二回目の朗読

 私は再び高層マンションの前に来た。
 聳え立つ二つの塔。
 ここはジェミニ・エンタープライズという企業が実験都市として造ったものらしい。
 つまり高層マンション自体がひとつの都市となっている。高層マンションの下部に は円形の建物があり中庭を囲んでいた。その円形の建物が二つの巨大な塔を繋いでい る。
 その円形の建物には、普通の街にあるものは大抵揃っていた。例えば、ショッピン グモール。病院。レストラン。アスレチックジム。郵便局を始めとする公共サービス 機関の出張所。銀行。さらには学校や警察まで完備されている。
 そして中庭には、公園があり木や様々な花が植えられていた。そこはある意味で、 閉ざされて自己完結した空間ともいえる。
 私はふとそのマンションの一階で足を止めた。
 様々な店舗やサービスセンターで埋め尽くされている中で一箇所だけシャッターの 閉ざされている場所がある。まだテナントの入っていないところがあるのかと、少し 奇異に思う。
 私は、エレベータホールへと向かった。最上階へ行けるのは専用エレベータだけだ。 仮面の男に教えられた暗証キーを、壁につけられたパネルに打ち込む。扉が開き私は エレベータに乗り込んだ。
 四十階建てのビルの、最上階へと高速エレベータに乗ってむかう。最上階についた とき、少し早過ぎる時間であることに気がついた。もともと方向音痴ぎみの私は、早 めの時間に行動をおこすようにしているせいだ。
 でも今更時間をつぶすのも億劫なのでかまわずインターホンを押した。秘書の人は 早く来過ぎた私に何もいわずリビングの隣の部屋へ通してくれる。
 仮面の男はまだ所用の最中らしい。私がとりあえず通されたその部屋は、事務室の ような場所で窓もなく事務机だけがある殺風景な部屋だ。その部屋の奥にリビングへ と続く扉がある。
 私はその奥の扉が少し開いていることに気づいた。その向こうで人が話をしている 気配を感じる。私は半ば無意識のうちに、その扉に近づいていた。
 少し開いた扉。
 その向こうにリビングがある。
 私は深い考えもなく、その扉の向こうを覗いてしまった。
 二人の男がそこで話をしている。一人はあの仮面の男。もう一人は少し奇妙な風体 をしていた。
 灰色のインバネスを纏い、鍔広の帽子を被っている。襟が立てられ、帽子を目深に 被っているようなのでその顔はほとんど見ることができない。
 二人は低い声で話し合っているようで、声を聞き取ることはできなかった。
 私の注意はそのインバネスの男に引寄せられる。格好が奇妙なこともあってか、随 分と現実感が希薄な感じがした。
 うまくいえないが、何か陰影が薄いとでもいうのだろうか。全身が薄暮に覆われて いるような気がする。影のような、という形容が一番しっくりくるような気がした。  見れば見るほど、影のような男のリアリティが薄れてゆく。私はだんだん夢を見て いるような奇妙な気持ちになっていった。影のような男はまるで夢の中から滑り出し てきた存在のように思える。
「誰だ、そこにいるのは」
 仮面の男は鋭い声で言った。私はびくっ、と全身が震えるのを感じる。反射的に扉 を開く。
「あの、すみません」
 私は、かろうじてそれだけ言った。仮面の男はすぐにいつもの落ちつきを取り戻す。
「ああ、あなたでしたか」
 影のような男はすっ、と仮面の男のそばを離れる。そして、足音もたてず滑るよう に歩いて私の横をすり抜け部屋から出ていった。影のような男と入れ替わりに私はリ ビングに入る。
「あの、すみません、早く来すぎてしまって」
「いや」
 仮面の男はちらりと腕時計を見て言った。
「それほど早くはないですよ、もう五分前だ」
 私は彼の前にあるソファに腰をおろした。
「すみませんね、ちょっと込み入った話をしていたもので」
「さっきの方は?」
 私の問いに、多分仮面の後ろで笑みを浮かべているだろうその男は落ちついて答え る。
「都市のビジュアルデザインの専門家でね。アーティスト系の人間というのはなぜか 奇妙な格好をしたがる」
「そうですか」
 私は仮面の男に見つめられ、思わず目をそらしてしまう。彼の前ではいつも落ちつ かなくなるが、今日は特に威圧感を感じていた。
「あの」
 私は気詰まりな空気を壊すため、何か言わなくてはと思い口をひらいた。
「一階に一箇所シャッターの閉まった場所がありますよね」
「ああ、ありますね」
「まだ、テナントの入っていないところがあるんですか?」
 仮面の男は静かに言った。
「あそこはちょっとした事故があってね。閉まったままなんですよ」
「そうですか」
 私は無理やり喋ったことによって、余計空気を重くしてしまったような気が
する。仮面の男はおもむろに原稿用紙をとりだした。
「実は、昨日の夜は何かと忙しくてあまり書き進められていないのですが、読んでい ただけますか」
「はい、もちろん」
 私はその原稿を受け取ると、また音読を始める。

