一回目の朗読

「ようこそ、よく来てくださいました」
 その人は、思ったより穏やかな物腰で、しかしとてもしっかりした口調で言った。
もっとも、その声は彼がつけている仮面によって不明瞭なものになっていたが。
「それにしても、私でよろしいんですか?」
 私はここの雰囲気にのまれていた。
 高層マンションの最上階の部屋。シンプルなデザインのリビングルームだ。
 この高層マンションは、双子の塔を思わせる構成になっている。一方の壁は全面が窓になっており、窓の向こうには双子の片割れであるもうひとつの高層ビルが見えた。
 見下ろすと昼下がりの街が、パノラマのように広がっている。そして、このリビングのソファに寛いで座っている仮面をつけた男が、このマンションのオーナーだった。
 革で出来た仮面は、顔面をすっかり覆っている。そして、仮面の向こうに見えるの は二つの瞳だけだ。それ以外の部分はすっかり隠されている。
「もちろん。二年前にあなたが幻想文学の賞をとられたときから、ずっと私はあなた のファンでした」
 仮面の男の声はとても落ち着いている。年齢は仮面のせいでよく判らないが、案外 若いようにも思えた。
 彼は私の緊張した様子を察してか、ポットからお茶を注ぎ、私にすすめる。
 私はふとポットを持つその手に目がとまった。女性のように綺麗な長い指をしてい る。
 彼は穏やかな口調で言った。
「仮面をつけたままでいることを、お許し下さい。お聞きになっているとは思うが、 去年顔に酷い火傷を負ったものでね」
「はあ」
 私は曖昧に頷く。私は仮面の男の瞳から目をそらし、机に置かれた原稿用紙の束を 見る。ワープロソフトで印字されたらしい文字が、その原稿用紙を埋めていた。
「それで、あの、これが私が読ませていただく作品なのですか?」
 彼は頷く。
「あなたのようなプロ作家の方から見れば、とてもつまらない駄文かもしれませんが」
 私は思わず手を振って否定する。
「とんでもないです。私こそ、プロといってもまだ小説だけでは食べていけない状態 ですし、それにこの一年は何も作品を書いていません。私よりももっと的確なアドバ イスができる人はいくらでも」
 仮面の男は、手をあげて私を制する。その瞳は笑みを湛えているように、私には思 えた。
「勘違いしていただいては困るのですが」
 彼は少し、身を乗り出す。その瞳が私を真っ直ぐ見つめ、私は居心地が悪くなり少 し咳払いをした。
「ユング心理学では自己実現というそうですね。社会的に成功し、経済的に安定した 人間が突然、はたから見るとなんの意味もないようなことに熱中しだす。例えば、画 家を目指してみたり、小説家を志したり。私のやっていることは、まあそういうもの かと思っています」
「はあ」
 私はまた、曖昧に頷く。
「自己実現ですか」
「そうです。別に私はプロの作家として成功したいと思っている訳ではないです。ま た、優れた文筆家になりたいと思っている訳でもない。こう思ってもらえればいい。 私には資産があり、社会的な力もあるので、読者を選ぶことができる。私はあなたを 選んだ。ある意味かかりつけの医者やカウンセラーを選ぶようにね。ああ、こういう 言い方は失礼だったかもしれない。すみません」
「とんでもないです」
 私は少し赤面した。
「私ではとても文章の指導なんてできないと思いますので」
「優れた作家が、優れた指導者である必然性は全く無い。あなたは私の作品を読み、 好き勝手な感想を言ってくれればいい。まあ、あなたからしてみれば、つまらない文 章につきあわされることになるのかもしれないが、そこはビジネスと割り切って下さ い。あなたを拘束する時間に十分見合う対価は支払うつもりだ」
「それはもう」
 彼から支払われる金額は、私が文章を書くことによって稼ぐ金額を遥かに上回るも のだった。
「ああ、あなたが私の文章をけなしたからといって支払う金額を減らすつもりはあり ませんので、どうぞ忌憚無く感想を述べてください」
 私はなぜか頬を紅く染めてしまう。彼が仮面の下で、くすくす笑うのが聞こえた。 「あなたは、若く美しく才能もある。しかしまるで心は少女のような方ですね。とこ ろで、まだ新しい作品はお書きにならないのですか?」
「ええ」
 頷いた私に、仮面の男はため息をつく。
「あの、一年前の不幸な事故のせいですか」
「いえ、事故自体はありふれた交通事故で私には大した怪我はなく、事故の原因も多 分私の不注意からおきたものなんですけど」
 私の言い方が奇妙だったせいか、仮面の男の瞳が問いを投げかけている。
「あの、多分不注意といったのは事故の時の、記憶が無くなっているせいなんです」  仮面の男は呟くように言った。
「記憶が無い?」
「ええ。私は気がつくと山の中で車に乗って崖の下にいました。その時酷く頭を打っ たらしく、事故の前三ヶ月ほどの記憶が無くなってしまったんです」
 仮面の男はため息をつく。
「驚いたな。ただの事故と思っていましたが」
「いえ、ただの事故なんですけれどね。でもそれからなぜか書けなくなってしまった んです。それになせが文書を書くのに使っていたノートパソコンまでなくしてしまっ て」
「ファンとしてはとても残念なことです」
 彼はとても静かにそう言った。そして、言葉を続ける。
「やはり事故のショックが心理的に影響しているんでしょうか」
「一時的なものだとは思います。今はある意味充電期間として、とらえようと思って はいるのですが」
「まあ、あなたがばりばり書いておられれば、今回のように素人の作品を読んでいた だくというお願いも聞いてもらえなかったでしょうから、私にとってはいいチャンス だということになりますが」
 私は原稿用紙を手にとる。
「それで、この作品をここでお読みすればいいのですか」
「ええ。それで勝手なお願いですが、声に出して読んで欲しいのですが」
 私は頷くと、原稿用紙に書かれたタイトルを見る。
 そこには、こう書かれていた。

