『日本人の悲哀とならぬよう』
日本に五星紅旗が乱舞した日
  *チベット人2世の訴え
  *四川大地震の被害拡大は中国共産党による“人災”だ(四川の大地震と台湾の地震被害の共通性)
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    『日本人の悲哀とならぬよう』 2008/6/21 日高よし子
 台湾も国民党の馬総統が就任したと思ったら、いきなり日本に対し『尖閣諸島の台湾領有権』の主張し、領海侵犯した台湾船を沈めてか、沈んだのかは定かでないが、対処した日本漁船に宣戦布告の如き発言に続き謝罪しろと、好き勝手に言いたい放題。
「自作自演してるんちゃうの?」と言いたくなる。日本の領海に侵入して、それで勝手に沈んで、何故日本が謝らんとアカンの?今台湾、中国とかが領有権を主張するなら、第2次世界大戦後、敗戦国の日本の全土としてアメリカ進駐軍(GHQ)が北海道から沖縄、そして尖閣諸島までを統治下に置いた、その時に台湾、中国は異議を申し立てるべきだったのではないか。そして、後に沖縄が日本に返還される時に一緒に尖閣諸島も日本に返還された、その折でもそんな主張は聞いたことがない。それを専門用語で「暗黙の了解」というのです。
 しかし日本は『不戦憲法』だという事を何処の国も知ってるから、高飛車に出られる。今回のこともだし、調査捕鯨船にしても。この近隣アジア情勢、アメリカは北朝鮮への『テロ指定解除』を認める方向に舵を切った。北朝鮮が核廃棄などと申告言明したところで、あの国内のこと全てを外部の者が把握できる分けではない。
 安部政権の時に法案化なった憲法改正の委員会も全然機能していず、国民投票法案も進展しない。総理大臣が代わればこうも政治が鈍感で日本の対処戦略が全く見えなくなるとは。それで中国軍との交流為と自衛隊を中国へ約一週間行かせる様ですが、日本の同盟国アメリカから見ればこれは、どう映るんでしょうね。
日本の目指しているのは民主主義か否か、方向性がぼやけているのです。
  『政局』ばかりの綱引きで日本にとって肝心な事を、何故福田総理、国会議員はほったらかしにしているのか? 尖閣も、拉致も日本が国防を自立させれば解決出来ること。相手からすれば『力』の背景なくて、なにを恐るる、でしょう。

 中国人は、中国というその名の通りこの世界は自国が中心であるという意識を持っている。全ての国は中国に従うべきという中華思想である。だから中国によるチベット、ウルグイの植民地化、その各自治区での人権弾圧、漢民族の大量移住に伴う財産搾取は、ただ有無も言わせぬ力だけの支配、近代以前の野蛮人の所業。それが未だに息づいている故。法律を制定し「法の下に平等」を掲げての近代国家からは隔たったものである
 (下記は『日本が作ったアジアの歴史』黄文雄氏・池田憲彦氏著より)
【明治維新後、西欧に学んだ日本は東アジアで最初の近代国家を確立した。「真命天子」的、主人と奴隷制度の長かった中国や朝鮮はその『ジャパンインパクト』から海外へ留学させたが旧弊からは仲々脱皮出来ず効果は上がらなかった。(一例が、留学後福沢諭吉は『個人の独立自尊論』を主張し国家に大きな影響と貢献をした。一方中国、朝鮮には「独立自尊」という観念は全くなく、「独立」という言葉、分離独立は『悪』という考えだった。大陸のそんな旧態依然に福沢諭吉の『脱亜入欧』論が発せられた。)】以上。

 中国をオリンピック開催国に決めたのは、それらの状況が改善され民主的になる事の大きな期待があったと思うのです。しかし、全くの期待外れの状況の中であれば、日本はその事を糾弾する立場をとるべきだった。なんのためのオリンピックなのか?
オリンピック理念に反する国は出場はもとより開催国の資格もない。「五輪の輪」は、5大陸が手を繋ぎ、争う事、戦争のない世界を目指す、という意味
が込められているのです。

 日本の聖火ランナーに選ばれた誰も辞退しなかった事にも、失望を覚えた。本当に日本には理筋の通った人間がいなくなった。挙句に『フリーチベット!』と叫んだだけのチベット人を日本の警察は20日間も拘束した。(5月6日に勾留され、5月7日には胡錦濤主席の訪日があった事と関連付ける考えもある)<下記に詳細を引用>

