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『今日という日』へ  日高よし子<MAIL>
 2007/7/16 
  『満州の遺産』
<歪められた日本近代史の精神>
より 抜粋。
  黄文雄(こうぶんゆう)氏著<光文社>                                     │                         

    目<17>次

・求めよ!さすれば得られん。知力
・『歪曲は歴史認識の不足』 
・ <清>の遺産』 
・『伝統的な中華対北狄東夷』
・「満州国史」はいかに歪められたか
・ 『日露戦争・日本の勝利』
・アメリカの鉄道王の満鉄買収工作
・満鉄の満州での貢献
・台湾と海南島

・合計18ヵ国から承認された満州国

・ソ連、中国、モンゴルとの関係
満州国の国土開発

・満州事変の原因
・張父子満州支配下の民衆の悲劇     
「リットン報告書」・国際連盟脱退
・民族協和の夢
・日本人のエネルギー

         ★

  『求めよ!さすれば得られん。知力』                          
 誰でも「玄関」という表から見てもその内はわからない。
実際は何も知らないのに知らぬ間に聞かされ、教えられた事は
固定観念となる。
例えば『満州』という言葉から受けるのは「日本が侵略した国」
ではないだろうか?本の『扉』を開けて中に入ってみる。 
観念がだんだん退いてゆく。

第一に「満州」がドイツとフランスを合わせた面積だっ 
た事に先ず驚く。緯度も同位置にある。                      
                   ◆                    
 以下は台湾生まれの黄文雄(こうぶんゆう)氏著の『満州の遺産』
<歪められた日本近代史の精神>
より 

    『歪曲は歴史認識の不足』                              

 『満州国』と言えば大多数の日本人は、台湾、朝鮮と並び称せられる大日本帝国の
三大植民地だと見做しているだろう。しかし、それは大きな誤りである。        
「台湾」は日本が日清戦争後、最初に永久割譲された海外の新しい領土。       
「朝鮮」は20世紀初頭の日韓併合で成立した合法国家(チェコ・スロバキア型国家) 
。そして満州は、日本の支配で樹立された新しい国家(いわば旧東ドイツ型国家)なの 
だ。満州は日本の植民地というより、満鉄の発展とともに本格的に中国の移民植民地に 
なったのだ。もし満鉄がなかったら、こんにちの満州は現在の雲貴高原(雲南省・貴州 
省)のようにまだ殆ど未開の地であっただろう。                  

 わざわざ中国人の物言いに倣い『偽満州国』と称し日本の『傀儡国家』といわれるよ 
うな『満州国』のイメージはおもに戦後形成されたもので、はっきり言って自虐史観の 
代表的なもの、それこそ歴史の歪曲であり、列強時代、とくに近現代の国民国家形成に 
関する歴史認識の不足によって形成されたものである。『満州』(東北)が古来、中国 
の絶対不可分な領土だという主張は、中国政府が20世紀になって初めて主張したもの 
である。
史実を見れば、有史以来満州は
中国と万里の長城を境に相容れない
2つの世界だった。
                                   
 満州は4000年来ずっと中華世界の外にあった。「満州」には豊富な資源と未開発 
の地域が沢山残されていた。がその地は「荒蕪」あるいは「夷狄」の地として恐れられ 
、そこにいたのはモンゴル系、ツングース系の他封禁を犯して盗墾、盗漁、盗採を働く 
漢人か、鴨緑江以南で農地を得られなかった朝鮮人等だった。やがて、北からロシア  
人、東から日本人がこの地に入って来た。日露戦争後、満州は両国によって南北に分け 
られ、その勢力下に置かれた。そこに多民族共生の合衆国が造られた。それは満州事変 
(1931年)後の事である。                          

 ここ2000年来は高句麗、勃海、遼、金、清等多くの王朝の歴史があった。東近現 
代史を見ても解るように満州人が中国東北部から興り、17世紀初頭にヌルハチが「後 
金国」を建国
し、2代目ホンタイジーの代から満州人、モンゴル人両民族が連合王国「 
清王朝」を樹立して、3代目の順治帝の時代に万里の長城を超え中国へと入り<漢民族 
>を征服した
。かくて清朝はその後3代に亘り、約1世紀半の繁栄をもたらした。この 
時期には西方のジュンガル帝国を滅ぼし、その支配下の回部(新彊ウイグル自治区タミ 
ル盆地)とチベッチをも領土に組み込み、巨大な大帝国を築いた。しかし、20世紀初 
頭<清帝国>は辛亥革命がきっかけで解体し、モンゴル、チベットも清帝国から独立を 
宣言。かくて、現在に至るまで東アジア世界を揺るがす事になる紛争の種が生まれた。 
                   ★   
              『<清>の遺産』                 
 紛争の本質は、17世紀から18世紀に亘って清帝国が征服した東アジア諸民族の土 
地、遺産を誰が継承するかという事だ。<清>の遺産を狙うのは大きく3つのグループ 
に分かれていた。                                

その1中華民国。辛亥革命以後の共和体制樹立当時の会派をいれると600の政党が 
あり、袁世凱北洋軍閥や、張勲のような復辟勢力、孫文や宋教仁の様な革命派等があっ 
た。これらが絶えず国共内戦を繰り返していた。要するに、中華民国の時代はただ内戦 
と多政府の時代だった。満州では「保境安民」派対軍閥の葛藤が満州建国迄続けられ、 
議論百出の中、折衷案として溥儀を執政とする民主共和制と決め国旗を五色旗、国都を 
「新京」(旧長春)に定めた。中華民国の跡を襲った「中華人民共和国」はこんにち、 
この遺産相続の正統性を主張する為に「中国の神聖なる固有の領土」と叫んでいる。  

その2.17世紀以来、清帝国に征服されたモンゴル、ウイグル、チベットの諸民族で 
ある。これらの国が解放後の戦乱の中国にどう関わったかは、非常に興味深い問題であ 
る。                                      
その3列強諸国。常に中国の内戦に介入、加担し続け、現在に至る迄、東アジアでの 
戦争の元凶となっていると断言してよい。大航海時代以来、欧米露列強は地球規模で植 
民地獲得競争を続けていた。19世紀末には、アフリカの分割が完了し、最後に残る東 
アジアの大陸の清帝国分割を目指し、先ず英、仏、独、露が手を付けた。進出が遅れて 
いた米国が、いくら「門戸開放、権利均等」を唱えても、もはや後の祭
だった。この清 
国分割の大勢を一変させたのが、日清戦争(1894〜95年)と日露戦争(1904 
〜05年である。日本という新たなプレイヤーが「清の遺産争い」に名乗りを上げたの 
だ。
 日露戦争後、敗戦したロシアの勢力は南満州から撤退したものの満、蒙、彊を相変 
わらずその勢力下に置き、チベットは英国の影響下にあった。かくて、列強諸国はそれ 
ぞれの国益に立って、中国の内戦に介入した。
それが大東亜戦争、いわゆる第2次世界大戦の背景
となったのだ。                              

 又、満州人の国家再建をもくろむ勢力もあった。いわゆる満蒙独立運動がずっと続い 
ていた。満州国建国は、満州、モンゴル民族にとっては、他ならぬ国家再建という復国 
の夢であり、五族協和といわれるように諸民族の新国家建国の夢でもあった。
 
        伝統的な中華対北狄東夷』
 こんにち、漢民族は「中華民族」という民族概念を唱え、モンゴル、ウイグル、チベット、満族 
など諸民族を統合したことにしている。だが彼らは本心からこの様な独善的大家族主義 
に参加しているわけではない。
 ウイグル人をはじめとするイスラム諸民族は19世紀末、清帝国に回教徒の反乱で大虐殺された、
20世紀に入ってからも漢民族による回教徒皆殺し運動はずっと続いている。「洗回」である。
19世紀末の清帝国では回教徒は10人に1人だった。
 だが中華人民共和国になって数千万人が抹殺され、こんにちのように激減してしまった。
 
 満州国の存立の問題は、極めて複雑であるであるが、多面的視野から見なければならない。
長い歴史からみれば、伝統的な中華対北狄東夷という対立軸の中で満州国は理解できる
そこには、近代民族としてのナショナリズムの問題もあり、満州族とモンゴル族の独立と自決と
いった問題もある。              

 しかし、満州国の崩壊によって、満、蒙、彊、蔵諸民族の中国人支配からの独立とい 
う夢は消え去った。それだけではない、中国人にとっても、近代国民国家の夢が、
「満州国崩壊」によってだんだんと遠くへ離れていった
のだった。            

 中国という国家はこんにち、「大中華帝国」として復活し前近代的世界帝国へ回帰し 
ようとしている。その超国家を支えるには独裁専制を強化するしかない。民主、自由、 
人権も蹂躙されることになる。それこそ、21世紀の東アジアの世界全域の不幸ではな 
いだろうか。                                  

「近代国民国家」は、一朝一夕に出来るものではない。西欧でも大航海時代以来、宗教 
改革、産業革命、市民革命を経て、少しずつ熟成されていった。
 ただ、日本だけは例外だった。日本は開国し、明治維新に成功し、日清、日露という
2つの戦争に勝って、半世紀足らずの間
に立派な近代国民国家として列強の仲間入りを果たした。       
日本は、西洋が数百年かかって成し遂げた事を数十年間で一挙に達成したのである。  
 世界各国は驚嘆し「明治維新に学ぶところあり」と各国の目は日本に集まった。   

