鰐淵寺もっと知りたい

1.2.鰐淵寺概要
1.鰐淵山と鰐淵寺
2.鰐淵寺と杵築大社

3.廃仏
その 1
その 2

4.弁慶伝説と頼源

5.鰐淵寺の大きさ

6.小説「数の風景」

当ページは『出雲国 浮浪山 鰐淵寺』と小学館の『古寺を行く』を参考に編集しています。

『出雲国 浮浪山 鰐淵寺』は鰐淵寺にて購入できます。

 

 

 

 

『末法思想』とは、平安の宮では火事が続き天然痘が流行していた時期で、仏教にある末法の世になり、乱れて全てが終ってしまうという考え。

 

* 『別所』とは本寺・本坊に対する施設の呼称で、平安末から鎌倉期にかけて『別所』が『末寺』へと発展する動きが展開された。

 

『塔頭(たっちゅう)』とは祖師の供養のために建てた塔のある所、または師を慕って近くに建てた弟子の住まい。ここでは前記の意味。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『中世諸国一宮制』、各国毎に第一の宮を設定する制度

1.鰐淵山と鰐淵寺

鰐淵山は六世紀後半、推古天皇の勅願によって智春上人の手で創建された。『鰐淵寺』と史料上に書かれたのは鎌倉時代の1213年。それ以前は鰐淵山または『鰐淵』と呼ばれていた。

『鰐淵寺』の山号は一般に『浮浪山』が知られているが、それは鰐淵寺と一体のもので、成立は『鰐淵寺』の創建と同時期である。その時『鰐淵山』から『浮浪山鰐淵寺』に変化・発展した。

鰐淵山』とは、もともと浮浪の滝を中心とする別所地域の名称だった。そして別所は蔵王信仰の拠点であった。それを祭ったのは平安初期の九世紀頃と言われている。そして鰐淵山は出雲国内における信仰の中心であり、その後の平安末期にかけて大きく発展した。

後白河上皇編纂の『梁塵秘抄』に

聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ播磨なる書写の山

出雲の鰐淵や日の御碕、南は熊野の那智とかや 

 

と言う歌が載っている。この頃には、一地方の信仰の対象から全国的な信仰の対象として位置付けられる。そして蔵王信仰に加えて、平安末期以降各地に広まった如法教信仰(末法思想の影響)に基礎を置くものへと発展し全国的にも著名な修験の道場となった。

 

鰐淵山への如法教信仰の導入と、その後十二世紀後半における回峯行の盛行、それにともなう延暦寺との緊密な交渉の中で比叡山延暦寺 (天台宗)の*別所として位置づけられた。

そして、もともと鰐淵山とは別に、それぞれ千手観音と薬師如来を祭ってきた唐川と林木の二つの寺院が、平安末期に至る時代推移の中で勢力を大きく衰退していたところ、如法教信仰と 蔵王信仰に支えられ勢力を伸ばした鰐淵山が新しくその中に組込まれ、林木から移された薬師如来を本尊とする搭頭が別所地域に建立され鰐淵寺が成立する事となった。

鰐淵寺はそれぞれ別個の仏像を本尊とする北院と南院、それに別所の蔵王権現、これら三者の複合体として存在した。

2.鰐淵寺と杵築大社

出雲出身の良範上人の伝記をみると、十二世紀中頃に稲佐浜が極楽浄土の入り口と考えられていた。これは杵築大社における神迎え神事の場所として重要な位置である稲佐浜と一致し、それは大社信仰と鰐淵山信仰との密接な関係の中で生まれたものである。

出雲大社

十世紀頃、国造出雲氏が本拠地を意宇群から杵築大社に拠点を移し、その結果として十一世紀中頃出雲国における中世一宮制(出雲の国の国鎮守)が成立した。

この一世紀は杵築大社が古代的な神社体制から、中世的なものへと大きく変わった時期であり、鰐淵山にとっても重要な時期であった。 神聖な信仰と修行の場としての鰐淵山から、世俗的な社会秩序と連なり中世的な宗教勢力として影響力を行使する鰐淵寺への転換は主に杵築大社との関係、中世 諸国一宮制の成立過程との関わりの中で進んでいった

鰐淵寺側の僧によって書かれた由来には、「(鰐淵寺は『浮浪山』の山号があるが)、『浮浪山』とは、仏教発祥の地の一部が砕けて漂っていたのを、杵築大社の祭神スサノヲ ノ尊が引き寄せて国造りをした場所で、『浮浪山』とは海に漂っていた山塊を意味する(そして島根半島全体を指す)。また、その麓には霊祗大社を建て峯には権現の社壇を構える。夜半毎に大明神飛瀧の社地に集まり盟誓を成す。 杵築と鰐淵はニにしてニにならず、並びに仏道・神道も離れる事無し。」とある。

