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【5月23日

「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」
マタイによる福音書16章18節

 その教会の1階にはステンレス製の分厚い扉の金庫室がある。宝石商のビルを買って教会にしたそうだ。2階は礼拝堂だが、元はダンス教室だった。それでも正面の講壇の後ろの丸太を皮で縛った十字架が映える。
 説教者として招かれて、礼拝の1時間前に到着した。しかし、教会員はすでに集合していて、毎朝ラジオ体操で鍛えている93才のおばあちゃんの接待で麦茶をご馳走になった。
 礼拝の中で「主の祈り」が祈られた。リード役は、小学5年生の男の子、元気な声でみんなの祈りを引っ張ってくれる。後半は覚え切れていなくて、声が小さくなったが、そこは大人たちだ。今度は子どもの祈りを優しく包む。その子が、礼拝後にわたしに声をかけて、今日はおばあちゃんの誕生日で、マックで食べ放題だと喜んでいる。誕生日のおばあちゃんが食べ放題か?と聞いたら困った顔をしていた。
 カトリック教会はペトロの身分に拘るが、我々は彼の信仰に拘る。罪を犯しても、それを赦す十字架の主の土台の上に教会は立つ。

【5月16日

「味わい、見よ、主の恵み深さを。」
詩編34編9節

 5月8日の朝、「生まれたって!」と妻がわたしに声をかけた。5人目の孫の誕生の知らせだ。その時、同じ妻の声を37年前の4月20日に聞いた記憶が甦ってきた。それは、今回出産した娘の生まれた時。病院から妻が電話をかけて来た第一声である。早産の危険があるので入院していた妻、そして、予定日を2か月近く前にして生まれた未熟児の娘。父親のわたしは、産婦人科から救急車でこども病院に運ばれる娘の後を車で追いかけ、40日間冷凍母乳をこども病院に運んだこともあった。
 聖書は「味わい、見よ」と言う。未熟児の娘は37年間かけて「恩恵」を味わった。父親似の女の子の孫の誕生で、姉と兄になった孫たちも病院で、燥いでいる。興奮した電話の声でそれが分かる。何もできない赤ちゃんによって家族が一つにされる。そういえば、クリスマスに生まれた主イエスも何もできない赤ちゃんだった。その方が救い主だと分かるまでにはわたしたちの信仰生活も長くかかるものかもしれない。次はキリストの香る「美香」の出番だ!

【5月9日

「モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。」
出エジプト記34章33節

 分区総会の会場教会となったので駐車場係をしていたら、向かいのおじさんが、「先生がそんなことまでするのですか!」と言うので、「今日は別の先生が偉い先生で、わたしはただの平ですよ」と返事をしている内にも車が入って来て、「オーライ、オーライ」。
 そして、昼食になった。別の教会の婦人役員と相席になり、話が弾んだが、「宮本先生は、怖い」と言われた。絶句である。午前の総会では後ろに控えて、一回発言しただけだったが、その影響なのだろうか。牧師がしゃべると悪影響を及ぼすことは知っている。上から目線で話しているように聞こえるからである。
 モーセは、二度目にシナイ山から下って来た時、神と語っている間に自分の顔が輝いていたが、本人はそれとは知らず、民に神の言葉を語り伝えた時、民は恐れたと言われている。だから、顔に覆いを掛けなければならなかった。 その覆いも再び神と話すときには覆いをはずした。もっと神と話したい。民の恐れを気にせず、神の輝きで満たされたい。

【5月2日

「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる
義と平和と喜びである。」
ローマの信徒への手紙14章17節

 我が家にも、ワクチン接種券が郵送されてきた。中身を見ると、予約受付が求められていた。暇な時間にしようかと一旦忘れてしまったら、翌日の防災無線で玉音放送のような予約終了の知らせがあった。後で妻に聞くと、予約券は高齢者全員に配布し、ワクチンは少量ということで、早い者勝ちであったらしい。ある教会員も5時間粘ったらしいが駄目だったという。
 同じ頃、議長としての最後の常置委員会があった。慢性的な財政難に苦しむ教区だが、昨年度はコロナ下で教区活動の大半が活動中止となり、約300万円の剰余金が出た。さあ、このお金をどうするかで喧々諤々の議論になった。もちろん、各教会に返金するという点では全員一致している。しかし、来年も同じことが起こることを予想するならば、返し方が問われる。パウロも言う。「善いことがそしりの種にならないようにしなさい。」と。良かれと思うことでも、神の義と平和と信仰の喜びが見失われる結果では困る。


【4月25日

「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」
ローマの信徒への手紙12章14節

 沼津で暮らして、21年目に入った。20年前の引っ越しの日、荷物も片付かない中でテレビの配線だけは行い、カラーボックスの上に仮置きしたテレビの画像が映ったとき、疲れた家族に光が差し込んできたことを思い出す。
 20年間続けてきたことの一つに「執り成しの祈り」がある。祈りのカレンダーを作って、教会員、求道者、子どもたち、教区内諸教会のために日々祈る。代務や兼務している教会の分もあって、祈りの家族の総勢は275名。
 その人のために祈るとは、何を祈ったらよいのか。パウロは、「祝福を祈りなさい」と教える。そもそも執り成しの祈りを始めたのは、意見や感情がぶつかる相手に対して、それでも相手を愛しているつもりでいた自分のはずだったが、心の中では相手を呪う気持ちが拭い去れていないことに気づかされたからだった。その出発点を放置して事態に臨んでも神の答えは出てこないことを知らされた20年だった。
 今、この祈りの家族に代務を始めた教会の人たち30名余りが加わろうとしている。

【4月18日

「苦難をも誇りとします。」
ローマの信徒への手紙5章3節

 イースター愛餐会を終えて、70キロ先の教会へと車を走らせた。教区の責任上、二つ目の代務を引き受け、最初の役員会への出席のためだった。世間の噂では、教区とその教会が喧嘩をしていると言われているが、そんなことはない。そんなことはないが、気が重い中での車の運転だった。
 あれから何年の歳月が流れたのだろうか。礼拝後、牧師が教会員を罵倒する金切り声の録音を聞いた。その異常さの中で今日まで忍耐が強いられた教会に希望を見出すことができるかどうかは不安であった。
 到着して、役員会が始まった。6名の役員の心に代務者のわたしの声が沁み込んでいくように感じた。讃美歌132番「涸れた谷間に/野の鹿が水を求めてあえぐよう」とあるが、まさに飢え渇いた魂に神の命が注ぎ込まれるようなひと時だった。役員の人たちは、わたしを待っていたのではなく、神を待っていたのだ。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」必ずキリストの復活の命を注がれる日が来ることをその教会は待ち続けている。

【4月11日

「あなたがたのなすべきことは、聖と俗…を区別すること、」
レビ記10章10節

 第15回聖書全巻リレー通読が終わった。聖書は、85時間で全巻を読み通すことができる。一人では勇気が出ないが、みんなで読み継ぎ、その一翼を担うと、全巻読んだ気になるは不思議である。15年続いているのもそれが力になっているからだろう。わたしの担当は、毎朝6〜7時の1時間。誰もいない礼拝堂で声を出して聖書を読む。1時間の音読は、声は枯れるが、終わると、体に覇気が漲ってくる。
 レビ記は、聖と俗を区別しなさいと求める。人は世俗のままで神の前に出ることはできない。聖別せよということである。物も時間も心も聖別が求められる。しかし、それは神の祝福を味わう第一歩でもある。世俗の中に身を置き続け、逼塞する中でも、安息日の礼拝が与えられているのも、「安息日を聖別せよ」との求めに従うと生きる喜びが回復されるからである。
 以前にも書いたが、夢中で遊んだ孫たちが食前に「主の祈り」を祈ると、半ばであくびをする。これもまた聖別された時間の中での神が与えてくださる安堵のひと時である。

