勝利教会インターネットチャペル

あなたは新しく変わる


自らを常に刷新できるあなたへ


「キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですからあなたがたはしっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。よく聞いてください。
 このパウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたにとって何の益もないのです。割礼を受けるすべての人に私は再びあかしします。その人は律法の全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
 私たちは信仰により御霊によって義をいただく望みを熱心に抱いているのです。キリスト・イエスにあっては割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
 ・・・・・・兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は「あなたの隣人を自分のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
 もし互いにかみ合ったり、食いあったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい」(ガラテヤ5:1〜15)
 5章1節には自由ということばがあります。

「キリストは自由を得させるために・・・・・・」 


 つまりキリストの神からのプレゼントは何かというと、それは自由であるというのです。
 自由ということばにはとてもいい響きがありますね。不自由なのはいやだ、いろいろと束縛されているのはいやだ、周囲からリモコンされているのはいやだ、とはだれもが持つ感想でしょう。この自由がプレゼントされる、あるいはされていると聞くとほんとうにうれしい気がします。
 ところで6節を見てみますと、「愛によって働く信仰」が私たちにこの自由を与えてくれることが分かります。さていまから自由とは何かを3つお話しし、その後で自由をあなたに与える「愛によって働く信仰」とは何かを説明してみたいと思います。

罪からの自由です

 5章1節に「奴隷のくびき」とありますが、その一つに罪があります。私たちは誘惑を受けてつい罪を犯してしまいますが、そのつど犯さないように守られることを教えています。(注意・無罪の人生を送れるという意味ではありません。)


 地獄で悪魔大王を囲んで会議が開かれました。そのときひとりの小悪魔に大王がこう言いました。 「あのクリスチャンを誘惑して来い」 「どのようにしましょうか」 「肉欲を刺激するようにしなさい」
 そこで小悪魔は出掛けて行ってそうしました。しかしクリスチャンは悪魔のしわざであることを見抜いたのでこう言いました。 「サタンよ、下がれ!」。
 この報告を聞いた大王は言いました。 「では次の手を使いなさい」 「それは何ですか」 「ウソを言うようにすすめなさい」
 小悪魔はクリスチャンに言いました。 「それをした後でウソをつけばいいじゃないですか。あなたのしたいことなんだからやってみなさい。しても他の人にはしなかったと言えばそれで済みますよ」
 このときもクリスチャンはサタンのしわざであると分かって、言いました。 「サタンよ、下がれ!」。
 悪魔はこう言われるとすごすごと引き下がらずにはいられません。大王は言いました。 「それではとっておきの方法を使おう!」 「何ですか? それは」 「ウン、失望だ」
 小悪魔は3度目の正直とばかりに出掛けて行きました。ちょうどクリスチャンは朝起きようとしているときでした。ところが頭がズキンズキン痛み、起きられません。でも出勤しなければならないのでなんとかして起きて、やっとの思いで朝食を取ろうと台所に向かいました。しかし彼の予想は当たりました。 「どうりで臭かったわけだ。こんなパンが食べられるか!」 と思いました。奥さんがトーストを焦がしてしまったのです。小悪魔はクリスチャンの肩に乗って、 「今日は一日いいことがないよ!」 「アーア、きっとそうだ!」
 とうとう負けてしまいました。その日一日何のいいこともない暗ーい暗ーい一日でした。
 続けて小悪魔はもうひとりのクリスチャンにも同じことをするべく派遣されました。また肩に止まってささやきました。 「朝っぱらから、いいことないねェー。今日はいやーな日になるよー!」
 でも彼はサタンのしわざであるとすぐに分かりました。 「主イエスの御名によって命じる。サタンよ、下がれ!私から離れよ!」。
 這々の体で小悪魔は去って行きました。


 私たちは弱いものです。こんな仕打ちを受けたのなら誰が憎まずにおれようかと考えます。誰だってやっていることに何もこだわって自分だけがやめることはないじゃあーないかとか弁明して、実は悪いと分かっていることをしてしまうのです。でもあなたは「愛によって働く信仰」を活用するなら罪に勝つ自由を得られるのです。 律法主義からの自由です。


