三回目の朗読

 そして私は仮面の男のところにいた。
「ようやく書き上げることができましたよ」
 仮面の男は満足げにいうと、私に原稿用紙を手渡した。私はその原稿用紙を受け取 ったとき、何かぞくりと戦慄が走ったように思う。
 仮面の男は怪訝そうにたずねた。
「どうかしました?」
「いえ、その」
 私は笑みを無理やり浮かべてごまかした。
「夢見が悪かったものですから」
 ほう、と仮面の男は感心したように言った。
「それはどんな夢でした」
「それが、私、暗黒図書館のようなところにいたんです」
 仮面の男は満足げに頷く。
「それではあなたは、月子になってそこに入り込んだというわけですね」
 私は首をふる。
「あの、その時私と姉ふたりともそこにいたみたいなんです」
「ほう」
 仮面の男はどこか楽しげに、なんども頷く。
「それであの、不思議なんですけど」
 私は、なんとなく話をするのを躊躇って、言葉を切った。仮面の男は視線で私にそ の先を語ることを、促す。
 私は言った。
「私たちは、そこでひとつになったような気がします」
「あなたがそんな夢をみるとは、大変興味深い」
「はあ」
 私は、原稿用紙に眼差しを落とす。
「それでは、読ませていただきます」

 夕闇せまる街。
 私は父から受け取った、路上ライブの告知に書かれていた場所へと向かう。
 姉からは再びメールがくるようになった。あの物語の続きが送られてくる。前と同 じように、丁度二十四時間おきに、送られてきた。ただ、前の違うのはそれが真夜中 にではなく、日没のころに送られてくることだろう。
 十番目のメールは、昨日の日没時にきた。

>10番目のメール
 そして秋が終わりました。いつものように少女の村には盗賊たちが現れます。盗賊 たちは、男を殺します。そして、女も、子供も、赤子も、殆ど無差別に殺しました。 村人は無抵抗です。盗賊は儀式として、村人に恐怖とあきらめを刻み込むためだけに、 殺しを行っているようです。
 少女は生贄として頭領の前へ差し出されました。馬に乗ったその男は、驚くほど若 く見えます。少女と同い年くらいの、そう、むしろ少年というのが相応しいような外 見をしていました。
 仮面をつけたように無表情な頭領は、少女を軽々と抱え上げると馬に乗って村をさ ります。盗賊たちも引き上げていきました。

 私は、路上ライブの場所についた。
 巨大な高層マンションの前にある、イベント用の広場だ。そこに黒いドレスを着た 男が立っていた。夕闇の中で女装姿の男は、奇形の女神を思わせる歪んだしかし妖艶 な美しさを纏っている。父だった。
 私は、父の前に立つ。
――よく来てくれたね、陽子。
 父は、ギターケースを手に提げている。
――他のメンバーを紹介しよう。
 父は四人の男たちを指し示す。皆、痩せて精悍な顔をした男たちであり、手には父 と同じようなギターケースを提げていた。背はそれほど高くないが、革のジャケット を着込んだ男たちの身体は見た目以上にがっしりとしていそうな気がする。
 そして、皆目つきが鋭い。私は父に言った。
――で、ドラムやキーボードはいないの?
――私のバンドはそんな古典的な構成ではなくてね、じゃあ行こうか。
――行くって、ここでライブをやるんじゃないの?
