白い船と青い海の町

青年の遺徳

映画「白い船」がヒットしている。この船が見える海岸は 、初めて外海で泳いだ場所だった。五月の暑い日に、唯浦隧道を出てすぐ下に降りた通称”大床鼻”と呼ばれる磯の近くだった。

それまでは海といえば、河下の海水浴場で家族等に見守られて泳いでいた。それも今はすっかり変わり、至るところに防波堤ができ、とても海に行った気分にならなくなってしまった。

そして、この唯浦、塩津地区は、また別の思い出もある。

高校生の時に 、郵便局でバイトをしていた。郵便番号が採用されるそのズーと前の時代で、地名と県名の知識が余り芳しくなかったので、内勤の仕分け作業から、赤いバイクで外回り(速達・書留の配達)をやらされた。

その時に大雪が降り、十六島地区と塩津地区に配達があった。バイクの後輪にチェーンを付けて出発した。わだちが出来た所では前輪がツルツルと滑った。

十六島は急な坂は無いが、塩津小学校前から塩津集落に行くまでの細く急な坂はガードレールも無いので、雪で滑るとあっと言うまに100M下の崖下に落ちてしまう危険があった。(その頃は道ももっと狭く急だったように思う)

小学校の教室の窓と空

教室の窓からの景色

下るのを何度かためらった後の選択は、映画にも出てくるイチョウの木の前のお宅に事情を話して届けてもらう事だった。

本来なら歩いて届ければいいが、市内のポストの郵便物の集函時間が迫っていて、先日も遅れて叱られたばかりだった。

挨拶をして、出てきた男の方は気持ち良く私の要望を受入れて下さり、『丁度、都合があるので問題はありません』と仰って頂いた。(配達物は新聞だったと思う)

30数年前の事だが有難かった事と、下る勇気が無かった事の反省が入り混じり、今でもその時の事は覚えている。

そんな思い出がある塩津・唯浦地区が映画になるのだから見ない訳には行かない。

横浜の上映最後の日、法事の為に横浜駅から帰るので、その前の時間を利用して見に行こうと思った。会社のフレックスを利用し16時半を退社予定にしていた。

教室内

唯浦港から

しかし、当日に限って次から次へと仕事が押し寄せてくる。せめて17時に上がれれば、17時半でも---

結局、最終上映開始時間を30分も過ぎた18時半にやっと終った。

相模原から横浜まで少なくとも1時間はかかるので、残念ながら見ないで帰省する事になった。

そして、日曜日の法事が終った午後に、兄の提案で塩津小学校に行こうという事になり、兄の長女と3人で撮影場所を見学に出掛けた。

昔と違い道も整理されていて、デコボコ道で胃が下がる事等もなく、短時間で唯浦隧道迄到着した。ここは昔と変わっていなかった。

更に塩津小学校まで車を走らす。その日は敬老の日で体育館では若い歌声が流れていた。

校長室の前に唯浦十五青年の遺徳が並べられていた。この小学校の子供達はこの出来事を小さい頃から聞いて、そして見て育っている。

ここで育った子供達はいつも行動の指標に、この青年達の事と自分がその時に取るであろう行動を反問して自分の行動を考えているのだろうか。そんな教育が今どれだけ残っているのだろうか。

漁民センター脇から

角松敏生歌碑

忙しい中、わざわざ校長先生が教室を案内して下さった。

つやのある木の階段を上がると、突き当たりの部屋が『白い船』の見える教室だった。部屋に入ると窓側には異なった種類の遠眼鏡がいくつか並んでいた。

その日は空気が乾燥していて、遠く隠岐ノ島まで肉眼で見えた。『白い船』は毎週2回ここを通るらしいが、生憎とその時間は過ぎていた。

この教室の窓から唯浦隧道から抜けた直ぐ右の、山が急な角度で海に落ち込んでいる場所が見える。その風景は油絵で描いた事があるが、真夏の海の青がまたぴったりと合う場所である。

船も、隠岐の島々も見える。子供達は自分のお父さんの漁船も眺められ、夕焼はまた素晴らしいだろうなと思われた。海好きの自分にはうらやましい環境の教室だった。

教室内には生徒たちの机が四列に並んでいた。校長先生にお尋ねしたところ現在の生徒数は14名で映画より3名程少な いとの事だった。

小学校正面

唯浦の義勇の碑

小学校を出て塩津港に向かうと手前に角松敏生の歌碑が設置されて、訪れた人の思い出が色々書き込まれていた。碑のモニュメントにスコップがあった。水が溜まり腐食が心配になった。しかし、この映画とこの歌はいつまでもこの町で残りつづけるだろう。

兄が映画を見た人に話ように、場面や人の名前を出して説明するが、見てない自分は判らない。特に登場人物の名前を出して『だれそれがなんとかの』となるともう話に付いて行けなくなった。

