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R0UDOKU(朗読)                    

:445のページ今日という日  【無断転載禁止・引用は可  著作日高よし子 
  【445(よし子)のページ】今日という日 (2度と昇らぬ今日の日は)
 (2度と昇らぬ今日の日は)更新2008年3月16日 4:41:03
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【445(よし子)のページ】2007年 ご感想

10/29 親の背を見て子は育つ
10/10 *集団自決は満州でもあった
*南京事件の研究

12/22 blog「iza」へ
11/25歴史認識について


8/17 『いつまでも・・・』&「美しい国」の根幹
8/16 『お盆・墓参』少し手直し。
(抜)2006/11/2770兆分の1の存在日本人心の遺産人道的判断青いガラスいじめ撲滅に賛同
8/12
 『安部総理の覚悟
7/28 
日本民族の誇り  

「民主党は、反対ばかり、何がしたいのか」
7/16 黄文雄著『満州の遺産』抜粋

9/27 『或るときの・・』new
 「美しい国」ならず 
近代国家の基礎、教育」
「生きる羅針盤として」・
『惻隠の国・日本』
「母の念い」 「梅を漬けて」 
『司法にひと言』  
9/1初めての「夏『その年代の限界
日本民族(信仰心)
 

7/16まれびと・前橋汀子 安部首相の実績を評価
永らくの教育  同盟国とは? 言葉の石つぶて
 蓮の花が咲く  ODAが民主主義に寄与
6/25(月「教科書修正付与して左遷」 に異議あり
6/5(火)「信の種」を
4/23(月)
人間には人間の
4/18 再選前の長崎市長銃撃
4/16
 憲法のこと
3/21
さくら/何故国民投票法案阻止?不実な河野談話 他

2/25存在/後悔忘れものの未来/危機意識 他
1/6 甥子に扶養
1/4
「煩わしさ」の伝統/元旦墓参 他
5/30   国民の利益』優先を
     松岡利勝農政大臣の自殺

5/21   
 『死生観』

5/13  赤ちゃんの「運命」
5/12  墓「京都と私」
5/7 
 金がない黄金週間
5/4  小椋佳氏の歌「山河」「潮騒」等のこと 
 
  
 『歌を作る意義』
5/2 100号記念 日本の道 恥を知る 自己責任
    基礎学力 科学が人間を 月光仮面
    道徳教科書に賛同 憲法を変えよう
2006年
2006年
11/27 「教育問題」他 
(抜)11/27・70兆分の1の存在日本人心の遺産人道的判断青いガラスいじめ撲滅に賛同
10/20(金)
日本も言論弾圧国家?
核とサイバー攻撃
蛍の光
「日の丸」の値打ち

10/10(火)生きる教育
渡嘉敷島、集団自決の真実のこと
マサダ集団自決
精神構造の「自壊」
21世紀の「非常識」

9/17(日)
亡母納骨
悠久親王御誕生(伝統の力)
生命の咆哮(心の貧乏人)
大地の咆哮(中国農民の実態)
日中比較論(明治天皇と光緒帝)
(文革の失われた教育の10年)

挨拶用語(三つ子の魂百まで)

親日台湾・台湾人の悲哀
2/7 「母の1周忌法要」
12/8 美感生
8/15(火)小泉首相靖国神社参拝
A級戦犯”合祀後参拝も中国大歓迎
日中史観の見直しを

8/14
(月)NHK日中戦争を観て
8/9(水)大阪大空襲
三度許すまじ原爆を
何故?教えぬ東京裁判
GHQの占領政策
上海事変
8/6(日)
南京の史実

南京虐殺はナカッタ
何故?修学旅行に「南京大虐殺資料館」

8/1(火国家戦略のない日本
マッカーサーの証言
検証 東京裁判のこと』
<パール判決文>広島での講演
東京裁判を批判した人々
7/24(月)素晴らしい人間という目標
【白洲次郎の涙
【ロビンとの交流】
「外資導入の段取り」
【カントリー・ジェントルマンとなっても】
【サー・シグモンド・ウォーバーグ】
【軽井沢ゴルフ倶楽部】
小林秀雄の死】

【終章】【正子夫人の回想】
『「昭和天皇のお言葉」メモのこと』

「白洲次郎」の本3冊読み終え
「教科書のこと」

7/16(日)
「お知らせ」 「明日の神話」
「日本の発言は尊重されても」
「基本という不変「紫禁城の黄昏」
「白州次郎という人」 「読後記」
「敗けた愚を、惨めさを「ジダンは立派」
)7/5(水)『北朝鮮も開放経済導入を』
3/28(火)彼岸の墓参(後の後まで)
舞妓はん
天から枝垂れ梅
ねねの道
古(いにしえ)の息遣い

WBC優勝(日本精神)
青春の彩り・宮川音楽
1/23(月)母永眠&回想記 3/8(水)目が覚めた?
天皇制という日本のかたち
トリノの価千「金」メダル
撤廃をPSE法
 ジェンダーについて
2005年
2005年
9/18(日)純粋 (追記)
自民党大勝利
空の雲
拉致被害者帰還と北方4島返還を
甦れ、聖徳太子&学校区撤廃を

9/11(日)祈 再び小泉総理大臣・
純粋 水
 
10/17(月)日本人の神髄

6/24(金)『水無月みなづき 
日本の中の ポチとミケ』 
  『東京裁判?とは』

両極端
 
(教科書問題) 
 
 
終戦60年という「還暦」の年 
8/13(土)ぺーマガ発行5年 
     自民党をぶっ壊した小泉さん
3/20 『卒業の実り』 
    
『日本は天国
』 
5/2桜酔い/社会の変革
   何故?地震に強い五重塔 
1/10(月・祝)「お歳暮宅送アルバイト」
『招福えべっさん』
『地球受難年?』
「夜の川」
『日本語の縦書き文明』
2/4立春
2/7北方領土の日
2/9ためいきばかり
2/12インプットされた愛
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2004年2004年
11/25(木)生命の証 他2件 12/29 スマトラ沖地震

11/13(土)秋彩
9/22(水)神々の美の世界 10/23(土)「矢倉緑地」の夕焼け
10/15(金)ディゼル排ガス規制を
7/16(金)木の精神性 8/31(火)  「アテネオリンピック 閉幕」  
8/21(土)「日本バンザーイ!!!」
8/17(水)夏休み「オリンピック」 「墓参寺」
(画挿入) 『七彩の虹』  「嵐山・桂川」   
5/25(火)受けて返して
5/24(月)死という総決算
6/29(火『高貴な日本人』
6/23(水)『見知らぬあなたへ

6/1(火)
『私の本質』

6/6(日)『疲れの根因』
6/12(土)『何故?ナシのツブテ』
6/13(日) 『最近の甥子達』
6/11(金『花のフォトスケッチ』
3/31(水)追加分『島は動く』
3/27 ニュースを疑え

3/28 星と月
3/24 トラウマの戦後憲法 初緑の草
    「未来」の為の広報活動
3/2卒業式に思うこと

3/3 『無心の笑い』
4/30 『富士山を世界遺産に』
4/27『芸術家の宿命』
4/26進化 という「美」』
4/21 『新緑の季節

4/8(木)
日本の「害(外)務省」

4/6(火)『彫 画 展』
4/4(日)『保育所の同窓会』
1/31 『猫のにゃこりん死ぬ』
1/29 『風邪で家族(母以外)総崩れ』
1/21(水)『自転車で転倒』
1/16『夢でも夢』
1/8『未明道』
2004/1/『墓参と露店』
2/4 『新たな「立春」』
2/1 『詩 『新たな「立春」』
・猫のにゃこりんに寄せて』
2003年2003年
12/26 『竹久夢二追想展』
11月23日(日)のこと    
同窓会  
車がレッカー移動 そしてフォークコンサート
『夢の遊園地』 