【4月4日

「神の国を宣べ伝え、」
ルカによる福音書9章2節

 教誨師の先輩の訃報の連絡を受け、通夜に参列した。浄土真宗大谷派の住職の方で、通夜には12人の僧侶が集まり、30分間の読経は一声乱れることなく続く。その迫力に圧倒、魅了され、最後には睡魔に誘われて、礼を失してしまった。その後、法話があり、生前の教戒師としての働きや人付き合いの良さが紹介された。
 しかし、何かが違う気がした。僧侶も牧師も同じ宗教者だが、わたしの葬儀になったら、司式は必ず、前橋中部教会、富山新庄教会、沼津教会で伝道したことは紹介してくれるに違いない。主イエスの弟子たちと同じように、伝道に派遣され、神の国の到来を告げる生涯だったと語ってくれることだろう。その伝道するという外に向かう生涯が法話からは聞こえてこなかった。
 同じ真宗大谷派で正願寺の住職であった亀谷凌雲は阿弥陀を突き抜けてイエス・キリストに出会った。そして、50年郷里伝道をした。彼の父もまた全国に布教に出かけ、寺は留守がちだったという。亀谷牧師の伝道への情熱は父親譲りだったのかもしれない

【3月28

「まだ世の終わりではない。」
マルコによる福音書13章7節

 解体工事が終わった。一部始終を見ていて、発見が二つあった。
 一つは、解体とは分別だった。最初の瓦を剥がすところから、最後のコンクリートの中の鉄筋を取り出すところまで、すべてが分別作業で、それを重ねることによって、解体が完了する。手に負えない業でさえ、コツコツと分別を繰り返す。そこに光があることを知った。
 福音書は小黙示録の中で、戦争、地震、飢饉は苦しみの始まりであって、主の来臨、神の国が到来する終わりの時ではないという。
 二つ目の発見は、一日の仕事を終えると、掃除と道具の後片づけを丁寧にすることで明日の仕事をし易くしていることだった。工事中、「竹ぼうきを借ります」と業者の人に言うと、「それは教会の物です。わたしたちのは、こちら」と言われて恐縮した。こちらは片付けもせずに過ごしていたわけである。
 今回でこのハガキを書き続けてちょうど一年。混乱の最中で、どんな片付けができたかを改めて振り返るわたしに、全ての作業を終えた業者の日焼けした笑顔での「お元気で」との挨拶が身にしみた。

【3月21

「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」
エレミヤ書1章10節

 酔って屋外の縁台に座った途端、奥深く座り過ぎたらしい。縁台は後ろに傾いた。運悪くその後ろは1㍍以上の窪地。このままでは命もない。もがく手に傍の柱が触れ、満身の力を籠め、体を引き戻すことができた。背筋が凍る体験だった。5年前の脳梗塞から救ってもらった命が、こんな酔狂で果ててしまうこともあると思うと、日々の慢心が責められた。
 エレミヤは、神からイスラエルの民の命運を聞く。まず神の裁きがある。それは、救いへの第一歩だが、救いは、「建て、植える」という二語に対して、裁きは「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」の四語で、裁きが強調されている。民の罪の根は深いからだろう。
 隣家の解体工事が始まり、屋根瓦が剝がされ、下地の木材が見えた途端、烏がやって来て、木材を嘴でつつき、巣の材料を手に入れていた。翌朝も来た。ところが解体は進み、材木は重機の下。烏も重機の下の材木には恐れて近づけない。しかし、主イエスは罪の深みに下ってくださった。わたしたちの信仰の再建のために。


【3月14

「ラケルが最後の息を引き取ろうとするとき、
その子をベン・オニ(わたしの苦しみの子)と名付けたが、…」
創世記35章18節

 春の息吹を感じさせる3月は、わたしの母の誕生月である。ただ、5年前の暮れ、入浴中に血栓が動脈を塞ぎ、あっという間に亡くなってしまった。ちょうどその年は、わたしも脳梗塞を起こし、生き延びたばかりであったので、なぜか、母親の命が移し替えられたような気持ちになった。母は何のために80余年を生きたのか。ただただ息子たちの幸せを心配し、こちらには小言にしか聞こえない言葉を子のために良かれと思う一心で語り続けて生涯を閉じた。
 同じ3月にはまた孫が2才の誕生日を迎えた。息子が動画で孫の様子を生中継してくれた。父親があやし、母親がスマホで撮る。孫は、自分がおもちゃで遊べる姿をジジババに見てほしいと動き回るので二人は大忙し。しかし、それはそれでみんなが楽しい。
 ヤコブの愛妻ラケルは、ベン・オニ(苦しみの子)を産み死んでしまった。その苦しみをわが子の名にしたが、ヤコブはそれをベニヤミン(幸いの子)と変えた。

【3月7日】

「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。
…そこでお目にかかれる」
マルコによる福音書16章7節

 1か月ほど前に、ゴミの中から拡大鏡を見つけた時、米寿を過ぎた教会員が祈祷会や読書会で目を細めて字を読む姿を思い出した。そこで、拡大鏡をきれいに洗ってプレゼントした。
 「これはいい!」との返事で喜んで受け取ってくれたはずだった。しかしその後、その人が拡大鏡を使うところを見かけることはなかった。物が容易に手に入る現代は、その分、安易にそれを忘れてしまう。便利な拡大鏡も現代の渦の中に埋没してしまったと軽い失望感があった。
 ところが、先日の祈祷会でその人は教会用のカバンの中から拡大鏡を見つけ、再利用してくれている姿を見た。自分のカバンの中に拡大鏡があることを忘れていたようだったが、繰り返す字の読み難さの中で、必要が再会を生み出したようである。
 わたしたちも同じではないだろうか。十字架の主を見失った弟子たちに復活の主が指定した場所が、彼らが罪の中に戻ってしまったガリラヤであったことに神の希望がある。

【2月28日】

「逃れる道」
コリントの信徒への手紙10章13節

 ゴミの分別をしていたら、小学校から近所の姉妹が帰って来た。「空き家の中を見るか」と誘ったら、興味が湧いたようだ。早速、探検隊を組織した。玄関を入り、左手が台所で、そこに地下室があります、とライトで照らすと姉妹の足が少し震えた。妹が「幽霊が出そう」、姉が「いるわけないじゃん」
 次は奥の間です。そして、今度は二階へ行きます、と言った途端、「お姉ちゃん、帰ろうよ~」との声。でも、お姉ちゃんはドンドン進む。それにつられて妹も…。
 ようやく、すべてを見終わり、今度は教会の中へ。教会の中は暖かい。しかし、週日の教会は空き家同然の無人。ここでも妹の声、「教会は恐くないよ!」
 教区通信の企画で「神の国」についての対談をした。話が盛り上がり、あっという間の1時間半だった。パウロが語る「逃れる道」とは、出口のことだ。恐怖の先にも出口は必ずある。そして、出口には、復活の主が手を差し伸べて待ち受けてくれている「神の国」が広がっているのではないだろうか。

【2月21日】

「息あるものはこぞって主を賛美せよ。」
詩編150編6節

 水曜日の聖書を読み祈る会で詩編を学び終えた。詩編の最後には「息あるもの」とある。調べてみると、創世記2:7で神が土で形づくったアダムの鼻に「命の息」を吹き入れられたという個所と関係があるらしい。「命の息」によって「生きる者」となった人間は、神の活力に溢れた生き方をしている。
 その1週間前に「明日は在宅聖餐の日ですが、体調はいかがですか?」とメールを打ったら、今、病院の治療から帰って来たところだと電話をいただいた。そして、疲れているし、食欲もあまりないとのことだった。これで何か月休みが続いているだろうか。コロナ下でも元気な時には共に聖餐に与っていたのだが…。
 しかし、電話の最後には「主の祈り」を欠かさず祈っている。そして、「主の祈り」を祈ると、先生や教会員の方々とつながっているような感じがすると言う。確かに、主イエスの弟子たちも、自分たちだけの祈りが欲しいと願って教えていただいた祈りだった。互いに同じ祈りを祈る「命の息」に生かされていたに違いない。

【2月14日】

「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。」
創世記8章21節

 その日は、一日中ゴミの中にいた。教会が隣接地を購入したので、その建物の中にあるゴミの分別をしていたからである。築60年の家の中には、解体業者が60万円と見積もったゴミがある。その費用を倹約するために教会員総出でゴミを外に出した。しかし、分別が必要である。燃えるゴミ、資源ゴミ、埋め立てゴミに分けるのだが、簡単なことではない。ゴミの中にいたにも拘わらず、その日の万歩計は6000歩を記録していた。アルミ缶を洗い、賞味期限切れの食品も取り出して、生ごみとビンの資源ゴミに分けなければならない。しかし、よく溜めたものである。20年間ゴミ出しの姿を見かけなかったのだから、仕方がないが…。
 その中で考えさせられたのはノアの洪水物語の終わりの出来事で、ノアは神のために祭壇を築き、犠牲を献げた。それは、自分のためではなかった。神に従わなかった人たちのための執り成しだった。そして、神から「大地を呪うことは二度とすまい。」との約束を得た。この神の赦しの中でわたしたちも生きている。

