その日も何事もなかったように過ぎようとしていた。春の穏やかな日差しが山々の萌芽を優しく育んでいた。柿木川の水音がすがすがしい。
ひなたでまどろんでいた狩野道一のもとに速馬で一報が入った。彼は城主である。
「大変でございます。茶々丸様が御乱心でございます。」
馬から降りたばかりの伝令の者は口が乾ききっているらしく言葉がはっきりしない。息が荒い。
「何事だ、落ち着いて話せ。」
「堀越公方殿が子息の茶々丸様に殺されましたのでございます。奥方様も潤様もその他御家来も斬られた様でございます。」
奥方とは堀越公方足利政知の後妻で死後、戒名を円満院とされた女のことである。
また堀越公方とは韮山にある伊豆支配かつ北関東の古賀公方(足利茂氏)に対抗し関東に睨みを効かす目的で設けられた地位で将軍の実弟の足利政知がその任にあたっていた。 応仁の乱後、弱体化した幕府としてはせめて将軍血縁の者を関東にも配置しておきたかったのであろう。しかし、関東入り(小田原入り)はかなわず、韮山止りということになってしまったのである。
かつて(14世紀)修善寺で畠山国清が、もと彼の主君であった鎌倉公方足利基氏に背いたとき狩野氏は足利に従いその結果畠山はやがて上洛後滅んだ。畠山は近所である狩野が地元仲間として味方になって参戦してくれると頼みにしていたが狩野はその期待を裏切り足利のより強大な軍事力に屈しある意味においては日和見的にさっさと足利についてしまったのだ。だがこれにより狩野氏は存続することができ修善寺城は狩野氏に与えられ出城の役目を担ってきた。「己よりより大きな敵をつくるな。それがお家存続の秘訣だ。」というのが家訓となった。
以来狩野家は足利とは誼を通じてきた、いわば同盟関係にあった。その政知が何と自分の子に殺されたというのだ。道一ははやる心を敢えて落ち着けるように大きく一息つき、
「茶々丸とな、さてどこかで聞いたような。」
「公方殿の先の奥方のご子息でございます。長らく屋敷内の牢に入れられておいでだったそうです。昨日見張りの家臣の刀を奪い牢を脱出し御両親はじめ家臣を次々と斬ったのでございます。」
道一はようやく思いだした。堀越の屋敷では長男を幽閉したといううわさが何年も前に道一のもとへも聞こえていたのだった。だが大したこととも思わず、また真偽のほどもよくわからずいつの間にか人々の口からもそんなうわさは遠ざかり道一もすっかり忘れていた。
茶々丸といえば足利政知が後妻として迎えた継母に幼い頃より随分苛められたと聞いた。その後妻つまり彼の継母は京の武者小路家から迎えられたなかなかの美人であったがとても人格者とはいえなかったようだ。
茶々丸は幼少より苛められて育ったので成長とともに乱暴になり非行がひどく親や家臣の手に負えなくなっていたという。
父の政知はすでに五十歳を過ぎており子の教育に関しては若く美しい後妻の言うがままであったし、茶々丸に対しては放任し甘やかすだけであった。また、将軍の弟とはいえ僧侶を経た後の第二の人生としての公方職であるので政治的には無能であった。一方継母は自分になつかない茶々丸を憎み自分の実子とは差別し陰湿なひいきを常に行っていた。
戦国の厳しき世であれば尚のこと父の精神的存在が子の成長にとって重要な意味をもつ。まして、武将の子であればいうまでもない。子は父の後ろ姿も見ている。しかし、この公方家にあっては精神的には父親不在であった。
継母は茶々丸にとって心の敵と認識されて成長した。頼りは父しかない。幼い彼は無意識に父にSOSを発し続けていた。しかし、残念ながら彼が長じるまで父は彼の発信するサインに気付かず、全く答えることが無かった。