『福祉国家の手本』
10/31私の誕生日
10/12国民が英断すべき時
 
9/21『小泉首相大勝

9/18命懸けで
8/25『夏の思い出
7/22(火)
『たこの足(8本)が欲しい』
 
 
7/5(土)『時間の彫刻』
5/30(金)『2006年人類滅亡?』
5/8(木)『無力感』
   
5/5(月)『端午の節句』
5/1(木)「察知能力」
<6/18、19、23、24>日の 『六 月』という月
6/1(日)『手のひらには?』
3/30(日)『いっぱい咲く「私」』 
3/25(火
 『ひがんなり』

3/21(金) 『とうとうイラク戦』
 
3/19(水)
インディーズ応募
  
3/16(日) 
『慣 れ』という塵 
3/14(金) 『くじ運はなし』

3/12(水) 『お好み焼』 のこと
 3/8(土)  『教育の風穴』

3/7(金)
   あの時』
 
3/5(水)  『山にならい』を

3/3(月)『雛まつり』  
3/2(日)
 『ミキシング出来ない!』
4/18(金)『昼月から燈月』
4/16(木 )『目も口も満腹』
 
4/13(日) 『桜の通り抜け』

4/11(金『犬とこの道』 
4/2(水)
『花見』
/30(木『人間の存在意義』
1/29(水) 寒さには上がある』 
1/28(火
『可能性の
全てを「花」』

1/27(月)
 『「朗読」の録音』

1/25(土)『
甥子のスキー合宿』

1/24(金)
 『
犬は「毒をも喰らう」?』
  
1/23(木)
『靴の「呼び水」』

1/22(水)
  『我家の「BGM」』
  
1/19(日)
【やっと445のページ】

1/13(月)【コンサートへ】&温故知新  

1/8
 生命の礼節

2002/12/15『トキコとコンサート』
2/26(水)『愛』について 
2/20(木) 
『右利きの不思議』

2/18(火) 『リンクのお知らせ』
 
2/16(日)  『新コーナー』

2/14(金) 『幸福の感性』 
2/11(火)  『春「一」輪』
2/9(日) 『新コーナー』のこと 
2/7(金) 『北方領土の日』
2/5(水) 『甥子の風邪』
 
2/4(火)
 『甥子 修学旅行

2/3(月) 
「節分夜」
 

2/2(
) 
『昭和39年の修学旅行』

/1(土) 「見栄えはいいけど空疎

2007/9/13(木)〜9/26(水)  
               ★                            
 p4 『或るときの…』                                                                    
   「或る時」の                                   
 蝶のような 風の 掌が                           
 蕾を 撫でると                           
   花 自らが 花弁を 解く ように                          
   「或る名画」が モノトーンの中より                     
 老若男女 表通りを歩く 人も                        
 路地裏の 人にも                                  
  それこそ ロイヤルシートに座る 人も                   
 「天上桟敷の人々」 にも                           
 等しく与えられた                                  
   「愛」という 珠玉の 色彩を                        
 浮かび 上がらせる ように………                        
   「或る音楽」が 私の心の                           
 魂だけを 取り上げて                            
 優しく 抱きしめる ように………                          
   たとえ 大洪水が                                
 全て 流し 去ろうと                             
 「重要」な ものは そっと                           
 残して 行く ように………                             
  「或る時」の 持続性を                          
 芸術に 感じます────                             
(平成八年五月二十九日 記・「夢現」より)             

「愛」知りてこそ  愛を 語れり      

私本詩歌集『夢幻』より 
(全公開ページへ)

  『「美しい国」ならず』       
 安部総理大臣が国会で辞意を表明し「インド洋での自衛隊の給油活動の延長 
(十一月で切れる)を民主党の小沢代表に申し入れる為この朝電話を入れたが 
、会談を断られた」と語り、その後入院した。               
今年の猛暑の中、夏休みも返上しての改造組閣に取組み、中旬からはインド訪 
問と身体を酷使(その折も食事はお粥を摂っていたとか)、遂にダウンしたと 
いう事だろう。安部氏の一日も早い御回復、退院をお祈り致します。     

 本当に突然の辞任劇で、応援していた私も少なからずショックを受けた。ひ 
とつだけはっきり言えるのは自民党が若い安部総裁を選任、総理に推挙しなが 
ら皆一丸となって支えなかったからではないか。              
 先のテロ特措法に基づくインド洋での自衛隊の給油活動貢献は、日本の石油 
の90%を積んだタンカーがこのインド洋を通過する事の意義と、アメリカの 
北朝鮮への「テロ指定国家(解除)」は両輪で、国際貢献している日本だから 
、拉致問題解決迄解除反対も主張出来るという事。湾岸戦争時、一兆円以上日 
本は拠出したのに、クエート政府発表の貢献国のリストに日本は入っていなか 
った。この経緯があるから以降自衛隊の海外派遣(憲法の範囲内の)が為され 
る様になった。国際貢献しているから、国際的な主張も出来る。特に、日本を 
孤立させたい国が周辺にあるという事も知っておくべき。          

 西欧による帝国主義の時代、日本の幕末下、高杉晋作(安部晋三氏の先祖) 
は清朝下の上海でヨーロッパ人が現地の中国人を人間扱いしない事に義憤を抱 
き、これが原動力となり下級武士達は倒幕へ邁進、明治維新を成し遂げた。  
市場経済導入後の好況に突出した軍備増強している中国、核を保持した北朝鮮 
、ロシアの存在に、安部総理は憲法改正の為の国民投票法案成立、防衛省格上 
げ等は悲願の自立国へ脱皮の足掛かりを為した。(新総裁に福田氏が選出され 
た。トップが変わり又以前の政治に逆戻りする事を懸念する。教育再生会議の 
進展と国民投票法案の遅滞ない実行を期待する)又、アメリカだけでなく、欧 
州の民主国家との結束という外交展開させた行動力は危機管理意識の伴った、 
日本の未来を見据えた国家戦略だった。                  

 つい最近核爆弾に匹敵する弾薬を開発したロシアは、現在、北方領土開発に 
着手し北朝鮮人等の外国人を労働力とするという。日本への領土返還どころか 
現状は取り返しのつかない方向へ舵が切られた。これに対して、日本側は抗議 
等何か処置を講じているのか。これまでの歴史教育に於いて、この北方領土の 
侵略経過等を国民に教えてきたか。次総裁選下麻生、福田氏の論戦を毎日メデ 
イァから見聞きしたが日本の「この状態」を指摘する声は一切ない。「他人ご 
と」の如きである。ずっと日本は、こうだった。そして、これからも、そのよ 
うである。北方4島のすぐ近くに、北海道がある。             

     「歴史の巡り合わせ」

安部総理には厳しさと強さが欠けていた。今改めて思い起こせば総理大臣就 
任後の最初の組閣人事を見た時の失望感。それまで抱いていた安部総理のイメ 
ージと正反対の人選だった。結局それが若い安部首相を「象徴」していたし、 
それが「すべて」だった、といえるだろう。しかし外交(危機)認識、政策立 
案能力は優れていた。現在の日本の情勢下「戦後体制からのレジーム(脱却) 
」を掲げた安部晋三総理が誕生した時、明治維新の中心的勢力だった同じ長州 
藩(現山口県)出身であることに「歴史の巡り合わせ」を感じた。      
(安部総理退任により)しかし、もう終わった。何事かの前には、その前兆の 
予言の如き「象徴」が示される。幾年後、あれが日本の最後のターニングポイ 
ントだったと語られる日が来るだろう。                  

