〜ビーノで乾杯!(4)〜
サン・チャゴ・デ・コンポステーラへの道編
バーモス・ア・セゴビア!
ホテル・サンタンデールを出たのは丁度12時頃であった。スペインの
国産車シアットをレンタルし、5人乗りのところへ6人
乗っての出発であ
る。雄大な景色に私は興奮しながら助手席で写真
を撮ったり、8ミリ撮影
をしたりで忙しい。
「あっ死の谷の十字架じゃないか」左手前方のはるか向うの山の上にとて
つもなく大きな十字架が見える。1939年に終結したスペイン市民戦争
は50万人の死者を出した。戦後総統となったフランコが慰霊碑として建
てたものという。あとで案内書で調べたら高さは100mあり、エレベー
ターで展望台へ登ると晴れた日にはマド
リーの街が見えるという。
ただラルフは独裁者フランコが嫌いと見えてあまり話したがらない。運
転手の彼は少しイライラしながらアクセルを踏む。スピードがどんどん出
る。もともと対向車はほとんどないので速さはあまり感じなかったがメー
ターが時速100kmをはるかに越え140km/hを示しているのを知っ
てビックリ。その上、こともあろうに後の
座席からみつ子が、
「これラルフに飲ませて」と言ってビーノのボトルをさし出した。こんな
スピードを出していて、しかも飲酒運転、
「いいのよ、スペインじゃこれが普通なんだから」と。私が躊躇している
と、“Thank you!”と言ってラルフは私からボトルを取りラッパ
飲み、
「バーモス・ア・セゴビア!!」(セゴヴィアへ行こう!)
【ローマ水道橋:現在も使われている】
***
グアダラーマの山を越えてしばらく
するとセゴビアである。夢にまで見て
いたセゴビア。車が石畳の街角を曲る
と眼の前にローマ水道橋が突然現われ
た。
“Wao!”と皆が一斉に声をあげた。
四角く切った花崗岩を積み木のよう
に重ねただけの高さ約30m、全長約
720mのローマ水道橋。一世紀後半に造られたものだが現在もなお使用
しているという。そしてさらに驚くことに、アーチの巾が丁度バスの通れ
る巾であるという。偶然にしてもあまりに不思議であり、ローマ時代の人
人の偉大さを思う。
昼食は仔豚の丸焼き
昼食は“Meson de Candido”というレストランでとった。セゴビアの代
表的料理である「コチニージョ・アサード」(仔豚の丸焼き)は、このレ
ストランの先代の主人が考え出したものである。出発の前からこれだけは
食べなければセゴビアに行く価値はないと考えていた。食べるまでは女房
連は少々気味悪がっていた。しかし、この前の闘牛といい、いいかげんな
ものである。料理が運ばれて来ると、
「ワァ、毛がまだくっついているョ。」と言いながら、旨い旨いと言って
他人の分まで食べる勢いである。仔豚のためか脂っぽさが全くなく、むし
ろさっぱりしている。
二代目カンデイードさんは親日家とみえて、私たちにいろいろ話
しかけてきた。東京や横浜、京都という町の名を知っているという。
写真も一緒に写ってくれた。ローマ水道橋下の一等地の有名なメソ
ン(レストラン)の主人が私たちに気軽に接してくれる。スペイン
人の人柄
である。
仔豚にも増して今回の旅行中私にと
って1番美味であったものをここで食
べた。それは「ペースト」である。ラ
ルフの話では多分仔豚のレバーが主成
分だろうという。レバーの深い味が口
の中にフッと広がり、いまだかってこ
んなに美味いものは食べたことがない。
『この世の中にこんなにおいしいものがあるのか!』と思う程であった。
白雪姫のお城
メソンを出て、アルカサール(城)に行くことにした。みつ子とラルフ
は車の中で寝て待っているという。シエスタ(昼寝)である。
私たちは4人になって地図を片手にお城へ向った。15分位歩いてアル
カサールに着いた。このアルカサールはデイズニーランドの白雪姫のお城
のモデルとなったものである。セゴビアの町の西のはずれに立つこの城は
文字どおりおとぎの国のお城であった。小池さんと女房はいつも疲れた疲
れたと言いながらついて来るが、この比類なき美しいアルカサールを見た
とたんに元気が出てきて、その一番上
まで登る
ことにした。急な螺旋階段を息を切らせながら
登る。途中で小池さん、
「もう戻ろうかしら」
「何言ってるの、ここまで来
て」足がだるくな
り、汗が出る。上から降りて来る人が、
「ウン・ポコ」(あと少し)と教えてくれる。
上に出るとサッと涼しい風が迎えてくれた。
8月とは言え湿気がないので風が爽やかだ。そ
して、そこからの広大なパノラマに私たちはた
だただ感嘆の声をあげるのみであった。カステ
ーリャの赤い台地の地平線、隣の村へつづく一
本の道、遠くに小さな集落があり、教会の尖塔
が見える。女房は、この景観を見にスペインま
ではるばるやって釆たのだという。私は夢の中
にいるのではないかと思った。あくせくと働く現実の世界とはあまりにか
け離れすぎている。ただ今は仕事の事とは忘れよう。そして思い切り楽し
み、あえて夢の中に自分を置いておこうと思った。そんなことを頭の中で
めぐらせている時、女房が、
「夢みたい」
と言って私の手をギュッと握った。
サラマンカだ!
