キリスト教入門講座・全16課
第13課 救いの確信

 おめでとうございます。あなたは神さまの子になりました(ほかの言い方として、救われた、クリスチャンになった、回心した、新生した、新しい人となったなどありますが、同じことを言っています)。
 この課では信仰者に、神さまが勧めておられるもう一つの作業について知っていただきたいと思います。それは救いの確信を得るということについてです。免許証を持っていても不携帯で運転することは不安であるのと同様です。救われている事実はあっても確信がないと、受ける恵みも少なくなってしまいます。ご一緒に救いの確信をどうしたら得られるか学んでまいりましょう。

第一に、神さまによる認定を確認しましよう。

 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は・・・ただ、神によって生まれたのである」 (ヨハネ1:12ー13)。
神さまの子であるための条件は、イエスさまの十字架と復活を心に信じ、受け入れていることだけです。ところがなかなか納得できない方がいらっしゃるようです。
 たとえばクリスチャンになった「感じ」がしないというものです。はたして「感じ」が事実を証明できるものなのでしょうか。朝起きたときにうっとうしい「感じ」がすると太陽はないのでしょうか。今日が日曜日だとしても、人により、また勤務のあるなしにより、受け取り方は違ってくるでしょう。「感じ」とは事実を証明するものではなくて、むしろ事実のあとにそれをひとりひとりが体験していくものです。
 更にある方は、「あまりにも手続きが簡単すぎます。ほかに何かすることはないのですか」とおっしゃいます。きっと修行を積むとか、善行とかを考えていらっしゃるのでしょう。しかし人は自分を救うことができないのですから、これらは必要ありませんし、無意味です。ここに御子キリストのあがないの意味があります。このあまりにも高価な犠牲には値段のつけようもありません。ただ感謝の心をもって受け取るのみです。救いとは無条件、だから恵みと言います。
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる購いのゆえに、価なしに義と認められるのです」 (ローマ3:24)
 ところで、それらしい感じがなければとか、何かをしなければとかいう考えは、いずれもあなたというひとりの人間の主張です。信仰とは、人ではなく、神さまのおことばやお考えを信頼することです。
「人に従うより、神に従うべきです」 (使徒5:29)。
いかなる人も人に対して最終権威となることはできません。信仰の父と言われるアブラハムに学びましょう。
「彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」 (創世15:6)。
 あなたがみことばを、すなわち神さまの認定をそのまま受け取られるなら、救いの確信を持つことができます。
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」 (ローマ10:9)。

第2に、罪の悔い改めを毎日しましよう。


 「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」 (第1ヨハネ1:9)。
罪の告白ができるのは、赦しが保証されればこそです。あなたの過去・現在・未来のすべての罪が十字架において完全に赦されています。十字架があればこそ悔い改めには意味があります。
 旧約時代はどうだったでしょう。真実の悔い改めが求められたのは言うまでもありませんが、律法の定めによって動物の血が必要でした。しかし、
「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのです・・・雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。・・・しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげ・・・私たちは聖なるものとされているのです。・・・約束された方は真実な方です・・・あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです」 (ヘブル10:1、4、10、12、23、35)。
 赦しを信じるなら、神さまを悲しませもし、あなた自身を傷つけもする罪の数々を告白しましょう。これは信仰のあかしです。もし、しないとかつてのように、憎しみや妬みなどのあらゆる罪が、新しい人であるあなたを縛り、身動きできないようにしてしまいます。信仰の勇者でさえそうです。
「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました」 (詩篇32:3)。
 しかし悔い改めると、そのダビデと同じ経験をすることができます。
「私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」 (詩篇32:5)。
 そうです。悔い改めるたびにあなたは聖められ、またそのことによってなお一層神さまに近づくのです。
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい」 (ヤコブ4:8)。
こうして、「主は私とともにいてくださる。主と私とはひとつだ」という臨在感が生まれ、救いの確信となります。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」 (イザヤ41:10)。
 まことに救いの確信を持った者は強いのです。

第3に、聖霊さまのあかし(証言)を声に出して言いましょう。

 信じる者の心には、それまで気にもとめなかった動きが活発になります。それはサタンの働きです。未信者のときはサタンの子として、サタンとともに歩み、地獄に行く運命でしたから、ちょうど黒い紙に黒インキで書いたようなもので、目立たなかったのです。しかし神さまの子として聖くされたあなたの心には、真っ白い紙に書かれたようにサタンの働きが目立つようになるのです。
 サタンは言います。「あんな簡単な告白でクリスチャンになれるもんか。おまえは今日も罪を犯したじやないか。それでもクリスチャンか!」。実はこのような心の動きは聖霊さまの働きが始まった証拠なのです。というのは罪に対する敏感さこそ聖霊さまのお与えになったものだからです。
「その方(聖霊さま)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」 (ヨハネ16:8)。
 しかし、一方であなたは反論します。「いや。私は信じた。クリスチャンになったのだ。」 この思いこそあなたの中に住んでいらつしやる聖霊さまのおっしやることばです。
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」 (第1コリント12:3)。
 なぜなのでしょうか。それは信仰を持つこと自体が奇蹟であるからです。2,000年前の十字架がどうしてあなたと関係ありますか。確かに、人間の理性や説得を越えた力が働いたのです。聖霊さまの働きです。
「ですから、聖霊が言われるとおりです。きょう、もし御声を聞くならば、・・・心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、・・・常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、・・・決して彼らをわたしの安息にはいらせない」 (ヘブル3:7−11)。
 心をかたくなにせず、あなたが聖霊さまのあかし(証言)を積極的に発言していかれるなら、すなわち、「私はクリスチャンです」「私は神さまの子どもになりました」と言い続けるなら、救いの安息、つまり確信を持てるようになるのです。
「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」 (ローマ8:14)。

 新しい人としてスタートされたばかりのあなたにお祝いを申し上げるとともに、神さまの大きな祝福をお祈りいたします。アーメン。


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