下記は【雑誌「正論」webよりhttp://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0806/mokji.html
徹底特集 日本に五星紅旗が乱舞した日
<その1>
『聖火リレーに“抗議”の亡命チベット人二世を20日間も拘束』
長野県警は警察の魂を失ったのか(1)  産経新聞大阪社会部記者 林 英樹 
 5月17日午前九時過ぎ、一人の外国人が成田空港から日本を発った。笑顔で「日本のみなさんありがとう」と手を振りながら。台湾に住む古物商で亡命チベット人二世のタシィ・ツゥリン(台湾名・札西慈仁)氏、四十二歳。四月二十六日に長野市内で行われた聖火リレーで、卓球日本代表の福原愛選手の列の前に飛び出した「あの人」だ。
●マスコミが報じた虚像 
 産経新聞以外のマスコミ各社はタシィ氏のことを次のように表現した。「無職の男」「小太りの男」「台湾籍の建設作業員」…。彼が亡命チベット人二世ということにまったく触れず、あたかも狂人による蛮行かのように描いた。
 タシィ氏は沿道で私にこう話した。「オリンピックに反対しているわけではない。ただ、チベットの惨状を全世界に訴えたい。今日はその絶好の機会だと思っている」。
 インドで難民として育ったタシィ氏は、常に「どこにも所属しないホームレス」のような感じを抱きながら育った。国籍も戸籍もない。難民登録カードしか自らを証明するものはなく、職業や居住地も限られていた。その後、「Republic of China」という文字に抵抗感があったが、台湾の市民権を取得した。何よりバックグラウンドが欲しかったという。
 さらに、「自分自身も難民として大変だったが、それ以上に、両親がどれほど苦労してきたかを見ている。もし自分の国にいることができたのなら、自分の家があった。自分の畑があった。自分の仕事があった。それらをすべて捨ててインドに亡命せざるをえなかった。言葉すら話すこともできない異国の地で、何もないところから苦労をしなければならなかった。その原因についてはよく分かっているつもりだ」

 タシィ氏は1966年、家族の亡命先だったインドの難民キャンプで生まれた。
父親は中国のチベット侵攻後の1959年、政治的理由で中国当局に拘束され、死刑を宣告された。しかし執行前日、窓から飛び降りて脱走、一命を取り留めた。
その後、妻と当時七歳だった兄を連れてヒマラヤ山脈を越えたという。

独立は両親の悲願
「二世」であるタシィ氏は、動乱を直接経験したわけではない。しかし、その心には、父親の壮絶な体験が刻み込まれている。死刑を宣告されたタシィ氏の父親は、天井付近に小さな窓のある狭い牢屋に閉じこめられていた。窓の外は断崖絶壁。このままでは明日には殺される。それだったら一か八か…。意を決して壁をよじ登り、小さな窓から飛び降りたところ、崖面から三十センチ程度だけ突き出た小岩に引っかかって助かった。
 父親は家に残していたタシィ氏の母親と、当時チベット仏教の寺院に預けていた長男とともに、日中は木陰や岩穴に隠れ、日が暮れると全速力で走った。二週間かけてヒマラヤ山脈を越え、ようやくネパール国境付近に到着した。チベット自治区では、こうした逃亡が現在も続いており、その数は年間二千〜三千人に上るという。

 両親が他界してから四、五年が経つ。今際の際に、「有名な闘士だった」父親はタシィ氏ら十一人の子供たちに、自分の生涯に起きたことを話してくれた。「生き残れたのは奇跡だった」。さらに声を振り絞って続けた。「次はお前たちがこの闘争を続けていかなければならない。もしお前たちがやめてしまったら、これで打ち切りになるのだから」
 まるでパズルのピースのように、父親の言葉はタシィ氏の「どこにも所属しないホームレス」のような空虚感を埋めてくれた。今は自分たちの手の中にはないが、チベットが自分たちの祖国なんだ
チベット独立は両親の悲願。それを実現するために、私には残りすべての人生を犠牲にする覚悟がある
「チベットはチベット人のもの。チベットを自由にするためにはいかなることもしたい。ただ、平和的であって非暴力の手段を使うべきだ」。以前のダライ・ラマ十四世の言葉で、考え方が変わった。

 mixiや2ちゃんねるといったインターネットの掲示板でも、支援の声が上がり、捜査機関に釈放を嘆願するメッセージ、拘留されていたタシィ氏の手元には、百通を超える激励の手紙は英語や中国語で書かれたものが多く、彼はそれを何度も何度も読みながら涙を流したという。「日本人みなさんの気持ちにどれほど励まされたことか。このことは生涯忘れません」。ネット上では募金活動も起き、拘留期間だけで全国から七十九万円もの寄付が集まった。略式命令を受けて釈放される際に支払った罰金五十万円は全額、その善意から支払われた。
 ただ、こうした状況についても日本のマスコミはほとんど報道しなかった。手前みそで恐縮だが、もし私があのときタシィ氏と出会えていなかったら、と思うとぞっとする。日本のマスコミすべてが、「台湾籍の男」という表現だけで処理し、事実を報道する義務を放擲していたのではないか。
 産経新聞の報道を受けて、即座に反応したのが、コラムニストの勝谷誠彦氏だった。勝谷氏はテレビのコメントなどで、タシィ氏の背景についてさかんに触れ、関西系メディアなど、わずかではあったがこの問題を電波に乗せた。
 かつて台湾の李登輝元総統は、作家・司馬遼太郎との対談で、独立を声高に唱えることができず、アイデンティティーが希薄な台湾人の苦しみについて、「台湾人に生まれた悲哀」と表現した。
 五十年以上にわたり、日本を含め多くの国から無視され続けたチベット。ラサでの動乱や北京五輪の聖火リレーを巡る混乱を経て、国際世論のスポットライトを浴び始めたのは、ようやく今年に入ってからのことだ

