山行記録
昔々、山にときどき登っていました。記憶がなくなる前に少し記録しておこうと思いました。すでに、だいぶ、記憶がなくなりましたけれども。標高の低い山から高い山まで、原則として山頂を究めた山を中心に記載します。記載の内容はすこしずつ改善、膨らませていきたいと思います。これから登る山は比較的詳しく紹介できると思います。昔の写真を探し出して、掲載しようと思います。なお、山の中腹をかすめたり、山麓で調査をしたりした山は、ここをクリックしてください。その他の山々。
標高2145m。高校生のときに生物部に在籍していた。2年生のときに最初に登った山。山頂には池塘があり、稲か何かの苗を植えたようだとのことから苗場山と名づけられたという。高校2年のとき下山しているとき、死者はなかったものの、先発隊が乗ったバスが崖から転落して生物部の仲間に怪我人が何人も出た、いまわしい記憶がある。その後、大学に入って、先輩の角張さん、太田さん、紙谷さんらの手伝いで、苗場のブナ林やオオシラビソ林の生態調査をおこなった。和田小屋にも何日も泊まったことがある。和田小屋周辺ではホオジロ科に属するクロジが囀っていた。中の芝ではオコジョがちょろちょろと現れたりした。オオシラビソ林にはキクイタダキが高密度で生息している。最近では神楽峰からスキーがすべれるようになっている。神楽峰から山頂に向かう途中の雷清水の水がおいしかった。マルバダケブキの黄色い花が印象的であった。日本百名山。
2回登った。1回目は火打方面の山小屋(高谷池ヒュッテ)で泊まった。その夜は、硫黄の匂いが非常に強かったが、翌朝、焼山が突然、噴火したことを知った。焼山の避難小屋にいた人たちは無事、その前にテントを張っていた千葉大園芸学部の学生のグループが噴火で飛ばされた岩石の直撃を受けて亡くなった。最初、避難小屋にこの学生たちが泊まっていたが、遅くなって、女性のグループが到着、自分たちはテントを持っていたため、その場を譲っての災難だった。2回目は妙高の外輪山を通って、関・燕温泉へ抜けた。黒沢池ヒュッテで泊まった。このヒュッテは有名な建築家の設計だそうだが、景観的に違和感を覚えた。途中で惣滝という温泉が滝となって流れているところがあった。いずれの山も日本百名山。
写真は左が2000年11月の妙高、右が2001年5月の妙高。手前の池は、いもり池。
1977m。大学生のときに、樹木学実習と称して、群馬県の谷川岳と上州武尊山に登った。水上から谷川温泉をとおり、谷川岳に登る。谷川岳はよく遭難するが、そんな山とは思えなかった。よく聞いたら、冬山登山や岩登りをする人がよく遭難するのだそうだ。マルバカエデやメグスリノキなど、これがカエデか?と思うような植物があった。山頂ではイワヒバリの写真を撮った。谷川温泉に泊まった。この樹木学実習は東大の林学科の倉田悟先生が講師だった。倉田先生はシダ植物や樹木の分類の専門家だったが、60歳の退官を待たずに鬼籍に入られた。日本百名山。
2158m。谷川岳と同じときに登った。水上から藤原ダム方向に行って、宿泊して、翌日登山した。尾根がダラダラと長かったが、登山道の両側にあるオオシラビソ林がとても、美しかった。メボソムシクイやコルリがよく鳴いていた。武尊と書いて「ほたか」と読む。日本百名山。
写真はいちばん右がぼく、ほかに金井くん、高瀬くん、今井くん、赤星くん。もうひとりはだれだろう。
2702m。大学院生のとき、後輩の柴田くんをともない、鳥類の調査のために石川県の白山に登った。山中で2泊した。この登山ではじめてクロユリの花を見た。下山は自然保護センターのあるところで、名前は忘れたが、温泉があり、汗を流したことを覚えている。その後、しらべたら中宮温泉であった。中宮温泉のそばまで来ると、急な坂を一気に降りて、橋をわたって温泉に着いた。日本百名山。
2290m。大学院生のときに北海道富良野市にある演習林に滞在した。演習林の教官の宮本さん、有澤さんと後輩の大河内くんとで層雲狭から大雪、然別と車で抜けた。大雪では、ロープウェーで途中まで行き、そこから旭岳に登るという軟弱な登山をおこなった。オオマシコやヒグマ、ナキウサギが見られるかと期待したが、見ることはできなかった。日本百名山。