――正確には、あそこなんだ。
 父は歩きはじめる。私はその後に続いた。私は父とそのバンドのメンバに囲まれる 形で歩いてゆく。
 父は高層マンションの一階にある銀行の中へと入ってゆく。平日の銀行には結構な 人がいた。
 父はギターケースから、何かを取り出す。それは銃だった。自動ライフルというも のだろうか。銃把の後ろに弾倉がついたタイプのものだ。銃身が短くてコンパクトな 作りになっている。
 父は銃を構え、叫んだ。
――皆さん、ショウタイムです。存分にお楽しみ下さい。
 客たちも銀行員も、そして警備員も多少あっけにとられて父を見ている。銀行強盗 にしては驚くほど派手で珍妙な格好をしていたせいだろう。
 父のバンドのメンバたちは、手榴弾のような球体を出すと、放り投げる。父が小声 で私に囁いた。
――目と耳を閉じろ。
 言われたとおりにした瞬間、凄まじい炸裂音と閃光が迸った。
 そしてその直後に、バンドのメンバがとり出した父の持っているのと同じタイプの 銃が、火を吹く。短く的確な狙撃は、警備員や銀行員を狙っている。
 悲鳴があがり、客たちはパニックに襲われた。父はカウンターの上に乗ると、銀行 員たちに向かって威嚇射撃を行う。
――みなさーん。動かないでねぇ。
 バンドのメンバは、巧みに威嚇射撃を行い、客たちを外へと追い出していく。警備 員は皆足を撃ち抜かれ、床に倒れていた。バンドのメンバの一人が意識の有る者を銃 底で殴りつけ、気を失わせてゆく。
 客が逃げ切った後、シャッターが降ろされていった。
 バンドのメンバの一人がカウンターを乗り越え、布テープを使い、銀行員を縛り上 げてゆく。恐ろしく手際がいい。全員が気を失うか縛り上げられた状態になるまで、 ものの五分もかかっていない。
 私は父に尋ねる。
――なぜ、こんなことを。
――理由はすぐに判る。月子の居場所にもうすぐいけるよ。
――なんですって。
 ドン、と鈍い音が響いた。そして、バンドのメンバが一人、父のほうへ駆け寄る。 ――見つけました。
――よし、行こう。君たちは上手く撤収してくれ。
――判りました。
 父は目で私についてくるように知らせると、小走りで奥に向かう。私は父の後に続 いた。
 奥の扉から廊下にでる。その廊下のつきあたりの壁が崩れていた。爆破されたらし い。崩れた壁の背後には、頑丈そうな鋼鉄の扉がある。
 父は鍵を取り出すと、鋼鉄の扉の鍵穴に差し込む。扉が開いた。その向こうは地下 へと続く階段だ。
――全くよりにもよって、扉の前に銀行を造ってくれるとはね。
 父は扉の中へ入る。私も父の後に続いた。父は私を先にいかせ、自分は鋼鉄の扉を 閉める。重々しい音と共に扉は閉ざされ、あたりは闇に覆われた。父は懐中電灯を取 り出し、階段を照らす。
 父は先に立って、階段を降りてゆく。私はその後に続く。
――前に月子と来た時は、まだ内装工事中だったからね。随分と楽にこれたもんだが。 今度はプロの傭兵を洗脳するはめになったよ。
 ぼやく父に私は尋ねる。
――一体ここに何があるというの。
――ここには昔、旧帝国軍の施設があったんだ。終戦後とある資産家が買取って屋敷 を作ったらしいが、そこを今度はさる大企業が買収して高層マンションになった。
 私たちはB3と書かれたところまで階段を降りた。地下三階ということらしいが、 どこにも扉はない。父は床の一箇所を開いた。点検口らしきものが現れる。
――先に行くよ。
 そういうと、父は点検口に入りスチール製の梯子を降りて行く。私も後に続いた。 結構長い間降り続ける。十メートルは下っただろうか。
 ようやく一番下についたようだ。その小さなスペースの床を父は調べている。やが て、しゃがみ込むと、床の一箇所を開いた。
――さて、ようやく入り口についたよ。
――ここが入り口なの?
――そう。旧帝国軍は本土決戦に備え都内数カ所に地下施設を造っていた。ここはそ の一つだ。ここからは旧帝国軍の施設へ入ることになる。
 そこは螺旋状の階段だった。私たちはその螺旋階段を下って行く。かなり長い時間、 私たちはその階段を下った。恐ろしく深いところまできたようだ。螺旋階段の果てに、 黒い扉が有った。
――さあ、ようやくついた。
 父はその黒い扉を開く。中に入った。結構広い部屋だ。小学校の教室くらいの広さ だろうか。正面に長机が並んでいる。父は入り口のあたりで何かを探していた。
――確か、前来たときにランタンを置いていったんだ。まだ、バッテリーが残ってい ると思うんだが。
 父はやがてランタンを見つけ、それを長机の上に置くとスイッチをいれた。薄明か りが部屋を照らし出す。両側の壁を見て、私は息を呑んだ。
 両側の壁は、書棚で埋められていた。そしてその書棚には革表紙の古めかしい本が ぎっしりと詰め込まれている。あるいは日本の古書らしい本も、大量に並んでいた。  私は思わず呟く。
――ここが暗黒図書館なのね。
――そうだよ。
 父はちらりと時計を見て言った。
――ああ、メールを送る時間だが、ここでは送れないな。見るかい、月子の作った物 語の最終話を。
 父は、携帯電話を取り出す。それに見覚えがあった。姉が使っていたものだ。
――メールは父さんが送っていたの?
