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勝手にヨイショ ★ 紹介しまっせ
↓ ↓
広告批評 2007年1月号より
「ああでもなくこうでもなく」
111 by橋本
治
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402
なんかへんだ
403 教育の混乱
404 学校教育が不要なはずはない
はずだが
405 教育が「方向」を失っても、
社会が「方向」を失ったわ
けではない
406 誰が「いじめ」の対象に
なるのか?
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面白かったので、紹介しまっせ。ヒマ〜な時にぜひ読んでネ。
いつもの丸写しで〜す。
言っとくけど、キャンペーンでもムーブメントでもありましぇ〜ん。
単なるエンターテインメントです。安心してネ。 2006.12.31.
……わい大晦日に何やってんやろ? アホやなァ。 ま、とりあえず、
謹 賀 新 年 2007.1.1. (^ ^;
『広告批評』 2007年1月号より
「ああでもなくこうでもなく」111 by橋本
治
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「子供のいじめ自殺問題」で、政府の教育再
生会議にスポットが当たって、「加害者になっ
た子供は教室から出せ」という意見が出され
はしたが、採用はされなかった。そういう経過
を聞いて、私が「なんかへんだな?」と思うの
は、「加害者になった子供を教室から出す」と
いう処置がいいか悪いかということではない。
「いじめの加害者になった子供を、他の生徒達
が授業を受けている教室から出して、別に指
導をする」というのは、一つの策だと思う。だ
から、それをするかしないかは、現場教師の判
断によるものだと思う。総理大臣が招集した
教育再生会議というのは諮問機関で、それが
そのまま文部科学省の政策に反映されるわけ
ではない――しかし、反映されるかもしれな
い。そこら辺は微妙なところではあるだろう
けれど、仮に「加害者になった子供は教室から
出せ」という案が採用されて、文部科学省か
ら、「加害者になった子供は教室から出して別
扱いをしなさい」という通達指令が来たら、ど
うなるんだろうか? 「決まったことだから」
といって、「いじめの加害者」とされた子供は、
一律に「教室から出なさい」という処置を受け
るんだろうか? そういうことを考えて、私
は「なんかへんだな」と思うのである。
子供がいじめの加害者になるというのは、そ
の子自身がなんらかの「問題」を抱えていると
いうことで、加害者の特定が起こったら、必要
なのは「まず隔離」というペナルティではなく
て、「なぜそんなことをやったんだ?」に始ま
るカウンセリングじゃないかと思う。それを
抜きで、「君はその教室に来ちゃいけない」を
やったら、加害者の子供の中にある「問題」を
よりややこしくさせるだけだろう。既に不幸
であり、そのことによって「加害者」になって
しまっている子供は、より不幸になる――その
可能性は大である。「だから、そんな処置はや
めろ」と言っているのではなくて、「ケースバ
イケースなんだから、現場の判断に任せるべ
きだ」と言っているだけなのだが、そうなって
やっと、「なんかへんだな」の本論になる。そ
の「判断を委ねられる」の側の現場に問題が
あるからだ。
「現場に任せろ」と言っても、現場がその判
断をしなかったらどうなるのか?――という大
問題がある。「子供のいじめによる自殺」が大
問題にになる一方で、学校側や教育委員会によ
る「いじめがあったという事実の隠蔽」や、自
殺した子供が遺書で「いじめ被害の事実」を訴
えているにもかかわらず、「いじめとその子の
自殺の間の因果関係は不明」とか、「それは本
当に”遺書”なのか」といったような言い逃
れという、大問題がある。「いじめの事実」を
認める気のない人達に、「いじめの加害者にな
った子供は教室から出せ」なんていう通達が
下ったら、今度は「出せと言われたから出し
た」という、教育する側による排除が、当たり
前に起こってしまう。
そういう無責任な教育現場の担当者のあり
方を放置しておいて、「いじめ対策」もないと
思うのだが、じゃ「その無責任な教育現場の担
当者をどうするのか?」というところで、「上
