フランス菓子 Maison Wenikoの四季

茨城県近代美術館 ストラスブール美術館展
レストラン・プティ・ポワル・ル・ミュゼ
アルザス特別メニュー

2012年7月14日

わんだふるはうす、水戸芸術館(ART TOWER MITO)へ行く

「2012年7月14日、ワンダフルハウスはT's Gardenさんに誘われて水戸芸術館にやって来ました。おーっ!京成百貨店が正面に見える!ということは、ここはメゾン・ベニコのすぐ近くなのですね!(^O^)\」
Maison Wenikoから歩いて3分で着く水戸芸術館の敷地は、国道50号線から1本奥に入った1ブロックに位置します。このため、広場は街の中心地にありながら、大通りの喧噪から隔離された安らぎのある快適な空間になっています。一辺56mの正方形の広場は、石畳の歩道で格子状に区画され、分割されたブロックに植えられた芝生が1年を通して緑をたたえています。三方を建物で囲まれた広場の南側にある大きな3本のケヤキと、北側の巨大な石を吊ったカスケードが、広場にいきいきとした表情を与えます。この広場はフェンスがなく常に解放されており、フリーマーケットや野外コンサートなどの催し物だけでなく、市民の憩いの場として親しまれ、子供と遊ぶ家族連れの人々、ベンチでくつろぐ人々、芝生で寝転がる人々など様々な人が訪れ交流の場所になっています。
水戸芸術館は1990年(平成2年)3月22日に開館した茨城県水戸市にある美術館・コンサートホール・劇場からなる現代芸術の複合施設である。運営は財団法人水戸市芸術振興財団。館長は音楽評論家の吉田秀和。建築家の磯崎新が設計した。
水戸市中心部に建つこの施設は、中心市街地活性化の意味も込めて、敷地狭隘のため移転した水戸市立五軒小学校の跡地に市制100周年記念施設として建設された。発案者である当時の佐川一信市長が文化によるまちおこしを意図し力を入れたため、市の年間予算の1%(約9億円)を活動資金にする制度を日本で初めて導入した。建設費は103億5,584万円。
また美術・音楽・演劇の各部門には開館前から「芸術監督」が任命され、彼らが施設に必要・不必要な機能などを設計者と協議し、設計に反映させている。これら1%予算や芸術監督制度は、市長が変わった後も引き続き続けられ、館の活動を支えている。
専属の劇団(ACM =Acting Company Mito) や楽団(水戸室内管弦楽団・ATMアンサンブル・水戸カルテット・新ダヴィッド同盟)を持つソフト重視の運営形態が特色である。
「何だ!? あの塔は!?(゚O゚)\」
水戸芸術館のシンボルとして建てられた塔は、水戸市制100周年を記念して地上100mの高さになっています。1辺9.6mの正三角形で構成された正四面体を規則的に積み重ねた形態は、チタン製の外装と作用しあい、未来的なイメージを喚起させます。また、その稜線をたどっていくと、三重螺旋が空に向かって上昇していくデザインは、無限に発展する水戸を象徴しています。内部は4階建ての構造になっており、地上86mにある最上部の展望室へはガラス張りのエレベーターで内部構造を見ながら昇ることができます。
「ここは噴水になっているそうですが、地震の後は節電のため噴水の運転を停止しているそうです」
宙吊りの巨大な石に向かって勢いよく水の流れるカスケードは、広場においてひときわ目を引く場所です。このカスケードは水戸という地名にちなみ、水の要素を建築的に表現したものです。石は笠間産稲田石で重さは約27tあり、6本のワイヤーロープで吊られています。この石に向かって左右から吹き出すジェット噴水は循環式で毎分約10tの水が噴射され、緊張感ある造形と激しい水流が躍動的な光景を生み出しています。
「おー!ヨーロッパの教会のような細長い空間!高い位置にパイプオルガンが組み込まれている!これが市立の施設とは凄い!(゚O゚)\」
ヨーロッパの教会建築様式を取り入れて設計されたエントランスホールの2階にパイプオルガンは設置されています。これはドイツで修業し、マイスターの称号を得た2人の日本人によって作られました。エントランスホールの可動式扉を閉じれば、そこはオルガン音を美しく響かせる専用空間に様変わりします。
「水戸芸術館を作ったのは1984年から1993年まで水戸市長をつとめた佐川一信氏(1940-1995)だそうです。文学、音楽、芸術をこよなく愛した佐川一信氏は私設図書館『佐川文庫』も作ってしまったとか」
東日本大震災によりパイプが落ちるなどの被害を受けたパイプオルガンの修繕工事では、オルガンの内部に組み込まれた総数3283本のパイプを外に取り出して修理を行なったそうです。
パイプオルガン仕様
■カプラー:Ⅰ/Ⅱ Ⅲ/Ⅱ Ⅲ/Ⅰ Ⅰ/P Ⅱ/P Ⅲ/P
■音域:手鍵盤 C-a3 58音、ペダル C-g1 32音
■トレモロ:Ⅰ、Ⅲ、Solo-pedal、速度調整可、強度調整可
■メカニカル:
 キーアクション/メカニカル電気式併用ストップアクション
 USBメモリーによる8,000電子式ストップ記憶装置/ステップ/逆ステップ
 トゥッティ/ストップ除去/レギスタークレッシェンド
■パイプ総数:ストップ数46 パイプ総数3,283本
■手鍵盤:ドイツ標準規格/ナチュラルキー/グラナディラ材
■半音キー:ローズウッド牛骨張り
■足鍵盤:ドイツ標準規格/放射状ペダル/オーク
■ベンチ:高低自在
■オルガンケース:北米産ホワイトオーク
■寸法:
 高さ7.9m(2FLより7.2m)幅7.68m
 奥行き:本体3.48m(足鍵盤込3.94m)
■調律法:ナイトハルトⅠ(1724年)
■設計・製作:マナ オルゲルバウ社製(日本)1990年
「演奏中の撮影はNGなので写真は無いのですが、井川緋奈さんの演奏スタイルはオルガンの前に倒れ込むのではないかと思われたほど、全身全霊を込めたデモーニッシュなもので、素晴らしかったです(^O^)/」
日本人の手で作られたオルガンとしては国内最大級のこのオルガンの音色を気軽に楽しんでいただくため、週末には入場無料のプロムナード・コンサートが開かれています。
「館長が吉田秀和さんとは凄い! 実は私は学生の頃オーディオ・マニアで、クラシック音楽の雑誌で吉田秀和さんの記事を読んでいました」

