勝利教会インターネットチャペル


あなたは新しく変わる

ほんとうの豊かさを持ったあなたへ




 日本は世界最長寿国になりました。女性は82.51歳、男性は76.25歳。聖書によりますと、長寿は祝福です。では長生きしている人々に「あなたは今幸せですか、満足していますか」とたずねると何人の人たちから元気に「はい!」という答えが帰ってくるのでしょうか。
 しかし、聖書に照らして見ると、ほんとうの豊かさを満喫するためには長寿だけではなく、その外にも何か必要なものがあることが分かります。

主を恐れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは悟りである」 (箴言9・10)

 神さまからまず学ばなければなりません。というのはこのお方こそあなたの造り主でいらっしゃるからです。造り主こそそれをご存じのはずです。そして聖書は造り主がご自分の作品、つまり人間社会に添付した説明書です。
 まず主を知ること、聖なる方を知ること、ここからほんとうの豊かさへの道が開けます。さあ、豊かな新しいあなたを目指してご一緒に考えて見ましょう。

生活の中に働く神さまの知恵を持つ自分であること

 神さまの知恵があるとき、人は豊かです。どんな問題でも解決することができますから。
 聖書の中で知恵者として有名なのはなんといってもソロモンです。この箴言という書物も彼の手になるものです。あるとき一人の女性がソロモン王様に訴えました。(第1列王記3:16〜28)

「王様、実は私はこの女の人と一緒に住んでいるんです。ある日目を覚ましたら、私のそばに寝ているはずの子がいないんです。代わりに死んだ子どもがいました。私はすぐに分かりました。この女が夜寝ている間に、私の子どもと取り替えてしまったんです。生きている子どもが私の子どもなんです」
 訴えられた女はもちろん激しく抵抗します。一筋縄ではいかない難問題です。さあ、ソロモンはどのように裁いたでしょうか。
「剣をもてー!」と言うや、振りかぶり「この子どもを真っ二つにしようぞ!」 
 訴えた女性は驚き、泣き叫びました「王様、どうかそのようなことはおやめください。私はその子は要りません。その女に渡してやってください」相手の女は平然と「真っ二つ、ウン、それは名案!」とうなずいていました。するとソロモンは先の女こそほんとうの母親だと宣言しました。これが有名な「ソロモン裁き」です。あたたかさとしっかりとしたロジックがあります。似たような話は日本にもたくさんあります。


 江戸時代のこと、左官の金太郎と大工の吉五郎が登場します。年の暮れ、金太郎が3両拾います。当時一両で一年間生活できると言われていたころのことです。落とし主の吉五郎に届けるところから騒動が持ち上がります。彼が受け取らないからです。
「オレは江戸っ子だ!一度手放した金は受け取れねぇ。てめぇーにくれてやらぁー!」 「てやんでぇー、一日仕事をしねぇーでようやく落とし主を探しあてたんでぇー。要らねぇーなんて言わせねぇー」
 こういうわけで名奉行・大岡越前守の前にやって来ます。
「双方ともこの3両、要らぬと申すか」
「はい、その通りでございます」
「ならばこのように致す。越前の1両を加え、4両とし、2人にほうびとして2両ずつ取らす。これを三方一両損と申す。あい分かったか!」
「ハハーァ!」
「これにて一件落着!(遠山の金さんならばこうなる。)」

 文献によると明治時代以前の日本人は余暇の過ごし方が上手で、ユーモアのセンスがさえていたと言われていますが、それを証明するかのようなお話です。(ただし先の話のようなことは現在までの研究の結果、フィクションであって実際はなかったと言われています)。とすると進化論に反していよいよ私たちは豊かさとは反対の方向へ向かっているようです。いまこそ知恵の生まれ故郷へ戻らねばなりません。