          「近代国家の基礎、教育」
 7〜8前中国の朱容基首相が(国を滅ぼすのに武器は要らぬ教育で)20年 
もしたら日本という国などなくなっている、と放言した。その意向通り?日本 
では日教組の主導の下、ゆとり教育導入、学力テスト廃止により、前号で書い 
た通りの著しい学力低下を招いた。
 安部政権になってやっとそれも見直され、 
学力テストも復活し、国語、算数の時間も増加される。明治28年日清、
同38年日露戦争に勝利するほどの近代国家と成り得たのは江戸期の寺子屋での「 
読み、書き、そろばん」基礎教育の賜物だった。その主点だけは以後の政府も 
貫かれる様、日本の未来の為。                      

 数学者の藤原正彦氏は衆愚政治の危機感から判断力を養う為、ボランティア 
で大学生に「読書ゼミ」を行っている。学生達は主張する論理の根拠がマスコ 
ミ、インターネット、受験勉強からで時流に乗ってばかりいた事、教養不足を 
反省するようになった、という。                     
            

          「生きる羅針盤として 
 戦後復興の頂点と言える日本の万博のあった昭和四十五年の十一月、幸福な 
家庭生活を営んでいた作家の三島由紀夫が市ケ谷の自衛隊駐屯所で割腹自殺 
を遂げた。政治、経済の中枢をアメリカに握られた侭の日本の現状を打破する 
為、真の独立国となる為に「憲法改正」の蜂起を自衛隊員に命懸けで訴えた後 
、自身の「死の美学」を完結させた。                   
結果、日本人の反応はどうだったか?「狂気の沙汰」繁栄と享楽に浮かれたそ 
れが大部分の見方だったのではないか。以降、何も変わらず「一億総白痴化」 
された国民が倍増されただけだった。                   
 山崎行太郎著「小説三島由紀夫事件」の中の、三島の遺書に《人生は短いが 
、私は、永遠に生きたい・・。》とある。                 
「芸術と生活」は別と公言していた三島だが結局、その宿命に死んだ。    
その頃は未だ「死」が神聖だった・・・。しかし、本当に国の将来を憂えるな 
生きて、「生きる羅針盤」として存在すべきだった。          
                ★                   
 来年にはアメリカで中国製作の日本軍の「南京虐殺」キャンペーンの映画が 
作られ公開されるという。この「南京虐殺」に関して、当時世界の応援が欲し 
い「中国の国民党の蒋介石が、日本軍によるの南京虐殺約2万人・婦女暴行を 
発議したが国連が却下した」という内容の文書が外務省に保存されていたのが 
最近見つかった、それも日本が国連を脱退していた時期であるという。 昨年 
のNHKテレビの「日中戦争」では、日本軍が南京に入城した時、道には数多 
くの中国軍服が脱ぎ捨てられていた、とやはり外務省の保存文書の開示があっ 
た。南京虐殺この種の本の写真は、全然関係ない写真を使った合成写真だとい 
う。それだけでもこの「南京虐殺」が虚実だと判る。国連でも取り上げなかっ 
たこの「南京虐殺」は、かの東京裁判で「登場」した。以後の米GHQ統治下 
で一切言及禁止された「原爆投下」の理由付(日本軍部の邪悪)の為だった。 
 今年アメリカ下院で決議された「日本軍関与の慰安婦問題」を取り上げたの 
は中国系アメリカ人議員である。                     
─────────────────────────────

    『惻隠の国・日本』    
 先日のテレビでB級戦犯を扱ったドラマ「私は貝になりたい」が放映されて 
いた。下記は藤原正彦氏の『この国のけじめ』より、【かって我が国は惻隠の 
国であった。武士道精神の衰退とともに低下していったが、日露戦争の頃迄は 
そのまま残っていた。勇猛果敢でロシア軍を震え上がらせた乃木希典将軍が、 
敗軍の将ステッセルとの水師営での会見で、武人としての名誉をたたえた幕僚 
に帯剣を許したこと、従軍記者等の採算の要求にかかわらず会見写真は1枚の 
撮影しか許さなかったこと、などはよく知られている。又祝賀会のスピーチで 
は「・・・し我が戦勝を祝すると同時に、又我々は敵軍の苦境に在るのを忘れ 
ないようにしたい。我が軍の戦死者に敬意を表し、敵軍の戦死者に同情を表し 
て、盃を重ねることにしよう」。これらは世界一の陸軍国を相手とする文字通 
り国家の興廃をかけた戦争中の出来事なのである。日本軍は、ロシア軍将兵の 
慰霊碑や墓を203高地をはじめあちこちに立てた。明治天皇は戦争中の冬、 
厳寒の地で風雪と戦いつつある兵士を思い暖炉を焚かれなかった。      
 日露戦争中に日本軍は7万人余りの捕虜を内地に移送、温暖地に作られた2 
9カ所の収容所に入れられたが、下士官兵には日本軍下士官の2倍の糧食費が 
支給され小遣い迄与えられた。充分な医療も施され、観光や海水浴を楽しむこ 
とさえ許された。愛媛県松山収容所では、捕虜を道後温泉で入浴させ、町で買 
物もさせ、学校では運動会に招待したりした。県は県民に対し「捕虜は罪人で 
はない。祖国の為に奮戦して破れた心情を汲み取って、侮辱を与えるような行 
為は厳に慎め」との訓告を何度も出していた。収容所で死亡した98名の捕虜 
には立派な墓を造り今日に至るまで花の絶えることはないという。松山収容所 
での待遇は海外でも有名となったのか、ロシア兵の中には「マツヤマ、マツヤ 
マ」と言って投降する者も続出したという。旅順攻撃で肉弾攻撃を敢行し、多 
大な犠牲者を出した歩兵第22連隊は、松山の連隊であった。        
 これほどの捕虜への厚遇は国際世論を味方につけ講和を有利にという政治的 
思惑や、ヨーロッパに出回っていた「黄禍論」への配慮もあっただろうが、何 
といっても武士道精神が残っていたためである。武士階級で占められた軍人に 
は勿論、一般市民にも敗者への惻隠があったからこそ、自由散歩などが可能と 
なった。                                
 日露戦争に比べ日中戦争や、大東亜戦争での捕虜の扱いはかなり違う。日本 
軍は捕虜を労働力と視るになり、酷使、虐待を平気でするようになった。   
昭和の初め頃より惻隠が少しずつだが衰えていった。明治が遠くなったことも 
ある。                                 
 大東亜戦争において、アメリカ軍が日本人捕虜をどう扱ったかは、大西洋単 
独横断飛行で有名なリンドバーグによる「孤高の鷲ーーリンドバーグ第2次世 
界大戦記」(学研M文庫)に、日本兵の捕虜が少ないということに関する将校 
の会話《捕虜にしたければいくらでもできる。ところがわが方は捕虜をとりた 
がらないのだ。2千人位捕虜にしたことがあったが本部に引立てられたのはた 
った100か200だった。・・・もし戦友が飛行場に連れて行かれ機関銃の 
乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならないだろう」。    
 オーストラリア兵が護送中の捕虜を機上から突き落としたことについても触 
れている。                               
 イギリス軍が捕虜をどう扱ったかは「アーロン収容所」(会田雄次著・中公 
文庫)に詳しい。                            
 大東亜戦争(第2次世界大戦)において、戦争犯罪は日本だけに押しつけら 
れたが、連合国も同等あるいはそれ以上の残虐をなしていたのである。    
 無論スターリン、ヒトラー、毛沢東、蒋介石なども同じである。どの国にも 
残虐をなした理由はあった。どんなことにも論理的正当性を与えることは容易 
である。だからこそ、論理でなく、惻隠が大切になってくるのである。    
 日露戦争から日中戦争、大東亜戦争までたった32年だが、その間に惻隠は 
著しく希薄となったのである。】                     