 「異国の地でこんなにもたくさんのチベットの雪山獅子旗を見ることができて、日本のみなさんには本当に感謝したい」。胸の前で両手を合わせながらただ感謝の言葉を繰り返すタシィ氏に、愛すべき祖国をなくした亡命者の姿を見た気がし、“チベット人として生まれた悲哀”を狂おしいほどに感じた。】以上、あくまで一部抜粋ですので、下記アドレスか雑誌「正論」を。
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0806/ronbun3-1.html

 この当時胡錦濤国家主席来日、帰国後四川の大地震がありました。(445)
【徹底特集 日本に五星紅旗が乱舞した日
<その2>
哀れ、四川大地震の被害拡大は中国共産党による“人災”だ(3) 
            評論家・金美鈴

 
「独裁国家に遵法精神なし。手抜き、いい加減の「中国方式」が日本にも台湾にもはびこっている 」
●命の軽さは鴻毛のごとし
1999年9月に起きた台湾大地震のことだった。
 このとき台湾では二千人以上の死者を出し、堅固と思われていた建物が数多く倒壊して、台湾人を呆然とさせた。当時の総統は李登輝氏で、地震発生直後に対策本部を設置、数時間後にはヘリコプターで自身被災地に入り、陣頭指揮で人命救助と復興につとめた。日本からもいち早く阪神大震災の経験を踏まえた救助隊が派遣されて大いに活躍した。そのことがどれほど台湾人に日本を身近に感じさせ、日本こそがアジアにおける責任あるリーダーであると認識させたか

 あの大地震で台湾人が恐怖したのは、被災地で明らかになった手抜き工事の数々だった。台湾では“中国式”と言われ続けてきたもので、日本の統治時代を経験している世代を中心に、戦後五十余年、日本精神が日々薄れ、代わって“中国式”に染まりつつある台湾社会に危惧の声が上がった。「リップンチェンシン」という台湾語として定着した、「日本精神」とは何か少し説明しておこう。
 それは勤勉、向上心、正直、仕事を大切にする、約束を守る、時間を守る、
フェアであること等々、戦前の日本人が台湾に持ち込んだ諸々の徳目であり、それを良きものとして受容し、大切にしてきた台湾人の思いである


 対する中国式とは何か自分だけが得をすればいいという物事の考え方
お上を絶対に信じない。秩序を絶対に信じない。「上に政策あれば下に対策あり」という中国人の思考様式である。それに台湾人も侵されてしまった。当時の状況は、そう感じざるを得ないものだった。

 今回の四川大地震でも、多くの小中学校校舎などが倒壊した。それに関し、中国最高位の「総工程師」という資格を持つ建築士・夏一帆氏は以下のように分析した。倒壊した建物などの多くは鉄筋コンクリート構造ではなくて、「おから工事」によるレンガ構造になっており政府機関の建物については絶対におから工事はしないという。「地方では学校などの建設予算を流用してでも、しっかりとした建設物を造る。予算を削られた校舎などは
料費を削られ、もろい構造になってしまう。これは四川省だけでなく、全国的な傾向だ」そうで、一部の役人が甘い蜜を吸う腐敗構造は、明らかに共産党の一党独裁の影響
 以上同じく一部抜粋、詳細は下記アドレスか雑誌「正論」を。
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0806/ronbun2-1.html2008年6月21日 3:47:34

 (2年前の産経新聞「日本人伝説」に 敗戦後ソ連軍は日本兵を満州からシベリアへ連行、
更にウズベスクに強制移送した。日本兵が捕虜としての強制労働で2年がかりで建設したナボイ劇場は、
1966年の大地震で多くの建造物が倒壊した中ビクともせず「日本人の建物は堅固だ、建築技術が高い」という評価が定着
した。劇場には日本人抑留者の功績を顕彰したプレートが掲げられ、日本人への尊敬と感謝を名実ともに歴史にとどている。
 又その他のインフラ整備はいまもウズベキスタンの生活基盤を支えている。
当時の水力発電所を仕切った元現場監督は「真面目に、懸命に汗を流していた日本人抑留者達」の思い出を涙ながらに語った。)

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