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【8月2日】

「キリストを知るという知識の香り」
コリント二2章14節

 トランペットのような改造マフラーの音を響かせて、今日も教会前の大通りに白塗りのダンプカーがやって来た。その車体には、「KING OF THE STREET」と横書きされ、まさに王者の風格だ。ところが、今日は赤信号で教会の前に停車した。車体の下の方にもう一筆、「走れば赤字、止まれば地獄」と書かれているのを読み取ることができた。王者の悲哀を感じさせられる。教会の前で良かったねと声を掛けたくなった。
 王の王であるイエス・キリストも勝利の行進する凱旋将軍のようなお方としてパウロは描き、戦利品の一つとして奴隷を引き連れて来た。それが、わたしたちなのだとの解説を聞いたことがある。それはキリストのものとされた奴隷であって、自分の香りではなく、「キリストによって神に献げられる良い香り」なのである。
 「美香」とこの個所から命名されたわが娘もいるが、いまだに自分で良い香りをはなたなければならないとの呪縛に苦しんでいる。楽になればいいのに…。

【7月26日】

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」
詩編119編105節

 夜討ち朝駆けではないけれど、山梨と長野の教会を訪問したら、帰路は夜だった。青木ヶ原樹海から朝霧高原に差しかかると濃霧で一寸先も見えない状態で、車を走らせるにも不安を覚える。雨はワイパーで、闇はヘッドライトで凌げるが、霧はライトの光を遮って、見通しが効かない。緊張が走る。
 フォグランプも装備している。しかし、それは足元を照らすだけだ。しかし、それが大事だということに気づかされた。車の斜め前にはセンターラインがある。そこだけが照らされているのだが、そこだけを頼りに走れば、左に側溝、右に対向車が来ても、安全を守ってくれるという塩梅だ。
 聖書の時代の灯も、サーチライトではなかったはずである。遠くを見通せない灯に不安を覚えるのではなく、安心を覚えることを詩編は語る。先の見通せない時代に生きているが、毎週の礼拝で与えられる神の言葉は、センターラインのようにわたしたちの一歩を導いてくれる。不安と緊張の中で我が家に辿り着いた。

【7月19日】

「(わたしが)休ませてあげよう。」
マタイによる福音書11章28節

 教会員に看護師長がいる。3月第一主日の礼拝前にわたしに問いかけてきた。「礼拝を守ってもいいでしょうか。」と。質問の背後には、自分は限りなくグレーに近い人たちの担当となったので、「うつる」と「うつす」の二つの不安を抱えて苦悩する姿があった。そして、「礼拝を守っても構わないんじゃないの…」と返事をしたわたしの背後にも、「どなたでもお入りください」という教会の看板を背負った緊張が走った。結局、彼女は教会のロビーで礼拝を守ったのだが…。
 あれから4か月。7月に入ってやっと職務から解放されたようで、改めて一緒に礼拝を守ることができた。しかし、報道では、医療従事者の30%がうつ病の危険に晒されていると報じていた。彼女の所にも毎週このハガキを届けていたが、それは信仰のエールであった。あなたの疲れと重荷は、イエス・キリストにしか癒すことはできないと信じていたから。
 疫病は、「うつらない」「うつさない」だけの問題ではない。いかに生きるかを問いかける。

【7月12日】

「主よ、…七回までですか。」
マタイによる福音書19章21節

 中坪さんという教会の番頭を自負する人がいた。毎朝7時に教会周辺を巡回し、その朝も不審な車を教会内に発見。中を覗くと新任牧師家族が仮眠していたので、すぐに教会員全員に「新しい牧師が来た!」と福音を告げ知らせてくれた。しかし、時には善意も困ることがある。毎朝5時から教会の雑草取りを始めて、若い牧師の安眠を妨げた。35年も前の話なのだが…。
 故永六輔が「地獄への道は善意で敷き詰められている。」とラジオで語ったことがある。善意は迷惑になることもあるが、相手の業を裁けない難物でもある。
 教会の中にも事故が多い。雑草と共にラベンダーを刈り取られた教会もあるし、予約済みのアーモンドの種をお尻で枝から振り落とし、ごみ箱に捨ててしまったお掃除おばさんがいる教会もある。誰も悪気はないのだが、被害者には悶々とした思いが残る。放置すると怒りに爆発しそうだ。そんなときこそ、自分が何回主イエスに赦されたのかを数えることが、善意の呪縛から解き放たれる唯一の道である。