エントランスホールに初代館長 吉田秀和さんの記念碑が設置されています。横尾忠則さんによる線描画を鋳造版に拡大し転写→線描画・文字全て鏨(タガネ)による手彫り。横尾さんのタッチを再現するために様々な鏨を使い彫刻されました。手彫りでは彫りにくい明朝体は専用の鏨を造ったようです

【訃報】吉田秀和水戸芸術館館長 逝去のお知らせ

音楽評論家で文化勲章受章者の吉田秀和水戸芸術館館長が、5月22日午後9時、急性心不全のため鎌倉市雪の下の自宅で急逝いたしました。享年98歳。

<略歴>

1913年(大正2年)9月23日、東京都日本橋生まれ。東京帝国大学文学部仏文科卒業。
1946年(昭和21年) 「音楽芸術」連載の「モーツァルト」で評論活動をスタ―ト。
              音楽の魅力を的確な言葉で表現し、日本に音楽評論というジャンルを確立。
              また、音楽のみならず、芸術全般に関する評論活動を続け、幅広い層の読者を得る。
1948年(昭和23年)  井口基成、斎藤秀雄らと後の桐朋学園大学の母体となる「子供のための音楽教室」を創設。
1953年(昭和28年) 「主題と変奏」で音楽評論における指導的地位を確立
1957年(昭和32年)  柴田南雄らと「二十世紀音楽研究所」を設立。現代音楽の育成、紹介の活動にも貢献する。
1975年(昭和50年) 「吉田秀和全集」(全10巻)で「第2回大佛次郎賞」
1982年(昭和57年) 「紫綬褒章」
1988年(昭和63年) 水戸芸術館館長に就任。「第39回NHK放送文化賞」、「勲三等瑞宝章」
1990年(平成2年)  「わが国における音楽批評の確立」で 「朝日賞」
1991年(平成3年)  芸術評論を対象とした「吉田秀和賞」が創設される。
1992年(平成4年)  「マネの肖像」で「第44回読売文学賞」
1996年(平成8年)  「文化功労者」として顕彰される。
2004年(平成16年) 「吉田秀和全集」(全24巻)が完結。「水戸市文化栄誉賞」
2006年(平成18年)  「文化勲章」
2007年(平成19年)  「水戸市名誉市民」

<水戸芸術館館長として>
音楽・演劇・美術の専用施設をもつ水戸芸術館の館長を当時の水戸市長佐川一信氏らが選ぶに当たって、音楽分野での活躍ばかりでなく芸術全般にわたる評論活動などから、館長には吉田秀和氏が最適任者と考えられた。1988年(昭和63年)12月より水戸芸術館館長に就任。このことにより、水戸室内管弦楽団音楽顧問の小澤征爾氏を始め、音楽・演劇・美術それぞれの分野での優れた人材が水戸芸術館に集結することとなった。水戸芸術館の運営の大きな特色となっている、専属楽団・劇団の設置、自主企画を中心とする事業展開など、さまざまな構想を提案し、日本の文化施設の役割とその発展に大きな可能性を示してきた。 
1990年(平成2年)3月の開館以来、吉田館長は、芸術館の活動を常に国際的視野に立って運営の充実を図るとともに、市民に親しまれ喜ばれるように実践してきた。その結果、水戸芸術館は今や我が国の文化施設を代表する1つとなるとともに、水戸のまちの魅力を高める大きな存在となっている。

「ほぅ、これは横尾忠則さんが描いた肖像画ですか。創刊当時のアンアンを持っている私にとって、横尾忠則さんは“ヒッピー・カルチャーの旗手”または“ビートルズをゲリラ的に撮影するためアポなしでロンドンに乗り込み、ジョージ・ハリスンの撮影に成功した突撃カメラマン”というイメージがあります」

水戸市名誉市民吉田秀和水戸芸術館長の突然のご逝去の報に接し,驚きとともに痛惜の念でいっぱいです。
吉田様は,音楽評論界の最高峰におられる方で,美術論・演劇評など芸術全般に関する評論活動を続ける中,水戸芸術館の館長として, 開館以来先頭に立ってその運営や芸術・文化の創造と発信にご尽力いただきました。
その功績は,本市の芸術・文化の振興に大きく寄与されるばかりでなく,吉田様の卓越した才能や人的ネットワークにより,水戸芸術館を日本はもとより世界レベルの芸術・文化の発信拠点となるまでにお育ていただきました。
偉大なる指導者を失った今,私どもとしては,吉田様のご遺志を受け継ぎ,水戸芸術館のさらなる発展に努めてまいります。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
                                                                                  水戸市長 高橋 靖


吉田秀和先生は、アーティストにとって宝石のような存在でした。
音楽はもちろん、その他の文化、たとえばファッションもよく理解して下さった、ハンサムな国際人でした。
大きな存在で、日本の宝物を失ったような感じです。ゆっくりお休み下さい。

                                                                公益財団法人 水戸市芸術振興財団
                                                                                           理事長 森 英恵


