笹岡先生の思い出
中学校時代にいっぷう変わった先生がいた。理科の先生で、笹岡茂先生という。かれが着任してまもなく、生物クラブを担当、クラブの主な活動は新潟県の越路町内の植物採集であった。生徒はさまざまなテーマを設定して、植物採集をおこなった。たとえば、同級の西沢一郎君は越路町の単子葉植物をテーマにし、その後、イネ科植物に特化した。同じく、鷲頭正晴君は越路町の樹木をもっぱら採集していた。私は、シダ植物に関心を持った。
毎年、長岡の科学博物館主催の植物標本コンクールがあり、生物クラブの生徒たちも参加していた。このコンクールで賞をとると、野冊や根堀といった植物採集キットがもらえた。これを目標にせっせと植物採集にいそしむわけである。植物標本、いわゆる押し葉を作るには、新聞紙にはさみ、それに重しを乗せ、新聞紙を毎日とりかえてあげなければならない。これがけっこう、たいへんなのだ。紙替えをなまけるときれいな標本はできない。できあがった標本をアラビアゴムという糊で台紙にはり、それをまとめてコンクールに提出する。私は、ほかの人に遅れて、中学3年のときにやっと賞をとることができた。
中学の教務室の先生の机上にはつねに保育社の原色植物図鑑が置かれてあり、これを目当てに休み時間に教務室に通ったりした。放課後は、先生は生徒を引き連れて中学校のある巴ケ丘の周辺を植物採集に出かけるという日課だった。ランの仲間の花のきれいなミヤマウズラや、寒地性のシダのオオバショリマ、イネ科で暖地性のトウササクサなど、いろいろな植物の名前を覚えることができた。越路町は、山地と平地からなっており、私が育ったのは山あいの地域だったから平野部の来迎寺や浦には出かける機会がなかった。あるとき、白山の工場用の埋め立て地に採集に出かけることがあった。そこで、イヌドクサというシダを見つけたときは感激したものだ。
ときには遠出することもあった。一度、米山海岸をみんなで採集旅行に出かけたことがあった。海浜に生える植物は変わったものが多く、驚きの連続であった。ハイネズやハマヒルガオ、ハマネナシカズラ、ハマボウフウ、コウボウムギ、マンテマ、ウンランなどはじめて見る植物ばかりであった。
こうした経験がとても役に立ったことがある。やがて高校から大学に進み、私は農学部で林学を専攻した。そこでは樹木学実習というのがあって、毎年、春季の田上の護摩堂山日帰り樹木採集実習と夏季の新潟県周辺の高山への実習があった。私のときは、夏季は谷川岳と上州武尊に登った。前者の護摩堂山では、山頂にたどりつくと、広場に樹木を50種とか60種並べて、その名前を9割言い当てなければ、下山できないということになっていた。中学校時代の経験のおかげで、1回目でパスすることができた。1種わからないものがあった。ニガキという木である。大学院生になると、鳥の研究に進んだが、多雪地域ではどの鳥がどの樹木で好んで餌を採っているかといったことを研究した。冬は樹木はほとんどが落葉してしまうため、樹形、樹肌などから種名を決めることになるが、これもそんなに難しくはなかった。
さて、笹岡先生に関することで、胞子伝説というのがある。中学校の理科室の廊下わきの地面に、あるときびっしりとヒロハハナヤスリというシダが生えたことがあった。その後、数年して先生は田麦山中学校に勤務するようになった。田麦山は越路町にくらべ、さらに雪の多いところである。石垣にこれもシダの一種、暖地性のイノモトソウが生えていたという。先生の友だちから、あちこちでシダの胞子をばらまいているんではないか、と言われたそうである。あるときに先生は、八ヶ岳の硫黄岳にあるオーレン小屋の名付け親は自分だと話してくれたことがある。これはあまり知られていないことだと思う。
先生は植物のほかに、絵画も趣味であった。田麦山に行ったときに、先生の描いたクレヨン画をいくつも見せてもらったことがある。昔は油絵もてがけていたようである。学校では美術も教えたことがあるそうだ。昔、長岡の郊外の山で絵を描いていたら、散歩中のおじいさんがそれを覗き込み、「ずいぶん変わった絵を描くな」と言ったそうである。その人は長岡出身の文学者・松岡譲であったとか。
先生とのつきあいは、中学校以降も続いて、ときどき見附のお宅までうかがった。大学生になると、お宅でビールを何本もいただいた。そう、先生はお酒飲みなのである。お昼ころに行くと、早速冷蔵庫からビールを出してきて、飲み始める。途中、休憩を入れて、お宅の庭に降り、いろいろな植物やシダを見て回るのが楽しみであった。また戻って、飲み続けるという具合であった。私は一時、大学の先生になりたいと思ったこともあったが、これまで教師経験というものは一度もない。でも、教え子たちみんなと飲みに行ったり、かれらが卒業後飲みに訪ねてきてくれるというのが理想的な教師像ではないかと思う。イヤな教師と飲もうなどとは思わないからだ。この基準に照らせば、先生は理想的な教師だった。
余談だが、そういうような先生とはあまり出くわしたことがない。でも、新潟大学の豊島重造教授はそういう先生だったし、私のスイス生活時代に知り合ったシドニー大学のハリー・メッセル教授も無条件に尊敬できる先生だった。豊島先生とは、大学時代、ウサギが何頭いるか推定するために、雪山でノウサギの足跡を追っかけた。先生のお宅にもよく酒を飲みに行った。メッセル先生には、もちろんかれの学生というわけではなかったが、いろいろなことを教えてもらった。メッセル先生は、シドニー大学の物理学の先生で、戦後日本の国費留学生を受け入れた世界で最初の人である。その後、自然保護の分野に進むとともに、ボンド大学の総長も務められた。私が昨年、国際自然連合IUCNの種の保存委員会SSCの役員に選ばれたときは、自分のことのように喜んでくれた。でも、これだけ師と仰げる人がいるということは、まだ幸せなほうかもしれない。
さて、笹岡先生に教わった生徒たちは大きな影響を受けたにちがいない。私は、その後大学の農学部に進み、今は環境関係の仕事をしているし、教え子のひとりである中静透くんは、植物生態学の道に進み、ブナ林など森林がどのように維持されているか、その分野では国内的にも国際的にもよく知られた生態学者である。地元に残った教え子たちも、趣味として自然や植物と親しんでいる。
先生は、10年少し前に亡くなった。葬式に行くことができず、そのわだかまりが心の底にずっと残っていた。たまたま、昨年11月に越路町で「里山と水辺の保全を考える」というシンポジウムがあり、その機会に笹岡門下生が一堂に会することになった。その席に、笹岡先生の奥さんが参加してくれた。20数年ぶりでお会いすることができ、胸のつかえが少し下りたような気がする。機会を見つけて、笹岡先生の出身地である下田村のお墓参りができればと思っている。(2001.10.7)
2002年7月11日、雨の降りしきるなか、下田村に出かけることができた。そのときのことを、「笹岡先生の思い出・補遺」としてまとめておく。(2002.8.2)