【7月5日】

「サタンはあなたがたを…ふるいにかけるように神に願って聞き入れられた。」
ルカによる福音書22章31節

 やっと「くちなし」の花が一輪咲いた。コーヒー豆のカスで土壌改良を試みた一鉢である。近所のくちなしは既に満開だというのに、我が家の蕾はなかなか開かなかった。でも、神が日陰にも時を備えてくれた。
 花には一つ一つに花物語がある。くちなしの左には薄紅のサフランが花を咲かせている。松崎教会から分けてもらった。今、本家の松崎ではだれが雑草取りをしているのだろうと思う。信仰と同じで雑草の生い茂る季節だ。
 また、右には欅が青葉を誇っている。欅が見事に紅葉することを、もらった人に見せていただいた。11月のたった1回だけの講壇用の花のために教会に持ってきてくれたことを思い出す。それを夢見て毎年育てているが、あと何年かかることだろう。
 そういえば、輪島の朝市で買った「百日紅」はどこに行ったのだろう。たった一回礼拝での御用を務めた後、行方不明になって、10年以上だ。放蕩息子よ、早く帰って来い!


【6月28日】

「聖書はわたしについて証しをするものだ。」
ヨハネによる福音書5章39節

 わたしの名前は、義を弘めると書くので、「義」とは何かと自問自答している。義は「羊」と「我」に分解できるので、最初わたしはイエスさまの良い羊になることが義かなと思っていたが、大漢語林によると「我」という部分は、ギザギザの鋸を意味し、羊を作法に則って屠ることが「義」だということだ。それは、神の義を考えるときにも同じだと思った。イエス・キリストは神の作法に則って、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださったことこそが、神の義を現わしている。
 「義子」さんがいる教会もある。この人もわたしと似て理屈屋である。しかし、その教会は兼牧なので、自分たちだけで水曜日に聖書を読み祈る会を始めるという。詩編を読むので、参考書はないかとのお尋ねであった。左近淑先生が生きていてくれたらと思った。残念だが、作法に則って読んでほしい。自分の理屈を聖書に読み込むのではなく、聖書の作法に則って神の義をイエス・キリストの十字架の中に読み取ってほしい。

【6月21日】

「一粒の麦は、…死ねば、多くの実を結ぶ。」
ヨハネによる福音書福音書12章24節

 数年前、孫が幼稚園の遠足でドングリの実をたくさん持ち帰った。そして、絵本で得た知識によって、わたしにこれを植えろ、植えたら芽が出るというわけである。子供の無邪気さを無下にはできず、あちこちに植えた。すると、あんな硬い殻を破って次々に芽が出たことには魂消てしまった。
 そして、数年。雑木だが、盆栽に仕上げようと大人の欲を出したのが間違いだった。秋に生い茂る枝を大胆に剪定した。しばらくしたら、幹まで枯れて駄目にしてしまった。しかし、別の木を植え直し、今年も今度は春先に剪定をしてみた。やはり、葉が枯れ始めた。また駄目かと思ったが、枯れた葉の横から若芽が出てきた。これで大丈夫だろう。剪定の時期が大事だったのだ。若芽が出る前に刈り取ることを覚えた。どんぐりの若芽は不気味である。どす黒い色の若芽だ。しかし、それが、日に日に薄茶に変わり、そして、若緑に変身するのである。
 神に罪を赦していただく時期を逸してはならない。十字架の贖いこそ、今の時期の真理。

