勝利教会インターネットチャペル

十代の子を持つあなたへ


今や自立の時(2)

孤独に耐える


 第3に、孤独に耐えることです。
 一人住まいの人は、寂しくて夜なかなか寝つけないとよく言われます。明け方、隣近所で雨戸を開ける音や人の話し声が聞こえてきて、やっと安心して眠ります。
 あるおじいさんは、毎日郵便受をのぞくことを楽しみにしています。必ず手紙が入っています。なぜだと思いますか? 毎日手紙を自分宛に投函しているからです。
 あなたは外出から帰ったとき、はじめに何をなさいますか。かなり多くの方がテレビのスイッチを入れます。見る訳でもなく、ただ人の気配を感じて安心していたいのです。
 「孤独は山にではなく、町にある」
 とは名言です。現代人は寂しいのです。盛り場は寂しい人でいっぱいです。けれども人はこの寂しさや、孤独に耐えられる者でなければなりません。
 それはいつかやってくる日のためです。すべての人は1人で神さまの前に出なければなりません。
 「わたしは人の思いと心をさぐるものである。……私はあなたがたの行ないに応じて1人1人に報いよう」(黙示2:23)
 「あなたは今までどのように生きて来ましたか」
 「はい、私はこれこれこのように生きて来ました」
 こう自信を持って答えることができたら、何とすばらしいことでしょう。孤独に耐える者がその栄冠を勝ち取ります。
 なぜなら、孤独こそ私たちに人生を真剣に考えさせるからであり、それゆえに当然の報酬です。
 いつもだれか人がそばにいて、かまってくれている、あるいはいつもワーワーと友人たちと騒いでいるとかというのは、決して健全ではありません。
 時間は二度と帰っては来ません。人生は貴重であるからこそ、じっくり考えるときや反省したりするチェックのための時間が必要です。
 私は子どもが質問をしてきたときに、よくこう言います。
 「一人になって自分の頭でよーく考え、神さまと相談してごらん。お父さんが結論を出してあげるのは簡単だけれども、自分で考える所に意味がある。自分の人生なのだから自分で考えてごらん。そして自分の責任でやってごらん。」
 決断をするとき、人は孤独です。しかし彼は彼の人生に意味と価値とを勝ち取ります。もし決断をしないとすると、もはや人間ではありません。ロボットです。
 はじめの人アダムとエバには、決断する能力が備えられていました。私たち親は、人生経験の少ない子どもたちがどう決断して行くのかをそばで見ていて、チェックする責任があります。
 やがて親は死にます。孤独の中でもっとも価値ある決断は、神さまとともに決断するものです。デボーションとはまさに孤独の別名です。
 「聖霊と私たちは……決めました」(使徒15:28)
 こうしてあなたの大事な子どもさんは、神さまによって最後まで見守られます。もう一度言いますが、親であるあなたは先に死ぬのです。
 神さまとともに決める、孤独なあなたの姿を目に焼きつけてやってください。

外国語を学ぶ


 第4に、外国語を学ぶこと。
 イスラエル人(ユダヤ人)は昔から多くの国、また国民と出会って来ました。その刺激の中で非常に優秀な民族という定評を得て来ています。
 その証拠に、じつに多くの優れた人材を輩出しています。20世紀最高の科学者と言われ、相対性理論で有名なアインシュタイン、精神分析学の創始者ジグムンド・フロイド、アメリカ大統領補佐官であったキッシンジャーなど、枚挙にいとまがありません。
 (その他簡単に名前だけ書きましょう。H・ハイネ[詩人]、シャガール[画家]、C・チャップリン[喜劇役者・映画監督]、ショパン[作曲家]、M・ブーバー[哲学者]、R・コッホ[医学者]など)。
 ユダヤ人は、世界人口のたった0.4%でしかありませんが、557のノーベル賞のうち104を獲得しています(1986年調べ)。
 混血児の頭脳は優秀である、と言われますが、他の国の文化や思想との接触で洗練されるとも言えるでしょう。
 私たちはもう少し日常レベルで、自分のものと違った世界観やら考え方を持った人たちと交際して新しい刺激を受けて、自分の中に言わば化学反応を起こすようにしたらどうでしょうか。水素分子2つと酸素分子1つとで、全く違った性質のもの、つまり水が生まれるように。
 今や国際化時代です。たとえ国内でも、外国人と接触することが頻繁になって来ました。積極的に対応することが私たちにも恵みとなります。聖書はこう言っています。
 「あなたがたは、在留異国人(外国人)を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである」(申命記10:19)
 私はいわゆる団塊の世代です。多感な十代の頃に習った社会科の教科書は、「欧米に劣る日本」という説明と、それを印象深く示す円グラフや棒グラフやらでいっぱいでした。そして、
 「欧米に追いつけ、追い抜け!」
 のムードが社会にあふれていました。しかし結果的に、劣等感を持たせる教育でもあったように思います。
 今の十代は、生まれたときから日本は先進国であったので、堂々と外国人と付き合うことができるはずです。外国人と接して受ける恵みはいくつかあります。
 まず、自分の考え方が世界で最も正しいわけではなく、必ずしも普遍的なものでもないことが分かります。
 さらに自分の、あるいは日本人としての(この表現もいまや注意深く使用すべきでしょう。韓国系、米国系、中国系日本人という言い方が一般的になりつつありますし)立場を説明するのに、ある程度合理的な説明ができなければ理解されません。そのための努力が余儀なくされることもあり、それがよい訓練ともなります。
 「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」(Tペテロ3:15)。
 私たちはおうおうにして、自分が考え感じているように相手も考え感じる、と思うものです。
 しかしインドのある地方では、「いいえ」を首を縦に振って表し、「はい」は横に振ります。エスキモーの地獄は「灼熱」ではなく、「酷寒」です。
 私たちは外国人の文化に触れて、寛容さと謙遜さを身に着けるだけでなく、自分自身の生き方を客観的に判定しやすくさせ、良いものは良いとし、悪いものは悪いと言えるようになります。
 「すべて真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての評判の良いこと、その他、徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」(ピリピ4:8)
 比較することによって、多くのことを私たちは学ぶことができます。従来知ることのできなかった世界を知ります。
 それは新しい世界です。機会あればお子さんには、外国語をおおいに学ばせましょう。新しく一つの言語を学ぶことは、新しく一つ以上の文化を学ばせてくれます。
 神さまの祝福をお祈り致します。

         (次回最終回)


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