同じく北海道にある低い山。富良野市の麓郷(ろくごう)は倉本聡の「北の国から」の舞台。その麓の字をとった。東大の演習林内にある山で、標高1459mではあるが、そんなに高いという気がしない。山頂近くまで車でいけるからだろうか。上記の宮本さんたちと行った。
503m。大学院生のときに後輩5人と、有明埠頭から奄美大島、沖縄本島、西表島と旅をした。12月ではあったが、ホタルやトンボが飛んでいた。沖縄本島では、与那の琉球大学演習林の宿舎に泊まった。そこを基地にして、沖縄本島の最高峰の与那覇岳に登った。でも、503mもあるようには思えなかった。
沖縄に行ったのは、本土復帰まもなくのころだった。それ以前は、パスポートなしで行ける琉球の最南端は与論島だった。本土復帰とともに、多くの内地人(沖縄の人たちがいうところのヤマトンチュー)が訪れた。その後、何度か沖縄を訪ねる機会があった。琉球大学の演習林宿舎には、20数年ぶりで行くことができた。周りの植物や動物たちはそれほど大きなちがいはなかったが、大きなショックだったのは、沖縄を縦断する大きな舗装道路である。この道路を利用して、いろいろな商業採集屋が入り込み、ヤンバルテナガコガネなどを乱獲しているという。
あのとき、沖縄にいっしょに行った友人はみな、あのときのことをはっきりと記憶に覚えているそうである。
1586m。大学院を終え、研究生のころに後輩の杉田くんの調査の手伝いに浅草岳に登った。杉田くんは山頂から少し降りたところにあるブナ林の調査をしていた。そのブナ林は多雪環境のためか、匍匐していた。下山後、只見の温泉につかり、汗を流した。只見の駅から浅草岳には、叶津、入叶津と八十里越に向かう道を通って平石山経由で登る。アオハダの実がきれいだった。宿泊は山頂の測候用の避難小屋で、2、3泊した。八十里越は戊辰戦争で負傷した長岡の河井継之助がこしぬけ武士と自嘲しながら、越した峠。
標高993m。新潟県柏崎市の西方に位置する。高校生時代、全校生が米山登山をすることになっていた。それがはじめて米山に登ったときである。大学生時代にも登ったことがある。海に近い鉢崎(米山駅)から登りはじめるため、993mを登山することになる。標高に比べれば、けっこうきつい山かもしれない。帰りは谷根に降りた。登山道のヒメシャガがきれいだった。米山の名前は昔、お坊さんが日本海を舟が米俵を積んでいるのを見て、念力で米俵を米山まで空中を飛ばしたという話にちなんで名づけられたという。
米山は地元、柏崎を中心に親しみのある山で、「米山さん」とか「米峰」とかの名前がある。「米山さんから雲が出た」は三階節の出だし。
写真は柏崎から、兄の撮影。独立峰なので、周囲から遠方からもよく見え、親しまれている。
1778m。大学生のとき、秋の八海山に登った。東京からだと、前夜発、日帰りコースになるが、新潟からだと夜行がない。そのため、夜、五日町駅まで行き、そこから懐中電灯の明かりを頼りに、中腹の山小屋に泊まった。翌朝、登り始める。信仰の山である。八海山は上越線から見ると、山頂がごつごつして見える。山頂部は岩山となっているからで、山頂に行くには、鎖場をいくつか通らなければならない。鎖場はかなり危険なところにあるため、恐くて頂上に行けない人もいる。下山時は、地元のおばさんといっしょになった。若い頃結核になり、八海山の登り口にある神社に隔離されたと言っていた。駒ケ岳、中岳とともに越後三山のひとつである。
320m。千葉県にある。サルで有名なところ。中静くんの案内で登った。新潟から東京に出てきてからだったから、関東の常緑広葉樹は珍しいものばかり。名前もわからなったが、中静くんの解説で何種か覚えることができた。
新潟県越路町にある300mの低山。かつて戦国時代に甘粕氏の居城だったと言われる。子供のころときどき登った。枡形で祭りがあるときは、宝捜しの催し物があった。4月の枡形山はコナラなどの広葉樹の新緑がきれいだし、長岡市を中心に新潟平野が広く見渡すことができる。空気の澄んでいるときは、日本海が見える。
