おでんは全国的な食べ物だから、北は北海道から南は九州まで(沖縄におでんがあるかは知らないが。)大抵の盛り場にはおでん屋がある。旅先で夜の盛り場を徘徊しているときは、常に「おでん」の看板を探している。「おでん」の看板を見つけると立ち止まり、その店がおでんをメインの酒の肴として供する店かどうか、つまりおでん屋と呼ぶに値する店かどうかを外から見定める。
おでん屋らしいと思えば、入口の引き戸(おでん屋には手動の引き戸が似合う)を開けて中へ入る。この瞬間、よいおでん屋には、その空間だけ時がゆったりと流れているような共通の雰囲気を感じとることができる。
福岡県久留米市の繁華街の場末に、「多こ萬」というおでん屋がある。やや狭い入口の引き戸の脇には、大きく「おでん」と書かれた看板が出ていて、おでん専門の店であることがわかる。中へ入ると、予想どおり、あわただしい外の喧騒からは無縁のゆったりとした空気を感じる。カウンターのみの店内の一席に腰掛け、まずお酒を注文する。酒は、「花の露」のぬる燗。一合徳利からちびりちびりと猪口に注ぎながら、あらためて店内を見まわす。
竹製の編み上げ天井に、年期の入った調度品の数々。とりわけ目を引くのは、
25年間使用しているという木製の丸椅子と棚の上に立てかけられた小鹿田焼の大皿だった。
店内で立ち働くのは、白衣を着た細身の女将さんひとり。黙々と、客から受ける注文のおでん種を皿にとって供している。私も大根、すじ、玉子、厚揚げ、餅袋、竹の子などのおでんを次々とお願いする。おでんの種類はそれほど多くはないが、だし汁のしみ具合がよくおいしい。
はじめは女将さんの陰になっていて気が付かなかったが、食器棚のほうへふと目を向けると、ご主人とおぼしきスナップ写真が置かれ、その前にはお酒の入ったコップが供えてある。女将さんは、亡くなったご主人の遺志を継いで、このおでん屋を続けているのだろうか。事情を尋ねてみたい気もしたが、初めて現れたどこの馬の骨かもわからぬ旅の者に話す必要もないことだろうから、止めておこう。
それにしても、何か人間ドラマを感じさせる気になるおでん屋だった。
多こ萬(福岡県久留米市六ツ門7−40 0942−32−7568 土・日休み)
酒蔵奉行所通信第13号(平成10年2月1日号)掲載文を修正
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