【2月7日】

「数羽の烏が彼に朝、…夕べにも、パンと肉を運んで来た。」
列王記上17章6節

 病を得た教会員が、医者から体重を増やさないようにと厳命された。彼女は、医者に三年は生かしてほしいと願い出ている。それは、先に亡くなり、献体した夫の遺骨を自分の手で納めてあげたいという夫婦愛からだ。
 そこで、食事制限を実施し、体重を落として診察に臨んだ。ところが、今度は中性脂肪が多いと言われた。好物はチーズ。気がつけばキャンディ型のチーズを一袋食べてしまうという。再び、好物を断つとの決意で、チーズをやめた。すると、今度は栄養失調との診断だった。
 烏は聖書の中でも嫌われものだが、その烏にエリヤは三年の飢饉の中を養われたことを列王記は告げる。それほどの神からの大恩を受けながら、その後もエリヤの愚痴は止まらなかった。志と現実の溝が埋まらないのである。
 栄養失調の彼女に焼き芋1本をプレゼントした。さつま芋は栄養がある。しかし、その芋は他の楽しさの中で子供たちに忘れ去れた冷えた芋。烏のような、嫌われ芋。でもチンすれば、神の養いを思い出させてくれる信仰の味。

【1月31日】

「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」
コリントの信徒への手紙一9章23節

 今年最初のこの「ハガキメッセージ」に一輪車で焼き芋を作っていると書いた。それを手に一人の方から質問を受けた。「一輪車でどのように焼き芋を作るのですか?」と。こちらは一輪車を竈にして薪を燃やすのですと返事をするのだが、その人は疑問がますます大きくなるようだった。
 よくよく話をしてみると、わたしの「一輪車」は通称「ネコ」とも呼ばれる、土木作業に使われる道具であり、相手の「一輪車」はサーカスの曲芸師が使うタイヤが一つしかない乗り物のことだった。確かにそれでは焼き芋は作れない。大いなる勘違いであった。訂正も含めて。
 この人は、クリスマス礼拝に初めて出た方で、そこで何を見たかというと、牧師とは説教するだけの人かと思ったら、焼き芋を作るし、クリスマスには、礼拝後に写真も撮る。何でもする人に映ったようだ。しかし、これも大いなる勘違い。牧師がすることと言えば、「福音のためになら」何でもするということ。でも、まだパウロのように肉を断つことはできないが…。

【1月24日】

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて…」
ヘブライ人への手紙12章1節

 夕礼拝で歯医者の話をしたら、礼拝後のお茶の時間が盛り上がった。みんな、歯の悩みを抱えているようだ。話とは、数年前のこと。歯茎が痛み出して食べることにも難儀を覚えたので、夜だったが町を彷徨った。教会の近くには、一つの通りに歯科医院が林立し、看板は煌々と輝いている。そこで、一軒一軒訪ね歩いたが、当然診療時間外であったという恨みを話した。
 たかが歯の傷みだが、それは食べることに止まらず、生活のすべてに影響する。笑うにも笑えず、痛みが優しさを打ち消していく。そうなると、信仰も怪しくなり、夜の歯医者と同じで信仰の看板は表向き輝いていても看板倒れになりかねない。
 この手紙は、「絡みつく罪」と言う。それは、復活信仰を信じない罪のことだ。主イエスは、「死んでも生きる」とラザロの関係者に語った。この看板を掲げて生きることこそが「罪をかなぐり捨てる」生活となる。今は定期的に歯医者に通っている。そこの歯科医は、口は悪いが安心させてくれる。教会もそんな場所でありたい。

【1月17日】

「わたしたちにも祈りを教えてください。」
ルカによる福音書11章2節

 孫というギャングがようやく帰って行った。ゲームソフトのおねだりから始まって、たこ焼きに至るまでわたしの宝を奪い取り、可愛さという人質を利用して、千本浜から伊豆長岡の温泉まで引き回し、牧師館の畳敷きの部屋は遊び道具で足の踏み場もない。さらには、寝室まで占領されて、わたしは一人納戸のような一室で寝かされ続けた12日間だった。
 ギャングにも言い分はある。去年はお父さんも一緒だった。そして、釣り堀にも連れて行ってもらった記憶も新しい。しかし、今年はお父さんが一緒ではなかった。その気づかない寂しさに耐えていることはストレスだったようだ。
 日に三度、食前に「主の祈り」を祈ると、その最中に二人は必ず「あくび」をした。主の祈りにはホッと一息つかせる効能もあるようだ。主イエスの弟子たちも「ヨハネが弟子たちに教えたように」と主に乞い、祈りを教えてもらった。そこには、主イエスと一つになりたいという願いがあったに違いない。孫たちにはそれがあくびに現れているだけだ。


【1月10日】

「その子をイエスと名付けなさい。この子は、…罪から救う…。」
マタイによる福音書1章21節

 孫たちがやって来た。しかし、咄嗟に名前が出てこない。そこで連想ゲームが始まる。どこから来た。三重県から…。ああ、「みえちゃんだった。」教会の名前は…。久居新生教会。ああ、「ひさしくんだった。」
 名前は覚えやすい方が良いと考えて、名付け親になってくれたのは、亡き大住雄一先生だった。普段は難しいことを考えていたのに不思議だ。しかし、名前はその人の生涯を共にする。折がよくても悪くても。
 孫たちの親にも名付け親がおり、神の恵み、キリストの香り、魂の潤い、消えぬ希望の願いの中で命名されている。しかし、名前にサタンが入り込むと人生は苦しい。あなたの力で恵み深い人間になりなさいと囁かれる時だ。 
 わたしたちは知っているのだろうか。わたしたちには、「イエス」という名が助け主になってくれるということを。「主は救い」という名がわたしたちを助けてくれる。
 孫たちにも、神の救いが現れるようにと、イエスの使者である「じいじ」の奮闘は続く。

【1月3日】

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
ルカによる福音書2章14節

 焼き芋のシーズンが到来した。長年試作を繰り返してやっとホカホカ、ねっとりの焼き芋を作る装置を完成させた。
 まず、一輪車の中で焼く。後片付けが簡単である。燃料は、千本浜に散歩に行って拾ってくる流木。火が着き難いが、火持ちは良い。そして、焼き芋焼き器の登場となるが、これは、使わなくなったバーベキューセットの炭火を入れる部分を分解し、二層構造にして、その間に素焼きの植木鉢の壊れた欠片を敷き詰めて、まさに石焼風にしてある。二時間ほど流木を燃やし続ければ焼き芋の完成である。
 何とけち臭い話と思われるかもしれないが、器用貧乏な牧師のことだと笑ってほしい。
 安納芋をいただいた。ねっとり系の甘い芋である。これを食べる人のおいしそうな顔が焼く前から思い浮かぶ。喜びは平和を生む。そして、平和の中でこそ神の栄光はたたえられる。新しい年を迎えても不安しか見えてこないこの頃。しかし、喜びを見つける旅を続けて、「栄光は主にあれ」と歌う378番を賛美し続けたい。


【12月27日】

「イエスは先頭に立って進んで行かれた。」
マルコによる福音書10章32節(「十字架の精神」より)

 大隅啓三説教集「人生の意味」が届けられた。金沢南部教会60周年記念の制作で無料配布の大盤振る舞いである。同氏の説教は、バークレーの「新約聖書ギリシア語精解」を基本にして喜びのエッセンスを添えた、信仰が養われる説教である。その養いを一番受けたのは6年前に白血病で召された恵子夫人だっただろう。牧師冥利に尽きる話である。
 恵子夫人は、静岡県島田教会で産声を上げ、給金3千円の貧乏牧師と結婚した。新婚時代の上野教会では、バト・シェバ事件を睨みながら、屋外の星空満天風呂で大胆にも入浴し、貧に耐えた。また、野々市時代の牧師館では、ホテル並みの清潔さで室内を保ち、罪を寄せつけない生活を続けていた。それもこれも、御言葉の養いを受けた結果であった。その牧師館に泊めていただいた翌朝、玄関先にあった高価な大壺を壊してしまったことがある。咄嗟に「ごめんなさい」と言った相手は、主人ではなく、赦してもらえそうな夫人へ、だった。この人にだけは恩返しをしなければとの信仰の養いを受けた。