 駅から少し離れた商店街。そのメインストリートを少しはずれて路地裏に入る。昼 間でも薄暗いその路地は、洞窟のようだった。
 私は、リトルネロという看板を見つける。その看板のそばに、地下へと向かう階段 があった。地上より上は廃ビルのように見え、荒廃した雰囲気がただよっている。私 は、その階段を下っていった。
 思ったより立派で頑丈そうなドアがある。私はそのドアに手をかけてみた。意外に もそのドアはあっさり開く。
 狭い店だ。多分、五人も入れば満員になるのではないか。奥に小さなカウンターが ある。照明はつけられておらず、天井近くにある小さな窓から入る光だけで照らされ ている店の中は、日が沈んだ後の森のように暗い。
 突然、カウンターの奥にある扉がひらく。
――店は6時からよ。それともここで働きたいの?
 スカートを身に着けているが、声はまぎれもなく男性のものだ。髪は金色に染め上 げられ、顔はドラッグクイーンというほどではないにせよ濃い化粧がほどこされてい るようだ。身のこなしや表情には妖艶さがただよっている。背は高く、結構スタイル はいい。薄明かりではよく判らないが、声の感じでは中年以上の年齢だと思われる。  私たちは互いに少し歩み寄り、窓からぼんやりと差し込んでいる光を浴びるところ に来た。女装の男が息を呑むのが判った。
――月子、なわけないな。
――まさか。
 私はその男をじっと見つめた。
 その顔には見覚えがある。というよりも、その人は
――父さん。
――陽子だね。久しぶりだな。
――どうして、
 私の問いに、父は皮肉っぽく笑う。
――新しいビジネスをはじめてみたんだ。やってみると結構楽しいもんだ。
 私は勧められるままに腰をおろした。父は、冷蔵庫からウーロン茶を取り出すとコ ップに注いで私の前におく。自分にはビールの缶をあけた。
 私はビール缶を持つ父の手を見る。マニキュアの塗られたその手はとても綺麗だ。 そういえば、昔から手は女性のようだった。
――姉さんもここで働いていたの?
――まあね。
――それにしても一体、
――人間というのは不思議なものでね、家族や恋人に話さないようなことでも、意外 に飲み屋のお姉ちゃんには話したりするもんだよ。
 父は、いままで見たことのない不思議な表情をしている。楽しそうというわけでも ない。どこか投げ遣りな、落ちていく自分を嘲笑っているような雰囲気があった。 ――この近くにはとある大企業がある。そこの人間はここに結構流れてくるんだ。企 業の幹部だって飲み屋のお姉ちゃんの前ではとても口が軽い。それにこっちは洗脳の プロが二人もいる。
――洗脳のプロって姉さんと、
――私だよ。
 私は父の言葉に息をのむ。
――そんな。父さんはただのサラリーマンだったのに。