【日本人の惻隠は大正末期にはまだ残っていたようである。ポーランドは第1 
次世界大戦後に独立するまでの123年間、ロシア、プロシア、オーストリア 
3国の領土に分割されていた。シベリアは祖国独立を希う愛国者たちの流刑の 
地だった。第1次世界大戦後の1918年にポーランドはようやく念願の独立 
を果たしたが、ハバロスクなど極東地域には10数万人のポーランド人が、飢 
餓や疫病に苦しみながら極貧生活を送っていた。せめてこの地域の孤児だけで 
も救い出し母国に送り届けよう、という運動が現地で生まれ救済委員会が発足 
、委員会は欧米諸国に援助を要請したが拒否された。            
 1920年、日本を訪れた救済委員会長から話を聞いた外務省と日本赤十字 
は、心を動かされ、莫大な費用のかかる孤児救済を異例の速さで決定した。シ 
ベリア出兵中の陸軍も直ちに協力を了承し、1カ月後には第1陣56名が東京 
に到着するという迅速さだった。その後2年間で合計765名のポーランド人 
孤児が東京や大阪の施設に入れられ、日赤から至れりつくせりの看護を受けた 
。無料で歯科治療や理髪を申し出る者、慰問品や寄付金を持ち寄る者などが後 
を絶たなかったという。健康の回復した者からポーランドへ帰国することにな 
ったが、新しい洋服や毛糸のチョッキも支給された。幼い孤児たちは、やさし 
かった保母さんとの別れを泣いて嫌がったという。埠頭で彼らは「アリガトウ 
」を繰り返し、「君が代」を斉唱したという】。              
【20世紀を彩った共産主義はほぼ消滅した。すべての生産手段を皆で共有し 
、その生産結果をも皆で共有する。これにより貧富の差のない公平平等な社会 
が実現する。美しい論理であった。現実には崩壊した。マックス・ウェーバー 
が予見したとおり官僚機構が肥大化し、すべての人が貧しくなった。翻って市 
場原理主義はどうだろう。共産主義とは対照的に官僚機構は小さくなり、少数 
の富者と大多数の貧者が生まれつつある。共産主義はより富者がいるだけまし 
、と考えてすましてよいものだろうか。市場原理主義とは論理が情緒の上位に 
立つというものである。だから従業員の情緒を無視した上で会社とは株式とな 
る。株主中心主義である。経営者と社員との間に情緒はなく、そこにあるのは 
雇用関係という論理だけだから、それさえ整えば自由にリストラすることがで 
きる。そうして利益を上げないと、会社は株主のものだから経営者が追い出さ 
れ、リストラするための論理として成果主義を取り入れる。         

 日本では長い間、会社は従業員のものであった従業員の忠誠とそれに応え 
終身雇用、という人間関係を軸としていた。リストラは禁じ手であり、不況に 
なれば、まず役員から給料を下げ、下に浸透させるという方式をとっていた。 
実力主義とか成果主義もとらなかった。普通の人を大事にする、というやり方 
だった。この方法で経済大国をなした。バブル崩壊後の10年余りの不況を経 
ても、なお世界第2の経済大国を保ってきた。               
なぜいまになって、日本経済の強みであった経営方法、広くいって日本型資本 
主義をかなぐり捨てねばならないのか。市場原理でうまくいかないのはアメリ 
カを見ればよくわかる。                         

 現在アメリカは世界最大の債務国である。膨大な双子の赤字、すなわち財政 
赤字と経常赤字は、ここ数年、主として日本による米国国債購入によって穴埋 
めされてきた。2003年4月から翌年3月にかけて25兆円という、対米黒 
字の2倍以上の米国国債を我が国は購入している。しかも日本が買い続けてい 
る米国国債ははアメリカの管理下にあり売却することもままならない。そもそ 
も売却したらドル暴落を引き起こすから膨大な保有国債は紙切れになってしま 
う。大幅なドル安リスクにさらされたまま身動きすらとれないのである。   
又、日本による国債購入のが滞れば、必然的に国債金利は上昇し、同時に市中 
金利も上昇、低金利による住宅バブルははじけ、アメリカ経済は壊滅する。  

 アメリカ経済の忠犬ハチ公の如き日本と、最近では人民元を安定させようと
 
する中国も加わえた国債購入に支えられているだけで、すでに破綻していると 
いえる。                                
 又、貧富の差を極大化させ、多くの人を不幸にしている。弁護士の数が日本 
の20倍、精神カウンセラーも数十倍といわれている。穏やかな生活を許され 
ない人々の苛立ちやストレスを物語っている。               

 何故そのアメリカを真似しようとするのかということである。いまこそ日本 
型資本主義を前面に押し立てるべきときではないのか。それは生き馬の目を貫 
くな競争社会ではなく、惻隠に主軸をおいた社会である。】         

   (以上、藤原正彦氏の文芸春秋刊『この国のけじめ』より)      
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2007/9/22(土)  「母の念い」    

 前回に書いた「日本民族」の信心深さ、亡母のことは母が亡くなった後に既 
に掲載したが、朝晩の読経は欠かしたことがなかった。すべての故人の名前を 
唱え、命日(月)の日はお経(阿弥陀経・般若心経)を重複してその故人だけ 
の為に経じていた。身体のどこかに痛みを感じる時でも、負けずに仏壇の前に 
座った。その「強さ」=我の強さは生涯の母を貫いた。           
 信心家だった母だから祖母達のようにポックリ死する筈だが、そうはならな 
かった。亡くなる1年前の一時、歩く度に足の裏が痛い、痛いと言っていた。 
傷やできものがある分ではなかった。だがそれも知らぬ間に言わなくなった。 
だから原因が解らぬ侭である。死ぬ前は自力では歩けなかったが、やはり足が 
痛い痛いと訴えた。勝手な処方が出来ないから診察を促したが、病院へ行く事 
は嫌がった。結局その後食事が摂りにくくなったのと、胸苦しさに病院へ行く 
事を拒まず入院したがその2日後、誰にも看取られず病院で亡くなった。   
急性心不全だった。私はいつも昼食時の介添えの為病院に行っていたから、も 
う少し後なら臨終時傍にいてやれたのに、と残念でならなかった。      

 その生前の母の念いに引っ張られ彼岸入りした昨日の21日に墓参してきま 
した。平日だから下の甥子は学校(どちらにしても明日からの3連休もクラブ 
あり)で、上の甥子は私が出掛けようとした1時半頃仕事から帰って来た。一 
応(墓参)誘ってみたが、疲れているようで私一人で出掛けた。
その時間に家を出て電車に乗り京都五条で下車、約30分ほど歩きやっと墓寺に着く。
 墓石を洗い住職の読経を終えて、同じ行程で帰宅したのは5時40分、所要時間は 
4時間余りだった。やはり電車は時間に狂いがない。車で行っていた頃は、帰 
った時はいつも真っ暗、2〜3時間は余計に時間がかかっていた。その代り今 
日(最近)は歩き通し、普段の運動不足を一挙チャラにできたかな?     
                 ★                  
9/23(日) 「梅を漬けて」      