 この様な歴史的背景のもとで、1932年「満州国」という国家は、混乱の中で貧し 
い国へと転落した中国社会の東北部に忽然と出現した。しかし、第二次世界大戦の敗戦 
による「大日本帝国」の崩壊と共に「満州国」は建国13年半で夭折した。      

「満州国は失敗だった」又「日帝の陰謀」「偽満州」といい、どのみち滅びる運命だっ 
たと断言する者もいる。だが「満州国」は、中国には絶対ありえない安定した社会を実 
現した。これも歴史的事実なのである。                      
 中央と地方の行政機構整備、財政と貨幣の統一、交通の一元化、産業経済の急速な発 
展をも実現した。実に各国を瞠目させるに足る現象が中華世界の辺縁で起き又、幻のよ 
うに消え去ったのである。                            
                  ★                     
「満州国史」はいかに歪められたか。                      
「満州事変」(1931〜32年)と、日華事変(日中戦争・1937〜45年)の中 
国人の叙述する歴史は極めて歪曲されている。例えば、「満州国」での『三光政策』、 
この三光政策とは、そもそも日本語ではない、元は中国国民党と中国共産党が互いに相 
手の事を残虐だと罵る為に使ったブロバガンダ用語である。日本語に存在しない『三光 
』という記述に日本の”進歩的歴史学者”達は飛びついた。そして『平和主義」の立場 
から『軍国主義』を非難するため日本軍が『三光作戦』(軍事面では、殺光《殺し尽く 
す》、槍光《奪い・同》、焼光《焼き・同》。経済面では捜光《捜し・同》、剥光《絞 
り・同》、槍光《奪い・同》)を行なったと主張したのだ。極めて病的な態度ではない 
か。中国近現代史にも『日本軍国主義』や『日本帝国主義』が頻繁に登場する。日本軍 
によって父母兄弟家族が惨殺、女性が強制連行されて慰安婦となり、家屋は焼かれ、土 
地は強奪、中国人同胞が毎日焼死、生き埋め、獄死、凍死、餓死し・・・と、日本軍の 
殺戮行為非難するという手法がとられる。中国は今日でも言論統制の国である。近現代 
史にも共産党の決めた”ある一定の見方”がある。日本の中国侵略史観を強調すること 
は、そこで規定されたことなのだ。中国人の書いた歴史を読みすぎると近現代史は曲解 
され、歪曲され、正しい歴史を捉える事が出来なくなる。それを知らずに日本の進歩的 
文化人は中国の歴史を読み、歪曲された歴史を信じ込んでいるのではないか。     

 殊に「満州国史」にはウソで固めた『八股文』(形式的なもの)が多い。「満州国と 
日本」を書いた古海忠之(元満州中央銀行参事)によれば、『関東軍は対ソ連防衛が主 
任務で、満州国の政治行政などに干渉する事は全然なかった。関東郡司令官の満州国に 
対する『内面指導』も、政府に対する強圧、干渉はまずなかった、としている。    
だが寧ろ、日本の『内面指導』が近代化建設に必要だったと私(著者)は肯定している 

ソ連の指導下に置かれた東欧各国、中国共産党。中華民国の蒋介石政権も初期は軍 
コミンテルンが、その次がドイツ参謀本部顧問、アメリカ軍事顧問が指導している。 
第二次世界大戦後の多くの新興独立国家は、アメリカや西欧宗主国の「内面指導」を受 
けている。
 満州国は民族協和を目指していたが、重要ポストは日本人が占めていた。
だがこれも非難されるべきものではない。日本人は明治維新いらい、
既に60年以上も近代国民国家の歩みを続け豊富な経験の蓄積があった

人材、資金の面でも極めて豊かだった。                                     

 一方、中国人は流民の民であり、無学の民だから建国の人材としては難しい。それど 
ころか、中国には5000年の貪官汚吏(汚職官僚)の歴史があり、中国人が指導すれ 
ば、忽ち官匪が跋扈し国家倒壊が目に見えている
。事実、中華民国自身が政府乱立と軍 
閥内戦の乱世に陥ってしまっており、それを証明している。むしろ、満州民衆の総意は 
、中華民国社会の戦乱が飛び火しないことだった》。                

関東軍の存在をもって、日満合併・合邦国家の証だと言うなら、戦後の日本はどうな 
るだろう。日米安保条約を結び、アメリカによって国家安全を守られている日本は、ア 
メリカの合邦国家だということになりはしないか》。                

《満州国の産業開発はすべて日本からの投資でなされた。これを日本の侵略と言うべき 
であろうか?むしろ、日本が満州に残した最大の貢献ではないだろうか。例えば、満州 
事変前の列強諸国の対満投資は24億円とされる。その内日本は17億〜18億円を投 
資した。満州国建国後は年々急増を続けた。1933年1億5000万円、1939年 
10億以上、1942年迄の4年間は毎年10億円以上を超え、1945年満州国崩壊 
に至る迄、実に100億〜117億円の対満投資を行なっている。1932年(大同元 
)年度の満州国の国家予算が1億3800万円、10年後の1942年(康徳9年)は 
8億2300万円という数字を比べると、日本が行なっていた対満投資は毎年ほぼ国家 
予算に匹敵するか、それを上回る金額である。勿論、これらは満州の近代化に大きく貢 
していた。》                                 
     『日露戦争・日本の勝利』
満蒙における日本の特殊権益の正当性(日清条約)                     
 この「特殊権益」は日露戦争後の日露講和条約に基づく日清条約(1905年)の規 
定、及び対華21箇条要求という2つの条約によって規定された権益を指す。     
例えば、鉄道、鉱山経営、課税、商租、居住権や商工業などの権益である。      

「日本の特殊権益」は、満州国建国を理解する鍵である。その権益を守り抜こうとする 
日本と、それを阻止しようとする中華民国との衝突が激化し、やがて「満州は日本の生 
命線」といわれるに至ったからだ。満州国建国前、中華民国は日本の特殊権益侵害をく 
り返していた。例えば先述の鉄道と益、等・・・の圧迫である。1921年のワシント 
ン会議で、対華21カ条の一部石井・ランシング協定が放棄されたからである。だが、 
満州国建国はに至る事情は、この特殊権益を規定することとなった日露戦争から語らな 
ければならない。                                

 ロシアの南下政策、大陸と同様にロシアは、明治維新前から朝鮮半島、そして千島列 
島から日本にも迫りつつあった。それは日本の国家存亡の大きな圧力であり、脅威だっ 
た。幕末の開国・維新を促した巨大な外圧の一つといってよい。特に日清戦争後、日本 
は独仏露の三国干渉によって下関条約で割譲された遼東半島を清国に返還せざるをえな 
かった。その為朝鮮半島では、日本対清国に代わってロシア対日本の対立が軸となりつ 
つあった。この影響が満州にまで及んだのである。                 

露清攻守同盟の密約                              
 義和団事件後、ロシア軍は満州占領に成功。清国は抗議したものの、既にロシアのも 
のと諦めたように見えた。英米もロシアに抗議したが実力行使の様子もなかった。   
『ウッティ回想録』によれば、ロシアは当時、満州を獲得するつもりだった。もし日露 
戦争がなければ、満州はシベリアの一部になっていた筈である。これはむしろ歴史の必 
然的な流れであった。中国には遠交近攻という伝統的国家戦略がある。日清戦争後、清 
は日本に対抗する為ロシアと攻守同盟の密約を結んだ

 日露戦争は(1904年)は日本にとって国運をかけた一戦だった。もし負ければ、
朝鮮半島はもとより、日本列島も間違いなくロシアに取り込まれたろう。
日英同盟をバックにした日本と、多大な勢力を背景にしたロシアと 満州の地でぶつかり合うこととなった。
 これは維新から30数年にしかならない日本にとって背水の陣ともいうべき近代総力戦だった。
だが当事者の清は公然と「中立」の立場を取り、裏側ではロシアの同盟国として日本と敵対
していたのだ。結果的に日本は勝ち、近代以後はじめて黄色人種が白人に勝利したという事で、
白人優位の観念を覆したのである。日露戦争を戦った目的は、戦後の講和条約にもあるよ 
うに「満州、朝鮮半島に関する重大な問題」解決だった。              

 更に日露戦争の結果、日本がロシア勢力を満州から追い出したのだ。その上、ポーツ 
マス条約後、戦場を借りた「戦費」として、日本は150万円、ロシアは200万ルー 
ブルを清国に支払っている。”戦場代”を支払った以上、国際法的にみて主権侵害云々 
などと言えるものではない。既に戦後処理がきちんとなされていたのだ。       

