わんだふるはうす、ルコント青山本店&パティシエ・シマに行く

1968年のルコント創業当時に発売した日本初のマカロン

1974年5月、雑誌「ノンノ」の「パリのお菓子屋さん」特集を見ていた若い女性読者は、突然、今まで見たこともないようなカラフルで可愛いお菓子を目にしました。飾り気はないけれど、コロンとして愛敬のある形で、いかにも親しみやすいそのお菓子の名前は「マカロン」と書いてありました。そのピンクと黄色と白のマカロンは、ダロワイヨーというお店のスペシャリテで、「日本の最中みたいなケーキ」「フランス式の最中です」と解説されていたのです。それは日本の雑誌が初めてマカロンを紹介した瞬間でした。その当時の日本では、まだマカロンは普及していませんでしたが、なんと6年前の1968年にアンドレ・ルコント氏によって作られ、売れなくて2年程で製造休止になった幻のマカロンが存在していたのです。アンドレ・ルコント氏との出会いからフランス菓子の世界に引き込まれ、1968年から六本木「ルコント」で3年間勤務後、フランスに渡り「ダロワイヨ」などの名店で修業した島田進さんのお店「パティシエ・シマ」をワンダフルハウスが訪ね、アンドレ・ルコント氏が作った日本初のマカロンを復刻していただきました。

パティスリー・フランセーズ・アンドレ・ルコント青山本店
「おーっ! これが現在のルコントのマカロンですか。ずいぶんカラフルになったものです(^O^)\」
ショーケースの中に母の日のカーネーションが…この写真は2009年5月に撮影したものです。
マカロン
左から
バニラ 368円
フレーズ 368円
ショコラ 368円
グランマニエ 420円
コニャックカフェ 420円
マカロン・ド・フローラ
左から
ローズ
コクリコ
ジャスミン
オレンジフラワー
ラベンダー
各315円
「き…綺麗です!\(^○^)/」
こちらは定番のマカロン。 マカロン・ド・フローラとは、色とりどりの花をモチーフにしたマカロン。
ワンダフルハウスはマカロンを大人買いしました。2009年11月現在、青山本店ではコニャックカフェが欠番していて、定番マカロンは4個になっております。
定番マカロンは大型サイズ。フローラは中型サイズです。
マカロン
上から時計回りに
フレーズ 368円
グランマニエ 420円
ショコラ 368円
バニラ 368円
Macarons lisse aux fraises
マカロン・リス・オー・フレーズ
苺のマカロン
368円
苺のマカロン・リスの登場です。マカロン・リスとは、皮の表面がスベスベ(lisse リス)していることからこの名が付けられました。パリ発祥のマカロンであることから「マカロン・パリジャン」とも呼ばれ、日本では最もポビュラーなタイプです。他にはない特徴が、卵白に砂糖を加えてしっかり泡立てたふっくら生地の間にはさむフーラージュと呼ばれる詰め物。このバリエーションには、パートダマンドがベースのもの、バタークリームに味を付けたもの、フルーツなどのジャムをベースのものと、大きく3種類に分けられます。
「隙間からピンク色のクリームが見えました!(^O^)\」
「イチゴ濃縮シロップを混ぜたピンクのバタークリームがサンドされていました。口に入れた途端にホロホロと崩れていきます(^Q^)」
Macarons lisse au Grand Marnier
マカロン・リス・オ・グラン・マニエ
グランマニエ風味のマカロン
420円
「オレンジの色が綺麗です! この色は赤と黄色の着色料を使って色付けされているのです」
「おおっ!? 一番右の瓶は!?(^O^)\」 「これがグランマニエです」
赤いリボンをかけたボトルが目印の「グランマニエ」は、オレンジの果皮とコニャックを材料に作り出されたオレンジリキュールの代表的銘柄です。オレンジの果皮を原料とし、配合するブランデーもグランドシャンパーニュ地区産のコニャック原酒が使われ、さらにオレンジ風味との一体感を増すためにたっぷりと熟成されます。しっかりとしたコクのある風味をプラスしたいお菓子に使われます。
このライオンのマークは、カッコいいですね。 正式名はグラン・マルニエ・コルドン(リボン)・ルージュ(赤)と言うようです。
オレンジの濃縮シロップとグランマニエを混ぜたバタークリームがサンドされていました。
薄い表面の皮膜はパリッとして香ばしいのです。
「たっぷり入ったクリームが、キメ細やかな生地にジワリと溶け込むような食感…そして、うっとりするようなオレンジのいい香りがします(^Q^)」
Macarons lisse au chocolat
マカロン・リス・オ・ショコラ
チョコレートのマカロン
368円
マカロン・ショコラの色はココアで着色してあり、中にはガナッシュがサンドされています。
ルコントのマカロン・ショコラ用ガナッシュは、上質の無塩バターと削ったクーベルチュールチョコレートをボウルに入れて湯煎で溶かし、手鍋に入れて沸騰させた生クリームを入れて混ぜます。ボウルを冷水に漬けながら水飴を入れてクリーム状になるまで冷まします。水飴を入れることにより、バターとチョコレートの分離を防ぐのです。
Macarons lisse a la vanille
マカロン・リス・ア・ラ・ヴァニーユ
バニラのマカロン
368円
無着色のバニラのマカロンの登場です。
表面にツヤがあって、適度な柔らかさ、周りを取り巻く美しいピエがあること…これが良いマカロンの基本です。ピエ(足)とはマカロンの周りにあるフリルのようになった部分のことですが、これは表面が先に焼き固められることで後から熱が入り、膨張した生地が行き場所を失って、生地を持ち上げて周りにはみ出てきたものです。
マカロンは材料が単純なため、繊細なお菓子でもあり、配合の違いや卵白の使い方などで、まったく表情の違うものに仕上がります。これは他のお菓子に対しても言えることですが、特にマカロンは、シェフの個性や考えが顕著に反映されるものなのです。
クリームの中に黒い粒々が…バタークリームの中にヴァニラビーンズが入っていたのです。
マカロン・ド・フローラ
上から時計回りに
ジャスミン
オレンジフラワー
ラベンダー
コクリコ
ローズ
各315円
色とりどりの花をモチーフにしたマカロン「マカロン・ド・フローラ」の登場です。
「花の香りが漂ってきました 〜(^Q^)」
「ところで、マカロン・リスを最初に売り出した店はどこでしょう? マカロンで有名なラデュレでしょうか? それともダロワイヨでしょうか?(゚-゚)\」
名物のマカロンで知られる名門「ラデュレ」の本店はパリ8区のマドレーヌ広場の近く。19世紀の奥ゆかしい面影が残るこの店の歴史は、さながらパリのサロン・ド・テの歴史を語るようなものです。スタートは1862年、フランス南西部から上京したルイ・エルネスト・ラデュレが現在の場所にパン屋を開きます。やがて時代が移って20世紀。パリ万博が開かれ、外出と娯楽がパリっ子をとらえ始め、女性の外出が珍しいものではなくなります。ラデュレがパン屋からサロン・ド・テに脱皮したのがまさに世紀が変わる頃。アイディアを考え出したのはルイ・エルネストの娘のジャンヌで、カフェでコーヒーやティーを飲みながらお菓子も楽しめるという店を開店したらどうか。そうすれば女性客のハートをつかまえられるのではないかと考えたのです。こうしてパリ最初のサロン・ド・テの一つが誕生しました。サロン・ド・テのオート・クチュールと自他ともに認めるその内装は実に優雅で、今でも客の大半が女性客というパリでも大変珍しい店です。以来、約110年、ラデュレは数少ないサロン・ド・テの人気店として女性客を引き付けています。
ダロワイヨ」の創業はラデュレより60年古く1802年。ナポレオン帝政期にさかのぼります。当時のパリの名士たちは、よくダロワイヨのお菓子を買い求めたといいます。常連には音楽家、作家、俳優、実業家など実にさまざま。ユージェニー皇后、ナポレオン3世、バルザックも店を訪れました。1832年には菓子界に新風を吹き込む事件が起こります。ダロワイヨの新しいマカロンに人気が殺到、遠方からかけつける客も多数出現しました。この小さな丸いお菓子は、外がかりっとしていて、中は柔らかくなければなりません。ダロワイヨはその高い技術力で見事クリア。菓子界に金字塔を打ち立てたのです。1900年代初めに出された「Traite de Patisserie Moderne」の初版に掲載されている「Macarons parisiens」は、これに近いタイプであると予想されます。この後、この新しいマカロンは、生地を着色する、2つを貼り合わせる、ジャムやクリームをサンドする…次々と進化を遂げました。今日でも、ダロワイヨの質の良いマカロンは2世紀に渡り多くの人々に支持されています。1990年代半ばに初めて世に出た2色のマカロン「マント・ショコラ」も好評を博し、世界中の食通がダロワイヨのマカロンを求めて来店しています。1982年にはダロワイヨが東京・自由が丘に出店。開店当時からマカロンを発売しており、日本ではルコントに続くマカロンの先駆的な存在といえましょう。
つまり、ラデュレがパン屋として創業する30年も前にダロワイヨは新しいパリ・タイプのマカロン『マカロン・リス』を既に発売していたのです。
Macarons lisse au jasmine
マカロン・リス・オ・ジャスミン
ジャスミンのマカロン
315円
ジャスミンフレーバーの蛍光グリーンのマカロンの中にドライジャスミンが入っていました。
普通、グリーンのマカロンはピスターシュか抹茶なのですが…これはクリームが白いですね。
ホワイトラム風味のバタークリームでした。とてもデリケートな風味のマカロンです。ジャスミンの優雅で甘美な香りは、“香りの女王”と称され、古くから女性的な感性の象徴とされてきたのです 〜(^Q^)
Macarons lisse a la fleur de l'angea
マカロン・リス・ア・ラ・フルール・ドランジュ
オレンジフラワーのマカロン
315円
オレンジフラワーフレーバーマカロンの表面にまぶしてある細かい粒は胡麻ではありません。これは白いケシの実です。ケシの実はアンパンでお馴染みですが、アヘンが取れる正真正銘のケシから取れる実です(゚O゚)\ だからといって心配には及びません。アヘンはケシの種ができる過程で採れる乳液状の液体で、その中に含まれるアルカロイドに麻薬作用があります。しかし、種自体は無害なのです(^-^)
フルール・ドランジュとは、オレンジの花の蒸留水(エッセンス)のこと。オレンジの花のつぼみを煮て、その水蒸気を集めて作られています。香水のような独特の芳香が特徴です。
グランマニエ風味のバタークリームでした。南仏の暖かく陽気な太陽の下で香るやさしいお花達を思わせる香りがするマカロンです 〜(~Q~)
Macarons lisse a la lavande
マカロン・リス・ア・ラ・ラヴァンド
ラベンダーのマカロン
315円
南フランスの澄みわたる青い空、やさしく降り注ぐ日差し、さわやかな風にゆれるラベンダー畑…そんなおだやかなラベンダー畑で採れたような感じがするマカロンです。
ラベンダー畑にいるような、心落ち着く香りがしますよ 〜(~Q~)
薄紫色のカリカリした部分を噛むと、薄い膜が砕け散って、少し空間があり、それからラベンダー風味のアーモンド生地とキリッシュの効いたバタークリームに辿り着きます。濃紫色の部分を噛むとネッチリと独特の歯触り…これがパリ・タイプのマカロンの食感の特徴です。
Macarons lisse au coquelicot
マカロン・リス・オ・コクリコ
ひなげしのマカロン
315円
ところで、コクリコとは?(゚-゚)\…ん?〜♪(^-^)\アグネス・チャンの「♪おっかのうえ〜、ひなげし〜のはぁなでぇ〜〜〜♪」という懐かしい歌が聞こえてきました…
「コクリコ」とは「ひなげし」のことだったのです。表面にまぶしてある黒い粒こそヒナゲシの種です。
「コクリコ」は英名だと「ポピー」、漢名だと「虞美人草」。クリームはブランデー風味のバタークリームでした。
Macarons lisse a la rose
マカロン・リス・ア・ラ・ロゼ
バラのマカロン
315円
黒っぽい粒々はローズペタル(バラの花びら)です。香水の原料となる香り高いダマスクローズの花びらを練り込んで作られたマカロンです。
見た目も鮮やかなピンクのローズフレーバーマカロンの中にバラの花びらの香りが閉じ込められています。
優雅なバラの香りが口の中にも(~Q~)…バタークリームの中にもローズリキュールを効かせてあるのです。
ここにあるマカロンが何代目なのかはわかりませんが、パティシエ・シマの島田進シェフから聞いた話では、初代のマカロンはもっと小粒で、林檎を果実から煮詰めて作ったジャムを生地に練り込んでいたそうです。