 繰り返しますが、知恵は問題を落とし所にうまい具合に落とす。つまり問題を解決する力があります。
 私には今大学生と中学生の子どもがいますが、あまり小さいことにはこだわらないで接するようにしています。あれを失敗したな、これを失敗したななどと。ただこのことだけははっきりと言います。何かと言いますと。考え方を間違えたらいけないと。この考え方こそ知恵を指しています。正しい考え方をしていたら、少しぐらい間違いがあったとしても、それはご愛嬌のようなもので、それほどこだわる必要はありません。大切なのは長ーい人生全体を導いて行く知恵です。
 ところが私たちが正しく知恵を使おうとすると2つの障害物があります。ひとつはお金(とモノ)です。「お金、お金、お金!」とばかり叫んでいるのは良くありません。お金に目が眩むと失敗します。というのは目先のことに心を奪わせるからです。現代は子育てにとって決していい環境ではありません。子どもにあてがうには高価すぎるモノが多すぎますし、つい与えてしまう環境に囲まれているようでもあります。
 長男が小学校4年生のころですから、かれこれ10年近く前のことです。彼の同級生のひとりはファミコンを持ち、なんとそのためのソフトを50個も持っていました。これだけで20万円以上です。親の気持ちは同じで他の子どもたちが持っているなら本人に恥ずかしい思いをさせたくないといってつい買い与えてしまいます。ダイヤモンドに目が眩んではいけません。聖書は富に関するたくさんの警告を送っています。

富を愛する人は多い」(箴言14・20) 「富はいつまでも続くものではありません」(箴言27・24) 「だれもふたりの主人に仕えることはできません。あなたがたは神にも仕え、また富にも仕えることはできません」(マタイ6:24)
金銭を愛する生活をしてはいけません」(ヘブル13:5)


 もうひとつは甘えです。これは文字通り判断力を低下させる働きをするものです。甘えは小さなうちから少しずつ染み込んでくるもので、大人になってからは直すことがなかなか難しいものです。この甘えが強いとどうしても正しい考え方ができにくくなります。最近特に母親と息子の関係がややこしくなっているようです。
 知り合いの方から、「母親との距離があまりにも近くて、私は彼に近づくことができません」との訴えを息子である彼の奥さんから聞きました。もはやどうしたらいい夫婦関係を築きあげて行くことができるかを考える余地が彼の心の中にはほとんどないかのような印象を受けました。息子はもうとっくに大人であるのにも関わらず、母子で互いのもたれあい、くっつきあいがあまりにも強いからです。
 私たちの人生をほんとうに豊かにしようと思うなら、神さまの知恵にこそ働いてもらわなければなりません。では知恵とは何でしょうか。箴言8章22、23節を見ましょう。

「主はその働きを始める前から私を得ておられた。大昔から大地の始まりから私を得ておられた」

 とあります。このような条件に合う者とはいったいだれでしょうか。イエス・キリストだけです。イエス・キリストだけが真の知恵です。ソロモンと大岡越前守の裁きをもう一度思い起こしてください。あたたかさとロジックがあります。これこそ知恵であることのあかしです。イエス・キリストはほんものの知恵であり、完璧な知恵です。ロジックとは英語ですが、ギリシア語のロゴスから来ています。ロゴスとは次のヨハネの福音書1章1〜3節によるとイエス・キリストであると分かります。

「はじめにことば(ロゴス)があった。ことば(ロゴス)は神とともにあった。ことば(ロゴス)は神であった。この方(ロゴス)ははじめに神とともにおられた。すべてのものはこの方(ロゴス)によって造られた」

「すべてのものはこの方(ロゴス)によって造られた」と言う言い方に注目をしてください。あなたにとってあらゆる必要なものがこのロゴス・知恵により得られます。さあイエス・キリストをあなたの心の中に迎えてください。あなたは神さまの知恵をお持ちになるでしょう。また大切になさるときなお一層豊かにその知恵が働いてくださるでしょう。あなたの生活と人生にバランスが取り戻されます。
 お金やモノに心奪われず、甘えから解放されて冷静にどんな問題をも適切に解決することができるのです。
 ある方々は今の生活もさることながら、死んだ後には私はどうなるのだろうか、地獄に行かなければならないのだろうかと悩んでおられます。イエス・キリストはあなたの罪を引き受けて、十字架の上であがないとなられたので、あなたを確実に祝福の天国へと運んでくださいます。どうぞ心配なさらないでください。

