大山(薬師道2) |
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浄発願寺 |
大山について少しは考えるようになった。頂きに立ち脚力の衰えの無いことや 、彩色の変化を目の当りにできた喜びだけを考えていた。それは又意義がある事で、それを否定すれば自分の山歩きなど全く意味がなくなってしまうが--- 昔、山は信仰の対象で、また一部の山は修験者の道場であった。 |
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そして、ここ大山は関東周辺では大きな信仰の対象であった。 私は、今まで全く気にしていなかったが路傍にある石碑を見ると、『○方向大山』の文字が読み取れるものが非常に多い。大山を中心に半径約20km圏の石碑を見ると大体明記されている。 さて今日もその大山を、日向薬師から登ってみようと思った。 |
登り1 | ||
登り2 |
先回は車で本堂まで登ったので今回は日向薬師の専用駐車場に車を止めて、仁王門等を見ようと思い参道を登った。 階段を上ると、源頼朝が衣装を着替えた『いしば(衣装場)』があり、その先に仁王門があった。ここの金剛力士は飯山や大日堂のものより力強かった。 目はやはり大きかったが、それは正面だけでなく門を潜り抜けるまで監視するという目的のように思われた。 その先は昔からの参道(仁王門までは整備)なのか、苔等の緑が落ち着かせてくれた。 |
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日向薬師を出て、日向川沿いの道を登って行くと谷戸田オーナー制度の看板があり、後継者がいなくなり、休耕田になった田んぼを市が貸し出し、稲作が行われていた。 その脇に清流が流れていてこの水で出来た米はさぞ美味いだろうなと思わせた。 更に登ると突如に塔が現れる。浄発願寺のものでこの寺も以前はもっと上流にあったが山津波で崩壊し、現在の場所に移ったとの事であった。この寺も明治の廃仏毀釈で一時は相当廃れたようだったが今は往時に戻らんかの勢いを感じた。 |
登り3 | ||
登り4 |
そこから暫く行くと大きな橋があり、渡ると右側に大友皇子の陵があった。一見だけして、元の道に戻り花水川沿いに上る。 夏休み最後の日で、大勢の人達が水遊びを楽しんでいた。 道成りに進んで橋を渡ると右側にクワハウスがあり入浴料が800円とある。次回の空いている時には利用したい。 その先に先ほどの浄発願寺の奥の院がある。ここはやっぱり一見の価値があるので片道15分の道草をする事にした。 |
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途中まで崩れた道だが、急に整備された階段が現れる。そこは罪人が一人一段ずつ作り上げた石段と書いてあった。それを登るとすぐに本堂の跡地にでる。 昭和3年の山津波で壊れるまで建坪270坪の立派な建屋がここに存在していた。さらに少し上ると奥の院の岩屋がある。本当はこの中に入り石仏を見て 見聞を広めるのが通りだが、辺りに誰もいないので暗い中に入るのを一寸ためらった。 そんな歴史へのワープから元の道に戻ると、すぐ左に大山への登り口があった。結局、道草が多くここまで1時間20分も掛かってしまった。 |
石雲寺 |
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ふれあい村
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登り口には、大山には珍しい『熊注意』の看板があった。ここは山が深いので、あり得ない事ではないと思った。 木橋を渡ると沢ともお別れで、一気に登りが始まった。平地での今日の気温は33度、ここの標高は余り無いので、気温はそれ程変わらない。しかし時折吹き抜ける風が体温を冷やしてくれるが長く続かない。 殆ど遊びの無い登り一辺倒の道である。舗装道路を横切って九十九曲りの登りになった。ここにベンチがあったが、少し曲がって登りルートからは見えないところにあり下山時に見付けた。 ベンチは、ここから見晴台までひとつもない。 |
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小石がごろごろした道が続き、木で作った階段が続く(写真1)。道幅が2m位あり広いのだが、暑さの為かとにかく疲れた。1時間程登ると写真『登り2』の道が急に狭くなる。すると大きなお地蔵さんが見えた。ここは平坦地(写真3)で風通しも凄くよい。休みたいが座れる倒木には先客がいる。 もう着いたみたいなものだと思ったが、ここからが長かった。一旦緊張の糸が切れてしまったので、小さな登りが何回か連続するだけのこの道が凄く辛らかった。写真4の最後の登りは1歩づつ休むように登った。 |
彼岸花 | ||
やっと見晴台についた。地図の所要時間と同じく1時間20分程かかった。 日陰のベンチで休んでいると風が通り気持ちがいい。 女性の『オレンジ色の蝶々がいる』という声でその方向を見ると確かに珍しい蝶々である。また、セミらしからぬ声でクマゼミが 鳴いていると、お隣にいた夫婦が『もっと雰囲気にあったこえで鳴いて欲しい』と話している。 私は一気にビールを飲んで喉を潤し、次の目的の唐沢峠を諦めてUターンした。 |
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帰りは九十九曲りを下りてから舗装道路を歩いた。すると車止めの脇に湧き水があり、オジサンが入れ物一杯に溜めていた。 『頂上は見晴らしが良かったでしょう』、『人が沢山だったでしょう』とか聞かれたが、途中で降りたと言えずに、曖昧な返事をした。 湧き水で口をゆすぎ、またぶらぶらと下った。 ふれあいの村は子供達にとっては小さな滝や渕があり本当に水と親しめる場所だと思った。また、途中禅宗の石雲寺を拝見し、さらに日陰道を通り彼岸花等を楽しんで車に戻った。 |
キツネノカミソリ |
聖なる山を登ったのが修験者(山伏)達だった。彼らはそれまで地方の人々が遥拝していた山に修験道の教義をあてはめて行場を設け新しい名称で呼びながら体系づけていった。冥界の場、再生の場などに権現を祀ったり,修験道の世界観を構築した。これがよく言われる開山である。修験道は山岳崇拝と神仏習合思想を背景にした日本独特の宗教だが金剛蔵王権現は金山彦命という鉱山を司る神と習合されている事が多い。(岳人『山の物知りノートより』)