滋賀県立看護短期大学部 −看護概論−

    医療現場での実体験から、又「がん」と言う病気になって感じる「いのち」について、看護職に望むことなどをお話ししました。一時間と長い話だったので、要約だけ書き、最後にある患者さんの書いた文章を載せます。私一人だけで なく色々な考えを知って欲しかったからです。これは、同じ病気をした方達に頼んで書いていただいたものです。何人かに書いていただき、当日は全部読みましたが、御本人の了解を得てお一人の書いたものを載せます。
                          
私がまず分かって欲しかったのは、物事には必ず「感情」が伴っているということだ。脈をとるために患者の手首を持つとしよう、その時に看護婦(士)さんがどういう気持ちでその動作をしているか。その気持ちが動作にでてしまう。それを患者は敏感に感じる。極端な話、注射をする時ハリを刺す前に、はじめの一瞬で上手か下手か分かってしまうのだ。
私は注射針が入りにくいので、2度、3度と刺し直しになることが結構ある。4回の入院をへて、今では顔を見て、注射器を持ったふいんきで、一度で入れてくれるか、失敗する人か分かるようになった。それは、痛くないように細心の注意をはらってしてくれるか、ぞんざいに単に処置として考えているかの違いなのだと感じる。
患者は身体も心も弱っている。その分、神経がぴりぴりと張り詰めている。元気な時だったら、なんでもないようなことまで考えるし、感じてしまうのだ。反対になんでもないようなことで、涙がでるくらい嬉しかったりもする。医療現場でも、他の場所と同じく、それ以上に、その時の一瞬一瞬の人間対人間の感情を伴った真剣勝負なのだ、ということを忘れないで欲しいと願う。そして、看護職は弱った患者にとっては頼みの綱なのだから、どんなに患者たちが切実にあなたたちの優しさを求めているか、忘れないで欲しいと思う。あなたたちの微笑み一つで患者は暗くなったり、晴れ晴れとしたりするのだから。

心理学の勉強を始めた理由について話した時、忙しい看護職には精神的なケアまで求めてはいない、と話した。現実にこころの内を話せるような時間を看護職と持ったことはなかったからだ。忙しいのだから、なるべく手のかからない患者になろうとした。この点については、学生から異論が出た。そこで私は看護職がこころのケアを目指しているのだ、そいう教育をしているのだと始めて知った。したくてもできない現実なのであろう。 でもそう思っていることが患者に伝わっていないのでは無意味ではないだろうか。できることはあると思う。

いのちについて。この手の中から、さらさらと流れ落ちていく自分の命の時間の音が聞こえるようになった。死を実感して始めて見えてきたものがたくさんあり私はそのことについて感謝している。病気をする前にはまったく理解し難い感情なので若い健康な人にはいくら看護職として日々患者と向き合ってもその気持ちを理解できるとは思えない。又、分かろうとすると迷路にはまり込む気がする。分からないけど、分かろうとしていると患者に伝えて欲しい。近くに添って欲しい。それは、患者が孤独に打ち震えている時、見交わした目と目で感じ取れるものだと思う。その為に真剣に生きてたくさんの経験をして、相手のこころを想像できる人間になって欲しい。
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あちこちとんだ、聞いていて愉快ではない話を、きらきらする目で聞いてくれた看護職の卵たち、ありがとう。あなた達に期待しています。

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    ★ あるがん患者さんの気持ち
 
  −看護婦(士)さんの卵に患者として伝えたいこと・病気を体験して命について思ったこと−

 大学を卒業し、入社してすぐの24歳ぐらいの頃、仕事も充実し楽しい日々を過し「もういつ死んでもいいや」と思っていました。しかし、阪神大震災で被災して「死ぬかもしれない」と初めて「死」に対して恐怖を感じました。また、多くの犠牲者が出た震災で生き残った者として「いつ死んでもいい」などど2度と思ってはいけないと思いました。