この山には山屋、下岩田、飯塚の3集落から登る道がある。山屋からと、飯塚からの道はその後舗装道路に変わり、車が通れるようになった。山屋からの登り口には牛池があり、4月、5月にはミツガシワの花が一斉に咲き競う。この写真は、枡形山から来迎寺、長岡方面を見たもの。遠くの雪山は方向から言って、守門岳であろうか。写真は地元の渡辺茂くん。
佐渡の相川町、大倉の集落に大学の演習林宿舎があったため、実習や調査など何度も出かけた。大倉は海に面しており、夜は佐渡沖のイカ釣り船の漁火が美しかった。宿舎の平野さんの作ったおいしい弁当を持って出かける。宿舎前の道路の終点が大倉越。標高700m。峠付近は日本海からの強風のために草原になっている。この演習林には、小規模のブナの天然林やスギ、ヒバの天然林がある。スギ、ヒバの林は大きく、見事である。
599m。おなじみの東京近郊の山。休日には多数の人が訪れる。何度か行ったが、大学院時代に一度、金井くんと秩父の小池さんとバードウオッチングに行った。2000年に登ったときは、久しぶりの山行だったので、けっこう疲れた。
2020m。奥秩父の山塊にある峠。峠には十文字小屋があり、小屋の周りにはシャクナゲが群生している。小屋の前には、リスやホシガラスが小屋のおじさん、おばさんがやる餌を目当てに訪れていた。2度行ったことがある。合計で4泊くらいした。1回目は今バンコクにいる樫尾さんの調査の手伝い。2回目は後輩の田中くんと。山小屋のおじさん、おばさんはたしか、沢登さんと言ったような気がする。田中くんと行ったときは、おばさんが買い置きの1合の紙パック入りの日本酒を飲ませてもらった。包装の開いている上部のものはアルコール分がほとんど飛んでいたが、下のものは日本酒だった。
2475m。甲州、武州、信州にまたがる山。十文字峠から三宝山を経て、甲武信ヶ岳へ。一度は、甲武信ヶ岳から梓山へ降り、千曲川上流部の信濃川上に向かった。そこから、小渕沢へと出て、新宿に戻ってきた。梓山に降りた林道周辺では紅花のイチヤクソウがきれいだった。
2483m。上記、甲武信ヶ岳に行く途中にある山。甲武信ヶ岳よりも標高が高いが、なだらかなため、どこが山頂なのかはっきりしない、山頂も甲武信ヶ岳とことなり、樹木に覆われている。
2082m。十文字、甲武信、三宝とともに奥秩父にある。奥秩父の栃本の先の川俣には大学の演習林の宿舎があった。ここに泊まって、よく雁坂まで鳥類の調査に行った。だらだらと長い尾根を登っていく。秋に登ったときに、一度帰りが遅くなり、あたりが暗くなりかけた。急いで下山しようとして、左足の膝を痛めた。その後、別の登山で左足をかばいすぎて、今度は右足を痛めた。
大学院時代、大河内くんと田中くんとで白駒池に泊まり、そこから山に登ったが、どこに登ったかは記憶が定かでない。縞枯山の特殊な植生は記憶に残っている。ちなみに、縞枯山の標高は2403m。
857m。新潟の新発田の奥、赤谷駅で降りる。大学時代の研究室の歓迎会で出かけた。みんなで大きなおにぎりを前日につくり、当日は山で豚汁を作った。豚肉を購入する係だった西島さんが汽車に遅れて、肉のない豚汁になるのではないかとあせったが、1本遅れで現れて一堂、ホッとした。俎倉山の頂上は植生がなく、裸地状になっていた。春先だったため沢筋にはまだ雪が多く残っていた。