【12月20日】

「わたしは、…わが民イスラエルを見捨てることはない。」
列王記上6章13節

 昨日は礼服、今日は作業着。これが我が牧師服である。礼服は、按手礼式と教区事務所の起工式のために、作業服はクリスマスチラシのためのものである。
 臨時総会では、成立が心配で、副議長の開会礼拝説教の間、流会の時の祈りの言葉に思いを巡らせていたが、成立した。そして、按手礼式の後には、教区事務所の起工式だった。
 また、翌日は作業着で市内の新聞店回り。市内諸教会合同でクリスマスチラシを作成し、市内全域に新聞折り込みを始めて11年になる。若い牧師二人は市内中心部の新聞店へ。わたしは、西と東の周辺部の新聞店回り。
 回り終えて、道の駅の温泉へ。入り口にはキャンペーン期間終了の文字。昨日までだった。残念。しかし、よく見ると、その下に「残りチケット1137枚」の文字。つまり、残りのチケットが無くなるまではキャンペーン継続中ということのようだ。神は見捨てらない。昔、ロシアの難破したディアナ号の乗組員を助けた町にある人情温泉で礼服の疲れは癒された。

【12月13日】

「愛は、すべてを完成させるきずなです。」
コロサイの信徒への手紙3章14節

 クリスマス礼拝のトップは、沼津友の会のクリスマス礼拝。もう20年間も続けているが、今年は足が重い。創設者の羽仁もと子は、「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」を基本とした生活を提唱した。しかし、友の会の会員は、そのモットーの背後にある「生かされつつ」が見えず、生活の合理化だけに精力を使い果たしてしまう。それでは「破れ」が見えない。コロナ対策で窓を全開して換気する中での礼拝は、愛さえ見失うほどの寒さを感じた。しかし、だれも文句を言わない。
 酒が好きな石島三郎という牧師がいた。そこに魅かれて、酒好きな男が受洗した。60年も前のことである。酒好きの自分の破れを隠さず教会生活を始めたが、周りが受け入れてくれなかった。だから、教会から足が遠のいた。それから50年。自分の死期を意識し、信仰生活を復活させた。そして、その破れを愛し抜いた妻が、アドベントの最初の礼拝で受洗した。「これで主人と一つになれました」とは受洗後の感想だった。50年後に実を結ぶ神の愛もある。

【12月6日】

「恐れるな。…喜びを告げる。」
ルカによる福音書2章10節

 クリスマスのリースとクランツの材料となるもみの木を富士山麓の水ヶ塚公園近くの山林に取りに入った。毎年の恒例行事である。雨の日、風の日の年もあったが、今年は快晴、温暖、無風で宝永山の火口もきれいに見えた。
 わたしの仕事は、もみの木に梯子をかけ、鋸で枝を切り落とす役と森林事務所に提出する証明写真を撮ること。2時間ほどの作業なので、60代以上の高齢者11人組も頑張ることができた。翌日の両腕と背中の筋肉痛はまだ若い証拠と言えるのかどうかは定かではない。
 その前日には、分区内の教会役員研修会があり、コロナ下でも60名の参加があった。そこで一人の女性役員が語った。「主の祈りを祈ることを始めたけれども、三日坊主で終わってしまった」と。大いに勇気を得た。始めたということ自体が素晴らしいことだから。クリスマスの時、天使はザカリア、マリア、羊飼いに、次々と「恐れるな」と声をかける。恐れに立ち止まらず、その先に喜びがあることへの入り口がそこにはあるのだろう。

【11月29日】

「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。」
イザヤ書51章3節

 うれしいメールをいただいた。「御言葉が響き合う」と題して4月から書き始めた、このメッセージに対して、ある教会の牧師がコメントを書いてくれた。「このショートメッセージを読むと『御言葉が響き合う』ということはどういうことなのかが分かるのです。宮本先生の日々の暮らしの中での様々な体験の中でご自分が見つけている聖書の言葉があり、その言葉と宮本先生が対話をしておられる、そういう様子が書かれています。」そして、その牧師も「聖書の言葉を心に抱いて生きる私たちの姿が大切です。」と語っている。神さまからわたしへ、そして、わたしからその牧師へ、御言葉が響き合った。このことはとても嬉しいことだ。
 イザヤが描く、捕囚からの解放の喜びの声は、喜びと楽しみと感謝に満ちている。しかし、現実にはエルサレムへの帰還者は少数だった。神から響いて来る声を聞き分ける人は少数者かもしれないが、一人でも救われるなら、そこにこそ望外の喜びが天にはある。

【11月22日】

「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて…。」
マルコによる福音書5章30節

 9月に続いて葬儀があった。前夜式と葬儀の二日間を終えた三日目の朝、脱力感と倦怠感に襲われた。9月の時にも感じたが、そろそろ歳なのかもしれないとも思うが、それだけではないらしい。
 イエスさまではないので、偉そうなことは言えないが、葬儀が終わると自分の中から力が出ていくような気がする。それは、葬儀の中での説教を通してのことである。悲しみの中にある人に慰めと励ましを語ることに全力を尽くした後の脱力感でもある。 著名な神学教師が信徒の友に「葬儀説教の内容は、…遺族の記憶にはおそらく残らないでしょう。」と語る。そうかもしれない。しかし、葬儀の中では神の力が発揮される。
 今回の葬儀で喪主は説教を聞いて泣いた。人間、泣けと言われても泣けるものではない。涙は思い出と神の慰めが結びついたときに自然に流れ出るものである。そして、喪主は涙ながらに前夜式と葬儀後の挨拶で、別々の母親の思い出を語り出した。神の力が注がれたのだ。

【11月15日】

「正しくない者が神の国を受け継げない…。」
コリントの信徒への手紙一6章9節

 糖尿病を抱える友人に久しぶりに再会した。元気だったのでホッとしたが、基礎疾患の中に数えられている病を持ち、外見からはその病が見えない。それだけに感染を恐れる気持ちは人一倍あるだろうに、と心配していた。
 松本の友人の牧師は、虫歯で入院したという。朝晩歯磨きを欠かさない人なのに、長く虫歯を放置していたらしい。虫歯の痛みもある期間を過ぎると痛みは薄らぐようだが、ばい菌が消えたわけではなく、土台のあごの骨にまで到達したようだ。入院経験者として、日曜日の礼拝の上に神の配慮と摂理を祈る。
 最近、礼拝に続けて来られる方が、説教中に涙を流し始めた。驚いたし、理由は分からないが、その気持ちは分かるような気がする。自分の中にあった苦しみが、説教の中の言葉に触発されて、涙となって流れ出て、清められた一瞬だったことだろう。「正しくない者」とは、罪を放置し、赦されることを知らない人のこと。「時は満ち、神の国は近づいた」とあなたにも主は言われる。

【11月8日】

「心の貧しい人々は、幸いである。」
マタイによる福音書5章3節

 朝の連続テレビ小説「エール」は、自分の戦争責任に苦悩し、作曲ができなくなった主人公を描く。彼は、「長崎の鐘」を遂に作曲するのだが、作者を長崎の地を訪ね、彼から教えを乞う場面があった。
 被ばくによる白血病に苦しむ作者永井は、「この歌は、自らへの贖罪のつもりで書いてほしくない」との断りを入れた後で、「どん底に大地あり」との奇妙な言葉を語る。 この言葉を聞いた瞬間にわたしの頭の中に浮かんだ聖句は、「心の貧しい人々は、幸いである。」であった。「貧しい」という経済用語で無一物であることを伝え、それこそが心のどん底状態。ならば、自分の中に頼りになるものは何も無し。そこから、神に助けを求める者に変えられたときこそが幸いだという意味である。
 どん底の大地とは、神の助けのことであり、主イエスも「天の国はそのような人たちのものである。」と答えてくれる。「心の罪を打ち明けて更けゆく夜の月すみぬ」

【11月1日】

「彼らは大きな苦難を通って来た者で、
その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」
ヨハネの黙示録7章14節