 当時の日本は日露戦争に膨大な犠牲を払った戦死者19万人、戦費は15億円、本 
来、日本政府はこれほどの規模の戦争を遂行する力を持っていなかったのだ。内債8億 
円、外債7億円の調達にも苦しんだ。そして、ポーツマス条約ではそれに見合う結果は 
得られなかった、このままの戦争終決では国民の間に多くの不満が残るのは明らかだっ 
た。一方、中国は当時から満州云々だけを主張し、こんにちでも日本の帝国主義を批判 
している。日本人がロシアから国土を奪い返した事実には一辺の感謝の心を持っていな 
。当時の日本では「中国人はいったい日露戦争中に何をしていたのか」との声が高く 
なり、その不満が、日本の「満蒙特殊権益」という考え方を生んだ歴史背景だった。  

1905年、アメリカの軍港ポーツマスで、セオドア・ルーズベルト大統領の仲介で 
講和条約が調印された。日本側講和全権大使は小村寿太郎外相、ロシア側全権はウイッ 
テ蔵相。ロシアは南満州の権益を日本に譲渡し、南樺太(サハリン)も日本に割譲した 
。又日本は、長春以南の権益も獲得した。同年12月、小村寿太郎が北京で日清条約を 
締結し、ロシアから譲渡された権益を承認させた。日清条約で清は、関東州の租借権の 
承認他、長春〜旅順の鉄道(764.4キロ)・同支線・附属地の特権、同炭鉱採掘権 
、南満州各都市の居住・交易の権益、鉄道沿線の日本軍駐屯地から20里以内への清軍 
の立入禁止などを承認している。》                        

鉄道守備隊としてポーツマス条約で生まれた「関東軍」              
 ポーツマス条約には、鉄道保護の為に1キロ当たり15名を超えない範囲で守備兵を 
置く権利が明記されている。これで計算すると鉄道守備隊の最大規模は14419名、 
実質2個師団になるのだった。その後の日清条約でもこの約款は再確認された。    
「関東軍」の前身がこうして生まれた。                      
関東軍は、ソ連を仮想敵国とした独立戦闘集団で、その正式発足は第1次世界大戦末期 
のシベリア出兵(1918年)からである。                    
                  ◆                     
 アメリカは清国政府と英、仏、独との間で計画していた湖広鉄路建設に割り込んで資 
本参加が実現した後、満州鉄道の中立化を提案と、錦愛道路建設を計画していた。完成 
すると1200キロの長距離である。勿論日本とロシアの権益に抵触するので日露は反 
対した。仏独は日露が不同意ならと、アメリカに加担しなかった。》         

 第1次世界大戦(1914〜18年)中、日本は日英同盟を根拠にして膠州湾のドイ 
ツ租借地の青島を占領し■世凱大総統に対し「対華21カ条」を要求した(1915年 
)。英米はこの日本の動きに大きな関心を示し、牽制もしたが、ロシアは寧ろ日露関係 
を維持緊密化を図った。「対華21カ条」の1年後、第4次日露条約が締結された。  
この第4次条約は満州を含む中国全域に関する共同防衛の協定で、アメリカが日露の特 
殊権益を侵害しにくることを念頭においていた協約であろう。            
 もっともこれらの4回の日露協定はロシア革命によって破棄された。        
                  ★                     
 長春以北はロシアの勢力範囲でその中心地ハルピンは中国共産党の最大拠点である。
1929年、張学良が共産党弾圧と東清鉄道の強制回収を謀り、ソ連の影響力を北満から 
駆逐しようとした。しかし、ソ連の強大な軍事力の行使に張学良の野望は粉砕された。 
 満州事変時、関東軍は長春以北へ兵力を輸送しようとしたが、ソ連支配下の東清鉄道は 
協力しなかった。実現したのは満州国建国後の1935年3月で、鉄道輸送の管理一元 
化という名目でソ連から譲渡を受けた。                      

 アメリカの鉄道王・ハリマンの満鉄買収工作                  
◆1億円の出資で満鉄共同経営を申し出る                     
 19世紀中葉を南北戦争で無駄にしたアメリカは、20世紀初めから帝国主義の波に 
乗るべく海外進出に打って出た。それが東アジア最大の目標、満州だった。日露の満州 
争奪戦に名乗りをあげたのだ。それは軍事力でではなく、資本力によってで、最初に動 
きだしたのはアメリカの鉄道王・ハリマンだった。ハリマンは日露戦争時の公債を一人 
で1000万円分も引き受けていた。ポーツマス条約後訪日し、1億円という破格の財 
政援助をもちかけて、南満州鉄道の共同経営を申し込んできた。当時の桂太郎首相をは 
じめ、元老井上馨、渋沢栄一も乗り気だった。政財界挙げてのハリマン・フィバーのな 
かで「桂・ハリマン予備覚書」(1905年)調印となった。            
 しかし、ポーツマス条約後に米から帰国した小村寿太郎外相は猛反対し「覚書」が電 
報一本で破棄されてしまった。いわゆる「ハリマン事件」である。          
理由は既にアメリカで資金調達のめぞがついたためといわれる。           

 しかし、アメリカは諦めなかった。2年後、英、米、清国による錦州〜愛琿鉄道の仮 
契約が結ばれた。そもそもハリマンの満鉄共同経営を拒否したのは、日米戦争の遠因の 
一つであるばかりでなく、日本の満州経営の失敗の始まりではないかと考えた日本人も 
少なくない。実際の処、百年の計を持つ政治家ならば、日米の満鉄共同経営することこ 
そベスト、と洞察したのではないかという見方もある。。              
         
         満鉄の満州での貢献
満鉄の一元経営だからこそ近代化出来た満州交通                 
 南満州鉄道は1906年(明治39年)資本金2億円という空前の巨費によって設立 
された。初代総裁は台湾民政長官だった後藤新平である。満州を視察した時、早くも鉄 
道こそが開発の生命線である事に注目し、講和談判の最中に児玉源太郎参謀長にこう進 
言した。「すべてを失っても良い。南満州鉄道だけは絶対、握らなくてはならない。鉄 
道がすべてだ」。                                
 満州事変までに各国が満州に建設した鉄道は、日本がトップで2361キロ、ロシア 
1789キロ、中国1186キロ、イギリス890キロ、合計6226キロであった。 

 満鉄と国有鉄道の保有車両合計は1945年には47166輛となっていた。線路1 
キロ当たりに換算すると3.9輛となる。満州国建国当時の平均1.6/キロに比べ、 
建国わずか13年半にして人流・物流が大きく変化したのだ。            

道路建設は、1945年終戦の年には、国道万キロが完成、地方道路も整備され、 
その延長は五万キロに及んだ。終戦後は、満州国の遺産として中国人に引き渡された。 
 清代には官馬大道や北辺地方の重要道路があった。しかし、その後は荒廃するまま放 
置された。中華民国の時代に入って使用できたのは、市街地と近郊のみである。中華民 
国建国当時、雨季に車両が通行出来たのは、全道路の1割のみだったともいう。また各 
河川には橋梁は殆どなく、僅かな渡船で交通するしかなかった。満州国では橋梁の数と 
しては延長30メートル以上のものが300ヵ所に架設され、又■緑江、豆満江の満  
鮮国境に24ヵ所が架設されている。                       

満鉄の鉄道開発で世界から注目されたのは、日本人の間でも有名な超特急「あじあ号 
」である。最高時速150キロ、平時130キロ、平均81キロ。当時の日本で最速列 
車は時速70キロだったから、まさに”超”特急といえよう。満鉄は1913年頃から 
高速機関車の研究を行い、1934年3月特急「あじあ号」の運びとなった。     
 その技術は、戦後の新幹線開発へと受け継がれている。              

 満鉄は、この満州社会の先進的近代産業地帯を築いた。日露戦争後から満州事変迄の 
対満投資は15億円近くに達した。満鉄及び関連事業57社に対する投資は1929年 
末、7億円を超え、中国社会からの大量移民、奥地開発、農工商産業の発展に大きく貢 
献していた。たとえば、満鉄は世界に誇る中央試験場と農事試験場を設け、満蒙の農・ 
鉱・工業の試験研究を行なった。「改良大豆」は全満州に普及し、世界一の大豆輸出国 
に迄成長した。                                 

◆海運業の大蓮汽船、造船の大連船渠鉄工株式会社は満鉄資本投下より運営された。特 
に大蓮港建設については、1931年迄に東洋一の埠頭を完成させ、満州の対外貿易は 
これを契機に同増加率では中国の10倍に及んだ。同港開港前の海関収入派2000万 
両しかなかったのに、1929年には75億5千万両に達し実に38倍も増加した。  

◆満鉄の満州に対する貢献は文化、厚生事業にも計り知れない貢献をした。      
満鉄は沿線に近代文化都市、田園都市を建設し、道路、電気、上下水道、ガス、衛生、 
市場、公園、競技場公共施設を建設した。                     
又、満鉄は医療に関して大連に近代的総合病院建設、学校、図書館、満州資源館、旅順 
博物館、医学的科学的文化的な満州国の牽引車として計り知れない貢献をしていた。  
 又炭鉱と製鉄では多大な苦労と努力を重ね、撫順・煙台炭鉱と鞍山製鉄所は世界的に 
その名を知られている。                             

◆これらの膨大な遺産を残し、満州国は消え去った。後を襲った中華人民共和国は、こ 
れらの近代化資源を手に入れた一方で、満州国を育てた日本に対し”日本帝国主義”の 
侵略、搾取、虐殺を叫び続けているのである。                   
                                        