からの指導の必要」が生まれて、「有識者によ
る諮問機関の招集」も必要になるんだろう―
―がしかし、「無責任な現場」にいくら「有効
な施策」を上から押しつけても、それは「有効」
にはならないだろう。だからと言って、「そ
んな意味のあるのかないのか分からない諮問
機関の設置なんかやめてしまえ」と言う気は
ない。この日本には明らかに「上からの声」が
有効な現場があって、「それをしてどうなるの
かは一向に分からない」という状況のまま、「上
からの声」が出され続けるという現実も、また
ある。だから、総理大臣招集による「官邸主
導」の教育再生会議に対して、「文部科学大臣
が招集する別の諮問会議」を考える動きもあ
るんだそうな。
ホントかどうかは知らないが、「上からの声
は有効だ」と思われているからこそ、こんな主
導権争いだって、起こりかねない。そういう現
状は歴然とあるだろう。文部科学大臣が、文部
科学省の施策のために、自分で諮問機関を招
集して悪いわけでもないし、内閣総理大臣の
主宰する教育再生会議に、当の文部科学大臣
が出席しないわけにはいかない。出席すれば、
文部科学大臣は、内閣総理大臣が主宰した会
議の「上からの声」を了承する立場になるが、
自分が主宰者になる「文部科学省が招集した
諮問機関」なら、自分自身がその「上からの
声」を出す当事者になれる。文部科学省の役人
が、自分達のトップである文部科学大臣に対
して、「官邸主導の言いなりはおかしい。我々
は教育の当事者なのだから、我々のことは自
分で考えるべきだ」と言えば、また一つ別の諮
問機関が出来ることにもなる――そうやって、
文部科学省は、教育現場に対する「上からの声」
を、自分のものとすることも出来る。
別に、まだそういう主導権争いが露骨にな
ったわけではないけれども、総理大臣が文部
科学省に任せず、自身で「教育再生会議を招集
する」なんてことをやったこと自体が、「文部
科学省の役人には任せておけない」というこ
となのだから、どうなるかは分からない。
私が「なんかへんだな」と思うのは、「現場
がおかしい」ということを素っ飛ばして、「教
育はどうあってしかるべきか」の議論が、現場
を管轄する所から離れた場所で起こっている、
そこのところにある。「だから、そういうこと
やって、現場はちゃんと動くのか?」という疑
問は残る。別に、役人や「上からの声」に弱い
人達の主導権争いなんかは、どうでもいいこ
とではあるけれど。
私は、学校教育というものが、今未曾有の大
混乱にさらされていると思う。「いじめ問題」
は、それに付随する現象の一つで、「いじめ問
題が深刻化したから、学校教育は大混乱」とは
考えない。それは、原因と結果を逆転させたも
のだと思う。
私が「学校教育は大混乱」と思うのは、かつ
て学校教育が持っていた「方向」というものを
失ってしまった現状があるからだ。
明治の近代になって学校教育という制度が
出来上がる。この時の学校教育の持っていた
「方向」ははっきりしている。「近代化」であ
る。「日本は近代化されなければならない。学
校教育は、近代国家日本を支えるための人材
を生み出すために存在する」という、方向だけ
ははっきりしている。「近代化に必要な人材育
成=教育」という方向だけははっきりしてい
て、「日本に必要な近代化とは、いかなる内実
を備えているべきか」という、「近代化」に関
する解釈だけが違う。一方で、「近代化とは西
洋化である」という単純明快な受け取り方が
あって、「西洋風の近代化だけでは”日本の近
代化”とは言えない」というくぐりも、一方
ではある。だから、自由主義教育から軍国主義
教育まで、「戦前」と言われる時代の「近代化」
には、解釈の幅がある。そして、軍国主義日本
が敗れて「戦後」という時代がやって来て、「近
代化」は「すなわち民主化である」と解釈され
るようになる。この「民主化」だって、「本場
アメリカのように」から、「ここは日本だから
少し違って」までの幅がある。幅があっても、
「それは民主化である」を根本解釈とするよう
な「近代化」という方向は揺るがない。その揺
るがない「方向」にのっとって、学校教育は存
在していたが、ここに「じゃ、その”近代化”
とか”近代化の必要”ってのは、どういうこ
となの?」という問いに対する答は、ない。な
んでないのかと言えば、「近代化」は疑われる
必要のない方向で、まだその「近代化」が達成
