勝利教会インターネットチャペル


あなたは新しく変わる

  自信を持ったあなたへ


どうにかして死者の中からの復活に達したいのです。私はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そしてそれを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
 兄弟たちよ。私は自分は捕らえたなどと考えてはいません。ただこの一事に励んでいます。すなわちうしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。
 ですから成人である者はみなこのような考え方をしましょう。もしあなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして私たちはすでに達しているところを基準として進むべきです。
 兄弟たち。私を見習う者になってください。またあなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに目を留めてください。(ピリピ3:11〜17)

 パウロというイエスさまの弟子が書いた手紙の一部分です。最後のことばに注目してください。
  「兄弟たち。私を見ならう者になってください」

 この表現をあなたはどうお感じになりますか。すごい自信ですね。なかなか言えないことばではないでしょうか。では続くことばにもきっと同じ思いでしょうね。

「私たちを手本として歩んでいる」。

「私たち」の中にはもちろんパウロ自身が含まれています。いかにパウロは自信にあふれて生きているかが分かります。もちろん高慢であることと自信があることとは全く別のものです。高慢はあくまでも高慢であって、「俺は偉いんだ!」というわけですから決していいものではありませんから、ない方がいいのです。しかし自信を持つほうはないと困ります。なぜかって。ものごとがうまく行くかどうかがこれのあるなしにかかっているからです。
 自信がなく、あやふやな態度ではうまく行くものでもうまく行かなくなってしまいます。 「そうだ、そう言われれば、ウン。そのとおりだ」
 そうなんです。あなたも常日頃そのように感じていらっしゃるのではありませんか。少なくない方々が「私には自信がありません」とおっしゃるのです。そうして立ち往生しておられます。どうしたらいいかをパウロを参考にご一緒に考えてみましょう。自信に満ちた新しいあなたの誕生のために。

自信をつけてあげようとして、あなたに神さまがくださるチャンスを逃さないようにしましょう。

 神さまはあなたがあるときから自信を持って生きて行けるようにそのきっかけをくださいます。この本を読んでいらっしゃる今がそうかも知れません。ならばそれを逃がさないようにしましょう。11節をご覧ください。

「どうにかして死者の中からの復活に達したいのです」。

 自分を新しくしたいというパウロの積極的な姿勢が伝わってきますね。

「ただ捕らえようとして、追求しているのです。そしてそれを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」(12)。

 捕らえるぞ、あくまでも追いかけるぞ、とうとうキリスト・イエスがそんな私を応援し始めたという、あくことなきパウロの追求の姿勢がそう宣言させます。チャンスが来たら絶対に逃さないぞ、という意気込み。すさまじいばかりです。ところでこのような事を言うパウロとはどのような人物でしょうか。かつては一生懸命にクリスチャンたちを捕らえては牢獄にほうり込んでいました。死刑にするためにです。これこそ彼の生きがいであり、使命でした。「これ以外に私の生きる人生はない」と思い詰めていました。

「その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」(同3・6)

 と言い、「自分の正しさと比較して考えるならば、最近出て来た奴ら(クリスチャン)はなんと生意気な!」「彼らは社会のゴミだ、害毒だ!」と口汚くののしり、非難し、迫害をしていました。今様の言い方をすれば、人権無視をする者、人殺しというところでしょうか。ところが彼はあるとき大変身します。 「どうか犬に気をつけてください」(3・2)。

 いったい「犬」とはだれ。実はかつてのパウロ自身であり、その仲間です。すごい気持ちの切り換えようではありませんか。

「私にとって得であったこのようなものをみな、キリストのゆえに損と思うようになり、それらをちりあくたと思っています」(3・7、8)

 と言い、それまでの自分の人生で宝物と考えて来たものをゴミであるとまで言っています。あなたはこれを行き過ぎと考えますか、あるいは負け惜しみと考えますか。ときには私たちには負け惜しみも必要なときがあるかも知れません。居直って正当化も必要かも知れません。


 イソップ童話に『キツネとブドウ』という話がありますね。何度も跳んではブドウを取ろうとするキツネ、しかし取れない。そこで彼はこう言います。 「ああ、あのブドウは酸っぱいんだ」
 パウロはただただそうしているのでしょうか。どちらであるにしても気持ちの切り換えの速さとかすごさとかはたいしたものですね。 「私は新しい人間になるんだ。いやもうすでになっているんだ」
 という宣言です。このセンスが、新しい自分として進んで行くチャンスを逃さず生かすべく気持ちの切り換えをさせたに違いありません。
 このすごさと迫力、このようなことを言わせる力はどこからくるのでしょう。