吉田秀和先生の訃報を受け、大変なショックを受けております。知らせを受けてからこの数日間、私の頭の中では吉田先生のことがぐるぐると回っています。
月刊誌「すばる」の4月号に先生が私のことを書いてくれたのですが、あまりにも良いことばかり書いて下さったので、何だか照れ臭くて、御礼の電話をできずにいました。吉田先生には、用の有無に関係なく、割と気軽に電話をさせて頂いていたのですが、なぜ今回は電話をしなかったのだろうと、悔やまれてなりません。
吉田先生は何もなかった戦後の日本に、齋藤秀雄先生、井口基成先生、伊藤武雄先生、入野義郎先生、柴田南雄先生と共に、後の桐朋学園音楽科の母体となる「子どものための音楽教室」を開設されました。私は「子どものための音楽教室」に途中から参加し、桐朋学園音楽科の一期生として齋藤秀雄先生のもとで指揮の勉強をしました。近年、ヴェネズエラの「エルシステマ」から優秀な音楽家が多く生まれていますが、その創設者であるホセ・アントニオ・アブレウ博士に言われたことがあります。「私がなぜエルシステマを作ったか、身を持って体験した君ならよくわかるはずだ」と。貧しく何もなかったあの時代の日本で、子供にクラシック音楽を教えよう、というのは今考えてもすごい発想だと思います。そしてもしあのとき「子どものための音楽教室」ができていなかったら、今の私はありえませんでした。ですから吉田先生は齋藤先生と共に、私の恩人の中の恩人、大恩人です。
吉田先生は音楽教育を受けた方ではありませんでした。しかし先生の音楽に対する直感・感性はすごいものがありました。そして言葉のセンスがずば抜けていたことは言うまでもありません。先生の文章を読むと、その音楽が、あるいはその演奏家の演奏が聴きたくなります。そして何より私が羨ましかったのは、先生の卓越した語学力です。お陰で早い時期から、吉田先生は日本のクラシック音楽界の窓を世界に向けて開けて下さり、世界の著名な音楽評論家たちと交流し、私にも折に触れ、海外の音楽界の色々な情報を下さいました。
水戸芸術館の館長になられた時、是非室内管弦楽団を結成して欲しい、と言われ、私は桐朋学園時代からの仲間たち、潮田益子、渡辺實和子、安芸晶子らに声をかけ、水戸室内管弦楽団を結成しました。皆、世界で活躍するベテラン中のベテランではありますが、それでも私たちにとって、吉田先生はいつでも怖い先生でした。リハーサルの後に楽屋にいらして下さり一言二言感想を言って下さるのですが、それを聞く時はいつも緊張しました。ですから吉田先生が聴いていらっしゃる水戸室内管弦楽団で演奏する時は、まるで学校で試験を受けているような気分でした。この数年は、私の健康の問題で、コンサートをキャンセルすることも多く、先生には大変なご迷惑とご心配をかけてしまい、本当に申し訳なく思っています。ですが、必ず元気になり、これからも指揮者として、頑張って行きたいと思います。これからも吉田先生が見守っていて下さると信じて…。
                                                                                                                              小澤征爾

こちらはT's Gardenさんのお友達が生けた花だそうです(~o~)\」

わんだふるはうす、茨城県近代美術館(The museum of modern art, IBARAKI)へ行く

「次は茨城県近代美術館へと向かいましょう。7月16日まで開催されている『ストラスブール美術館展 モダンアートへの招待』のコラボイベントでMaison Wenikoが出店している『パティスリー・焼き菓子フェア』を見に行くのです」
「館内レストラン プティ・ポワル・ル・ミュゼでは、ストラスブール美術館展に連動した特別メニューがあるようです。ここでランチをいただきましょう(^Q^)」
「右がレストラン・プティ・ポワル・ル・ミュゼのエントランスですか(^-^)\」
「『パティスリー・焼き菓子フェア』は千波湖側テラスでやっているようです(^-^)\」
「おおっ!? 目の前に湖が!(^O^)\」
「素晴らしい眺望です!\(^○^)/ 常磐線の反対側から千波湖を望んでいるわけです」