 84才の老女がディサービスの様子を話している。送迎、昼食、入浴はありがたい。ところで、先生は週に何回お風呂に入りますか?と切り返してきた。「2回です」と答えると、「わたしと同じだ」と妙なところで安心された。
 わたしは、風呂嫌いだが、聖書は好きだ。迫害下の信者を励ますヨハネは、神は迫害を忍耐する者に白い衣を着せ、彼らは天上で「小羊の血」によって清められた者として、神の栄光を賛美している様子を見る。天上には、神への賛美しかない。苦難の涙はぬぐわれ、主に仕えることだけが待っている。ここにわたしたち信仰者の未来があることを教えているが、わたしたちは果たして、この未来に向かって進んでいく自分の人生に喜びを実感しているのだろうか。
 わたしは、風呂嫌いだが、温泉は好きだ。教区で利用する「八の坊」では、お得意様価格での入浴の約束ができているし、先日訪れた伊那の「大芝の湯」も同様の300円で入浴でき、帰りの車中はホカホカで帰宅ができた。

【10月25日】

「心とはらわたを調べる方」
詩編7編10節

 「よろこび」という機関紙に懐かしい隠退教師の文章があった。現役時代は、酔うと障子に指を突っ込んで全部破いてしまうという奇癖は、北陸神学会では有名だった。
 ところが、「よろこび」には、「説教前にキリストの前に原稿を広げ、このように説教しますとご進講のように祈ったものです。」とあって、説教者の心意気を語っている。「ご進講」とは御前講義のことだが、単にキリストの前に畏れ、遜ることだけを意味するだけではないだろう。才も愚も美も醜もすべてを用いてくださるキリストを信頼して説教するということだと思う。そうでなければ、老後の笑顔は生まれなかっただろう。
 この先生の甥もまた牧師だったが、一人の受洗者を出す前に急死してしまった。しかし、神は見捨ててはいなかった。その弟さんが老境の中で洗礼を受けたと聞いた。神の救いの歴史は長い。家庭や教会の中に、この神の救いを信頼して祈る人がいれば、「あなたも家族も救われます」(使徒言行録16章31節)。

【10月18日】

「真珠を豚に投げてはならない。」
マタイによる福音書7章6節

 電車の優先席が空いていると一瞬戸惑う。自分は老人か。はい、65才です。疾患を抱えているか。はい、心臓病と脳梗塞を発症し、薬も持ち歩いています。但し、薬箱は見せられませんが…。そんなことを確認して座っている。
 向かいの優先席には白杖を持った女性が座った。車内が混んできた。女性は最寄駅で降りようとして周りに声をかける。「すみません。通してください。」しかし、一向に動かない若者がいる。そのはずである。目はスマホ、耳はイヤホン。これでは声が聞こえない。「優先席付近では携帯電話の電源をお切りください」との表示はこんなケースも考えてのことなのかと驚かされる。
 小学校の頃、豚舎の通路で豚に追いかけられた。すべてのものを踏み潰す勢いは今でも記憶に残っている。「豚に真珠」の真珠とは十字架の救いことである。しかし、十字架の恵みは弱さを抱えている。スマホとイヤホンで自分の世界にだけ生きる人には十字架の弱さは、まさに豚の突進と同じで押しつぶされてしまう。

【10月11日】

「神はそれを善に変え、」
創世記50章20節

 1894年の北里柴三郎がペスト菌を発見したことを軸に同名の二つの小説を読んでみた。カミュとデフォーの「ペスト」である。共に主人公に著者自身を重ねて描き、一つの町に留まって、疫病の最初から最後までを主人公が見届けるという設定である。
 しかし、デフォーが見た疫病は1665年のロンドンでの疫病流行であり、原因不明の中で町に留まり続けるのだから、自分が死ぬかもしれないと逡巡する。しかし、カミュの作品は、血清も開発されて、死の恐れは主人公にはない。
 だから、デフォーは聖句の中で悩む。「己を救え(マタイ27:40)」か、「疫病も触れることがない(詩編91:10)」のどちらに生きるか、と。そして、自分は神の摂理(神の救いの計画と完成)の証人でありたいと決断してロンドン残留の決意をする。その彼の目に映った疫病とは、凄惨な現実だけではなく、疫病の中でも燃料や食料の供給は途絶えることがなかったなどの神への感謝であった。カミュは死なない主人公を通して、神は死んだことを告げているのに、この違いは大きい。

【10月4日】

「主の言葉は永遠に変わることがない。」
ペトロの手紙一1章25節

 教会の裏にふとん店を営む老夫婦が住んでいる。60年以上も住み続け、奥さんは、朝6時45分になると店のシャッターを開け、掃除、打ち水を一日も欠かさず続けている。
 そのご主人の口利きで日本舞踊の名取さんが所有する隣接地の売買の話が持ち上がったのが8月。顔見知りの教会員に声をかけ、教会員がわたしに話を繋いでくれた。そして、1か月。進捗状況を心配して、ご主人がわたしに声をかけてくれた。教会では、教会員の総意で物事が決まるので時間がかかりますとのやり取りをしている中で、ご主人は「教会の人は本当に長年礼拝に通い続けるものだねえ」と言う。キリストの弟子への誉め言葉であった。
 確かに、毎週礼拝に通い続ける教会員は多い。そのためには、自家用車からバス、タクシー、セニアカーに乗り継いで、礼拝生活を続ける。神さまに合わせる生活に変えていくことが秘訣となる。「芸は身を助く」というが、信仰生活の継続は近隣への大きな証しとなっている。

【9月27日】

「大きな喜びが天にある。」
ルカによる福音書15章7節

 伊那坂下教会が会堂建築を始めた。案内の老役員たちは、鉄骨の骨組みを見上げながら、土台に聖書を埋める上棟式も近いことを誇らしげに話してくれる。
 でも、不思議だ。財政も教勢も小さな教会。また、土地を購入してから10年を経過して漸く建築に踏み出したという忍耐を強いられた。普通は過去の重荷で顔が歪んでもおかしくない状況のはずだ。ましてや、我が家を建てるのではないのだ。神の家を建てようとしているのに、その喜びが大きい。これが信仰の喜びと言われているものなのだろう。
 建築中の新しい土地は、道を隔てて高校が目の前である。高校生は元気だ。駅から遠くはなれた学校まで徒歩で登下校している。将来の夢を叶えるために坂道を登っているのだろうか。しかし、自己実現の喜びよりも、罪人を探し出し、悔い改めることを神は喜ばれるという天の喜びを喜ぶことは教会にとっても坂道である。良い地に教会が建てられようとしているが、その地の雑草も巨大だった。

【9月20日】

「わたしは道であり、真理であり、命である。」
ヨハネによる福音書14章6節

 「ゆっくり温泉にでも入るか!」という気持ちで伝道協議会の会場に入った。受付の所へ行こうとすると、後ろから「お客様〜」との声がするが、だれに声をかけているのだろうと呑気なものである。すると、受付の牧師に「宮本先生は、道を間違えたようですね」と謎のような言葉で迎えられ、振り向くとホテルの女性がわたしの頭にピストル…型の検温器を向け、手に消毒液を振りかけられた。ウイルス対策の道を間違えたのであった。入り口に体温測定器があったのに素通りしてしまったらしい。そして、いったん外に出たら必ず検温してくださいとの案内であった。
 これにはたまらないと思った。寝冷えでもして発熱したら、入れなくなる。わたしの唯一の務めは閉会礼拝の説教。そのことを考えると迂闊に外に出られない。まるで軟禁状態だ。これでは本当に道を間違えそうだ。神との交わりに生きたいのなら、イエスという道の上を歩かねばならないと福音書は言うが、信仰と現実の狭間の中で、常にわたしたちの心は揺れる。

【9月13日】

「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」
コリントの信徒への手紙一4章1節

 葬儀になった。初めての葬儀社と会場。勝手が違う。すると、早速トラブル発生。車で会場に到着すると、駐車場係の人が、「そこは御寺院様専用ですので、移動をお願いします。」と言われた。わたしが今回の「御寺院様」なのだが、黒ネクタイと礼服姿、また、頭髪もあるし、オルガニストの女性同伴では、そうは認めてくれないのも無理はない。
 しかし、さすが葬儀社と感心したこともある。遺族は二組の夫婦。全員マスク着用。初対面ではだれが喪主なのかが即座に分からない。そこで担当者は喪主に徽章を着けてくれた。
 出遅れて使徒となったパウロも、自分が使徒であることを認めてもらうことに苦労した。他人の評価、自己推薦は通用せず、神の召しのみの保証しかないと断じた。葬儀のたびに思うことは、葬儀を司る牧師は、葬儀を身分で行うのではなく、職務で行うという事実。相手が職務の背後に神の権威を認めてくれなければできない務めである。そんな中で葬儀が神の祝福のうちに終わったことに感謝したい。