 5章1節にある「奴隷のくびき」のもうひとつは律法主義です。律法とは神さまの法律のことです。でも注意をお願いします。律法は本来いいものです。悪いのは律法主義です。完全には守ることのできない律法全部を守れるがごとく教えて ── その場合の象徴的なものが割礼を受けるということですが ── それを強制し、人を悩ませるのが律法主義です。ですからこれは規則主義、義務主義と言い換えることができます。
 日曜日の礼拝も、もし、あなたが義務でいらっしゃっているならつらいこととお察しします。同情致します。楽しくもありませんね。そしてだれもが決して健全な姿ではないなと考えるでしょう。しかしこのようなことから私たちは解放されますという聖書の主張を学んでください。


 ある教会で美人コンテストが開かれました。「エッ、教会で!? まさか」でも本当にあったんです。続けてお読みください。参加者には一つの条件がありました。何だとお思いですか。70歳以上の女性に限るというものでした。
 主催者の考えによると20歳のときの美しさは親からもらったもの。でも70歳になれば本人が努力していろいろな人生経験の中から獲得したものであるから、評価するに値するというものでした。内側の輝きを外から、形となって現れているのを見ましょうということでした。
 モーセは神さまとシナイ山で会見しました。これからのお話では参考に出エジプト記19章16節から34章35節までをご自分でお読みになることをお勧めします。さて神さまがおっしゃるには、「私が顔と顔とをあわせて語るのはモーセとだけだ」とは非常に大きな特権です。
 やがて降りて来ましたが、なんと彼の顔は輝いていました(34・35)。それは彼の内側にある輝きが表に現れたものでした。でも彼は自分ではそのことに気が付いてはいません。私は輝いています、と自称する人には気をつけなければいけません。
 私は謙遜ですと、いう人には気をつけなければなりません。そう自称した瞬間、謙遜さはすでに取り去られています。モーセの一挙手一投足は聖別され、人々は外に現れた輝きに感動を覚えます。


 初代教会で初の殉教者となったステパノは人々から石打ちの刑を受け、死に行くとき天使のようでした(使徒7・54〜60)。まさか芝居をしているとは思われません。彼の内面が外に現れ出たのです。


 イエスさまはマグダラのマリア(マルコ16:9)に、そして姦淫の女(ヨハネ8:1〜11)にどのようなまなざしを、そして態度をお見せになったでしょうか。容易に想像できることは内面の愛、優しさ、思いやりなどが外側からつまり彼女たちから判断できたということでしょう。

「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをご覧になって彼らを深くあわれまれた」(マタイ9:36) 「イエスは、彼女が泣き、また彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをご覧になり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた」(ヨハネ11:33) 「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)


 こうして彼女たちは新しい人生を見いだし、進んで行くことができたのです。ペテロに関しても同様であったでしょう。彼が裏切ったときイエスさまのまなざしを雰囲気をもうあなたは容易に想像することがおできになるでしょう。

「私はあなたの信仰がなくならないようにあなたのために祈りました」(ルカ22:32)
 内側のものは必ず形になって現れるものです。
 昔から内面と外面、内側と外側、内容と形式との間の葛藤は哲学的なひとつのテーマでした。儒教の祖である孔子はどのように考えていたのでしょうか。日本、朝鮮、中国など東アジア諸国は儒教文化圏に分類されていて、彼の思想の影響を受けています。あるとき弟子が尋ねました。 「先生、喪に服すことの意味は分かりますが、3年(正確には25ヶ月)というのは長いのではないでしょうか」 「肉親が亡くなったら2年、いや3年だって喪に服するのに十分とは言えない。しかしあまりにも長いと実際に生活する上でいろいろと差し障りが出て来るだろう、だから3年にしたのだ。また中には全く悲しまないけしからん輩もいる。そのような者たちにとっては3年という形はきっと教育的効果をもたらすだろう」
 と答えました。こうして東アジアは形優先の文化です。もちろん日本もそうです。形式や礼や型をうるさく言います。ところが心と形とは常にギャップがあるものですから、私たちは葛藤します。それでもその文化は根強いもので、いろいろな場面に登場します。例えば「高校生らしくしなさい」という言い方。でも高校生らしさとはどのようなものかはだれもきちんとした定義をもっている訳ではありません。ただ形はなんとしても重要だと納得している人たちは多いのです。
 ではわがイエスさまはどうでしょうか。マタイの福音書23章23節をご覧ください。 「いまわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたははっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし他の方もおろそかにしてはいけません」