されていない以上、「近代化は必要だ」と考え
られ続けていたからである。
「近代化」という方向はある。そして、その
「方向」が一つに偏らないように、「こちらもま
た近代化の一方向である」という解釈の幅は
残されていた。なぜ「幅」が残されていたのか
と言えば、「近代化がまだ達成されていなかっ
たから」である。だから、「そういう可能性も
ありかな」という、試行錯誤の自由もあった。
つまり、「近代化はまだ完全に達成されていな
い」と思われる段階では、「色々な要素を込み
にして、しかし、”近代化”という方向だけは
揺るぎなくあった」である。もちろん、ここで
一番重要なのは、「近代化の必要」なんかでは
なく、ただ「方向がある」という、そのことで
ある。日本人がそんなめんどくさい考え方をし
ていたかどうかは知らないけれど。
日本人は「方向」というものを、もっと具
体的に考える。だから、戦後の日本人が学校教
育に見出した方向は「上級学校への進学」とい
う、いたって分かりやすく具体的なものだっ
た。「近代化」という方向は、学校教育の頂点
に位置する「大学」というところが考えていて
くれる、決めていてくれる――そのように捉え
れば、「大学へ行く」を教育の目的にして、そ
れで「近代化」という根本の必要は満足させら
れることになる。
もちろん、普通の日本人は、こんなめんどく
さいことも考えない。「大学に行く」や「大学
出の資格をを得る」に、なんらかの意味を見出し
たからこそ、「大学へ行く――行けるようにな
る、行けるようにする」を、学校教育の「方向」
にしたのだ。「近代化の達成」などという、具
体的によく分からない難しいことを、「大学に
行く」という具体的な策に置き換えた――そう
することによって、日本の学校教育は、ある時
期まで明確な「方向」を持ちえていたのである。
学校教育で、「方向を有する」ということは、
「カリキュラムが組める」ということである。
「方向」があれば、カリキュラムは組める。な
ければ、組めない――簡単な話である。
カリキュラムというのは、「どういう方向で
育成するか」という前提に立って組まれるも
のなのだから、「方向」がなければ、カリキュラ
ムは組めないのである。明治の近代になっ
て学校教育という制度が始まり、これはある
時期まで、明確に「方向」を持っていた――だ
から、カリキュラムを組むことが出来た。その
カリキュラムを消化することが「教育」と信じ
られていた。ところが、ある時期になって、そ
の「方向」がなくなったのだ。だから、カリキ
ュラムが組めなくなった。組んだとして、その
信憑性がなくなって来た。教育の大混乱は、こ
こから始まるのだ。
「どうすればいいか?」と考えて、もっと困
ったことになる。日本に「学校教育」という制
度が始まって以来、「育成の方向が見えない」な
どという事態はなかったからである。「前例が
ない。だから、どうしていいか分からない」―
―日本の教育の大混乱はここに由来している。
日本の学校教育がいつ「方向」をなくした
か、あるいは、なぜ「方向」をなくしたかを言
ってもしようがないような気がする。「方向を
なくした」という考え方をしないだけで、「日
本の学校教育はもう方向を失っている」と言
われれば、多くの人は「あ、そうだ」と納得す
るはずだからである。違いは、「自分の時には
まだ方向があったが、今はもうない」か、「自
分の時にはもうなかった」の、それだけだろ
う。「大学へ行け」ということをうるさく言わ
れなくなると、日本の教育は「方向」をなくし
てしまうのである――どういうわけか、そうい
う仕組になっていたのである。
しかし、日本人はあまり深刻に考えなかっ
た。「方向をなくしたからカリキュラムが組め
ない」という考え方はせずに、「方向がなくて
もカリキュラムは組める。方向がないんだか
ら、カリキュラムもゆったりテキトーに組め
る」とだけ考えた。だから、「方向を失った」と
いう理解が出来ないでいるだけなのだ。
「詰め込み教育の弊害」が言われると、カリ
キュラムがゆるくなる。そして、週休二日の
「ゆとり教育」というところに至る。それで、
「上級学校へ進学する」という、いつの間にか
日本の学校教育の基本的な「方向」が危うくな
りかけたら、「上級学校へ行くための試験」と
いうハードルを低くする――そのようにして日
本の学校教育は、なにかを回避して来たのだ。
でも、「詰め込み教育」は本当によくないん
だろうか?