茶々丸は愛情に飢えていたのだろう。初めは自分にも関心を向けるためにいたずらをしたのだろう。これがそのサインともいえよう。
継母には実の子(茶々丸にとっては異母弟)が二人いた。潤と義遐である。しかし幼い彼にはなぜ自分の弟たちだけが母からかわいがられ、自分だけ差別されるのか理解できるはずもなかった。
彼は長ずるに従い自分の心の欠損部分を満たす目的で非行を繰り返した。それは日毎にエスカレートしていった。
心の傷口に刺激物を擦り込むのだ。そうして傷本来の痛みを麻痺させ別の痛覚に委ねる。それは暗い快感を伴う痛みである。そんな刺激によってのみ満足する。そういう心の在り方のまま成長するのである。そして心を満たすに足りる刺激の域値は次第に高くなっていくのだ。
やがて彼は自分より弱い子を傷つけたり小動物を殺すことに暗い満足感や快感を感ずるようになった。放火未遂も起こした。農地に悪質ないたずらもした。
ついに継母の意見により親たちの手に負えない彼は座敷牢に幽閉されてしまったのだ。
尤も彼の心理を考えるに、こんなサディスティックな満足は戦国の世にあってはむしろ合目的なものであるという観もある。
人は農耕を行い、社会を形成してより人類の中に弱肉強食の掟を取り込んでしまったのだ。それ以来永遠に克服のできない十字架を背負ったのである。まして戦乱の世とは社会全体が病んでいる時代であろう。戦国武将は勿論攻撃的だし残酷なことをも敢行した。戦争はいつの世でも狂気である。ただ茶々丸の場合は攻撃性の発現の場やありかたがその時代にあっても異常であった。茶々丸の狂気が個人的、暴発的なものであるなら、戦争は管理された組織的な狂気であるといえよう。
幽閉された彼は拘禁症候群に陥った。未熟な彼の精神は成長を止められさらに狂気が育ってしまった。彼は親を憎んだ。いや、世の中全てを呪った。一方知恵は人格とは別に育つ。
「自分は公方政知の長男だ。父が死ねば伊豆の領地は全て我がものだ。だがこのまま牢に入っていたのでは腹違いの弟の潤か義遐(後の第11代将軍足利義澄)に公方の地位は取られてしまう。そうだ、奴らを殺さねばならぬ。」
この「精神未熟かつ身体は大人」のハイティーンエイジャーの彼にそんな狂気を抑える理性は備わっていない。
思い立ったら後は衝動にまかせるのみである。事件は1491年4月3日の晩のことであった。
彼は牢の世話役の家臣に爪を切るからと小刀を借りた。と、突然その小刀で家臣の胸を刺した。
「何をなさいます。」
と、崩れる家臣の脇差を奪い取り牢から脱出した。彼は直ちに両親の寝室に向かった。ばたーっと襖を乱暴に開けるといきなりそこに寝ていた父の政知と継母を太刀で刺した。狂気のめった刺しである。両親は何が何だか理解できぬうちに絶命した。室内は血の海である。
ついで彼は弟の潤の寝室に駆けつけ、慌てて目を覚まし起き上がろうとした潤をいきなり斬った。無防備な弟は何も抵抗できぬうち訳もわからず恐怖に目を剥いたまま絶命した。騒ぎを聞きつけ家臣がやってきた時には既にあたりは地獄絵さながらであった。狂った茶々丸は家臣たちにも太刀を振り回し斬りつけた。彼等は即座に状況がのみ込めず、どうしてよいものやら右往左往するのみだった。
末っ子の義遐はたまたま出家のため京へ向かって旅立った後で不在であったため難を逃れた。
こうして無理やり茶々丸は父を殺し堀越公方を宣言したが伊豆は混乱した。勿論彼を支持するものはない。
韮山の方が不穏になってきていた。狩野道一は報を聴き、災いが北の方角から一歩一歩近づいてくる嫌な予感を感じていた。彼ははるか北の空を仰いだ。いつもどおりの鳥の群れが渡っていった。