【9月6日】

「体のともし火は目である。…濁っていれば、全身が暗い。」
マタイによる福音書6章22節

 自転車で出かけようとしたら、前輪に違和感を覚えた。パンクである。突然の事態にそれからの予定が狂ってしまった。颯爽と風を切って走るはずが、炎天下をトボトボと歩く。
 安倍首相が健康診断を受けて、健康が損なわれていることが分かった。疫病と向かい合って半年以上、緊張の中で休みなく働けば、頭の中では自分は大丈夫と思っていても体の方が正直なことが多い。それは、心の中が悲鳴を上げている裏返しでもある。
 また、マスク姿をこれまで長く見続けてきたが、マスクをすると、目が強調され、最初はみんなきれいな目をしているなあと改めて感じていたが、最近ではその目が淀んでいると感じるのはわたしだけだろうか。
 そろそろ心のチェックが必要だ。主の祈りは、「天にましますわたしたちの父よ」と祈り始めるが、悪魔の祈りは、それを「そばにいてくださるわたしの神よ」と変える(平野克己)。わたしたちの心の中の言葉は、今も「わたしたち」で始まっているだろうか。


【8月30日】

「大胆に恵みの座に近づこう」
ヘブライ人への手紙4章16節

 延期されていた教会の就任式が始まった。コロナ禍で来賓の自粛の求めがある中でも、家族葬と同じで、それでも来た人を拒むわけにはいかない。特に、牧師の家族や知人は東京から来ても断るわけにはいかない。
 分区からも代表して一人の牧師が出席し、挨拶をした。就任式には、誓約をする教師と教会員とそして誓約を聞き届ける証人が必要です。証人は、双方の神への約束を聞き届け、後日揉め事が教会の中に起こった時の仲介役になるからです、と一本釘を刺してくれた。 就任式が終わり、一言ずつお祝いの言葉が来賓に求められた。他県からの人が指名されたとき、その人は、礼拝堂の後ろに下がって挨拶をしようとした。感染防止のためらしい。しかし、既に同じ場所に一時間も共にいたわけで、進行役が「どうぞ、前に来てスピーチしてください」と求め、その人は、「他県から来た者をやさしく受け入れてくれて感謝します」と挨拶を始めた。コロナ禍の中で、わたしに近づいてくださいと言うことは神さま以外には勇気がいる。


【8月23日】

「イエスはひどく恐れてもだえ始め…」
マルコによる福音書14章33節

 8月10日の早朝、冷えた握り飯を前にして「主の祈り」を祈っていたら、涙が溢れそうになった。一人寂しく朝食を取らねばならない境遇が悲しくなったわけではない。今日は延期されていた教区総会の日。果たして定足数以上の人が集まってくれるか。会議が神の御心を知るものになるか。集まる者の中でコロナの感染への恐れはないか。様々な思いがよぎり、不安と緊張と希望に胸が熱くなったからである。
 会場に着くと、裏方の北信分区の方々のマスク越しの笑顔に勇気をもらった。そして、無事に按手・准允式を終え、第3読会では、教区事務所の新築関連の議事も無事に可決された。
 教区事務所問題は、9年越しの柵を抱えたもので、だれをも傷つけることなく解決したいと願っていた。それは、イエス・キリストの十字架が浮かび上がる解決であり、わたしたちの罪のためにイエス御自身が「自分が捨てられる(もだえ始め)」ことによって、互いを受け入れる解決である。総会が終わり、その夜はぐっすり眠れた感謝の一日となった。


【8月16日】

「主の山に備えあり」
創世記22章14節

 「主の山」とは、どこにあるのだろう。アブラハムの場合には、神が行くことを命じた山であり、25年待ち続けた神の約束が実現し、イサクが与えられたにもかかわらず、その愛する息子を神にささげることが求められた山であった。まさに、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ(ヨブ記1:21)」が実現した山であった。
 では、わたしにとっての「主の山」はどこにあるのだろう。それは、牧師館にあった。妻が母親の介護のために4日間の帰省に出た後の牧師館は、まるで男やもめの巣と変わった。食事一つを取り上げても、「作る、食べる、洗う」の「食べる」だけを享受していた日々が一転する。そこは試練の場。そこに神の恵みは見えるのか。牧師館にはもう一人、いじけている息子が同居している。ところが、この息子が父親への愛に目覚め、「作る」を担ってくれた。メモ帳で「何が食べたい」「ラーメン」とやり取りしながら息子の世話になっている。そういえば、イサクにも「主の山」の経験がその後の人生で生きていた。わが息子にもと願う。


【8月9日】

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、…」
マタイによる福音書5章45節

 教会は、野生の王国だ。今年生まれたばかりの好奇心旺盛な鵯(ひよどり)が、毎朝教会のぶどうの色づきを偵察に来る。わたしがすぐ近くにいても、奇声を発して威嚇する。
 一方、教会の中では、愛の業が休みなく続いている。以前に書いた善意のお掃除おばさんが振り落したアーモンドの実もごみ箱から拾い出し、更に本家の援助も借りて4粒の実が用意できた。予約があった一人に日曜日に声をかけ、渡すことができた。もう一人の予約者を探したが、既に家に帰ってしまっていた。まあ、水曜日に来るからと、安心していた。
 ところが、月曜日の朝、アーモンドの実の入った紙袋が散逸していた。中を見ると、何もない。きっとあの鵯だと直感した。アッシジのフランチェスコは小鳥と話ができたそうだが、その中には鵯がいなかったはずだと思うほど、怒りと悲しみは大きかった。
 しかし、その数日後、同じ場所で、実を発見した。風のいたずらで縁台の下に落ちただけだったようだ。鵯、神さま、ごめんなさい。

【8月2日】

「キリストを知るという知識の香り」
コリントの信徒への手紙二2章14節

 トランペットのような改造マフラーの音を響かせて、今日も教会前の大通りに白塗りのダンプカーがやって来た。その車体には、「KING OF THE STREET」と横書きされ、まさに王者の風格だ。ところが、今日は赤信号で教会の前に停車した。車体の下の方にもう一筆、「走れば赤字、止まれば地獄」と書かれているのを読み取ることができた。王者の悲哀を感じさせられる。教会の前で良かったねと声を掛けたくなった。
 王の王であるイエス・キリストも勝利の行進する凱旋将軍のようなお方としてパウロは描き、戦利品の一つとして奴隷を引き連れて来た。それが、わたしたちなのだとの解説を聞いたことがある。それはキリストのものとされた奴隷であって、自分の香りではなく、「キリストによって神に献げられる良い香り」なのである。
 「美香」とこの個所から命名されたわが娘もいるが、いまだに自分で良い香りをはなたなければならないとの呪縛に苦しんでいる。楽になればいいのに…。

【7月26日】

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」
詩編119編105節

 夜討ち朝駆けではないけれど、山梨と長野の教会を訪問したら、帰路は夜だった。青木ヶ原樹海から朝霧高原に差しかかると濃霧で一寸先も見えない状態で、車を走らせるにも不安を覚える。雨はワイパーで、闇はヘッドライトで凌げるが、霧はライトの光を遮って、見通しが効かない。緊張が走る。
 フォグランプも装備している。しかし、それは足元を照らすだけだ。しかし、それが大事だということに気づかされた。車の斜め前にはセンターラインがある。そこだけが照らされているのだが、そこだけを頼りに走れば、左に側溝、右に対向車が来ても、安全を守ってくれるという塩梅だ。
 聖書の時代の灯も、サーチライトではなかったはずである。遠くを見通せない灯に不安を覚えるのではなく、安心を覚えることを詩編は語る。先の見通せない時代に生きているが、毎週の礼拝で与えられる神の言葉は、センターラインのようにわたしたちの一歩を導いてくれる。不安と緊張の中で我が家に辿り着いた。

