哲学もどき


そうはいっても大した話はありません。ちょっと真面目な独り言、といった感じでしょうか。
私は良く「変わってる」と言われるので、もしかしたらここに書く内容も他の人からみれば?なのかもしれません。……ちょっと不安。でも、世の中には色々な考え方をする人がいる、ということで、許してやってください。

その6:「信じること」について
「神様」って本当にいるのでしょうか?
多くの人は、「いない!」とは言い切れないでしょう。でも、だからといって何か特定の宗教を信仰しているわけではなくて、なんとなく運命や神様を信じてます。
だから頭から「神」の存在を否定するわけではないけれど、特定の宗教のように、「神様とはキリスト/仏陀/アラー/その他諸々です!」と言われるとちょっと引いてしまうのではないでしょうか。
ましてやそれが、わけのわからない信仰宗教の神で、見た目は何の変哲もない人が、「私は神の使いです。」だとか「私には特別な力があります。」なんて言えば、ほとんどの人が聞かなかったことにするでしょう。
そして、ほとんどの人が占いや超能力を見て嬉々とする一方で、ツボや印鑑を買えとか出家しろと言われても相手にしません。
なのにほんの一部・・・何故だか普通なら信じられないことを信じてしまう人がいます。
ツボや印鑑を買うならまだ本人の金銭的な被害だけだからましかもしれません。
でも、「集会」に頻繁に行ったり、山ほど寄付したりし始めると家族や親戚に亀裂が走るかもしれません。
だれかれ無しに入信を勧めて友達をなくして孤立する人、とうとう出家してしまって社会とすら断絶してしまう人、挙句の果てには、吸い込めば人が死ぬ薬をばらまいてみたり、親をミイラにしてみたり、我が子の遺体を切り刻んだりしてしまう人もいます。
この人達は、どうしようもないくらい他とかけはなれた人だったのでしょうか?
だから、「普通」の人々なら絶対にありえない行為をしてしまったのでしょうか?
多分、普通の人だったからこそ、色々な条件が重なってこうなってしまったということだと思うのです。
言いかえれば、「普通」である限り、この人達と同じ運命を辿らないとも限りません。
では一体どうして、「普通」の人が「宗教」によって「異常」な行動を起こしてしまうのでしょう?

そもそも、宗教だけが人に異常な行動を引き起こさせるわけではありません。
「犯罪」として成立するか否かは人為的なものですが、「犯罪」ではない以上行動だって山ほどあるかもしれません。
一番世俗的な例を挙げてみましょう。
「レオ様かっこいい〜!!」
「キムタクかっこいい〜!!」
・・・あいつら、かっこいいか・・・百歩譲ってかっこいいとして、そんな黄色い声上げて殺到しなきゃいけないほどのものか?
「何言ってるの!誰が見たってかっこいいでしょ!あの方のかっこ良さが分からない人こそ、おかしいの!」
・・・・似てますよね〜
妙な信仰宗教の教祖を批判したら、きっと信者さんは似たようなことを言うでしょう。
「なんですって!教祖様のお言葉が理解できないなんて、あなたは天国へはいけないわ!」
まあ、一方は「しょうがないな〜世の女共は・・・。」と苦笑されて済むことで、もう片方は「こんなこと言う人は危ない・・・。」と思われる行為ですが・・・。
根は一緒だと思うのです。根は一緒なのに、どうして宗教だと危なくなってしまうのか。
危ないのは宗教だけじゃない、ってことでしょうか?
でも、私は逆だと思います。
世の中、「これは正しい。だからこれを理解できない人はおかしい。」という思い込みで成り立っています。それがなければ、人は生きていけないからです。
考えて見てください。ひとつも何が正しいか分からない人間なんていないですよね?
大きいものなら、「自分は夢に向かってる。」との自信があるから夢に向かって生きていけるわけだし、「この番組はおもしろい。」と思ってるから、翌日友達と会話できるわけだし、逆に「そんな番組つまらない。(おもしろいと思ってる人はおかしい)」と思うから、会話に入れなくたって生活できるわけだし。
「みんなが見てるものは面白くなくてもみなくちゃ!(って考えが正しい)」と思っていれば、やっぱりそれはそれで生活していけます。
趣味でも服装でも食べ物でも生活の仕方でも・・・なんでも、「人に追従する」という行為ですら、「追従すれば生きていける」との自分の考えが根底にあるのだと思います。
自分の考えと違う人は、「人それぞれ」と無視する人もいるし、「そういう考えもいいな。」と受け入れる人もいるし、「間違ってる!」と一刀両断する人もいる・・・要は、本当にひとぞれぞれだということです。
そして、小さなことから大きなことまで、全て「信じること」から成り立っていると思うのです。
そんな自分の考えを、些細であっても信じること・・・。
この「信じること」は、誰かが自分の考えを認めてくれたり、考えどおりに行動してうまくいった場合、さらに増幅されます。
逆に、自分の考えを否定されたり、うまくいかなかった場合、二通りの行動に出ます。
1.これは間違ってたのかな・・・と別の考えを探す
2.間違ってるはずはないはずはない!と自分の考えに固執する
これも、とそれぞれな上に、問題によりけりです。
先ほど例に挙げたテレビ番組なんかでは、「こんな番組おもしろくない!」と思ってても、それでいつまでも仲間に入れないのであれば、妥協するのは簡単です。(もちろん簡単じゃない人もいるだろうけど。)
でも、どうしてもやりたいことがあるのに親に猛反対された上、「お前にできるわけない!」なんて言われれば、「絶対に夢をかなえてやる!」って夢に固執する場合が多いです。(もちろん、やめよう!って思う人もいる)
どちらの行動が正しいとかではなく、人間とは、そういう風に行動しながら生活しているのだと思うのです。