初等教育とか中等教育ってものは、「基礎」
を備えるためのものだから、多かれ少なかれ
「詰め込み性」は回避出来ないもんだと思うが
なァ。「基礎を蓄える」になったら、「いつかい
るんだから、グズグズ言わずに詰め込んどけ」
になるのもしようがないどろうと思うがな
ァ。「そう言われても、こっちのキャパには限
界あるからなァ」と、子供の方が聞き流す――
それが「当たり前のこと」として容認されてい
りゃ、教育が「詰め込み」であっても、かまわ
ないようなもんだと思うんだがなァ。
実のところ私は、学校教育というのがなん
なのか、よく分かんなかった。話すと長くなる
からやめるけど、大学の専門課程に行って、試
験というものが、教官がやって来て黒板に「○
○について論ぜよ」とかを書いて、「ただそれ
を論じていればいい」になった段階で、「え、大
学の試験て、こんなに楽なの?」と思ってしま
った人間だから。
それまで「試験」というと、テストを出す側
が「正解」を握っていて、それに合致しないと
×というものだった。知らなきゃおしまいだ
し、「そんなの知らないよ」で生きて来た私は、
「知らないこと」を訊かれても、ただ「知らな
い」。ところが、「○○について論ぜよ」になる
と、「正解を自分で作っていい」になる。「知っ
てるか、知ってないか」という、クイズの問題
じゃないから、「知らなくても大丈夫」である。
「すげェ!試験勉強しなくていいんだ! あ
あ、楽だ!」と思った。
そういう状態に行き着いて、「じゃ、今まで
の学校の勉強ってなんだったんだ?大学に
行くと試験がこういうものになるなんてこと、
誰も教えてくんなかったぞ」と思った。私は知
的家庭に育ったわけではなく、「テスト見せて
ごらん!間違えてるじゃないか !! 」と母親
に引っ叩かれるだけの育ち方しかしてなくて、
「勉強というものが最終的に”自分で正解を作
っていい”になるんだったら、あんな怒鳴ら
れ方しなくてもよかったんじゃないか」と思
った。いつの間にか学校へ行くこと自体は嫌
いじゃなくなったが、学校の勉強そのものが、
へんに身にしみなかった。なにしろ私は「作
文」というものが大っ嫌いで、一時間の間に四
百字詰めの原稿用紙一枚を埋めることすら出
来なかった子なので、後を振り返ると、「あり
ゃなんだったんだ!」だらけなのである。「自
分と、学校教育を成り立たせるものの間に、根
本的な壁ってあるんだよなァ、あったんだよ
なァ」が、私の率直な実感で、これを野放しに
すると、「日本の学校教育に意味はない」とい
うところに簡単に行ってしまうのだが、私は
そうそうバカではないので、「やっぱり基礎学
習がないと”自分で正解を作る”も出来にく
いな」とは思ったが、これでもまだ私の「率直
な気持ち」からすれば、ウソである。私にとっ
ての「学校教育の必要」というのは、「自分と
は異質なものの存在を知っとかないと、自分
というものがいい加減なまんまのグッチャグ
ッチャになるからな」である。これは結構重要
なことだとも思うのだが、この「本音」から
「学校教育の必要」を説くと、「自分に関係ない
もんでも、いつか引っくり返って必要になる
こともあるから、我慢してなさい」にしかなら
ない。こんな引っくり返った「学校教育のすす
め」もないから、私は学校教育のあり方に口出
しをしたくはないのである。
口出しはしないが、はっきりしていること
ははっきりしている。「基礎学習力は必要だ」
である。その「修得」がおもしろくなかった
ら、ただ「我慢する」しかない。子供が学校に
行って「我慢する」なんてことを持続させるに
はどうしたらいいか、ということになったら、
「勉強以外に楽しいことを探すと我慢も、まァ、
出来るよ」以外にない。大昔の勉強というもの
はそういうもんだったと思うのだが、きっと、
今はこんなことを言ってもしようがないのだ
ろう。
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405
教育が「方向」を失っても、
社会が「方向」を失ったわけではない .
