笹岡先生の思い出・補遺
ぼくは新潟の越路町にある越路中学校に入学して笹岡茂先生にめぐりあった。先生は昭和63年4月15日に58歳の若さで他界した。笹岡先生のことは『笹岡先生の思い出』に紹介した。そのなかで、機会があれば下田村を訪ね、先生のお墓参りをしたいと書いた。それがこのたび実現した。2002年7月11日、下田村の笹岡先生の墓参りをおこない、仏壇に線香をあげてきたのである。以下にそのときのことを記すことにする。
新潟県南蒲原郡下田村。ここは笠堀ダムのカモシカや八木ヶ鼻のハヤブサで有名なところである。下田村の長沢という集落に笹岡先生の実家がある。
先生の奥さんのフミさんから下記のことをお聞きした。
・ 茂先生は見附で倒れたので、ほとんど下田には来ていない。
・ 中静くんが家族で見附の家まで、お参りに来てくれた。下田には来ていない。
・ 見附にいたときには、東北中学の卒業生もふくめ、いろいろな人が遊びに来た。
・ 下田の家の敷地には、見附の家にあった樹木などたくさん移植した。
・ 越路中学校の隣の高橋邸のもみじも実生のものを育てて、見附に植えていたが、それも下田に移植した。
・ 茂先生はノリウツギの花がとても好きだった。(奥さんはその花を墓前に捧げた。)
・ 茂先生が教頭で赴任すると、そこが廃校になるというジンクスがあった。
・ 最後の中学校では、校長の引きが強く、次の校長、その後、下田村の教育長にという話があった。
・ クレヨン画のことを話してくれたのは金子が最初だ。変わった色の使い方をする人だった。茂先生の弟(寛氏のことか)が学校の宿題で絵を描くときは、兄の茂先生の作品を代わりに提出していたこともあった。
・ 見附の家は本所1丁目にあったが、近所の子供たちは笹岡宅のことを称して、ジャングル1丁目と呼んでいた。 これは、木がうっそうとしていたから。
・ 茂先生のお父さんの虎雄氏が八木ヶ鼻のすぐそばにある森町中学校の校長先生をしていたとき、ハヤブサの繁殖を見に、中西悟堂が訪れた。そのときのことを4つの短歌にし、それを書にしたためた。悟堂が帰京してから、その書が送られてきたという。悟堂は新潟には来たことがないという説があり、その反証として、ある人が写真に撮っていったという。また、住職さんが悟堂の名を知っており、ここにこんなのがあるんですかと、言っていたそうである。中西悟堂は天台宗の僧侶で文学者。野鳥の会の創設者として知られる。
・ 仏壇の隣の壁には、遺影が飾ってあり、その額縁のなかには、2000年11月3日に越路町でシンポを開催したときに撮影した奥さんと教え子が一緒に写った写真が入っていた。それとともに、中静くんや細川さんの名刺も入っていた。
下田村には長沢、駒込、桑切に笹岡姓の家がある。いずれも、先祖が同じで、かつて藤原姓を名乗り、戦国時代は笹岡郷に城を構え、3万石を拝領していた。しかし、戦により落城し、駒込邑に逃れたという。そして、かつての地名にちなみ、笹岡姓を名乗ったという。徳川吉宗の代になり、越後村松藩主の堀丹波守の命により、長沢邑に移った。この時点で、長沢と駒込に笹岡家が分かれたという。笹岡茂先生はこの長沢笹岡家の当主であった。長沢笹岡家の祖、茂兵衛恒好は村松藩主の堀家のとりたてを得て村松藩士となり、その次男とともに下田郷の開拓に尽力。環境庁の笹岡達男氏は駒込笹岡家の系列という。
なお、村松藩の堀家は江戸初期の長岡藩主・堀直竒が始まり。長岡の後、直竒は村上藩主を経て、村松へ。一族の椎谷藩主、須坂藩主とともに、明治になり、堀姓から戦国以前の奥田姓に改名した。堀直竒の後、群馬大胡から越後長峯を経て、牧野忠成が長岡に入封した。茂先生の勤務された越路中学校のある地域は旧越後長岡藩領に属する。
達男氏の曾祖父の鐡次郎氏と祖父の俊男氏のお墓まいりもすることができた。もともとは駒込にあったが、長沢に移築された。現在、長沢の笹岡家の先祖が開基の宝積院の隣にある。(2002.8.28)