結構おもろいでっせ。
   「ああでもなくこうでもなく」 by 橋本 治    

   


       いつもの丸写しで〜す。   
   スカッとさわやか
   エンターテインメントで〜す。 (^ ^;           .


 勝手にヨイショ  紹介しまっせ
         ↓ ↓             


  広告批評2000年6月号より   
ああでもなくこうでもなく
          39 by橋本治

197 雷  雨

198 子供のすること

199 「適合」が薄れて行く

200 家庭内暴力としてのバスジャック

201 1983年に生まれた子供達

202 それは、ひそかに無意味になる

203 「いいこと」はなにもないのか

204 家庭内暴力としての殺人体験

205 父親はなにをしてるんだ?

206 「親子」とはいかなる関係か

207 「上り坂」の向こう

208 見過ごす者の責任

209 加害者・被害者・加害者

210 繰り返し







  この日本でバスの乗っ取りをやって、    
  どこかへ行けるわけでもない。





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 自身の暴発が凶器になるまで育ってしまった子供が、 
 人を傷つけるようなバカげたことをするのなら、
 それは、「その暴発には意味がない」
 ということを教えられていないからで、
 普通の社会の構成員みんなが知っていることを
 知らないままでいるのは恥だ。




☆☆
☆☆☆
☆☆☆☆☆
☆☆☆
☆☆





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☆☆
☆☆☆
☆☆☆☆☆
☆☆☆
☆☆







☆☆
☆☆☆
☆☆☆☆☆
☆☆☆
☆☆





 「好きなことをやる」以外に
 社会への適合能力を持ち合わせていない人間達は、
 「引きこもるか、破綻するか」の選択を迫られる。
 日本の社会が持っていた「適合」への強制力は
 徐々に薄れてきて、だからこそ、常軌を逸した
 ムチャクチャをしでかす少年も出て来る――
 「人を殺す経験がしてみたい」とか、
 「無意味なバスジャック中に平気で人を殺す」とか。 





☆☆
☆☆☆
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☆☆☆
☆☆






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 「高度成長」から「バブル経済下の社会」までは一直線で、
 多くの日本人は、
 まるで工場の生産ラインにも等しいこの一直線に
 適合してしまった。
 「それ以外の選択肢」は徹底して排除されたに等しい。 「家庭内暴力」も「いじめ」も「登校拒否」も
 「管理社会」も「進路の画一化」も、
 その以前に言われていたにもかかわらず、
 そうした”警報”を、
 日本人はあまり”警報”として理解しなかった。
 だから、いきなり「バブルがはじけた」と言われても、 
 なにをどうしたらいいのかが分からない。





























 「バブル以後の深刻事態」は、
 後戻りもせず、着々と進んでいた。
 1983年に生まれた子供達は、
 こういう社会状況の中で育つ。
 しかし、その不幸は、別に
 1983年生まれの子供達に限らないだろう。  
 「上り坂への待望論」は変わらずにあって、  
 しかし実際のコースは「下り坂」しかない。
 上昇気流と下降気流がぶつかり合って
 雷雲が発生するような状況が
 1989年以降ずーっと続いて、
 子供達はその中にいる。
 「どう生きて行っていいか分からない」
 とひそかに思う大人達はいっぱいいる。
 しかしその中で、子供の進路だけは、
 「こう生きて行けばいい」という形で設定されている。
 進路設定が間違っていて、その検討が必要であって、
 しかし本気でそれを検討してしまったら、
 大人達が抱える「ひそやかな不安」が表沙汰になる。
 それを回避せんがため、
 子供達の不安定さだけは見過ごしにされる――あるいは、
 「そこまで手が回らない」という形で置き去りにされる。










































 いつの頃からか、日本の親達は、
 自分の子供達の教育を
 「学校」というものに預けてしまった。    



 その歴史は、
 「受験戦争」という言葉が登場した頃まで    
 さかのぼるはずだから、かなり古い。




 日本の家庭が「自分の子供の教育」に関わったのは、
 「子供に家業を継がせる」という必要があった段階までで、 
 「家業を継ぐ」が寂れて、
 「子供の将来=外で就職」と定まってしまったら、
 もう日本の家庭は子供の教育に関われない。





 子供の教育は、
 「就職」へと続くような
 上級学校への進学以外にありえなくなる。  





 ここで親が関与するのだとしたら、
 ただ「学校にまかせるか、
 それとも進学塾の力を借りるか」の選択だけだ。  





 子供は、「社会=就職」へと続く、
 「進学」という適合のベルトラインに乗せられる。
 日本が経済成長を続けている限りは、
 この「適合のベルトライン」がベルトラインとして機能する。  





 しかし、ひたすらな経済成長を続ける日本は、
 その経済成長の中で、
 「経済成長の停止」という段階へ入り込んでいる。  





 「物には限りがある」というだけの話だが、
 しかしある一方向への
 過剰適応を遂げてしまった日本人と日本社会は、   
 そのことを理解しない。
 それで、「バブル経済」と呼ばれるような
 破綻状況の中に突入して行く
 ――それはまるで、
 最終的な悪化を露呈する前の重病人が示す、
 一時的な高揚状態にも近かったろう。





 「就職すればいいことがある」という前提で、
 「進学=教育、進学=就職」という
 ベルトラインは動いていた。  
 動いていたのはそのベルトラインだけで、
 他のベルトラインは停止させられたも同然だから、
 「就職」というゴールが破綻状況になっていたとしても、  
 「就職」へと続く「教育のベルトライン」は動き続ける。
 だから、へんなことになる。






















 ついでの話だが、
 「人を殺す経験がしたかった」
 と言った少年の殺人も、
 やはり「家庭内暴力」の延長かもしれない。   
 というのは、
 六十何歳かの主婦を殺した彼が、
 「老人ならいいと思った」などと
 とんでもないことを言っているからである。  
 彼の両親は離婚していて、
 母親を欠く彼は、
 同居する祖父母に育てられた。
 家庭内に「老人」が存在しない核家族で育った子供ではない。 
 「老人に育てられた子供が老人を殺した」である。
 六十何歳かの主婦を殺した時、
 彼は自分の祖父母のことを考えなかったのか?   
 考えたにしろ、考えなかったにしろ、
 彼は「自分の祖母」でもありうるような年代の主婦を 
 殺したのである。
 この少年が祖母を愛していたのなら、  
 決してそんなことをしなかっただろう。  
 しかし彼は、それをやった。
 これは、
 「家の中では出来ないことを家の外でやった」   
 と同じことではないのか?
 同じ彼が、
 「若い人はいけないと思った」などと言っている。  
 彼の家庭には、彼以外に「若い人間」はいない。
 いる「老人」は「殺してもいい」で、
 いない「若者」は「殺してはいけない」――
 ここから考えられるのは、たった一つだ。
 「年寄りしかいない自分の家にうんざりしていて、 
 その家の外に出たくて、
 自分のことを分かってくれる友達がほしい」だけだろう。 
 教師だけで成り立つ「家庭=社会」の要請する
 「成績優秀」という条件にだけは苦もなく適合して、 
 しかし、この少年には、なにもいいことがない――
 そんな彼の孤独があからさまに浮かび上がって、
 しかもこの少年は、家庭の中で暴発していない。














 「少年達の犯罪」が連続して、
 「さすがにこれはひどい」とでも思ったんだろう。
 「なんでこんなことになった?」
 の検討が起こり始めて、
 「父親の姿が見えない」という声も聞こえ始めた。  
  愛知県の少年の祖父母は、
  家のガラス戸越しに”発言”をした。    佐賀県のバスジャック少年の母親も、  
  その苦しい胸の内を訴えている。   
  しかし、そのどちらでも「父親」は出て来ない。     一体「父親」はなにをしているのだ?    
 「男は家の外に、女は家の中に」
 という分担が、あるところにはあって、
 それはそれで一つのあり方だから、
 私は別に悪いことだとも思わないけれど、  
 それならそれで、”やるべきこと”はある。












 父親をやっている男達は、
 「父親」であることを間違っている。   
 「父親」という虚像を演じることが父親の役目だと、  
 誤解している。 
 「昔の父親はえらかったが、
 今の父親である自分にはそれだけのえらさがない」などと、 
 見当違いな錯覚をしている。 昔の父親がえらく見えたのは、
 昔の父親が虚勢を張っていたからである。   
 だから、昔の父親は威圧的で嫌われたのである。   本当に自信のある父親なら、
 別に虚勢なんか張らない。    
 威圧的であることの間違いを知っている。  
 威圧的な父親なんか嫌いだったはずの男達が、   
 なんで今になって間違った
 「威圧的な父」を演じようとするのか――しかもそれを、  
 「出来ない」などと悩むのか、私にはよく分からない。

 おもろかったんで、紹介すっぺ。長ぇから暇あんだら読んでくなさい。   
 混じりっけなしの引用だなす。
 言っとくけど、ムーブメントじゃありません。
 エンターテインメントです。安心してネ。  2000.7.9.写し終えたよ。


      広告批評2000年6月号より
 「ああでもなくこうでもなく 39 by橋本治   .

 ほんとに世紀末なんだなーと、「野村沙知代」だけですんでいた
1999年の今頃を懐かしく思い出すわけですな。総理大臣も死ん
じゃうし。

197  雷  雨         .

 1989年、時の内閣総理大臣・竹下登の秘書だった青木某という
人が自殺した。リクルート事件でなんだかんだ揉めていた頃だった
から、「秘書の自殺の意味」を言う人は言って、その人の葬式が東京
芝の増上寺で営まれている最中に激しい雷雨が襲ったわけですよ
ね。昔の人なら、「悲運の死を遂げた青木さんの祟りだ」とかなんと
か言って恐れただろうなと思ってたけど、その竹下派の大番頭だっ
た人が総理大臣になって、死んで、遺骸を乗せた車が国会周辺を回
って自宅に帰ろうとする途中、またしても雷雨に襲われた。「昔の人
ならなんと言うだろうな」と、日本の昔に深入りしてる私は思います
ね。「青木秘書の自殺とその葬儀」のことを覚えているはずの自民
党の幹事長は、総理の遺骸の上の雷雨を「天も泣いてる」とか言っ
てたけど、きっと、昔のことは忘れちゃったんでしょうね。
 日本の場合、「終わったことは終わり」だもんね。リクルート事件が
どんなもんだったか、私はもう忘れちゃったけど、ともかくその責任
を取った形で、竹下登は総理大臣を辞めた。最大派閥のボスのまま、
自民党を離脱さえしたはずだが、その人が入院している病院の中で
「引退表明」を今年になって発表して、それを「国家の要職」について
いる”子分達”が涙を流して聞く。自分の子分の小渕恵三が脳梗塞
に倒れたことに、竹下登はショックを受けて「引退」を表明するわけ
だけれども、なんかほんとに、傾いてどうでもよくなった会社の首脳
人事がテレビで流れてるみたいで、ここまで「日本の政治」というも
のをある種の人達が私物化しちゃっていいものかとも思いますです
ね。「俺のもんだからなにをどう言おうと勝手だろう」というような口調
で、やっぱり子分筋の新総理大臣は、時代遅れなことをペラペラと
しゃべる。あんなことが通ると思うこと自体が、「みんな仲間」の私物
化の結果だとは思うけれども、そういう人達が日本の政治を担ってる
わけですね。
 日本の人は、あんまり過去にさかのぼって、責任ある人達の責任
を問うたりはしないけど、「終わったら終わり」ですませちゃうという
のはこんなことかと、相変わらずの日本の政治家たちを見ていて思
いますね。
 「終わったら終わり」ですませちゃうことを、かつての日本の政治
家達は「みそぎ」と言った。「終わったら終わり、もう関係ない」と
いうようなことですね。こんな使い方をしたら神様が怒るであろう
ということを、「日本は神の国」と言う総理大臣は理解しているので
あろうか、きっとしてないな。
 終わったことをきちんと処理する。そして、そういう不祥事をも
うニ度と起こさないように、体質とか構造というものにメスを入れ
て反省をするということが、日本じゃろくに起こらない――特に政
治の世界では。「終わった、終わった、じゃ次は誰の番?」という、
無批判な繰り返しを「みそぎ」と言うんじゃ、国の神様も怒りまし
ょうな。子分達はともかく、日本を大きく傾けた張本人の一人でも
ある竹下登が、この五月の雷雨をどう聞いたかは知らないけど。

198  子供のすること    .