◆大イノベーションは鉄道だけではない。日本の名神高速道路に先立つこと20年、東 
洋で最初の本格的アウトバーンは、日本人が満州に敷設した哈大道路で、ハルピンから 
新京、奉天を経由して大連に達する大動脈である。                 
 当時の沿線人口(関東州は除く)は全満の約30%1033万人。沿線の工場数19 
36年度で4655ヵ所、全満州の約70%、年産額は2億7700万円、全満の80 
%を占めた。哈大道路1942年建設開始し、一部完成後終戦、戦後中国政府のもの 
となり、終戦から45年後1990年瀋陽(旧奉天)〜大連間375キロが完成、瀋大 
高速公路と名付けられた。これが中華人民共和国になってから、社会主義建設で高速道 
路が完成した第1号である。日本は技術協力が要求され、いわゆるODAの産物であり 
、結局日本人の手で完成したようなものだ。                    

満州国を建国するにあたって、アメリカ合衆国をモデルに考えていた日本人が多い。 
例えば矢野仁一博士もその一人で「私はかの荒蕪未開の地に過ぎなかったカナダや米国 
の中西部諸州が、アングロサクソン民族の手により100年そこそこで一変して世界工 
業の中心となり、西洋の資本主義的物質的文明の中心になつた事を考え、それに反して 
満州、蒙古が亜細亜人の手にあること数千年にして、今尚、未開荒蕪の地として土匪、 
馬賊の跳梁に任せつつある状況を考え、今や新満州国の建設によって、満蒙の地におい 
て、王道主義の東洋の文化が、西洋文化の長所を利用する事によって、その短所欠点を 
除去し、よって将に実現せらんとする状況であります。」(同氏の「満州国史」昭和8 
年刊)より》又、日中戦争の長期化と大東亜戦争の勃発により、日本には戦時物資の獲 
得、つまり食糧、軍需物資の確保の要求があった、と認めている。          

 だが『日本政府も又満州国の独立を尊重し能う限りの援助を惜しまなかった。北鉄の 
買収、治外法権の撤廃、金融、特に満州国通貨の価値維持についての円元パー制、満鉄 
国債の発行等に常に援助を与えてくれた、満州国産業5ヵ年計画も資金、資材、人材等 
に日本の援助がなかったならば実行は不可能だった」』この述懐はほぼ歴史的事実に近 
い。日満関係は『日満一体』という一蓮托生の国家と国家との関係だった。これを”傀 
儡国家”とまで糾弾するのは、韓国や北朝鮮がソ連や中国の傀儡国家である、という様 
なものだろう。                                 

 昭和3年(1928)の秋、満州を視察した米モルガン財団のラモント代表は、オー 
ルズ国務次官に宛てた手紙の中で満州問題について、『日本人開拓者の利益の為ではな 
い。満州は、支那全土で殆ど唯一の安定した地域である事を認め、日本人あってこそ、 
満州は支那問題の不安定要素が消えて、安定勢力となる事が期待でき、日本の満州政策 
は中国人の利益となっている。』『不安定な戦争状態が中国の広大な部分に広がってい 
るため、今や中国人は他のどこにおいても受けねばならぬ匪賊行為や略奪から逃げる為 
に、何千人単位で南満州へ流れ込みつつあるのだ』と述べた。            

「清朝崩壊後」清朝の宣統帝・溥儀(ラストエンペラー)は袁世凱による辛亥革命後 
の1912年12月中華民国臨時政府との間に退位協定を結んだ。それには、清皇室優 
遇、皇族、満州、モンゴル、ウイグル、チベット各族の優遇条件等3部によって構成さ 
れている。しかし、中華民国政府は2年後大総統令を公布しただけで一方的に退位協定 
を廃止した。その第1条には『大清皇帝は本日限り皇帝の尊号を廃除し中華民国国民と 
して法律上一切の権利を同等に享有する』とした。そして、皇帝、満蒙王族への優遇条 
件を廃止し、北京紫禁城にあった皇帝財産の没収、財宝の掠奪にまで及んだ。更に清朝 
先祖の御陵までが中華民国政府軍に発掘掠奪され、財宝は売り飛ばされて内戦の戦費に 
あてられた。                                  
 その宣統帝を保護し、満州人の為の国家を建設したのが日本人であった。      

 当時の列強の1つであった日本には、中華民国の内戦に介入する道義的責任があった 
。たとえて言うならアメリカがユーゴ連邦内で弾圧されるコソボに介入し自治権を確立 
するのと同じ人道的介入なのだ。戦乱社会の外側の満州で満州人の自治国家再建したの 
も、当然の流れといえる。繰り返し強調したい事だが、そもそも中国の方が満州の植民 
地だった。満州人の中国支配は『二重帝国』型だった。政治的には清朝の皇帝は、諸民 
族共通の最高権力者だったが、清朝には満と漢の二重の政治機構があった
 満州騎兵は領地を保護され、満漢民族の婚姻禁止、満人は宦官禁止、漢民族は官女禁止、
対外条約は漢文を使用しない。漢文の夷人伝授への禁止、漢民族の満州、モンゴル、回部(現在 
の新彊ウイグル自治区タリム盆地)、チベット、台湾への移住禁止等等、欧米の植民地支配以上の
”中国的植民地政策”を展開していたのだ。

 アヘン戦争以後、列強諸国は中国に国家的脅威を与えたが、列強は中国の国富を掠奪しただけではなく、
むしろ中国の近代化に貢献したというのが史実だろう。中国周辺の台湾、朝鮮半島、満州、香港は、 
中国本土よりも繁栄し安心して暮らせる社会
だった。
(国民党の北伐統一でも、共産中国の国共内戦から文化大革命までの社会主義建設でも、
数百万、数千万人の犠牲者が出た)。                                     

台湾と海南島圧倒的に恵まれた海南島が貧しいのは何故か。           
「満州国」支配の批判に対して、満州国を直視しつつ、台湾と海南島、このあまりにも 
対照的な2つの島の歴史を辿ってみるべだろう。                  
台湾と海南島の面積は日本の九州とほぼ同じである。                
 
 つい100年程前、台湾も海南島も極めて貧しい農業社会だった。

しかし、100年後の今日、台湾は国民一人当たりのGNPが既に16000ドル(1999年)を超え 
、実質24000ドル。中国はその20分の1以下である。尚、海南島と中国の最貧国 
でGNPは中国平均の半分程度である。地理的、環境的に全く同じ条件だったのに、何 
故これほどまで違う結果になってしまったのか。                  
 
 植民地支配とは何か、「日本文明」は何かを問う時、台湾と海南島と興味深い示唆
を 
与えてくれる。同様に「満州国」問題を理解する時の有力なカギでもある。      

 海南島の海岸線は1500キロあって、60以上の港があり、近くの広州は、唐代以 
来、1000年以上に亘って常に中国南方最大の港として、アラビア人やペルシャ人の 
東方貿易の門戸として賑わっていた。更に、海南島は豊富な資源を持っている。    

 最高品位の鉄鉱石以外に石炭、石油、アルミ、マンガン、スズ、金、ウラン、水晶、 
宝石など30種類以上の地下資源があり、近海には石油、天然ガス、更に熱帯雨林など 
、名実ともに中国の「宝の島」である。                      

 しかし、こんにちの海南島は、中国行政区の中で最も開発が遅れ、貧しい国なのである 
。2000年来、ずっと中華文明の洗礼を受けた海南島は、1858年の「天津条約」 
以後フランスの勢力範囲に編入された。が、急速に開発され始めたのが1941年「軍 
国主義」がこの島に侵入してからである。                     
 
 日本敗戦後、1950年当時まだ海軍のなかった人民解放軍は、300隻のジャンク 
とイカダで海南島へと上陸し島民と呼応して、たった2週間で国民軍10万人を島から 
追い出し、これを「解放」と称している。                     

 この島が再び中華文明の懐に戻された途端、日本の残した近代工業設備、戦略物資の 
略奪が始まった。結果、海南島は又未開発社会に戻ったのである。それがなくなると自 
然資源が大量に略奪された。                           
 1956年当時の自然林は86万ヘクタールだったが、22年後の1978年には2 
4万ヘクタールに激減、砂漠の国モンゴル人民共和国よりも森林面積が少ないのだ。そ 
して、農業も荒廃し、水資源がなくなり、水害が酷くなり、海岸まで砂漠化現象が拡大 
した。地下資源も人民解放軍に叩き売られ、農工業生産総額は1人当たり全国平均の5 
0%。人々の80%は、こんにち尚、電気のない原始生活をしている。        

 植民地支配を受けた事の有無によって、社会発展の成果が全く違うという事実は、大 
変に興味のある問題であろう。                          
 それは同じ近代化政策を取り上げても中国人は「中体西洋」、つまりハードだけが西 
洋、ソフトはあくまで中国式だから。だから近代化政策はことごとく失敗した。西洋医 
学を取り入れても、注射針の消毒もしなければ、患者のカルテも書かないのてあれば、 
うまくいく筈がない。                              
 しかし、植民地政策はそうはいかない。政治だけでなく、経済。社会、文化のすべて 
が近代的価値体系に基づいて行なわれる。社会的基盤の整備、投資から組織、管理運営 
に至るまでワンセットで行なわれてはじめてうまくいくのである。          