わんだふるはうす、Restaurant Petit Poêle le muséeへ行く

「レストランからの眺望も最高ですね!(^O^)\」
「これがストラスブール美術館展 特別メニューですか(^Q^)\」
「ゲヴュルツトラミネール、ピノ・ブラン、リースリング…メゾン・ベニコのコンフィチュールやお菓子でお馴染みのアルザスワインが揃っていますね」
Domaine Lucien Albrecht / Riesling Reserve 2009
ドメーヌ・ルシアン・アルブレヒト/リースリング レゼルヴ 2009
「リースリングの味わいは、白い花・ハチミツとよく例えられます。非常に気品が高く繊細な風味を持っています。リースリングがそのポテンシャルを最大限に発揮するための条件は、冷涼な気候と痩せた土壌。この条件に適しているのがアルザスにあり、この適した産地の少なさが『リースリング=アルザス』というイメージに繋がるのです。ルシアン・アルブレヒトのワイン造りの家系は1425年まで遡る事が出来ます。1520年から1698年にかけてアルザス南部のタンの地でアルブレヒト家のワイン造りの歴史が始まり、1698年以降は現在のオルシュヴィールに移り、ワイン造りを行っています。オルシュヴィール近郊の自社葡萄畑はグランクリュを含む30.5ha、ピノ・ノワールが2ha、リースリング他の白葡萄用が28.5ha。1972年にクレマン・ダルザスを他のメーカーに先駆けて製造開始し、アルザス産クレマンの市場を開拓。2000年から一部の畑でビオロジー(オーガニック)で葡萄の栽培を開始しています」
Domaine Lucien Albrecht / Gewurztraminer Reserve 2009
ドメーヌ・ルシアン・アルブレヒト/ゲヴュルツトラミネール レゼルヴ 2009
「ゲヴュルツトラミネールの特徴は、果物のライチとほぼ同じと言われる独特な香りです。ゲヴュルツトラミネールも冷涼な気候を好むため、リースリングと同様、産地がかなり限られます」
Domaine Marcel Deiss / Alsace Pinot Blanc Bergheim 2009
ドメーヌ・マルセル・ダイス/アルザス ピノ・ブラン ベルグハイム 2009
「アルザスが発祥の地とされているピノ・ブランは、ピノ・ノワールの枝変わり種であるピノ・グリの変異種とされています。ハーブあるいは柑橘系のさわやかな香りと、強い酸味、適度な苦みなどがあり、かなりこくのあるワインです。ドメーヌ・マルセル・ダイスはアルザス地方の中心部に位置するベルクハイムという小さな村にあります。現在のオーナーであり、信念と改革で綺羅星のワインを生み出しているジャン・ミッシェル・ダイス氏は丘の上にある畑26haを所有しています。この畑は9つのコミューン、約20kmにまたがっているため、畑やブドウ品種など多様性に富んでいます。
ワインのラベルにセパージュ(ブドウ品種)名が表記されているように、セパージュに重きを置いてワインを生産するアルザスの中で、ダイス氏はテロワール主義。また、そのテロワールを最大限に引き出すビオディナミのワイン造りを研究し、情熱と力を注いでいます。太古の地殻変動に由来するアルザスの土壌ゆえ、そのテロワールを引き出すためにビオディナミを実践。ブドウがより深く地中に根をはり、気候に左右されない、個々の土地の強烈な個性を表現できるブドウ造りをしています」
Hors-d'œuvre d'Alsace
オードブル・ダルザス
アルザスのオードブル
1000円
期間限定メニュー
レストラン・プティ・ポワル・ル・ミュゼ
「実は私も現代アルザスワインの頂点を極めたジャン・ミッシェル・ダイス氏と同じテロワール主義者で、あらゆる食べ物、あらゆる文化にテロワールを感じるのです。そしてビオディナミ(バイオダイナミックス、生命エネルギー)農法を突き詰めると、農薬と化学肥料を使わないただの有機栽培では飽き足りなくなり、月やその他の天体の動きが植物に与える作用を重視した農業暦を用いた栽培…占星術などで培われた知識を元に、太陰暦だけでなく、黄道十二宮や惑星の位置と関連させて種まきや収穫などを行い、また牛の角や水晶粉、カモミールの花、タンポポの花などの特殊な物質を利用するルドルフ・シュタイナー流の“超有機栽培”に辿り着くことを知っているのです」
Rillettes de Porc, Carotte râpée aux raisins
ポークリエット 人参とレーズンのサラダ
「ニンジンとレーズンのサラダにアルザスのテロワールを感じる!」
「キャロット・ラペ・オー・レザンは、細切りのにんじんをドレッシングとレーズンで和えるだけの手軽で美味しいフランスの代表的な定番サラダ。それに似たコンフィチュールがメゾン・ベニコにもあったのです」
Confiture de carottes et mandarines et cardamome
にんじんとみかんとカルダモンのコンフィチュール
2011年10月
「フェルベールさんはキャロットのコンフィチュールにシナモンで風味付けていましたが、Wenikoさんは温州みかんを合わせてカルダモンで風味付けしました」
にんじんとみかんとカルダモンのコンフィチュール
「テロワールという概念…フランス独特の文化の中で生まれた言葉には、日本語でピッタリ当てはまる言葉が見当たりません。『地域性』『風土』という言葉が近いですが、それでも十分には表現しきれていません。ワインに関してテロワールの意味するところは『気候、地形、地質、土壌などの複合的地域性』のことをいいます。フェルベール式コンフィチュールにもワインと同様のテロワールが内在しています。ワインのテロワールを構成する個々の要素を見ていくことによって、コンフィチュールの違い、多様性を解読することができそうです」
「どれがニンジンでどれがミカンなのか見分けがつかないですね(゚O゚)\…これは温州みかんの果汁だけを使用した人参のコンフィチュールなので、見えているのは全て人参なのです。カルダモンのほのかな風味がミカンの爽やかな味わいを引き立ててくれます。人参の青臭さがまったくないため、ニンジン嫌いの子供にも食べやすい味です」