 五月の連休中、仕事の合間にテレビをつけてボヤッと見ていたら、
「高速バスがハイジャック」というニュース速報のテロップが流れた。
やがて”事件”としてとしての報道が始まって、詳細はろくに分から
ないまま、私は唐突に、「これも”高校生”か?」と思った。この少
し前、愛知県で「人を殺す経験をしてみたかった」というだけで人
を殺して捕まった高校生の事件があったので「これも」とは思った
けれど、別に私は「高校生のあり方」におののいているわけではない。
 この日本でバスの乗っ取りをやって、どこかへ行けるわけでもな
い。「それをやってどうする?」と思うのが大人で、今時バスジャッ
クをやることに意味なんかない。「そんな無意味なことを大人がや
るはずはないが……」と思って、そうしたら果たして、犯人は高校
を中退していた十七歳の少年だった。
 私はあまり「少年の凶悪犯罪」ということに衝撃を受けない。
「少年が悪いことをして当然だ」と思っているわけではない。「少年
がそんなひどいことをするわけはない、少年にそんなひどいことが
出来るわけはない」というような、カマトトぶった反応が私の中に
ないというだけで、私だって少年の凶悪犯罪なんかいやだ。すごく
いやだ。なぜいやかというと、それが「無知の結果」で、「どうして
そんな結果を引き起こすような野放しを平気でする!」と思うから
だ。私は「人の親」ではないので、「人の親」達が作っている社会が、
平気で「人の親」であることの義務を怠っていることに我慢がなら
ない。「なんでそんなことをする!」と、加害者の親に怒鳴りたい
し、「少年の凶悪犯罪」に平気で衝撃を受けているだけの愚かな「人
の親」達に怒鳴りたい。「あんたらはなにをやってる!」と。
 三年前、神戸で酒鬼薔薇聖斗の事件があって、連続小学生殺傷事
件の犯人が「中学生の少年」だということを知った世間は大騒ぎし
た。しかし私は、「なんだ、子供だったのか」と、その逆のことを考
えた。「サブカルチャー漬けで世間に適応出来なくなった、中学生だか
トウのたった青年やらが、不気味でワケの分からない連続殺人をす
る」という思い込みだけあって、しかし、実際にそれをしたのは、
「まだ子供」でしかない中学生だった――ということを考えて、「連
続殺人」とか「快楽殺人」などというものにへんな関心を持ってい
る人間はかなりの数でいたりもするのだろうということとは別に、私
の結論は、「社会に適合することにばかり忙しい日本の男達は、”逸
脱する”というエネルギーを持ち合わせていないのかもしれないな」
になった。
 たとえ性的な欲求不満で充満していても、日本の男は、あまり無
意味な暴発をしない。それは、「社会への適合」を第一に考える日本
の成人男性達が、「暴発の無意味」を承知しているからで、その無意
味を教えるような形で、日本社会はまだ機能している。
 日本の男達の間には、「許されること」と「許されないこと」の許
容ラインが歴然とあって、日本の男は「許されること」しかしない。
「許されること」は、ただ習慣的に許されているだけだから、そこに
あまり「善悪の判断」は介入しない。だから平気で、痴漢行為やセ
クハラがはびこる。「今までは許されていたのかもしれないが、それ
は本来はいけないこと」という認識があまりないから、突然「それ
をするな」と言われてもよくわからない。「新しい判断」になるとよ
く分からないが、しかしそうであっても、日本の男達の間には、そ
の以前から習慣的に続いている「許されること」と「許されないこ
と」の判断だけは歴然とある。それがあるから、日本の男達は、あ
まり下らない暴発をしない。「許されない領域」に入り込んで暴発す
ることの不利益――つまりは無意味を、よく承知している。だから
こそ、日本の成人男性はバスジャックなんかしない。その無意味さ
をよく承知していて、その程度に、日本はまだ十分にカルティベイ
トされている。だから私は、「まだ健全だ」と安心する。「愚劣なこ
とをするのは子供だけだ」と。
 大人が平気でそんなことをするんだったら、当然こわい。しかし、
なんにも分からないままの子供がそんなことをするのなら、当然、
手の打ちようはある。「そんなことをしちゃいけない」と教えればい
い。自身の暴発が凶器になるまで育ってしまった子供が、人を傷つ
けるようなバカげたことをするのなら、それは、「その暴発には意味
がない」ということを教えられていないからで、普通の社会の構成
員みんなが知っていることを知らないままでいるのは恥だ。教えれ
ばいい。それなのに、どうして教えないのか?教えるのが「人の
親」で、教えられないままの子供に責任はない――というところで
「少年法」は存在するのだろうと、私は勝手に思っている。

199  「適合」が薄れて行く    .

 「社会への適合を第一に考えて無意味なことをしない」というの
は、日本が高度な管理社会になってしまっていることの結果でもあ
る。しかし、社会の構成員が「愚か」と「無意味」を理解している
のは悪いことではない。その点で、日本の社会には問題がないんだ
と思う。問題は、それがどうして若い人間」――子供に伝えられずに
いるのかということで、問題は、それを伝えずに社会をやっている
「構成員」の方にあるんだと思う。
 1990年代になって、愚劣な犯罪が多発するようになった。
1990年代が後になればなるほど、愚劣さとその発生件数は増え
て行く。これが結局「バブルの後始末」ということに由来するのも
確かだろう。
 社会に適合することを第一とする日本人は、「バブル経済下の異
常社会」にも見事に適合してしまった。それが異常であるからこそ、
「バブル経済下の異常社会」は破綻する。破綻して、しかし1960
年代の高度成長から長く続く一本調子の”繁栄=浪費”パターンに
適合してしまった日本人達は、その方向転換が出来ない。社会は急
カーブを描いて曲がり、一本調子の直線コースに適合してしまった
日本人は、そのカーブを曲がりきれずに振り落とされる――それが
”バブル以降”である1990年代の犯罪の多発だろう。だから、
この時期の犯罪は、「過剰適応を果たしてしまった末の破綻」と捉え
るべきだ。「大人の犯罪」は、みんなそういう種類のものだ。それが
「へんな社会」であっても、社会に適合してしまった大人達には、そ
の異常さから身を引いて物を考えるだけの余裕がない。問題は、そ
の愚かさと、愚かさを直視しないでいることにあるのだと思う。
 大人の犯罪は、大きく二つに分けられる。「金の問題」と「関係の
破綻」だ。
 バブルがはじけて、金の回り方が変わって、それで支払いが滞っ
てしまった結果、殺したり殺されたりが起こる。保険金殺人を起こ
す元凶もこれだろう。これは、「経済生活の破綻」だ。ここには、「金
に困っての自殺」や、「会社経営の破綻にまつわる上層部の逮捕」も
含まれる。その一方、「痴情のもつれ」とか「ストーカー系の犯罪」
も多い。社会生活がイージーになったから、人間関係もイージーに
なって、くっつくのも簡単だし、破綻するのも簡単になった。破綻
が簡単だから、その破綻状況を呑み込めない人間が増えた。
 関係の破綻に金がからめば、簡単に人が殺される。そんなことが
いいわけではなく、そんな愚かな人間が増えることがいいことでも
ない。しかし、日本の社会はそんな破綻が起こるような方向へ進ん
だ。そして、そんな方向にしか進まなかった日本の社会には、「社会
に適合する」ということの有意味を理解する人間達がいっぱいいた。
その適合が、「破綻への一方向」を加速させもしたけれど。
 薄っぺらではあっても、日本の社会はカルティベイトされていた。
だから、やがて破綻に至りはしても、その人間達は、みんな自分で
経済生活を営んだり、他人との関係を持ちえていた。彼や彼女等の
破綻は、社会生活を営んでいた結果の破綻で、であればこそ、これ
らの犯罪にはみんな「理由」がある。たとえその理由が「下らない
こと」であっても、その犯罪は、「適合の末の犯罪」である。その社
会がろくでもないものだからこそ、その社会への適合は、「犯罪」と
いう破綻にしか至らない。がしかし、その一方で、「適合の仕方が分
からない」という種類の人間達も確実に生まれていた。去年池袋で
白昼の通り魔事件なんかは、その典型だろう。
 社会への適合の仕方が分からない――だから欲求不満がたまっ
て暴発する。適合を理解する前に、肥大したエゴが、欲求不満を掻
き集めて暴発する。そうなりかねない危険性をあらかじめ察知した
者が、「引きこもり」という生活パターンを作る。「引きこもって”なに”
をしているか分からない」と他人は思うから、「引きこもり青年」なるも
のへの危険視も生まれるが、「引きこもり」だって、一種の社会適合
だろう。「自分は適合が出来ない」と思った青年は、自分が適合出来
るテリトリーの内部に引きこもって、その外へ出ない――つまりは、
「社会における適合」の重要性を理解してのことである。
 新潟県で女の子を誘拐し、九年間自分の部屋に監禁し続けていた
男も、同居の母親にその事実を悟られまいとして、細心の注意をは
らっていたらしい。つまりは、自分が適合してしまった孤独な「引
きこもり」という状態と、「適合」を求める外部社会との間に接触が
起これば破綻があらわれるということを、彼が知っていたというこ
とである。ということはつまり、社会に適合出来なかった新潟の少
女監禁男だって、「適合」の重要性だけは知っていたということであ
る。
 事件が発覚する九年前、既に「引きこもり」状態にあった彼は、
「社会に適合出来ない自分」を自覚していた。ということは、九年前
の一人の少女の誘拐事件を発生させた新潟の社会には、構成員に
「適合」を自覚させるだけの強制力があったということである。だか
らこそこの男は、「自分は適合出来ていない」ということを、強く意
識せざるをえなかった。
 去年、池袋で白昼の通り魔事件が起きた頃、二十九歳の男が全日
空機をハイジャックして、機長を刺殺した。「飛行機の操縦をしてみ
たかった」と言う男は、コンピューターゲームに深入りしていて、そ
の以前はずーっとパイロット志望だったという。これは、自分自身
の嗜好に適合してしまった結果だろう。「好きなこと」をやっていて
も許される、「好きなこと」をやっているだけでもなんとかなる――
そういう時代があって、そういう時代が終わる。「おたく」という言
葉が死語になるのも、そういうイージーなものが存在しにくくなっ
ている結果だろう。だから、「好きなことをやる」以外に社会への適
合能力を持ち合わせていない人間達は、「引きこもるか、破綻する
か」の選択を迫られる。
 社会に適合し、その中で自分なりの人間関係を築く、そしてその
社会は急カーブを曲がり、直線コースにだけ適合した人間達は、急
カーブを曲がりきれずに破綻する。そういう「適合を遂げた大人達
=社会人」がいて、しかしその一方で、「適合」の意味を理解しない
人間達も増えている。
 「適合」の必要性だけは知って、しかし「適合」の能力を持たない
若者が増える。「適合=強制」と解する人間達は「それでいい」と思
い、そうした種類の人間達が増えて行く。そして、やがてその先に
は、「適合」の意味を解せない若者達が増えてくる。ガングロという
異様な風体が臆面もなくのし歩いていたのは、その一典型だ。「適
合」の重要性だけは解して、しかしその能力が持てなくて、それが
そのままに放置されれば、その能力を持とうとしない若者だって増
えてくるし、やがては「適合」の意味が理解できない若者だって登場
する。日本の社会が持っていた「適合」への強制力は徐々に薄れ
てきて、だからこそ、常軌を逸したムチャクチャをしでかす少年も
出て来る――「人を殺す経験がしてみたい」とか、「無意味なバスジ
ャック中に平気で人を殺す」とか。
 「適合」が素通りしているから、「許されること」と「許されない
こと」の区別がない。恥知らずな傍若無人がまかり通るということ
と、「無意味な殺人」との間には、当然相関関係があってしかるべき
だと、私は思う。すべてが教えられていないのだ。