 今日はお彼岸の中日、おまけに23日のこの日は私の父、弟をはじめ明治時 
代の人や4人も亡くなった人がいて過去帳いっぱい。「酒で死んだら本望」の 
父、又嫌いではなかった弟共々のため、この日は忘れず仏壇に酒か缶ビールを 
供える。今年6月に梅干しを漬け、続けて梅酒も漬けた。先月に出した時は両 
方とも梅が固かったが、今月になって梅の実は食べ頃となった。その梅酒を今 
日は仏壇にもお供えした。
 去年末、流し台の下の収納部を大掃除をしたら梅干し用の瓶が4つあった。
1つは瓶ではなかったので捨てたが、残り3つはきれいに、きれいに洗って流し台の
下の収納部の奥に置いておいた。母は脳梗塞になる以前、よh梅干しを漬けていた。
一度に沢山漬けていたのだろう1年以上寝かしたのがざらにあった。
 母の生前時の約10年程前、一度母に言われるままにやはり両 
方を漬けた事がある。今年梅を漬ける気になったのも母への追慕から。やろう 
と思って青梅を買いに行きながらしかし、どうしてやったか?殆ど憶えていな 
い事に気付いた。がいつものどうにかなるわの、私のいい加減さ(AB血液型 
特有の?)とパソコンのCDソフトに料理レシピがあった事を思い出し、それ 
を見ようと買って帰った。すぐにパソコンのスイッチを入れCDドライブにソ 
フトを入れようとしたが、ドライブが開かない!冗談か?と思う様なタイミン 
グでヒラカナイのである。固執しても仕方ないとインターネットのエクスプロ 
ーラから『梅』料理を検索して、無事【梅干しの漬け方】【梅酒の漬け方】に 
行き着いた次第です。しかし、私のパソコンのウイルスクンは私と同時進行に 
『生きて』いると思える事が多々ありスギる。               
 梅一個一個を洗い、拭き、天日干し、その行為ひとつひとつに、母への想い 
をかさね重ねてゆく。この「動機」が違うように、母が梅干しを作っていた時 
はきっと忙しく、せわしくしていた事だろう。私の中の「母のイメージ」その 
ままに。        2007/9/23 19:16                 
─────────────────────────────   『司法にひと言』  
                             
1. これまで学歴不問だった『司法試験』受験が、授業料の高い法科大学院を修 
了しないと受けられなくなったという。《法曹人口を増やし法学部以外の卒業 
生や社会人にも門戸を開く》というのがうたい文句らしいが、それなら先の制 
度(学歴不問)と並立させれば、もっと『大きな門戸』になるのでは
?    
 先の制度では何か弊害でもあったのでしょうか?             
2.
 司法と言えば裁判員制度に関して、民間感覚の導入という主旨で取り入れら 
れるこの制度だが、各職業を持ち決して専門的勉強も事例の推移も関知してい 
ない一般人が、プロの裁判員と同じ一票の裁決権を与えられるというのは、ど 
うも納得出来ない。「3人で一票」
というのが妥当なところではないか。   
あくまで一般人の参考意見という見地でしかないのだから。         
           2007/9/26 15:41                  


2007/8/26()〜8/31(金) 言いたいほうだい『考・生命保険』へ
         『初めての「夏」』
 処暑が過ぎても残暑厳しいが、丁度お盆を含んだ先週一週間の猛々暑の最後の日の19日、日曜日。テレビ「愛は地球を救う」で萩本欣一氏がマラソンに挑んでいた。私が観た夜の8時頃時点で、残距離15qの辺り、一度休憩して再度、マラソンというより歩き出した処だった。絶え絶えの息で。齢66才という欽ちゃんのあの疲労困憊の顔を見たら、ガンバレ!ではなく、もう止めれば、と画面に向かって言っていた。あれだけ無理していると、あとで応えるだろうな、と気の毒だった。私より5〜6才上なのだから「無理はしないで!」と、我が身に置き換えて思った。それほど今年の夏は暑い暑い!
 私自身、その一週間の余りの暑さ(熱さと言いたい程の)に生涯初めて太陽光の恐ろしさを実感した。もし昨年に欽ちゃんのマラソンを見ていたら「ガンバレ!と、若い人達と同じ声援の言葉を吐いたかもしれない。今年の私だから、とてもそんな残酷な言葉は吐けないのだ。「気持ちで頑張る」事など到底及ばない、気持ちではどうにもならないのが、暑さに萎縮する心臓持つ身なのだ。
 以前のこの欄の『私の本質』で書いた様に若い頃、夏が大好きだった。だから年を重ねてもそんなに夏が嫌でもなかった。真昼の炎天下でも買物に出掛けた、勿論帽子は着用する(但し日傘は使わない、というか持っていない)。だから例年のこの季節、出している腕の部分は日焼けして衣服部分との境目がくっきりできる、いや「できた」と過去形にすべきかも知れない。それは去年までのこと。今夏は猛暑でない日でも真昼を避けて出掛けたので「境目」がないままだ。去年の夏から今年の夏、この僅か1年の間に「10年」歳をとった如く感じる。

 嫁いでいる私の末妹は若い頃から夏に弱く、妹の下校時等に出会うと日陰で立ち止まっていた事があった。又、私の母も亡くなる10年程前位(70才過ぎ)、夏になると「逃げ出したい」と言っていた。今年の夏に初めて妹や、亡母の「夏の悲鳴」が理解できた。私自身の体質の変化、とでも言いたい様な未知の暑感だった。未だ未だ好奇心は旺盛だし、見た目は別としても気持ちは若いと思っているが、身体は着実に年数を積み上げていた。(この秋で61才になる)これが生きている、ということなのだと、良きに、悪しきにつけ(得るもの、失うもの)納得する。良い、悪いも、得る、失うも、心に由来する。

 翌日の20日の朝のテレビで欽ちゃんが「完走」した事を知った。しゃくり上げる涙の姿があった。イヤァ参りました。あの時の、もういつ弱音を上げても、いつ倒れてもいい状態からゴールへ向かわせたのは、自分がやりだした事への責任感と、テレビのコメンテーターの言っていた「人へのおもい」でしょう。イコール「愛」。それは希望という到達点は「あきらめない」こと、というメッセージをテレビを見ている全国の人の目の当りに発信した。「愛は地球を救う」テーマそのものでした。
 あの時の欽ちゃんは(精神力)きっと、自身の命も超えてたと思います。凄い人です。でも、これからはもう、無理をなさらないで下さい。本当にお疲れ様でございました。 2007/8/26 19:16
                         ★