 イエスさまが糾弾なさっているのは彼らの偽善です。確かに規則どおり十分の一を捧げている、つまり形を守ってはいるが、あなたがたは偽善者だよ。なぜ。心が伴っていないから。けれどもそのあとがまた重要です。

「他の方もおろそかにしてはいけません」


 ここで整理してみましょう。もし心が整うなら必ず形・外面も整うものだというのです。
 もし私たちが「愛によって働く信仰」を働かすならばまず心が整えられるでしょう。礼拝したい思いが強くなるでしょう。そして喜びを持って礼拝に出席するのです。これこそ自由の名にふさわしいものでしょう。こうしてみことばの勧めが感動を持って受け入れられるようになります。

「兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならばそのようなことに心を留めなさい。
 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば平和の神があなたがたとともにいてくださいます」(ピリピ4・八、九)

新しい生活への自由です

 覚えてください。自由は2つのものが合わさってはじめて自由になります。何々からの自由と何々への自由です。もし前者だけですと、たとえばある悪習慣から自由になってもその時間を空けたままでいるとするなら、きっと以前の習慣に戻るか、新しい別の習慣を身につけることになるでしょう(ルカ11:24〜26)。
 タバコをやめようと思って、禁煙パイプを口にくわえたり、ガムを噛んだりするのはこのことを証明しています。ひとつの束縛から自由になれば自由であるとは決して言えません。何々への自由が必要です。何々へはいることのできる自由、そしてそこに止まり続けることができる自由です。
 実はガラテヤ人は一度自由になっていながら戻ってしまいました。パウロはそれを非常に嘆いてこの手紙を書きました。どうしてせっかく一度自由になったのに再び束縛されてしまったのですか。「ああ、愚かなガラテヤ人」(3:1)とはこの意味です。怒りと嘆きとともに彼は叫びます。新しい生活への自由が必要です。


 アウグスチヌス(ちなみに聖書の正統神学の流れはイエス→パウロ→アウグスチヌス→ルターやカルヴァンなど)は全くひどい放蕩息子でした。あるとき町を歩いていたところ、女性が呼び止めました。 「あーら、アウグスチヌスさま! 久しぶり」
 ところが彼はまったく気が付かない様子です。再び 「アウグスチヌスさまでしょ。ネッ。アウグスチヌスさまでしょ!」
 でも彼は足は止めません。3度目ついに彼は振り向きました。 「私は確かにアウグスチヌスだ。君のことを覚えてるよ。でももう昔のアウグスチヌスではない! 新しいアウグスチヌスになったのだ!」 と言うや走り始め、2度と振り向くことはありませんでした。


 彼は新しい世界に入った自分を大切にしています。「愛によって働く信仰」が機能するときにあなたも古い世界から出る自由を得るし、新しい世界にはいることの自由があるし、そこには止まることの自由があります。それこそ新しいあなたではないでしょうか。


 愛によって働く信仰。 「愛によって働く信仰」とはいったいなんでしょうか。キリストの愛があなたの中にはいり、しっかりと働くことです。キリストは私の罪のせいで亡くなられた、ほんとうにありがたいことだ! ということをあなたにお解りになるでしょう。私はキリストに愛されてるんだなあー、と分かる世界。もしこれがまだお解りにならないとき、人は何によって生きているのでしょうか。それは習性です。よい習性であればいいのですが、多くは良くない習性です。
 たとえば否定的な思考パターン。ものごとを悪くへ悪くへ予想します。悪意にばかり理解します。あるいは深酒、喫煙など。人の心の中には空洞があります。結局は何かで埋めなければならないのでこれらのもので埋めます。ですからもし無理やりこれらのものを第3者が奪い取るようなことがあれば本人は激しく抵抗するはずです。本人が悪い習慣だと気づいてもやめることができないのはこれがその理由です。