【6月14日】

「十字架の言葉は、…神の力です。」
コリントの信徒への手紙一1章18節

 始まりは腰痛からだった。自彊術の先生に相談すると足を横に上げる運動をしなさいとのこと。やってみて二日目にお尻の筋肉痛。ひょっとしたら効くかもしれないとの思いで、その後10種目以上のストレッチ体操を続けて4年になるだろうか。朝のストレッチの時間は、昨日の疲れを今日に残さない。各種目を10回ずつ繰り返すが、頭の中ではたかが10回、しかし、体は疲れ具合によって、その10回も明日の目標になる時もある。でも、そこまで杓子定規になることもないだろう。
 何度も繰り返すが、「主の祈り」を日に三回祈ることは、わたしたちの信仰の土台だ。十字架の意味が分かるための聖霊の宮を作ってくれる。だれもが、ゴルゴタの丘には三本の十字架が立っていたことを知っている。しかし、だれもそれらの十字架の見分けがつかなかった。自分の知恵に頼っていたら、あなたの罪の赦しは分かりませんよとパウロは言う。丘の上の真ん中の十字架だけが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んでいる。

【6月7日】

「見張りの者よ、今は夜の何どきか。」
イザヤ書21章11節

 悪夢だった。選りによって、5月26日という教区総会が延期になったその日に、教区総会が開催された夢を見た。ところが、総会資料が見当たらない、議長席がない。更には、会場は福井県の東尋坊のような断崖絶壁で向こう側の岩場に議員がいるという始末。マイク係が到着するまでに5分はかかろうと思えるほどの難所にみんながいる。
 こんな形では、総会が開催できても不安が募るばかりであった。もう止めてくれと目が覚めたのが朝の4時。もう一度寝ようかと思ったが、夢の続きが現れると困るので起きていた。自分には、恐れはないと自負していたが、夢の方が正直のようだ。だったら、怖いなら怖いと言おう。そして、神に隠し事をせずに祈ろう。イエス・キリストの十字架はそんなわたしのために立っているのではなかったのか。
 あれから2週間。今度は、こんな詩編に出会った。「泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。(30:6)」そうだ、十字架の贖いの力はすごい。

【5月31日】

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
詩編23編1節

 羊という字が付く教会がある。礼拝は6人ほどの小さな教会だが、この教会には三人の乙女がいる。若い人で50代スレスレだが、その信仰は純朴で熱情的な乙女たちである。その中の一人が軽い脳梗塞を患った。後遺症として「失語症」が出て、「あい」という二文字を頭の中で「愛」に変換できなくなった。しかし、彼女の中から愛が消えたわけではない。愛という漢字が書けなくても、神を愛することは失われていない。ヨハネによる福音書が伝えるように「神を知る」ことは「信じること」、「愛すること」を体得し、創世記がどこにあるか分からなくて、聖書を開くことができなくても、乙女たちは神に愛されていることは肌で感じて毎日を暮らしている。どんなに羊は弱く愚かであっても、羊飼いがしっかりしているので安心しているのである。
 建物は、昨年の台風で雨漏りしたが、古すぎて修理不可能と言われてしまった。そんな建物で礼拝を守り、終わると、お茶と漬物で、「イースターの高笑い」を繰り返している。