ラトリエ・ド・シマ
トントン トントン トントン♪
2009年10月最終日、林檎が美味しくなるシーズンまで待って、ついに島田進シェフの手によって、ルコント初代マカロンが復刻されました。

島田進さんは1946年、三重県生まれの神戸育ち。1968年、東京・六本木「ルコント」入店。1971年に渡仏。「ブッタ」「ダロワイヨ」「サントノーレ」「ベッケル」、スイスのコバ製菓学校などで修業を積み、1974年に帰国。銀座「マキシム・ド・パリ」、青山「ルコント」で総製菓長。その間、「ホテル日航パリ」「ジャン・ミエ」「メゾン・ド・ショコラ」等で短期研修を経て、1988年「シェ・シーマ」製菓長。1998年、オーナーシェフとして東京・麹町に「パティシエ・シマ」を開店。2004年「ラトリエ・ド・シマ」を開店。2005年、フランス政府より農事功労シュバリエ勲章を受勲。日本のフランス菓子界の草分け的存在であり、フランスの伝統菓子や文化を伝えていくことを目的としたクラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワの会長を務めています。

トントン トントン トントン♪(^o^)//(()
「こんにちは。私がワンダフルハウスです」 「私の隣にいらっしゃるのが島田進シェフです」
フェーヴ
菓子職人
フェーヴ
太鼓クマ
「今日は島田シェフに1968年のルコント創業当時に作られていた初代マカロンを復刻していただきました」
「今日はフランスからマカロンに詳しいお二方をお招きしております」
フェーヴ
Le Promeneur
散策者
フェーヴ
Le Garde Champetre
田園監視人
(田舎の駐在さん)
「私達は今はなき幻の菓子を求めて、フランス各地の山中の村まで出向いて行って、訊ね歩き廻ってきました。私達がフランス一周菓子旅行を思い立ったのは、次々に商品化される新しい菓子に疑問を持ったからです。菓子原材料が世に出て、既に数世紀が経ちますが、新商品にばかり目が向けられ、菓子の本質をややもすると忘れがちな昨今です。このような時代にこそ、菓子の原点に戻ってみる必要があるのではないかという想いが、徒歩でのフランス一周菓子旅行に駆り立てたのです(*^_^*)」 「ウオッホン!私の本職は農村保安官…つまり警察官なのです。私達がフランス一周旅行を終えて感じたことは、消滅してしまった菓子があまりにも多いということです。もちろん存続出来えなかった諸条件があったのでしょうが…。その反面、予期せぬ場所に、こんな菓子が…と一驚させられることもありました」
「東京で気に入ったパティスリーはどこですか?(^-^)//(()トントン」 「ルコントとパティシエ・シマと…」
オーボンヴュータン
オーボンヴュータンです」
「ウオッホン!どこの国の都会にも共通する現象ですが、パリだけでなく、東京の尾山台にもフランスの全名物が集まっていると感じました。そして、卓越した味を吟味できる客が地方の伝統菓子を都会の風土という特殊環境の中で生かしきっています。また、さらにそれ以上のものを求めていく…という点もムッシュー・カワタ(河田勝彦シェフ)の素晴らしさでしょう。こうした環境の中からオーボンヴュータンが、いかに数多くの菓子を育ててきたことでしょうか。菓子作りに携わる人間達にどれだけの想いを抱かせてきたことでしょうか。これらが、店内の特有の雰囲気、匂いから沸き立ってきたのです」
マカロン
フランボワーズ
シトロンマンゴー
ショコラ
カフェ
ピスタチオ
3個入 630円
5個入 1050円
8個入 1680円
12個入もあり
「これがパティシエ・シマの島田進シェフのマカロンです」
「ルコントのと比べると小粒です。島田シェフが1972年〜73年まで1年間修業していたダロワイヨのマカロンに似ています」
ノンノ1974年5月20日号
「パリのお菓子屋さん」
1974年当時のダロワイヨのマカロンはこんな感じでした。
「ノンノの取材が来たのは記憶にありませんが、私がダロワイヨに入った時には、このマカロンは店にありました」と語る島田シェフ。
non・noパリ支局が一発目に企画した特集記事「パリのお菓子屋さん Le Patisseries de Paris」の登場です。これは日本の雑誌で初めてパリのパティスリーを取材した記念碑的な作品になりました。出てくる菓子はムースが登場する以前のバタークリームとジェノワーズ生地の組み合わせによる古い菓子ばかり。エティエンヌ・トロニア氏の盆栽の飴細工(これを作るためにトロニア氏は来日して生け花の講習まで受けた)、アンジェリーナのモンブランを日本で初めて紹介し、ブルダルーでは厨房で働く日本人 桑原清次氏(国際製菓調理専門学校)も登場。6年後に出版された山本益博氏「パリのお菓子屋さん」の元ネタになった作品です。
そしてこのページは日本の雑誌で初めてガトー・オペラが紹介された瞬間でもありました。よく見ると、オペラの層が現在のものと比べるとアンビベ(ビスキュイ・ジョコンドをコーヒーシロップに浸すこと)があまくて乾いた感じがするのです。現在のダロワイヨのオペラは、もっと生地が真っ黒になるほどアンビベしてあります。
マカロンの店 ダロワイヨー
「最中みたいなケーキが有名なんです」
パリのサントノレ街といえば、高級店や有名店がズラリと並ぶ世界でも屈指のおしゃれな街。カルガンのお店と並ぶダロワイヨーのお店も、やはり高級なお店、という印象です。
といっても、アンジェリーナほどではなく、朝早くからお客さんがごった返す、にぎやかなお店です。店自体も、いままで紹介したお店より大きく、なんでも揃っている楽しさがあるようです。パリの女の子達の間では、最近、軽い昼食代わりにタルトを食べたりするのが、しゃれたこととして流行しています。ほんとうだったら甘いお菓子は、食事の最後のデザート用アントルメか、お茶の時間の小さいタルトのプチフールという、はっきりした分かれ方をしているのですが、近ごろは、このお茶の時間の小菓子を、スナックとして食べてしまうようです。
そんな時は、誰でも必ずお気に入りのお菓子屋さんがあって、そこのサロン・ド・テで食べるなり、持って帰ってくるなりするわけです。
あなたもショッピングの途中で、ダロワイヨーのお菓子を買って、ホテルの部屋でお昼代わりに食べるなんていうのは、いかがですか?
また、このお店でとくにこれを、というものはマカロン。フランス式の最中です。プチガトウの一種で、フランボワーズ(いちご)、レモン、マロン、チョコレート、コーヒーの香りがあり、それぞれの香りの皮の中に、同じ香りのクリームがはいっています。大きさは大小あってお好みしだい。飾り気はないけれど、コロンとして愛敬のある形で、いかにも親しみ易いお菓子。これもフランスのものとしては、伝統的なものです。
「おっ、ショーウィンドーの前に立つ女性の赤いパンタロンが’70年代っぽいですね(^-^)\」
「Traite de Patisserie Moderne」には、緑色のマカロン・ピスターシュ(現在のものと違って、クリームはサンドされていない。2つを貼り合わせるタイプではない)やカカオフォンデュを加えた茶色のマカロン・ショコラ(2つを貼り合わせるタイプの記載があるが、クリームはサンドされていない)が掲載されていますが、黄色やピンクのカラフルなマカロンは、どの店がいつ発売したのでしょうか? 島田進シェフは「ダロワイヨじゃないんじゃないかな?ラデュレじゃないかな?」。料理王国1995年5月号でラデュレのマカロンを日本に初めて紹介したフランス菓子研究家の大森由紀子氏によると「パリ・タイプのマカロンを2つ重ねて最初に売り出したのは、1996年に閉店してしまったコクラン・エネあるいはラデュレだと聞いていたが、パリ郊外シャルトルのパティシエが最初に作ったという説もある」そうですが、マカロンを最初にカラフル化して売り出した店については残念ながらわからないようです。
しかし、ここにマカロンの歴史的に重要な証言があります。ブールミッシュの吉田菊次郎シェフがPCG2006年4月号「マカロン特集」で、このように証言しているのです。「マカロンの思い出といえば、1970年代初めにパリ・サントノーレ通りのダロワイヨで新しいマカロンが作られているという噂を聞き、当時のシェフ仲間と見学に行きました。パリの修業先の店(ベッケル)に帰ってからも、ああいうものを作りたいと日々研究したものです。それまで、表面がひび割れしているのが当たり前だったマカロンに、表面がつるっとした見た目にも美しいものが登場して、私も含め、その頃の菓子職人にとっては、とても新鮮だったのでしょう。職人たちはこぞって、皮が張ったなめらかな表面の下側にピエ(足)が出ている、美しいマカロン作りにこだわりました。このつるっとした表面に仕上げるため、当時の職人たちは苦労しました。マカロンの材料はアマンド・プードルに粉糖を合わせるのが基本でしたが、粉糖には湿気でケーキング(生地が固まる現象)が起こるのを防ぐために微粉末のコーンスターチが入っています。ところが、それでは生地に穴が開き、そこからひび割れてしまうという問題が起こってしまったわけです。これを解決するには、当時まだ入手困難だった純糖を使うか、グラニュー糖を石のローラーにかけ、粉末状にして使うしかありませんでした。私もパリにいた当時は、専門業者に頼んでピュアな砂糖を仕入れていました。現在は、製法の工夫やオープン機能の向上により、そういった悩みも少なくなりました。それにここ数年は、日本のパティスリーでも見た目のカラフルさ、味のバリエーションと、変化に富んだ試みがされています。1970年代初めにダロワイヨで目にしたバニラ、フランボワーズ、カフェ、ショコラなどのマカロンはシンプルなもので、ずいぶんお洒落に変身したと思います」
吉田菊次郎氏の証言により、1974年のノンノに載った黄色とピンクのマカロンは1970年代初頭に作られたことがわかりました。マカロンのカラフル化については、1970年代初頭にダロワイヨが先便をつけた、と言ってもよさそうです。
吉田菊次郎氏は1944年、東京都生まれ。1970年に渡仏。「ベッケル」「トロニア」、スイスの「ロール」、コバ製菓学校などで修業を積み、1973年に帰国。同年、オーナーシェフとして東京・渋谷・公園通りに「ブールミッシュ」を開店。