200  家庭内暴力としてのバスジャック    .

 日本でバスを乗っ取って、どこへ行けるわけでもない、乗っ取っ
て、それを引き渡す代償として要求する”なにか”があったわけで
もない。仮にバスジャックをやる大人がいたとして、その彼がなに
かを要求するのなら”金”だろう。大人なら、自分の適合した社会
で、その適合を成り立たせるだけの金が足りなくなってヤケクソに
なる。しかし、犯罪に走るほど切実に金を必要とする大人なら、他
にもっと”効率のいい犯罪”を探すだろう。たやすく包囲されてし
まうバスジャックによって「金を要求する」というのは、どうにも
わりに合わない。
 社会に適合出来ない人間が、「金がなければどうにもならない、金
があればなんとかなる」という種類の欲求不満を募らせるのは、過
ぎ去ってしまった高度成長時代のもので、今の時代の「金がなけれ
ばどうにもならない」は、社会に適合を果たしてしまった者の認識
だ。地続きの道路の上だけを走るバスに乗って、どこかへ行けるわ
けもない。人質を取ってなにかを要求する――その正当性が成り立
つような思想犯だって、今の世の中には存在しない。周到な準備は
周到なる思想的背景を必要として、それを可能にするような思想的
背景を持たない者に、そんなにめんどうな犯罪をやり遂げられるだ
けの集中力は育たない。人間というのは、存外合理的なものだ。
 バスジャックなどという意味のない行為に”意味”を見出すな
ら、そこには「欲求不満の暴発」という条件が必要になるだろう。
しかし、それだけの欲求不満を溜め込むためには、ある程度以上の
「社会生活経験」が必要になる。「適合しようとしたけどだめだった、
だからヤケクソになって――」という状態が積み重ならなければ、
暴発は起こらない。それだけの”時間”が必要なのだから、まだ社
会に出ていない未成年に、それは起こらない。暴発型犯罪の多くは、
社会生活を経験して。しかしまだ幼い「二十代」という年頃のもの
だろう。今の日本の社会で「適合」を経験して、その時間を長くし
てしまったら、そんなにムチャは出来なくなる。日本の社会には、
まだ「適合すればなんとかなる」という信頼は残っている。だから
こそ大人は、その「適合」の状態を維持しようとして、愚かな犯罪
事件を多発させる。
 「適合」を経験してしまった人間達の犯罪には、「適合の維持」と
いう目的があって、それは無意味な「欲求不満の暴発」という方向
へは進まない。「欲求不満の暴発」には「社会への適合」が必要にな
るのだから、まだ社会に出ていない未成年、あるいは社会人になれ
ないままでいる者の未熟さは、バスジャックというような無意味な
暴発をしない。そんな彼等のためには、「家庭内暴力」という種類の
暴発が用意されているのだから。
 家庭の外には社会があり、家庭と社会の間には、「適合」という大
きな壁がある。だから、その壁を乗り越えられない者は、壁の内側
で暴発するしかない。つまりは家庭内暴力で、それが、「適合」とい
う大きな力によって、中途半端な者を「社会」がはねつけていた時
代の常識だ。しかし、今やそれが崩れた。だからこそ、十七歳の少
年はバスジャックをする。「十七歳の少年のバスジャック」は、バス
ジャックという形で現れた「家庭内暴力」だろう。
 「適合」という壁がなくなった時、「家庭」という境界もなくなっ
て、家庭の中で八つ当たりをしていた人間は、家庭の外に出て行く。
そんな人間は、自分の行く先で、「自分の八つ当たりが通りうる家
庭」を勝手に発見してしまう。
 「家庭」を成り立たせるために必要な条件は、まず「密室性」であ
る。「家庭」の中ではわがままが通る。そして、「家庭」の外には、わ
がままが通らなくて、それへの「適合」を要求する「社会」がある。
暴力を発揮する舞台としての「家庭」が必要なら、まず「社会」か
ら遮断された「密室」を作る必要がある。カーテンを下ろされたま
ま高速道路を走り続けるバスの中は、「密室」だった。つまり、「乗
っ取られたバス」は、そのまま「家庭内暴力」の場となる「家庭」だ
ったのだ。
 「社会」から遮断されて、しかし「家庭」というものには、「社会」
とのパイプ役を務めて一家の経済を成り立たせる者が必要となる。
つまりは、「稼ぎ手としての父」である。今度の事件でのそれは、「運
転手」だ。走り続けるバスという「密室化した家庭」を成り立たせ
るためには、それを走らせ続ける「運転手」が必要になる。運転手
はただ前を向いて、家庭内暴力の場となった「バス=家庭」を走ら
せることだけが求められる。つまりは、家計を成り立たせる収入を
得るためだけに存在する「父」と同じものだ。
 家庭における「父」の必要は、ただ「家計」を成り立たせるため
だけだから、「父」であるような男の持つ”それ以外の要素”は否定
される。つまり、密室化したバスの中で、運転手以外の男の乗客が
全部後ろに追いやられてしまったことがそれに当たる。
 家庭内暴力を演ずるために必要な相手――つまり、脅しを効果的
に成り立たせる女の乗客だけが、前に集められる。これはつまり、
「所帯主としての父は必要だが、男としての父はいらない」であり、
「脅されるための家庭の構成員=女」だけは必要だということでも
あろう。家庭内暴力の場となった「家庭」における、「母」なるもの
の役割とはそんなものだ。そこで「母」という女は、「力弱い女」に
貶められなければならない。小学校の教員だった女性が、少年を説
諭してその結果殺されてしまったというのは、「弱い女」が「強く、
影響力を行使しうる母」に変わったことへの怒りととまどいだろう。
途中で乗客が逃げ出し、それに少年が激怒して”報復”に出たとい
うことは、「家庭」であることの密室性を壊されたことへの怒りだろ
うし、そこに「連帯責任」などという言葉を持ち出してしまうとい
うこと自体が、「バス=家庭、乗客=家族」という前提に立っていた
証拠だとも思われるが、どうだろう?
 少年を育てる家庭が「家庭」であることの意味をなくし、しかし
その中にいる少年が、まだ変わらずに「家庭の中で守られるべき自
分」に固執したら、こういうことは起こるのではないかと思う。

201  1983年に生まれた子供達    .

 こないだ友達に、「1983年てどんな年?」と訊かれた。「なん
で?」と言ったら、「ここんところ”事件”を起こしてるのが十七歳
で、やつらは酒鬼薔薇聖斗と同じ年で、今の十七歳が生まれたのは
1983年だから、その年になにがあったかと思ってさ」という答
が返って来た。「二十世紀一年刻みのコラム」なんてことをやってる
私は、そのおかげで、「あの年はどんな年?」と問われても大体は答
えられるような体質になってしまった。しかし、私は占星術士では
ないので、「いかなる星回りの下にこの人間は生まれたか」の類は、
私の領域外である。私の知る1983年とは、「円高不況の後、日本
の企業人間が”女に物を買わせれば需要が広がる”ということを発
見し、それで大都市周辺の住宅地で女性運動が強くなる時期」なの
だが、今年の「十七歳の犯罪」に「女」は関係ないと思っている。だ
から、「1983年はどんな年?」に対する私の答は、「生まれた年
は関係ないでしょ」である。問題は、あるとしたら、その後だろう。
 1989年に昭和は終わる。1983年に生まれた子供は六歳に
なる。幼稚園に行き、小学校に入る。やがて「バブルがはじけた」と
言われて、その時に彼や彼女は、小学校の三年か四年になっている。
問題が隠されているのだとしたら、そういう社会状況の変化の中だ
ろう。
 昭和が終わった時、まだ日本は「バブルの絶頂期」だった。「昭和
が終わればバブルも終わる」が私の考えだったが、その頃にそんな
考え方をする人はほとんどなかった。1992年に「バブルがはじ
けた」と言われて、しかし多くの人間はまだ、「それがどうした?」
だった。「高度成長」から「バブル経済下の社会」までは一直線で、
多くの日本人は、まるで工場の生産ラインにも等しいこの一直線に
適合してしまった。「それ以外の選択肢」は徹底して排除されたに等
しい。「家庭内暴力」も「いじめ」も「登校拒否」も「管理社会」も
「進路の画一化」も、その以前に言われていたにもかかわらず、そう
した”警報”を、日本人はあまり”警報”として理解しなかった。
だから、いきなり「バブルがはじけた」と言われても、なにをどう
したらいいのかが分からない。1992年の「バブルがはじけた」
だって、それが公式発表である以上、「既に時期を逸していた」とい
うことも考えられる。
 多くの日本人が適合を遂げてしまった日本社会は、「自分の過ち
を過ちとして認めない」という大欠陥を持ってしまった。「それを日
本政府が認めた」ということになるのなら、それは「認めざるをえ
ないほどひどい状況になっていた」ということと一つだったりもす
るからだ。
 「”バブルがはじけた”と言われても、どうしたらいいのか分から
ない」という状況が一つある。それと同時に、「”バブルがはじけた”
ということでもないだろう」という楽観視も平然とある。その二つ
が混在する中で、しかし、「バブル以後の深刻事態」は、後戻りもせ
ず、着々と進んでいた。1983年に生まれた子供達は、こういう
社会状況の中で育つ。しかし、その不幸は、別に1983年生まれ
の子供達に限らないだろう。
 「上り坂への待望論」は変わらずにあって、しかし実際のコースは
「下り坂」しかない。上昇気流と下降気流がぶつかり合って雷雲が発
生するような状況が1989年以降ずーっと続いて、子供達はその
中にいる。「どう生きて行っていいか分からない」とひそかに思う
大人達はいっぱいいる。しかしその中で、子供の進路だけは、「こう
生きて行けばいい」という形で設定されている。進路設定が間違っ
ていて、その検討が必要であって、しかし本気でそれを検討してし
まったら、大人達が抱える「ひそやかな不安」が表沙汰になる。そ
れを回避せんがため、子供達の不安定さだけは見過ごしにされる―
―あるいは、「そこまで手が回らない」という形で置き去りにされる。
 京都で小学生の男の子を殺した「てるくはのる」の青年は、二十一
歳だった。二十一歳になって、まだ「高校卒業の肩書きはいやだ、高
校中退にしてくれ」と訴え続けていた。それを訴えることと、小学
生の男の子を殺すことの間にどういう連関があるのかは分からな
い。しかし、この二十一歳の青年が、不安定な教育状況の中から生
まれたことだけは確かだろう。別に、「1983年生まれ」に特別の
問題があるとは思えない。バブル以降の子供達は、みんな同じよう
に不安定な状況の中にいたのだ。

202  それは、ひそかに無意味になる    .

