★日本心理学会第64回 京都国際会議場
小講演「癌患者の不安とその克服をめぐって」
講演者:浜治代 司会者:糸魚川直祐 体験談: 菊井 中島
の中で患者としての今の想いを「がん-死から教えられたもの」と題してお話ししたときの原稿です中島と申します。本日ご縁があって皆様にお話しできることを大変うれしく思っております。
予稿集にありますように「再発の不安の克服」中でも「死から教えられたもの」についてお話しして、いたいと思います。
御紹介にもありましたように私も自らのがん体験から、患者のこころを切り離しているように見える医療現場への疑問をもち、なにかできることはないかと心理学、カウンセリングの勉強をしています。
4年前に乳がんを発症し、左乳房を全摘しました。命にかかわる病気を得たこととボディイメ−ジの急激な変化はそれまでの人生の問い直しを迫りました。まさにユングのいう「中年の危機」と否応なく対決せざるを得なかったのです。崩れ去ってしまったそれまでの指針を立て直す苦しい旅の始まりでした。
しかし、それまでついぞすることのなかった、全身全霊で問題に立ち向かうという日々の中でたくさん学びをいたしました。 知りたいと願うとたくさんのご縁ができて少しずつ、「生きること」への理解が深まっていったのです。 そして「死」を突き詰めることによって、わかってきたことがたくさんあります。
この一月余り首が痛く、とうとう骨転移の疑いで晴らす為、3日後に検査の予約が入っております。再発転移はいやですので、もちろん「シロ」の結果が出ることを望んではいますが、もし万が一ということがあっても、手術後すぐのように慌てふためくことはないと思います。今も不安におののいているということはありません。なぜ、そのような心境に至ったか簡単にお話しいたします。ある厳しい状態の同じ乳がん仲間がこう言ったことがあります。
「この先どうなるのかなって、好奇心あるのよ」と。 その時はそんな気持ちになれるのかな、負け惜しみじゃないのかなと思いました。 今はその時の彼女の気持ちが分かるように思います。
なぜ、その時分からなかったのか。私は自分の死を突き詰めることで分かったような気持になっていたということを愕然と知るご縁を得たからです。
その深いご縁の方は急性骨髄性白血病でこの7月に42歳で亡くなりました。
5月に個室の簡易クリ−ンル−ムになったベットの上にパソコンを置き、この日本心理学会のホ−ムペ−ジを立ち上げて「移植がうまくいっって治ったら、この学会に行こうと思う」とおっしゃっていました。ですから、きっとこの会場にいて聞いていて下さると思います。
それまでにも「死」には会ってきました。家族、知人、同じがん仲間。その度に悲しく、涙いたしました。
しかし、私はかけがいがなく大事に思い、なにがなんでもこの世に留めておきたい、失いたくない、悪魔と取り引きをしてでも、と思う人を亡くしたことがなかったと知ったのです。
そう思う人に「死なれること」を知らなければ、自らの「死」を突き詰めただけでは「死」の半分以上を知ったことにはならない、そのことを別れの苦しみの中で学びました。
医療現場で厳しい状態の人の側にいたいと願って勉強しておりましたが、生半可な想いしか持っていなかった私は「死なれること」を目の前にして混乱してしまいました。
その方は「今のあなたは支えになっていない」と怒りました。 「支えて下さいね」と言って下さったのに最後まで支えきることができませんでした。 その激しい悔いがまた、学びになりました。 自分の「死」を見つめてすっかり覗き込んだつもりになっていた、自分のこころの奥底を「なぜ」と問うことによってより深く見ることができたからです。その方とは4ヶ月弱の短いお付合いでしたが、「死にゆくこと」に伴走することを許していただきました。
すべて見せてくださったとも言えます。
私は患者として医療現場に疑問を持ちましたが、その方は医療者として疑問を持ち心理学の勉強をなさっていました。 同じ夢を語り、「その夢、共有します」と言ってくださいました。 ですから、病院の薄暗い個室での相対しての凝縮した会話は医療のこと、心理学のこと、生きること、死ぬこと、解決しなければならない自分の心理的問題について、でした。 ほとんどセッションだったといってもいいと思います。 二人の人間のたましいが触れ合い、ほとんど一体化してしまうような体験でした。カウンセリングの場でよくいう、投影、鏡、転移という言葉の意味を実体験いたしました。あとになって思えば、その方がご自分の持っているものを自らを材料にして手渡してくださったのだと感じています。
余りにもたくさんのものを手渡して下さったので、その重みによろけながらも、今、ここでお話しできるようにやっとなりました。 その方の「死」について、失う苦しみについて、突き詰めて考え、今、思います。
がんという病気は死へとつながります。死、もしくはそこへ至る過程が恐ろしく不安なのだと思います。ではその恐ろしい死とはなにか。 自分が死ぬときには分かるかなという期待はありますが、これ、という答えをだすことはまだできていません。 唯一分かることは、必ずいつか死ぬということです。 では、死ぬまでいかに生きるかということを、生きるからにはいかに良く生きるかということを問わずにはいられません。 その問いを問い続けて今はこう思います。今ここを、自分のこころの奥に素直に生き生き生きること、それでいいのだ、と。
逆説的に聞こえるかもしれませんが、そう思えたとき死はそれほど怖くなくなったのです。 今を生きることの繰り返しが生きることならば、明日なにがあるかを思い煩うことはありません。 今を生きればいいのですから。 そして、今あったことは、あったこととして永遠に消えてなくなることはありません。 その意味で亡くなった方との時間は永遠になったことになります。 こじつけに聞こえるかもしれませんが、これが、今の私の心境です。 そしてそう思えたとき、亡くなった方は私の胸の中に入り、共に生きています。死ぬそのときまで、今を生きればいいと思い至ったとき楽になり、再発の不安に捕われることも少なくなりました。今、生きてあることの喜びのほうが勝るからです。
この4年半の考えを短い時間で述べましたので論理の飛躍があり、分かりにくいところが多かったことをお詫びします。 苦しみの多い道でしたが、今の私を作るきっかけになった「がん」という病気に深く感謝しています。
そして、でき得ることならば学び続けて、厳しい状態の患者さんの近くにいて、死によってその方がその方らしく一番輝くときのお手伝いができればと望んでいます。ありがとうございました。