――そうだ。みるがいい。
 私は父に手渡された携帯電話の画面を見る。そこには、物語の最終話が書かれてい た。

>11番目のメール
 少女は盗賊たちのアジトである古城の塔へ、つきました。塔の最上階に頭領の部屋 があり、少女はその部屋で頭領と二人きりになります。少女はその部屋の壁を見て、 びっくりしました。なぜならその部屋の壁に大きな書棚があり、そこには本がびっし りとつめ込まれていたからです。そう、そこはあの禍神のいたところとそっくりでし た。
(おれは読みたい、おまえは何をよませてくれる)
 頭領がそう言ったとき、少女はどきりとしました。胸の中から熱いものがこみあげ、 それが口から飛び出しました。それはあの一つ目の禍神です。そして、頭領の口から も同じように、一つ目の神が飛び出しました。二つの神は惹かれあい、溶け合い、一 つずつだった目は一つの顔の二つの目になります。
 気がつくと、少女の前に立っていたのは銀色の羽を持つ天使でした。天使は少女と 頭領である少年に語りかけます。
(私は魔法で二つに分割され、邪悪な存在になっていました。でも、今ひとつの全き 存在に戻りました。ありがとう)
 そして世界は眩い光につつまれたのです。

――父さん、どういうことなのか説明してください。
――まあまて。
 父は、部屋の奥を指差す。
――まず、月子に会ってはどうだい。
 部屋の奥には扉があった。父はその扉を開く。私は父と共に、その扉の奥へと入っ た。そこは暗黒図書館と同じくらいの広さの部屋だ。私は部屋に入ったのと同時に、 何か酷く寒気を感じる。
 父はその部屋の床を、懐中電灯で照らす。私は思わず、驚きの声をあげていた。
――父さん、これは一体。
 そこには死体が並べられていた。そして、一番手前にある死体は姉のものだ。
――人喰いの本に、喰われた人たちだ。
――人喰いの本ですって。
 私は膝をつき、姉の死体を見る。とても死体には見えなかった。死んだとすれば、 ほんの数時間前のできごとだろう。そんなことはありえない。
――姉さんは、本当に死んでるの。
――おいおい、死んだとはいっていないだろう。喰われたんだ。
――それはどういうことなの?
 父は私の腕をとり、立たせる。
――向こうで説明しよう。
 私たちは暗黒図書館に戻った。父は、書棚から一冊の本を取り出す。その表紙には 父がライブ告知のフライヤーに描いていたのと同じような絵がある。獣頭蛇身の神。 ただフライヤーと違うのは、獣の口に人が咥えられておりその手に槍のかわりに本が 持たれているということだ。
 父は言った。
――これが人喰いの本だ。
――本が人を喰うというのは、どういうことなの?
 父は顎に手を当て、物思いにふけるような顔になる。
――さて、何から説明したものかな。
 父は目をあげ真っ直ぐ私を見詰めると説明を始める。
――まず、人の記憶とは何かということから説明しよう。記憶とは人間の意識とは別 物といえる。つまり記憶とは意識が古くなって蓄積されたものではない。そもそも脳 を電磁気的な装置として考えた場合、脳内にある神経の量では記憶を全て蓄えること はできないし、記憶全てを脳内に保持したらその膨大なデータを処理しきれず人間は 思考することもままならない。記憶は意識から独立して外になければ色々なことが説 明つかないんだ。
――どういうこと。
 私は父のはじめた不思議な話にとまどう。
――最近の量子力学と脳の研究が融合することで判ってきたことだよ。つまり、脳の 中で意識は生まれているようだが、記憶はそれから独立したものだ。意識がそのまま 記憶になるのではなく、意識から独立したものとして記憶は偏在する。例えば、サイ コメトリーというのは知っているかい?
――ええ。
――死んだ人間が身につけていたものに触れることによって、その人間の記憶を知る ことができる。記憶とは電磁気的な場の性質なんだ。つまり、空間のある特性だとい ってもいい。だからあらゆるものに、付着することができる。私たちの意識はその記 憶が付着したものに接触し、その空間の場の性質と脳内の電磁気的事象をシンクロさ せる。これが思い出すという行為だ。
――それっておかしい。
 私は父の言葉に異をとなえる。
――それじゃあ、私たちは物に触れないと思い出せない、ということなの。
――今はサイコメトリーといった他人の記憶を思い出すという特殊なケースについて 話しているからね。普通はそうじゃない。場の性質、つまり空間の特性は物理的に繋 がっていなくても、脳内の電磁気的事象とシンクロする。つまり、それは量子力学的 事象だからだ。量子力学的事象においては、無媒介共振がありうる。
 父は少し間を置いて考えてから、言葉を続けた。
――例えば、こう思ってくれればいい。脳の中にはインターネットのURLみたいな ものが蓄積されている。思い出すというのは、そのURLをクリックすることだ。そ うすると、記憶が付着している物質と意識が無媒介でシンクロして記憶が脳内にダウ ンロードされる。記憶は物質に付着しているが、その物質が破壊されたとしても場の 性質としては保存されるので、記憶には影響ない。サイコメトラーと呼ばれる人たち は、物質を触ることによってその物質に付着している記憶のURLを知ることができ る人たちなのだと思えばいい。
――一応、理解できるような気がするけど、
 私は父に尋ねる。
――それが人喰いの本と、どうつながるの。
――もし、人間の脳に蓄積されている記憶のURLみたいなものを全て書き換えたら どうなると思う?