【7月19日】

「(わたしが)休ませてあげよう。」
マタイによる福音書11章28節

 教会員に看護師長がいる。3月第一主日の礼拝前にわたしに問いかけてきた。「礼拝を守ってもいいでしょうか。」と。質問の背後には、自分は限りなくグレーに近い人たちの担当となったので、「うつる」と「うつす」の二つの不安を抱えて苦悩する姿があった。そして、「礼拝を守っても構わないんじゃないの…」と返事をしたわたしの背後にも、「どなたでもお入りください」という教会の看板を背負った緊張が走った。結局、彼女は教会のロビーで礼拝を守ったのだが…。
 あれから4か月。7月に入ってやっと職務から解放されたようで、改めて一緒に礼拝を守ることができた。しかし、報道では、医療従事者の30%がうつ病の危険に晒されていると報じていた。彼女の所にも毎週このハガキを届けていたが、それは信仰のエールであった。あなたの疲れと重荷は、イエス・キリストにしか癒すことはできないと信じていたから。
 疫病は、「うつらない」「うつさない」だけの問題ではない。いかに生きるかを問いかける。

【7月12日】

「主よ、…七回までですか。」
マタイによる福音書19章21節

 中坪さんという教会の番頭を自負する人がいた。毎朝7時に教会周辺を巡回し、その朝も不審な車を教会内に発見。中を覗くと新任牧師家族が仮眠していたので、すぐに教会員全員に「新しい牧師が来た!」と福音を告げ知らせてくれた。しかし、時には善意も困ることがある。毎朝5時から教会の雑草取りを始めて、若い牧師の安眠を妨げた。35年も前の話なのだが…。
 故永六輔が「地獄への道は善意で敷き詰められている。」とラジオで語ったことがある。善意は迷惑になることもあるが、相手の業を裁けない難物でもある。
 教会の中にも事故が多い。雑草と共にラベンダーを刈り取られた教会もあるし、予約済みのアーモンドの種をお尻で枝から振り落とし、ごみ箱に捨ててしまったお掃除おばさんがいる教会もある。誰も悪気はないのだが、被害者には悶々とした思いが残る。放置すると怒りに爆発しそうだ。そんなときこそ、自分が何回主イエスに赦されたのかを数えることが、善意の呪縛から解き放たれる唯一の道である。

【7月5日】

「サタンはあなたがたを…ふるいにかけるように神に願って聞き入れられた。」
ルカによる福音書22章31節

 やっと「くちなし」の花が一輪咲いた。コーヒー豆のカスで土壌改良を試みた一鉢である。近所のくちなしは既に満開だというのに、我が家の蕾はなかなか開かなかった。でも、神が日陰にも時を備えてくれた。
 花には一つ一つに花物語がある。くちなしの左には薄紅のサフランが花を咲かせている。松崎教会から分けてもらった。今、本家の松崎ではだれが雑草取りをしているのだろうと思う。信仰と同じで雑草の生い茂る季節だ。
 また、右には欅が青葉を誇っている。欅が見事に紅葉することを、もらった人に見せていただいた。11月のたった1回だけの講壇用の花のために教会に持ってきてくれたことを思い出す。それを夢見て毎年育てているが、あと何年かかることだろう。
 そういえば、輪島の朝市で買った「百日紅」はどこに行ったのだろう。たった一回礼拝での御用を務めた後、行方不明になって、10年以上だ。放蕩息子よ、早く帰って来い!


【6月28日】

「聖書はわたしについて証しをするものだ。」
ヨハネによる福音書5章39節

 わたしの名前は、義を弘めると書くので、「義」とは何かと自問自答している。義は「羊」と「我」に分解できるので、最初わたしはイエスさまの良い羊になることが義かなと思っていたが、大漢語林によると「我」という部分は、ギザギザの鋸を意味し、羊を作法に則って屠ることが「義」だということだ。それは、神の義を考えるときにも同じだと思った。イエス・キリストは神の作法に則って、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださったことこそが、神の義を現わしている。
 「義子」さんがいる教会もある。この人もわたしと似て理屈屋である。しかし、その教会は兼牧なので、自分たちだけで水曜日に聖書を読み祈る会を始めるという。詩編を読むので、参考書はないかとのお尋ねであった。左近淑先生が生きていてくれたらと思った。残念だが、作法に則って読んでほしい。自分の理屈を聖書に読み込むのではなく、聖書の作法に則って神の義をイエス・キリストの十字架の中に読み取ってほしい。

【6月21日】

「一粒の麦は、…死ねば、多くの実を結ぶ。」
ヨハネによる福音書福音書12章24節

 数年前、孫が幼稚園の遠足でドングリの実をたくさん持ち帰った。そして、絵本で得た知識によって、わたしにこれを植えろ、植えたら芽が出るというわけである。子供の無邪気さを無下にはできず、あちこちに植えた。すると、あんな硬い殻を破って次々に芽が出たことには魂消てしまった。
 そして、数年。雑木だが、盆栽に仕上げようと大人の欲を出したのが間違いだった。秋に生い茂る枝を大胆に剪定した。しばらくしたら、幹まで枯れて駄目にしてしまった。しかし、別の木を植え直し、今年も今度は春先に剪定をしてみた。やはり、葉が枯れ始めた。また駄目かと思ったが、枯れた葉の横から若芽が出てきた。これで大丈夫だろう。剪定の時期が大事だったのだ。若芽が出る前に刈り取ることを覚えた。どんぐりの若芽は不気味である。どす黒い色の若芽だ。しかし、それが、日に日に薄茶に変わり、そして、若緑に変身するのである。
 神に罪を赦していただく時期を逸してはならない。十字架の贖いこそ、今の時期の真理。

【6月14日】

「十字架の言葉は、…神の力です。」
コリントの信徒への手紙一1章18節

 始まりは腰痛からだった。自彊術の先生に相談すると足を横に上げる運動をしなさいとのこと。やってみて二日目にお尻の筋肉痛。ひょっとしたら効くかもしれないとの思いで、その後10種目以上のストレッチ体操を続けて4年になるだろうか。朝のストレッチの時間は、昨日の疲れを今日に残さない。各種目を10回ずつ繰り返すが、頭の中ではたかが10回、しかし、体は疲れ具合によって、その10回も明日の目標になる時もある。でも、そこまで杓子定規になることもないだろう。
 何度も繰り返すが、「主の祈り」を日に三回祈ることは、わたしたちの信仰の土台だ。十字架の意味が分かるための聖霊の宮を作ってくれる。だれもが、ゴルゴタの丘には三本の十字架が立っていたことを知っている。しかし、だれもそれらの十字架の見分けがつかなかった。自分の知恵に頼っていたら、あなたの罪の赦しは分かりませんよとパウロは言う。丘の上の真ん中の十字架だけが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んでいる。

【6月7日】

「見張りの者よ、今は夜の何どきか。」
イザヤ書21章11節

 悪夢だった。選りによって、5月26日という教区総会が延期になったその日に、教区総会が開催された夢を見た。ところが、総会資料が見当たらない、議長席がない。更には、会場は福井県の東尋坊のような断崖絶壁で向こう側の岩場に議員がいるという始末。マイク係が到着するまでに5分はかかろうと思えるほどの難所にみんながいる。
 こんな形では、総会が開催できても不安が募るばかりであった。もう止めてくれと目が覚めたのが朝の4時。もう一度寝ようかと思ったが、夢の続きが現れると困るので起きていた。自分には、恐れはないと自負していたが、夢の方が正直のようだ。だったら、怖いなら怖いと言おう。そして、神に隠し事をせずに祈ろう。イエス・キリストの十字架はそんなわたしのために立っているのではなかったのか。
 あれから2週間。今度は、こんな詩編に出会った。「泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。(30:6)」そうだ、十字架の贖いの力はすごい。

【5月31日】

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
詩編23編1節

 羊という字が付く教会がある。礼拝は6人ほどの小さな教会だが、この教会には三人の乙女がいる。若い人で50代スレスレだが、その信仰は純朴で熱情的な乙女たちである。その中の一人が軽い脳梗塞を患った。後遺症として「失語症」が出て、「あい」という二文字を頭の中で「愛」に変換できなくなった。しかし、彼女の中から愛が消えたわけではない。愛という漢字が書けなくても、神を愛することは失われていない。ヨハネによる福音書が伝えるように「神を知る」ことは「信じること」、「愛すること」を体得し、創世記がどこにあるか分からなくて、聖書を開くことができなくても、乙女たちは神に愛されていることは肌で感じて毎日を暮らしている。どんなに羊は弱く愚かであっても、羊飼いがしっかりしているので安心しているのである。
 建物は、昨年の台風で雨漏りしたが、古すぎて修理不可能と言われてしまった。そんな建物で礼拝を守り、終わると、お茶と漬物で、「イースターの高笑い」を繰り返している。