Wenikoシェフのルセットを要約すると、人参は皮をむいて0.5mm幅の短冊切り→鍋で茹でて柔らかくなったら湯切り→オーガニックシュガーとミカン果汁を加えてひと煮立ちさせる→ 一晩休ませる →翌日オーガニックシュガーとミカン果汁を加えて煮詰める→オーガニックシュガーを2回に分けて加え(通算3回目、4回目の投入)、とろみが付くまで煮詰める→レモン果汁とカルダモンを加える。
「ニンジンとミカンとカルダモンのコンフィチュールは、そのままではパンに合いません。ニンジンとレーズンのサラダのように間に豚肉のリエットを挟むことによって真価が発揮されるのです」
「マンステールのクミン添えにアルザスのテロワールを感じる!…実は今日はこれから、このマンステールチーズを使って、クリスティーヌ・フェルベールさんが作った『Tarte sablée aux Myrtilles et au Munster Blanc』(ブルーベリーとマンステール・ブランのタルト)をWenikoシェフに作ってもらうことになっています。21世紀最高のチーズケーキを日本で初めて再現してみようというわけです」
アルザス地方やスイスとの国境に位置するフランシュ=コンテ地域圏、ヴォージュ山脈付近のヴォージュ県などを代表する、ヴォージュ種のミルクを使用して作られたチーズ「マンステール」。マンステールはフランス製のワインやチーズ、バターなどに対して与えられる認証「AOC」を持つ、アルザス地方唯一のチーズとしても有名で、乳牛の食生活や生活風土などで味が大きく変わることから「フロマージュ・ド・テロワール(郷土チーズ)」と呼ばれています。
「フェルベールさんがマンステールチーズを買っているのは、ニーデルモルシュヴィール村から車で1時間弱、マンステール市からアルザスの丘を登りきった標高1000m以上の場所にあるFerme Auberge Buchwald(フェルム・オーベルジュ・ブッシュワルド)。ここはマンステールチーズを主に作っている農場で、作りたてチーズをその場で購入できるのと、農場で作る100%ナチュラルなマンステールチーズを中心にした名物料理とデザートが楽しめるのが魅力だそうです。なお、マンステールチーズには『フェセルチーズ』『生チーズ』『熟成させたチーズ』の3種類あって、フェルベールさんがTarte sablée aux Myrtilles et au Munster Blancに使ったのは『生タイプ』。日本のフロマージュリーで買えるマンステールは『熟成タイプ』だけなので、フェルベールさんのオリジナルに比べると、クリームの色と質感が落ちる、味が劣る、マンステール特有の納屋のような臭いが出る…等等マイナス面が多くなりますが、それを承知の上、本日チャレンジしてみることにしたのです。メゾン・ベニコにオーダーしたTarte sablée aux Myrtilles et au Munster Blancの日本版には、フロマージュリー・フェルミエ愛宕店から取り寄せたマンステールを使用しました」
「クリスティーヌ・フェルベールさん御用達Ferme Auberge Buchwaldのマンステールのフェセルチーズは前日の牛乳に搾りたての牛乳と凝乳を合わせ、火を通して凝固したものをフェセル(水切り籠)に入れてサッと水を切ったもの。そのフェセルチーズを何度も上下を返して水分を放出させたのが生チーズ。翌日、生チーズに塩をふって桶から出し、乾かして6日後にカーヴへ。表皮を塩水で何度も洗うことで菌を繁殖させ、約3週間かけて外側から熟成させるという独特の手法で作られています。熟成が進むと表皮はオレンジ色に変色し、かなりクセの強い臭い(綺麗に例えるなら田舎の農家の古い納屋の臭い)を放ちますが、クミンをまぶすと魔法のように臭いが消えます。臭いとは裏腹に口に入れるとまろやかで、口いっぱいに広がる濃厚なヴォージュ種の牛乳の甘さに驚かされます」
Saucisse de Strasbourg
ストラスブールのソーセージ
Chou rouge marine au vinaigre
紫キャベツのマリネ
Olives
オリーブ
Cerises
さくらんぼ
「ソーシス・ド・ストラスブールにアルザスのテロワールを感じる!…これを見て私が思い出したのは1984年3月、アルザスのソーセージ専門店『KIRN』(キルン)が日本で初めて有楽町西武に出店した時のことです。客のほとんどがフランス人とドイツ人で、その店で買ったVéritable knack de Strasbourg(ベリターブル・クナック・ド・ストラスブール)というソーセージが、このソーセージに近かったです。ところでその頃、西ドイツ・バイエルン州レーゲンスブルクに本拠を置くハム・ソーセージの名門オスターマイヤー社が麻布十番に直営店を出していたのを覚えている日本人が私の他にいるでしょうか?(現在のソフトバンク麻布十番店の場所)。商品が全て本場 西ドイツからの直輸入物というのは当時の日本でここだけで、豚の赤身と脂肪を米粒大にカットし、甘い香りのハーブ マジョラムと共に羊の腸皮に詰めてボイルした『ブラートヴルスト』(Bratwurst)というソーセージが、このソーセージに近かったです。本場ではザワークラウトと共にパンにはさんで食べると習いました」
「オリーブは、その下処理によって、プレーン(種付き)、ストーンド(種抜き)、スタッフド(種を抜きピメントを詰めたもの)の3種類に分けられます。スタッフド・オリーブにはピメント(赤ピーマン)を詰めた定番の他に、アーモンドやヘーゼルナッツやオレンジピールを詰めたアレンジ版まであります」
Tarte flambée
タルト・フランベ
840円
期間限定メニュー
レストラン・プティ・ポワル・ル・ミュゼ
「タルト・フランベにアルザスのテロワールを感じる!…レストラン・プティ・ポワル・ラ・ミュゼのタルト・フランベは、フロマージュ・ブランとベーコンとタマネギが使われています」