「私は私を強くしてくださる方によって何でもできるのです」(4・13)。

 実は先のことは負け惜しみではありませんでした。本当のところは、神さまがそのように判定なさったし、自分も納得できたと言うのが正しいのです。その証拠にローマ人への手紙の中で義を得られなかったことを正直に告白しています。

「私には自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」(7・15、16中心に)。

 本当はクリスチャンを迫害している間、彼の心は不安でいっぱいだったのです。それを隠すために一心不乱に、「クリスチャンの生き方は間違っている、間違っている、間違っている、間違っているぞー」と思い詰めることになったのです。偽の自信でした。しかしもう今は違います。
  「私は貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(4・一2)。

 どんな状況にあっても、どんな不本意な状況にあっても私は前進できると彼は言います。なぜ彼はこのように言えるのでしょう。それはあるチャンスを通して彼の中に神さまが入ったからです。イエスさまが彼の中にお入りになったからです。お住みになったからです。だからこそ続けて「私は私を強くしてくださる方によって何でもできるのです」と言えるのです。

 ではそのきっかけとは何でしょう。試練です。あなたには試練の時がありますか。問題を抱え込んでいらっしゃいますか。今その真っ只中に座り込んでいらっしゃいますか。ならば今あなたに対して神さまが働きかけていらっしゃいます。イエスさまを受け入れてください。あなたの中のイエスさまがあなたの中で自信となります。イエスさまは神さまです。 「私の中に神さまがいらっしゃる。だから私は強い。前進できる」
 と言えるのです。試練はありがたいものです。というのは試練がないと私たちはなかなか自分というものに気がつきません。高慢のままで、私には知恵があります、力があります、罪などありませんと言います。

 いまだかつて鏡を見たことのない農夫がいました。あるとき歩いていて、鏡を拾います。見ると彼は思わず、「あっ、お父さんだ!」と叫びました。なつかしさについうれしくなりました。以来彼はタンスにしまい、朝仕事に出かけるたびに引き出しから引っ張り出しては「お父さん! 行ってまいります!」と言い、帰宅しては「お父さん!ただいま!」と言いました。
 しばらくして「最近様子がおかしいなあー・・・・・・」と思った奥さんがこっそり引き出しを開けて見つけてしまいました。「あっ、やっぱり浮気!しかしこんなガマガエルのような女のどこがいいんだろうか!?」と。

 案外私たちは自分のことが分からない。高慢になっているからです。罪があっても罪と分からない。試練がすばらしいのはいままでの経験が通用しない点です。その分謙遜にさせられます。これまではこのような問題についてはこう解決をして来ましたという事ができませんから。さて試練のときには何がなんだかわからない、真っ白、真っ暗。パウロはこれを経験しました(使徒9:1以下)。
 いつものようにクリスチャンを迫害しようと、あるときダマスコの町に向かっていました。そのときです。天からあまりにも強すぎる光が彼を襲いました。圧倒されたパウロはもはや立っていることができません。目は開いているけれども見えない。これが試練です。事態を掌握しきれない。でもイエスさまからの光でした。 「おまえ、いったい何をしているのか」
 パウロは自分のしていることが分からない。イエスさまはかつて十字架の上からこうおっしゃいました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」(ルカ23・34)。

 しかし試練は祝福です。あなたが新しくなるチャンスの時だからです。
 試練のとき私たちは混乱(カオスと言います)します。心がすきまだらけ、穴だらけになります。でもこれがいいのです。私たちの心の中にイエスさまがお入りになります。このときが自信を持った新しいあなたの誕生です。「私の中に神さまがおられる」

「私は私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです」

 さあ、新しいあなたの出発です。

目標を持ちましょう。

「ただこの一事に励んでいます。すなわちうしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。ですから成人である者はみなこのような考え方をしましょう」。