1985年から90年まで約5年間、スイスのローザンヌに居住した。スイスはアルプスの国。有名な山はマッターホルン。テッシュまで車が入る。そこから、電車でツェルマットへ。ツェルマットの町では、電気自動車と馬車だけしか走っていない。ただし、消防車などの緊急自動車とゴミ収集車はガソリン車。ツェルマットからは登山電車でゴルナーグラートへ、そこから見るマッターホルンは格別である。ゴルナーグラートからは、氷河が眼下に見える。もうひとつの有名な山は、ユングフラウヨッホ。アイガー北壁があるのはこの山。どちらの山も日本人観光客が多い。ツェルマットは、スキー客も多い。日本人は雪が降っても、一所懸命滑っている。頂上を究めたのは、ローザンヌ郊外の山。フランスとの国境にはジュラ山脈がある。ここでは冬季間にクロスカントリースキーを楽しんだ。ジュネーブの南、フランス領にはモンブランがある。麓のシャモニーからロープウェイでエギーユミディ、モンブランへと。一度、ジュネーブ空港にすぐ降りることができずに、飛行機がモンブランの周りをグルグル飛んだことがあり、空から堪能できた。
写真はジュラで。右から、サラ、ヨシオ、クリス、ジャック、ドリス、ジョスリン。
727m。2002年5月3日、連休後半初日に景信山に登ってきた。11時45分ころの高尾駅北口発のバスに乗り、12時過ぎに終点の小仏で下車。そこから歩き出し、12時20分登山道入口へ。そこから小仏峠(548m)を目指して登山開始。12時45分に峠に到着した。持参したコンビニのおにぎりを食べる。約20分の休憩後、景信山へ。到着後、ナメコ汁を飲んで、14時に出発。小仏のバス停へは向かわず、小下沢(こげざわ)へ降りた。15時5分に林道到着、そこからてくてくと15時45分にバスの通っている道路へと出た。連休中ということもあり、大勢の人出だった。かなり暑い日だったが、稜線をわたる風が心地よかった。景信山の頂上は茶屋がふたつあって、登山客がいっぱいいた。なかに、へたなハーモニカを吹いている輩がいて、静寂と鳥の囀りを楽しもうと思うものにとっては、ちと不粋というものだろう。出現した鳥:カケス、メジロ、クロツグミ、ホオジロ、アオゲラ、ヤマガラ、コジュケイ、ヒヨドリ、イワツバメ、ハシブトガラス、ウグイス、センダイムシクイ、サシバ、ヒガラ、コゲラ、ヤブサメ、キセキレイ。写真は左が小仏峠、右が景信山。
新潟市の西方に北から角田山、多宝山、弥彦山、国上山と4つの山が連なる。弥彦山は標高634mで、越後一宮の霊峰として知られている。麓には弥彦神社や岩室温泉がある。登山には小学校のときにたぶん遠足か何かで登ったような気がする。記憶のはっきりしているのは、大人になってから車で頂上まで行ったことである。国上山は良寛の五合庵があった山として有名。
東京都港区にある26mの超低い山。山の上には愛宕神社やNHKの博物館、茶屋などがある。職場がその近所のため、散歩や食事がてらによく出かける。南側からは「出世の石段」と呼ばれる階段がある。愛宕山周辺にはお寺が多い。また、南側には幕末まで長岡の江戸藩邸があった。
新潟県の田上駅から湯田上温泉をとおり登る。標高274mの低い山。大学生時代に、樹木学実習で新潟から日帰りで行った。採集した樹木を山頂に並べ、その種名を9割ほど言い当てないと、新潟に帰してもらえないというやり方で名前を覚えさせた。たまたま中学生時代にいい先生にめぐりあって、植物の名前はだいたい知っていたから、かんたんだった。この山の山頂には護摩堂城という山城があった。
今から20年近く前だったろうか。新潟のグリーンシグマという会社を訪れるため、新潟まで夜行で行ったことがある。新幹線のないころで、たしか上野始発急行の「さど」だったと思う。上野で乗って、すぐ睡眠。明け方、清水トンネルを越えて、眼を覚ました。新潟に着くまでのあいだ、持っていた英語の論文を読んですごした。ふと気がつくと、真向かいの席にピッケルを持った女性がいた。真夏だったし、新潟の山では積雪のないころだったので、どうしてピッケルなんか持っているのだろうと不思議に思った。かのじょも、英語を読んでいたぼくに関心をそそられたらしく、どちらかともなく、会話を始めた。聞くと、新潟から当時のソ連に飛行機で飛ぶという。そして、エルブルースという山に何人かで登るのだとのことだった。新潟駅に集合ということで、お昼くらいまで時間があるとのこと。新潟駅に着いて、朝食をいっしょにとろうということになり、駅前で早朝からやっている食堂に入った。朝からではあったが、ビールを飲んで、いろいろな話をした。その後、駅近くの本屋へ。