1970年代、ストラスブールのパン屋のオーナー・シェフ ペルニーさんが
日本では入手できなかったフロマージュ・ブランの代わりに
グリュイエールチーズを使ったタルト・フランベを紹介した

「昨年の8月、ストラスブールのパン屋の娘 ペルニーさんが1970年代に日本に紹介したアルザス風ガレット・デ・ロワ(クリームにオー・ド・ヴィー・ダブリコを加える)をWenikoシェフに作ってもらいましたが、実はこれには続きがあったのです」
「ペルニーさんはマラスキーノとドレンチェリーたっぷりのスフレ・グラッセ・オー・スリーズを作り、その後、父親のペルニーさんが日本からやってきた取材陣を別荘に招き、本場のタルト・フランベを日本でも作れるようなルセットで作ってくれました」
ストラスブールのパン屋の娘ペルニーさんが1979年に焼いた
Galette à la frangipane d'Alsace
特注品
Maison Weniko
2011年8月
ペルニーさんのお菓子作りの取材を終えたすぐ後のこと、突然ペルニーさんのお父さんが、「この地方ならではのタルト・フランベをぜひ食べさせたい」というわけで、まだ建設途中という別荘に招いてくださったのです。親戚中で建てているというこの別荘のご自慢は、煉瓦造りの大きなパン焼きかまどをしつらえてあることです。
タルト・フランベ
レストラン・プティ・ポワル・ル・ミュゼ
タルトフランベは、その名の通り、“炎で焼かれたタルト”ですから、薪の炎で焼くかまどが不可欠です。発酵させたパン生地を薄くおせんべいのようにのして、生クリーム、玉ねぎ、ベーコン、おろしチーズなどをのせてパリッと焼き上げたもので、イタリアのピッツァに似ています。焼き手はお父さん、焼きたての熱々を切り分けているのはお母さん。親戚の人たちも大勢集まって、楽しいアルザスの夜が更けていきました。
ペルニーさんが日本の婦人雑誌の読者に伝えた作り方
1薄くのした生地に塩、胡椒で味をつけて小麦粉を少し加えた生クリームを平均にのばす。
2薄くスライスした玉ねぎ、ベーコン、おろしたグリュイエルチーズをまんべんなく散らす。
3かまどに入れ、赤々と燃える薪の炎で焼く。これがタルトフランベの美味しさの秘密。
4チーズが溶けて、皮がパリッと焼き上がったら取り出し、熱いところをフウフウいって食べる。
「この雑誌が発売された1979年当時の日本でフロマージュ・ブランを輸入できたのはルノートル・ジャパン(シュース・フリュイの材料として特別に空輸していた)だけだったのですから、グリュイエールチーズを使ったのでしょうが、あるいはグリュイエールチーズを使うルセットというのも、当時のストラスブールには存在していたのかもしれませんね。この後、ペルニーさんの別荘に招かれていた髭面の紳士ビヤンドさんが自分の自宅に日本人取材陣を招き入れ、ブレッツェル作りを伝授しています」
ストラスブールのパン屋の主人ペルニーさんが1979年に焼いた
Tarte flambée
「これが日本に初めて伝えられた本物のタルト・フランベです。昔、タルト・フランベはペルニーさんのように煉瓦造りの大きなパン焼きかまどを持っている人しか作れませんでした。昔はタルトを焼く時、かまどの大きな炎を利用して焼いたからです。そこから『炎のタルト』という名前になり、おなじみのタルト・フランベという名で呼ばれるようになったのです」
Choucroute à l'alsacienne
シュークルート・ア・ラルザシエンヌ
シュークルート アルザス風
630円
期間限定メニュー
レストラン・プティ・ポワル・ル・ミュゼ
「シュークルートにアルザスのテロワールを感じる!」
1979年当時のストラスブールのChoucroute à l'alsacienne
「33年前の日本にストラスブールのシュークルートはこのように紹介されました」
アルザス地方の名物料理といえば、まず「シュークルート」が挙げられます。塩漬けにして発酵させたキャベツをソーセージ、ハム、ベーコン、塩豚などと一緒にアルザス特産の辛口の白ワインで煮込んだもので、アルザスの特産品が全て盛り込まれているといった感じの郷土色あふれる料理です。大皿に山盛りにされたキャベツの上に、さらにソーセージやベーコンなどがうず高く盛り付けられ、各自で取り分けながら、マスタードをたっぷりつけて食べます。もちろんよく冷えたアルザスワインやビールを飲みながら…。
「この作り方はフェルナン・ポワンの初期の弟子であるピエール・ゲルトナー(Pierre Gaertner)の才能を思い出させてくれます。彼はアルザス地方のコルマールよりすぐ北のアメルシュヴィール(Ammerschwihr)という村でレストラン・レザルム・ドゥ・フランス(Les Armes de France)を経営していました。スペシャリテは鱒の詰め物、舌平目のグラタン ヌイユ添え、ピラミッドの黄金律に従って調理した家禽類(若鶏、鴨、鳩、ウズラ、家ウサギ)などでした。20世紀最高のレストラン『ピラミッド』でもアメルシュヴィール風のシュークルートを作っていました。ただし、それを食べることができたのはフェルナン・ポワンの特別な客だけでした」
フェルナン・ポワンのルセットより「シュークルート ダメルシュヴィール」(Choucroute d'Ammerschwihr シュークルート アメルシュヴィール風)
陶製(あるいは錫メッキした)マルミットを用いる。たっぷり2匙の鵞鳥の脂で細かく刻んだ玉ねぎを炒める。次いで生のシュークルート500gを加える。フォークでかき混ぜながら5分間炒め、アルザス産の辛口の白ワインをたっぷりカップ1、小切りにしたレネット種のりんご1個。布に包んだジュニエーヴル(ねずの実)10粒ほどを加える。最後にシュークルートが漬かる位までブイヨンを注ぎ込む。蓋をし、2~3時間煮る。食卓に出す1時間前にベーコン(燻製でも生でも良い)500gを加え、さらに30分後に上質のキルシュ小カップ1を加える。食卓に出す時には皮ごと蒸かしたジャガイモ(粉をふかし、充分に乾かしたもの)を添える。
