小さな出逢い
たとえそれが人間でなくても、信頼を得ることは何ものにも代えがたい喜びの日々でした。







1996.初夏.初めての出逢い

この夏(2003年)、庭でついやす時間がめっきり少なくなっていることに私自身気がついている。終日、私の庭仕事につき合ってくれたのは我が家の5匹の猫達ではなく、どう言う訳か峠のくろだった。その彼との初めての出逢いを今も忘れない。7年前の96年6月末に群馬.安中市磯部から峠に越した。築150年という古民家が気に入って、居間と台所など水回りを住める程度に改装し、猫5匹をひきつれての引っ越しだったが其の夜から猫達の活躍の場となった。その後半年、朝目覚めると猫達が食べ残したネズミの頭と尻尾を拾い集めその数を数えるのが日課になった。この家を買い取る以前の半年、空き家に成っていた間に、何のことはない、野ネズミの住処になっていたのだった。現代建築は基礎を回しその上に直接土台となる木をボルトで留めてから、その上に柱を立てるのが普通だが、150年も以前に建てられた古民家の作りは違う。大きな土台石を柱の数だけぽんぽんと置き、その上に最初に柱を建てる。立てた柱に土台を組みつける造りだから、当然地面と土台の間に隙間が出来る。この隙間を壁を張る作業時にふさぐのだが、長年の風雨や湿気で傷んだり、土地の落ち込みなど、縁の下に出入り可能な隙間がいくらでもできる。野ネズミは家人が取り残していった残飯や種、穀物をねらって侵入し、ねずみ算で増え続けていた。そして、峠に棄てられた生後間もない子猫も、隙間から縁の下を抜け土間から部屋に上がり、うち捨てていった衣類や古布団をねぐらに、食べきれないほどの新鮮な食材と共に、私達が越してくるまで安住の住処として快適に暮らしていた。知らないのは後から越してきた我々だけだった。南の谷側に山と積まれた廃材を処分する作業に追われる毎日が続いていたある日、南の縁の下から一匹の黒い子猫が逃げ出してきて、廃材の上に敏捷に駈けあがってから足を止めて私を振り返った。子猫を驚かせる必要はなかった。「だーめ。飼って上げられないの...来ちゃだーめ」。子猫は棄てられて以来きっと初めて話しかけた人間の声に不思議な反応をしめしたが、やがて廃材の向こうにヒラリと消えた。私は子猫が消えたことに安堵しながら、寂しかった。



1996.秋.初めてのすりすり

私の歩みに上手に足並みを揃え歩いたくろ。良く調教された子犬のように。時には忙しげに、時にはだらだらと何度も庭を往復する私と並んで、彼も小走りにとんとんとんだったり、てくてくだったりして往復する。子猫だった彼との初めての出逢いから4ヶ月近くが過ぎ去り、夏をどう乗り切って生き延びたのか、体だけはすっかり大きくなった彼が我が家の敷地の隅に姿を現すようになったのは刈り入れも終わり、峠が静けさを取り戻した頃だった。私が庭仕事に出る頃を見計らって藪の中の自分だけの道からやって来て毎日私をただボ〜ッと距離をおいて見ていた。気づかぬ振りをして庭仕事をする私との距離を日毎に詰めながら様子を窺っていたが、一ヶ月ほどかけてとうとう私との距離を1メートルのところまで近づけていた。彼は此の後どうするか?私は心の中でくすくす笑っていた。そしてあの日、彼は屈んでいる私の真後ろ一歩に位置をとり小さく話しかけるように数度啼いたあと、間をおいて頭をわたしのお尻にそっと一度すりつけ反応を確かめた後、「これでもか!」と言うように「にゃ〜ん...」そしてすりすり。私はゆっくり振り返り彼に話しかけた「あ〜ら!おまえだったの?」 彼は逃げずに私の視線をしつかり捉えて、もう一度啼いた。こうして、くろとの7年間がはじまった。