 若い頃のようにはやれない、加齢による身体の限界への挑戦は大きなリスクが潜むもの。一昨年の12月に84才で亡くなった私の母は、69才の時(平成2年)に脳梗塞になり入院、退院後も左手足に若干の障害を持った。
 その当時母は甥子2人(上が5才、下が1才)を看ていた。私の直ぐ下の妹(母にとっては2女)が病みがちで、その年の9月位迄は上の甥子だけだったが、妹の身体が芳しくなく2人になったのだ。母は保育所の送り迎え、食事諸々の世話をしていた。それが応えたのかその年の12月に発病してしまった。
 平成17年12月1日に亡くなった私の母の様に、戦前生まれの人は総じて精神性に重きをおいているだろうが、母の精神力はずば抜けていた。自分が決めた事はやり通す。昭和30年代から行き始めた毎朝5時からの朝起会(倫理宏正会)に、「一番に行く」を座標軸に終始一貫やり抜いた。朝3時頃には行き、寒い冬でもそれは変わらず扉が開くまで外で待っていた(落葉掃除等もしていたようだ)。なんせ「一番」が好きで、そんな事を絶えず母が口にしていた所為だろう、先程の私のすぐ下の妹が高校生の時ガリ勉だったのは。母が何故「一番」にこだわったか?は興味深いところだが、母の兄は優秀でいつも成績は一番だった、その事で親から母はいつも比べられていたと、生前に聞いたことがある。それが母の中に「何かで一番」という思いを抱かせたのではと推察している。私などは人間が一番に等成りえない、と思っているので、それには全然興味がない。モットーは「マイペース」だった。そして、人が右へ行くと言えば、左へ行きたい人間である。

 つい最近の新聞に『亡母』を偲ぶ記事があった。各個人、それは通過せねばならない儀式、追慕。これからの生涯、この大きな空虚を埋められるものは何もないだろう。一緒に生活していても、会話があった分でもない。亡くなった当時にも書いたが、空気のような存在だった母。「空気」がなくなるとは………、考えられないことであった今年の夏の猛暑も相まって『喘ぎ』ながらいきている。亡くなってもうすぐ2年になるのに。

 『母』の事を考えてみる。いまでもよく解らない部分がある。『子供』の立場から言えば、やさしさを感じたことがない。でも全ての子供(6人)への愛情は強いものだったろう、動物的本能の如く。それは感じられた。でもそれは『やさしさ』とは違うのだ。(表現される)人間的情愛を感じなかった。(戦後のあの頃を思えば子供と向き合う時間などなかっただろうと、理解はしているが)
 しかし、戦前生まれの人共通(教育勅語世代)の正直、誠実、勤勉、忍耐、惻隠の情を備えていた。『善良さ』それだけでも、誇りに思える人間だった。そして、それらを今改めて見据えれば、100パーセントの『善良さ』故に亡母には適わないと、想う(先ず人を疑うより信より入る)。
 夏目漱石の『行人』の中に【・・・電車の中で口を開けて居眠っている人を見ると、前に行って手をついて謝りたくなる・・】という部分がある。私の母もテレビを観ていてよく居眠り、おまけに同じく口も開けていた。だからあの部分に出合ったとき、すぐ母が重なった。
 この主人公は、この文明(知性)の行き着くところに過敏な憂悶をもつ。
 ”『行人』を 通過したる 幾世紀 のちの人間 宇宙人なり?”

 人間だから、欠点は皆ある。振り返れば母のこの善良さが災いを及ぼした事も多々ある。お金を貸し逃げられたこと。人の口車に乗っての損害。根拠もなく他人の言葉を信じてしまうという、実際私なら信じられない事がよくあった。かと思えば虚栄っぱりでもあった。

 昭和40年に父が亡くなり手許に遺産がある頃母は、末娘にピアノを買ってやると店に連れて行った。妹は当時まだ7〜8才頃だっただろうが、子供心に父親が死んで大変と、もっと安価のエレクトーンを選んだと言う。すると、そんな物なら買わない、と店を出てしまったそうである。どちらが「子供」か分からない一例だ。若しあの時そのエレクトーンでも買っていたら、きっと私もやってみただろうから、私自身にとっても人生の転機となれたかも知れない。(結果として50才前にそのエレクトーンをやり始めたのだから)

 もう一つ忘れられない情景は、先程の朝起会に末娘を一緒に連れて行っていた。たまに妹が起きれなくて行かなかった日がある。その日母はその末娘と口を利かない、子供が拗ねているようなもの。これもどちらが「子供」か分からない。傍目の私は妹が不憫だった、と同時に母の幼児性を疎ましく思った。
 だから、その次の時やはり妹がよう起きれなくて母が行った後目を覚まし、一人で当時の野田阪神から出入橋の道程を歩いて行ったという事があった。(いつもは母の自転車の後に乗っていた)未だ妹が10才に満たない頃だろう、朝とはいえ、よく事故等に遭わずにすんだものだ。母は上機嫌だったし、確か好きな物なにかを買ってやっていたと思う。当時の母は子供誰彼問わず朝起会に行けば甘かったし、物を与えていた。昭和41年、私が20才になる年、車の免許を取り中古の車を買って貰えたのも、私の「朝起会に行く」の一言だった、が殆ど実行しなかった─────。この親が6人の子供を育てたのである

 若干の障害を持ちながらも母は、平成10年12月に2回目の入院をする迄は、昼食を挟んで朝、昼と2回、シルバーカーを押し京阪香里園駅前に行き、シルバーカーの上に座って朝起会の本の頒布をしていた。その2回目退院以降も昼から出掛け同じようにし、平成17年迄「無償の行い」をやり通した。
 母の生涯は先ず第1に朝起会があった。生活は全て朝起会中心に動き、休むのが嫌なので泊まり掛けの旅行も行かなかった。

 徳を積む、善行、先程の「教育勅語」の戦前教育こそ、台湾の人達に尊ばれた『日本精神』の在処。少し前の新聞に、親から『日本人は素晴らしい』と聞かされ日本旅行を楽しみに来日した台湾の人が、どこにも日本精神を持った日本人などいなかったと、失望した記事が掲載されていた。(他の来日した外国人も現在の日本人を見て顔を背けるそうだ『電車内での化粧、地べた座り、ゴミの散乱等』)。

         『その年代の限界』
 〔恥の多い人生を送ってきました・・・〕有名な太宰治著書の『人間失格』の本の冒頭部分だが、私も若い頃を思い返せば、全く恥知らずであったと思う。もし若い頃に終命していれば、それだけで終わった人生だっただろう。

 だから現在、『♪いまだから』的な歌詞を記したり、道徳訓のような事をこうして書いているのを不思議に思う。人間は変わる、どんどん変わる。環境(触れる物「音楽、本の類い」、周りの人間、場所等)によって。「現在」を目標とした分ではない、が気が付けばこうなっていた。そのままの「素」という「人間の元素」になった。そして人生の解答を得た。それは偶然の必然だった。ヘルマン・ヘッセの本の「郷愁」のやはり最初のページだったと思うが、年老いて故郷スイスの山間に帰り・・・自身の顔、性格が父親そっくりになっている事を悟る件りがある。若い頃に読んだ、それっきりの本のその「箇所」に、現在の私も同調する。自分の中のこの部分は父譲り、これは母譲りだろうと、認めてゆく。なーんだ、わたしとは、それだけのものだった。だから、51才で亡くなった父の「それ以降」の人生を生きていると思える。      

 人間はその年代年代の「自身の限界」を背負う。その時点では分厚い壁の如きもの。人間の不思議さは、時がその分厚い壁を溶かせてしまう。『瓦解』の中の「ビー玉の眼の父」を見送った私は、20才前の「自身の限界」だった。もっと父が長生きをしていたら、違う見送り方が出来たと想う。