そんな自分もその後の『白い船記念館』でサインやパネル・参考資料等を見て登場人物や、出演者が少し分かるようになった。

夕暮れが近くなり、最後に唯浦港に行って義勇の碑を見て帰った。

小さな町で15名の働き手を失ったことは、町も家庭も大きな痛手であった。『義勇』と言う文字がどれだけその家族を救ったのだろうか。

この場所はもう一つの思い出があった。高校時代に、この地区から通っていた友人と初めてキャンプをした場所でもある。丁度、小学校の下辺りだった。彼が素潜りで採ってくれたサザエを食べて 、夜は蚊にさされて眠れなかった思い出がある。

その彼も一緒に東京に出て、一時は池袋周辺にお互いが住み、其々の結婚式にも参加した。しかし、残念ながら今では彼の音信は途絶えてしまった。

いろいろな思い出のある『白い船』の海である。

白い船記念館の絵コンテ

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唯浦十五青年殉難概況(日本水難救助島根支部が五十周忌に発行したものの抜粋)

一九一二(大正元)年の暮れ十二月ニ十七日、今から九十年以上前、ラジオの気象通報はもとより電話,発動機船もなく全て文化に恵まれないじだいであった。

早朝穏やかな天気なので塩津地区の漁船(2から3人乗り小型船)ニ十六艘はいつものように出漁した。

ところが午前十時頃南風が強く吹き出したと思うと疾風にかわった。雲は低く海面を覆い隠岐は潮煙で全く見えなくなった。

驚いたのは塩津の人々で、残っているものは老人、子どもばかりで救助の方法がない。海の急変におどろいた塩津の人は隣の唯浦や釜浦に助けを求めて走るものや神仏に加護を祈る人々で,部落は上を下への大混乱となった。そのうち、近くにいた十七隻が、かろうじて帰ってきたが九艘が帰ってこない。残った船は型も小さいので錨を入れて,船を止めようとしたが荒れ狂う波にほんろうされ綱は切られてどうする事も出来ない。

唯浦区の漁船は天候を気遣って出漁を取りやめていたところ、折りからの急使でその遭難を知った。唯浦青年は直ちに然も慎重にニ艘の救助船を岩をかむ激浪の上に乗り出した。彼らは他の救助船と力を合わせ漂流船と疲れ切った乗組の人々を次々と救助し午後1時頃浜に帰り着いた。
五隻の遭難船と沈没状態の一隻に乗っていた二人を連れ帰った。塩津、唯浦の浜には生気がよみがえった。
さきほどの救助で疲労しきっていた。しかも、昼食さえまだ食べていなかった。浜に着いたがとても疲れていた。しかし、なお三隻が行方不明である。塩津から唯浦へ「今一度頼みます。」と救助を依頼する使いが走った。調度その時、東のほうから通りかかった人が「まだ沖合いに漂流している船を見た。」とも言ったので遭難船のまだある事を知った。しかし文字通りの逆巻く怒涛で救助のすべは無く人々は眉をひそめ首をかしげた。

しかし、この哀願を聞いた唯浦青年たちはたれ言うともなく、等しくまなじりをあげ、歯をくいしばり、荒れ狂う海沖合いをじっと見つめ、異常な決意を示して立ちあがった。疲れているといえたくましい気力で船に飛び乗った。

こうして十五青年の乗った第一船は午後二時四十分に波煙に包まれながらもたちまち沖へ沖へと消えていった。さらに、午後三時過ぎ、唯浦と塩津から一隻ずつが出発した。しかし、この二隻が小伊津沖にさしかかった三時半頃、風は急に西風となりいよいよ強く、いよいよ荒れ狂い怒涛と寒気に進退はまったくきわまった。この時、先発の船がはるか向こうで海岸に向けて進んでいるもを認めた。おそらく坂浦港へ避難するのだろうと思い、捜索を中止して小伊津港に避難した。

 このころ、行方不明の三隻の中の二隻が、自力で海岸にたどりついた。残すところ、二人乗りの舟一隻となった。しかし、この一隻と先発船の十五名は夕方になっても消息がわからず、二重遭難の心配が強まった。

時に十二月ニ十八日正午、八束郡恵曇村から「フネアリ、ヒトナシ」の悲報に接した。ついに第一救助船、十五青年は絶望的である。彼らの鬼神を泣かす壮挙も不可抗力の自然の猛威にのまれてしまったのだ。塩津、唯浦の地民は老若男女天を仰ぎ地に伏して号泣した。

第一船のものと思われる船具や舵が漂着したという連絡が次々ともたらされ、十五青年の殉難の事実はいよいよ確実になった。十五青年は義をみて難におもむき、ついに殉じた。義烈というべきか、悲壮と言うべきかまさに義に勇んで殉職したのである。前途有為の青年十五名はこうして帰って来なかったが、尊いみたまは海岸の天狗岩にきざまれた『義勇』の文字と共に永遠に生きている。