予定の時刻にセゴビアを発った。
広漠とした原野をサラマンカへ急ぐ。
対
向車はほとんどない。一本の真っ直ぐな道がどこまでもどこまでもつづ
く。大海原を越えるがごとく、野を越え丘を越えてさら真っ直ぐ
な道がつ
づく。時速は140km/h、朝からずっとこんなスピードで
走っている
ので慣れはしたが、やはり不安である。ぶつからなくても
パンクでもした
ら一巻の終りだ。はるか遠くの小高い丘の上に街が見
えた。
『サラマンカだ!』
ここにはイギリスのオックスフォード、イタリアのボロ−ニヤと並ぶスペ
イン最古(1250年創立)の大学がある。中世スペインの文化的中心都市
である。700年の前も同じように流れていたであろう、ゆるやかなトル
メス河の対岸にカテドラルとサン・エステバン教会が見える。そして褐色に
統一された民家の屋根が美しい。ローマ橋を渡って市街地へ入った。
***
「ホテルを見つけてくるからマヨール広場を散策していて・・」と
言い
残してラルフは私たち5人と別れた。私達が
広場に行ってみると日曜日の
夕方とあって大変賑っている。
広場の周囲の建物は、グラナダのアルハン
ブラ
宮、エル・エスコリアルのサン・ロレンソ宮とともにスペインの三大
建築美の一つと市民は自慢する。広場にはカフェテラスが出て人々
は休日
のひと時を楽しんでいる。
ところで、スペイン語は母音で終わる
言葉が多く、もとより意味は全く
違うが、日本語(特に名古屋弁)
に聞こえる時がある。この時もそうであ
った。私が、『今日は強行軍で
疲れたなあ』と女房に言うと、すぐ傍にい
たスペイン人の会話が耳に
入り『…ハヨネヤー』と聞こえ大笑いをした。
嘘のような本当の話
である。
女房殿ダウン
ラルフが見つけたフォンダ(民宿?)に一旦入り、少し休憩して、午後
10時頃夕食を食べるために外へ出た。こんな時刻になっても考えられな
い程賑わっている。マヨール広場は着いた直後に行った時よりさらにごった
返えしていた。小さなバールに入り、ビーノで『サル
ー、サラマンカ!』
野菜の煮付けとポテトサラダを食べながら、セゴビアの食事のことやアル
カサールのこと、そしてどこまでも続いたカステーリャの広さのこと等、
話の種はつきない。
午前0時を過ぎたのでフォンダに戻ろうということになった。途中、女房
がつぶやいた。
「どうもお腹の調子がおかしいワ。」
フォンダに戻って早速トイレに駆け込む。
「フランス新幹線並みの下痢だった。」と言って女房が戻って来た。出発し
てから一週間、疲れが胃に来たらしい。そして、彼女はベッドに入ったがす
ぐには眠れず、眠たい私を悩ませた。何時間たった頃か、暗闇の中で、
「ネェ起きてョ、トイレに行きたいノ、付いて来て。」という声に私は起こ
された。『仕方ない。ここはサラマンカだ。付いて行くか』共同トイレなの
で怖いというのだ。2人は急いで服を着替えて出た。時計を見ると午前3時
前であった。しばらく私はトイレの前で待っていたがなかなか出て来ないの
で部屋に戻って待つことにした。少しすると,女房の入っているトイレのド
アを外から『トントン!』とノックしている音が聞こえる。これは女房も不
安であろうと再び部屋を出てトイレの方を見ると、すばらしいプロポーショ
ンの若い女性のシルエットが薄暗い廊下のあかりの中に浮かんだ。男性用の
白い
カッターシャツをはおり、そこから直接すらりとした長い脚が伸びてい
る。私は思わずゴクンと『なま唾』を飲み込んだ。
本当の反骨精神
翌朝9時に起き4人でサン・エステバン教会へ行った。ここのファサード
(前面)彫刻はプラテレスコ形式の傑作の一つと言われ大変すばらしいもの
であった。シスターが中から出て来たので、一緒に写真を撮らさてもらった。
朝早いためか教会の中には誰も居ず、静寂と天井の高さとその空間が私たちを
圧倒した。カテドラルにも行ってみたが、女房のお腹の具合が依然として思わ
しくなく、彼女と小池さんはフォンダに帰った。
佐藤さんと私の2人で大学へ行ってみた。大学の前にはフライ・ルイス・デ
・レオン(同大学教授)の像が立っている。彼はラテン語訳の聖書よりヘブラ
イ語訳の聖書の方が優れていると言ったために5年間の牢獄生活を送ることに
なってしまったが、出獄して大学に戻った最初の講義で、
「昨日も申しましたように・・・」と話し始めたという逸話が残っている。
その反骨精神が高く評価されている。
(つづく)
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