 私は、約2年前亡くなった母を家で看取れなかった事を今でも悔んでいる。。なぜかずっと、将来母が死ぬ時は「絶対、家で家族が囲んで・・・」と呪文のように念ってきた。最近、何故そう思ったのか?と自身に問うた時に、昔入院していた父親が「家に帰りたい」と何度も言っている、と母が言っていた事を突然思い出した。それが潜在意識となっていた。主治医は絶対駄目と言っていた、が連れて帰ってやるべきだった、もう永くはなかったのだから、と今なら想う。 
 その後の忘れられないこと、母は本当に度が過ぎる正直者である。父親の通夜の折、参列者の中に未亡人になった人がいた。その人を見付けると母は笑いながら「同じになりましたわ」と嬉しそうだった。とても通夜のそれも喪主の応対ではなかった。  
                  ★ 
            『日本民族』
 父方、母方の祖母どちらも「信心家」だった。死んだ年齢から逆算すれば明治時代の生まれとなる(父方は昭和25年に75才で、母方は昭和31年に65才で、亡くなった)。6人兄弟の内、長女の私だけが大阪の住吉で産まれた。約2才下の昭和23年5月生まれの(長男)弟から下全部は、福島区の生まれである。住吉に居る間、祖母は乳母車に私を乗せ、子守がてら毎朝住吉神社に詣っていたという。この祖母が亡くなる私の3才半迄、店に行っていた母に代わって看てもらったと聞く。祖母は本当にポックリと逝った。未だ母が家にいた時間だから朝か晩だろう、虫の報せかその日父の姉が訪れた。奥に居る、と母に聞き行ってみると祖母は亡くなっていた、という。
 母方の祖母もポックリ逝った。心臓麻痺だった、と聞いたと思うが、信心している奈良の宗教施設の参拝階段を上がっている最中倒れ、そのまま亡くなった。熱心な信者だったらしいから其処での「お迎え」は本望だったかも、と想ったりする。昭和25年生まれの、私のすぐ下の妹(甥子達の母親)は、やはり店に行く母が実家のこの祖母に預け、店から帰り再度迎えに行くまで世話して貰っていた。
                             ★

 「少し前」までは『日本民族=神仏を崇める民』と言える程、日本のどこを見回しても信心家ばかりだった様な気がする。一種の托鉢だろう、子供の頃、少人数で軒々の玄関前で禀の鈴を手に鳴らし御詠歌を朗詠しているのを見聴きした。そういう風習を受け入れる土壌が未だその昭和30年前後には息遺いていた。いつからか、気が付けば全くそんな姿も見なくなった。いつからか? きっと日本人の一丸性が復興の坂に足を踏み入れた時期かも知れない。

 戦前、又戦後の暫く、来日した外国要人が称賛したのは「日本精神」もつ日本人だった。私の母も死んだ様にこの世代は減少するばかり、いずれ皆無となる。利他心、謙譲心に富んだ日本人がいなくなった時、日本は「美しい日本」ではなくなっているだろう。

 「日本精神」背骨の、基礎を成したのが「道徳=善悪の判断力」、戦前にあって、戦後に失くなった道徳教育。幼児期に教えるそれは「潜在意識」として身につく。DNAも解析され、これからのサイバー世界は『人間脳』に迄及ぶだろう。それを扱う者と、そうでない者に二分化される。その時々の是否の判断力は基となるこの「潜在意識」の有無が大きく左右する

 戦後の民主主義社会。先ず、公共の福祉を優先する事が第一義的。そこには美しさを必要とする。調和と均整。自ずとそれを踏まえた『自由』社会である筈。「自由と義務」はワンセット、この事を各自再確認しよう。   2007年9月1日 1:09:

2007/8/17(金)『いつまでも・・・』&「美しい国」の根幹
 あんまり暑い毎日に生活手段を変えようと今朝は6時半に起床し(夏休みに入ってからは7時頃起床だった)玄関前に打ち水をし家事諸々(ゴミ出し、犬の糞始末等、神仏の供花の水の入れ換え、拭き掃除、洗濯干し等)をやり終えました。昼食は素麺と天麩羅を揚げた。今日明日やっとクラブが休みの下の甥子は、昼食を食べ、ゲームをしていたが4時から友達とカラオケに行くと先程出掛けました。現在午後3時半前、暑い、暑い室温38度、クーラーをオンにしたところ。これを打ち込み乍らも頭はボアーン、15日に行った墓参寺の掲示板に小林一茶の
一句の一部分”・・・喘ぎながら 生きている”と言う言葉があり、今又その共感を一にしました。『いつまでも あるとおもうな 親と金』という諺もありますが、母親は約2年前に亡くなり(亡父は昭和40年に)、金はずっと無く、加えての我が身も「いつまでも」おなじでなく・・・、をしみじみと噛みしめております。この8月12日から私本『夢幻』の内容を全公開しようと思い立ったのも「いつまても・・・」という想いからのような気がします。結果として、歌にしろ、本にしろほんの一握りの人にしか知って貰えず、これからどんどんこのホームページに流そうと思っています。(ま、気長にやりますわ)
                  ★
 話は全く変わりますが、防衛事務次官が増田前教育局長に決まったと今テレビにテロップが流れました。この人事に至るまでのゴタゴタも安部総理の求心力低下を顕著にした。安部総理の権威を失墜させることばかりするのはいい加減にして、若い安部総理を総裁に選んだ党員の責任に於いて皆で支えないと、自民党に明日はない。
 安部総理のやろうとしている「戦後体制からの脱却」の実行。今度の内閣改造人事ではその為の最適の布陣を期待しています。就任当初時の閣僚人事の失望感はそのまま後の「結果」となりました。そのような事の無いよう、もう最後だという気概で貫いて下さい。そして、総理大臣として靖国神社参拝は必ず実行されますよう・・・。自国の神社である、自国の為に戦って死んだ人を祀っている神社に、国の代表者が(本来なら天皇陛下が)参拝する当然な事を、当然とならしむるよう、代表者の靖国神社参拝は「毎年」途絶えてはならない。近隣国の歴代をみれば一貫性のない参拝反対など、敗戦国に対する弱いものいじめ、隷属化要求と同義。出来れば安部総理がボロボロにならない内にと思います。「美しい国」の根幹を見落とさないよう
   2007年8月17日 16:59

2007/8/16(水)昨年11/27付のペーパーマガ゛ジンbX5に掲載分がこのページに流すのが抜けていた様です。『70兆分の1の存在 他
       『お盆・墓参』
   ”猛暑日が 続き 墓参も 夕まいり”

 連日35度以上の猛暑日が続く今年の夏。今日など埼玉、岐阜では
40.8度とこれまでの日本記録を更新したようです。
我が家等、クーラーつけずに頑張っていたら一昨日は室温39度でした。今日も38度、我慢堪らず3時半にクーラーをつけ生き返りました。
大体、若い頃は夏が好きで冬大嫌いの体質だったのに、身体は老いております。
 それでも昨日のお盆の中日、精神力を振り絞って京都へ墓参して来ました。こんな具合だから今年のお盆は「よう行かんなァ」と言っていたのですが、時間をずらせばマシと思い、結局午後3時半頃上の甥子と家を出て、駅前のスーパーで供え物、花を買い、電車に乗りました。(1写真は電車の中から流雲をパチリ)
急行、特急、普通と乗換え、五条駅降車後五条坂方面に「」歩く。やがて五条口手前の例の少女の頃の「歴史的保存建物」に出合いデジカメでパチリする。(2写真)三年坂下のお寺に着いた時は寺務所も閉まっていた。墓を洗っていたら、妹夫婦が来てお供え物も増え、お経はないが、陽も翳った涼やかな共鳴音の如き蝉のBGMを聴きながら各自墓石に手を合わせ墓参の報告をする。