「Choucroute d'Alsaceに使われているソーセージが甘い香りのハーブ マジョラムを詰めたソーシス・ド・ストラスブールなら、フェルナン・ポワンのChoucroute d'Ammerschwihrに使われていたソーセージは、もちろんSaucisson Lyonais(リヨン風ソーセージ)でした」
Saucisson en brioche à la lyonais
ソーシッソン・アン・ブリオーシュ・ア・ラ・リヨネーズ
ソーセージのブリオッシュ包み リヨン風
メゾン・ポール・ボキューズ
2008年7月14日
フェルナン・ポワンのルセットより「ソーシッソン・ショー・リヨネ」(Saucisson chaud lyonais(温かいリヨン風ソーセージ)
ソーシッソンは水から入れて温める。その時の温度は80℃から90℃位とする。 つまり、決して煮たたせないことである。というのは、こうしておけば、ソーシッソンは柔らかさを失わず、乾ききることがないからである。別に皮付きのままのジャガイモを茹でる。熱いうちに皮をむき、大きく切り分け、たっぷりのバターとパセリを入れた皿に盛る。このジャガイモをソーシッソンに添えて食卓に出す。
ソーシッソン・アン・ブリオーシュ・ア・ラ・リヨネーズ
メゾン・ポール・ボキューズ
「私は’80年代に麻布十番にあったオスターマイヤー社の直営店で『リヨナーヴルスト』(Lyoner wurst)というソーセージを買っていたので知っているのですが、いわゆる『リヨン風ソーセージ』と呼ばれるものは、豚の赤身と脂肪に牛の赤身をミックスして牛の小腸に詰めてボイルしたものです。クセが無くあっさり仕上がっているので、日本人には一番食べやすいソーセージともいえます。メゾン・ポール・ボキューズのものは、それにピスターシュを混ぜた非常に贅沢なアレンジ版です」
「フェルナン・ポワンの『シュークルート アメルシュヴィール風』のルセットに『布に包んだジュニエーヴル(ねずの実)10粒ほどを加える』とある通り、シュークルートはGenievre(ジュニエーヴル=杜松の実)で香り付けする料理なのですが、ヨーロッパ原産の西洋ねずの実をジュニパーベリーと呼びます。直径6~9mmの黒っぽい粒で、独特の強い香りがシュークルートの風味を特徴付けています」
左 金柑といよかんのコンフィチュール
中 金柑といよかんとジンのコンフィチュール
右 金柑といよかんとパッションのコンフィチュール
各 1050円
Maison Weniko
2012年2月
「メゾン・ベニコのコンフィチュールにジンが多用されているのは、ジュニエーヴルが蒸留酒のジンの香りづけにも使われているからなのです。ジンの植物性成分としてはジュニパーベリーの他にコリアンダーシード、キャラウエイシード、シナモン、アンジェリカ、オレンジやレモンの果皮などが使われています」
Kouglof aux Figues à la Lilien Berg
いちじくのクグロフ リリエンベルグ風
450円
期間限定メニュー
レストラン・プティ・ポワル・ル・ミュゼ
「クグロフにアルザスのテロワールを感じる!…本日3個登場するクグロフのオープニングを飾るのは、神奈川県川崎市麻生区の閑静な住宅街にある『ウィーン菓子工房 リリリエンベルグ』のスペシャリテ『いちじくのクグロフ』を模したクグロフです」
いちじくのクグロフ リリエンベルグ風
レストラン・プティ・ポワル・ル・ミュゼ
「ラム酒漬けドライフィグがたっぷり入っていて、外側にはフォンダンがかけられていて…このクグロフはかなり良くできていますね」
ストラスブール在住のWiand夫人が1979年夏に焼いた
伝説のタルト・アルザシエンヌ・ア・ラ・リュバルブ
特注品
Maison Weniko
2011年7月
「昨年の7月、ストラスブール在住のWiand夫人が1970年代に日本に紹介した『伝説のタルト・アルザシエンヌ・ア・ラ・リュバルブ』をWenikoシェフに作ってもらいました。これには続きがあって、Wiand夫人は次のページでクーゲルホップ(クグロフのドイツ語読み)も作っていました」
「このルバーブのアルザス風タルトが何故“伝説”なのか?…これはWiand夫人のおばあちゃんのルセットで焼いたもので、アントルメ1台につき砂糖を大匙3杯しか使わない、焼きたてにマラスキーノをドバドバ回しかける等々…現在では特異に感じる部分が多々ある20世紀前半のドイツ領だった頃の庶民階級のアルザス菓子を再現したからなのです。100年前のストラスブールの一般庶民のお菓子のルセットが1970年代の日本の婦人雑誌に残っていたのですから、これは非常に稀な事であるといえましょう」
「ちなみに、先ほどの髭面の紳士ビヤンド氏はビヤンド夫人の一人息子でした。ほとんど何も知らずにストラスブールにやって来た日本人取材陣を自宅に招き入れ、老婦人がクグロフを、息子がブレッツェルを、パン屋の娘がガレット・デ・ロワを、父親がタルト・フランベの製法を伝授する…これがアルザス風のもてなしであったと記されています。この他に小学校の女性教師がタルト・アルザシエンヌ・オー・フレーズを、禿頭の中年工員がパティシエ顔負けの器用な手つきで桃のメレンゲタルトを、農家の女子高生(サングラスやファッションからパンクロックに傾倒していることがわかる)がアルザス風サヴァラン・オー・フレーズとルコントのガトー・フランボワーズそっくりのアントルメ(しかもショコラ版)を、引退した老パティシエがラングドッグ地方のヴィーナスの腕そっくりのビスキュイ・ルーレを作る等々…1970年代、このような形でアルザスの地方菓子が日本に伝えられていました」
クーゲルポップはアルザス地方の伝統的なお菓子。陶製の焼き型で作りますが、ご結婚以来40年以上も使い続けていらっしゃるので、素焼きの色にバターが染みて、何ともいえずいい色合いになっています。焼き上げてから6時間以上たたないと美味しくいただけないので、土曜日に焼いて、日曜日の朝食としてよく召し上がるそうです。アルザス特産の白ワインやコーヒーを添えて。