で、宗教。
報道で、問題のある宗教の信者さんの集会を中継してることがあります。
で、信者さん達は、報道陣を悪魔か何かのように半狂乱になって追い返してみたり、逆に、「あなたたちには分からないのよ。」と落ち着き払って笑っていたりします。
これは、行動2の、「間違ってるはずはないはずはない!と自分の考えに固執する」でしょう。
どうして行動2が多いのでしょう?
「私の信仰は間違ってたのかもしれない。」「ちょっと宗教を離れてみよう。」
と思わないのは何故なのでしょう?
集団洗脳だ、という人もいます。
確かに、世間でなんと言われようと、信者ばかりが集まっていれば「信じる力」が増幅されます。
だから、信じるのは当たり前のことで、それに疑問を唱える方がおかしいと思っても仕方ないのかもしれません。
でも、思うことがあります。
これって、防衛本能じゃないのか?って。

防衛本能・・・無意識に自分を守ろうとすることです。(辞書を引いたわけじゃないけど、まあいいよね^^;)
この考えを失えば、自分の居場所はなくなる・・・。
信者の人は、そう思っているように見えてなりません。
宗教じゃなくても、ものすごく落ち込んでたり、どうしていいか分からない時に聞いたアドバイスは、とても正しいことのように思いやすいです。
そのアドバイスに疑問を持てば、もうどうすることもできないですから。
同じように、その宗教団体が世間でどんなに非難されようとも、疑問を持てば行き場はなくなる・・・。
放っておけば父親は死ぬから、人にミイラだと言われても父は生きてる!という考え方を捨てることが出来ない・・・。
現実を受け入れれば子供は死んでしまったことになるから、たとえ切り刻んでも「生き返りの儀式」だという考えを捨てるわけにはいかない・・・。
固執する以外に道はなくて、または、道はないと思い込んでしまって、洗脳なんて関係無しに自分で自分を信じる方へと追い込んでいったりします。
それが「犯罪」にかかわる分野だから、騒がれるけれど、犯罪にはならない分野なら、もっとたくさんあるかもしれません。
そういえばストーカーもそうですよね。(もう犯罪になったけど。)
本当は好きでもなんでもなくても、「この人がいなきゃ生きていけない!」と思い込むことによって、自分の生きる意味を作り上げて見たり・・・・・・。

その方が楽だな、って思うことは多々あります。
そこまで極端じゃなくたって、たとえば「家族がいるから頑張れる」のような「○○のためにがんばる!」というのも、「神の名のもとに!」という考えと根は同じなような気がします。
なにか規則(=経典)があれば楽だな〜と思うこともあるし・・・。

宗教について語ってるんだかなんなんだか分かりませんが、結局宗教って、もともとは「何かを信じたい」という気持ちから自然に生まれたものだと思うし、それを故意に作ったのが信仰宗教。
どんなに信じられない行動があっても、それは特別なことではなくて、誰にでもあり得ることなんじゃないかなーと思ったのです。
それに、それを特別視して、「あの人達は普通じゃない」って拒否していると、やっぱり固執するしかなくなって追い込むだけ・・・。
宗教だけじゃないです。普通の事件だって「殺すしかない」「盗むしかない」という考えに固執して起こることが多いし、日常の人間関係だって、「この人はこういう人間だ!」「私はこうなんだ!」って思い込むことでうまく行かなかったり、誰かに迷惑をかけたりしているかもしれません。
もちろん、固執から努力が生まれて、いい結果になることもあるんですけどね。

結論:「信じることは諸刃の剣」
・・・・・・ってことでしょうかね〜



哲学もどき1〜5

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