出雲大社

杵築大社の由来について十四世紀に書かれたものには、「当社大明神は天照大御神の弟、スサノヲノ尊なり。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。また浮山を留めて垂れ潜む。」とあり両者の縁起は同じスサノヲ ノ尊となっている。平安時代の神仏習合の展開によって、鰐淵寺と杵築大社の密接な関係の中で発展していった 。

十三世紀、出雲の守護佐々木泰清より、鰐淵寺は出雲の国を代表する寺院として認められ『国中第一之伽藍』と呼ばれた。そして杵築大社は『国中第一之霊神』と呼ばれ出雲の国で最も有力な神社と されていた。更に、杵築大社の年中行事に鰐淵寺僧が出向き大般若経の転読を行っていた。

ところが、十六世紀後半頃から杵築大社においては御頭神事の衰えから、鰐淵寺との提携が無意味になってきた。更に祭神をスサノヲをとするより、国造家の歴史を考える上で 大国主神を祭る事の方が説明は明快だった。そして、十七世紀の杵築大社の造り替えの際、仏教施設が撤廃され大社の神仏分離が行われた。

 

学校の授業は三学期も終わりに近づくと近代史になる。従って、学校では本を一読するだけで、先生の講釈はない。明治維新の英雄達は、本も沢山出版され、その人となりが良く分かる。 しかし、歴史にも表と裏、陰陽があり 、明治維新の中で『神仏分離(廃仏毀釈)』は表にでない、影の部分である。この町はその影の影響を最小限にとどめたところであ り、それに尽力した人がいた。

 

文献 『神仏分離の地方的展開』 村田安穂著

『神々の明治維新』 安丸良夫著

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.廃仏毀釈

その1

幕府の保護を受けその支配機構の一翼を担っていた仏教は、江戸時代を通じての排仏思想へ展開し、幕末の王政復古思想の興隆を背景にした神道思想により、『神仏分離』に至った。 本地垂迹思想のもとでは別当・社僧の下にあった神職の地位は一変し、官吏として神仏分離を推進し、民衆を指揮して『廃仏毀釈』を行った。

その状況を鰐淵寺から近い、隠岐と津和野を『神々の明治維新』から抜粋してみる。

津和野の藩校に千家俊信に学んだ国学者の岡熊臣が登用され、学風は国学と神道説を中核とするようになった。慶応三年(1867年)六月、『社寺改正』が断行された。その内容は社寺整理であり、寺院を本寺または最寄寺院へ統合する事を命じ、日常の宗教活動に大きな制限が加えられた。葬祭の権限を寺院僧侶から奪って、神道式(神葬祭)にする事がこの改革を推進した人々の基本理念であった。神葬祭は明治になると全領民に強要された。 尚、藩制が廃止されると、民衆の多くは仏教に戻り、士族だけは神葬祭を続けた。

津和野藩に対して、一部の藩や地方では明治元年以降に強力な廃仏毀釈が行われた。隠岐、佐渡、薩摩藩、土佐藩などがその代表的な事例である。これらには、水戸藩の社寺改正の影響があるとともに、維新政府の宗教政策を先取りして地域で実現してみせようとする性格があった。

隠岐は幕領の僻遠の地であったが、京都へ出て国学や神道思想を学ぶものが多かった。慶応三年五月、中西毅男は同士七十三名の連署を得て、文武館の設立を松江藩に願い出た。それが聴きいれないとみると、島内に勝手に文武館を開いた。慶応四年、同士を結集し、農民を集めて隆起し松江藩郡代を追い払った。 この動きの中心になったのは、庄屋層と神官層だった。その年五月、松江藩と戦って敗れるが、有利な判決でその勢力は温存された。六月、全党で仏教排撃を実施し、寺院と仏像仏具などを破壊し、家々の仏壇なども破壊された。島後の四十六か寺はすべて廃滅した。 島内の70余名の僧のうち53名が還俗し、他は島外に追放された。明治四年一月に、全島民が血判状を出して神道に帰することを誓った。

壊された石仏群(相模大山の蓑毛道にて )

その2

そんな状況下で鰐淵寺はどうであったのだろうか。

摩陀羅神は須佐之男命と同体であるとか、大国主命と同体であるとかいう説が、本地垂迹思想の流れの中で一部行われており、更に鰐淵寺は神地であり、仏堂を毀し僧侶を放逐し、寺領寺禄を大社に返納すべきであると主張された。

隠岐ほどの強烈な神道思想はなかったものの、上記から察するに鰐淵寺を取り巻く環境は、決して穏かなものではなかったようだ。そして登場するのが『神々の明治維新』、島根百傑にも書かれている 村田寂順と秦良の兄弟である。