いちじくのクグロフ リリエンベルグ風
レストラン・プティ・ポワル・ル・ミュゼ
「このクグロフはウィーン風のケークですね。ビヤンド夫人のクグロフはアルザス風のイースト菓子なのでタイプが違うようです」
ビヤンド夫人のクグロフの作り方
1 30~35℃に温めた牛乳で生イーストを溶かしておく。ふるった粉(薄力粉と強力粉半々)の中に残りの材料(塩、グラニュー糖、全卵、牛乳、溶かした無塩バター)を順に加え混ぜる。
2 1のイーストを加え、べとつくようなら粉を足し、充分にこねてからキュラソーに一晩漬けたレーズンを加える。
3 布巾をかけて暖かい場所に置き、倍量に膨らんだらガス抜きし、バターを塗った型に入れる。
4 布巾をかけて暖かい場所に置き、型いっぱいに膨らんだら中温のオーブンて約1時間焼く。
最後に粉砂糖をふりかけて完成。
「ウィーンのデメルで修業した横溝春雄シェフのルセットで焼いた『イチジクのクグロフ リリエンベルグ風』はとても美味でした。ビヤンド夫人がクグロフを日本に伝えた1979年、横溝春雄シェフは新宿中村屋グロリエッテのシェフを務めていて、取材に訪れた三宅菊子さんにこう語っていました」
1979年当時の横溝春雄シェフ「30歳です。高校を出てすぐ神田のエスワイルさんに入りました。5年くらいかな?それから23の時チューリッヒのクランツラーカフェレストランに1年。次が西ベルリンのホテルケンピンスキー、ここは4ヶ月。
映画で『キャバレー』見ました?ロールスロイスに乗って出てくる男がいたでしょ。その男と初めて逢って食事するホテルがあるでしょ。あのホテルなんです。西ベルリンでは最高級です。
次がジュネーブ、それからパリに行こうと思ったけど、ウィーンのデーメル菓子店に入っちゃいました。願書出したら通っちゃって。全部の店で給料はもらいました。デーメルはもと王室御用達の店でね、外国人を採ったのは初めてなんです。ラッキーだったんだね。
あと、コバ、リッチモンドの製菓学校も行きました。コバは校長が小使いも兼ねてみんな一人でやってました。もう歳だし、今はやってないみたいですね。
デーメルに2年いて、そのとき中村屋の社長や専務がヨーロッパのお菓子を見学に来たのね。それで知り合って…帰ってきてすぐは渋谷のグリュースゴット。手伝いで8ヶ月、開店だったので。そして中村屋に来ました。
グローリエッテというのは、ウィーンのシェンブル宮殿、マリアテレサの住まいのある、その丘にモニュメントがあって、その辺りの名称なんです。ええ、その近くに住んでたんですよ。
シェンブル宮殿の近くに公園があって、リスやスズメが寄ってくる。レマン湖の近くにも住みましたけど、夕陽がきれいでねぇ…。
デーメルで典型的なウィーン菓子をやりました。ウィーンのケーキは大きいんです。フランス菓子って今流行ってるでしょ、洗練された感じがしますよね。ウィーンのお菓子は田舎くさいのね。上品じゃないです。大きくて、ドロくさくて、愛着持てるの。そういう向こうのスタイルそのままじゃ、日本人の口に合いませんけどね。
日本でウィーン菓子は新しい菓子って言われるけど、ほんとは古いお菓子なんです。100年も200年も伝統があるのに新しいって言われるでしょ。そこが面白いと思ってね。日本で紹介されてなかっただけなんですよ。
向こうにはトップヘンチーズというのがあるんだけど、日本ではそれをカッテージチーズ、クリームチーズ、サワーチーズで代用してます。ミルクの脂肪分も違う。だからヨーロッパの配合をそのままやったんでは不正確なのね。ある程度甘さを落としたり、僕のセンスでさっぱりしたお菓子に仕上げてるわけです。
中村屋さんではのびのびやってますが、やっぱり自分のお店持ちたいです。夢ですね。ここは1年契約の嘱託なんです。
ケーキは自分たちで作って自分たちで売るべきなんです。お店を持てば自分が愛着を持ってできるでしょ、それが理想的です」
1979年当時の三宅菊子さん「横溝春雄さんは実に楽しげに話すんだ。中村屋にグローリエッテのコーナーが出来て1年余り。ここではウィーン菓子に精通した横溝春雄シェフが横溝流にアレンジしたウィーン菓子を次々に作りあげています。『ここにあるお菓子は僕としては全部おいしいと思っています。僕好みに作っているので誰の口にも合うと思いませんが、少しでも種類を多く食べてもらって理解してもらいたいと思います』と語る横溝さんは洋菓子の原点はウィーンにあるという見解の持ち主。和菓子に似て流行に追われず伝統を守り続ける素朴で田舎っぽいウィーン菓子が横溝さんの心をとらえて離しません。材料の持ち味を殺さず、見た目にとらわれない、そんなお菓子をこれからも作りたいと抱負を語ってくれました」
「横溝春雄シェフは1977年から1988年まで『新宿中村屋グロリエッテ』のシェフを務めた後、1988年、新百合ヶ丘に『ウィーン菓子工房 リリエンベルグ』をオープンしました」
「茨城県近代美術館のストラスブール美術館展と連動した館内レストラン・プティ・ポワル・ル・ミュゼのアルザス特別メニューによって2012年のフランス革命記念日の第一幕が切って落とされました」
「1979年といえば、私は高校生で…新宿中村屋グロリエッテといえば、紀伊国屋書店に行った帰りに寄りましたよ。ザッハトルテもリンツァートルテもグロリエッテで初めて知ったのです。そういえば、店名を冠したグロリエッテというチョコレートケーキもありましたね(^-^)\」
「おおっ!? あれが『ストラスブール美術館展 モダンアートへの招待』のコラボイベントでMaison Wenikoが出店している『パティスリー・焼き菓子フェア』です!(^O^)\」
第2幕 パティスリー・焼き菓子フェアへ

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