◆特に日本による満州での近代産業の建設はめざましかった。その成果が明らかになる 
のは皮肉な事に1945年に満州国が崩壊してからなのである。1949年に建国宣言 
した中華人民共和国は、ソ連からの経済援助によって社会主義建設に猪突猛進したが、 
その援助のみでは建国出来るわけはない。                     
 むしろ、中国を侵略した列強諸国の遺産、ことに満州国が残した近代産業の遺産で食 
い繋いできたのである。毛沢東は『もし我々がすべての根拠地を喪失しても東北(満州 
)さえあれば中国革命の基礎を築く事が出来る』と演説した。            

 20世紀前半の中国社会では近代文明の恩恵に浴していた場所は、たいてい開港地か 
列強諸国の租界、満鉄の附属地だけだった。そこから10キロも奥地へ入れば、ほとん 
ど2000年前の古代中国と変わりがない、カオスの原子中国のままであった。これは 
当時の列強諸国の中国関係者が実際に目撃した共通の中国観である。         

 ほとんどの中国人は無学の民で、彼らを搾取、掠奪していたのは列強国というより、 
軍閥と、文字を識る知識人の一握りの中国人だった。実際の処、権力者が走馬灯のよう 
に消えては交代する度に税金を2重、3重取りし、20年、50年、100年先の税金 
迄搾取し、それは悪循環の内戦へと費やされていた。清朝崩壊後、20世紀はじめの満 
州を支配したのは、いわゆる「満州軍閥」だった。一言で言って『苛斂誅求(厳しい税 
の徴収)』だった。貨幣制は乱れ、満州経済は大混乱に陥った。だが、日本人はその満 
州社会の停滞と、どん底の貧窮状態を近代的な資本主義社会へと改造したのだった。  

 日本人のやり方は、西欧列強がアジアで行なってきた植民地支配、収奪とは全く異な 
っていた。近代国家建設の理想と情熱を以て立ち遅れた満州を開発し、僅か13年半と 
いう短期間に近代社会を築き上げたのだ。これは世界史的にも大きな意味を持つことだ 
。日本人は”贖罪、糾弾”や”郷愁”という視点を離れもっと満州国を直視すべきだ、 
と筆者が考えるゆえんである。                          

 アメリカ人ジャーナリスト、ジョージ・ブロンソン・レーは『満州は支那の子供では 
ない、却って満州こそ300年間支那の父母であった』と述べている。清朝時代の漢民 
族は少なくともタテマエとしては満州人の臣下だった。満州が本家本店ならば、中国が 
分家支店として300年近く続いていたのだ。しかし、20世紀に入ってから、分家支 
店の番頭が本店を乗っ取った。だが、支店の番頭が独立して本店以上になったからとい 
って、本店までが自分の”絶対不可分の所有物”であるとはいえない筈だ。      

合計18ヵ国から承認された満州国 
                      
 満州国が成立すると、日本国内ではこれを承認するか否かの論議が沸騰した。193 
2年の5.15事件後斎藤実挙国一致内閣が成立すると、早期承認の声が高まり6月1 
4日衆議院が全会一致で承認促進決議を行なった。                 
 この時、外務省は諸外国から”合併”と誤解されるのを避ける為に、時期尚早と反対 
し、国会で論議となっていた。                          
 日本政府は、第63帝国議会前の8月8日、武藤信義大将を関東軍司令官兼駐満特命 
全権大使に任命し、9月15日、満州国全権・鄭孝胥国務総理との間に日満議定書署名 
調印を行い、実質的に満州国を独立国家として承認した。              

 1933年(大同3年)1月20日、満州国は鄭孝胥国務総理の名で帝政実施を声明 
、満州帝国成立を日本以外の71ヵ国に通告した。                 

 日本に続いて最初に満州国を承認したのは、中南米のエルサルバドルであった。19 
34年4月ローマ教皇庁が承認し、1937年から38年にかけて枢軸国のイタリア、 
スペイン(フランコ政権)、ドイツが承認、38年10月ポーランドも承認した。39 
年以後には、ハンガリー、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、クロ 
アチア、デンマークといった北欧・東欧諸国が承認した。ドミニカ、エストニア、リト 
アニアは正式承認しなかったが、国書を交換した。                 
その後、大東亜戦争期には対、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府も満州国を承認 
した。 しかし、国際連盟から満州国建国の正当性が否認された為、承認国は18ヵ国 
にとどまった。                                 

◆ソ連、中国、モンゴルとの関係                        
《ソ連》事変後、関係の深かった満州北部を支配していたソ連は、満州国に対する中立 
不干渉主義を表明。当時のソ連は第1次経済開発5ヵ年計画を推進していたので、関東 
軍と事を構える余裕がなく、リットン調査団にも非協力的な態度を示した。しかし、 
式には満州国を承認しなかったが1932年6月にブラゴベンチェンスク市に満州国 
領事館の設置を認める等、対日平和政策から事実上、満州国承認の態度を示した。   
                                        
《中華民国》1933年5月、熱河省との塘沽停戦協定により満州国に併合された。  
依って、満州国は万里の長城とを境に中華民国と領土を接することとなった。     
さらに1934年から35年にかけて、中華民国政府と列車の相互乗り入れ、郵便、通 
電、通航問題を解決。実質的には中華民国政府から新国家として承認されたとみなすこ 
とが出来る。                                  
 しかし、1937年の日華事変から満華両国の関係が悪化した。もっとも1937年 
12月に北京で樹立された中華民国臨時政府は、38年に両国双方に通商代表部を設置 
している。日本は1940年3月、南京で中国国内の諸政権を統合した汪精衛南京政府 
を加え『日満華共同宣言』を出し、40年12月1日に相互承認を行ない、翌1941 
年には大使を交換した。                             

 しかし、中華民国に存在した複数の政府のうち、蒋介石の重慶政府だけは、ずっと満 
州国を否認した。                                

《満州国》の外交政策は政治、経済、文化、軍事的にも、日本と一連托生の関係を築き 
、それは『日本の傀儡国家』といわれたのも不思議でないほどである。次いで国境を接 
する中国とソ連を重視し、さらに「満蒙彊」といわれる内外モンゴルとの関係に注意を 
はらった。外モンゴルとの国境紛争は、ノモハン事件が象徴的だが、1939年9月徳 
王を主席とする蒙古連合自治政府は42年に満州国建国10周年慶祝のために訪満、両 
国は友好関係にあった。                             
                    ★                   
 ●満州国の国土開発。                             

◆国土開発に専念した満州国、国民略奪に夢中だった満州軍閥。           
 満州国は、建国翌年の1933年3月「満州国経済建設綱要」を発表し、国土開発の 
基本方針を示した。ここには「第4章、交通の充実」「第5章農業の開発」「第6章鉱 
工業の振興」が産業基本計画となっている。読者はこうした社会基盤整備を当然と思わ 
れるかもしれない。
 だが驚くなかれ、満州軍閥時代は軍閥抗争に金を使うばかりで、国土開発どころか、
インフラ整備など全く行なわれていない

張学良時代に建設されたのは数件のダンスホールに過ぎなかったといわれている。
ほとんどの財政予算は、軍備や内戦に消えてしまったからである。

 満州国時代と、満州軍閥時代との最大の相違点は、
 
まさしく国土開発に専念したか、あるいは国民略奪に夢中であったかといっても過言で 
はない。満州の河川は水量こそ少ないが、雨季になると大洪水が起きる。だが、河川治 
水計画はまったくなく、治水資料、雨量、水位測定調査などの資料もない。      

 満州建国後、黒竜江等、3大水系の治水工事が調査、着工された。河川調査と治水砂 
防工事、堰堤工事、分流工事を行った。                      
 松花江では上流にダムを建設し広大な地域に排水路を開削して干拓を行ない、下流沿 
岸には防水堤、遊水池がつくられた。更に満州、朝鮮国境には鴨緑江水力発電会社を  
つくり、水豊ダムにどを建設した。1941年8月には、満州向けに20万キロワット 
の電力供給を開始した。                             

◆満州国の電力開発。                              
 満州は元々、石炭が豊富な土地だった。火力発電が最も容易であり、潜在的には、豊 
富なエネルギー資源を持っていた。                        

 満州建国後の1934年11月、全満州の火力発電所を統合し、満州電業株式会社を 
設立。1938年末には、満鉄の自家用電力を含め、約60万キロワットを供給に成功 
。                                       
 1943年3月完成の豊満ダムは、満州国建国の熱気を象徴する巨大なプロジェクト 
である。第2松花江の水量調節(洪水防止)潅漑、飲用水、工業用水、航運、発電など 
の多目的ダムで、東洋では最初にして最大級、世界でも屈指のの多目的ダムだった。  
 豊満ダムは吉林市上流20キロにある。重力式コンクリート堰堤(高さ90メートル 
、延長1200メートル)を築き貯水面積は620平方キロ、琵琶湖大の人造湖(松花 
湖)が忽然と満州の中央部に出現したのだ。同ダムの発電機、水車とも記録破りで、ア 
メリカから3台、ドイツから3台、日本から2台を分割発注した。          

