狩野城秘史    

狩野城落城五百周年によせ鎮魂の祈をこめて この作品を狩野の地に眠る霊に捧げる。

                 プロローグ     
 私の勤務する中島病院より少し南に狩野城跡がある。そこの地名は柿木という。
 狩野城とは中世にあったと伝えられる山城である。おそらく十二世紀に建てられ十五世紀末には滅びた幻の城である。当時は柿木の城とよばれたのだろう。あるいは、柿木の「ギ」とは元々「城」という意味であるならば、もっと相当古くから山砦が存在したのかもしれない。
 そこには幾多の栄華があり、また幾多の悲劇があった。しかしいずれも歴史の闇の中に姿を消してしまった。
 東には狩野川、北には柿木川が流れ、これら二河川により、この城を乗せた山は挟まれて狩野の地にそびえる。
 その城跡は今やもうただの空き地となっている。往時を偲ばせる確固たるものはすでになく山河の景観から誘導される想像のみが私に与えられた史料の全てである。
 今はほとんど顧みられなくなった史跡であるが、かつてここを舞台に繰り広げられた熱い歴史があったのだ。
 城の主は狩野氏である。狩野氏の遠祖は藤原氏であるという。そのある一族が政変か何かのため京を追われたか亡命したのか、伊豆に移り住んだのである。
 往時、京からみれば伊豆は流刑の地であった。平安期には血生臭さい死罪が忌み嫌われた。意外にも朝廷により死刑が廃止されている時代が日本にもあったのだ。そのかわり政治犯に対しては流刑が行われた。(しかし平氏の時代以降死刑が復活してしまった)
 平安後期であろうか今度はその子孫が何かの手柄をたてたか、朝廷より介の称を得て狩野宗茂の代において狩野の介を称したのである。これは正式に伊豆が領地として朝廷より認知されたということである。ただ、自らは内々には藤原を名乗り続けた節もある。
 「狩野」は本来「軽野」に由来した地名である。当時は領地名を姓の様につけることが流行ったらしい。伊東氏、河津氏、伊勢氏などそんな例だろう。北条というのも韮山の地名の北条にもともとは由来するのであろう。
 ここでは狩野の荘といい荘園として農地が開拓された。現代では建物が建っているところもあるだろうが、農地の多くはこの時代より開かれ受け継がれてきたものかもしれない。川べりは洪水となると流されてしまうので少し高い所の平地を利用するか、山の斜面を削って耕地とするかしかなかったであろう。また山あいは日照時間も短く、稲を育てるには苦労したことであろう。人口が増えればやはり自給自足は困難で他地域との物流が欠かせなかったのではないか。
 この山の東面つまり狩野川に面している斜面は急峻である。このことは狩野川より攻め上ってくる敵を撃退するのに好都合な地形である。当時の軍事情勢においてはなかなか考えられた立地であるといえよう。 
 国道136号線わきからこの急な東斜面に階段が設けられている。この階段をハアハア言いながら登り、しばらく山道を歩くと小高い頂に至る。標高百八十メートル位だという。 山頂の周囲には竹や広葉樹が生い茂っているが、もしそれがないと仮定すれば、なるほどそこからの眺めはかなりよいのだろう。木を伐採すれば狩野川の流れが一望できるはずだ。そこにさらにある程度の高さの楼閣を築いたならばもっと広範囲を監視できるであろう。
 この城山の頂にはかなり狭いスペースしかないから、その軍事施設は自然の地形をうまく利用し五箇所に分けた形で設けられていた。小規模ながらいわゆる戦国時代式の連郭式山城である。各々の施設がやはり狭い敷地に建てられていたようだ。各郭はいずれにしてもせいぜい五十坪にも満たないであろう。郭とは土塁に囲まれた戦闘用のスペースのことである。
 本郭を中心に、空堀をもって東郭、中郭、南郭、西郭に区画される。堀には戦闘を意識した二重堀構造も認められる。兵を隠す窪み構造もみられる。周囲には土塁の跡がある。さらに水手すなわち井戸の跡の石組みははっきり残っている。でもこれはかなり小さい。
 従ってこれらのことよりそこに乗せられた施設はそれほど大きな物ではありえない。ざっと見てそのスペースに乗るのは現代の三階建ての二世帯用一般家屋程度かそれより若干大きいか、が私の想像する限りにおいて最大の建造物である。
 だからそこに収容できる兵員の数も大したことはなかったであろう。せいぜい数十人単位であろう。恐らく馬だってそれほど多く飼育できる場所ではない。いやむしろ駐屯地というよりも本来監視の施設という機能が主だったのではないか。
 西側はやや緩斜面となっている。そのあたりは坂もゆるやかなので馬でも往来できたであろう。
 また、狩野氏の居館や兵舎、厩、武器や食料の倉庫はこの西面の方にあったのではないだろうか。近くには古屋敷などの地名が残っている。近隣には荘園も発達していたらしい。助惣なる字名も残っている。周囲は山に囲まれているから低いところからでは見通しが良くない。 
 居館のある西面からでは狩野川は監視できないから、頂上に山城が必要だったのだ。
 当時は勿論交通の主な手段は川の航行である。川あるいは土手に沿って馬がやっと通ることのできる細い道(径)があったかもしれないが川が氾濫すれば崩れ去ったことであろうから陸路ははなはだ頼りない。両側に草木が生い茂った陸上の径はむしろゲリラや特殊部隊が通ったことであろう。茂みの中には伏兵がいるかもしれず、一般には恐ろしくて通行し難かったはずである。
 だから狩野城は敵の主力部隊は川を遡ってくると想定し建造された城である。要するに仮想敵は狩野川下流から、すなわち北方からということである。
 場合によっては敵は修善寺の葛城山あたりから尾根伝いに攻めてくることも考えられはするが起伏が大きく道は険しいし、いざとなれば桂川や柿木川が自然のバリアーとなってくれるだろう。敵はこの川を渡らなければならない。そこが迎撃の狙い目となろう。
 山の周囲に土止めの石組みが残っていないか私はあちこち見て歩いたが、それらしきものは見当たらなかった。やはりあまり重量のかさむ建造物は乗っていなかったのであろう。主に木造の城であったに違いない。 
 私はこの城跡を巡りながら、時代は異なるが九州の神籠石といつの間にか比較していた。神籠石とはもっと古代(6〜7世紀)の山城の跡である。その土止めの立派な石組みが残ったものであり通称そう呼ばれている。戦国時代にあっては建造物もより身軽に、建設に労働力を省いてかつ構造は実戦的な城となっていたのだろうか。
 師走の日暮れは早い。山を下るうちに空は束の間の夕焼けを紺青の星空に塗りかえつつあった。あの落城の日も空はこんなふうに暮れていったのだろうか。ちょうど五百年前、旧暦1497年12月26日の夜である。 (つづく)

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