――誤った記憶を思い出すことになるわ。
――そうだ。人間は正常に思考できなくなり、意識が混乱する。それどころか誤った 記憶により意識をコントロールされ、最終的には身体のコントロールも奪われる。こ れはある意味で究極の洗脳なのだよ。人喰の本は、それを読んだ人間が保持している 記憶のURLを書き換えてしまい、書きかえられたURLをクリックするとこの図書 館にある本に付着した記憶がロードされるようにする。つまり、この図書館に意識を 乗っ取られるわけだ。そうすることによって、その人間の基礎代謝もコントロールし、 死ぬぎりぎりの状態で肉体を保存する。
――一体どうやって
――そんなことができるのか、だね。ヴェーダを知っているかい?
――インドの古代哲学、だっと思うけど。
――面倒くさいからそうしておく。量子脳理論だと、意識とは脳内の量子的重なり合 いの状態から波動関数の自己収縮のような事象が生じることだとされる。つまり意識 とは波動関数によって表現される。細かい説明はすっとばすが、つまり空間の振動が 意識の有様を決定していると考えてもいいだろう。さて、ヴェーダだがこれはヨーガ と呼ばれる統一的な場の振動をコントロールすることによって、人間の意識や身体も コントロールできるという思想といってもいい。
 父はちょっと言葉をきって私を見つめる。
――ヴェーダは言葉によって、脳内で起こっている波動関数の収縮をコントロールで きるテクノロジーなんだ。例えば音というのは振動だ。ある種の音は脳内でおきてい る空間の振動とシンクロする。音楽とは脳内でおきる空間の振動とシンクロしやすい 波動と捕らえればいい。言葉も音だ。その言葉の配列によってやはり脳の中で起こる 振動とシンクロする音が作れる。それをうまくコントロールすれば、記憶を書きかえ ることが可能なんだ。
――姉さんは確か、
――そう、ヴェーダの研究をしていた。月子は人喰の本の原理を解明できると思って いた。つまり、ヴェーダのテクノロジーを利用して造られたのがこの暗黒図書館だと 考えたんだ。
――ここはつまり、古代インドのテクノロジーで造られた洗脳マシンだということ?
――そうだ。人喰いの本は洗脳システムを作り上げる過程で生まれた副産物、あるい は洗脳プログラムの試作品といってもいいだろう。最終的にはある種のテレビやラジ オの放送、音楽イベントなどを通じて人を洗脳できるようなシステムを作るのが目的 だったと思えるがね。
 父は皮肉な笑みを見せる。
――この上に建っているジェミニ・エンタープライズの高層マンション。ここは洗脳 の実験場だ。ここの住民に提供されるケーブルテレビの番組では、ある特定の音が表 層意識には感じ取れないレベルで流されている。その音によってこのマンションの住 民の意識を、この暗黒図書館へとシンクロさせようとしているんだ。
――なぜ、そんなことを父さんは知っているの。
――私はジェミニ・エンタープライズの社内カウンセリングセンターで働いていたか らね。
 私は激しい眩暈を感じた。
――姉さんは、そのことを知っていたの。
――もちろん。
――なぜ、私だけなんにも知らなかったの。
――母さんと約束したからだ。
 父は静かな笑みを見せた。
――双子が生まれたとき、一人は母さんに渡すけれど、一人は私がもらうということ にした。月子は私がもらった。陽子、君は母さんのものだった。
――そんな。
 私は両手で頭を押さえる。眩暈が止まらない。部屋全体が回っているような気がし た。
――じゃあ、姉さんと父さんはここを破壊して洗脳を阻止しようとしているの?
――いや、ここを破壊すると既に洗脳されていると思われる数百人の人間が死ぬか発 狂することになる。私たちはここをコントロールするつもりだ。
――姉さんは、ここのシステムを知るために人喰いの本を読んで、失敗して喰われた ということ?
――いや、違うね。
 父は奇妙な表情で、私を見る。
――月子が喰われるのは、予定通りだ。
 私は父を見つめる。
――そんな、それじゃあ。
――ここをコントロールするには一度喰われて、もう一度戻ってくる必要がある。本 に喰われても、戻る方法が一つだけある。
――それは、どういうやりかた?