『双子』

 父が家族の解散を宣言したのは、母が死んで二ヶ月が過ぎた日だ。
 母は五十歳という若いとはいえないかもしれないが、死ぬには早過ぎる年齢で亡く なった。母の命を奪ったのは、癌である。母は遺言で葬儀を行わず家族、つまり私と 私の双子の姉、それに父だけで見送って欲しいと言い残していた。
 父がその遺言をどういう気持ちで受け取ったのかは、よく判らない。父は私の目か ら見ると事務的にも見える手際のよさで全てを処理した。
 母が病に倒れるまで、いや亡くなるまでは私たちは平凡な家族だったように思う。 けれども母の死に関わる全てが終わったとたん、まるでそれまでのことがただのお芝 居でしたというように、瓦解していった。
 父は平凡なサラリーマンだったと思う。
 なぜ父はあんなことを言ったのだろうか
 それはとある休日の、昼下がりのことだった。
――私たち家族はもう終わりにしようと思う。つまり家族の解散だ。
――それもいいかもね。
 姉は、物凄くあっさりと合意した。
――ちょっと、それどういう意味なの?
 私の言葉に、父はあっさりと答える。
――お前たちはもう大人だ。ちゃんと経済的にも精神的にも自立している。私たちが 一緒に暮らす理由もあるまい。
――父さん、何を、
 私の戸惑いをよそに、父と姉は互いに了解しあっているようだ。姉は笑みすら浮か べて父の言葉を聞いている。
――それと私は昨日会社を退職してきた。
――なんですって?
――私は明日から旅に出る。もうお前たちに会うことも無いだろう。
 そう言い残すと、父は自分の部屋へ篭ってしまった。私は姉を見る。姉は笑みを浮 かべたまま言った。
――私もこの家を出るつもり。
――姉さん。
――ああ、私は別に二度と会うつもりは無いなんて言わないわよ。ただ、ちょっとこ こから離れたところに就職が決まったものだから。
 姉は、大学を卒業してすぐ電気メーカの事務職に就職した私と違って、文学部の大 学院生として学校に留まっていた。姉がいうには彼女の論文を東北のほうの大学に所 属している教授が興味を持ち、研究室にくるよう誘い掛けられたということらしい。 姉の論文は確かインド古代哲学のようなものを扱っていたはずだ。
――あんたはここの家に残りなよ。私、ときどき帰ってくるから。父さんだってその うち帰ってくるでしょうよ。
 こうして私たち家族は、文字通り解散してしまった。
 私が姉を探そうと決心したのは、それから三ヶ月後のことだ。始めの一ヶ月、私と 姉は、頻繁に連絡を取り合っていた。
 次第に連絡が疎らになっていったのは、姉に恋人ができたせいだ。姉は恋愛と研究 に忙しく、電話やメールのやりとりも数がとても減ってしまった。
 その時点では、そういうものかなと思っていた程度だ。
 一ヶ月以上連絡が途絶えたときも、私は気にしなかった。私自身、自分の仕事が忙 しい時期になってしまったというのもある。
 けれどもある日。
 唐突にそのメールが携帯電話へ送られて来たのだ。
 そのメール自体は、それほど深刻になるものではなかったのかもしれない。でもと てもそれは、奇妙なメールだった。
 姉は、メールで物語を送ってきたのだ。それも何回にも分けて。
 その物語はおそらく姉の創作のように思える。姉が昔書いていた文章と、何か通底 するようなものを感じる話だったからだ。
 それは、童話を思わせる語り口の話だった。
 タイトルはこうつけられていた。