 いつの頃からか、日本の親達は、自分の子供達の教育を「学校」
というものに預けてしまった。その歴史は、「受験戦争」という言葉
が登場した頃までさかのぼるはずだから、かなり古い。日本の家庭
が「自分の子供の教育」に関わったのは、「子供に家業を継がせる」
という必要があった段階までで、「家業を継ぐ」が寂れて、「子供の
将来=外で就職」と定まってしまったら、もう日本の家庭は子供の
教育に関われない。子供の教育は、「就職」へと続くような上級学校
への進学以外にありえなくなる。ここで親が関与するのだとしたら、
ただ「学校にまかせるか、それとも進学塾の力を借りるか」の選択
だけだ。
 子供は、「社会=就職」へと続く、「進学」という適合のベルトライ
ンに乗せられる。日本が経済成長を続けている限りは、この「適合
のベルトライン」がベルトラインとして機能する。しかし、ひたすらな
経済成長を続ける日本は、その経済成長の中で、「経済成長の停
止」という段階へ入り込んでいる。「物には限りがある」というだけの
話だが、しかしある一方向への過剰適応を遂げてしまった日本人と
日本社会は、そのことを理解しない。それで、「バブル経済」と呼ば
れるような破綻状況の中に突入して行く――それはまるで、最終的
な悪化を露呈する前の重病人が示す、一時的な高揚状態にも近
かったろう。
 「就職すればいいことがある」という前提で、「進学=教育、進学
=就職」というベルトラインは動いていた。動いていたのはそのベ
ルトラインだけで、他のベルトラインは停止させられたも同然だか
ら、「就職」というゴールが破綻状況になっていたとしても、「就職」
へと続く「教育のベルトライン」は動き続ける。だから、へんなこ
とになる。
 「バブルははじけた」と言っても、日本政府と日本社会は、その”処
理”をしなかった。「我々の失敗は、バブル処理の失敗を失敗として
認めなかったことである」と経済企画庁が表明するのは、1998
年の末になってのことなのだから、その以前、「破綻していてもやり
方は従来通りでいい」という考え方は、日本社会に当たり前にはび
こっていた。だから、へんなことは、公式見解とは別のところで、
ひっそりと起こる。
 教育の面で言えば、まともな人間ならもう誰も、「大学進学の有意
味」を信じてはいない。しかし、「それに代わってなにがある?」に
なると、なにもない。だから、相変わらず受験勉強的な、「知識の詰
め込み」だけが教育になる。そして、相変わらず、「いい上級学校へ
進学出来る可能性を秘めた成績優秀な生徒」というものも存在する。
存在して、しかしそれは、無意味なものに近い――本当に優秀な生
徒なら、このことをとうに自覚しているだろう。
 佐賀県でバスジャックを起こした少年も、愛知県で「人を殺す経
験をしてみたかった」と主婦を殺してしまった少年も、この「成績
優秀」というカテゴリーに属するらしい。そして、彼等を語るもの
が「成績優秀」という言葉しかなかったのだとしたら、彼らはとっ
ても孤独だっただろう。
 私は、なんの理由もなく「人を殺す」ということが出来る人間は、
人間との関係を持ったことがない人間なんだと思う。それ以外の解
はないと思う。「人間との関係」が、その経験の欠如によって分から
ないままになっていたからこそ、「殺す」という究極の破綻によっ
て、「人間との関係」を類推するしかない――「人を殺す経験がして
みたかった」とは、それをした少年にとって、「それ以外に類推のし
ようのない唯一の人間関係の体験」なんだろうとしか思えない。バ
スジャックの中で平然と人を殺してしまえた少年にとっても、同じ
ことは言えると思う。だから私は、「成績優秀」以外に語られる言葉
を持たない彼等の孤独を思う。彼等は、想像を絶して孤独で、「他人
との関係」が持てないままにいたのだろう。
 「優等生の孤独」は昔からある。「孤独な優等生の暴発」も、昔か
らある。しかし、昔の優等生には「ゴール」があった。つまらない
思いに堪えてゴールにたどりつけば、「いいこと」がある。つまり、
「エリートになれる」というエサがあったからこそ、「つまらない」
という思いにも堪えられた。「なんだお前らはエリートになれない
じゃないか」と、人を見下すことによって、孤独やいじめに堪える
力さえも養えた。しかし、今の「優等生」には、他人にふりかざす
特権がない。「エリート」というものに、もう意味はない。日本を破
綻に導いたのが「エリート」と言われるような存在であることはは
っきりしている。「エリートになる」と言って、その言葉は、同じよ
うに「エリートになりたい」と思う人にしか作用しない。「いい大
学に行っていい会社に就職する」という言葉だけは残っていて、し
かし「いい会社」がどれだけ長持ちするものかは、もう誰にも分か
らない。「いい会社に入れば一生安心だ」などということを信じてい
られる人間なんてもういない。終身雇用という制度が「もう崩れた」
なのか、「歴然と崩れつつある」なのかは知らないが、「就職=ゴー
ル」という公式は、もう成り立たない。である以上、「成績優秀」は、
人にふりかざす特権にならない。がしかし、それでもまだ日本には、
「成績優秀」と言われる生徒達を収容する学校だけはある。
 「成績優秀」というほめ言葉は、まだほめ言葉として機能してい
て、「成績優秀」と言われる生徒達を集める学校もある。そして、し
かもそこには、「成績の低下」とか「成績優秀からの脱落」という事
態だってある。あるがしかし、そんな”競争”は、その限定された
世界でしか意味を持たない。ゲーセンでひそかに得点を競うのと同
じである。「いつまでもそんなことにしがみついてないで、他の価値
観だってあるんだから」と言われてしまえば、「脱落の悩み」も悩み
として聞いてもらえない。「脱落の悩み」を理解する者は、相変わら
ず、「成績優秀=エリート」の神話を信じている観念論者だけなのだ。
「人を殺す経験がしてみたかった」と言った愛知県の少年の父親は
教師で、祖父もまた教師で、少年は「”勉強をしろ”と言われなく
ても勉強が出来た」という子供らしい。それは、高度成長の時代な
ら、「羨むべき子供」だったろうが、今となっては「救いがない」だ。
 高度成長の時代に、社会の役割分担と分化が進んだ――つまり、
教師は「教育」という限定された世界の中にだけいればいいように
なった。「それでいい」ということになったのは、社会が、子供を
「教育」というところへ預けてしまったからだ。子供を人質に取っ
て、「教育」は独善的かつ閉鎖的なものになった。しかも、「家庭と
社会をつなぐ」という形で存在していた「教育」は、「社会」からす
れば、「社会に属さないもの」であり、「家庭」から見れば、「家庭の
外=社会」に属するものである。そういう、「鳥なき虫のコウモリ」
みたいな形で存在する「教育」は、独自に孤立した世界観を平気で
守る。
 「教育」という限定された世界の価値観からすれば、「成績優秀な
少年」は「ほめられるべき存在」だ。しかし、その外にある現在の
価値観からすれば、「別になんでもない存在」だ。受験勉強だけです
べてがかたづいていた時代には、「勉強が出来る子」という価値観し
かなかった。「勉強は出来なくても他のことに才能を発揮する」とい
う種類の子供は排除された。しかし、今や、「勉強が出来るだけの子
供」だって排除される。子供の世界に、子供の価値を成り立たせる
支配的な価値観なんかないからだ。」「なにかの取り柄がある」という
ことは、子供の世界の中で、異質を証明するもので、埋没を助長す
る要素になりかねない。子供の世界から特性というものはなくなっ
て、その世界で強いのは、ただ「声が大きい子供」だけだ。「特性が
ない」という寂しさは、今や「声だけは大きくなる」という”利点”
に変わった。
 「人の親」でもない私がなんでそんなことを知るのかと言えば、高
度成長以後の大人の社会がそうだったからだ。ゴールを越えて社会
に入れば、そこは、「恥知らずにも声が大きいやつだけがでかい顔を
する社会」だ。その社会に適合すれば「いいことがある」と信じら
れて、日本人全員がその社会への「適合」を目指してしまったら、
そこでは「特性」などというものが不必要になる。自分たちが適合
した社会への”信仰”を強く持ち続ける者だけが、より大きな自己
主張を可能にする。今でも、それは政治の世界で成り立っている。
だから、自分がなにを言っているのかをまったく理解しない人間が、
「総理大臣」の座に就いていられる。「余分なことを言ったら騒ぎに
なるから、ただメモを読んでいろ」と言われて、「私はその通りにし
ています」と平気で広言出来る人物が総理大臣になっていて、その
異常事があまり疑われてもいない。それはつまり、「なんの特性もな
く、ただ声が大きいだけの人間の自己主張」が、この日本で長く通
用して来たということの証明だろう。定着した時代遅れの風潮が、
ついに子供の世界にまで下りてきたというだけだ。

203  「いいこと」はなにもないのか    .