 カナダでこのような実験が行われました。肥満対策の手術でした。ご存じのとおり食物は口から入り、食堂を通過して胃で消化されます。その後小腸で栄養が吸収されます。そこで考え出されたのがその小腸の前半部である空腸を切除してしまうというものです。何人かの人たちが開腹手術を受けて、切除しました。
 さあ、結果はどのようであったでしょうか。なんと肥満から解放されたのです。万々歳! と思いきや、実は手放しでは喜べないことが起きました。ほとんどの人たちが精神的に不安定になったのです。
 つまり食べてそのつどちょっと太ることが彼らには必要であったのです。精神的な安定のためには食べることが特別の意味をもっていたという訳です。
 心の空洞を埋めていたものが取り去られてしまったからには、代わりのものが提供されなければなりません。というより正確に言うと本来あるべきものが戻されるべきです。つまりキリストの愛が私たちには必要です。
 よく第3者が、「あなたそんなことやめなさいよ!」と言って悪い習慣、それも単に行動だけでなく、否定的な思考であるとかを諌め、やめさせようとしますが、これは以上のような理由で効果がありません。本人もできたらやめたいと思っている場合も多いですし、でも実際にやめられないのです。実はすでにこれらの習慣は人格の一部になっています。
 もしだれかが無理やりに取り上げたら精神的に不安定になってしまいます。代わりのものが与えられなければなりません。もう一度言います。必要なのはキリストの愛です。キリストの愛だけが人を変えます。新しい人を作り出してくれます。


 私はイエス・キリストであると名乗る精神病の患者さんがおりました。 「あなたはイエス・キリストですか」 「しかり。わが子よ!」
 ひとりのお医者さんが治療を試みることになりました。 「すいません。ちょっと腕を上げてください」 「こうですか」
 先生は巻き尺をもって来て彼の体の寸法を計り始めました。 「あの、何をしてるんですか」 「まあ、いいじゃないですか。じっとして! ところで、あなたはイエス・キリストですか」 「しかり。わが子よ!」。
 彼は胸を張って正々堂々と答えました。続けて先生は太い木材を持って来てノコギリで切り始めました。ギーコ、ギーコ。ちょっと不安になって来た彼は聞きました。 「先生、あの、これは何をしてるんですか」 「まあ、いいじゃないですか。ところで、あなたはイエス・キリストですか」 「しかり。わが子よ!」。あいかわらず彼は胸を張って正々堂々と答えます。木を切り終わった先生は今度は太い犬釘と金づちを持ち出してきて、なにやら組み立て始めました。
 もう彼の不安は最高潮に達しています。 「先生、先生、教えてください。これはいったいなんなんですか」 「あなたはイエス・キリストですか」 「しかり。わが子よ!」 「もしそうならあなたには私が何をしているか、もう分かるでしょう」
 自分が十字架につけられようとしていることに気づいた彼ははっとして本名を思い出しました。 「私はイエス・キリストではない。違う。イエス・キリストではない」
 彼は正気に返り、いやされました。ショック療法です。


 キリストが分かるとき、悪い習慣を人格の一部分にまでしてしまっていた自分を変えることができます。偉大な信仰者パウロでさえ悩んでローマ人への手紙7章一5節で正直に告白したほどです。

「私には自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく自分が憎むことを行っている」


 まったく不自由な自分を私たちは抱え込んでしまったものです。しかしキリストの愛がドカンとやって来るときにあなたの中身が変わります。従来のあなたに染み付いてしまっていた良くない思考あるいは行動のパターンが変わってしまうのです。 「愛によって働く信仰」とはキリストの愛があなたの中にはいり、しっかりと働くことです。



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