そこで、飛行機のなかで読んでもらおうと鈴木牧之の『北越雪譜』を買い、かのじょに与えた。そしたら、その同じ本屋におじいさんがおり、かのじょから、「あの人が私たちの会長で、脇坂さんというお医者さんだ」と教えてもらった。以来、脇坂さんの名前は頭のなかにずっと残っていた。その後、ぼくはスイスに職を得て5年間くらした。帰国して、何年かしてNHKを見ていたら、その脇坂さんが主役のモンブラン登頂のドキュメンタリーをやっていた。80歳の傘寿のお祝いをモンブランでやるために、ふだんのトレーニングや食事、モンブラン登頂の模様などが映されていた。テレビを見て、超スーパーおじいさんだと思った。最近、かれの書いた山と渓谷社の『八十歳はまだ現役』という本を買った。それにはふだんの徹底して節制している食生活のこと、トレーニングのことなどのほかに、登山の記録が書いてあった。スイスの山をこよなく愛しているようだ。豆を主食に米はいっさい食べないという。ただし、赤ワインは健康にいいので飲んでいるとか。最近、スイス時代に山好きになったという林さんと何度か会う機会があり、脇坂さんのことが話題になったので、この文章を書くことにした。汽車のなかで会った人は神戸さんといい、当時は野田にある大学の図書館に勤務されていた。最近の消息はわからない。ちなみに、脇坂さんは1913年うまれだから、来年で90歳。エルブルース山は、5642m。かれの本を読むと、この山のことが登山の記録として載っていない。ということは、新潟まで一隊を見送りに来ただけなのか、あるいは現地には行ったが、登らなかったかのどちらかだろう。
登山ではなかったので、忘れていました。大学生のころ、何人かで山形の蔵王へスキー旅行。ロープウェイで山の頂上まで行き、そこからスキーで下まで下りてきた。10年くらいスキーをしていなかったので、ぎこちない滑り方だった。頂上には、お地蔵だったか、石塔だったがあったことを覚えている。日本百名山。
新潟県六日町にある標高634mの山。坂戸山は山全体が山城になっており、登っていくと、空堀がある。ここには、グリーンシグマの調査で登った。頂上は草原状になっており、オオシュロソウなどの植物が生えていた。この山は新幹線からよく見える小さな山。なお、坂戸城は上杉景勝、直江兼続のゆかりの城。上杉のあと、堀直竒が城主となった。直竒は信州飯山を経て、長岡の蔵王堂へ、長岡と新潟の町づくりの基礎をつくった。近くの麓の集落の神社に大きなカツラの木があったことを覚えている。
670m。2003年1月5日、高尾から城山を通り、小仏峠経由で裏高尾、高尾山口に抜けた。京王線で烏山から高尾山口まで行き(330円)、ケーブルカー(470円)に乗った。11時山上駅着。11時半高尾山頂。12時40分城山到着。富士山の見えるところで昼食を兼ねて休憩。13時出発、小仏峠13時15分着。そこから、裏高尾へ下り、自動車道路を歩いて15時20分京王線の高尾山口到着。1,2,3日と東京では雪がちらちら舞い、4日は朝から暖かかった。気温も高く、登山者の歩いたあとが溶けて、4日の晩に冷え込んだため、かなり凍っていた。足もとに気をつけながら、ゆっくり歩いたため、時間がかなりかかった。城山に着いたときは、車があって少しがっかりしたが、車道が山頂まで通っているようだ。小仏峠を少し降りたところでソウシチョウの群れに出会った。もともと台湾などにいる鳥で、日本には飼い鳥として入ってきた。それが逃げ出して野生化したもので、日本のあちこちで繁殖している。この日はほとんど風がなく、穏やかな日だった。
2003年7月6日。高尾から一丁平を経て城山へ、そこから日影沢林道(車道)を日影へ、バス停から高尾駅へ。曇りだったから展望が悪かった。