 今の子供達に「いいこと」はなにもないのか?社会が子供達に
与えるものは、相変わらず「勉強」だけで、しかしその見返りとな
る「ゴール」は既に喪失されているということになると、「子供達に
未来を信じろとは言えなくなる」という嘆きが生まれる。しかし私
は、「そんなことないだろう」と思う。
 第一に、「我慢して勉強すれば先へ行っていいことがある」という
発想が、高度成長時代のものでしかないということである。「我慢し
なきゃいけない勉強」になんの意味があるのか?「意味のない現
在は、しかし未来の金につながる」という世界観は、とんでもなく
哀れで貧しい世界観である。「エリートになってもいいことがない
から、エリートにはならない」などと言う人間を、エリートにする
必要はない。そんな程度の人間ばかりを「エリート」にしていたか
ら、日本の社会は進路を誤って、不祥事続きになる。「エリートにな
ったっていいことなんかない。エリートになれる能力のある人間は、
その能力を他人のために使わなければいけない」というのが正しい。
社会というところには複数の人間が存在していて、その複数の人間
達に”それぞれの特性”というものがあって、社会というものが、
その”それぞれの特性”に基づいた複数の人間の役割分担によって
動いているものであるのなら、「人の上に立ってあれこれ指導する」
という役割を分担しなければいけない人間だっている。「そんなこ
とやってなにがおもしろいか?」と問われた時の答は、「だって、
人のためになることをしなかったら生きていても仕方がない」であ
る。それが、「他人」というものを存在させる、「人間関係の存在」を
前提とした人間の生き方で、そう考えた時にだけ、「人の上」とか
「人の下」という区分は無効になる――そうなって、役割分担の意味
も明白になる。
 「エリートはえらくない。エリートは苦労をしなきゃいけない。大
変な仕事を引き受けるのは大変なことなんだから、その引き受けた
責任を果たすためには苦労をしなければならない――そうしないと
まともな人間関係は生まれない。だから、すべての人間は、その役
割を果たす時、エリートになる」ということを教えないから、「人を
殺すことを経験したかった」などというバカげたことを口にする子
供が出て来る。そんな言葉に対する答は、ただ一つ、「なにバカなこ
と言ってるんだ」だけである。
 「いいことはなにもない」というのは、既に終わってしまった時代
の古い世界観である。それを言い訳にしようとする子供の言うこと
を聞いているだけでいいはずがない。なにも教えなければ、人間は
バカになる。なにも教えられなかった結果、今の子供は「バカ」に
なった。バカに「バカ」を教えられない大人しか、今の日本にはい
ないのだろうか?

204  家庭内暴力としての殺人体験    .

 ついでの話だが、「人を殺す経験がしたかった」と言った少年の殺
人も、やはり「家庭内暴力」の延長かもしれない。というのは、六十
何歳かの主婦を殺した彼が、「老人ならいいと思った」などととんで
もないことを言っているからである。
 彼の両親は離婚していて、母親を欠く彼は、同居する祖父母に育
てられた。家庭内に「老人」が存在しない核家族で育った子供では
ない。「老人に育てられた子供が老人を殺した」である。六十何歳か
の主婦を殺した時、彼は自分の祖父母のことを考えなかったのか?
考えたにしろ、考えなかったにしろ、彼は「自分の祖母」でもあり
うるような年代の主婦を殺したのである。この少年が祖母を愛して
いたのなら
、決してそんなことをしなかっただろう。しかし彼は、
それをやった。これは、「家の中では出来ないことを家の外でやっ
た」と同じことではないのか?
 同じ彼が、「若い人はいけないと思った」などと言っている。彼の
家庭には、彼以外に「若い人間」はいない。いる「老人」は「殺し
てもいい」で、いない「若者」は「殺してはいけない」――ここから
考えられるのは、たった一つだ。「年寄りしかいない自分の家にうん
ざりしていて、その家の外に出たくて、自分のことを分かってくれ
る友達がほしい」だけだろう。教師だけで成り立つ「家庭=社会」
の要請する「成績優秀」という条件にだけは苦もなく適合して、し
かし、この少年には、なにもいいことがない――そんな彼の孤独が
あからさまに浮かび上がって、しかもこの少年は、家庭の中で暴発
していない。少年が苦もなく適合した「家庭」は、既にその輪郭を
なくして、「社会」の中に漂っている。だからこそ平気で、「自分の
家で仮想される犯行」を「他人の家」で実践してしまう。
 彼の家庭が「家庭」としての輪郭を薄くさせていたのは、そこが
「教育の家」だったからだろう。既に「教育」は、「家庭」のもので
はない。「社会」に所属するものなのだ。おそらくこの少年の家庭
は、そのまま「社会」になっているような「家庭」だった。この家
庭では、「家庭での価値観」と「社会での価値観」が不一致を起こし
ていない。ある過去の時代に奉仕した「教育」という観念で、この
家庭は成り立っている。「家庭」であることの輪郭は薄く、この家庭
の価値観は、そのままどこまでも通用する「社会の価値観」と重な
る――「他人の家」と「自分の家」の区別がないのだとしたら、そ
ういうことにしかならない。
 この家の少年を”他”と隔てる境界線は、「家庭」という境界線で
はない。老人と父親とによって成り立っている「家庭」とはまった
く異質な、「なんの特性もなくただ声ばかりが大きい少年達」によっ
て作られている、「友達」という世界である。それが、彼の住む「家
庭=社会」であるような世界のにある。そして彼は、その世界か
ら排除されているのだ。もちろん、この彼に「排除されている」と
いう意識はない。ただ「羨ましい」という羨望だけがある。だから、
「若い人はいけないと思った」などと言う。自分の家や、昔ながらの
老人達の住む世界では、まだ「成績優秀」が評価の対象になる。し
かし、そのにいる同年代の「友達」は、そのことにまったく意味
を見出さない。その異邦人達に対して、もう「成績優秀」であるよ
うな少年は、振りかざすべき特権がない。だから、ただ寂しい。し
かも、自分が適合を果たしてしまった「学校=家庭=社会」に対し
ては、異を唱えられるだけの”理由”が発見出来ない。その矛盾し
た辻褄を合わせるためだけに、この少年は、「自分の家」の外に「自
分の家と類似したもの」を発見しなければならなかったのだろう。
 「家庭」という社会の難点は、その構成員が「家族」だけで、「友
達」が存在しないというところである。「親和力のある社会」という
のは、つまり「友達のいる社会」で、「友達」という他者は、自分を
傷つけない。「家庭よりもましな社会」というのは、だから、ちゃん
と存在しうるのである。「家族が大事」を広言する今の「人の親」達
は、きっとそういうことも忘れて、子供というものを、自分を守る
人質にしてしまっているのだろう。

205  父親はなにをしてるんだ?    .

 「少年達の犯罪」が連続して、「さすがにこれはひどい」とでも思
ったんだろう。「なんでこんなことになった?」の検討が起こり始め
て、「父親の姿が見えない」という声も聞こえ始めた。愛知県の少年
の祖父母は、家のガラス戸越しに”発言”をした。佐賀県のバスジ
ャック少年の母親も、その苦しい胸の内を訴えている。しかし、そ
のどちらでも「父親」は出て来ない。一体「父親」はなにをしてい
るのだ?
 「男は家の外に、女は家の中に」という分担が、あるところにはあ
って、それはそれで一つのあり方だから、私は別に悪いことだとも
思わないけれど、それならそれで、”やるべきこと”はある。
 「家計を支える男は家の外に、家事を支える女は家の中に」という
夫婦の役割分担はあって、そして「子供」というものは、「家の中」
に属する――「家の中」の、母親の管理に属することになっている。
だから、母親に「家の中」を担当させた父親は、自分の子供が”問
題”を起こした時、「子供の教育」をも担当した母親に対して、「お
前の責任だ」と言うことになっている。だからこそ、責任感の強い
母親は、進んで”謝罪”の筆を執る。母親のいない愛知県の少年の
家では、その役割を祖母が担い、さらにはある部分を祖父が担って
いたりもしたんだろう。だからこの二人は、ガラス戸越しに「申し
訳ありません」を言う。ところがしかし、子供とは、「家の中」から
やがては「家の外」へと出て行くものである。子供は、「家の中」で
育つと同時に、「家の中」と「家の外」を行き来しながら成長してい
く。「家の中」に属する子供の監督者は、ほとんどの場合、「家の中」
を管轄する母親だった。だから、「家の中」に属する子供にとって、
母親は「暴君」であり「独裁者」ともなる。がしかし、その子供は、
いずれ「家の外」へ出て行く。母親が「暴君」や「独裁者」であっ
たとしても、その子供は「家の外」にある「社会」へ出て行かなけ
ればならない。「家の外」へ出て行く子供に対して「家の外」なる
「社会」の情報を伝えるのは、「家の外」にいる父親だけなのだ。「男
は家の外、女は家の中」という役割分担があったとしても、そこに
は自ずと”やるべきこと”がある――というのはここである。
 「家の外」へ出て行こうとする段階になった子供の管轄は、父親の
役割である。ところがしかし、高度成長からバブル経済へと続く時
期の日本は、ここに父親を存在させなかった。「父親の必要」を求め
なかった。なぜかと言えば、子供を「社会」へ送り出すことを担当
するのは、「父親」ではなく、「家の外」に存在する「教育」だった
からだ。
 「進路」という言葉は、父親が関与するものではなかった。これ
は、教育機関が独占していて、「進路」とは、人生とともに語られる
ものではなく、学校や予備校や塾で、マニュアルに沿って指導され
るもの
だった。「家の外」へ出て行く子供は、「教育」というものが
もっぱらに管理する「進路」というパイプを通して、「社会」へと送
り出されて行った。「進路」というパイプを通りさえすれば、家の外
の「社会」というところで父親が得ているポジションより、”上”
のところへたどり着けるものだと信じられていた。たとえ父親が社
会の”上の方”にいたとしても、「社会」に属する父親は、「家庭」
と「社会」の中間に存在する「教育」というものの現状に疎かった。
父親というものは、「今の現状をよく知らないあんたには、子供の進
路に口出しする権利はない」と阻害されることになっていた。そう
である以上、父親は子供に関与することが出来ない。しかし、バブ
ルがはじけて、その状況は変わったのである。
 「進路」というパイプだけは相変わらず健在ではあるけれど――そ
のパイプは、まだ「社会」というものとつながっていたりはするけ
れど、そのパイプの先にある「社会」の様相は、「よく分からないも
の」に変わっている。そこに適合するにしても、適合すべき「社会」
の様相はなんだか怪しくて、子供にも「教育」にも母親にもよく分
からない。それを知るのは、「社会」という現場にいる父親だけなの
だ。バブルがはじけて、やっと父親の出番が来たのである。
 「社会」が危ういということは、父親が一番如実に知っている。自
分が危ういのは、自分が適合してしまった「社会」が危ういからで
ある。だからこそ、それをそのまんま子供に話せばいい。「お前の行
こうとしている社会は危うい。俺だってフラフラしてよく分からな
い。だからお前が悩んで迷うのも当然だ」と。これを言うだけで、
どれだけの子供が救われるだろう。どうしてそれを言わないのか、
私にはそれが不思議である。今の子供にとって一番必要な「教育」
は、そのことなのである。にもかかわらず、世の父親達はそれを言
わない。それを言うことの重要を理解しない。だから、「なにやって
んだ?」と、私は思うのである。
 父親をやっている男達は、「父親」であることを間違っている。「父
親」という虚像を演じることが父親の役目だと、誤解している。「昔
の父親はえらかったが、今の父親である自分にはそれだけのえらさ
がない」などと、見当違いな錯覚をしている。昔の父親がえらく見
えたのは、昔の父親が虚勢を張っていたからである。だから、昔の
父親は威圧的で嫌われたのである。本当に自信のある父親なら、別
に虚勢なんか張らない。威圧的であることの間違いを知っている。
威圧的な父親なんか嫌いだったはずの男達が、なんで今になって間
違った「威圧的な父」を演じようとするのか――しかもそれを、「出
来ない」などと悩むのか、私にはよく分からない。

   


 子供にとって、「親」というものは、特別な存在である。
 しかし、その「特別」は永遠に続くものではない。 

 なぜかと言えば、「親」をやっている人間もまた 
 「普通の人間」だからである。 ところがしかし、子供というものは、
 自分の親が「一人の人間」になってしまうことを許さない。  

 自分の親が、
 「親」ではない「一人の人間」になってしまったら、  
 もうその親を頼ることが出来ないからだ。




 「親」であることを放棄して
 「一人の人間」になってしまった親は、   
 子供を育てることをしない。

 子供には「親」というものが必要だから、
 子供の親になってしまった者には
 「親」という役割を演じる義務が生じる。    それを理解しない者があまりにも多すぎるから、  
 「児童虐待」ということが起こる。

 しかし、その「親」が「親」のままであり続けたら、  
 今度は、「親子」という関係を演じ続ける
 「子供」の側が、ずーっと
 「子供」という役割を演じ続けなければならなくなる。   つまり、子供は「子供」のまま、
 永遠に「大人」になれないということである。   

 だからこそ、
 「親離れ」「子離れ」という言葉も登場する。   



206  「親子」とはいかなる関係か    .

