窪に集結した。また牧之郷、大仁、吉田にも地元の部隊を固めさせた。修善寺城、大見城も臨戦態勢に入った。
道一にも前線から伊勢軍集結の報が入った。
「いよいよか。」
道一はまなじりを決した。と、同時に武将に産まれた悲しさをふと感じたがそんな感情はすぐに打ち消した。
彼も至急、領地全域から兵千名を集め、自ら率いて加殿に集結、狩野川に流れ込む支流の大見川をはさんで伊勢軍と南北で対峙した。
しかし、その時にはもう戦いは実は始まっていた。熊坂、瓜生野の山中では野戦部隊どうしが既に所々で衝突していた。これらの小競り合いは全く闇の中で行われているので戦況はわからない。
山を越えた伊勢の野戦部隊は小立野に駆け下ってきた。
彼等はいわゆる忍者である。一旦うなり石を目印に集結し、作戦を確認の上、狩野川西岸に小山があるがその山中に潜り込み展開した。
彼等は四人一組みで行動する。全く身軽な服装で頭巾、覆面と渋茶色の装束をまとっている。基本的には短めの太刀と、手投げ用の小柄(小刀)で武装している。四人の内一人は軽松明を持つ。(任務;照明、放火)一人は狼煙玉を(火薬の入った手投げ弾)一人は縄や梯子類を、もう一人は小弓、短矢、毒矢を携えた。鳥の鳴き声をまねた口笛、指笛で情報を伝え合う。山中では視界が悪いから耳が頼りである。また木の幹や枝に蔓草などを巻つけたり結んだりして、これらもそのパターンが符号化されており互いの伝達手段である。木登り、石垣登り、的当て、水泳、潜水、跳躍、落ち葉をそれとなくかき集めておきその下へ潜り込むなどのテクニックを熟練している。彼等はどのような状況下でも護身、攻撃、情報収集、伝達、逃走などができるように日頃から激しい訓練を秘密に受けているのである。身分は低いとされたが、強靭な肉体と精神、思考判断力が要求される。戦国時代彼等は陰の世界において重用されたのである。
この頂には狩野軍の監視用の小城がある。彼等は山頂の狩野軍に気付かれぬ様、山の中を潜行し麓を一周するように展開、山頂の城を包囲する形で山を登った。すなわち包囲網を縮めるということである。城の見張りの兵はざっと数十名らしい。山頂に近づくや否や忍者部隊は一斉に合図と共に城に襲いかかった。忍者は一人がそれぞれ異なる敵を一人ずつターゲットとして選び襲うのだ。マンツーマンである。虚をつかれた城の兵はたちまち効率よく狙撃され倒れていった。結局この城はあっという間の武力突入により忍者部隊に占拠されたのである。彼等はのろしを揚げた。
さて、大見川の北岸に陣取っていた伊勢に右前方の山の上から予定通りののろしが揚がるのが見えた。勿論、狩野川西岸を確保したことを意味する。
「よし、進撃じゃ。」
法螺が鳴らされ、鬨の声と共に鏑矢が射られた。けたたましい鏑矢の音と共に両軍が矢戦を開始した。大見川の岸は起伏がやや険しく馬では通りにくい。狩野にとっては天然の堀である。しかし身軽な足軽隊が川を次々に渡り攻め込む。狩野軍はそれを目がけて矢を射る。次々と足軽は倒れるが、勇敢にさらに後から後から攻め込んでくる。狩野軍の弓矢隊は思わず後退する。川を渡った部隊の一部は川に即席の橋を架ける。足場を確保するとそこを騎馬隊が次々と渡る。そして川の南岸に置盾で素早く陣を張る。さらに周囲を固める。先鋒は狩野陣に捨て身で斬り込んでいき撹乱する。
先刻占領した小立野の山からはかの忍者部隊が降りてきて狩野陣の後方を襲う。
伊勢軍の戦術はまさにプロのテクニックであった。伊勢新九郎は小田原攻め、甲斐攻めなどの激戦を通じて様々な当代一流の戦法を敵からも学んでいたし、兵方書も読みあさっていた。
彼は勝ち戦ばかりでなく負け戦も経験しており、この豊富な経験がものをいったのである。
甲州には優れた忍びの使い手が多くいた。伊勢もこれには手を焼いた。しかし一連の戦の中で伊勢は忍びの術やそれを利用した作戦を敵から学んだのである。
また、忍者を捕縛した場合には、自陣へ人材として召し抱えたこともあった。彼等を師とし兵に盛んに軍事訓練もさせていた。伊勢は有能な者、手柄を立てた者には厚く報奨し、しくじった者、背いた者は厳しく罰した。