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「日本の学校教育は方向を失って大混乱」と
言うと、必ず、「日本の社会も方向を失ってい
るから、教育の混乱もその社会の反映だ」と考
える人は出て来るが、そんなのはウソである。
日本の学校教育が「方向」を失っていたって、
別に日本の社会は「方向」を失ってはいないの
だ。なにしろ、「食って行かなきゃいけない」
という「方向」はある。
たとえばの話、「大学に行ったからどうって
ことはない。大学を出たといってもどうって
ことはない」というのは、当たり前にある。そ
れは、十年も二十年も三十年も前から当たり
前にある。しかし、「大学を出ても正社員の地
位は約束されていない」という状況は、かつて
あまりなかった――それは、就職口があまり
ない「昔の女子大学生限定」のような状況だっ
た。「企業の負担が楽だ」という理由で契約社
員が増えて、「大学を出ても正社員になれると
は限らないのだから、大学出の身分保証はな
い――今、一時的に景気がよくて、就職口は
”ある”という人が増えてはいても、企業が
”正社員じゃない者を使うと楽だ”という手
法を覚えてしまった以上、いつどういう引っ
くり返り方をするかは分からない」という状
況になってしまっている――これにどう対処す
るのか? という考え方も必要になっている。
ということはつまり、社会には、社会なりの
「生き残りを考えるための方向」が、まだれっ
きとして存在しているのだ。社会が「バブル漬
け」で「遊んでてもいいんだよ」だった時期な
ら、「社会は方向をなくした」になるが、「生き
残りを考える」が絶対の必要条件になってい
る以上、社会には「方向」があるのだ。日本の
学校教育が「方向」を失ってしまってそのまま
になっているということは、学校教育という
所が「食って行かなきゃいけない」とは無縁の
所に存在してしまっているからである。
だから、どこかから「学校教育と”食って行
ける”をドッキングさせる必要がある」とい
う声は生まれる。そうなった時、その声の要請
するものは、一つである――つまり、相変わら
ずの「進学の達成」。
日本の学校教育に、相変わらずの「上級学校
への進学」という方向を求める人達は、学校に
頼らず、塾に頼る。
その声が強くなってしまったら、学校教育
の存在理由はなくなる――だから、学校は進学
塾化せざるをえなくなる。その結果「履修単位
の不足」という問題を派生させる。そして、こ
のことは「所詮学校教育内部の問題」でしかな
いというのは、学校教育に「進学」という方向
を相変わらず見ようとする人達がいようとい
まいと、大学と社会は、かつてほど連結してい
ないのだ。社会の持っている「方向」は、学校
教育に「進学」という単純な方向性を発見して
すませている人達のそれとは、大きく違って
いるのだ。早い話、大学も含めた学校教育は、
「社会との接点」を見失って、自己完結して煮
えたぎっているだけなのだ。だから、おかしな
ことになる。
よく考えてみればいい。親は「教育」に期待
をするが、その当事者である子供は、そもそも
「教育」にピンとこないものなのだ。その理由
は、そもそも、基礎学力を養うために存在する
学校教育というものが、「なんで勉強なんかす
るんだろう?」と思う子供に、忍耐を要求する
ものだからである。つまり、子供というもの
は、スキを見つければ素早く、その「いやなも
の」から逃げ出そうとするものだ、ということ
である。
「いじめの頻発」ばかりが伝えられて、「どう
すればいいのか?」も言われるけれど、「どう
いう子がいじめの対象になるのか?」という
リサーチが行われたという話もあまり聞かな
い。「弱い子だからいじめの対象になる」とも
言えないはずで、「こないだまで明るくリーダ
ーシップを発揮していたような子が、一転し
ていじめの対象になる」ということもあれば、
「こないだまでいじめの加害者側にいた子が、
一転していじめの対象になる」ということも
ある。だから、「誰がいじめの対象になるか分
からない」ということにもなるが、そうなんだ
ろうか?
