石川緩和医療研究会 (石川県立中央病院)

医療者の勉強会に参加させていただきました。プログラムは看護婦さん達の日頃行っている医療の発表が主です。最後のシンポジウムに患者家族の立場の方と一緒にお話しさせていただきました。お忙しい仕事の合間にこのような勉強会を開かれることに頭が下がります。そして、患者の声に耳を傾けて下さる姿勢にも。

皆さん、始めまして、**と申します。ご縁があって皆さんにお目にかかれたことを嬉しく思っています。 私は今回、患者の立場ということで参加させていただきます。 乳がんの手術後、三年半程たちました。
今のところ元気に暮らしておりますが、再発の不安がすっかりない、と言う訳ではありません。 緩和医療に近いところにいるがん患者ということでお話しさせていただきます。

これは、原稿には無いのですが、今までの発表を聞いていて感じたことがあるので付け加えさせていただきます。今までの発表の流れで言いますと、私の場合「症例−1、NY氏 手術時40歳、左乳がん、胸筋温存乳房切除術、腋窩、鎖骨下リンパ節 郭清 、転移無し、ステ−ジI。 家族、夫、その両親、息子。性格 物静か
(笑い)、独立心旺盛」とかなんとかなるのでしょうが、とても違和感があるのです。 手術した後、あちこち走り回って、死の臨床研究会東京大会にも行きました。そこで、この、「症例 −−、事例−−」というのをずっと聞いていて、苛立ちと違和感を感じました。この違和感は何だろう、何だろうと気になっていたのですが、今日、聞いていてはっと気が付いたことがあります。 この、「この症例−−−」というのは、私が100としますと、ほんの10くらいでしかない。その、ほんの10くらいのことで、私の全体を云々しているように感じられる、その事に対する違和感だ、と気が付いたのです。

原稿に戻ります。
今日は患者として始めたことと、最後に医療者へのお願いを少しお話しするつもりです。 その前に私がどういう患者であったかお話しします。
私は乳がんという命にかかわり、その上身体的変化を伴う病気になるという、降って湧いたような衝撃から立ち直る為に、総てを知ろうとしました。何だか分からないのは怖いし、何だか分からずに死ぬのはいやだったのです。
退院後の最初の診察の時、主治医に「お化け屋敷は次に何が出るか分からないから怖い。勉強しますから、質問に答えて下さいますか」とお聞きしました。私は知りたい患者だということを分かって欲しかったのです。 とにかく、患者向けの本ではあきたらずに専門書まで読み漁りました。 どうしても、正体が見たくて病理標本まで見せていただきました。 以前、ある病院のタ−ミナル研究会でお話しさせていただいた時、「こういう患者をどう思われますか」とお聞きしたところ「かなり手強いけど、やりがいがあります」と言っていただきました。皆さんはどう思われますか。

本題に入ります。
この病気になってから考えたこと、始めたことを簡単にお話しいたします。入院中の自分の体験と、かなり病状の進んだがん患者さんとの出会いから、今の医療現場に疑問を持ちました。それは、現状では、患者の身体的な面だけで、精神的な面にほとんど目が向けられていない、ということでした。
がん、と言われて手術するまでは、とにかく今しなければならないことをこなすのに精一杯で、感情が無くなってしまったようでした。 抜糸の時、傷を見たのですが、その時のショックで一気に感情が戻ってきたといいますか、溢れてきまして、今振り返ってみるとその時から半年ぐらいは、軽い錯乱状態のようでした。日常は変化なく暮らしているのですが、その日常をこなしている自分が、まるでテレビの画面を見ているようにかけ離れて感じられるのです。これはとても苦しい体験でした。この苦しみを持っていく場所がどこにもありませんでした。 冷たい海の底に一人で沈んでいるような心持ちでした。 その苦しみから抜け出そうと右往左往し、乳がんの患者会で同じ体験をした人達と会い、又、やみくもに飛び込んだ場所で、心理職の人に会いました。
私の気持ちを分かってくれる、そっと心に添ってくれる人との出会いでした。そこで私は助けを得、立ち直るきっかけをつかみました。そして、傷ついた心を助けられるのは、人の心でしかないと知ったのです。心理職の方との出会いから、私も是非同じように苦しんでいる人の助けになりたいと勉強を始めました。この勉強は少しずつではありますが進んでいます。 到底無理かもしれないと思っていましたが、臨床心理士への道がかすかに見えてきました。