「このベージュの地味なマカロンが本日島田シェフに再現していただいたマカロンです」
Macarons lisse aux pommes facon Andre Lecomte 1968
マカロン・リス・オー・ポンム ファソン・アンドレ・ルコント・1968
リンゴのマカロン 1968年のアンドレ・ルコント流に
特注品
1968年ルコント六本木店オープンの時に発売されて、売れなくてわずか1〜2年で姿を消した幻のマカロンの登場です。
そしてこれが日本で初めて作られたマカロンです。
「おおーっ!?日本初のマカロンですって!?(゚O゚)//(()トントン」
上記の吉田菊次郎シェフの証言でわかる通り、1970年当時のパリのパティスリーで作られていたマカロンは表面がひび割れしているのが当たり前だったのに、それより2年前の六本木で、これほど綺麗なマカロン・リスが作られていたのです。
「ピエも綺麗に出ていますね(*^_^*)」
「ウオッホン!このマカロンは怪しい!ムッシュー・シマダ、これは綺麗に出来過ぎてるんじゃないかな?」
島田シェフ「当時のもこんな感じでした。ひび割れてなかったし、ピエも出てましたよ」
色はご覧の通りベージュに近いナチュラル。これは、食用色素を使ってカラフル化される以前に作られたものだからです。
パリのマカロンは、表面が赤ちゃんのほっぺたのようにつるつるしているのが特徴です。種類もショコラ、カフェ、フランボワーズ、シトロン、ピスターシュと豊富。2つが合わさって中にそれぞれのクリームが挟んであり、柔らかい生地が、豊かすぎるほどのアーモンドの香りと共に現れます。
大きさはパティシエ・シマのマカロンと同サイズ。
このカラフルなマカロン、実はフランス人みんなが食べているマカロンではないのです。パリとパリ近郊で発展したマカロンで、フランスには土地によってそれぞれ独自のマカロンが作られているのです。
「このマカロンのためだけに、リンゴを果実から煮詰めてジャムを作らなければならなかったのが面倒くさかったんですよ」 「このマカロンのためだけの専用のジャムを作るとは凄いですね(*^_^*)」
「ウオッホン!ジャムがサンドされてるわりには背が低いな…」「ジャムはサンドされていません」
「ジャムは生地に練り込んであるのです」「マカロン・リスなのにクリームもジャムもサンドされていないのは珍しい!(*^o^*)\」
「ウオッホン!わかった!この色はリンゴのジャムの色だ!」
「私達はフランス各地で様々な菓子に遭遇してきましたが、その度ごとに菓子に疑問を投げ、諸々の条件の分析を試み、使われている言葉の持つ意味合いをも追求してきました。このマカロンはマカロン・パリジャン(マカロン・リス)を2つ貼り合わせてある、着色料を使っていない、クリームやジャムをサンドしていない…これらの製法から、おおよその製作年代を特定することができるのです(*^_^*)」
「ウオッホン!私達はこのマカロンは1950年代後半〜’60年代初頭に作られたものだと予想しています。ムッシュー・ルコントはホテル・オークラでも作ってたんじゃないかな」
Andre Roger Lecomte アンドレ・ロジェ・ルコント
1931年1月28日フランス・ロワール地方に生まれる。
1945年モンタルジーのマルセル・ルナン氏の菓子店で見習いとして働き始め、4年間でケーキ、チョコレート、アイスクリーム作りの国家試験にパスしてスーシェフになる。
1949年パリに出てシャンゼリゼの店で働く。
1951年〜1953年兵役に就く
1953年ホテル・ジョルジュ・サンクのシェフパティシエになる。
(1955年からバカンスシーズンはジャマイカのホテルラウンドヒルに派遣されて、ジョン・F・ケネディ上院議員夫妻、ロックフェラー家のために料理とお菓子を作る。2年半の期間はイランのパーレビー国王の所有するテヘランとアバダンの2つのホテルに派遣される)
1963年東京ホテルオークラの開業に伴いシェフパティシエとして来日。東京オリンピックに来日するVIPのためのフランス菓子・フランス料理の技術指導者として招聘される。ルコント氏が持っていた「メートル・キュイジニエ・ド・フランス」というフランス料理を指導する資格は、料理人の中でもエリートで、当時の日本でこの称号を持つシェフはルコント氏ただ一人であり、世界中探しても100人に満たなかった。(現在は増えて日本には7人、世界中探せば370人いる)
1968年12月22日フランス菓子とトレトゥールの店「A.ルコント」を六本木に開業。日本で初めてこのマカロンが発売された。
1970年フランス料理アカデミー日本支部を設立。初代会長に就任。
1974年農事功労賞シュバリエ受章
1981年フランス国家功労賞シュバリエ受章
1987年農事功労賞オフィシェ受章
1991年レジオンドヌール勲章シュバリエ受章
1999年9月逝去(享年68歳)
「私もそう思います。オークラにはルセットが残っていると思います」「ホテル・ジョルジュサンクでも作っていたんじゃないですか?(^-^)//(()トントン」「私もそう思います」
「マカロン・リスの理想の焼き上がりというのは、どんな状態なのですか?(^-^)//(()トントン」
「表面が滑らかで、艶があり、ピエがきちんと出ていること。周りはカリッとしていて、中は柔らかいのが理想ですね(*^_^*)」「ピエって何ですか?(゚-゚)\(()」「ピエとは『足』の意味で、円周部分に輪をかけたように生地がはみ出した部分を指します。マカロンの円周を取り巻く輪っかがちゃんとなければいけないのです」
「マカロンは古くから卵白、砂糖または蜂蜜などの甘み、ナッツを使って作られていた非常に素朴なお菓子です。製法も単純なため、起源ははっきり分かりませんが、砂糖が普及する以前から、蜂蜜を使って作られていたということからも、その歴史はかなり古いと思われます。
発祥の地は、マカロンを甘味文化の一つとして歴史上に登場させたイタリアだと言われています。16世紀にフィレンツェの名家メディチ家の娘カトリーヌが、フランスのオルレアン公(後のアンリ2世)に嫁いだ際に、伴った料理人よりイタリアの多彩な食文化が移入され、様々なお菓子と共にマカロンが伝えられたのです。
しかし、それ以前にもフランス独自のマカロンもありました。フランス北部に位置するピカルディの中心都市アミアンの銘菓「マカロン・ダミアン」はクッキーに近いものですが、13世紀後半に考案されたと言われています。
フランス南部に位置するアキテーヌ地方サン・テミリオンの銘菓「マカロン・ド・サン・テミリオン」はねっちり感が強いのが特徴で、13世紀に修道女が作ったお菓子が起源と言われます。
その後、製法が簡単であったことも功を奏し、フランスの各地で作られるようになるわけですが、この伝播には修道院で作られたことが大きく影響しています。フランスでは中世から近世にかかる頃、飢餓や疫病が蔓延したり、戦争が起こったりと、人口が半減するほどのひどい世相でした。そのため、人々の間には宗教が流行り、教会や修道院にすがる人々が農産物やワイン、果実、ナッツなど様々な食材を物納しました。修道院ではこれらの材料を使ったお菓子作りが始まり、マカロンもその一つとして誕生しました。17世紀のフランス革命の際には信心深い家庭に難を逃れた修道女が、かくまってくれた主人へのお礼に焼いた平たい丸形で表面がひび割れた「マカロン・ド・ナンシー」が評判になり、広まっていったといわれています。さらに時代を遡れば、ロワール地方のコルメリ修道院に古くから伝わる「マカロン・ド・コルメリ」も有名で、ここだけで作ることを許されていたと言われています」
「マカロン・ダミアンにマカロン・ド・サンテミリオンにマカロン・ド・ナンシーにマカロン・ド・コルメリ?実は私はクリームをはさんだマカロン・リスしか食べたことがないのです(゚-゚:)\(()」
「こうして、フランス各地の修道院で、見た目も味も異なるマカロンが作られていきました。現在、日本でよく目にするパリ生まれの『マカロン・リス』(リスはなめらかなとか、スベスベしたという意味)は、それよりずっと後に誕生した比較的新しいタイプといえます。現在、パリのパティスリーで扱われているのもこのタイプで、マカロンの代名詞のように思われていますが、先にも言ったように各地でそれぞれに親しまれているマカロンが存在します。ですから、『マカロン・リス』はあくまでもその一種であることを知っておくことが必要なのです」
「ウオッホン!何だね君は魚のパイの分際で…第一、10月なのになんで四月馬鹿が店の中にいるんだ?」 「菓子は、それが生まれた時代の文化と共にあるのです。菓子作りの基礎は時代を通して築き上げられたものだからです。1968年という時代を知らなければ、このマカロンは語れないのです」
「ここがルコントがオープンするまでは日本でトップのパティスリーだった1968年当時の東京カドです。ご主人の高田壮一郎さんはパリの中心街、オペラ座近くにあり、200年以上の歴史を誇った老舗パティスリー『CADOT』(現在は閉店)で修業し、屋号の『カド』をもらって帰国。高田さんの作る菓子は本場パリの味そのままです。だから、パリ祭にはフランス大使館に進呈するとのこと。川端康成氏とは昔から知り合いで、カドの取締役の一人でした。パリの味を最も忠実に受け継いだフランス菓子店です」「ウオッホン!何だこの店は!?普通の民家の玄関を菓子屋に改装しただけじゃないか?」「こんにちは!お菓子を見せてください! >゜))))彡」
コショネ(初期型)
180円
1977年
1 プチフール 1個45円
2 コショネ 130円
3 モンブラン 100円
4 バルケット・マロン 100円
5 タルトレット・スリーズ 110円
1973年
「いらっしゃいませ!(・(00)・)ブー」「おおっ!?ブタのケーキです!(^O^)\(()」「私は1960年の開店当時から売られているコショネというケーキだブー(・(00)・) 現在でも340円で売られているブー。昔はアンアンにもノンノにも載ったブー」「中身は何なのですか?(*^_^*)」「マドレーヌをマジパンとチョコレートでコーティングしてあるブー(・(00)・) モンブランはスイスの山を型どったもの。ちゃんと雪も降ってるブー。栗のバルケットはマロンペーストの上にチョコレートをかけたもの。タルトレットチェリーはタルトのカップにチェリーを詰め、特製ジャムを塗ってあるブー」