 豊満ダムを完成後見学に訪れたフィリピン外相は、その規模と雄大さと効用に驚嘆し 
た。当時案内した満電理事長の松井仁夫の回顧(『語り部の満州』)によれば「フィリ 
ピンは、スペイン植民地として350年(1571〜1900年)、アメリカの支配下 
で40年を経過している。だが、住民の生活向上に大きく役立つものは一つも作ってい 
ない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と歓声を発したとい 
う。                                      
 鏡泊湖は松花江支流の牡丹江上流にある。高さ1メートル、長さ約500メートルの 
湖水調節堰を築いた。2万キロワットの発電機を据え、年間発電量は毎時5億5千万キ 
ロワット、1942年6月から送電を開始した。                  

◆日本の投資だけで開発された満州。                       
 日露戦争後ポーツマス、日清条約によって日本が取得した関東州の租借地は、僅かに 
1300平方マイル、満鉄附属地は120平方マイルに過ぎなかった。        
 だが、その後1931年の満州事変に至るまでの25年間に日本官民の開発と努力に 
よって、大きな近代産業地帯となった。土匪と軍閥が支配する満州の大地とは、まさし 
く天国と地獄ほどの相違だった。そのため、関東軍支配下の関東州と満鉄附属地は、 
州民衆の駆け込み寺となり、総人口は132万人にも達した。その内日本人は僅か22 
万人である。                                  
 たとえば、1943年の鉱工業、交通産業投資の統計資料を見ると、日本の民間投資 
が97%を占めている(「旧満州経済統計資料」柏書房)。             
 
 参考迄に日露戦争以前の満州は、農業以外の産業といえば家内工業程度で、鍋をつく 
り、それを磨く。また蚕を飼って絹を紡ぐ。日本の江戸時代とあまり変わらない。   
                 ★                      
  ◆昔から満州に存在した連省自治派。                     
 中国には辛亥革命以来、北洋軍閥と南方革命派軍閥の抗争以外にも、「連省自治」を 
唱える連邦派がいた。華中・西南地方の大勢力だった。だが、1920年代、連省自治 
派は北洋軍閥と南方革命派軍閥との2回にわたる奉直戦争と、国民党の武力統一によっ 
て後退を余儀なくされる。                            
 この連省自治派は、満州では隠然たる勢力として存在していた。第1次奉直戦争の敗 
北後、張作霖が「東三省」の独立宣言をした背景には、連省自治の思想を汲む「保境安 
民(治安維持と民生安定)派」の強い要望があったからだ。たとえば、満州事変直後の 
『満州日報』(1932年10月16日付)は、はやくも「東北四省の主権者は、結局 
宣統帝を擁して大統領となし、袁金凱内閣を樹立して連邦共和の一大独立国家建設に落 
ち着くであろう」と報道している。                        
                     ★                  
 ●満州事変「陰謀説だけでは語れない」                     

◆歪曲された「万宝山事件」を直視せよ。                     
 満州国建国については、関東軍の謀略による張作霖爆殺事件(1928年)や柳条溝 
(1931年)語る事が欠かせない。しかし、これらと同様に「万宝山事件」や「中村 
大尉殺害事件」を知る事も重要であろう。                     
 満州国の時代背景には日本の国家しての権益問題があり、さらに満州を支配していた 
張作霖・張学良一家の問題もある。                        
 満州事変の歴史背景には、日清、日露戦争後の日本り満州における特殊権益を守るこ 
と、満州軍閥と国民党政府が日本権益を排除しようとしたことの他に、もう一つ無視で 
きないものがある。それが、万宝山事件に代表される、中国人と朝鮮人との民族対立で 
ある。                                     
 万宝山事件とは、1931年7月に長春郊外で起きた漢民族と朝鮮族との農民衝突で 
ある。戦後の近現代史での万宝山事件は歪曲されている。              
 日本政府にそそのかされた朝鮮人が起こした反中国人事件(「煽動史観」)と歪曲さ 
れたり、あるいは、中国人と朝鮮人を離間させて反感を煽った(「離間史観」)などと 
している。これらを見ると、学者や研究者は、これらの陰謀説の一種でしか、歴史を捉 
える能力がないのかと思ってしまう。朝鮮人は、有史以前から故郷の満州遼東から中華 
民国によって朝鮮半島まで追い詰められ、属国にされ、古代から強制連行されてきた。 
ことに満州開拓の朝鮮農民は、中国人(特に官憲)に迫害され、賤民として差別され、 
満州の土地を取り上げられ、追放されたりした。万宝山事件の様に朝鮮人が中国人に逆 
襲したのは、両民族の歴史的対立からくる自然の感情といってよい。         

◆日韓併合後、日本は”自国民”である朝鮮人を守ろうとした。           
 朝鮮農民は既に19世紀から東満州に永住し、水田を開拓していた。彼らはしばしば 
中国人官憲から迫害を受けた。たとえば小作契約の禁止、居住の圧迫、学校設立の制限 
と閉鎖、不法監禁、帰化強要、間島協約の不履行などが激化していた。1928年から 
の3年間だけで紛争は100件を超えた。この最たるものが「万宝山事件」なのだ。  

 特に日韓併合後は、日本は自国民である朝鮮人の生活権を保護するために中国人と衝 
突、官憲に断固たる態度をとらざるをえなかったのである。満州での朝鮮人との衝突の 
報道が朝鮮半島に伝わると、ソウル、平壌、仁川、新義州などの朝鮮人が一斉に中国人 
を襲撃した。平壌だけで中国人の死者94人、負傷者118人、警察官の負傷者40人 
に及んだ。一方、漢族農民は朝鮮農民を”死敵”とみなし、執拗に排斥しようとしてい 
た。殊に満州の支配者張作霖は朝鮮人嫌いで有名である。朝鮮人は満州で徹底的に差別 
・迫害されていたのだ。日本関東州政府からの抗議にかかわらず、満州農民と官憲の朝 
鮮人農民に対する迫害は続いていた。                       
 日韓併合後の朝鮮人は、既に日本国民となっており、朝鮮人迫害の問題は満州に進出 
した日本政府、関東軍と張作霖政権の間での一大課題となっていた。関東軍が張作霖を 
爆殺した背景には、40万の在満朝鮮人の保護という意味もあったのだ。       

◆中国人による朝鮮人迫害。                           
 いま韓国、北朝鮮で「日帝」と呼ばれ復讐の対象となっている日本帝国主義は、在満 
朝鮮人に資金迄を与え、中国人の土地を買収させたのである。それを中韓の歴史学者は 
、朝鮮人が日本の満州侵略に利用されたと主張する。しかし、これはどういうことなの 
か?少し考えてみてほしい。                           
 中国人はいまでも韓国人を、狡猾にして臆病、そのうえ弱者虐めをするとして嫌って 
いる。中国人はかっての韃靼人であるモンゴル人や満州人に対して伝統的な恐怖感を抱 
いているが、それとは全く異なる民族的感情である。                

 ことに日韓併合後の朝鮮人は、創氏改名後に「日本人」として中国人に仕返しし、い 
じめた。日本人が「日本鬼子」と呼ばれるのに対し、朝鮮人は「二鬼子」として、日本 
人以上に在満中国人から恐れられていた。朝鮮農民は勤勉である。          
 満州に流入した中国人農民は彼らを脅威としてとらえ、張作霖時代から在満朝鮮人へ 
の排斥と迫害は、極めて陰湿にして過激だった。朝鮮人の屍を砕き、腹を裂いて大通り 
に晒すことさえあった。あるいは首を切った者に、賞金20元を与えたり、朝鮮農民の 
子供を捕らえると指を切り取り、農作業が出来ないにした。             

 このような中国人の”朝鮮人狩り”に対して、1927年12月6日、12月9日に 
は救済運動のデモが展開された。さらに日本の大阪、東京、中国の南京、上海にも抗議 
運動は広がった。                                
 万宝山事件以後も、在韓中国人に対する朝鮮人の襲撃、殺害事件は続発した。    
これらを日本政府の陰謀や煽動と語るのは、明らかに歴史捏造である。        
中国人対朝鮮人の対立という歴史背景を抜きにしては語られないのだ。        

◆”排日侮日運動”と中村大尉殺害事件。                     
 満州事変のもう一つのきっかけは、中村震太郎大尉殺害事件(1931年)である。 
大興安嶺東側地帯の軍事地誌調査に向かっていた中村大尉一行が、途中の6月27日興 
安屯墾第3団長代理・関玉衡に捕まり、殺害されたのだ。この事件は8月に日本側から 
公表され、南京の重光葵公使は中華民国政府外交部に厳重抗議を行なったが、王正廷外 
交部長はすぐさま日本軍の捏造であると公言し、責任転嫁した。前後して万宝山事件も 
起こっていた為、日本の世論は沸騰、中国非難一色となった。            
 中華民国政府は、9月上旬になって初めて事実関係を認め、関を逮捕して軍法会議に 
かけた。この事件は中華民国政府の反日排日運動が、日本軍部の対中軍事行動を誘発し 
、緊張を高めることになった象徴的なものである。                 