『双子』

>1番目のメール
 少女は時折西の空を眺めていました。
 太陽が沈み、真紅に染まる空。その空の下に、禍神が眠っているのを少女は知って いました。少女はその禍神が眠る地の空を、じっと見つめていたのです。
 少女が住む村には、年に一度盗賊がやってきます。その盗賊の頭領は人間とは思え ぬほど残忍で、冷酷な男でした。盗賊たちは、村の財を根こそぎ略奪していきました。 だから村はいつも貧しかったのです。

>2番目のメール
 盗賊の頭領は、村の財だけではなく、生贄となる少女をいつも要求しました。その 年に十五になる少女の中で、最も美しい少女が生贄として選ばれます。
 西の空を見つめていた少女は、その年十五になりました。そして、生贄になること は間違い無いほどその姿は美しかったのです。

>3番目のメール
 盗賊の頭領が生贄として選ばれた少女をどのように扱ったのかは、誰も知りません。あるものは少女の肉を喰らうのだといいました。また、あるものは、少女を外国へ売り飛ばすのだといいます。ただ確かなことは、生贄にされた少女はつれさられ、二度と帰ってこないということでした。

>4番目のメール
 西の空を見つめていた少女はある日、村の長老のところへ行きました。少女は長老 に尋ねます。
(西にある森の奥に行きたい)
 長老は驚いていいました。
(禍神に喰われてしまうぞ)
(それが望みです)
 長老は哀しみましたが、少女の決意を揺るがすことはできませんでした。そこで、 長老は東の塔に住む魔法使いに手紙を書きました。
(この手紙を持って魔法使いのところへゆくがいい。力になってくれる)

>5番目のメール
 少女は東へと旅立ちました。
 一週間旅を続けると、東の塔につきます。そこで少女は魔法使いに出会いました。 その魔法使いはまるで影からできているような漆黒の人です。魔法使いは手紙を読む と、剣で少女の腹を切り裂き、お札を埋め込み腹を再び縫い合わせました。
(これで禍神のところへゆくがいい)

>6番目のメール
 少女は西の森へと旅立ちました。
 暗く深い森は、夜の闇のように豊穣でざわめきに満ちています。少女は九本足の小 さな虫や一本足の鳥、一つ目の山猫たちが自分に囁きかけるのをききました。
(こちらへ来てはいけない)
(帰れなくなる)
(喰われてしまうぞ)
 少女はそれらの警告を無視して森のさらに奥深くへと入り込んで行きます。

>7番目のメール
 少女は森の奥に大きな館があるのを見つけました。
 少女は館の中へと入ってゆきます。長く暗い廊下を歩いてゆくと、その果てに広い ホールがありました。そのホールの壁面は全て書棚で埋め尽くされています。そして、 その書棚には本がびっしりと詰め込まれていました。そこはまるで、図書館のようで す。
 そして少女は禍神に会いました。

>8番目のメール
 禍神は大きな一つだけの瞳を、ぎょろりと少女に向けて言います。
(おれは読みたい。おまえは何を読ませてくれる)
 少女は答えました。
(私は本なんて持っていません)
(ではおまえが本になれ)
 禍神は魔法で少女を本に変えました。禍神はその本を拾い上げ、ページをくります。 そして禍神の目に、魔法使いが少女の身体へ埋め込んだお札の文字が入りました。禍 神は本に喰われてしまいました。