――肉親、最も近い肉親が人喰いの本を読む。その時に、喰われていた肉親の意識を 吸い上げることができる。一番理想的なのは双子の場合。
 私は思わず立ち上がった。
――そういうことだったのね!
 私は首を振る。
――ではなぜ、それを私に伏せたままここにつれてきたの。始めから全てを説明して いてくれれば。
――もし、最初に全てを説明していれば、間違いなく真っ直ぐ陽子はここへ来ただろ うね。月子を救うために。
――そうよ。
――でも、月子はそれを望まなかった。だから賭けにした。もしかしたら君は、送ら れてきたメールを無視し続けたかもしれない。それならそれで、よしとすることにし ていた。
――なぜ。
――リスクが高いからだ。私たちはこんな危険なことに君を巻き込むべきか迷ってい たんだよ。陽子、君が本を読めば君も喰われるかもしれない。100パーセント月子 の意識を吸い上げれる保証はないんだ。むしろ、五分五分といってもいい。双子とい っても意識がそれほどシンクロしない場合もある。君たちがどの程度シンクロするか は、誰にもわからない。
――やるわ。この本を読む。
 私は即座に答えた。父は溜息をつく。
――そうだろうね。君はそういう性格だ。いいだろう。やりなさい。
 私はその本を手に取る。
 分厚く重たい本だ。サイズもA3くらいあるだろうか。
 百科事典を手に取ったような気になる。
 革でできた頑丈な表紙をひらき、ページを見た。私は奇妙な幻惑を感じる。丁度、 目の焦点があっていないときのように、ページがぼんやりと霞んで見えた。私は思わ ず瞬きする。
 暫くすると、そこに字が浮かび上がってきた。カメラのピントを合わす感覚によく 似ている。私は浮かび上がった文字を読む。日本語だった。

『 姉の勤めていた研究室。そこには姉の恋人だった藤田という男がいる。私はその 藤田に会いに行った。
 私が藤田とあったのは研究室があるビルの一階にあるロビーだ。藤田は、私を見て さっと蒼ざめた。
――月子なのか?
――いいえ、私は妹の陽子です。
 藤田は暫く怯えたような顔で私を見ていたが、やがて溜息をついて首を振った。私 は藤田に問い掛ける。
――なぜあなたは亡霊でも見るように私を見たのです。
――そりゃあ、
 藤田は躊躇いながら、口を開く。
――あなたがあまりに月子にそっくりだったから。』

 私は思わず目をあげて、父に話し掛けた。
――これは一体どういうこと。
――何が書いてあるんだ。
 父は平然と問い返す。
――これって、私の記憶だわ。
――そうだ。
 父は落ちついた声で言う。
――人喰の本に書かれているのは、実際には点の集まりでしかない。ヴェーダのテク ノロジーに基づいた呪術的法則性を持った点の集まり。それは人間の無意識領域に感 知され、幻覚を見せる。つまり、言語情報化された記憶だよ。
 父は、眼差しで読み続けるように指示する。
――読みなさい。記憶は人喰の本へとダウンロードされてゆく。そして、その本が君 の記憶のURLを保持していく。全てのURLを読み取った後、その本は君の脳にア クセスして、君の記憶のURLを書き換えてゆくだろう。そのときこそ、月子を本の 中から救い出すチャンスなんだ。
 私は本を読み出した。
 私は自分自身の経験を文字情報として追体験していく。
 記憶は次第に過去へと遡って行った。人喰いの本には、私の人生が現在から過去に 向かって記述されている。
 私は学生時代の記憶からさらに遡って、子供のころ、幼年期の記憶へと向かってゆ く。もう忘れさっていたようなことも、この本には記述されている。私は物凄いスピ ードで私の人生を追体験していた。二十年以上の時間が、ほんの数分間に圧縮されて いる。それだけに、私の頭の中では色々なことが渦巻いていた。
――もうすぐだ。
 父が私の前で言った。
――記憶が溢れ出す。その時に月子を呼ぶんだ。
 そう言い終えたとき、父は唐突に立ち上がった。
――どうしたの?