仕えることができる自分であること

 ヤコブとヨハネの兄弟がおります。「雷の子」とあだ名をつけられました。なぜでしょうね。すぐにカーッとなるから。この2人があるときイエス・キリストのところへ向かいます。もともと彼らはそれほど高い意識をもって弟子になった訳ではありませんから、とこのようなことを言い出したのにもある程度合点がいくとも言えますが、こうです。
「最近いよいよ新しく多くの人たちがイエスさまに従い始めている。俺たちの立場も万全ではないぞ」
 もともとバプテスマのヨハネの弟子であった彼ら、主人を乗り変えた彼らはだんだん不安になって来ました。その気持ちに発破をかけたのがお母さんでした。
「あなたがた、しっかりなさいよ!先生のところに行って、お願いしてらっしゃい!」と、まあこんな具合いに。
「イエスさま、そろそろお国をお建てになりますね。私たちをそれぞれイエスさまの位に継ぐ者としていただけないでしょうか」(マルコ10:35〜45)
 いまはやりの談合です。イエスさまのお答えはこうでした。

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者はみなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者はみなのしもべになりなさい」(同10:43、44)

 ときどき間違ってキリスト教をこのように考える方がいらっしゃいます。「キリスト教って、これをやっちゃーいけない、あれをやっちゃーいけない」って言うんだから。そんなことはありません。どの世界にもルールはあります。泥棒をしてはいけませんし、ウソをついてはいけませんというふうに。
 むしろこのイエスさまのおことばは、偉くなりたいという気持ちを私たちが持つことを評価していらっしゃって、積極的に、ではどのようにしたら偉くなれるかを教えてくださっているものです。決して禁欲主義ではありません。もっと積極的に行きましょうというのがイエス・キリストのメッセージです。
 さて、こういうわけで「あなたはもっと大きくなりたいですか。もっと能力を伸ばしていきたいですか。もっと豊かな自分になりたいですか。もしそうなら大歓迎です」とおっしゃっておられることがお分かりでしょう。神さまのみこころはここにあります。

 最近になってアブラハム・マズローという学者が欲求5段階説を発表して、聖書のメッセージを追認しました。人間の欲求には5段階があって、それが順に満たされていかなければならないと言いました。
 まずは一番下の欲求から始まります。ご飯を食べたい。寝たいなど。ではそれだけで十分かというとそうではありません。次には平和がほしくなります。そして2番目、3番目というふうに得ていくと最後に求めるのが自己実現の欲求であると彼は言います。つまり偉くなりたいという欲求です。
 一回りも二回りも大きくなりたいと誰もが思っています。これは豊かさの追求です。あなたにももちろんおありでしょう。もっともっと自分の能力を磨きたい。もっともっと愛のある者になりたいなどなど。
 そのためには仕えることです。仕えることであなたはよりいっそう豊かになって行きます。仕えるとは、ときに自分の気持ちを犠牲にし、抑えることでもあります。
 バスの中でのことです。ひとりの少年の右にグレーの服を着たご婦人が、左にもう一人のご婦人が座っておられました。バスですから揺れます。そのたびに床に届かない彼の足の先、つまり靴先がもう一人のご婦人の服の裾をこすります。たまらなくなった彼女はグレーの服を着たご婦人に向かって 「すいませんが、あなたのお子さんの靴が私の服をよごします。注意していただけないでしょうか」
 そう言われた彼女はとっても驚きました。彼女の子どもではなかったからです。でも密着して座っていたので、そのように見えたのでした。このことをきっかけにこの2人は話し始めることになりました。
「僕にはパパもママもいません。おばさんの家に引き取ってもらいましたが、しばらくするとそのおばさんは、『そろそろもう一人のおばさんの家に行きなさい」って言います。だからこうして行ったり来たりするんです。でもときどきとっても寂しくなるんです。それで自分のママってこんな人かなーって思えるような人がいるとそばによりたくなってしまうんです。ごめんなさい」。
 思わず彼女は彼を抱き締めました。
 だれでも自分の気持ちを汲んでくれる人が身近にほしいものです。仕えるとはこのご婦人のようであることではないでしょうか。ときに危険もあります。誤解されることもあります。善かれと思っても、期待どおりには喜んでもらえない場合もあります。でもこのご婦人の中にこそほんとうの豊かさがあるのではないでしょうか。
 イエス・キリストはこの点において一番の模範です。十字架をかついでゴルゴダに向かう途中、心の中には人並みに葛藤がありました。
「なぜ、私はこのような苦しみにあわなければならないのか」
 イエスさまは分かっていらっしゃいました。決してご自分のせいではありませんでした。
 イエスさまは十字架の上で叫ばれます。

わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。しかし父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです」(マタイ27・46、ルカ23・34)

 あなたと私の罪のせいで死なれました。これこそ仕えるものの姿です。仕えるとき、そこには葛藤があります。
「自分のせいではなく私は苦しむ、この苦しみから逃げても言いはずだ。しかし・・・・・・」 父なる神さまはこのイエスさまの仕える行動に対して3日目によみがえるという報酬、この世界の主権者という地位をご褒美としてお与えになりました。

「キリストは神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ神はキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました」(ピリピ2:6〜9)。

 イエスさまの勇気は今日も多くの人々に自分の命を捨てさせるほどの感動を与えています。イエスさまのためなら私は死んでもいいと言う者たちが、つまり真の友人が世界には数え切れないほどいるのです。真の友人を持つことは豊かさ以外のなにものでもありません。イエスさまはあるとき真の友情とは何かを教えて、こう言われました。

「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はありません」(ヨハネ15:13)

 仕えることがこのような祝福をもたらします。失礼な言い方ですが、あなたのために命を捨ててくださる方が身近にいらっしゃるでしょうか。「あなたのためなら死んでもいいわ!」と言ってくださる方が。

「走れメロス」は太宰治の名作として有名です。多くの方が学校で教科書の中で学び、感動されたでしょう。暴君を批判して死刑を宣告され投獄された彼は妹の結婚式に出席するために一時釈放されます。しかし条件が付いていました。親友のセリエンティウスが人質になり、もし帰って来ないなら彼が代わりに死刑になるというものです。彼はあらゆる障害を乗り越えて帰って来るという筋書きです。
 このようなことが現代にもありました。イランはご存じの通りにイスラムの国です。フセイン・スードマンド牧師は福音を伝えた理由で死刑の判決を受けました。しかし彼は一週間後戻って来るという約束でいっとき釈放されます。これはイラン当局の作戦であったと言われています。彼らは牧師は戻っては来ないだろうと考えました。そのときにはクリスチャンはうそつきだと大宣伝しようとしたのです。ところが彼は戻り、堂々と処刑されていきました。真の友人イエスさまのために。イエスさまとはなんと豊かな財産をお持ちなのでしょう。

与えることができる自分であること

 与えることができる人は豊かな人です。豊かでなければ与えることなどできないでしょう。
 イスカリオテのユダはイエスさまからあつく信頼され、弟子団の会計係に任命されていました。彼の頭脳は常にさえ、何に対してもコンピューターが働くごとく非常に回転速く、また決断力も抜群でした。
 あるとき女性が非常に高価な香油をイエスさまの足にかけ、濡らしました。彼の頭はいつものように早速回転し始めました。「これはもったいない。これだけ高価なものならどれほど多くの貧しい人たちを助けることができただろう」でもそのコンピューターには建前と本音とがありました。本音は自分が横領する分がもっと増えただろうにというものでした。一度は彼の会計に入るはずのものだったからです。彼の生き方は根本的に間違っていました。なにが間違っていたのでしょうか。もらおう、もらおうとする思いが強すぎたのです。でもイエスさまの教えは違っていました。