1997.晩夏.初めてのなぜなぜ

私を認めた途端、遠くから尻尾をたてて話しかけるように啼き啼きやってくる。屈むと私の手元をしばらく観察した後、あきらめ顔で傍に寝そべってうとうと待ちの彼に私は言う。「く〜ろ...たまには手伝って...」。彼がいなくなった今も私は思う。生まれてから棄てられるまでの数ヶ月、彼は飼い主であった人間の温もりを確かに受けていたと。捨て猫でありながら7年かも彼が元気に峠で生きる事が出来た事がなによりの証のように思っている。彼は必要以上に人間を畏れなかった。敏感に自分を許す人間を見分けて全幅の信頼を寄せ、そして私はそれを最後まで裏切ることが出来なかった。我が家にはこの上もないほど人なつこく見える猫が居る。慕って後追いし、すりすりする様などあまりの愛らしさに抱こうとして手を延ばそうものなら、瞬時にバリッ!と引っ掻かれひどいことになる信じられない猫なのだ。彼女は一方的に愛するが、相手の愛を決して受け入れないテイプらしい。此に懲りているので、くろとの交流が始まって1年近くが過ぎても私からくろに触れることはしないでいた。庭仕事に疲れると木陰を選んで置いた枕木をブロックにのせただけのベンチでも、一服するのは気持が良い。勿論、横でくろも一服なのだが、くろも一方的なすりすりだけの交流は私からすれば見えぬ一線が臥しているようで、かれのビブラートの効いた啼き声への反応もいまいちだった。しかし、その一線を越えるかのように、わたし手のひらの下に頭をク、クイーッと入れたのです。くろは自ら私が触れることを許した一瞬でした。「触っていいのね?く〜ろ...ほーら、これがなぜなぜだよ...」。私は呪文のように低く話しかけながら、優しく優しく彼の頭をなぜた。彼は全ての動きを止めた。それは、邪険な仕打ちを用心した警戒のようでもあり、なぜられる感触を全身で記憶しているようでもあった。何時までも私の手のひらの下で、微動だにしなかった。



ごろごろを知らないくろ

私が庭仕事に疲れてひと休みするのを根気よく待って、椅子に腰掛けた私の真ん前に思いっきりお行儀よく座る。そして私の視線を捉えようとまんまるい目を瞠って私を見上げる。「くろ...おまえは綺麗なおめめをしてるのね...」言いながら、ゆっくり瞬きをし視線を逸らしたから、もう一度視線を静かに戻し、トーンを落とした声で話しかける。たいていの猫はこれをすると安心する。瞬きをして視線を逸らすは猫界のお約束事だ。くろは更ににじり寄って、ひざに両手を掛けだっこをおねだりするのだが、彼は後ろ足で足踏みをするのです。「くろ!足踏みしてないで、後ろ足でひらりと飛び乗ってごらん...ほ〜ら」と何時までももじもじと足踏みしている彼を抱き上げ膝にのせる。最初の頃は膝の上でぎこちなかった彼も、徐々に抱っこにも馴れ膝の上でくつろぐようになった。そのうちに降ろそうとして少々押したくらいでは、前足をふんばり「んにゃ〜」と文句をいって駄々をこねる、抱っこ好きの猫に変身していった。しかし、くろは目を細め気持ちよさそうにしていても決して「ゴロゴロ」と喉をならすことはありませんでした。そんな彼に「くーろ...ゴロゴロしてごらん...くろはゴロゴロできないの?くろはゴロゴロしらないのね?」  くろはたった一匹ぽっちで大きくなったので、嬉しいことも楽しいことも、な〜にもなかったのです。可愛いね?良い子だね?と慈しんでもらう事もなく一匹ぽっちで大きくなったくろでした。だからくろはゴロゴロを知りません。くろのゴロゴロ、一度でいいから聞いてみたかったな...



何時だって立派にお留守番

工事中


苦手なお父さんが来たのでお母さんのほうへ逃げてきました。

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