日本初の貝殻型マドレーヌ
東京カド
1973年
菊型マドレーヌ
60円
ヒサモト洋菓子店
1973年
「マドレーヌといえば日本では帆立貝の型が無くて、間違って菊型で普及してしまったのです。材料の配合も違って、マドレーヌとは名ばかりのふわふわな別物のお菓子でした。高田壮一郎氏が帰国する時にパリで型を買って、カドが開店した時に日本初の貝殻型マドレーヌを発売したのです。パリと同じマドレーヌを探していた森茉莉さんが『駒込のお店でやっと見つけた』とエッセイに書いたほど当時は珍しかったのです。右の菊型マドレーヌは、渋谷にあったヒサモト洋菓子店のものです。初代のオーナーシェフ久本晋平氏は日本洋菓子協会の初代会長を務めたほどの人でしたが、お店は閉店してしまいました」「そういえば、私が子供の頃に食べたマドレーヌは全部菊型だったような気がします(゚-゚:)\(()」
モンブラン
100円
東京カド
1973年
モンブラン
珠屋洋菓子店
2009年
「当時の日本の洋菓子店のモンブランはスポンジの上に黄色いクリームを絞り出していたのですが、カドのモンブランは、タルトの上に洋酒の効いたマロングラッセのペーストを絞り、粉砂糖の雪をまぶしたものでした」「ウオッホン!アンジェリーナのモンブランに似てるな。完全なパリ・タイプのモンブランだ」
タルトレット・オ・ミラベル
140円
東京カド
1973年
プチフール
1個 45円
東京カド
1973年
「タルトレット・オ・ミラベルはフランス・ボージュ地方の小梅の一種を使ったタルト。プチフールはフランス菓子の中で一番難しいとか。カドのものはまさしく本物です。この当時、カドには12種類のプチフールがありました」「どれも色使いが美しいですね(*^_^*)」「プチフールには1つずつ違ったお酒が入っていて、クリームの風味を変えているんだブー(・(00)・)」「ウオッホン!プチフールはカクテルパーティーなんかで、強いお酒を飲みながら食べるとおいしいんだ」「日本ではそういうチャンスが少ないけれど、おみやげには最適ブー。手のこんだお菓子なので職人さんの腕の見せどころなんだブー。プチフールもほとんど同じものを今でも売ってるブー(・(00)・)」
バトン
90円
東京カド
1972年
「ノンノ1972年5月20日号『ケーキのお見合い写真デス』にもカドのケーキがたくさん載りました」「おおっ!このバトンというケーキはパリ・ブレストですね!(^O^)//(()トントン」
バトン
90円
東京カド
1972年
「ルリジューズも高田さんが日本で最初に紹介しました。当時のカドのルリジューズは下がタルト台でできているのが特徴でした。『甘いビスケットの底にアーモンドクリームを詰め、上からチョコレート味のバタークリームを盛る。シューの皮でフタをし、チョコレート味の砂糖衣をかけます。非常に手の込んだフランス菓子の芸術品の一つです』と解説されています。『アマンディーヌ。底は甘いビスケット。皮をつけないアーモンドの粉末と、砂糖、卵、少量の小麦粉を材料にしたアーモンドクリームを詰め、フタをして焼く。アーモンドクリームにラム酒が効いていて香ばしい。似たものにフランジパーヌがある。これは皮をつけたままのアーモンドをクリームに使っていて、底もパイ生地』」
上段左からサヴァラン・オ・キルシュ、シュー・ア・ラ・クレーム・シャンティ、ババ・オ・ロム
中段左からタルトレット・オ・スリーズ、アマンディーヌ、バルケット・オ・マロン
下段左からルリジューズ・オ・ショコラ、タルトレット・オ・ザナナ、モンブラン、ルリジューズ・カッフェ
全商品90円
東京カド
1971年
「東京カド CADOT」創業者の高田壮一郎氏は1930(昭和5)年東京都生まれ。1951(昭和26)年東京農大専門部農芸化学科を卒業後、共同食品株式会社に入社。1955(昭和30)年マツダ製菓株式会社に移り、翌1956(昭和31)年5月まで勤務。私費留学生試験に合格し、自然科学農学部門洋菓子研究の目的で9月に日本を出発。10月にパリに到着。留学の手続上必要だったポトフー料理学校へ入り菓子部門の授業を受ける。翌1957(昭和32)年2月にパリ2区のパティスリー「CADOT」に紹介され、申請してから4ヶ月後に労働手帳の交付を受けて同店に社員として勤務する。正式に社員となるためにはフランス政府の労働許可証としての労働手帳が必要だが、高田氏は日本洋菓子界として戦後初めて労働手帳所持者となった。この当時、パリ在住の日本人は数が少なく、洋菓子界では戦後、高田氏が3人目だった。以後、1959(昭和34)年3月までCADOTに在籍。この間にパリの菓子団体「サンミッシェル」の会員となる。4月末に帰国。1960(昭和35)年3月31日に東京カドを設立し、三越の洋菓子売場に出店すると共にパンナムの機内食用菓子の納入を始める。1963(昭和38)年駒込店を開店。1973年巣鴨店、1978年小石川店を開店。フランス菓子についての深い知識を買われ、3回に渡るクロード・ボンテ講師の現代フランス菓子大講習会の実行委員・解説者として全会場を回りました。以来、本格的なフランス菓子を製造し続け、2005年に逝去されました。カドのお菓子は、高田さんと幼なじみだった川端康成氏にも愛されました。
「婦人画報1973年7月号」で、作家の加賀乙彦さんが書いた「フランス菓子こそわが青春」は、高田壮一郎さんのパリ留学時代を完璧に描いていて、日本の洋菓子史に残るべき作品となっています。まだ自由渡航が許されていない時代、菓子職人としては戦後初の政府認可私費留学生としてフランスに渡った一人の菓子職人を通して、精神科医や版画家、文学者、音楽家など、年齢も職業も違う日本人貧乏留学生たちがフランス菓子やヨーロッパ中のショコラを極めていた、という事実に驚嘆させられます。
婦人画報1973年7月号 味の散歩 「フランス菓子こそわが青春」 加賀乙彦
パリの日本館にいた時、高田壮一郎君という青年と知り合った。この人は、お菓子の研究に来ていたので、フランス文学者やら画学生やら音楽家やらの多い留学生仲間では異色で、その点では目立ったが、それだけでなく、生活様式がすこぶる風変わりであった。
何しろ早起きなのである。朝は4時か5時、夜更かし朝寝坊と相場が決まっている留学生たちが、やっと眠ろうとする頃、彼はやおら起き上がり、爆音も高らかにスクーターに乗って出発する。行き先はオペラ座近くのカドというお菓子屋で、ここで勤めながら製菓の実際を学んでいたのである。
早起きである以上、早寝せねばならぬ。この早寝が日本館では実に難しかった。何しろ床が薄く、上の部屋で誰かが歩けば、音は下に筒抜けである。上でフェルトの靴で静かに歩く人物でも住んでくれればよいのだが、間の悪いことに入居したのが斎藤寿一君という絵描きであった。この斎藤君は、あだ名が”アハハの大将”と言われるほどよく笑い、しかも声の大きい人で、彼が日本館の玄関に入って来ると6階の私の部屋まで笑い声が聞こえたほどなのである。陽気な斎藤君は大の社交家で、その部屋には人の出入りが絶えない。夜ともなれば、留学生どもが、わいわい談笑しに来る。アハハの大将は大勢に囲まれて、数階に響き渡る大音声で笑いこけたことはもちろんである。
下で早寝しようとベッドに入り、眼をつぶっているお菓子屋こと高田君は天井が騒々しいので眠れない。眠れなければ早朝から始まる(パリの菓子屋は5時始業が普通だそうだ)仕事に差支える。上にいる連中もそれはわかって音を自粛してはいたのだけれども、若気のいたりで、いつの間にか声高に喋り、足踏みならしという事態になる。ある夜などは、斎藤絵描きが、床に画用紙を広げて鉛筆の点描で絵を描くのを、みんながさんざめきながら見物していた。すると突如、床を突き上げるようにドンドンと音がした。斎藤君が鉛筆でトントンと紙を叩くと、下からドンドンと反響する。
要するにたまりかねた高田君が長い紙筒で床を突き上げたのである。上の連中は急にひっそりとし、斎藤君は夜は絵を描くのをやめてしまった。
この勤勉で神経質な高田君は、しかし、さすがお菓子屋だけあって、料理が上手で、彼の作ったれスパゲティを代用したウドンカケなんてのは、私たちの間では絶品であった。それに店から素晴らしいフランス菓子を持って来てはみんなに食べさせてくれるのである。大体、これらの菓子は彼が写真を撮る材料として持ち帰るのであるが、意地汚い私たちは、彼の写真撮影が終わるのを待ちかねたように手を出す。彼はまた実に気前よくみんなに振舞うのであった。
貧乏留学生でパリに来ながらろくなフランス料理を食べていなかった私たちは、フランス菓子だけは、第一級品を食べることができた。元来、辛党で菓子など軽蔑していた私が、フランス文化を論じるならばフランス菓子を知らねばならぬなどと、聞いた風なことを考え、酒飲みのくせにフランス菓子だけには目がないのは、この時の体験によるのである。
私たちはあらゆる種類の菓子を食べた。勤勉な上に完璧欲の強い高田君は、まだ写真に撮ってない菓子に出会うと必ず持ち帰ったからである。菓子だけではない。高田君はヨーロッパ中のチョコレートの蒐集もやっており、彼の目当ては美しく装飾印刷された包紙にあるので、中身は私たち回しとなるのであった。夏休み、高田君はヨーロッパ中を旅行してまわり、スクーターにチョコレートを積み上げて帰館する。すると私たちは、ひと月ほど毎日ヨーロッパ各地のチョコレートを食べ、国による味の差などを論拠にチョコレート文化論を論じ、興奮して不眠症になったり鼻血を出したりした。
とにかく高田君のおかげで、私たちはフランスというと料理ばかりをあげつらう味の文化論がいかに片手落であるかを学んだのである。菓子は料理をひきたてるばかりでなく、料理の基本とさえいえる。特にお祭りと結びついた季節料理では菓子が重大な役目をする。正月6日の公現祭ではガトオ・ド・ロアという小さな陶器の像入りのケーキが中心だし、クリスマスではブュッシュ・ド・ノエルという薪を型どったケーキが御馳走の元締めをしている。