 立ちあがろうとした私を、父は制する。
――急げ、早く読み尽くすんだ。敵がくる。
 父は自動ライフルを手にする。
 私は再び本に集中した。幼年期からさらに、言葉を憶え始めてまもない最も古い記 憶のところまで遡る。
 そのとき。
 私は父の言った記憶があふれるという言葉の意味を、理解した。
 私の周りには様々な幻影が浮かびあがり始めている。
 遠い昔の恋人の姿。
 学生時代の校舎。
 母の入院した病院。
 子供のころに見た、まだ若い父の姿。
 そして私の見た様々な風景。
 そうした映像が、私のまわりをぐるぐる回っていた。まるで記憶の万華鏡のようだ。 図書館の天井を茜色の空が一瞬覆ったかと思えば、床が真っ青な海の中に沈んでいる。 次の瞬間には書棚が雑踏に埋め尽くされ、別の壁に黄金の月が輝く夜空が浮かぶ。
 あらゆる色彩。
 あらゆる風景。
 あらゆる顔、顔、顔。
 そういったものが、ばらまかれたジクソーパズルのピースのように私の周りを覆い 尽くしていた。そして、私はあることに気づく。
 そうした無数の映像が細分化され、次第に意味を失ってゆくことに。それはだんだ ん、光と影、そして色彩の集積にすぎなくなってゆく。
 ああ。
 私は思った。
 こうして私の記憶は喰われてゆくのだ。
 ああ、
 そして私は意識を失い、私もまた喰われてしまうのだ。
 けれど。
 全てが急速に意味を失ってゆく中で、ひとつだけ明瞭になってゆく映像がある。何 もかもが光と影が綾なす渦に巻き込まれていく中でただ一つ、漆黒の夜空に輝く月の ようにその姿をはっきりさせていく。
 それは、私自身の姿。いいえ、違う。
 それは私と同じ顔を持つ、姉の姿だった。
 私は呟く。
――姉さん、月子姉さん。
 私の声は、銃撃の轟音によって掻き消された。
 父が自動ライフルを撃っている。
 自動ライフルの銃弾は、私たちがここに入ってきた扉をずたずたに破壊した。
 その破壊された扉の向こうから、一人の男が入ってくる。奇妙な風体の男だった。  黒いインバネスを身に纏とったその男は、鍔広の帽子でその顔を隠している。妙に 現実感が希薄な、そう、まるで影でできているような男だった。
 父は、再び自動ライフルを撃つ。何発もの銃弾が影のような男を貫く。きらきらと 光るカートリッジが暗黒図書館の床に撒き散らされていった。やがて銃弾がつきライ フルは沈黙する。
 しかし、影の男は何事もなかったように立っていた。影の男は父に語りかける。
――そんなものに何の意味もないことを知っているだろう。
 父は自動ライフルを投げ捨てた。
――確かめただけさ。おまえは幻影にすぎないことをな。
――そうだ。おれはもう肉体から解放された。
――おまえは、人喰いの本から戻ってきた者だからな。
 影の男は父から目をそらし、私を見る。
――よかった。どうやら間に合ったようだな。
――さて、それはどうかな。
 突然、私は立ちあがった。私の身体は私以外の者が持つ意思によって支配されてい る。
 私は自分の身体がすることを、ただ見つめているだけだ。
 私の手が書棚へのび、一冊の本を取った。私の手は、それを父に向かって放り投げ る。父はその本を手に取った。
――父さん、それを読んで。
 私の口を使って、誰かが叫ぶ。父は頷くと、本を朗読し始めた。
 それは何語ともつかない、そして音楽とも呪文の詠唱ともとれるような奇妙な朗読 だ。
 そして、その朗読に合わせ、影の男の身体が震え、形が歪む。まるで水に映った映 像が水面に起きる漣によって震える様を、見るようだ。
――ヴェーダの音か。やっかいだな。
 影の男が呟く。
――お前が私に逆らうのであれば、仕方ない。お前を喰らう。
 父は朗読し続けていたが、それと同時に父の記憶が溢れ始めた。暗黒図書館の中に 父が持つ記憶の映像が、浮かび上がってゆく。おそらく父の友人、恋人であったであ ろう人々が行き交い、父が見たものであろう風景が浮かんでは消える。
 父の朗読は続いたが、次第にそれは弱まっていった。それと同時にあたりに満ち溢 れた記憶の映像も、次第に光と影、そして色彩の断片となってゆく。鋏で無茶苦茶に 無数の虹を切り刻んで、撒き散らせばこんな感じになるだろうか。
 突然、その狂乱する光の乱舞の中から一人の女が立ちあがった。
 それは、母だ。
 母は叫ぶ。
――逃げなさい、あなたはまだ目覚めていない。まだ、戦うことはできないわ。
 私の身体を支配している者は、身を翻し隣の部屋へゆく。私は既に自分自身の傍観 者に過ぎなかった。
 私は本に喰われた者の身体が置かれている部屋を通り抜け、さらに奥の扉をひらく。 そこには細長い通路があった。私はそこをさらに駆け抜ける。