 私のところへきたメールは全部で八件。ほぼ二十四時間ごとに送られてきた。それ はいつも深夜零時にくる。私は始めは姉の気まぐれによるものかと思い、電話をかけ てみたりメールを返信してみたりした。
 答えは無い。姉の携帯電話は呼出音は鳴っているようだし、メールもちゃんと送る ことができる。けれども姉は電話に出ることはなかった。そして、どんなメールをこ ちらから送っても、姉からくるのは奇妙な物語の続きだけだ。
 八番目のメールがきた後、断ち切れたように連絡がとだえた。最後のメールが来て からもう半月ほどになる。
 私は少し不安になり、姉の勤めている研究室へ連絡をとってみた。驚いたことに姉 はその研究室をやめてしまっている。そして、姉の住んでいるはずのアパートも引き 払われていた。
 姉の身に、何かが起こっている。
 それも酷く奇妙なことが。
 私はそれを確かめるために東北へ向かった。
 姉の勤めていた研究室。そこには姉の恋人だった藤田という男がいる。私はその藤 田に会いに行った。
 私が藤田とあったのは、研究室があるビルの一階だ。玄関からビルに入ると、そこ はロビーフロアになっており、受付がある。私は受付で藤田を呼び出してもらった。 ロビーにやってきた藤田は、私を見てさっと蒼ざめる。
――月子なのか?
――いいえ、私は妹の陽子です。
 藤田は暫く怯えたような顔で私を見ていたが、やがて溜息をついて首を振った。私 は藤田に問い掛ける。
――なぜあなたは亡霊でも見るように私を見たのです。
――そりゃあ、
 藤田は躊躇いながら、口を開く。
――あなたがあまりに月子にそっくりだったから。
――あなたは姉が死んだと思っているのですか?
 藤田は少し苦笑すると、首を振る。
――いや。生きていると思うよ。多分ね。
 私は藤田の前に、私の携帯電話を突き出す。怪訝な顔をする藤田に、私は姉から来 たメールを表示している画面を見せた。
 藤田は戸惑いながらそのメールを読んでいたが、最後のメールを読みぽつりと呟い た。
――じゃあやっぱり月子は行ったんだ、暗黒図書館へ。
――暗黒図書館?
 藤田は少し歪んだ笑いを見せる。私は藤田に尋ねた。
――それは何ですか?
――おとぎ話みたいなものだ。話しても信じられないだろう。
――でも、姉はそこに行ったかもしれないんですよね。
 藤田は少し肩を竦める。
――暗黒図書館というのはね。そうだな。あのナチスドイツがオカルティズムを研究 しており、民衆の操作に利用しようとしていたことは有名な話だから君も知っている だろう。
――ええ。
――まあ、それと同じことを大日本帝国もやろうとしていたと思ってくれ。古今東西 のオカルトに関する本を収集し、宗教学者や神話学者を集めてどうすれば民衆操作の 為のイデオロギーを造りあげることができるか研究していた。
 藤田は少し皮肉っぽい笑みを浮かべて語っている。自分の話していることを、私が 信じているとは思っていないようだ。
――で、大戦末期。戦局はどんどん日本に不利になってゆく。その時、大日本帝国の オカルト研究者たちは自分たちの研究成果を恐れるようになっていた。つまりもし日 本がアメリカに占領され、自分たちの研究成果を米軍に利用されると大変なことにな ると思ったらしい。彼らは防空壕の地下奥深くに、図書館を造った。そしてそこに彼 らの集めた本や、彼ら自身の研究成果を収めることにした。その図書館はいつしか暗 黒図書館と呼ばれるようになっていた。
――それは、本当のことですか?
――信じなくてもいいよ。ちゃんとした根拠のある話ではなくて、噂のレベルだから ね。でも君の姉さん、月子はその図書館の実在を信じていた。
――なぜ。
――さあね。暗黒図書館を調べようとした人が、いままでまるきりいなかった訳では 無い。まあそういうものに興味を持つ人たちも世の中にいるわけで、僅かに残った情 報をたよりに暗黒図書館に肉薄したと思われるジャーナリストは何人かはいるようだ。
――そうなんですか?ではなぜ、
――彼らの記事が公表されなかったかというと、皆行方不明になったからだ。
――行方不明ですか。
――まあ、もともとそういうことを調べるのはどちらからといえばアカデミックなと ころから離れた、つまりエンターテイメント系のしかもマイナーなところのライター だからね。いなくなった理由は色々考えられるし、なんともいえないのだが。ま、こ れも噂のレベルになるがその図書館にはトラップがあるらしい。
――トラップ?
――そう。もし、運悪く米軍にその図書館が見つけられ、米軍がその図書館に入り込 んでもいいようにトラップをしかけた。入り込んだ者が二度と出て行けなくなるよう な。
――それは一体?
――人喰いの本と呼ばれている。本に喰われてしまうそうだ。
 私は姉のメール、童話ふうの物語の最後を思い出した。