 あなたの目標は何ですか。お母さんに聞きますと、愛情があるせいであると思いますが、「はい、この子をいい学校に入れて・・・・・・」という答えをいただくことが少なくありません。違います。今おたずねしているのは「あなたの目標は何ですか」。娘さんの目標は娘さんのものです。息子さんの目標は息子さんのものです。「私の目標はこれこれです」とはっきり言える人は輝いています。魅力的です。前を見ています。胸を張って歩いています。
 目標のない人はどうしても周囲が気になって仕方がありません。その挙げ句にあら捜しをしてしまいます。さばいてしまいます。小さなことにいつまでもはこだわり、思い煩いをしやすいのです。でも目標をもっている人はよそ見をしている暇がありません。忙しいのです。どうしたら目標を達成することができるか、そればかり考えているのです。こんな姿こそ新しい人にふさわしいのです。
 真の礼拝をささげましょう。お祈りをしましょう。聖書に親しみましょう。神さまはあなたにちょうど良い目標を与えてくださいます。それに夢中になってください。それを愛してください。それを見つめてください。

 漢の李広にまつわるこのような話があります。あるとき岩の向こうに虎を発見しました。よしとばかりに弓を引き、放ちました。見事命中! 彼はうれしそうに獲物に近づきます。ところが、「あっ!」。虎ではありませんでした。ただの岩でした。
 彼はもう一度矢を放ちました。ところがはねかえるばかり。「虎と思えば、石にぞ立つ矢のあるぞかし」。「思う一念岩をも通す」の方が有名でしょうか。イエスさまはおっしゃいました。

「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにはできないことはありません」(マタイの福音書17:20)

 目標を得たら、一心不乱に向かってください。こうして目標こそ私たちをいきいきとさせるし、実際にやり遂げさせます。どのように目標を設定できるでしょうか。自信をつける観点からみことばに沿ってていねいな説明をしましょう。

「それはそれとして私たちはすでに達しているところを基準として進むべきです」(16)。
 この中で「それ」ってなんでしょう。

「ただこの一事に励んでいます。すなわちうしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っている」こと、目標を目指して進むことです。つまりだいそれた事を考えてはいけませんと言っています。
 はじめは小さな一歩にすべきです。もしかするとあなたは大きな事、夢を考えていらっしゃるかも知れません。いいことです。でもちょっと待ってください。その前にすべきことがあります。あなたが今立っているところ(現在自分の持っている能力あるいはできるレベル)と大きな目標点(夢)とを線で結んでください。その間にいくつもの中間目標点を設けてください。つまり小さな目標をたくさん用意してください。

 ボクシングのコーチは弱い相手を探して来てまず戦わせ、勝たせます。自信をつけるためです。重量挙げの選手も少しずつバーベルを重くしていきます。
 一回目は90キログラム、2回目は95キログラムというふうに。高跳びの選手も少しずつバーの高さを上げていきます。どの選手もできることなら日本一、世界一になりたい、金メダルがほしいでしょう。でも自信を失わないことがまずはじめに必要なのです。コーチはこのことを知っています。
 もし、あなたがあなたを大切にしたいと思うなら自分をがっかりさせてはいけません。不注意にも自信をなくさせるようなことをしてはいけません。自分を愛するなら「これもできた。これも、これも、あれも・・・・・・」というふうに順を踏んで進むことです。

 パウロは強い光に当てられ、立ち上がることができませんでした。神さまはアナニヤを遣わして、まず見えるようにしてくださいました。そのときパウロには神さまからビジョンが与えられていました。全世界に向かって福音を伝える使徒という使命でした。ペテロはユダヤ人へ遣わされた使徒でした。
 ちなみにユダヤ人の人口は現在1300万人、全世界の人口は56億人。パウロに対するビジョンの方が断然大きく、パウロの器は大きく考えられていたことが分かります。でもはじめの一歩はただひとりの人アナニヤに会うことでした。実に小さい一歩。でも劣等感などありません。目標を持つ者には余計なことを考えている暇などありません。 「全世界が私の畑だ。どうやってこの広い畑を耕そうか」。彼はその思いに集中します。 アナニヤに会い、目が見えるようにされ、少し学び、その後第一次伝道旅行に行きました。自分の生まれ故郷であるタルソの周辺を訪問しました。伝道者としてのならし運転と言って良いでしょう。第2次伝道旅行はだいたい2倍の地域・距離を行き、各地に教会を設立して行きました。第3次伝道旅行はさらにヨーロッパに深く入り込んで行きました。そしてついに当時世界の中心と言われたローマに到達しました。「異邦人への使徒とする」との神さまとパウロとの共通目標は実現しました。
 少しずつ、少しずつ、一歩ずつ、一歩ずつ、そして大きな目標を達成する。これがコツです。どうか小さな目標を掲げて達成して自信をつけてください。