――サラリーマンだよ。ただの、もつけていい。私は企業内カウンセリングセンター という部署で働いていた。表向きはカウンセリングだが、内実はセミナーという名の 洗脳プログラムを立案したり、他企業からきた産業スパイの洗脳を解いて逆スパイに 造り替えたり、そういうことをやってたんだ。
 父は派手に化粧された顔で華やかに笑う。美しい笑顔といってもいいだろう。ただ その美しさは、異形のものではあったが。
――そんなこと父さん、一言も話さなかった。
――そりゃそうだよ。聞かれなかったからね。
――そんな。
 父はくすくすと笑う。
――別にそう驚くことはない。どんなサラリーマンだって、実際のところは私と似た ようなもんだよ。
――では父さんは、会社を辞めても企業スパイをやっているということなの?
――まさか。
 父は大げさに両手を広げて笑った。
――スパイだって、なんでそんなこと。
――だって、大企業の幹部から情報を引き出してたって。
――まあね。
 父は真面目な顔になる。
――暗黒図書館の情報を引き出すには、それが一番てっとりばやかった。
 私は何か冷たいものが体内に流れ込んできたかのような、ショックをうける。
――知ってるのかい、暗黒図書館を。
 私は父に、携帯電話にきたメールを見せる。父は楽しそうに笑った。
――もうすぐ、続きがくるよ。
――この話はまだ終わっていないの?
――ああ。
 父は突然、一枚の紙を出した。獣の顔をし、蛇の身体を持った異形の神が槍で人間 の女を串刺しにしている絵が描かれたそれは、ライブの告知らしい。
――バンドをやってるんだ。
 私はあきれ果ててしまう。父はそんな私にかまわず、言葉を続けた。
――ぜひ、陽子もきてくれ。路上ライブだが、とても楽しめると思うよ。場所と時間 はそこに書いてあるだろ。明後日だ。
 私はその紙を畳んでバッグにしまいながら、父に尋ねる。
――暗黒図書館の情報を知るためにこの店をはじめたとしても、女装する必要はなか ったんじゃないの?
――逃げたかったんだ。
 その時だけ、父は哀しげな顔をした。
――昔の自分の影からね。自分の姿を変えれば、昔の自分から逃げられると思った。  私は立ち上がった。座ったままの父を見下ろす。
――最後にひとつだけ聞かせて。姉さんがどこにいったか、父さんは知っているの?  父は不思議な表情で私を見る。
――その話はライブが終わってからしよう。
 私は父にさよならを言ってリトルネロを出る。外に出ると西の空が紅く染まってい た。思っていたより長い間、店の中にいたらしい。
 街灯がつくほどには暗くないが、地上を歩く人たちは立ち上がった影のように薄闇 につつまれていた。空は紅く燃え上がり、地上は影に満たされている。
 私は黄昏時の街を、駅に向かってあるいてゆく。
 突然。
 携帯電話が鳴った。メールが到着した着信音だ。私は携帯電話を取り出す。姉から のメールだ。