慶応四年三月、神仏分離令が出され、廃仏毀釈の行動が起こり、同年五月寂順が作成した「報国微言」を秦良が太政官に提出した。 内容は簡単に記述すると 、『キリスト経が国家にとって最大の害毒で、仏教を持って防ぐしかないにも拘らず、それを疎んじるのは敵を防がんと欲して剣槍を投げ捨てるようなものだ----』 。

更に、松江藩神社調停役にたいして、摩陀羅神社は梵土の天台仏教保護の神であって、日本神衹に属する神で無いことを主張し、調停役も同意し寺院消滅の危機を脱した。

『出雲国 浮浪山鰐淵寺』のなかに見聞雑和の記事が載っているが、これには誠に信じがたい記述があり、明らかに鰐淵寺を神仏分離の対象から外したい気持ちが 相手側にもあったのが伺える。一部を抜粋すると『出雲は日本第一の神国とも謂わるべき国であるが、明治維新に神仏分離せらるるとき、別に仏教排撃の禍難に陥った寺院がなかったのは何か理由があろうと思っていたが、−−− (中略)−−−知事などが鰐淵寺を調査しようとしたが、一行が山道にかかれば、四方の山より大山の石塊が落下しすこぶる危険であり、一行は異変を恐れて途中で引き返し、遂に同寺を調査するに至らなかった 』と、まるでおとぎ話のような内容が書かれていた。 こんなことから皆で守りきった鰐淵寺のように思える。

その3

『神仏分離の地方的展開』によると廃仏毀釈の時期は、慶応四年(1868)三月の別当・社僧の復飾命令と神仏分離令が出された事に始まり、教導職制による僧侶を加えた国民教化政策が終わる明治十年一月までと記載されている。更に高楠順次郎氏説は、明治五年までの仏教形式破壊の時期と同六年以降の内容破壊の時期とに区分された。路傍の石仏を打ち毀すような行為は明治四年までが盛んで、廃藩置県を境に沈静に向った。特に寺院の廃合の場合、明治三年末の富山藩の廃寺事件を契機にいっそう穏健な態度をとるようになり沈静化に向った。

鰐淵寺周辺については、全く廃仏毀釈がないものと思っていたが、『出雲国 浮浪山鰐淵寺』によれば遥堪峠までの石仏については首の下から折れているものが存在するらしい。残念な事だが、上記によれば明治四年までの間に起きてしまったようである。それでも他に比べれば損傷は少ないように思う。

同じ景色と同じ空間、荒々しい日本海、悠々の斐伊川、浮浪の滝の飛沫、その中に生きた人が歴史の教科書に出てくる。僧頼源、隠岐ノ島へ流された後醍醐天皇の脱出に尽力した。 そして、光のように歴史に登場し、また一瞬の間に消えていった。

4.頼源と弁慶

頼源

後醍醐天皇は倒幕を企た謀反の罪で隠岐に島流しとなった。頼源は天皇から綸旨を頂き、島からの脱出を手伝い、その後の倒幕活動に心血を注いだ。

さらに頼源は後醍醐天皇が死去し、後村上天皇が即位した後でも、引き続き南朝方として変わることなく忠勤に励み 、かつ御所に出向き知行充実・安堵と根本薬師堂造営の約束を何度となく取り付けた。しかし、数年経っても根本薬師堂は完成しなかった。

『出雲国 浮浪山 鰐淵寺』によれば、彼は佐々木氏一族で、隠岐国守護佐々木清隆と関係があった。従って、厳重な警戒の中 でも、後醍醐天皇と会う事ができたのであろうと推測している。

弁慶

松江に生まれ、18歳で鰐淵寺の僧として入った。義経との関係はここに記す事もない。鰐淵寺に弁慶の名があるものは、伯耆大山の大山寺より一晩で持ち帰ったとされている『大釣鐘』と『自画像』、それに『鉄製負い櫃』がある。

しかしながら、事実はどうも-------。<文途中>

 

5.鰐淵寺の大きさ

『昔は谷々路を隔て、坊院軒を並べ、凡そ三千坊---』と記入があるが、かなりの数の僧坊が存在した。伯耆大山大山寺でさえ九院四十三坊あったとされることから、山陰一の鰐淵寺は更に多くあったと思われる。しかしながら、現在残っている資料で確認できるのは、僅か二院二十八坊のみである。

また、明治期に書かれた絵図で確認できるのは松本坊、嚴王院、浄觀院、是心院、洞雲院、等澍院、密嚴院、現成院、七佛堂、覺城院、恵門院、本覚坊、和田坊、念仏堂、開山堂、釈迦堂、竹林庵、常行堂、根本堂である。

その他の建造物としては三重の塔などもあったようである。

 

「数の風景」 6.松本清張著

鰐淵寺というのはなんとなく惹かれる名である。奈良の秋篠寺だとか大和の室生寺とかもそのような響きをもつ。