今よりも大きな自分を描きましょう。

 今のあなたよりもです。イメージをしてください。

「キリスト・イエスにおいて召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」(14)。

 最終的に私たちは天国に行くと表現しています。ではそれまでは祝福なしでひたすら我慢しなければいけないかというとそうではありません。

「イエス・キリストはきのうもきょうもいつまでも同じです」(ヘブル一3・八)。  「愛する者よ。あなたがたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」(第3ヨハネ2)。

 神さまはあなたの毎日の生活においておおいに祝福してくださいます。すでに金メダルを獲得した自分をイメージしましょう。理想の自分、一回り大きくなった自分。それも具体的に。

 たとえば人間関係で悩んでいるとします。誰々さんとの間が修復されますようにとか。 女性の経済学者がこのような報告をしています。人間関係には3つのタイプがあり、 第一は抑圧。
 上司が部下を力でねじ伏せるような関係。「おまえ、これをヤレ!」。あまり良い関係ではありませんね。 「あなたはこう感じるべきです、あなたは私にこう反応すべきです、あなたはこのような行動を取るべきです」
 と言われたら、だれもいい印象を受けないでしょう。やがて反動がつまり仕返しがあるでしょう。
 第2は妥協。
 私も不満、あなたも不満というものです。最後は統合。お互いに満足できる関係です。もうすこし具体的な場面を考えて見ましょう。
 混雑している電車の中です。吊革につかまっている人が暴力団風の人で、「暑いな! なんでこんなに暑いんだ!」と言って有無を言わせず窓を開けます。これが第一の関係で、ちょうど目の前に座っていた人は吹き込んでくる強い風のせいで風邪を引きそうです。第2の関係は第一の関係よりはましです。それでも「ちょっとすみません」と言いながらも我を通し、同じように窓を開けます。
 最後の統合とは「おっ、上に小さな窓がある! 『これを開けさせてもらってもいいでしょうか?』」とていねいにお願いします。電車には通常座席の真後ろに大きな窓があり、その上に小さな窓がありますね。このようなことに気づいて、自分は立っているのだから上の小さな窓を開けることでちょうどいいと考えるものです。これはお互いの利益を守る関係です。人間関係は私たちが普段悩むことの多い問題なので参考に取り上げました。
 ではイメージをする上で助けになるようなことをこれを例にひとつ提案しましょう。肯定的なことば使いをしてください。
 世界の発明王と呼ばれるエジソンは「あなたは電球を発明しようとして一万回も失敗したんですってね」と言われて、こう応えたそうです。「いいえ、私は9999回のしてはいけないことを発見したのです」 「私はあの人と統合の関係にはいることができます」「私にはできます」と言ってください。もしあなたがあなた自身を愛し、大切にしたいならそうしてください。

「後ろのものをわすれ、ひたすら前のものに向かって進み」(13)の精神です。

 もし、「あーあ、あのことがなければなー・・・・・・」といつまでもこだわっているならこのおことばの通りにしているとは言えません。つまり積極的でもないし、肯定的でもありません。どうか積極的かつ肯定的なことばを使ってください。あなたのイメージ作りを助けてくれます。それがあなたを一回り大きくしてくれるのです。

 イエスさまはこうおっしゃっておられます。

「信じる者にはなんでもできる!」(マルコ9:23、マタイ17:20参照)。

 ときどき私たちは間違えます。「私には知恵がありません。力もありません」。確かにそのとおりです。でも但し書きをあなたは忘れてはいませんか。天下の神さまと比べてのことでしょう。聖書はパウロのような自信にあふれた生き方を推薦しています。神さまにあってあなたは自信を回復しなければなりません。
 自信を持ったら何にでも取り組むことができます。神さまはあなたを誠意をもって応援してくださいます。それがなぜであるかもうお分かりですね。イエスさまを信じたあなたは神の子だからです。神さまはあなたの親です。
 自信を持って生きて行くあなたの姿を目を細めていつも追いかけておられます。



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