Nゲージ蒸気機関車>2011年のメモ>2011.6.4/2011.8.11
先日ご紹介したC55 3次形(50号機)は、急行「利尻」の牽引で有名ですが、国立大学の貯炭場に石炭を届けるという、模型的にも興味深い仕事をすることがありました。
北海道札幌市に北海道大学という学校があります。もと農学校ということで農場があり、敷地はかなり広い学校です。
1952年から1964年まで、ボイラー用の石炭を構内に運ぶための専用の引き込み線が存在し、そこを蒸気機関車の石炭列車が出入りしていました。ただ私は実際に見ておらず、取材もしていないので、普通に探して得られる以上の情報はこのページにはありません。
「北大の125年」(北海道大学図書刊行会)という本を参考に画いた当時の構内の略図です。細部は色々違うと思いますがご勘弁ください。 この本には石炭列車について1ページだけ記述があります(これだけを目当てにアマゾンでポチって買いました)。石炭列車は主に秋冬に走ったということです。入学から半年たって学校生活に慣れたころに、突然構内に現れた蒸機に度肝を抜かれた卒業生も多いと興味深い記述があります。工場や港湾施設の近くに無数の引き込み線があるのは当時普通でしたが、学校の中を縦断するのは珍しかったでしょう。 列車は概ね4両〜11両編成だったようで、片側にワフが連結されている写真もあります。 C55 50号機の場合、編成の末尾からバックで推進する形で桑園駅を出発し、地図の「魔の踏切」(詳細不明)の手前で左にカーブして構内に入ったようです。そのまま農学部・理学部の西を北上し、ポプラ並木と工学部の間を通り、最後は右に90度カーブしてメインストリートの直前で止まったとのことです。そこが当時の貯炭場で、今は駐車場になっているとのこと(2015年追記:その後、その場所に新しい研究棟が建っているとのことです)。 上の模型写真はバックで北上中のイメージですが、この時代には皿型のクルクルパーを付けており、副灯はなかったようです。 また前述の「北大の125年」にも1枚だけ写真がありますが、よく見るとすごいことになっています。デッキには両側に1人ずつ人が立ち、さらに給水温め器にも2人が腰掛けています(ヤケドしないのかしら)。ほか、デフの後ろのランボードやテンダー、後続のセキにも人がおり、合計8人ぐらいが群がっているように見えます。荷卸の作業を行なった人なのか、構内の移動中に便乗した学生なのか、わかりません。 |
機関車は編成の先頭にいたケースと末尾にいたケースがあるようです。普通に前進運転しているように見える写真もありますが、運用の詳細はわかりません。当時学内に出入りしていた方々は今でも多くがご活躍中なので、はっきり覚えているという方もいらっしゃるかもしれません。
この場合は、写真の右手が貯炭場、左手が桑園駅になるかと思います。
9600が牽いていた例では、こんなふうに連結されている写真もあります。この場合は機関車が末尾から推進したか、機関車を先頭にバックで貯炭場に向かったのかもしれません。
※模型のセキには黄帯がありましたが、画像では塗りつぶしてみました。
何と当時カラーでこの写真を撮影した方がいらっしゃいました。人づてに拝見したのですが、さかのぼって撮影者様に連絡を取っていただくことができ、掲載のご許可をいただくことができました。ご配慮誠にありがとうございます。この場を借りてお礼申し上げます。
写真:帯畜大名誉教授 藤巻裕蔵先生(yufuji38@blue.ocn.ne.jp) ※この画像の複製・転載はしないでください。
ファイル名の一部に付いていた数字から、1961年9月の撮影と推測します。青空の下の農場、トウモロコシ畑を左手にしてまっすぐ伸びる線路、その向こうには9600と見られる機関車のテンダー後部…という、現在の国内ではまず見られない光景です(今は9600自体が走っていませんが…)。
当時まだ珍しかったはずのカラー写真に写し出されている鮮やかな光景は、決して違う時代の色あせた過去ではなく、紛れもなく当時の「現代」の一コマです。
今この場所はどうなっているのでしょう。もし写真のポプラが倒れずに残っていたら、相当大きくなっているでしょうね。