857m。2003年5月4日、京王八王子(9時13分)からバスで陣馬高原下(10時5分)へ、そこから明王峠へ、途中で明王峠へは行かず奈良子峠(11時20分)へ。陣馬山(12時)で昼食。栃谷へ降り(13時45分)、落合(14時35分)、藤野駅(15時10分)へ。行程のほとんどがスギ、ヒノキの人工林を通るが、ときどき明るい広葉樹林が出現する。陣馬高原下から奈良子峠へのルートでは3人の登山者にしか会わなかった。峠に着いたとたん、大勢の人がいた。天気はよく暑かった。もやっていたため、遠望はあまりきかず、そのため富士山等は見えなかった。陣馬から降りた栃谷の集落周辺は日本在来のタンポポがたくさん咲いていた。落合の沢井川ではカジカガエルがきれいな声で鳴いていた。きょう出た鳥は、キセキレイ、ヤブサメ、ホオジロ、イカル、センダイムシクイ、シジュウカラ、ウグイス、ミソサザイ、オオルリ、コガラ、ヒガラ、コゲラ、トビ、サンコウチョウ、メジロ、ツバメ、イワツバメ、ツツドリ、アオゲラ、コジュケイ、クロツグミ。ニホンザルの鳴き声も聞こえたが、姿は見られなった。
130年前、薩長軍に敗れた長岡藩勢は栃尾、下田を経て、八十里越を会津に落ちた。2003年5月31日、当時の苦労をすこしでも知ろうと、長岡藩関係者を軸に、大白川から田代平へ。最初、会津叶津から田代平へ行き、そこから大白川に降りる予定だったが、残雪が多いだろうと、ルートを変更した。往復約5時間のハイキング。田代平ではミズバショウが満開だった。折から、台風が日本を襲い、前日の暑さから一転、雨模様だった。翌日は長岡の史蹟めぐり。この日も雨ふり。月曜からまた晴れた。八十里越では、カッコウやホトトギス、ノジコ、ウグイス、ヤブサメなどが囀っていた。コブシの仲間のタムシバが満開だった。大白川から田代平までは国有林の林道が通っており、勾配もゆるやかなため、時間さえかければ、年配の人でも歩けるコースだ。ミズバショウは何度も見たことがあるが、これほどの規模の群落ははじめてである。夏場の湿生植物も興味のあるところである。
2003年7月12日。生藤(しょうとう)山を中心とした山塊に登った。前夜、大雨が降ったが、日がさして暑かった。10時10分京王八王子発のバスで陣馬高原下へ。京王八王子からは1時間おきに出ている。11時10分陣馬高原下バス亭着。車道を70分歩いて和田峠着。和田峠には売店がある。そこから醍醐丸へ。醍醐丸は八王子市の最高点で、標高867m。1時に到着し、昼食。1時20分に出発。14時15分、連行山に到着。醍醐丸から連行山まではかなりの登りがある。連行山からの登山道はゆるやかで、あかるい落葉広葉樹の林で、気持ちがいい。茅丸(1019m)、生藤山(990.6m)を経て、三国山15時10分着。茅丸の頂上は狭く展望も悪いが、ベンチが置かれていて、緑に囲まれている。ゆっくり休むには三国山がいいだろう。そこから富士山が見えるはずだが、曇り空のために見ることができなかった。三国山から南側の道を降りる。佐野川峠までかなり幅の広い道がつづく。道の両側にはサクラが植えられている。かなり樹齢の高いのもあるから、江戸・明治に植えはじめたものか。途中に甘草水(かんぞうみず)という水量のすくない清水が沸いている。佐野川峠からスギ植林地の蛇行した急坂を降り、16時10分舗装道路に出る。16時35分に上岩のバス停。5分後にバスが来た。それを逃すと18時までないから幸運だった。ウグイス、クロツグミ、ホオジロ、ヒガラ、ミソサザイ、ヒヨドリ、ヤマガラ、コガラ、エナガ、ホトトギス、アオバト、トラツグミ、イワツバメ、オオルリ、ムクドリ、ツバメなど。イチヤクソウが咲いていたほか、エゾハルゼミが鳴いていた。
醍醐丸 | 連行山 | 茅丸 | 三国山 |
三国山 | 甘草水 | 甘草水のイノシシのぬた場 | エゾハルゼミ |