>9番目のメール
 禍神を喰った本は魔法が解けたのか、元の少女の姿に戻りました。
 少女は禍神の館を抜け、森から出て村へと戻ります。村人たちは戻ってきた少女を 見て、そっと安堵の溜息をもらしました。なぜなら、秋が終わろうとしていたからで す。収穫の季節がすぎ、村にもっとも豊かな時がくると、盗賊たちがやってくる。そ の時に生贄として差し出す少女がいなければ、恐ろしいことになるでしょうから。

 姉は私が父と会ったのを見計らってメールを送ったような気がする。理由はよく判 らないが、姉の視線を私は感じていた。

 私はそこまで読み終えて、原稿用紙を机に置く。
「どうでした?」
 仮面の男が私に尋ねた。
「ええ。そうですね」
 私は少し笑みを浮かべる。
「なんだか、私自身のことが書かれているような気になってしまいました」
「どちらがあなたです?」
 私はその問いの意味が判らなくて、仮面の男を見つめてしまう。
「いや、あなたは月子ですか、陽子ですか?」
 ああ、と私は納得する。
「私も妹なんです、双子の。だから陽子のほうですね」
「そうですか」
「ごめんなさい、やっぱりちゃんとした感想になってないですね」
 私は、頭を掻きながら謝った。
「あの、きっとこの作品に凄く力があるせいなんだと思います。私、結構感情移入す るほうなんで、主人公になりきってるんだと思います。もう少し時間がたてば冷静に 話せるのかもしれませんけど」
 あはは、と仮面の男は声を出して笑った。
「いえ、十分仰っていただいていることは、参考になっています。あなたとこうして 話しをしていると、とても楽しいですよ」
「いえ」
 私は俯いてしまう。
「もっと技術論をお話しできればいいんでしょうけれど、私元々本能で小説を書いて いたので、技巧的なことは全然知らないんです」
 仮面の男は首を振った。
「いいえ、始めにお話したように、私はとくにそういうことを望んでいません。例え ば心理療法のひとつに箱庭療法というのがあります。クライアントは砂の上に玩具を 置いていき、カウンセラーはそれを見ているだけで特に分析して解説したりすること はありませんが、そのインターアクションとしての行為に意味があるわけです。あな たはそのままのスタンスでいてくださればいい」
 はあ、と私はまた曖昧な笑みを浮かべてしまう。
「まあ、私も作品を小出しにしていってるわけで、これじゃあ誰だってちゃんとした 感想はいえないでしょうね。明日までには書き終えるようにしましょう」
「ええ、このお話がどんなふうに終わるのか、とても楽しみです」
 私は、一礼をして部屋を出る。

 その夜。
 夢の中に、また姉が出てきた。
 いや、それとも私自身なのかもしれない。
 彼女はじっと黙ったまま、私を見つめている。私は彼女に話し掛けてみることにし た。
「あなたは誰なのかしら」
(私たちはひとつのものだった)
 彼女は私をまっすぐ見詰め、歌うように語り出す。
(私たちはひとつの太陽の上に並ぶ、ふたつの黒点だった。私たちは夜に吠える狼の 左目と右目だった。でも、私たちはふたつに分かれた)
「何を言っているの?」
 私は少し戸惑って、彼女に問い掛ける。でも、彼女は私の言葉が聞こえないように、 言葉を続けた。
(私とあなた。二つに分かれた。一方は闇に落ち、一方は光の中に留まった。でも、 闇に落ちたのはどちらなのかしら)
「暗黒図書館のことを言っているの?」
 私は仮面の男の物語を思い出す。
(気をつけて。物語の終わりは近い)
 彼女は、私を見つめ続けている。
(もうすぐあなたは思い出す。自分が誰なのか。でも、それはとても危険なこと)
 彼女は祈るような表情で言った。
(その時がくれば思い出す。その時が一番危険)
「私の失った三ヶ月のことを言ってるの?」
(多分、闇におちたのは私。そしてあなたは光に留まっている。そのままそこにいて)
「あなたは、姉さんなのね」
(あなたの行こうとしているところに、闇がある。それはとっても危険)
 ふと気がつくと、私は薄暗い部屋の中にいた。
 薄闇の中をじっと目をこらして見る。
 両側の壁には、ぎっしりと本が並んでいた。随分大量の本がある部屋だ。私は、あ あ、ここが暗黒図書館なんだと思う。
 私は読書机で、本を読み耽っている。
 私は随分長い間、ここで本を読んでいたようだ。
 ふと。
 扉が開くのを感じ、私は目をあげる。そこに立っていたのは私。あるいは、姉さん。
 私たちは、じっと見詰め合った。
 そして、私たちは消え、後には本が残る。
 ただ一冊の本が。


次へ

前へ

戻る