 そして、あの地震の2年後に乳がんを宣告されました。 その後は、比較的予後のよい病気でもあったため、もしかしたら同級生よりちょっと早く死ぬかもしれない、ぐらいに思っていました。
 しかし、1年後に肝臓や骨に再発し、「死」は確実に近くなっていることを実感せざるを得なくなりました。 私が「いのち」について考えるようになったのは、それからです。
地震で一度拾った「いのち」、再び窮地に立たされた「いのち」、そして崖っぷちに立たされた「いのち」。私にとって今、現在の「いのち」はこのような過程を経て成り立っています。
 看護婦さんになる人たちにとっての「いのち」は、たくさんの意味を持っていると思います。
生まれ来る「いのち」、助けられる「いのち」、そして消え行く「いのち」。
私の「いのち」はいわば3つめの「いのち」です。
消え行くものをじっと待っていることは、想像以上につらいことです。私も健康だった時に、お年寄りが自分のお葬式のことを気にしたり、自分が死んだらどうのこうのと言うのを聞かされてうんざりしていた頃がありました。今では、お年寄りの気持ちも分かります。又、それ以上に悔しさもあります。
ある程度、人生のほとんどを生きてきたお年寄りに比べ、結婚も出産も子育てもしていないこの年齢で、消えゆくいのちを持たなければならないなんて、これほど悔しいことはありません。
 それで、精神的に安定していろと言われたり思われたりする方が頭にきます。

 肝臓の治療の為に何度か入院しました。多くの看護婦さんとも接してきました。病院には年配の患者さんが多く、若い患者は少ないです。自分のおばあちゃんのような同室の患者さんには「若いのに病気になんかなって、親に心配かけて結婚も出産もしない、なんて親不幸な娘だ」と、言葉にはされませんが、ほとんど犯罪者扱いです。
私のような若い年齢で消えゆく「いのち」をを見つめなければならない立場を分かって支えてくれることが可能なのは、病院では看護婦さんだけなのです。
それなのに、私に向かって平気で「若いから治りも早くていいわよねぇ。」などと発言される看護婦さんもいます。 病気は年齢ではありません。逆に若いからこそ残酷なこともあります。
そういう言葉を看護婦さんから聞くたびに、私たちを「患者」というひとくくりでしか見ていないのだろうと痛感します。病院では「患者」よいう大きなひとくくりの立場であっても個人個人では全く異なる世界を持った「人間」です。一人一人が、病気、病状、性格、年齢、家族関係、全て異なるものを背負っている「人間」なのです。 そして、一人一人が背負っている「いのち」もそれぞれ異なっているのだと思います。 若いから、すぐ治るから、寿命は当然長いなんて型にはめられるものではありません。
 私は若いけど治らないし、あとどれくらいもつかという「いのち」を持つ立場の人間です。
 「いのち」とは、無限の種類があるものだと思います。
それがいっぱい集まってくるところが病院であり、それぞれに対して適切に対処しなければならないのが看護婦さんのお仕事の一つであると思います。

 ちなみに、私のように若くして消えゆく「いのち」を持つ患者に対して、看護婦さんにはこんなふうに接して欲しいなぁと思うことを最後に。

・同年齢であるのに…と同情の目を向けて欲しくない。
・残り少ない「いのち」を最優先に考えたいという私の気持ちを理解して欲しい。
 (理不尽でない、出来る限りのワガママを相談しながら聞いて欲しい)
・80近いようなおばあちゃんと一緒にしないで欲しい。
・「大変ねぇ、という眼差しをむけるのでなく、「こんな面白い話もあるよ」と笑わせて欲しい。
・私が病院のベットの上で、一人でなにを考えてしまうかを想像できるように想像力をつけて欲しい。
・主治医の気づかない、精神的な浮き沈みを察して欲しい。(話を聞いてくれるだけでいい)

他にもたくさんありますが、看護婦さんにも限界があるでしょうから、これぐらいにしておきます。
とにかく、「いのち」とは患者さん一人一人が背負っているもので、それぞれが異なっているのだと思います。そんな「いのち」と、まともに向き合わなければならないことが看護婦さんのお仕事になるのでしょう。
 「この患者さんは、どんないのちを背負っているのだろう。この患者さんとは、どういうふうに「いのち」を共有していけばいいのだろう…」
そんなふうに考えながら、私達患者に接してくれたらいいなぁ…と期待してやみません。

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