【5月24日】

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」
マタイによる福音書9章17節

 世の中では、ウィルスとの「共存」と「新生活様式」が叫ばれている。共存の考え方を最初に聞いたのは4月中旬で、寄生虫学の上村清氏(富山二番町教会員)の発言であった。彼は、蚊の研究に一生を捧げ、採取のために世界各地を訪ね、自分の腕を蚊に吸わせて育てた。マラリアにもかかったが、83才の今も元気である。また、新生活様式といわれるが、そもそも信仰生活こそは新生活様式のはずである。弟子となった徴税人マタイにように罪から解放された生活なのだから。しかし、そのことがわたしたちに腑に落ちないのは、即効性の化学肥料で信仰という土を耕し、信仰が粘土質のように固くなってしまったからではないだろうか。
 教区農伝協議会で教えられたが、土を活性化する微生物の餌にはコーヒー豆のかすが良いらしい。そこで、もうすぐ花が咲く「くちなし」の鉢に加えた。まずは土壌改良からである。「主の祈り」も祈れば、信仰の活性化に大きな力を持っている。果たして、わたしたちの新生活が神の平安と祝福を受ける場となるのはいつか。



【5月17日】

「エレミヤよ、何が見えるか。」
エレミヤ書1章11節

 「桃栗三年…」というが、アーモンドも三年で花が咲くようだ。「実のなるアーモンドの種」という種を植えられた方があった。残念ながら、その方は急逝されたが、その悲しみを包み込むようにして、今年は花が咲き、実がなった。梅の実を押し潰して引っ張ったような形の実に、見学者が絶えない。わたしも初めて見た。 神はエレミヤに尋ねた。「エレミヤよ、何が見えるか。」と。それに彼が答えたのが、「アーモンドの枝」であった。エレミヤが見たのは花ではなく、枝であったが、「枝」とは「杖」のことだと理解する人がいる(「虚無の効用」大隅啓三著)。大隅氏によると、「アーモンド(シャーケード)」と「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)」の語呂合わせの中には、巡礼者の杖、牧羊者の杖という神の見守りの徴が隠されているという。預言者に託された使命は「滅ぼし、…建てる」ことであった。その使命を励ます神の杖がエレミヤを支えていたのである。今の私たちには、神の杖は見えているだろうか。

【5月10日】

「彼らは一房のぶどうの付いた枝を
…棒にぶら下げ、二人で担いだ。」
民数記13章23節

 一房のぶどうを二人で担ぐほど大きなぶどうは本当にあるらしい。わたしたちと同じようにそれを見た人々は驚いたに違いない。そして、神が約束してくださった「乳と蜜の流れる地」に憧れを感じた。しかし、イスラエルの民は、その地にいる巨人に恐れをなして、神が行けと命じた地に行く勇気がなく、結局40年間も荒野を彷徨うことになる。ヘブライ人への手紙は、それは民の心が頑なで不信仰であったからだという。しかし、同じ手紙は、そのような頑なな民にもまだ安息にあずかる道は閉ざされていないとも語る。逼塞する毎日。ストレスばかりが増え、ホッとできない毎日。わたしもその病気にかかり、思い付くままに千本浜の防波堤へ出かけた。夕日に海は輝き、自分に向かって来る海風さえ、聖霊の嵐のようで、逆にホッとして散歩ができた。神は今でも生きて働いてくださっている。苦しむわたしに夕べの海の輝きを通して、イエス・キリストの復活の力を見させてくださった。

【5月3日】

「あなたの業を主にゆだねれば
計らうことは固く立つ。」
箴言16章3節

 「ゆだねる」という言葉は、ヘブライ人の生活感覚では「転がす」という字を使って表現するようだ。人生の重荷を神さまのところまで転がすことができれば、ゆだねたことになるという発想で、反対に同じ箴言26:27では「石を転がせばその石は自分に返ってくる。」とも書かれているように、憎しみに向かって坂の上から石を転がせばその石で逆に自分が苦しめられることも伝えられている。
 わたしたちはすでに、坂の上から恐れという石を転がしてしまった。童謡の「どんぐりころころ」は、どんぐりは転がって池に落ち、どじょうと遊んで、束の間の喜びを覚えるが、最後はお山が恋しいと歌うように、転がって罪の中を紆余曲折しながらも復活の主のところまで転がっていけばしめたものである。
 毎日、わたしたちの信仰を転がそう。手始めに、朝起きて、今日も「主の祈り」を祈ることが許されたことに感謝できるところまで、わたしたちの心を転がし始めよう。

【4月26日】

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」
マルコによる福音書8章34節

 人間の体の中には、「ハッピー・ホルモン(オキシトシン」なるものがある-。NHKの「ガッテン」で放送していました。親しい人と触れ合ったときに出るホルモンで安心感が生まれるそうです。子どもの頃、お腹が痛いと、優しく痛いところをさすってくれた母の手もこれに関係しているに違いありません。お腹の痛みの原因を取り除くわけではないが、不安の中で安心が与えられる不思議な力です。
 主イエスは、「自分を捨てる」という厳しい求めをされるますが、それは、わたしに委ねなさいということです。主の祈りを祈る約1分の間、皆さんはどんなイエスさまの顔を思い浮かべながら祈られていますか?「試みに遭わせないでください」と祈るとき、自分を支えてくださっているイエスさまの顔が思い浮かびますか?十字架の主の顔が思い浮かべば、主の祈りの中にも「ハッピー・ホルモン」の分泌促進の力が生まれます。

【4月19日】

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」
ローマの信徒への手紙12章14節

 エレベーターに同乗してマスクをしていなかったら、相手に横を向かれたとの悲しみをある教会員が語ってくれました。疫病の中でみんなと同じことをしていなければ「非国民」と呼ばれる時代が来るのでしょうか。次第に正論なるものも力を失っています。マスクの効果をどれほど訴えても、だれも耳を貸さないからです。そんな中でわたしたちは、みんなと違った生き方、すなわち、信仰に生きようとするとき、迫害の中に置かれるのは当然です。
 そのとき、主イエスは言われるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」「わたしのためにののしられるとき、…喜びなさい。」と。どうしたら喜びへと導かれるのか。さあ、主の祈りを祈ってみましょう。「我らの罪を犯す我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と。わたしとあなたの罪を赦してくださいと神に祈るのです。正しい判断ができなくても、それを赦してくださいと祈ることは、即効薬でなくても、特効薬なのです。

【4月12日】

「だれが、キリストの愛からわたしたちを
引き離すことができましょう。」
ローマの信徒への手紙8章35節

 讃美歌155番「山べに向かいて我 目をあぐ。 助けはいずかたより きたるか。 あめつちのみ神より 助けぞに来る」を心に響かせています。
 わたしたちは今、何を一番大切にしたらよいのでしょうか。自分の命か。それとも神を賛美することか。何が正しいことなのかが分からなくなった今、それでも、わたしたちは神さまにだけは申し開きのできる生活をしたいと願います。それは、パウロが語るように、毎日の生活の中で悪戦苦闘しても、神の愛からわたしたちを引き離すものは何一つありませんでした、と神さまに言える生活のことです。だれもが逃れられない死とその恐怖。そのために、すべてのことが無意味に思えてしまい、無気力になるのではなく、復活の日の朝、墓の中に入った一人の弟子が、「見て、信じた」と聖書に語られているように、わたしたちの生活の中でも、神が生きて働いていくださる恵みはまだまだ至るところに備えられています。

【4月5日】

「成し遂げられた」
ヨハネによる福音書19章30節

 十字架の上で主は「為し遂げられた」と語られました。これこそが17章で主が祈られた、「あなたは子にすべての人を支配する機能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」との祈りの成就です。また、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られた言葉が、十字架において実現したのです。
 主イエスの十字架を信じることで、わたしたちに永遠の命が与えられる。それは、わたしたちの中から溢れ出る神の命です。永遠の命とは、永遠なる神の命に生き、栄光を神にお返しすることのできる命のことです。簡単に言えば、神を讃美することができる命が与えられるということです。その命は、どのような中でも神を賛美することができる力を持つのです。
 主の祈りは、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなり」と頌栄で終わっています。今こそ日々の生活の中での主の祈りに生きましょう。



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