 やがて私は通路の端につく。そこにある扉を開いて外へ出る。そこは下水道だった。 私は地底の迷宮のような下水道を駆け続ける。随分長い距離を走り続けた。一時間以 上は走っていただろうか。そして私は、とある梯子を昇る。
 マンホールから地上に出た。そこは、夜の住宅街だ。
 私は、住宅地の中を走り抜け、二十四時間対応の無人駐車場につく。そこには、父 と一緒に銀行へ入ったバンドのメンバがいた。
 その男は、父がおらず一人きりの私を見ても何も言わない。ただ黙って車のキーを 渡す。私は男からキーを受け取ると用意されていた国産中型車に乗った。
 私は夜の街を車で走る。
 行き先はどうも都外らしい。やがて、車は山の中へと入っていった。

 私は読み終えた原稿用紙を机におく。
「やはりこれは、私の物語でしたね」
「思い出されましたか?」
 仮面の男の問いかけに、私は答える。
「はい。これは基本的には私が書いたもの。私のノートパソコンにあった文章を改稿 したのね。それと」
 私は、仮面の男を見つめる。
「私の中の姉が、もう隠れ続けることはできないと知ったようです」
「ではあなたはやはり、『月子』だったのですね」
「ええ」
 私はもう私ではなかった。私は何者かに支配されている。
「それが問題でした。暗黒図書館からあなたが脱出した後、私たちはずっとあなたを 監視していた。あなたの中に月子の影は認められなかった。ただあなたが月子ではな いという、決定的な証拠もない。私たちは確認するためにあなたにコンタクトをとる ことにした。もしあなたが陽子であれば、この物語を読んでも無反応だったと思いま す。けれど、あなたが月子であればあなたは見せかけの仮面をはずさざるおえないで しょう。あなたの反応が現れるのは予想以上に早かった。結果的に三日で終わった」
 私を支配する者は、仮面の男に言った。
「あなたも、もう仮面をおとりになってはどうです」
 男は仮面をはずす。その下から現れた顔には火傷の跡などない。そして、その顔は 私のよく知っているもの顔だ。その顔は、父の顔だった。
「父さん」
「いや、私は喰われてしまいましたからね。あなたの父親とはいえない存在になって います」
 父は立ちあがると、窓際へと移動する。窓の向こうに見える空は、真紅に燃え上が っていた。父は窓を背にして立っている。その足元には、影が伸びていた。
 その影が立ちあがる。いや、影の中からあのインバネスを纏った男が立ちあがった というべきだろうか。
 インバネスを纏った影のような男は、帽子に手をかけそれを脱ぎ捨てる。顕わにな った顔を見て私は息を呑む。父と同じ顔だった。
 父の顔を持った、影のような男は私に語り出す。
「私は君たちの父親の兄だ。それも双子のね」
 父は婿養子だったが、自分の両親や姉妹について話すことは全くなかった。父に兄 がいたなんて初耳である。
 影のような男の後ろにいる父は、微かに笑みを浮かべてじっと黙って立ったままだ。 喰われてしまったから、もう自分の兄に逆らうことはできないのだろう。
「そもそも、全てが始まったのは二年前になるだろうか。私が暗黒図書館を見つけ、 そこで人喰いの本に喰われてしまったところが、始まりだったのだよ」
 影のような男は、父と同じ顔でにこやかに微笑んだ。
「君たちの父親は人喰の本について色々研究した結果、私を助け出すことに成功した。 私は本の中から戻ってきたのだが、それは私に二つのことをもたらした。一つは肉体 から切り離され自由になったこと。もう一つは、暗黒図書館の力をコントロールでき るようになった。つまり、人を喰らい、喰らった人間を意のままにあやつれるように なったということ」
 影のような男はどこか楽しげだ。
「ジェミニ・エンタープライズは元々私の会社だったが、私が本の中に閉じ込められ ている間に、他人のものになっていた。まず私は新しい能力を使って会社を取り戻し た。そして私は気づいた。私の新しい力を使えば、会社どころか世界を自由に操るこ とができるとね」
 影のような男はちらりと父を振り向く。
「当然君たちの父親は、私の手助けをしてくれるものとばかり思っていた。しかし、 妻を失ったと同時に彼は私の元から逃げ出してしまった。まあ、そのときはそれでも 仕方ないと思っていたんだが。しかしまさか、自分の娘を使って私に戦いを挑もうと するなんて、思いもよらなかった」
 私の身体は、私の意思に関わりなく立ちあがった。そして、影のような男の前に立 つ。私の影の中からやはりインバネスを纏った一人の女が立ちあがる。
 それは姉だった。