 満州事変の最大の歴史背景は、中華民国政府が展開した排日侮日運動にあるといって 
よい。とくに排日教育は、日本排斥を主目的として徹底的に歴史事実を歪曲し、自国の 
失敗や悪業をひた隠しにし、すべての非は列強諸国の迫害に起因すると、極端な排外思 
想と中華思想を教えるものであった。この流れは基本的に現在も変わっていないといえ 
よう。                                     
 国民党政府には、満鉄・旅順・大連に代表される日本の権益を即時回収し、「日華条 
約即時無効宣言」要求という方針があった。国策としての反日排日運動はこうして尖鋭 
化した。                                    

◆民衆の支持があったから、日本は満州を占領できた。               
 日本軍は満州事変当時、たった1万5000人の関東軍兵力のみで全満州を占領した 
。これは、満州民衆の支持があったから可能とみるべきである。当時満州には関東軍の 
十数倍ら数十倍の兵力を擁する張学良軍閥の軍隊がいた。彼らは日本軍の占領に不抵 
抗だったというよりも、民衆から見放されて追放されたのである。          

当時、ソ連は第1次5ヵ年計画に忙殺され、中立不干渉を声明していた。米英も経済恐 
惶から回復していない。その上蒋介石率いる国民党軍は「攘外必先安内」というスロー 
ガンの下で国内統一を優先させていた。不抵抗主義を唱えていたが、抵抗する余力もな 
く国民党軍の力温存のためにも、関東軍と対決したくなかったのだ。張学良軍も自ら関 
東軍と正面から対決するよりも、関東軍の鋭鋒を避け兵力温存を図り、蒋介石の満州侵 
入を歓迎しなかった。満州の地は張作霖以来、張家の地盤だったからである。     

 満州事変後の首都奉天市長・趙欣伯氏(明治大学卒法学博士、張学良の法律顧問)の 
非難(1932年12月)に詳しい。「張学良は東北4省の政権を握り、人民の膏血を 
搾って己一人の為の快楽にきょうしている」「彼が首脳者になってからここ4年、人民 
は家を潰され、財産を失い、商店閉店する者数え切れない。東北3000万民衆は地獄 
の中にいるのと同様」と指摘、又「日本軍隊が張学良とその軍隊を殲滅し、大悪人の手 
から東北人民を救い出してくれたことに対して、深く感謝しなければならぬ」と日本に 
感謝している。(『満州国史』総論)                       

張父子の満州支配下の民衆の悲劇                       
張作霖支配下の満州の民衆は、2重の搾取と掠奪で塗炭の苦しみに喘いでいた。    
 満州の地は、移民の土地であると共に無法の地でもあった。馬賊、匪賊は推定30万 
人から300万人いた。略奪、放火、強姦、誘拐は日常茶飯事で、民衆は生きていくの 
だけでも容易ではなかった。満州事変前の1929年度の財政、全満州(東3省)の歳 
入は1億2100万元、歳出約1億4800万元、2700万元の赤字である。歳出の 
内約1億2000万元は軍事費で歳入の80%相当である。25万人の軍隊維持の為に 
膨大な軍事費が必要だったのだ。歳入の大部分は、塩税(因みに塩税は日本租借地の関 
東州の(庁)の5倍だった)と阿片が中心である。不足を賄ったのは、なんと私的な財 
産の強奪、恐喝、誘拐だった。巨額な軍事予算の必要性は、20世紀の中国人は政府も 
軍閥も革命家も軍事力こそが生命であり、戦争に負ければ、全てを失うからである。  

◆通貨の乱発と大インフレ。                           
 満州国成立前の張作霖・張学良軍閥支配下の最大の幣政の一つは通過の紊乱だった。 
満州各省では、それぞれの支配者によって紙幣が発行されていた。当然これらはの紙幣 
は他省では流通しなかった。                           
 満州国成立前の通貨は、内外公私取り混ぜて数十種とも100種類前後あったとも言 
われる。各通貨は常に変動、又各地方の実力者の恣意の侭に乱発された。その為決まっ 
て定期的に大暴落して紙屑同然になってしまった。各省各地の実力者は、政権を奪取す 
るたびに通貨を乱発して民衆の膏血を搾り、巨万の富を一身に集めた。それは、大抵農 
民の秋季収穫の時どんどん増発して穀物を買い取り、外国に売って、その売上金で軍備 
整備、勢力拡大した。歳出不足を補填するため、紙幣の大量増発、そのためインフレが 
昂進し満州経済は大混乱に陥った。尤も富裕な奉天省でさえ民衆の四割が雑穀しか食え 
ない生活、6割が物々交換の生活だった。                     

 張学良の支配下で満州の民衆は日毎に地獄に落ちていった。これこそが満州事変後、 
張学良が各地の軍閥と民衆により満州を追放された歴史背景だった。         
 熱河省の興業銀行は1926年から3回に亘って異なった『熱河票』を発行し、その 
たびに従来の発行紙幣の無効を発表、民衆の財産を収奪していた。通貨の不安定な所で 
は近代産業の発達など望めない。資本の蓄積には産業投資が必要不可欠であるだが、当 
時の満州は、なによりも軍事力の増強が全てを決めた社会だった。          
                 ★                      
 ●「満州国を窮地に追い込んだリットン報告」                  
◆植民地行政の大ベテランが集まったリットン調査団。               
 満州国は幾多の困難を克服しながら着実に開発が進み、テイクオフへの準備が整い始 
めた。だが、国際的には孤立し、唯一の友邦・日本とともに世界の孤児になりつつあっ 
た。そして、建国13年半にして日本の敗戦とともに消滅に至る。          
満州国は何故消えてしまったのか。その結果アジアはどうなってしまったのかを検証し 
謎に迫る。先ずは、満州国成立当時の国際情勢からである。             

「リットン調査団」                              
 有名なリットン調査団が発足したのは、1931年9月の満州事変後、国際連盟の決 
議によってである。イギリスはリットン卿、フランスのクデル将軍、イタリアのアルド 
ロバンディ伯、ドイツのシュネー博士、アメリカのウォルター・ハイネス(後にマッコ 
イ将軍と交代)ら、日本からトルコ駐在大使の吉田伊三郎、中国から前外交部長顧維金 
が任命され、リットン卿が委員長として選ばれた。                 
 5人の委員はいずれも50〜60代の老練な実務家にして植民地行政の経験者であっ 
た。調査団一行は1933年2月29日東京くに着き天皇に謁見後、犬養首相、渋沢外 
相、荒木陸相、大角海相のほか実業家らに会い日本の主張を聞き、意見を交換した。  
 満州入りの直後に満州国建国つのニュースを聞いた。               

◆リットン報告、満州の国際管理を主張。                     
リットン報告書は10章りわたり、英文148ページ、日本外務省の日本語訳は289 
ページの長文だった。この内容の争点の列挙。                   
1.中国の現状と将来像について。                        
日本は「中国は無政府状態で、分裂、滅亡の道を歩んでいる」と主張していた。しかし 
、報告書は中国において諸種の困難がにあっても、国家的性質を帯びてくると期待でき 
る、国家統一の道を歩んでいる、と結論している。                 
2.柳条溝事件およびその後の日本軍の軍事行動について。             
報告書は「鉄道に対する損傷があったとしても軽微なもの、日本軍の北大営への攻撃、 
奉天占領・前満州占領までに発展した日本の軍事行動は、自衛でなく侵略行為」と認定 
した。                                     
《この結論に対して日本側は、4点の根拠を挙げて報告書を批判している。即ち、22 
万人の中国軍に対して日本軍は僅かに14000人という劣勢であったこと。日本軍に 
は百万人を超える満州在住日本人を保護する責任があること。中国側の不抵抗命令は真 
実ではないこと。さらに不戦条約でも自衛権は認められていること、である。》    
3.報告書は「満州国は真の自発的な独立運動によって出現したものでなく、日本の傀 
儡国家であること」を指摘した。調査団は満州滞在中に前1550通の書簡を受け取っ 
たが2通を除いたすべてが満州国に反対や敵意を持っている内容であったという。   
《日本側はこれに対し、中国側の宣伝であると反論し、逆に3000万人の満州住民の 
うち、2万人に1人の割合である、と反論している。》               

 満州問題はなかなか解決に向かわなかった。                   
そして、「満州には、中国の主権のもとで広汎な権限を持つ自治政府を設置する。それ 
を国際連盟の主導で外国人顧問による指導・勧告を行なう。特別警察を設置して域内に 
おける治安を維持し、あらゆる軍隊を撤退させ、漸次的に非武装地域化する。日中ソに 
不可侵条約を締結させる。さらに満州の安全保障などの基本構想」をも提案している。 
 しかし、日本は調査団の提案に反対した。満州国境を国際管理するに等しく、現実に 
は全く適合しえない、という理由だ。                       