「一体、自分はどんな人間がいやで、もし機
会があって許されるのなら、どんな人間をい
じめてみたいか?」を、胸に手を当てて考えて
みれば、その答は、薄ぼんやりとでも、見えて
来るだろうと思う。
それは、「自分とは異質の価値観を持ってい
て、しかもそれが確固としているように見え
る人間」であるはずである。
たとえば、「うざい、キモい」と言われてい
じめの対象になって排除されてしまう人間は、
おそらく「自分がなんでそんなことを言われ
なければならないのか」を、理解出来ない。理
解出来ないのは、「うざい、キモい」と言って
排除する側の人間が、相手を「自分とは異質の
価値観に拠っている人物」と見なすからだ。私
は、「うざい」という言葉を、「自分とは異質の
価値観を持つ人間が、意識的無意識的に影響
力を行使しようとしていると考えて、そのこ
とに不快感を感じる」ということを表す言葉
だと思っている。そう考えると、「うざい」と
言われる人間は、「お前は異質で目ざわりだか
ら近くに寄って来るな」と言われていること
になる。これを嗅覚の言葉で捉えれば「くさ
い」になる。だから、「近くに寄って来るな」で
ある。言われる方にそのつもりがなくとも、言
う方は、「あいつは異質だ」と思っている。し
かも、「その異質を自覚もせず、平気でまき散
らして影響を行使しようとしている」と考え
てしまう。
別に言われる方は、自分を「異質」とも思わ
ず、「自分が自然にあるがまま」にしていても、
それを「自分達とは違う異質だ」と断定してし
まう側にとっては違う。それは、「いるだけで
異質をバラまいている人間」ということになる
――それがつまり「キモい=気持ち悪い」であ
る。「気持ち悪い」が「キモい」に短縮されて
しまっているというのは結構重要なことで、
「簡単に口に出来るように短縮されてしまった
言葉」は、「深く考えずに発することが出来る
言葉」なのである。
「そんな言葉を使うな!」は、実は、「もっと
深く考えて言え!」という一面を持っている
のだが、その制止がなければ、深い考えがない
まま、一瞬の間で、「あいつは異質な価値観を
持つ異分子だ=うざい」という断定が可能に
なってしまう。そして、一度そのように断定さ
れてしまった人間は、もう許してはもらえな
くなる。
一度「異質だ」と断定されてしまった人間
が、「自分のどこが悪いの?」と言っても、断
定してしまった人間は聞き入れてくれない。
「ウソくさい」「白々しい」と、余計に嫌悪の感
情を掻き立てるだけである。それも当然で、一
方的に「異質だ」と断定されてしまった人間に
は、「自分は異質である」と思う理由がないか
らだ。だから、「どこがいけないの? どこが
悪いの?」と訊く。「異質だ」と断定してしまっ
た側にとって、それは「あいつは、自分の異質
を”異質”として認めていない」ということ
になるから、「ウソくさい、白々しい、うざい、
キモい」になる。しかし、そんなこと言われた
って、一方的に断定された根拠のない「異質」
を、言われた方は受け入れるわけにいかない
――受け入れようとしたって、受け入れられな
い。だからこそ、その「いじめ」は続く。
いじめられる側が全面的に降伏しないと、い
じめる側は引き下がらない。そして、いじめる
側が「あいつは全面降伏した」と認める時は、
いじめられる側が自分の主体を放棄して、「私
は異質なものです」という、根拠のない謝罪を
した時なのだ。もちろん、そんな根拠のない謝
罪は起こりえない。だから、それが起こらない
間は、ずっと「自分の異質性を認めない頑固
さ」を攻撃され続けることになる。つまり、い
じめに遭う側は、常になんらかの「確固」を抱
えている――はたからそのように認定されて
いるということになる。つまり、「自分の価値
観」を持っていると、いじめの対象になる可能
性は高い。いじめの加害者になる側は、「お前
は我々の価値観とは違う」という所で、被害者
に向き合い、牙を剥くからだ。
「自分の価値観」を、自分でも意識しないま
まに持っていると、いじめの対象になる――私
は現在のいじめの構造をこういうものだと思
っているのだが、なぜこういうことが起こる
のか?
「方向」という明確なものを有しているはず
の教育の場に、それがなくなってしまったか
らだろうと思う。「いじめ問題」が顕在化した
のは、日本に「豊かさ」が行き渡った1980
年頃からで、「方向」をなくした教育は、複数
の価値観をそこに混在させ、混乱を惹き起こ
した。「先生の考えに従うやつ」と「先生の考
えに従おうとするやつ」の間には、微妙なギャ
ップがある。「先生の考えに従えないやつ」も
いれば、「先生の考えに従わないやつ」も「先
生の考えを無視するやつ」もいる。これがそれ
ぞれの価値観として乱立併存してしまったら、
百家争鳴の戦国時代になる。なってしまった
んだろうと、私は思っているのだけれど。
この「乱れた天下」を統一するのは、国家で
はなく、基礎学習を担当する現場の教師だけ
のはずだ。 (作家)
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