金子さん、1970年代を語る

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あなたたちが、まだ幼かった1970年代の初め、日本のファッション界は、まだ黎明(れいめい)期だった。
それまで大手のアパレル・メーカーに占有されていた日本の服飾業界はこの頃から個人がマンションの一室で洋服をデザインし、販売もする、いわゆるマンション・メーカーが原宿や青山あたりから台頭しはじめる。
’70年、金子功は広告制作会社の社員だった。金子の仕事は、スタイリストの助手とデザイナーの卵のようなものだった。
同年、平凡出版(現在のマガジンハウス)より雑誌「アンアン」が創刊される。同誌のアート・ディレクター堀内誠一の紹介で、金子はファッション・ページを担当することになる。カメラマンは立木義浩や沢渡朔。
この頃のファッション・ページは、現在の女性誌とは、かなり趣が異なっていた。現在では、ファッション・ページのほとんどが、既製服を用い、欄外にクレジットが入る、いわばカタログ的な意味合いを持っているのだが、金子の担当ページの洋服はすべて金子が製作。つまり、完全なイメージカットで、言ってみればそれは”スポンサーのない広告カット”のようなものだった。そして、このページへの反響は大きく「アンアン」は一躍時代の脚光を浴びることになる。

金子さん「この企画はね、まったく自由なんです。好きなことをやらせてくれる。ページ数も決まっていないんです。ダメならボツだし(笑)。
堀内さんのロケについていって、そこで撮影することが多かった。でも別々に撮ることもありました。堀内さんに「私は、長崎で竹久夢二やるけど、あなたは萩へ行ってらっしゃい」と言われて、「本当は長崎の方がいいのに」と内心思ってみたり(笑)。
でも結局、堀内さんの長崎はボツになった(笑)。
で、撮ってきた写真を堀内さんに見せてレイアウトをまかせるんですが、いいと7ページくらいつくってくれる。仕上がりを見るのが、本当に楽しみだった」

撮影地はスペインやポルトガルといった海外ロケもあったが、やはり斬新だったのは京都や萩といった国内でのロケ。そこにフォークロア調のファッションに身を包んだモデルがたたずむことで、一種独特の異化効果が生まれた。モデルはいつも立川ユリ。名前を持つジャパニーズ・モデルの先駆け的な人で、金子の奥さんでもある。
このページが大きな反響を呼んだ背景には、当時の若者達がすでにサイケデリックに代表されるような都市型の文化に食傷していたことがあげられる。そこに金子のページの持っていたダウン・トゥ・アース的な志向が広く受け入れられたのである。
当時の国鉄(現在のJR)は、この風潮を目ざとくキャッチ。「ディスカヴァー・ジャパン」という一大キャンペーンを展開した。ちなみにサブ・コピーは「美しい日本と私」。これは’68年に川端康成がノーベル文学賞を受賞したときの、スウェーデン・アカデミーでの講演タイトルから取られている。
このキャンペーンの影響で、多くの若い女性達が、京都、金沢、萩、倉敷、高山といった鄙(ひな)びた地方都市を訪れるようになり、そこから”アンノン族”という流行語も生まれた。
雑誌というメディアが今よりもはるかに強烈な「何か」を発信していた「幸福」な時代、金子もそのような発信者のひとりとしてデビューした。そして雑誌というメディアを舞台にして、ファッション・デザイナーがデビューするということ自体、ファッション界の黎明期を象徴するような出来事だったのである。

’80年、金子功のデザインする「ピンクハウス」はニコルからビギへと移籍。’80年代に入ると折からのデザイナーズ・ブランド・ブームとともに、「ピンクハウス」の洋服もマス的な人気を獲得することになる。(’70年代「ピンクハウス」や金子功の名前を知っているのは、ごく一部のセンス・エリート達だけだった。
・・・・・・後略・・・・・・(文・今泉秀央氏)

フラウ1984年10月11日号(No.73)「金子功 さらばピンクハウス!」より


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下の3行、ニコル時代のピンクハウスのデータを追加。

・・・・・・前略・・・・・・
高校を出ると、迷わず文化服装学院へ進み、まっすぐにデザイナーへの道をみすえる。ただ、予想以上に卒業後の道はきびしく、希望する繊維会社への就職はかなわず、ようやくの就職先は同じデザインでも広告制作を主とする会社(アドセンター)であった。
金子さん「洋服のデザイナーとしては、出遅れてしまいました。でも、スタイリストのアシスタントのような仕事から、新しく開発された繊維で自由にデザインすることをまかされたりして、それはそれですばらしい経験でしたよ。学んだこともたくさん」
そしてもう一つ、すばらしい出会いがあった。モデルとして妻として、かけがえのない存在となる立川ユリさんとの出会いが。
「だめなものどうしが意気投合して、がんばろうと励ましあったのが最初。当時はユリの妹のマリが売れに売れていて、私のいた会社にもよく出入りしていたんです。スターの妹にいつもくっついてきたのがユリだったわけ。妹は一流デザイナーの服を着て、カラーページに載るのに、ユリはモノクロばかり。学校のときの仲間がどんどんブティックを開くのに、おいてきぼりを食った私と、よく似ていたんですよ」
愛する人を得て、十年目に退社。そのときちょうど雑誌「アンアン」が創刊された。金子功デザイン、モデル立川ユリという作品が、表紙からすべてのファッションページを独占する。
ユリは他人(ひと)の洋服を着ると全然かっこよくないのに、私の洋服を着ると、いちばんすてきだった。そりゃそうですよ、ユリだけをモデルにして、前の日から着こなしやポーズの予行演習をするんだもの。ユリは服を知りつくして、うまくいきますよ」
充実しきった日々だった。しかし二年後、企画が終了する。
「自分のことと、ユリのことしか考えていなかったでしょう、終わり、といわれるまで、ただ夢を追っていたんです。だから後悔はしなかったし、いちばん、恵まれてる思ってました。それから、PINK HOUSEをはじめたのです」
問わずに語りに、つらかった日のことも淡々と話していく。少年の日の邪念のなさは、こんなところにも感じられる。
「でも商売が下手すぎたようです。七年間、店を続けたけど、その間にも同世代の人たちは、どんどん店を大きくし、パリやニューヨークまで進出していきました。それにひきかえ私は、このままだめになっていくんじゃないかと思いましたよ」
・・・・・・後略・・・・・・

With1984年1月号 「金子功 かわいい女が好き。だからかわいくなってほしい。」より

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