又、同時進行で今、患者としてできることをと考え、乳がん患者4人で今年1月にグル−プを作りました。自分達の経験を活かし、何かできることを探りたかったのです。
その中で実現したことが一つあります。
ある病院での、乳がん患者による、乳がん患者さんへの相談ボランティアです。
乳腺外来のある日に月2回、行っています。
私達が作ったチラシを外科外来の看護婦さんに渡しておいて、看護婦さんから見て、この人は少し不安定だな、と感じられる人に渡していただいています。チラシを読んだ人が皆来て下さる訳ではありませんから、患者さんが一人も来ない日もあります。
とにかく、指定の日には詰めていて私達は本気でこのボランティアをやるつもりだ、と分かっていただきたいと思っています。始めて半年ほどたちましたが、まだ試用期間だと思っています。
このボランティアが実現したのは話しを持って行った私が驚いたくらいで、病院側の好意に感謝の気持ちでいっぱいです。 この病院は私が手術した病院で、診察の度にドクタ−にも看護婦さんにも患者の想いを少しずつお話ししていました。ドクタ−は
「気持ちは分かるし、そういうことが患者さんに必要だということも認める、でも現実に余裕がないんだよ」とおっしゃっていました。話しはなかなか前に進みませんでした。
一気に現実的になったのは、カウンセリングの勉強に行っているところのクラスメ−トで、別の病院の看護部長さんがこの看護部に直接紹介して下さったからです。話しだけでも聞きましょうということで、看護部の応接室で看護部長さん、副部長さんに、いかに患者が不安であるか、そして同じ体験をしたものと話すことでその不安が軽減されることをお話ししました。 患者はありがとうございました、と言って退院し、診察室では変わりありません、と言うけれど、本当は聞きたいこと、訴えたいことが渦を巻いているものだ、とお話ししました。 苦しい思いをした者として後からくる患者さんのなんらかの助けになりたい、と訴えました。以前からお話ししていたことで、治療には口を挟まないという条件で乳腺のドクタ−のOKが出、外来の看護婦さんたちも、「あの人なら知っている」ということで、話しがとんとんと進んでいきました。
初めからこのようなボランティアをする希望を持っていたわけではありません。とても不思議なことが重なって、なるようにしてなったという感じがしています。まだ始ったばかりでどのようにしていけばより良いものになるのか分かりません。でも、看護部長さんに「良いものを一緒に作っていきましょう」と言っていただいたことに感謝しながら長く続けたいと思っています。

今までで、一番印象的だった若い患者さんのお話しをします。
彼女は恐る恐るという感じでドアを開け、「ちょっと様子を見たかっただけだから」とすぐに帰ろうとなさいました。そこをなんとか椅子に座っていただき、「何か不安なことはありませんか、なんでもお話し下さい」と言うと、ハンカチを握って、時々涙を拭きながら溢れるようにお話しを始めました。がんになったことを一年間、隠しているというのです。たくさんの思いを胸に秘めておつらかったのでしょう、二時間以上お話しされていきました。その帰り際に「又、何かあったらいつでも来て下さいね」と声をかけると彼女は振り返ってにこっと笑ってくれたのです。その笑顔がとても素敵で、始めに部屋に入っていらした時とは別人のようでした。彼女は術後こんなふうに笑っていなかったのでは、と感じました。その笑顔を見せてくれたことがとてもうれしく、このボランティアをやってよかったと思いました。やはり、こういう場所が病院には必要だと強く感じています。

最後にお願いです。このようにたくさんの医療者の方を前にして患者の想いを伝えたいことがあれこれあるのですが、今日はひとつだけにします。
生意気な物言いかもしれませんし、釈迦に説法になるのかもしれませんが、聞いて下さい。 それは、このお仕事に携わる方には、それぞれの、その方自身の「死」への哲学といいますか、認識といいますかそのようなものをしっかりと持っていただきたい、ということです。これは正解が一つではないと思います。その人なりの認識です。ここがふらふらしていますと患者は困ってしまいます。難しいことではありますが、私はこの点を突き詰めたことで、私自身が私として生きられるようになったと感じています。「死」を見つめなければならない立場に追い込まれたことで得るものがたくさんありました。その点でこのがんという病気に感謝しています。
なにもなければ「死」を見つめることは難しいと思います。でも皆さんは死に行く人々とかかわるお仕事をなさっています。その「死」を他人事ではなく、自分のこととして引き付けて考えるチャンスを日々与えられていると思うのです。私はこのことが総ての基本のような気がしています。

医療者の方達が日々努力なさっていることはよく存じております。できれば患者の声に耳を傾けながら、より良い医療現場を作って下さることをお願いしたいと思います。
好き勝手なことをお話しいたしましたが聞いてくださって、ありがとうございました。
以上です。

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