町人の組織 ●大津町の人口は元禄時代に1万8,000人を超えたが、代官配下の同心が少なかったため、 町人全体をピラミッド型の組織に編成して支配が行われた。 代官の下には、大津町人の代表として惣年寄が置かれ、矢島・小野両家が幕末まで世襲。 一方、大津百町は10数カ町ずつ7組に分けられ、各組の代表者として組惣代7名が置かれた。 さらに各町には、町年寄とそれを補佐する五人組役が選任された。 彼らは町会所で寄合を開き「町定」を制定し、「自治的」な運営が行われた。
大津百町は、7組100町で構成されていた。 浜町組 :17町 ・ 中町組 :12町 ・ 京町組 :13町 ・ 升屋町組 : 16町 石川町組 : 12町 ・八町組 : 14町 ・谷町組 : 16町 私が住んでいるのは、八町組:下東八町・下西八町・上東八町・上西八町・上百石町・下百石町・四宮町 金塚町・布施屋町・葛原町・松屋町・上博労町・下博労町・寺町で組織された上博労町です。 八町組み町名の由来 ◎寺町:町名は京都の寺町にならったことに由来する。 真宗大谷派栄泉寺はかって大津には瓦葺のみられない頃にひとり瓦を葺いていたので瓦寺と俗称されていた。 ◎上博労町・下博労町:京都から大津の各町に至る牛車はこの町を通り寺町へ出た。牛馬の宿があったのでそう呼ばれたとある。 ◎葛原町:米相場を大津に知らせるのに飛脚や伝書鳩のほか山の頂上に人をたて手旗信号で米価の 上下を送る方法を近江屋町兵衛がこの役を請負った。膳所領内の監物山に登り伝達していた。 ◎金塚町:町名は、関寺造仏のとき当地に金塚があったからという。 ◎四宮町:寛保2年町絵図では通りの北に町名の由来となった四宮社(現天孫神社) |
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