そしてお菓子は童心の世界へと私たちを連れていってくれる。フランス文学によく描かれる幼年時代は、楽しいお菓子の思い出と結びついている。大作「失われし時をもとめて」はプチット・マドレーヌという貝殻形のケーキから始まっているのだ。
私と前後して1960年頃、高田君は日本に帰り、西ヶ原でカドという菓子屋を始めた。自家製のフランス菓子の専門店である。この店は年々に大きくなり、今では三越本店に出店を持つまでに発展したが、このカドのお菓子が素敵にうまい。昔パリで覚えた味覚を彼はそのままに再現してみせてくれる。菓子作りの年季が長いだけでなく、あの朝遅い日本館で、何年も早朝ひとり起き、爆音もさわやかに工場まで通いつめた熱心さがものをいうのだ。
高田君を苦しめたアハハの大将の斎藤君も帰国し、今は中堅の画家として活躍している。おたがいに多忙な身で何年かに一度顔をあわすが、私たちのは会って酒を飲むだけではない。必ずカド特製のケーキを食べる。ああ、フランス菓子こそわが青春である。
加賀乙彦さんは1929年、東京都生まれ。1953年東京大学医学部卒。1955年から東京拘置所医務部技官。1957年フランス留学。パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務し、1960年帰国。1960年医学博士号取得。東京大学附属病院精神科助手、東京医科歯科大学助教授、1969年から上智大学教授。1979年から文筆に専念。1968年「フランドルの冬」が芸術選奨新人賞、1979年「宣告」が日本文学大賞を受賞。1986年から文芸家協会理事。1997年から日本ペンクラブ副会長、2003年から同理事。2000年から日本芸術協会員、日本近代文学館理事。
”アハハの大将”こと斎藤寿一さん(1931−1992)は神奈川県生まれ。牧野司郎、加山四郎の二人に油絵を学ぶ。1958年パリ留学。「アトリエ17」銅版画研究所に学ぶ。1960年に帰国し、文化学院の講師に。1975年に川崎市文化賞を受賞。和光大学教授。
ここで高田壮一郎さんが登場。クリスマスケーキを見せてくださいました。
「やはり、この時代のビュッシュ・ド・ノエルはバタークリームだったようです(^-^)\(()…おおっ!?このフリュイ・デギゼが詰まったヌガーとプラリネでできた靴は何ですか?(゚O゚)\(()」
高田壮一郎氏「“司教さんの靴”ヌガー・サボです。家族みんなの健康と進歩を願って作られた飾り菓子です。そして、フランスの代表的クリスマスケーキは、なんといってもビュッシュ・ド・ノエル。“クリスマスの薪”という意味です。フランスでは昔からクリスマスになると大きな薪を燃やし、その灰を火傷の特効薬として、また火事や雷除けのまじないとして大切にとっておく風習があるのです。そして、燃え残りの薪を一年間とっておいて、クリスマスの暖炉の最初の火付けはその薪でするといいことがあるんですって。縁起のいい薪を形どったこのビュッシュ・ド・ノエル、上には健康と生命力の象徴のキノコとヤドリギが飾り付けられています。私はパリの味をそのまま東京に持って来て、お菓子は本来こうあるべきということを知ってもらいたいために、伝統的なフランス菓子を作り始めました。でも次第に日本の風土に合わせて甘味の少ない、あまり堅くないものも作るようになりました。父が画家だったこともあって、色使いには特に気を使っています」
「東京カドにはマカロンは売っていませんでした。次は1968年当時のエスワイルに行ってみましょう。当時の店舗は神田小川町にありましたが、、現在は文京区の春日に移転しています。店主の大谷長吉さんは戦後すぐにマカロンを売っていたそうです」「おおっ!?ここは学生時代に神田神保町で古本を漁った後で立ち寄っていました。森茉莉さんも来ていました」「こんにちは!大谷長吉さんはいらっしゃいますか? >゜))))彡」
大谷長吉氏「洋菓子業界もここ20年の間(1972年当時の時点で)にこれだけ全国的になり、どこの都市に行っても、ヨーロッパに劣らない店構えの洋菓子店が多くなり、本当に喜ばしい。終戦後、私どもの業界は一時、粉類の使用を禁止されていた。菓子を公に作っていたのは主に進駐軍の宿舎であって、われわれ技術者はほとんどといっていいくらい進駐軍の菓子作りだった。私も横浜のホテルニューグランドでマッカーサー元帥をはじめ、他39名の将軍の菓子を作っていた。そのうち元帥が東京の第一生命ビルに本部を転じた時、私もホテルを退社して東京に出て銀座のケテルで働いた。外人のところでは菓子を作ってもよかったが、私ども日本人が作ると経済違反として警察に連れて行かれ、罪になる時代だった。婦人雑誌等に菓子のことを書いても、サツマイモかジャガイモを使ったものばかりで、甘味はサッカリンといったわけで、本当に今昔の思いがする。粉を使うと違反なので菓子ができず、マカロンを作って売ったり、粉を使っても使わない顔をしていたりして大変な世の中だった。それも昭和26年には、経済自由化になり、はじめて、大威張りで菓子を作ることができるようになった。あれから20年、早いもので婦人雑誌でも料理と菓子は載せないと売れ行きに関係するとのこと。日本の食生活も大変改善され、本当に喜ばしいことである。…中略…私など50年菓子を作っている。しかしまだまだ駄目だ。本当の菓子を作りたい」
大谷長吉氏 略歴
明治43年 東京都生まれ
大正13年 東京築地精養軒洋菓子部に入社
昭和 4年 横浜市ホテルニューグランドベーカー部入社
昭和 5年 チーフベーカーとなる
昭和19年 召集
昭和20年 召集解除 ホテルニューグランドに戻る
昭和23年 東京西銀座レストランケテルに嘱託として入社
昭和26年 エスワイルベーカリーを西銀座に設立
昭和30年 神田小川町に転社
昭和38年 洋菓子の小売と喫茶室を始める。
昭和40年 業界視察のためヨーロッパへ外遊。
昭和54年 逝去
右 プチ・ニド・オー・マロン
「ウオッホン!菓子店には珍しく、店員は全員男だな」「これはパック(イースター)の鳥の巣を模ったガトーですね(*^_^*)」
上左シャルロット・サバヨン 右シュー・ア・ラクレーム
下左カタラニ 右サヴァラン
ブーシェ・ア・ラ・クレーム
「エスワイルという店名はサリー・ワイルという日本にフランス料理を伝えたホテルニューグランドのスイス人料理長の名前からとったものです。銀座から神田小川町に移って17年、フランス菓子ではとっても有名な店です。社長の大谷長吉さんは世界洋菓子連盟会員、パリ市サンミッシェル洋菓子協会名誉会員にも名を連ねるたいへんな人。本日は協同組合全日本洋菓子工業会専務理事の仕事で不在だそうです。今、店を預っていて、弟子から“お父さん”と呼ばれている三宅良一さんにお話を伺いました」「この店には全国の洋菓子屋の跡取りが修業にきています。それこそメシ炊きから始めて5年はみっちり。それからフランス、スイスに武者修業に出て行くのです。今いるのは男ばかり10人。うちに限って人手不足は絶対にありませんよ。菓子の種類は、毎日新しいのをどんどん作っていくので無数。毎日行ってもそのつど新しい菓子が食べられるってわけ。店の2階で作ってるので古いのなんて絶対にありません。うちの菓子は、ごまかしがない本物の本物、純フランス風洋菓子です」と三宅さん。
シャルロット・ダブリコ シャルロット・リュス
「これは婦人画報1970年5月号から大谷長吉氏のババロア特集。当時エスワイルのような一流店のレシピが掲載されると雑誌の売り上げがグーンとアップしたのです」
シャルロット・ダブリコ シャルロット・リュス
「日本でもシャルロットは明治時代から作られていたようですが、皇族や貴族が晩餐会のデザートとして食べられるだけでした。大谷氏のシャルロットはアントナン・カレームやオーギュスト・エスコフィエ、師匠であるサリー・ワイル氏の姿も見え隠れする古いタイプのシャルロットです。日本での新しいヌーヴェル・パティスリーとしてのシャルロットの出現は1975年に銀座マキシム・ド・パリのフェアーでジャン・ドラベーヌ氏がジャン・ミエ氏から教わって作ったシャルロット・オー・ポワールが先駆けとなりました。
上 バルケット・イタリアン 80円
下 バルケット・フレーズ 100円
上 サクリスタン 80円
下 ダリオーレ 80円
「バルケット・イタリアンとはイタリアンメレンゲが載った舟形タルトです。現在では見かけなくなってしまいました(*^_^*)」「ウオッホン!サクリスタン(sacristain)とは直訳すると「(教会の)聖具係」という意味だが、教会に置いてある脚がクルクルした蜀台のことをさすようだな。ご覧のとおり、フィユタージュをねじって焼いてシナモンシュガーを振りかけたお菓子だ」「ダリオーレ(dariole)とは、昔は菓子の名前でした。フィユタージュの中にキルシュを加えたクレーム・フランジパーヌを詰めて強火のオーブンで焼き、オーブンから出したら、すぐに砂糖を振り掛けて供されました。現在は絶滅しています」「おおっ!ダリオーレは四角いガレット・デ・ロワの一人用として復活させるべきです!(^O^)//(()トントン」
トントン トントン トントン♪(^o^)//(()…「突然ですが、只今より日本洋菓子界の長老 大谷長吉氏とアンドレ・ルコント氏のマカロン対決を始めます」
大谷長吉シェフ
助手 大谷龍一シェフ
アンドレ・ルコントシェフ
「大谷シェフの助手には御子息の龍一氏が付きました。ルコントシェフは隣にいる助手は使えないからいらないと言っているようで、レフリーの高田壮一郎氏が『ムッシュー・ルコント、本当にあなた一人でいいんですね?』と確認しているところです(^O^)//(()トントン」
大谷長吉シェフが作ったマカロン
1971年
上 ロシア風マカロン
下 バターマカロン
軽くふくらんだマカロン
トントン トントン トントン♪(^o^)//(()…「大谷シェフは3品作ってくださいました。マカロンというよりクッキーに近いですね」「ウオッホン!ルセットを見ると材料も製法もフランスのどの地方のマカロンにも当てはまらないようだ」「左の2つはかなり硬いですね。戦後すぐ作ったマカロンとはロシア風に近いものだと思います(*^_^*)」
「バターマカロン Macaron au beurre」
1バター
 粉砂糖
 ゆでた卵黄
2卵黄
3粉
 コンスターチ
4バニラ香料