2003年7月27日、山梨県の扇山へ行った。1138m。うす曇で涼しい日だった。烏山を9時に出発して、高尾で中央線に乗り換え。接続が悪くて十時50分鳥沢下車。そこから梨木平へ。11時50分に到着。そこまでは舗装道路をダラダラ歩く。梨木平はキャンプ場施設がある。いよいよ山道へ。スギ林の中を最後の水場、山の神、水呑杉を経て13時20分に尾根へ。そのあたりから落葉広葉樹になる。ブナもあった。尾根で右折。そこから10分で扇山山頂に到着した。扇山からはすばらしい富士の秀麗な姿が見えるはずだったが曇り。昼食をとったあと、13時50分に出発。落葉広葉樹林、アカマツ林、スギ林を通り、白滝山神社へ、君恋温泉を経て、中仙道の犬目の宿、大野貯水池、中央線の四方津駅へ。四方津では駅に売店がなかった。近所で酒屋を探したが、閉店中。しかたなく、ジュースを買って、喉を癒した。帰途、高尾で缶ビールを飲んだが、あまりおいしくなかった。出てきた鳥は、ヒヨドリ、ウグイス、ミソサザイ、イカル、キビタキ、クロツグミ、カケス、コガラ、コゲラ、ヒガラ、ホトトギス、アオバトなど。ヤマユリ、オオバジャノヒゲ、フシグロセンノウ、ハエドクソウなどが咲いていた。
2003年9月23日。前前日の台風もおさまり、晴れ。気温が低く、涼しかった。烏山を8時発。上野原駅からタクシーに乗り、和見という部落へ。9時半に分校近くでタクシーを降り、そこから権現山へと向かう。山の中の集落で、ずいぶんいなかだ。舗装林道を歩く。ときどき林の中に入り、舗装道路からはずれ、そしてまた戻る。10時18分、和見峠からいよいよ登山道に入る。11時10分に尾根に到着。右側に折れるとすぐ雨降山だ。「あぶりやま」と読み、頂上ははっきりしない。来た道を戻り権現山へ。途中、日本武尊命を祀った社をすぎ、急坂を登るとまもなく権現山である。12時ちょうどに到着。標高1312m。ここで持参したおにぎりをほおばる。20分休憩したのち、出発。遠くを仰ぎ見たら富士山がよく見えた。尾根筋を急降下、浅川部落への分岐点(ちょうど、鞍部)に13時20分着。そこから扇山へと登る。この扇山は、前回、2ヶ月前に登った山。14時10分、扇山山頂へ到着。ヤマドリゼンマイの群落を抜け、尾根筋から植林地へ。前回、登りに使ったルートを逆方向へ、15時25分梨木平、そこから鳥沢駅へてくてくと、16時20分着。
雨降山 | 権現山 | 権現山から見た富士山 | 扇山(上と同じ場所) |
2004年4月11日。つい最近、今年最高気温を記録したが、この日も暑かった。ほとんど無風状態であった。10時27分、鳥沢駅をスタート。10時40分桂川の橋をわたり、11時貯水池着。11時30分高畑山への分岐点のところにある石仏。11時50分夫婦杉。12時30分穴路峠着。そこで昼食。目的の倉岳山でお昼にしようと思っていたが、我慢できず、ここで昼食にした。そこから倉岳までは20分の登りで、まもなく13時15分に到着。小休憩の後、13時27分に出発、14時立野峠、そこから月屋根沢を梁川駅に向かう。15時30分に舗装道路に到着。15時50分に駅に到着。駅の下に酒屋があり、そこで缶ビールを買う。帰り、高尾までの中央線は登山客で混んでおり、立ったまま高尾駅へ。暖かかったためか、展望はよくなかった。空気が澄んでいれば富士山が見えたはずである。東京はサクラは終ったが、山梨はまだ咲いていた。ミツバツツジ、カタクリなどが咲いていた。
倉岳から | 倉岳山頂 | 立野峠 | ミツバツツジ |
ミツバツツジ | スミレの仲間 | スミレの仲間 |
2005年5月5日。高尾の雑踏を避けて、南高尾山稜へ。高尾山口を9時半に出発、梅ノ木平まで行き、そこから左折、榎窪川沿いを三沢峠へ。途中にグリーンセンターという宿泊施設がある。三沢峠を右折、西山峠へ。そこで昼食。入沢川沿いを梅ノ木平まで下る。そこから甲州街道を高尾山口へ。駅前の川でキセキレイとセグロセキレイを撮影して、2時11分発の準特急で烏山へ。カルガモ、キジバト、ツツドリ、イワツバメ、コゲラ、ツバメ、ムクドリ、キセキレイ、セグロセキレイ、ヒヨドリ、サンショウクイ、クロツグミ、アカハラ、ウグイス、ヤブサメ、エゾムシクイ、センダイムシクイ、キビタキ、オオルリ、サンコウチョウ、コガラ、ヒガラ、シジュウカラ、ヤマガラ、ホオジロ、メジロ、スズメ、カケス、ハシブトガラス。ヤマツツジが満開だったほか、ヤマブキソウがきれいだった。川では、カジカガエルがよく鳴いていた。連休中なのにけっこう静寂感を味わった。高尾山口に近づくにつれ、急に人が増えた。