『禍神は本に喰われてしまいました』

 姉は暗黒図書館のことを物語にしたのだろうか。それにしても。
――本が人を喰うなんて。
――もちろん比喩的な意味だろうけどね。もし、読まれることによって人の精神を破 壊できるような本があったとしたら、どうだろう。
――まさか。
――いや、やりかたはいろいろあるよ。例えば紙に麻薬を塗布しておいて、皮膚を通 じて身体に吸収させる。意識されぬまま麻薬は身体にとりこまれて、というのも可能 性のひとつ。
――では、姉は。
――月子は暗黒図書館について調べていたのは間違い無い。そこに彼女の求める答え があると思っていたようだ。
――姉さんの求める答えがそこに?
――ああ。僕らが研究しているのは洗脳についてだからね。
 藤田は唐突に、一枚の名刺を取り出して私に渡した。
――僕が月子と最後にあったのはここだ。
 その名刺にはスナックの名前らしいものが印刷されていた。

 スナック リトルネロ

     夜子     
            」
 そして、東京都内の住所が印刷されている。
――月子はここで働いていた。その名刺に書かれた夜子という名でね。ただ、今はも うそこにはいないよ。

 原稿はそこで終わっていた。私は仮面の男に問い掛ける。
「ここで終わりというわけではないのですよね」
 仮面の男は、頷いた。
「ええ。残念ながら、まだそこまでしか書けていないのです。続きはまた明日、あな たがここへ来てくださる時間までには書いておきます」
「はあ」
 仮面の男は、とても落ち着いた声で私に問いかける。
「それでどうでしょう。ここまで読んでいただいた感想というのは」
「はあ、あの」
 私の躊躇いを気にしたふうもなく、彼は言った。
「どんなことでも、思ったことがあればぜひ仰ってください」
「そうですね、なんていうか。似てますね」
「似ている?」
 彼は少し首をかしげる。
「ええ。このお話の中の、陽子という人と私が」
「そうですか」
 仮面の男は特に私の答えに驚いたふうもなく、淡々と頷いた。
 陽子と私。
 私にも双子の姉がいる。
 そして、今私の家族は解散した状態と言ってもいい。
 むろん、違うところもいろいろある。
 例えば私の姉は別に行方不明になっているわけではなく、単に海外旅行中であった。 連絡がとれないという点では同じだが。
 母は死んだわけではない。ただ精神を病んで入院中だ。きっかけは父である。父は 大学で心理学を研究していたが、ある日東南アジアの女性と恋に落ち海外へ逃走した。
元々婿養子の父にとって母はむしろ疎ましい存在になっていたようだ。
 姉はその父を探しに、東南アジアへと旅に出た。
 お話の中にでてくる陽子の家族より、私の家族のほうがドラマティックに壊れたと いえるだろうか。でも、小説にしてしまうとリアリティが無いように思える。全てが 唐突だったからだ。結局、現実なんてそんなものだとも思うが。
「あの、お話を最後まで読ませていただいた時点で、もう少しちゃんとした感想を考 えます」
「そうですか。では、私も頑張って話を完成させないといけないな」
 私は原稿用紙を返すと立ちあがった。
「ではまた明日に」
 一礼すると私は部屋の外へ向かった。

 その夜。
 私は夢の中で姉と会う。
 いや、私が夢の中で会ったのが本当に姉なのか、確信が無い。ただ、私とそっくり な顔をした女が私に語りかけてきただけだ。そして、その声も私の声とそっくりだっ た。
 私と同じ顔をしたその女は、白いワンピースを着ている。なぜかとても哀しそうな 顔をしていた。そして、私にこう語りかける。
(そちらに行ってはいけない)
(そちらには恐ろしいものがいる)
(恐ろしい)
(戻れなくなる)
(行ってはいけない)
(行っては)
(いけない)
 私は仮面の男が書いた物語に出てきた、禍神のいる森に棲む生き物たちの言葉を思 い出した。丁度同じような警告を少女に向かって発していたように思う。
 それにしても。
 一体私がどこへ向かっているというのだろう。
 私はむしろただ立ち竦んでいるだけだというのに。
 彼女は繰り返し語りかける。
(そちらに行ってはいけない)
(行ってはいけない)
(行っては)
(いけない)
 その声、喋り方は姉よりもむしろ私のものに似ている気がした。姉は私と違い、は きはきと簡潔な喋り方をする。夢の中のその女はどちらかと言えば、ゆっくりとした 発音の不明瞭な喋り方だ。
 それは私だったのかもしれない。
 私が私に向かって語りかけていたのかもしれない。
 けれどもなぜ。
 私にはその理由が判らなかった。


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