1のバターをボールの中でポマード状にしてから粉砂糖を加え、充分にすり合わせて香料バニラを添えておく。
2の固ゆで卵の卵黄だけを裏ごしにかけて入れ、別の卵黄も加えてから
3の粉類を混ぜ合わせ、よくふいた天板上に丸口金入りの布袋に入れて、約50個くらいに小さなシュー皮を絞り出すように絞り出し、中火のオーブンで焼き上げる。
「軽くふくらんだマカロン Macaron souffle」
1卵白
グラニュー糖
2粉アマンド

刻みアマンド

マカロンは堅いものであるが、スフレーとは軽くふくらんだものをいう。すなわち軽いマカロンである。

1の卵白を氷水につけて充分に泡立て、グラニュー糖を加えてメラング状にする。
2の粉アマンドの中に粉を混ぜておき、メラングの中に混ぜて丸口金入りの布袋をふってある天板上に約50〜60位を絞り出し、前に用意しておいた刻みアマンド(小豆の半分位の粒)を全面にふりかけ、残りのアマンドをふり落として中火で焼き上げる。
「ロシア風マカロン Macaron a la russe」
 菓子クズかパン粉
 グラニュー糖
 粉
 シナモン
 キングパウダー
2卵

1の材料をボールの中で全部混ぜ合わせ
2の卵を加えて充分に練り合わす。台上で細長く丸くのばして60等分に切り分ける。グラニュー糖の中に掌に白身のこしを少し取ったものを塗りながら、マカロン種を1個ずつ、小指より少し小さめに細長く丸めて砂糖を充分にまぶして天板上に並べて中火で焼き上げる。種が柔らかい時には、たぶん菓子クズを混ぜ合わすとちょうどよくなる。
アンドレ・ルコントシェフが作ったマカロン
1968年
トントン トントン トントン♪(^o^)//(()…ルコントシェフが作ってくださったのはマカロン・リスです」「ルコントシェフがホテル・ジョルジュ・サンクに入る3年前に出版されたTraite de Patisserie Moderneの1950年ランベール版の『Macarons parisiens』を見ると、リンゴのジャムは使われていないし、2枚を合わせてもいません。しかし、1974年フラマニヨン版には製法の進化が見受けられます(*^_^*)」「ウオッホン!つまり、このマカロンは1950年代〜1960年代初期のパリで最先端をいくマカロンとしてルコントシェフが創作したものであると私達は予想しているのです
Traite de Patisserie Moderneより
「Macarons parisiens マカロン・パリジャン(パリのマカロン)」
pate d'amandesパートダマンド
amandes ameres苦いアマンド
sucre砂糖
blancs d'oeufs卵白
vanilleパニラ
1パートダマンドを苦いアマンド、砂糖、卵白、パニラと一緒にローラーに通す。
2生地をよく練る。
3紙の上に絞り、粉砂糖を軽くふりかける。
4適温のオープンで焼く。
「Macarons moelleux マカロン・モワルー(やわらかいマカロン)」
amandes brutes生のアマンド
sucre砂糖
cassonade赤砂糖
pommes(fruit frais rape)ou pulpe conservee
リンゴ(生のすりおろし)または缶詰のピューレ
blancs d'oeufs卵白
vanille ou cannelleバニラまたはシナモン
1アマンドを砂糖、赤砂糖、
すりおろした生のリンゴまたは缶詰のピューレと一緒にローラーに通す。
2バニラまたはシナモンで香りをつける。
3翌日まで生地を休ませる。
4翌日、生地を鍋に入れて弱火にかけ、ステパラでかきまわしながら熱をつける。
5卵白を加え、絞りやすい固さにする。
6紙の上に絞り、粉砂糖を軽くふりかける。
7適温のオープンで焼く。
「Macarons hollandais moelleux マカロン・オランデ・モワルー(オランダのやわらかいマカロン)」
amandes emondees et seches乾燥した皮むきアマンドcassonade blanche砂糖
sucre砂糖
sucre砂糖
blancs d'oeufs卵白
blancs d'oeufs montes泡立てた卵白
1アマンド、125gの砂糖、375gの砂糖を一緒にローラーに通し、目の細かいふるいにかける。
2容器に移し、500gの砂糖、6個の卵白を加え、再びローラーに通し、コシを出す。
3再び容器に戻し、7個の泡立てた卵白を加えて混ぜる。
4紙の上に楕円形の口金をつけたスラング用いてナイフで切りながら絞り、4〜5時間休ませる。
5表面に切り込みを入れる。
6弱火のオープンで焼く。
7テンパンに水を打ってはがす。
8
そのまま、またはアプリコットのマルムラード(マーマレードをはさんで)で2つ合わせにする
「おおっ!?クリームはサンドされていないということでしたが、何か白っぽいものが…?(゚O゚)\(()」
「しっとりと濡れてるような感じがしますよ(*^_^*)」「ウオッホン!白い部分だけ水分が多いぞ!何だこのマカロンは!?」
「よく見てください。反対側の生地が剥がれてくっついてきたのです」「おお…なるほど(*^_^*)」「ウオッホン!リンゴのジャムを見せてもらいたいのだが…」
「リンゴのジャムは全部使ってしまって無いのですが、代わりにこのジャムを味見してみませんか?」「何のジャムですか?(*^_^*)\」「秘密です。当ててみてください」「それでは私が当ててみせましょう!(^O^)//(()トントン」
「これはブルーベリーかカシスですね(^-^)\(()」
「わかりました!酸味が少ないのでブルーベリーです!(^Q^)//(()トントン
「それは、ただのブルーベリーではありません。浅間ベリーです」「浅間ベリー?(゚O゚)\(()」「知り合いからもらったからジャムにしてみたのです。浅間ベリーを扱ったのはマキシムで働いていた時以来でした」
日本原産の「浅間ベリー」の登場です。正式名称は、つつじ科の植物「クロマメノキ」。実の色が葡萄を思わせるので、浅間高原では「浅間ぶどう」「浅間ベリー」などの名前で呼ばれています。酸性の土壌を好む浅間ベリーは浅間山一帯や鬼押し出し付近に自生していますが、開発により減少してしまい、北軽井沢のみにしか群生しなくなりました。国立公園内は採取が禁じられています。
「当時、銀座のマキシムは軽井沢のレストランと提携していて、夏場は我々が応援に行き、冬場は応援に来てもらっていました。夏の軽井沢で浅間ベリーを使ったデザートを作ったことを思い出しました」
マキシム・ド・パリ
1975年
「ナポレオン・パイとパリ・ブレストは島田進製菓長(当時)が作ったものです(^O^)//(()トントン」
島田シェフ「日本に帰って来た頃(1974年)はドイツ菓子が全盛で、フランス菓子は甘すぎると受け入れられなかったんです。私はフランスの菓子をストレートに作りたかったから、銀座のマキシムのシェフパティシエ募集に応募し、そこでフランス菓子を作っていました。
当時はマキシムがフランス料理の最も高級な店でした。フランス人のシェフ、フランス人のメートル・ド・テル、フランス人のミュージシャンがいて、フランス的なものを紹介しようという考え方の店でした。約2年半マキシムで働きました。