劣勢にたたされた狩野軍は後退を余儀なくされ、どんどん南へ退いていった。午過ぎには日向へ、さらに佐野まで退いた。ここまで来ると背後は山が迫る。やむなく平時架けておいたつり橋を渡り狩野川の西岸へ退く。そして橋を落とす。しかし、伊勢軍は浅瀬を探しながらも平気で川にはいってこれを渡る。馬も渡ってくる。また一部は川に河原石を投げ込んだり大きい岩を運び込んだりして浅瀬をさらに造り後続が渡りやすくする。一方西岸の山地では(狩野川はこの辺では両サイドに山が迫っている。)北から尾根伝いに野戦部隊が南下してきていた。その一部が松ヶ瀬付近で川原へ下ってきて、後退中の狩野軍に襲いかかる。
道一は運命を悟りつつあった。これが世にいう滅びゆく姿なのだろう。かつては自分がその立場に立つとは思いもよらなかった。
「敵をつくらず生きよ。」
敵とはいったい何であろう。個人的には何の怨みもないはずだが、それでも人は社会的に不可抗力的に敵をもつ。敵をつくるまいとして生きてきた彼だがこれを避けることができなかった。敵とは的か。狙われるターゲットか。自分が相手を敵視しなくとも相手にとって自分が邪魔になれば的となろう。全方位に友好的に生きていても己の存在を否定しようとする誰かがいつか現われる。神仏はこれをどうしろとおっしゃるのだ。どう生きても世の人の三分の一は自分の支持者、三分の一は無関心あるいは中立、三分の一は反対者なのか。敵をつくらず生きていくことは本当に不可能なのか。そもそもそんな生き方が美しいことなのか。幸福なのか。わからん。多くの武将のごとく己の前に立ちはだかるものは全て敵、排除すべしという積極的、攻撃的な生き方こそがこの世の美徳なのか。仏はそう教え給うているのか。
彼は幼い頃父から和が最も大切だと教わり信じてきた。それと過ぎし平和な美しき日々が想い出され父の言葉とダブった。今、わが身は和を信じて滅びようとしている。和が成しえなかったからわが身は滅ぶ。だから和が最も大切なのだ。和は簡単に享受できるものではなかったのだ。苦労して、勇気をもって、敢えて得るものなのだった。そう思うより他、己に言い聞かせる言葉が彼には見つからなかった。
城山の西斜面には館や蔵、従者の居所など非軍事施設がある。そこには狩野の愛した女、子供、そして多くの非戦闘員が住んでいる。そこも当然占拠されたろう。中では確実に惨劇が進行中であろう。そう思うと胸が痛む。この非勢いかんともし難い。
師走の暮れは早い。日は西の稜線に隠れんとしていた。柿の実の様に赤く熟れた夕陽であった。道一はしばし夕陽を見つめていた。側近が
「殿、お先へ。」
と促した。ついに大将道一らは柿木の城に立て籠った。
伊勢軍はどんどん容赦無く侵攻してきた。後はマニュアル通りに包囲するだけである。野戦部隊の一部は青羽、船原に廻った。城攻めは手慣れている。
籠城した狩野軍はもはや二百の兵を残すのみとなっていた。柿木の城の軍備は確かなものではあったがすでに歴戦の兵に取り囲まれてしまっている。城の南側や西側は山地だが、伊勢の野戦部隊が野獣の様に追撃してきて、狩野軍は防戦に息をつく間もない。
本来なら山の上から攻め降ろす狩野のほうが投擲や矢では有利なはずだが、伊勢軍はひるまない。
またこの城山には草木が生い茂りすぎており、これらが却って邪魔になり投擲や矢の有利さが生かされにくい。またこの師走は雨が少なく枯れ草が乾いていた。当然機を見計らって火が放たれた。焼討ちである。こうなると立場は逆転する。上手の方が不利となる。 火はどんどん山をなめ尽くして上へ攻め上がってくる。後には屍が折り重なり累々と連なる。
城の周囲には空堀が切られてあり直接城に火はすぐには及ばないであろうが、火攻めの恐怖は計り知れないものがある。とにかく煙りだけでもひどい。視界が遮られ、退路を断たれる。もはや何の補給もない。
敵は目前に迫っていた。
狩野道一は煙の充満しつつある城中で側近の諸将に穏やかに告げた。
「もう、よかろう。ご苦労であった。敵をつくるまいとしたが、とうとうとてつもない大物を敵として呼び込んでしもうた。相手が大きすぎたのだ。」
最後の方はつぶやきになり、聴き取れたものはなかった。
やがて火に包まれる城と共に狩野の地では一つの時代が終わった。