 子供にとって、「親」というものは、特別な存在である。しかし、
その「特別」は永遠に続くものではない。なぜかと言えば、「親」を
やっている人間もまた「普通の人間」だからである。ところがしか
し、子供というものは、自分の親が「一人の人間」になってしまう
ことを許さない。自分の親が、「親」ではない「一人の人間」になっ
てしまったら、もうその親を頼ることが出来ないからだ。
 「親」であることを放棄して「一人の人間」になってしまった親
は、子供を育てることをしない。子供には「親」というものが必要
だから、子供の親になってしまった者には「親」という役割を演じ
る義務が生じる。それを理解しない者があまりにも多すぎるから、
「児童虐待」ということが起こる。しかし、その「親」が「親」のま
まであり続けたら、今度は、「親子」という関係を演じ続ける。「子
供」の側が、ずーっと「子供」という役割を演じ続けなければなら
なくなる。つまり、子供は「子供」のまま、永遠に「大人」になれな
いということである。だからこそ、「親離れ」「子離れ」という言葉
も登場する。
 「親子」というのは、ある一定期間だけ必要な役割の関係なのだ
が、当事者達がそのことをあまりよく理解していない。だから、「そ
の関係を解消して子供を成長させる」ということが呑み込めないの
である。
 親が「親」という特殊な役割を演じたまま子供から距離をおいた
って、「子離れ」などということは達成されない。子供が「子供」の
役割を演じたまま親からの距離をおいたって、親はその子を「一人
前」とは認識しない――だから当然、「親離れ」なんか出来ない。「親
子」という、ある時期にだけ必要な特殊な関係を解消するのは、そ
の解消が成長の上で必要なことだからである。「親子という役割関
係の解消」が必要だからこそ、その関係は解消される――という
とはつまり、子供が「子供」ではなく、親が「親」ではなく、それ
ぞれが「一人の人間」になった時、その関係は解消されるというこ
とである。「可愛い子供」が「さして可愛くないやつ」に変わった
時、その子供は、「子供」から「一人の人間」へと変わったのだ。「一
人の人間」というものは、そうそう特別に「いいもの」ではない。
 だから、親が「不倫」なんかしちゃったり、「離婚」なんかで揉め
たりした時、子供は悩む。自分の親が「親」ではなく、「ただの一人
の人間」だと知って幻滅をし、自分に「独り立ち」が要請される時
期が来てしまったことを知って、「どうしよう」と悩む。つまりは、
「親」というものが、子供を育てるために必要な、ある種の虚構――
つまりは「役割」であることを理解する。理解せざるをえなくなっ
て、その「親」という特殊な役割によって守られていた時期――「子
供」という特殊な期間からの離脱を図る。「図るしかない」というこ
とを理解するのである。それを理解したがらない子供に「理解せよ」
と説くのが、親なるものの教育である。
 「普通の人間」というものは、そんなにいいものではなく、人を簡
単に幻滅させるものなのである。そのことを隠蔽しているから、親
子関係というものが、うわっついた絵空事になるのである。そのこ
とは、子供の方がよく知っている。だから、「子供」から脱したいと
思った時、子供は親に対して反抗的になって、「可愛げのないいやな
やつ」を演じようとする。そうなったら、親の方も負けずに、「だら
しのないいやなやつ」になって、「お前も一人前になりたかったら、
この人間というもののいい加減さに耐えろ」と教えればいいのであ
る。それをやらないから、家庭というものが窮屈になるのである。
 日本は混迷していて、その混迷の中で、子供達も取り残されて混
迷している。だからこそ今、父親の役割は大きい。「私は迷ってい
る。だらしのないことだが、今の世の中がなんだか分からなくなっ
ていることと連動して、私もこの先どう生きてったらいいのか分か
らなくて迷っている。お前が迷うのは当然だ」と言えばいい。それ
が「一人の人間であること」を教えることで、「それ以外に親の教え
ることなんかないじゃないか」と、私は思う。それを教えられたら、
親だってとっても楽になるだろうにと。
 「自分の限界」を理解してくれる他者が、自分の帰って来る「家
庭」というところにいるのは、とっても楽なことだろうと、「人の
親」ではない私は思う。「自分の限界を理解してくれる他者」とは、
妻ではない。「息子」である。

   


 それ以前の人類の歴史は、
 「よりよく」の一本調子だった。
 「よりよく」が前提になっている中で、
 息子に対して「己の限界」を説く父は、「敗者」である。  

 だから、今までの父は、
 「よりよく」を実現しえた「強者」を演じ続けた――
 息子から、「なにバカなこと言ってんだ」と思われながらも。  しかし、もうそのピークは過ぎたのである。
 「上り坂」は終わって、人類はついに初めて  
 「下り坂」の段階にさしかかった。 山の下りは、上りより難しいのである。
 だからなおのこと、「下る技術」は必要になる。  

 だからこそ今、
 「敗者の論理」が重要な意味を持つのである。  それを当然持っているはずの父親が、   
 なぜそれを語らないのかと、
 私なんかは不思議なのである。 長い間、
 「強者」であることを無言の内に強いてきた
 「妻」なる女だって、
 もしかしたら、今や
 「敗者であることの肯定」を求めているのかもしれない。 

 定年を迎えた夫へ、
 妻が熟年離婚を申し出るということの中には、  
 「強者の妻」であり続けることへの疲労が
 大きな要素としてあるのだろうと、私は思う。



207  「上り坂」の向こう    .

 「高度成長の時代」というのは、ある特殊な一時代ではない。それ
以前の人類の歴史は、すべて「高度成長へ至る」ということを待望
していたのである。そういう点で、二十世紀は人類史のゴールであ
る。それ以前の人類の歴史は、常に「高度成長へ向かう上り坂」を
待望しつづけていたのである。しかし、「永遠の上り坂」というものは
ない。「上り坂」の先には「頂点」がある。それが、「高度成長の時
代」の先にあった「バブル経済の時代」なのである。
 それ以前の人類の歴史は、「よりよく」の一本調子だった。「より
よく」が前提になっている中で、息子に対して「己の限界」を説く
父は、「敗者」である。だから、今までの父は、「よりよく」を実現
しえた「強者」を演じ続けた――息子から、「なにバカなこと言っ
てんだ」と思われながらも。しかし、もうそのピークは過ぎたので
ある。「上り坂」は終わって、人類はついに初めて「下り坂」の段階
にさしかかった。山の下りは、上りより難しいのである。だからな
おのこと、「下る技術」は必要になる。だからこそ今、「敗者の論理」
が重要な意味を持つのである。それを当然持っているはずの父親が、
なぜそれを語らないのかと、私なんかは不思議なのである。長い間、
「強者」であることを無言の内に強いてきた「妻」なる女だって、も
しかしたら、今や「敗者であることの肯定」を求めているのかもし
れない。定年を迎えた夫へ、妻が熟年離婚を申し出るということの
中には、「強者の妻」であり続けることへの疲労が大きな要素として
あるのだろうと、私は思う。
 日本の男はどうしようもなくバカで融通がきかないから、複数の
人間によって構成されている「家庭」を、「家庭という一つの要素」と
して捉える。「家庭」の中に、「複数の人間」が存在していると知った
時には、「妻」なる人間と「子」なる人間を区別して考える。妻も子
も、自分からすれば「他者」という点で一つなのに、それをケース
で分けてしまうから、「妻には嘆きを訴えて子供にはシラを切る」と
いう矛盾したことをして、己の立場を危うくしてしまうのである。
 「父親」というものは、家の中で黙って後ろを向いているだけで、
他の構成員から「威圧的」と思われる存在なのである。でなかった
ら、後ろを向いているだけで、「関係ない人」と思われてしまうもの
なのである。なぜそうなるのかと言ったら、家の中にいる父親が、
なんだかよく分からない存在だからである。「家の外」に属する父親
は、同時にまた「家の外に属するしかない」のであって、父親が黙
って後ろを向いていたら、それは、「家庭内に侵入した”社会”とい
う異質な他者」でしかないのである。
 「社会への適合」がうまく行かない息子の前で、「社会」に属する
父親がただ黙って後ろを向いていたら、息子にとってその姿は、た
だ「家の外なる社会はお前を受け入れない」という、生きた宣言文
にしかならないのである。「自分はいかにだめで、社会というものは
いかにだめか」ということを、自分の息子に話してやればいいので
ある。そしてそうなって、改めて父親なる男には、「新たなる危機」
が訪れたりもするのである。

   


 「いじめ」という行為には、被害者と加害者の両方がいる。 
 これが刑事事件になった時、この両者だけが特定される。  
 しかし、「いじめ」というものの陰惨を成り立たせるのは、
 もう一つの要素――「見過ごす者」の存在である。

 学校で「いじめ」があって、それが”事件”として捉えられて、 
 「学校側の責任」が問われた時、学校の代表者は、
 「いじめがあったことは認識していない」
 という答え方を多くする。 「知らなかった」
 と言えば、それで通ると思っていたからである。 
 しかし、事態は深刻になって、それでは通らなくなった。   だから学校側は、
 「いじめがあったとは認識していない」の後に、 
 「我が校にいじめがあった可能性は否定しない」 
 と言うことになる。
 しかし、「学校側の責任」が問われるのは、
 「それを見過ごしにしていいのかどうか」
 という局面でなのである。
 「その可能性を否定しない」では、
 「あったかもしれないが、
 管理者としては知らぬ顔をしていただけだ」になってしまう。