「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは2ミリオン行きなさい」(マタイ5:41)。

 ミリオンとはマイルのことです。今は1マイルが1.6キロメートルですが、当時はローママイルで1.48キロメートルです。私のためにあることをしてほしいと言われたら、その希望するところの2倍してあげなさいと言われます。

「受けるよりも与える方が幸いです」(使徒20:35) 「与えなさい。そうすれば与えられます」(ルカ6:38) 「持っている者はさらに与えられて豊かになり」(マタイ13:12)

 もう一度言います。与える者は豊かです。与えるものをすでに持っていますし、また新たに受けるからです。
 私は最近ひとつの喜びを経験しています。ひそかに喜んでいましたが、それを公表しようと思います。それは私の教会で発行している機関紙『アーク』に関することです。
 北は北海道、南は九州・沖縄まで、そしてオーストラリア、アメリカ、シンガポール、スリランカ、香港など海外にまで送られていますが、創刊以来4つのイミテーションが発行されました。体裁やら地図やらそっくりです。私としてはほんとうにうれしいのです。以前味の素の偽物が大量に出回ったとき、東南アジアでは商品が真似されると本物である評価を得たことになると聞いたことがありましたが、そのような気分です。「与える者は受ける」という大きな恵みを経験しました。

 箴言のおことばに戻りましょう。

「主を恐れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは悟りである」

 つまり、「主を知ることが一番大切!」なのです。すべてはここから始まります。私たちはいろいろな考えを耳にします。これこそ大切、あちらの方が大切。そのような中で主こそ大切。聖なる方を知り、聖なる方の持っておられる基準に照らして豊かさとは何かを知ることを忘れないようにしましょう。主がおっしゃるところにほんとうの豊かさがあるのですから。

 ユダヤに伝わる話です。一人の人がラビに尋ねました。
「先生、真理とはあちらにもこちらにもあるというふうなありふれたものでしょうか」 「そのとおりだ。真理とはだれにでも見つけられるようなものだ。その辺に落ちている石ころのようなものだ」 「ならば、どうして多くの人々はその真理を手に入れることができないのでしょうか」 「たとえ石ころと言えども、得るには身をかがめなければならない。身をかがめるならばだれでも得られる。しかし身をかがめることが難しい」

 神さまの前にへりくだることが難しいのです。あなたはいかがでしょうか。主のおっしゃる豊かさこそほんとうの豊かさであるとお認めになるでしょうか。
私のところに以前からの知り合いから電話がありました。長男が突然学校に行けなくなり、家から外出さえできなくなったというのです。高校3年生の秋でした。家の中は大混乱、お父さんもお母さんもなすすべなく、ただただおろおろするばかりでした。
 そのときまで勉強に精を出していましたし、だれもが有名大学に入るものと思っていました。結局退学とならざるをえませんでした。以来私がカウンセリングをすることになりました。分かったことはこの家庭ではその有名大学に入ることだけがまるで人生のすべてという印象でした。その中で彼はそれまでその重圧にひとり耐えて来たのでした。彼には両親の顔から毎日それを感じ取って来ましたし、両親からするならば、これこそお前にとって幸せなんだよという思いでした。

 私は東京オリンピックのマラソンで3位になった円谷幸吉選手を思い出します。
「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」
 と遺書を残して、メキシコ五輪の直前に自殺をした人です。
 27才の若い命が消えました。金メダルの期待と自らの力の限界の葛藤に悩んでの末と報道されました。彼はそれでも決して自分の苦悩を周囲に漏らすことはなかったのです。

 さて、話を元に戻しましょう。1年2年経ち、やがて礼拝に出て来られるようになり、変わった息子を見てお母さんもお父さんも来られ、家族そろってバプテスマをお受けになりました。
 やがて再び大学に挑戦できるようになり、学び終え、今は結婚し、一家あげて神さまを礼拝し、奉仕や自分たちの経験やあかしを通して多くの人たちに励ましを与えておられます。人生で家庭でほんとうの豊かさとは何かを見つけられたのです。



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