【5月24日】

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」
マタイによる福音書9章17節

 世の中では、ウィルスとの「共存」と「新生活様式」が叫ばれている。共存の考え方を最初に聞いたのは4月中旬で、寄生虫学の上村清氏(富山二番町教会員)の発言であった。彼は、蚊の研究に一生を捧げ、採取のために世界各地を訪ね、自分の腕を蚊に吸わせて育てた。マラリアにもかかったが、83才の今も元気である。また、新生活様式といわれるが、そもそも信仰生活こそは新生活様式のはずである。弟子となった徴税人マタイにように罪から解放された生活なのだから。しかし、そのことがわたしたちに腑に落ちないのは、即効性の化学肥料で信仰という土を耕し、信仰が粘土質のように固くなってしまったからではないだろうか。
 教区農伝協議会で教えられたが、土を活性化する微生物の餌にはコーヒー豆のかすが良いらしい。そこで、もうすぐ花が咲く「くちなし」の鉢に加えた。まずは土壌改良からである。「主の祈り」も祈れば、信仰の活性化に大きな力を持っている。果たして、わたしたちの新生活が神の平安と祝福を受ける場となるのはいつか。



【5月17日】

「エレミヤよ、何が見えるか。」
エレミヤ書1章11節

 「桃栗三年…」というが、アーモンドも三年で花が咲くようだ。「実のなるアーモンドの種」という種を植えられた方があった。残念ながら、その方は急逝されたが、その悲しみを包み込むようにして、今年は花が咲き、実がなった。梅の実を押し潰して引っ張ったような形の実に、見学者が絶えない。わたしも初めて見た。 神はエレミヤに尋ねた。「エレミヤよ、何が見えるか。」と。それに彼が答えたのが、「アーモンドの枝」であった。エレミヤが見たのは花ではなく、枝であったが、「枝」とは「杖」のことだと理解する人がいる(「虚無の効用」大隅啓三著)。大隅氏によると、「アーモンド(シャーケード)」と「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)」の語呂合わせの中には、巡礼者の杖、牧羊者の杖という神の見守りの徴が隠されているという。預言者に託された使命は「滅ぼし、…建てる」ことであった。その使命を励ます神の杖がエレミヤを支えていたのである。今の私たちには、神の杖は見えているだろうか。

【5月10日】

「彼らは一房のぶどうの付いた枝を
…棒にぶら下げ、二人で担いだ。」
民数記13章23節

 一房のぶどうを二人で担ぐほど大きなぶどうは本当にあるらしい。わたしたちと同じようにそれを見た人々は驚いたに違いない。そして、神が約束してくださった「乳と蜜の流れる地」に憧れを感じた。しかし、イスラエルの民は、その地にいる巨人に恐れをなして、神が行けと命じた地に行く勇気がなく、結局40年間も荒野を彷徨うことになる。ヘブライ人への手紙は、それは民の心が頑なで不信仰であったからだという。しかし、同じ手紙は、そのような頑なな民にもまだ安息にあずかる道は閉ざされていないとも語る。逼塞する毎日。ストレスばかりが増え、ホッとできない毎日。わたしもその病気にかかり、思い付くままに千本浜の防波堤へ出かけた。夕日に海は輝き、自分に向かって来る海風さえ、聖霊の嵐のようで、逆にホッとして散歩ができた。神は今でも生きて働いてくださっている。苦しむわたしに夕べの海の輝きを通して、イエス・キリストの復活の力を見させてくださった。

【5月3日】

「あなたの業を主にゆだねれば
計らうことは固く立つ。」
箴言16章3節

 「ゆだねる」という言葉は、ヘブライ人の生活感覚では「転がす」という字を使って表現するようだ。人生の重荷を神さまのところまで転がすことができれば、ゆだねたことになるという発想で、反対に同じ箴言26:27では「石を転がせばその石は自分に返ってくる。」とも書かれているように、憎しみに向かって坂の上から石を転がせばその石で逆に自分が苦しめられることも伝えられている。
 わたしたちはすでに、坂の上から恐れという石を転がしてしまった。童謡の「どんぐりころころ」は、どんぐりは転がって池に落ち、どじょうと遊んで、束の間の喜びを覚えるが、最後はお山が恋しいと歌うように、転がって罪の中を紆余曲折しながらも復活の主のところまで転がっていけばしめたものである。
 毎日、わたしたちの信仰を転がそう。手始めに、朝起きて、今日も「主の祈り」を祈ることが許されたことに感謝できるところまで、わたしたちの心を転がし始めよう。