 この態度がほめられぬものであることだけは確かだが、
 しかし、学校側がこう言って、 
 それが徹底的に糾弾されるということは、まだそう起こらない。

 学校側は
 「その事実はないと思う。我々は関知していない」と言って、
 それを「うそだ」と思う報道の取材クルーは、
 同じ学校の生徒に、「ほんとはどうなの?」と訊く。
 するとその事情を知る生徒は、「あったよ」と言う。
 時としてそれは、「笑いながら」だったりする。 ここから導き出されるのは、普通の場合、
 「生徒は”知っている”と言うのに、
 学校は”知らない”と言っている」である。
 もしかしたら、学校は本当に「知らない」のかもしれない。  監督責任のある学校が
 「知らない」ですませてしまうのは当然問題だが、
 しかし、いじめの被害者になっている子供の周りには、 
 その事実を知っている子供だっているのである。
 彼らが、「あの子を助けてあげてよ」と訴えても、
 先生は言うことを聞いてくれないのか?
 それとも、彼等は訴えないのか?――
 こういう問題だってある。

 学校というのは、
 いろんな家庭の子供たちが通ってくるところである。 
 そこで子供達は、
 自分の家庭とは違う生育環境に育った
 「自分とは違う子供達」を知る。 
 学校というものが持つ一番重要な役割は
 このことだろうと、私は思っている。 異質な他人の存在によって、
 「違う」ということを知る。
 それこそが、成長していく上で一番重要な
 「人間に関する学習」だと思う。
 ところがしかし、そういう学習の機会がありながら、
 ある時期から、日本の社会はそれを子供達から奪った。  「関係ない子供」と遊んでいたら、
 「教育」という工場のベルトラインから取り残されるのである。
 だから子供は、
 「自分と似たような子供」とだけつきあうようになる。

 ところがしかし、残念なことに、人間とか子供というものは、 
 「自分とは違うもの」に魅力を感じるものなのである。 
 「他人に対して魅力を感じ、
 他人の持つ異質を学習してしまう」―― 
 これを、
 成長に関して持つ人間の「本能」だと言ってもよいと思う。
 だから子供は、平気で他人と遊ぶ――
 遊ばなくなったらおしまいである。
 しかし、「教育」という工場のベルトラインは、
 自然にこの”おしまい”を招来させたのである。


 「自分と同質のものとしかつきあわない」――
 これは、「許されること」と「ゆるされないこと」が
 習慣的に決められている日本の男達の社会と同じである。 
 日本の男達の社会には、
 「なあなあ」だけがあって「愛情」がない。 日本の男達の社会は、
 「なあなあ」の馴れ合いが通用することをこそ
 「愛情がある」と言うから、
 別に「愛情」なんてものはなくてもいいのであるが、
 しかしそうなって重要なのは、
 「なあなあ」の馴れ合いを成り立たせる基盤である。 
 つまり、同質の者同士でなければ、
 「なあなあ」の馴れ合いなどというものは
 成り立たないということである。 「同質の者同士の馴れ合いがある―― 
 それが社会である」ということになってしまったら、 
 ここから「異質とされるものの排除」が起こるのは 
 いとも簡単だろう。

 最も重要なのは、同質の者同士の安全保障で、
 そのためには、たやすく「異質」が切り捨てられる。
 「大人の社会」も、
 「そういう大人になることが期待される子供の社会」も、 
 同じなのである。

 だから、
 「いじめ?ありましたよ。みんな知ってたんじゃないの」  
 と言う”子供の笑い”は生まれる。
 そこで子供が笑うのは、
 「自分がその被害者にならなくてよかった」という、
 自分の幸運を祝福しているのである。
 大人がそこで笑わないのは、
 「笑わない方が利口だ」と知っているからである。
 「見て見ぬふり」は、
 異質を排除することによって成り立った、
 同質人間の社会における安全保障なのである。
 「他人にかかずらわっていたら、我が身も危うくなる」―― 
 セコイ大人の人生訓は、
 「社会に適合する大人になるシステム」を通して、
 子供の間にも定着した。
 子供というのは弱いから、その弱い我が身を守るため、  
 それを「卑劣」と教えられなければ、
 平気で「卑劣」に留まる。


208  見過ごす者の責任    .

 私は勝手に、世の「父親」なる男達を全員「ダメ男」と決めつけ
ているが、別にそういうわけでもないだろう。父親が我が子に対し
て「弱者」であることを告げずにいるのは、実のところ、多くの父
親が「弱者」ではなかったからだ。苦労の結果、あるところまでた
どり着いた――あるいは、大した苦労もせず、あるところまでたど
り着けた。だからこそ日本は、世界一の経済大国になれたのである。
 今の息子達は、「敗者であることの意味」を父親から語られること
を必要としている――と私は思う。しかし、「経済大国日本の一般市
民」として生きてきた多くの日本の父親達には、「敗者の経験」がそ
うないのである。別に虚勢を張っているわけではない。「敗者だった
ことを忘れた父――忘れることが可能だった時代に生きた父」はい
くらでもいるだろう。しかし、「敗者であったことが思い当たらない
父」や、「だからこそ、子供に”自慢”以外の何物も語れない父」と
いうものだって、実はいくらでもいるのである。
 今の日本の多くの「父」は、そんなに「敗者」ではなかった。そ
ういう一面があるからこそ、日本の社会には、「敗者」へのいたわり
がないのである。
 「いじめ」という行為には、被害者と加害者の両方がいる。これが
刑事事件になった時、この両者だけが特定される。しかし、「いじ
め」というものの陰惨を成り立たせるのは、もう一つの要素――「見
過ごす者」の存在である。
 学校で「いじめ」があって、それが”事件”として捉えられて、
「学校側の責任」が問われた時、学校の代表者は、「いじめがあった
ことは認識していない」という答え方を多くする。「知らなかった」
と言えば、それで通ると思っていたからである。しかし、事態は深
刻になって、それでは通らなくなった。だから学校側は、「いじめが
あったとは認識していない」の後に、「我が校にいじめがあった可能
性は否定しない」と言うことになる。しかし、「学校側の責任」が問
われるのは、「それを見過ごしにしていいのかどうか」という局面で
なのである。「その可能性を否定しない」では、「あったかもしれな
いが、管理者としては知らぬ顔をしていただけだ」になってしまう。
この態度がほめられぬものであることだけは確かだが、しかし、学
校側がこう言って、それが徹底的に糾弾されるということは、まだ
そう起こらない。
 学校側は「その事実はないと思う。我々は関知していない」と言
って、それを「うそだ」と思う報道の取材クルーは、同じ学校の生
徒に、「ほんとはどうなの?」と訊く。するとその事情を知る生徒
は、「あったよ」と言う。時としてそれは、「笑いながら」だったり
する。ここから導き出されるのは、普通の場合、「生徒は”知ってい
る”と言うのに、学校は”知らない”と言っている」である。
 もしかしたら、学校は本当に「知らない」のかもしれない。監督
責任のある学校が「知らない」ですませてしまうのは当然問題だが、
しかし、いじめの被害者になっている子供の周りには、その事実を
知っている子供だっているのである。彼らが、「あの子を助けてあげ
てよ」と訴えても、先生は言うことを聞いてくれないのか?それ
とも、彼等は訴えないのか?――こういう問題だってある。
 学校というのは、いろんな家庭の子供たちが通ってくるところであ
る。そこで子供達は、自分の家庭とは違う生育環境に育った「自分
とは違う子供達」を知る。学校というものが持つ一番重要な役割は
このことだろうと、私は思っている。異質な他人の存在によって、
「違う」ということを知る。それこそが、成長していく上で一番重要
な「人間に関する学習」だと思う。ところがしかし、そういう学習
の機会がありながら、ある時期から、日本の社会はそれを子供達か
ら奪った。「関係ない子供」と遊んでいたら、「教育」という工場の
ベルトラインから取り残されるのである。だから子供は、「自分と似
たような子供」とだけつきあうようになる。ところがしかし、残念
なことに、人間とか子供というものは、「自分とは違うもの」に魅力
を感じるものなのである。「他人に対して魅力を感じ、他人の持つ異
質を学習してしまう」――これを、成長に関して持つ人間の「本能」
だと言ってもよいと思う。だから子供は、平気で他人と遊ぶ――遊
ばなくなったらおしまいである。しかし、「教育」という工場のベル
トラインは、自然にこの”おしまい”を招来させたのである。
 「自分と同質のものとしかつきあわない」――これは、「許される
こと」と「ゆるされないこと」が習慣的に決められている日本の男達
の社会と同じである。日本の男達の社会には、「なあなあ」だけがあ
って「愛情」がない。日本の男達の社会は、「なあなあ」の馴れ合い
が通用することをこそ「愛情がある」と言うから、別に「愛情」な
んてものはなくてもいいのであるが、しかしそうなって重要なのは、
「なあなあ」の馴れ合いを成り立たせる基盤である。つまり、同質の
者同士でなければ、「なあなあ」の馴れ合いなどというものは成り立
たないということである。「同質の者同士の馴れ合いがある――それ
が社会である」ということになってしまったら、ここから「異質と
されるものの排除」が起こるのはいとも簡単だろう。
 最も重要なのは、同質の者同士の安全保障で、そのためには、た
やすく「異質」が切り捨てられる。「大人の社会」も、「そういう大
人になることが期待される子供の社会」も、同じなのである。だか
ら、「いじめ?ありましたよ。みんな知ってたんじゃないの」と言
う”子供の笑い”は生まれる。そこで子供が笑うのは、「自分がその
被害者にならなくてよかった」という、自分の幸運を祝福している
のである。大人がそこで笑わないのは、「笑わない方が利口だ」と知
っているからである。「見て見ぬふり」は、異質を排除することによ
って成り立った、同質人間の社会における安全保障なのである。
 「他人にかかずらわっていたら、我が身も危うくなる」――セコイ
大人の人生訓は、「社会に適合する大人になるシステム」を通して、
子供の間にも定着した。子供というのは弱いから、その弱い我が
身を守るため、それを「卑劣」と教えられなければ、平気で「卑劣」
に留まる。
 高度成長の時代からバブル経済の時代まで、父となった日本の男
達の多くは、「敗者にならない道」を通ってきた。それは、「面倒な
ことと関わらず、先へ進む効率を第一とする道」である。ここで、
「見て見ぬふり」は許される。だからこそ、日本の父達の論理の多く
は、「見て見ぬふりを肯定する――それが社会人だ」という自己弁護
から始まる。なんの説得力もない。しかし、その自己弁護の積み上
げが「大人になる」ということで、「積み上げられた結果」が「自分
という大人」なのである。
 日本の男達は「敗者にならない道」を通り、「敗者にならない道」
の存在を当たり前のように肯定して「社会」に適合した。そして父
親となり、やがて「家の外」へ出る時期になった自分の息子と出会う。
 「息子との接し方が分からない」とある種の男達が言うのは、その
男達が、みんな「黙殺」という「敗者にならない道」を通ってきた
からである。なぜかと言えば、父親に黙殺される息子は、明らかに
「いじめ」にあっているからである。その「いじめ」を成り立たせる
加害者は、他ならぬ、「つきあい方が分からない」と言って息子を黙
殺している父親なのである。
 父親は黙殺の加害者となり、息子は被害者となる。そして、「社
会」というところに適合して「敗者」にならずにすんでいた父達は、
その「いじめの構造」に対して、「知らぬふり」をする。「父親に接
してもらえない息子」とは、その父親が遠い日に排除してしまった、
「異質なる他者」――「いじめられて当然」と断定され、それに対し
て「見て見ぬふりをしてもかまわない」と断定されてしまった、「可
哀想な同級生」なのである。
 「そういう同級生がいたか?」と問われて、父達が「いなかった」
と言っても不思議ではない。父となった男達の「友人」は、彼と同
質の男達だけなのである。「異質な友人」などいない。そして、父に
とっての「息子」とは、まさしくその「異質な同級生」なのである。
その「可哀想な同級生」は、たとえいたとしても「いない」で葬り
去られてしまっている。息子もおなじである。そんな同級生の存在を
「見て見ぬふり」で通してしまった父親には、もちろん「可哀想」な
どという認識はないだろう。
 世間には、「黙殺」という形のいじめだってある。「黙殺」に加担
している人間達は、「積極的にはなにもしていない」という立場を取
る。だから、「加害者」ではない。しかし本当に、彼等は「加害者」
ではないのか?「敗者」にならずにすんだ日本の父達は、ただ「敗
者」にならないためだけに、どれほどの「積極的にはなにもしない」
という罪を犯したか?私は、「犯したはずだ」と思う。だからこ
そ、日本の父達の多くは、息子に対して沈黙を守り、そのことの異
常さに気がつかないのだ。

