渋谷とともに若者に人気のあるまち下北沢。ここには、東京都内の数あるおでん屋の中でも、私がもっとも愛好する店のひとつ「宮鍵」がある。
おでん屋「宮鍵」へ初めて行ったのは、おそらく8年近く前のことだったと思う。広告代理店に勤める男で、いまだに学生時代からの酒縁の断ち切れない友人に案内された。
建てつけのあまりよくない引き戸を開けて店内へ入ると、おでんを煮るほのかな匂いと客のほどよい騒めきが店全体を包んでいる。店内は、調理場を囲むカウンター席と奥座敷が少しあるのみでそう広くはない。客筋は、若者のまちにしては年配の人が多く、そのほとんどがふたりないしは少人数のグループである。いつも混雑していて、席が空いていないことが多いので、私は閉店間際に行くことにしている。何軒かハシゴしたあとの仕上げにこの店へ行くのである。
この店の日本酒は、山形の「初孫」。しかし、私はここで日本酒を飲んだことがほとんどなく、注文はいつも「黒ビール」。ハシゴ酒のあとでは日本酒を飲むのも辛いので、コクがあって喉ごしスッキリの黒ビールを飲むことにしている。
ロールキャベツとダイコン」。この店に限ったことではないが、私の最初のおでんの注文はいつも決まっている。ここでは、よく煮込まれたおでん種を、店の女将みずからが皿に盛って、だし汁をたっぷりとかけてくれる。口の中でとろけるようなダイコンの旨さは格別である。
私はこの十年来、「宮鍵」に通いつめている。しかし、決して大人数で行くことはない。人生、哲学、芸術などについてしみじみと語り合える友とのみ行くことにしている。おそらくこの店でおでんをつまみ、飲んでいる人の多くがそうではないだろうか。「宮鍵」は、静かに語り合うにふさわしい雰囲気の店なのだ。
宮鍵(世田谷区北沢2−33−12)
酒蔵奉行所通信第2号(平成5年7月1日発行)掲載文を修正
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