【4月26日】

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」
マルコによる福音書8章34節

 人間の体の中には、「ハッピー・ホルモン(オキシトシン」なるものがある-。NHKの「ガッテン」で放送していました。親しい人と触れ合ったときに出るホルモンで安心感が生まれるそうです。子どもの頃、お腹が痛いと、優しく痛いところをさすってくれた母の手もこれに関係しているに違いありません。お腹の痛みの原因を取り除くわけではないが、不安の中で安心が与えられる不思議な力です。
 主イエスは、「自分を捨てる」という厳しい求めをされるますが、それは、わたしに委ねなさいということです。主の祈りを祈る約1分の間、皆さんはどんなイエスさまの顔を思い浮かべながら祈られていますか?「試みに遭わせないでください」と祈るとき、自分を支えてくださっているイエスさまの顔が思い浮かびますか?十字架の主の顔が思い浮かべば、主の祈りの中にも「ハッピー・ホルモン」の分泌促進の力が生まれます。

【4月19日】

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」
ローマの信徒への手紙12章14節

 エレベーターに同乗してマスクをしていなかったら、相手に横を向かれたとの悲しみをある教会員が語ってくれました。疫病の中でみんなと同じことをしていなければ「非国民」と呼ばれる時代が来るのでしょうか。次第に正論なるものも力を失っています。マスクの効果をどれほど訴えても、だれも耳を貸さないからです。そんな中でわたしたちは、みんなと違った生き方、すなわち、信仰に生きようとするとき、迫害の中に置かれるのは当然です。
 そのとき、主イエスは言われるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」「わたしのためにののしられるとき、…喜びなさい。」と。どうしたら喜びへと導かれるのか。さあ、主の祈りを祈ってみましょう。「我らの罪を犯す我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と。わたしとあなたの罪を赦してくださいと神に祈るのです。正しい判断ができなくても、それを赦してくださいと祈ることは、即効薬でなくても、特効薬なのです。

【4月12日】

「だれが、キリストの愛からわたしたちを
引き離すことができましょう。」
ローマの信徒への手紙8章35節

 讃美歌155番「山べに向かいて我 目をあぐ。 助けはいずかたより きたるか。 あめつちのみ神より 助けぞに来る」を心に響かせています。
 わたしたちは今、何を一番大切にしたらよいのでしょうか。自分の命か。それとも神を賛美することか。何が正しいことなのかが分からなくなった今、それでも、わたしたちは神さまにだけは申し開きのできる生活をしたいと願います。それは、パウロが語るように、毎日の生活の中で悪戦苦闘しても、神の愛からわたしたちを引き離すものは何一つありませんでした、と神さまに言える生活のことです。だれもが逃れられない死とその恐怖。そのために、すべてのことが無意味に思えてしまい、無気力になるのではなく、復活の日の朝、墓の中に入った一人の弟子が、「見て、信じた」と聖書に語られているように、わたしたちの生活の中でも、神が生きて働いていくださる恵みはまだまだ至るところに備えられています。

【4月5日】

「成し遂げられた」
ヨハネによる福音書19章30節

 十字架の上で主は「為し遂げられた」と語られました。これこそが17章で主が祈られた、「あなたは子にすべての人を支配する機能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」との祈りの成就です。また、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られた言葉が、十字架において実現したのです。
 主イエスの十字架を信じることで、わたしたちに永遠の命が与えられる。それは、わたしたちの中から溢れ出る神の命です。永遠の命とは、永遠なる神の命に生き、栄光を神にお返しすることのできる命のことです。簡単に言えば、神を讃美することができる命が与えられるということです。その命は、どのような中でも神を賛美することができる力を持つのです。
 主の祈りは、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなり」と頌栄で終わっています。今こそ日々の生活の中での主の祈りに生きましょう。



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