フランスのものをそのまま持って来ても売れないと言われていた時期でしたから、本当にそうかどうか試してやろうと思いました。それで、入社してから3〜4ヶ月の間、ジュールデセールつまり日替わりのデザートとして、毎日違ったものを出してみたところ、結構評判が良くて自信を深めました。まあ当時のマキシムというのは特別な場所ではあったのですが。
ただ、当時は材料がなかなか無くて苦労しました。ソースに使うフランボワーズを探した時は、カナダ産の冷凍パックを見つけましたが、マキシムで使うものだけで輸入されたものをほとんど買い占める状態でした。
マキシムで2年半程経った時、ルコントが伊勢丹に進出することになり、マキシムはあくまでデザート中心で、フランス菓子に力を入れていくという方向性ではなかったということもあって、1978年再びルコントで働くことになりました。
幸い売り上げは順調に伸びていきました。フランス大使館からトレトゥールの仕事も多く受けるようになり、フランス大統領が来日した時にも仕事を受けることができました。当時はフランスの一流店に近い仕事が出来たと思っています。
ルコントでは純フランス菓子を紹介したいという目的を持って働いていたのですが、顧客はフランス人が主体でしたから、日本人の好みというものをあまり意識する必要が無くて、フランスの延長線上にありました。
フランス菓子における配合は、すでに完成されているものです。ですから、よい素材を吟味し、アート的要素をプラスすることで、初めてその店の味になるのだと思います。このような考えは、かつて指導を受けたアンドレ・ルコント氏や
ジャン・ドラベーヌ氏、ジャン・ミエ氏、ミシェル・フサール氏との交流を通して生まれ、これからもずっと貫いていきたいと思います」ジャン・ドラベーヌ氏! >゜))))彡」
マカロン・ヴァニーユ
マカロン・カフェ
マカロン・ショコラ
製作ジャン・ドラヴェーヌ 川上のぶ
1969年
「このマカロンは1969年にジャン・ドラベーヌ氏が来日して、女性フランス料理研究家の草分けである川上のぶ氏と一緒に作ったものです」「ルコント氏のマカロンからわずか1年後に、日本でこれほどのマカロンが作られていたとは!(゚O゚)\(()」「大きくて平べったい。表面はザラついていますが、これはマカロン・リスです。よく見ると10個のうち1個の割合でヒビ割れしていますね(*^_^*)」「ウオッホン!2つを合わせてあって、隙間がかなり開いてる。これはクリームやガナッシュを挟んであるようだな」「ルセットを見ると、まだ着色料は使われておりません。つまり、1960年代後半のパリでクリームやガナッシュをサンドしたマカロン・リスが登場し、1970年前後にダロワイヨが着色料を使って黄色とピンクのマカロン・リスを発売した、と結論づけても良さそうです。この説を覆すほどの証拠はフランス側からも出てこないでしょう」「ところで、川上のぶさんって誰ですか?(゚-゚)\(()」残念ながら現在の日本のフランス料理史からは忘れ去られた存在です。太平洋戦争で夫を失い、戦後、女手一つで三人の子供を育て、子育てが終わって気が付けば、彼女は既に五十の大台でした。しかし、少女時代から憧れ、夢見てきたフランス料理の研究に進む決意をしたのです。女にはフランス料理はタブーとされていた時代のことです。男性の職域とされていたフランス料理の修業の場に一人飛び込み、ホテル・ジョルジュ・サンクではアンドレ・ルコント氏と小野正吉氏と共に働き、帰国後もホテルオークラで小野正吉氏とアンドレ・ルコント氏と共に働きました。後に帝国ホテル総料理長となる村上信夫氏をフランスに行かせて育てた女性です」
ジャン・ドラベーヌ Jean Delaveyne(1919〜1996)
アエソンヌ県ロル・アン・ユルポ生まれ。当初は菓子職人を目指していたものの、1935年に料理人に転向。イギリスのホテルでの仕事を多く経験した後、1952年「カニグー」料理長。1957年パリ郊外ブージバルに「ル・カメリア」開店。「簡素化した料理」を提唱しました。また、「キノコ博士」として異名をとるほどキノコ類には詳しかったと言われています。日本にいち早くヌーヴェル・キュイジーヌを持ち込んだ料理人でもあります。レストラン「カメリア」は、ミシュランの評価として1963年に1ツ星、1972年に2ツ星を獲得しました。1985年には現役を引退し、1996年パリでその生涯を閉じました。島田進氏が在籍していた当時の銀座マキシム・ド・パリの技術顧問でした。
川上のぶさんは1909年福井県生まれ。1932年、日本女子大学家政学部卒業。1959年フランスに渡りパリのホテル・ジョルジュ・サンク、プラザアテネ調理部にて実地を研究。1962年に帰国するまでフランスおよび各国のレストランを視察。帰国後、ホテルオークラ調理部勤務(1962〜1968)。神田精養軒コンサルタント、主婦会館料理講師、自宅にて料理塾を経営しながら1960〜70年代の婦人雑誌で活躍しました。
Macarons vanille(マカロンバニーユ)
イタリア語のマッケローネが語源、ルネッサンス時代にベニスから伝わったもので、フランスではナンシーのものが有名。最近(1970年当時)のフランスの流行としては下記の分量で作られたやわらかいマカロンがほとんどで、アマンドを土台にした軽い菓子である。
材料
A パウダーシュガー
  アマンドパウダー
B 卵白
  パウダーシュガー
  バニラエッセンス
作り方
1 Aの材料を混ぜ合わせて2回ふるっておく。
2 Bの材料でムラング(固くたてる)を作る。
3 1と2を合わせ、大型のしゃもじでさらに混ぜる。しゃもじにべっとりつくぐらいに混ぜ、混ぜた生地がしゃもじを離せば、静かに下がる程度(この状態をマカロナージェという)をみて、紙を敷いた天板に直径2cmくらいに絞る。
4 絞った種は15分ぐらいそのまま置き、それからオーブンに入れたほうがよい。下に2枚天板を重ね、最初は240℃約1分、次に180℃のところに入れて入口を少しあけて焼く。5〜6分で焼ける。
5 焼けたら、すぐに紙の下に水を通して紙をしめらせてはがし、天板に付いた方を抱き合わせて重ねる。
これは経験を重ねて焼き上がりをみる以外にないが、焼き上がった時、ピエといって、底のまわりに盛り上がった輪ができた時が良い出来上がりである。ピエができ、表面につやがあり、なめらかに盛り上がって、やわらかく、軽いものが良い。フランス人の好む高級のプティフールセックの一つである。
バニラのマカロンと同じ方法で次のように変えることができる。
1 Macarons cafe(コーヒー入りマカロン)
粉末コーヒー25gを小麦粉に混ぜる。
2 Macarons chocolat(チョコレート入りマカロン)
粉末ココアを小麦粉に混ぜる。
3 Macarons fraises(苺の香りのマカロン)
生地に苺のエッセンスを入れ、うす赤く色と香りを付ける。
4 Macarons framboises(フランボワーズの香りのマカロン)
生地にフランボワーズ(木苺の実)のエッセンスを入れ、ピンクにいくらか紫がかかった色と香りを付ける。
5 Macarons citron(レモン入りのマカロン)
生地にレモンのエッセンスを入れて香りを付け、黄色に色付けする。