   


 高度成長の時代からバブル経済の時代まで、
 父となった日本の男達の多くは、
 「敗者にならない道」を通ってきた。
 それは、
 「面倒なことと関わらず、先へ進む効率を第一とする道」 
 である。
 ここで、「見て見ぬふり」は許される。
 だからこそ、日本の父達の論理の多くは、
 「見て見ぬふりを肯定する――それが社会人だ」
 という自己弁護から始まる。なんの説得力もない。
 しかし、その自己弁護の積み上げが
 「大人になる」ということで、
 「積み上げられた結果」が「自分という大人」なのである。  日本の男達は「敗者にならない道」を通り、
 「敗者にならない道」の存在を
 当たり前のように肯定して「社会」に適合した。
 そして父親となり、
 やがて「家の外」へ出る時期になった自分の息子と出会う。 「息子との接し方が分からない」と
 ある種の男達が言うのは、その男達が、みんな
 「黙殺」という「敗者にならない道」を通ってきたからである。
 なぜかと言えば、父親に黙殺される息子は、
 明らかに「いじめ」にあっているからである。
 その「いじめ」を成り立たせる加害者は、他ならぬ、
 「つきあい方が分からない」と言って
 息子を黙殺している父親なのである。
 父親は黙殺の加害者となり、息子は被害者となる。
 そして、「社会」というところに適合して
 「敗者」にならずにすんでいた父達は、
 その「いじめの構造」に対して、
 「知らぬふり」をする。
 「父親に接してもらえない息子」とは、
 その父親が遠い日に排除してしまった、
 「異質なる他者」――
 「いじめられて当然」と断定され、それに対して
 「見て見ぬふりをしてもかまわない」と断定されてしまった、
 「可哀想な同級生」なのである。 「そういう同級生がいたか?」と問われて、
 父達が「いなかった」と言っても不思議ではない。
 父となった男達の「友人」は、
 彼と同質の男達だけなのである。 「異質な友人」などいない。
 そして、父にとっての「息子」とは、
 まさしくその「異質な同級生」なのである。  
 その「可哀想な同級生」は、
 たとえいたとしても
 「いない」で葬り去られてしまっている。   
 息子もおなじである。

 そんな同級生の存在を
 「見て見ぬふり」で通してしまった父親には、もちろん 
 「可哀想」などという認識はないだろう。 世間には、「黙殺」という形のいじめだってある。  「黙殺」に加担している人間達は、
 「積極的にはなにもしていない」という立場を取る。  だから、「加害者」ではない。
 しかし本当に、彼等は「加害者」ではないのか?  
 「敗者」にならずにすんだ日本の父達は、
 ただ「敗者」にならないためだけに、
 どれほどの「積極的にはなにもしない」
 という罪を犯したか?
 私は、「犯したはずだ」と思う。
 だからこそ、
 日本の父達の多くは、息子に対して沈黙を守り、 
 そのことの異常さに気がつかないのだ。



 この原稿を書いている途中に、
 その事件のとんでもない「事実」が明らかになってきた。
 十九歳の少年を殺した三人の内の
 リーダー格の少年の父親が、 
 その捜査に当たった警察署に所属する
 人間だというのである。
 被害者の父親は、
 警察にその”事件性”を訴えて捜査を依頼した。 
 しかし警察の担当者は、
 「あんたが息子を可愛いと思うのと同じで、
 警察も”身内”が可愛いんだよ」と、
 とんでもないことを言ったという。 主犯格の少年には、
 「警察の人の息子があんなひどいことをするなんて」と 
 地元でも評判だったという声がある。 それを見過ごす立場にはない警察が、
 平然と見過ごした――そのことによって、
 被害者の少年は死へと追いやられた。
 「見過ごす者の加担」は、ここにあまりにも歴然である。 
 そして、もう一つ重要なのは、
 「加害者の少年はなぜ加害者となったのか?」である。 
 ここには、「父と息子の間の因果関係」が、歴然とある。  自分の息子が”加害者”になるような方向へ
 どんどん傾斜して行くことを、
 どうしてその父親は黙視したのか?      
 ということはそのまま、
 「その息子の荒廃の理由」を語るようなものである。 この「警察署に所属する人間」の父子関係に関して、
 私はなにも知らない。
 「威圧的な父親だったのかな」と思うばかりである。
 父親が息子への加害者となり、
 父親の被害者となった息子が、
 家の外で加害者となる――そんな構図でもあったかなと、 
 遠回しに思うばかりである。
 被害者は加害者になり、
 被害者を加害者にしてしまった一番最初の加害者は、 
 加害者であることを免れる――
 しかも、そのことを、彼が所属する「社会」が助けてくれる。
 「なあなあ」という、その外では通用しない
 男達の社会特有の愛情表現によって。
 なんということだ。


209  加害者・被害者・加害者    .

 こういう原稿を書いていてこんなことを言うのもなんだが、私は
実のところ「未成年の犯罪」に関心がない。「そういうのは”人
の親”の問題だ」としか思わない。だから、栃木県で「十九歳の少年
が同じ年頃の少年達三人に惨殺された」という事件があったことも、
「そう言えばそんなことがあったかな・・・」くらいのものだった。と
ころが、この原稿を書いている途中に、その事件のとんでもない"事
実”が明らかになってきた。十九歳の少年を殺した三人の内のリー
ダー格の少年の父親が、その捜査に当たった警察署に所属する人間
だというのである。
 被害者の父親は、警察にその”事件性”を訴えて捜査を依頼した。
しかし警察の担当者は、「あんたが息子を可愛いと思うのと同じで、
警察も”身内”が可愛いんだよ」と、とんでもないことを言ったと
いう。主犯格の少年には、「警察の人の息子があんなひどいことをす
るなんて」と地元でも評判だったという声がある。
 それを見過ごす立場にはない警察が、平然と見過ごした――その
ことによって、被害者の少年は死へと追いやられた。「見過ごす者の
加担」は、ここにあまりにも歴然である。
 そして、もう一つ重要なのは、「加害者の少年はなぜ加害者となっ
たのか?」である。ここには、「父と息子の間の因果関係」が、歴然
とある。自分の息子が”加害者”になるような方向へどんどん傾斜
して行くことを、どうしてその父親は黙視したのか?ということ
はそのまま、「その息子の荒廃の理由」を語るようなものである。
 この「警察署に所属する人間」の父子関係に関して、私はなにも
知らない。「威圧的な父親だったのかな」と思うばかりである。父親
が息子への加害者となり、父親の被害者となった息子が、家の外で
加害者となる――そんな構図でもあったかなと、遠回しに思うばか
りである。
 被害者は加害者になり、被害者を加害者にしてしまった一番最初
の加害者は、加害者であることを免れる――しかも、そのことを、彼
が所属する「社会」が助けてくれる。「なあなあ」という、その外では
通用しない男達の社会特有の愛情表現によって。なんということだ。

210  繰 り 返 し    .

 私には「時々話を広げすぎる」という欠点があって、それで人の
頭を悩ませたりもする。「同じ時期に起きた」というだけで、全然違
うものを”一つ”にしてしまう。「十七歳の少年達の事件」を語るマ
クラに、なにもワザワザ「今の総理大臣」や、「引退を表明したバブ
ル絶頂期の総理大臣」を持ち出す必要もないという話もある。がし
かし、そこまで広げないと分からないのが現在である。それで、三ヵ
月前にこの連載で書いたことを、もう一度繰り返す――。

 1999年には神奈川県警の不祥事をはじめとする警察の失態が
やたらと続いていたりはしたけれど、警察とは男社会の象徴のよう
なもんだ。神奈川県警の不祥事の中には、新入り警官を集めて素っ
裸にして陰毛を焼いたという、愚かな体育会みたいなものもあった。
「ああ、典型的な男社会だな」と思って、その男社会が規律をなくし
たまま平気で不手際を繰り返す。取り締まる側の社会が、取り締ま
る能力をなくしている――ということは、「不幸な犯罪を起こさせな
いように教育を施す」という機能が停止しているということでもあ
る。男達の社会がそうなら、自殺した京都の二十一歳も、精神状態
不安定の新潟の三十七歳も、どっちも父親が死んでいる――死んだ
頃から様子がおかしくなったという話もある。つまりは、「自分達の
後継者を育成しなければいけないはずの男社会が、それを怠ってし
まうとどういうことになるか」ということを示す側面がいずれの事
件にもある、ということだろう。

 今月の文章は、ほとんどこの三ヶ月前の文章の長大なる繰り返し
みたいなものである。
                         (作家)


橋本治

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 年一月号から九九年九月号掲載分をまとめた
 同名の単行本が、発売以来、好評をいただい
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 の時代を解き明かしてくれます。来たる二十
 一世紀の生き方に勇気を与えてくれる、興味
 深い一冊です。2,350円+税 マドラ出版刊

           

 ★許可なく、無断で、原文のまま掲載させていただきました。

   


 こたつ――室町時代に登場し現代に至るまで                                 日本人に愛され続けている冬の暖房器具                        しかしこんなにのんきで攻撃性のない                              平和の象徴のような物体が……                                   オレは今 憎くて憎くて仕方がない――                                                         ♪Lesson9♪62p
  ♪ギャグはこたつで丸くなる♪                          『のだめカンタービレ』#2(二ノ宮知子作画)読んだ?                                                          読んだ?                                                          読んだ?                                                          読んだ?                                                          読んだ?                                                          読んだ?                                                          読んだ?                                                          読んだ?                                                          読んだ?                                                          読んだ?                                                          読んだ?                                                          読んだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ?アタシはダレ?

 
       
   

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アタイの鍋奉行日記

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  「うざい」と「キモい」が満載で〜す。 (^ ^;
  (んなこと自慢して、どうするん?)
                     ♪割れ鍋にギャグ蓋♪ 

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