=PARIS夏物語=(1)
1 旅はドジな失敗から始まった
RER(高速郊外鉄道)、ロワシー駅のホームである。名古屋からソウルを
経由して、予定どおりシャルル・ド・ゴール空港に着き、エール・フラン
スの無料のシャトルバスでパリ市内へ通じる駅へ来た。
「パリだ!久しぶりのパリだ。パリの香いがするよ!」と言って、私は大
きく鼻を膨らませて深呼吸をし、パリの香りを味わった。列車がいよいよ
ホームに入って来た。ふと、
「手提げは?」と私が女房に尋ねると、それまでニコニしていた彼女の顔
が一瞬止まった。
「・・・アッ!忘れたっ!」と言うが早いか、彼女は階段を掛け登って行
った。あまりの身軽さというか、その咄嵯の反応に私は、少々呆気にとら
れていたが、
「バッゲージ見ておって」と同行のT君に頼んで、私も彼女の後を追った。
慌てている彼女に追いついた私は、
「どこに忘れたの?バスの中では見た記憶があるけど」
「アアア・・・」はっきりしない。多分、彼女の頭の中は真っ白なのだ。
『彼女は、確かバスの座席の陰に置いていた』私の記憶は鮮明に残ってい
る。『こんなところへ置いていていいのかな』と、その時のことを思い出
すと同時に、人のことは言えない。自分自身も又、手提げのことなどすっ
かり忘れていたのだ。いずれにしても、彼女は『持って降りた記憶はない』
と言う。駅のインフォメーションに行くと、『バスのことは改札の外のCIF
という事務所で尋ねろ』と言われた。女房は改札口のバーの下をくぐり、
私はその上をポーンと飛び越えて外へ出た。『CIF』と書かれた事務所はす
ぐに見つかったが、無情にもドアの把っ手には『CLOSED』の看板が掛かっ
ていた。勿論、私たちが乗って来たバスはいるはずもなかった。
万事休す。夕刻の暑い日差しに、汗がドッと吹き出してきた。
****
ホームに戻ると、T君が心配顔で、
「どうでした?」
「バスの中ではどうにもならない」
「何が入っていたんですか?」
「みやげが4万円ぐらいかな?」
「みやげ?」
「早々と買っちやつたのよね。名古屋空港で友達にスカーフを2枚、2割引き
だったのよ。それに、ソウルで高麗人参を父のみやげに。・・・海外旅行の
時にはいつも持って来る私のスカーフと2人の愛用の帽子」と、女房は力な
く言う。
「飛行機降りる時、帽子わざわざ手提げに入れたんだよな。被っておれば良
かった」と私は、彼女が持って来たものではあるが、自分が一度は目にして
いながら、それをすっかり忘れていたことに少しの苛立ちを覚えながら言っ
た。
「パスポートでも入っていたなら大変だけど・・・そうでなければまあ・・」
とT君は女房を元気づけてくれた。
「それにしても、名古屋で3割引のネクタイ買わんで良かったなあ。1万円も
したもんなあ。買わなくてよかった。そう考えよう」と私は女房よりもむし
ろ自分への苛立ちをかき消すために言った。
ホームに電車が入って来た。私たちは、石のようにズシンと重いバッゲー
ジを提げて列車に乗った。
2 アレッ、ドキッ症候群
重苦しい空気、沈黙が続く。
「仕方ない。もう、忘れようヨ」と私は、グッタリ疲れた様子の女房に言った。
「エエ・・・」とは言うものの、まだ浮かぬ顔である。列車はスピードを上げ、
パリ市内へ向かって突っ走った。車窓には夕刻ではあるが、太陽のギラギラと照
りつける家並みが続いた。
「アレッ?」と私が言うと、
「何?また、何か?」と女房が聞き返す。
「イヤ、ハンカチどこ入ったかと思ってネ。暑いもん」と言いながら、私はポケ
ットを探す。
「脅かさないでヨ。あなたが、アレッと言うとドキッとするワ」もう完全に神経
が異常に過敏になっている。人のことは言えない。私自身もそうなのだ。お互い、
『アレッ!』と言うたびに『ドキッ!』と反応するのだ。全くどうしようもない
『アレッ、ドキッ症候群』に掛かってしまった。
****
それにしても、列車はどんどんどんどんスピードを増し、小さな駅のホームを
通過して走った。ロワシー駅を出て10分位たったが、まだ一度も止まっていない。
「北駅まで止まらないのかなあ?何だかこのまま永久に止まらないような感じだ
なあ」
「どういうこと?」と女房が心配顔で私を見る。
「冗談だよ。北駅までは止まらなくてもいいが、ポート・ロワイヤルは止まるだろ
うなあ」と、私自身、列車のあまりの速さに、頭の中をいろいろなことが駆け巡っ
ているのだ。
「この電車、北駅止まりだった?もっと先まで行く電車だった?」と私は、T君に
半ば助けを求める感じで問うた。
「確か‥・北駅止まりではなかったはずですヨ」
「私もそう思ったんだが・・・・まあなるようになる。ケセラセラだ。行き過ぎた
ら戻ればいい」と言ってはみたが、やはり気になるので、前の座席に座っている勤
め帰り風の綺麗なパリジェンヌに、
「マドモアゼル、この電車はポート・ロワイヤルに止まりますか?」と私がカタコ
トの英語で尋ねてみた。彼女は、突然の問い掛けに、私の言ったことがよく解らな
いらしい。
「WHAT?]
「この電車はポート・ロワイヤルに止まりますか?」
「WHAT?]何のことはない、私の英語がいいかげんなのだ。そこで、奥の手登場。
「ジス トレン ポート・ロワイヤル ストップ?」もうほとんど日本語の世界で
ある。しかし、マドモアゼルは、
「ウィ、ウィ」知的に美しくほほ笑みながら答えた。
「ウィ、ウィと言っている。ポート・ロワイヤルには止まるらしいヨ」と言うと、
女房は、
「本当に止まるの?チャント通じているの?」と懐疑的。
『それじや、自分で聞いたらいいじやないか』と思ったが、ここで夫婦喧嘩もない。
グット飲み込んだ。
線路わきのビルの壁には、ほとんど芸術に近い、パリ独特のマンガの落書きが
延々と続く。車窓には、“SANYO”だの“PANASONIC”という看板が目に入ってきた。
「いよいよ北駅だヨ」列車はスピードを緩めながら地下に入ると、前のマドモアゼル
がごそごそし始めた。そして、私に笑みを送りながら席を立って、
“AU REVOIR!”[オ・ルヴォア](さようなら)
「オヴァ」私もニコッとしながら答えた。
「それにしても、お嬢さんにオヴァもないもんだね」
「ねえ、ねえ、あのお嬢さん、座っている時はそうでもなかつたけど、立つと大きい
ねえ。170cmは裕に有りそうね」
「それだけ脚が長いってこと」
「日本人と全く反対。日本人は座っていると大きくて、立つと案外小さい」
「胴が長い」と言って、3人で笑いこけた。
忘れ物事件から少し気分が解放された。
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こうして《PARIS夏物語》の幕は開いた。
=(2)へつづく=
【ビルの壁面アート】〜いかにもパリ