仕事が非常にデリケートなので、次の注意が特に必要である。 砂糖は精製された純粋なものを選ぶことで、澱粉質の混ざったパウダーシュガーではできにくい。
卵白は固くたて、さらに混ぜた状態がマカロナージュするよう、よく見てから絞ること。この混ぜ方の良否も焼き上がりに非常に影響する。
オーブンの取り扱いに注意すること。
水分の抜ける状態で焼くこと。
最近のフランスの流行としては、ソフトなマカロンにエッセンスと同じ香りのクレームオーブールがはさんであるものが多い。チョコレートの場合はガナッシュを詰める。
「Joyeux Noel!(^0_0^)/」「ジョワイユー・ノエル?(゚O゚)\(()」「フランス語でメリー・クリスマスは”Joyeux Noel(ジョワイユー・ノエル)って言います。次はこの甘納豆をテイスティングしてみてください」
「普通の甘納豆とは違う…小粒で濡れています…これは東京新宿花園万頭の『ぬれ甘なつと』です!(^Q^)」

花園
3990
パティシエ・シマ(京王百貨店限定)

「パティシエ・シマの島田進シェフと和菓子の老舗『花園万頭』がコラボレートしたクリスマスケーキが京王百貨店限定で2009年12月9日まで予約受付中です。マスカルポーネチーズケーキをベースに、中には『ぬれ甘なつと』と、味を引き締めるカシスゼリーが入っています」
試作品
ぬれ甘なつと&抹茶
2009年7月
試作品
ぬれ甘なつと&栗
2009年7月
「おー!それなら夏に試作品を作っていましたね!あれは京王百貨店のクリスマスケーキのための試作品だったのですね!(^O^)//(()トントン」
ガレット・デ・ロワ・オ・ショコラ
P125 クール・ド・グアナラ&ぬれ甘なつと
特注品
「様々な種類のケーキを私もお相伴にあずかりました。どれも珍しいだけでなく、とっても美味でした(^Q^)」
「マスカルポーネチーズケーキをベースに、中には『ぬれ甘なつと』と、味を引き締めるカシスゼリーが入っています。詳しい情報は、こちらでどうぞ」

エトワール・フレーズ
3990
パティシエ・シマ(京王百貨店限定)

パティシエ・シマのクリスマスケーキ
「花園とエトワール・フレーズは京王百貨店限定なので麹町のお店では買えません」 「こちらが麹町のお店のパンフレットです」

シャンティ・フレーズ・エトワール
3990円
パティシエ・シマ

「おー!去年までずっと同じだったのに今年は変わった!(^O^)//(()トントン」
ブッシュ・クロコダイル・ニアンボ
4200円
パティシエ・シマ
「今年は3台とも息子さんの島田徹シェフが手を加えてリニューアルしたのです」
エトワール・エリタージュ
6825円
パティシエ・シマ
「こちらは限定30台です(^0_0^)/★彡
「私はこのマカロンをオーボンヴュータンの河田勝彦シェフに献上することにしました。あなたたちも一緒に行きませんか?(^-^)//(()トントン」 「それは面白そうですね。私達もお供します(*^_^*)」

東急大井町線 尾山台駅

ハッピーロード尾山台
「ウオッホン!こんな所に日本を代表するパティスリーがあるとは不思議だ」
「オーボンヴュータンが見えてきましたよ(*^_^*)\」
「ウオッホン?何で通り過ぎるんだ?」
環状8号線 尾山台交差点
「ここです!(^O^)\(()」
環状8号線 尾山台交差点
玉川田園調布方面 瀬田方面
「この交差点を右(瀬田方面)に2ブロック行った角にルコント等々力店がありました(^O^)//(()トントン」
ルコント等々力店
1973年〜1978年
1970年代にわずか6年間だけ存在したルコント等々力店の登場です。河田勝彦シェフは1976年に帰国後、浦和で「かわた菓子研究所」を立ち上げ、ボンボン・ショコラの卸業を始めましたが売れなかったそうです。しかし、ルコントさんは河田シェフのボンボン・ショコラを気に入って、買ってくれたのでした」
ルコント等々力店
東京都世田谷区等々力2-1
1973年〜1978年
オーボンヴュータン
東京都世田谷区等々力2-1-14
1981年〜
「オーボンヴュータン…この店にもアンドレ・ルコント氏の姿が見え隠れしています!(゚O゚)\(()」
「こんにちは!(^O^)//(()トントン」「いらっしゃいませー!」
「おっ、ボンボン・ショコラのショーケースです!(*^_^*)\」
「あのアンドレ・ルコント氏が自分の店に置くことを許したボンボン・ショコラとは!?(^O^)\(()」
この続きはPART2でどうぞ

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