◆『日本は自制的・利他的だった』と主張するレー。                
ジョジ・ブロンソン・レーは、リットン報告書を鋭く批判した。彼の指摘によれば、  
日本はあらゆる正当なる法律、並びに戦争法規に基づき支那が日露戦争に参加したこ 
とに対し、支那から現金を以て賠償を受くるか、或いは、その代わりに1895年に日 
本に正式譲渡し、後に至って還付を余儀なくされた満州の土地を受ける権利がある、と 
確信するものである」。即ち、中国(当時清国)は日露戦争に事実上参戦していた。そ 
の賠償を受ける権利が日本にあるのに、中国は何もしていない。満州は一時日本に正式 
に譲渡されていたのだから、日本はいまでも満州に権利を有する筈だ、というのである 
。「然るに日本が、その正当なる法律上の要求権を放棄して満州国の絶対独立及び主権 
を承認し、その独立を擁護することを声明した事は、著者の眼から見ると侵略行為とか 
、領土征服どころではなく、近世史上における最も特筆すべき、自制的及び利他的行為 
あるのである。」レーはこう言って、日本の行為を評価しているのである。      

満州国の独立及び主権を厳に尊重することが、日本の根本的政策であると、日本は世 
界に表明しているのであるから、その約束の言葉を疑い、その動機をあれこれ言うこと 
は、恰も米国がフィリピン独立の約束(自治10年後の独立の約束)を疑うのと同一で 
あって、理由のないことである」(「満州国の出現の合理性」田村幸策訳、昭和11年 
)としている。日本のみを疑って、アメリカがフィリピンに対して行なった約束を疑わ 
ないのは何故か。レーはそれの矛盾をついているのである。             

 ●「日本、国際連盟を脱退」                          
◆松岡演説「日本は混乱する中国の被害者だ」。                  
 第1次世界大戦後、合衆国大統領ウイルソンが提案した14ヵ条を基に、国際連盟が 
発足したのはの1920年1月である。連盟は第2次世界大戦後まで存続したが、肝心 
の提唱国であるアメリカは加盟せず、ソ連もドイツも後で参加したものの、その逆に日 
本は1933年に脱退した。1937年にはイタリアも脱退し、39年にソ連は除名さ 
れ、国際連盟は有名無実となっていた。第2次世界大戦後には代わって「国際連合」が 
発足する。                                   

 1933年11月21日、国際連盟ではリットン報告書を審議する第5回理事会が開 
催された。開会前から会議の雲行きは日本に険しかった。              
 理事会はリットン報告の審議を12月6日の総会に提出、12月15日、19人委員 
会は、規約大5条4項による勧告案を日中双方に内示した。それは、事実上の満州国不 
承認であった。                                 
 松岡代表は2月24日の総会で演説を行なった。いわく、中華民国は西欧的な意味で 
の国家ではない。極東の混乱の根本的な原因は中華民国の混乱と無秩序にあり、もっと 
も近い隣邦である日本はそのため最大の被害を受けた、と。             

◆国際連盟から理解されなかった日本の善行。                   
 満州国建国当時の中華民国と満州の関係については、あまり語られないだけでなく、 
甚だしく歴史歪曲されている。                          
 中華民国は、辛亥革命によって樹立されたものの、北京政府とその他の政府が対立し 
、相互に牽制しながら、それぞれが中国を代表する唯一の政府である、と勝手に主張し 
ていた。その上、憲法もなければ、省と省との関係を規定する法律もない。どの政府が 
「正統なる政府」かはっきりしないから、相手の政府を打倒し、全国を武力で統一でき 
る政府が最終的に正統な政府となる。                       
全国の武装勢力は500万人にのぼり、匪賊の武装勢力を入れると、その数倍にのぼっ 
た。それぞれが、列強諸国の支援の下で覇権ゲームを争い、中華世界を動転させていた 
。有名な林語堂氏は満州事変迄の犠牲者は3000万人にのぼる、と語る。いずれにせ 
よ、中華民国とは「内戦共和国」と形容するしかない状態であった          
 。国民達は共和制とは何なのかを全く知らず、全国民の9割6分迄は無学で、自己の 
有する権利の何物たるかすら知らない。                      

 満州軍閥の張父子の満州支配は僅か20年で尽きる。勿論、張一家は、満州の主権者 
とは言い難い。又、北京政府は満州に指一本触れたこともなく、2回に亘る奉直戦争で 
、奉天軍が敗北した時でさえ、満州に関与する事はなかった。これが、歴史的事実であ 
る。アメリカ軍がスペイン支配からキューバを解放した様に、関東軍は、張一家を満州 
から追放し、3000万民衆を軍閥支配から解放したのである。           
 しかし、アメリカはスペインからフィリピンを奪ったと同時に、フィリピンの独立を 
も奪った。一方、関東軍は張一家を満州から追放して満州人の国家を復活させたのだ。 

 日本の主張は、国際連盟では理解されず、リットン報告書は採択された。日本は国際 
連盟から脱退することになった。                         
                  ★                     
「民族協和は見果てぬ夢か」                          
 アジアにとって、満州国こそはじめての多民族複合社会としての近代国民国家の大実 
験であったのだ。民族協和という夢は、いかなる国家であろうと成功していない。   
 諸民族の鎔炉と思われるアメリカさえ、黒人、ヒスパニック・オリエンタル(東洋系 
)など様々な民族問題の克服に苦しんでいる。ソ連は、社会主義というイデオロギー掲 
げ乍ら宗教と民族問題については全く克服することが出来なかった。「諸民族の牢屋」 
と囁かれた社会主義諸国は、官僚の腐朽から解体した。今日のエスニック(民族)問題 
は東欧に限らず、どの国でも民族紛争の火種としてくすぶっている。         

 満州の地は、一部の満州人、モンゴル人、あるいはモンゴル系とツングース系少民族 
を除くと、日本人も、朝鮮人も、漢人も、ほとんどが外来移民である。どちらかという 
と、アメリカあるいは中南米の国々と、ほとんど変わりがない。           
 満州国の政府機構はじめ、技術者の大多数は日本人だった。人口の絶対多数が漢民族 
であっても、それはやむを得ないことだ。識字率が2割に達しなかった中国と異なり、 
江戸時代から教育水準が高く、明治維新以来、60年以上も近代人として近代産業社会 
の洗礼を受けてきたので、決して不公平ではなかった。               

 満州国の主役は日本人だった。これは事実である。                
人口比率からいけば、日本人は30分の1前後しかなかったものの、日本人がいなけれ 
ば、この国は成り立たなかったであろう。                     
 まず強力な関東軍がいなければ、ロシアと中国の軍閥政府から国家の安全を守れなか 
ったであろうし、その上、満州国民である諸民族のなかでは、当時、教育水準の高い日 
本人以外にいなかった。                             
 又、産業投資は殆どが日本からだった。満州国国債は、日本国民からの資金をあてた 
ものだった。日本政府は、法律公布で「満州国国債は租税賦課及納税の担保に関しては 
日本国債とみなし」と、同一の待遇を与えた。                   
                   ◆                    
 以下は、かって満州国総務長官であり、帰国後に国務大臣企画院総裁を務めた星野直 
樹氏の『見果てぬ夢』(ダイヤモンド社、昭和38年)「あとがき」より。      
 「その間、満州の状態は一変した。治安は完全に確保され、国内には一人の兵匪もい 
なくなった。農業国から立派な工業国となり、総生産額は倍増し、国民生活は目覚まし 
く向上した。東亜各地から集まってくる人は数多く3000万人だった人口は5000 
万人を超えるに至った。治外法権は撤廃され、満鉄附属地は廃止された。日本人も満州 
在来の人々と同じように税を納め、法規に従うこととなった」            
「満州国の新たなる楽天地をつくりあげようと、日本の若き人々は進んで満州国に集ま 
ってきた。決して、利欲ではなく、又名誉の為でもない。新しい国造りに参加するとい 
う純粋な心持だった」                              
「満州国の歴史には、外地、植民地にありがちなスキャンダルはまったくなく、官場は 
終始清潔を保ち続けていたのも、このためであろう。生命わずか13年、満州国の建設 
はついに見果てぬ夢に終わった。しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心 
は、永久に日本国民の誇りに足るものであると確信する。満州国建国の仕事に参画する 
ことができたことを、いまに幸福と考えているのは、決して私一人ではないと思う。」 
以上。                                     
                 ★                      
 明治維新以後、溌剌とした新興民族日本人のエネルギー
第2維新として新しい台湾をつくり、そして第3の維新として近代的な朝鮮半島をつくった。        
さらに、その力の総結集が、満州国の近代社会建設であった。            

 アジアでは、ここ1世紀半以上にわたって、日本人以外にいかなる民族もそういった 
潜在的な国家建設の力を発揮していない。                     
 では、このような日本人の爆発的なエネルギーの源泉は、いったいどこから来たのか 
、残念ながら、日本人は誰一人として解明していない。それだけでなく、直視し、評価 
しようとさえしない。                              

 日本人の適応能力や対応力は極めて高く、自己改革も極めて早い。         
それは台湾、朝鮮半島、満州国経営をみてもよくわかる。いつも経営方式を反省しなが 
ら試行錯誤しつつ変えていくので、変化に早く適応し、合理的にして常に時代を先取り 
しながら進んでいった。                             
 それは日本人が伝統にこだわらず、常に斬新な発想と創新を志向しているからだろう 
。明治維新以降だけでなく、こんにちも昭和維新や平成維新へと、常に維新にエネルギ 
ーを傾けていってほしい、と筆者は心から願うものである。 〔了〕。        

 以上は、黄文雄氏著の『満州の遺産』<歪められた日本近代史の精神>より抜粋。  

        2007/7/16 19:21