 姉の身体はやはりリアリティが無く、影のようだった。姉は影のような男に向かっ て言い放つ。
「違うわ。父はあなたを救おうとしていたのよ」
「ほう」
 影のような男は興味深そうに姉を見る。
「どういうことかね」
「あなたは自分の意思で、世界を支配することを望んでいるかのように思っている。 でも、あなたはあなたが他人を操っているように操られているにすぎない。あなたは あの暗黒図書館に篭った怨念に操られているだけなのよ」
 影のような男は鼻で笑った。
「くだらないね。確かに私は操られているのかもしれないが、そういうなら地球上に 住む全ての人間は何かに操られているよ。国家に、権力に、あるいは実体の無いシス テムに。それがどうだというのだ。私たちはそもそも欲望に駆動される機械なのだか ら、要は何に接続されていようとも欲望を肯定することだけが問題ではないかね」
 影のような男の顔から笑みが消えた。
「おしゃべりは、これくらいにしたい。君は私から暗黒図書館の支配権を奪えると思 っているのかもしれないが、力を使うことについては私のほうが上だ。何しろもう随 分前から私は力を使ってきている。私は君よりも力についてよく知っている」
「残念だけど、それも違うわ」
 姉は冷たい声で言った。
「あなたはヴェーダのテクノロジーを理解していない」
 影のような男の瞳が鋭く輝いた。
「ならばやってみたまえ。いずれにせよ、私は君を喰らう」
 そしてあの暗黒図書館で父が喰われた時のように、記憶が溢れだす。
 しかしそれは、姉の記憶ではなかった。私たちの周りに現れはじめた幻影は、地下 深くに眠っている暗黒図書館に蓄えられたてきた、異形の記憶である。
 私たちの足元で床が消失した。そこに現れたのは、暗黒の大海である。渦巻く闇の ように荒れ狂う大海原の遥か底に、巨大な海獣が蠢いていた。
 そして、天井が消失し、炎につつまれた大空が出現する。太陽が炸裂していた。炎 の塊が地上へ向かっていくつも降り注いでいる。
 かつて太陽のあったところには、巨大な炎の輪があった。紅蓮の円環は天空で回転 し、その中央には巨人が世界樹に吊るされているのが見える。あまりに眩すぎて、巨 人の姿は太陽の中の黒点に見えてしまう。
 地上には漆黒の鎧を纏った兵士たちが、硫黄の煙を吐く獣に跨って進軍している。 獣の吐く炎の吐息が、地上を焼き尽くしてゆく。
 これはまるで黙示録の風景だ。
 気がつくと、私たちの両側に身の丈が十メートル以上はある巨大な鷲が来ていた。 二羽の鷲は、私たちを見下ろしている。鋭く金色に輝く瞳がじっと私たちを見つめて いた。
 突然、片方の鷲が羽ばたき、巨大な木の枝にとまる。その木は金色に輝いていた。 その枝には、黄金に輝く林檎の実が実っている。
 黄金に輝く林檎の実は、透明であり中が透けて見えた。その中では胎児がまどろん でいる。その胎児は皆双子だった。双子の胎児は黄金に輝く実の中で、融合したり分 離したりを繰り返している。
 枝にとまった鷲はときおり黄金に輝く実をついばむ。もう一羽の鷲は、その様をじ っと見つめていた
 風景は物凄い勢いで変化してゆく。
 一瞬大空が天使の群れで覆い尽くされたかと思うと消え去ってゆき、傍らを竜の群 れが走り去ったかと思うと、巨大な城塞が現れその地下で死者が目覚める。
 風景はどんどん細かく分解されてゆき、やがてそれは粉々に砕かれた教会のステン ドグラスのように、あたりを覆っていった。光は様々な色彩を放ちながらそこに付加 された意味を失ってゆく。私たちは色彩の洪水に飲み込まれながら、意味を喪失して いった。
 そして姉が叫んだ。
 それは歌のような、呪文のような。
 暗黒図書館で父が朗読したあの、『ヴェーダの音』だった。
 私は津波のように、私たちの両側から何かが持ちあがってくるのを見た。白い壁の ようなものが、私たちの両側に立ちあがり私たちをはさみこむ。
 私はその白い巨大なものが何か、突然理解した。
 それは、本のページだ。
 白いページの表面で、粉々に分解され光の破片となった記憶が、跳ねまわっている。 やがてその記憶の破片もページの中に呑み込まれていった。
 姉はシャーマンのように高らかに叫び、歌う。
 白いページは私たちの両側に聳えたち、私たちは巨大な崖にはさまれた渓谷の底に いるような気になる。やがて私たちを飲み込み、本は閉ざされた。

 高層マンションの最上階にある部屋。
 そこには誰もいなかった。
 そして、そこに置かれた一冊の本が、ひとりでに閉ざされる。
 誰もいない部屋に、ただ一冊の本だけがあった。
 ただ一冊の本が。


前へ

戻る