 その後、寺内の休憩所でジュースを飲んでいると、5時を過ぎたと思えるのに花を手に墓参段を上がって来る家族連れを目にする。
暑いからなぁーと「同病相憐れむ」如く納得する。

 帰路は一緒に車で、という妹の誘いも、車が混雑する可能性も否定出来ずと思い、七条駅まで乗せて貰う事にする。降車した真ん前にマクドナルドがある。先日甥子マックを食べたいと言っていたのを思い出し、入店してセットを食べる。何年振りだろうと、チーズバーガーを口に運びながら七条通りに目をやっていると、柳の真上をうっすら夕焼け雲が色彩を変化させている。早急に食べ終え、外に出てパチリしたが肉眼で見た程には写っていなかった。(3写真)

 お盆の墓参こそ下の甥子も共にと思っていたが、結局下の甥子の盆休みは17日から19日でこの日もクラブがあり、永年の「三人で墓参」の慣習も今年は皆無のままである。

 夜7時半頃に家に着いた。現在60才、今回程歳には勝てんと感じた墓参はなかったが、帰ってみれば、「行って良かった」満足感に充つ。亡母が一番喜んでくれているだろう。
2007年8月16日 19:26


2007/8/12(日)『安部総理の覚悟』
現在午前2時過ぎ、昨日から私の詩歌集第三集『夢幻』の内容をホームページに公開すべくその作業にかかりっきりでこの時間になりました。全部掲載する迄未だ時間がかかりそうですが、その都度
『夢幻』公開ページを覗いて下さい。
 参院選大敗した自民党ですが、安部首相は中谷元防衛庁長官がマスコミの面前で首相に「辞職の勧め」という無礼な行為をなしたのに関わらず政策遂行の為、頑として総理の職務を全うされる覚悟です。その一徹さに、(昭和35年頃?)私が子供の頃テレビで観た安部総理の祖父にあたられる岸信介首相の日米安保条約締結への執念を思い出しました。当時全学連の学生デモ「安保反対!」の鎖の輪が幾重にもつくられていた。それでも岸首相は完遂し、それが後々の日本の安全保障の要となった。そんな姿勢を受け継がれているから、忍耐こそ勇気と敢然と立ち向かって行けるのでしょう。今回の選挙ほど、中味の何もない。「年金と絆創膏」だけで勝敗が決したような選挙も珍しいでしょうね。国事ってこれだけですか?民主党が参院で多数議席を取ったお蔭で、国民投票法案(憲法改正に必要)、教育基本法改正(ゆとり教育の見直し、道徳教育の導入)もすんなり施行されるかどうか。どちらも民主党は反対していたのですから。だからと言って対案があるわけでもなし。
 世界的なレベルでの学力の著しい低下を踏まえれば基礎学力の再充実が必要、又「非常識な親」とならない様、子供の頃からの善悪の教え等を含めた教育が必要です。
 アメリカと対等になどと民主党の小沢代表はふんぞり返っていますが、いま一番避けなければならないのは日本が孤立する事です。日本が武力行使でなく世界貢献できるインド洋での自衛隊の援助活動は更新すべきです。日本への石油輸送の90%はこのインド洋を通って運搬されているそうです。小沢代表は国民の利益より、党益優先がみえみえですね。そんな「公約」で国民は一票投じた分けではないと思いますよ。これも「生活」に関わってくる事なのですから。

2007年8月12日 3:32

2007/7/28  
明日(7/29)は参議院選挙』

 
「民主党は、反対ばかり、何がしたいのか」
 
現在午後4時、明日は選挙なので安部自民党応援の為のペーマガを配りに行こうかと思っていたら、雷とともに雨が降ってきました。この雷鳴は何処まで響いているのでしょうか。
きっと全国まで、と言う事はないでしょう。しかし、こと政治に関したら、「此処だけ」ではありません。全国津々浦々にまで及びます。選挙のその結果が、安倍政権が成立させた法案遂行に影響を及ぼします。
 中国の軍事台頭化懸念増す世界情勢下、安部政権の得難いところは外交面、アメリカだけでなく、NATOやオーストラリアへの自由主義国家との結束確認の積極的アプローチ。麻生外相主導による「アジアの弧」構想の推進です。
 北朝鮮か核を保有したという現実に、結局アメリカは以前のクリントン大統領の時の愚を繰り返すようです。いづれ日本にも北朝鮮支援の負担を強いてくるでしょう。肝心の北朝鮮内の「ウラン」の事には一切言及なしの「核廃棄」的表明など、日本にとってはなんら気休めにもならない。この現実を踏まえ、日本は危機管理だけはキチンと整えておかなければならないでしょう。「核保有」しない日本はその核の傘を借りるしかない。その応分の負担を日本もしなければならない事は、誰にも分かるでしょう。
片務的ではない同盟関係の構築、それが「集団的自衛権」です。
「万一の時、私はあなたに助けてもらう。だけど、あなたが万一の時、私はしらない」。自分に置き換えて、こんな友達関係は可能ですか?ということです。このことも憲法改正という議論の中で為されなれければならないことです。なのに、今回の争点は、民主党と社保庁職労連携の「年金」テロで国民は大パニック。この年金問題は国会で未統合の指摘があった時、安部首相は速やかに、その対策指示を社保庁にしていたそうですが、肝心の職員「10年間放置」しておいた(職務怠慢)癖が抜けなくて、全然取り組んでなかったというのが、実際のところのようです。それを、まぁ選挙の小道具ならぬ大道具に使うのですから。2年後解体の決まった職員のヤケクソ自爆テロ、そして国民をパニックに陥れる事は、政治家が一番避けなければならないのに、選挙のメインにもってきた民主党。国民を愚弄するのも「いいかげにせい!」と言いたくなりませんか。
冷静に考えればこれら安部内閣の法案に、昔の社会党のように民主党は「なんでも反対!」ばかり。国のこの現状を踏まえて、どうするのか、何がしたいのか、国民への甘言ばかりで、何もみえず、結局、何も変えたくないようですよ。
 

 雨がやっと上がったみたいです。
この続きは又のちほど。
2007年7月28日 17:18:

           『日本民族の誇り』
                    ★
 あれから自転車で出掛けペーマガ(bP01号に少し加文)をコピーし、この香里園界隈(大阪府寝屋川市)の各戸に僅かですが配布してきました。出費ですが募金している気持ちでやっています。ほぼ配り終わった頃、雨が又ポツポツ、頂度食料品スーパーの辺りだったのでそのまま中に入り食材購入。其処を出た時は降っていなかったのに、途中から又雨。米10kgが特価だったので買い、重たくて自転車に乗らず引いて歩いていたのに、殺生なこれまた大粒の雨、帰った頃は全身ぐっしょり。普段、傘は私の自転車の横側に差しているのだが、昨日後輪にエアーを入れていたら全部空気が抜けてしまい、そのままで置いてある。だから昨日今日は甥子の自転車を使い傘も持ってなかったいう顛末。それにしても、あんなに濡れたのは何年振りだろう?
                   ★
 安部総理は就任して1年も経たないのに数多くの法案を成立させ(特に国民投票法案などは61年間誰も手付けずでした)、実績は上げているのに周りに足を引っ張られ、本当にお気の毒。 閣僚などの不始末に対しては、任命権者の責任云々の声など気にせず、器に値しない人間は速やかに他の人間に交代させる方が、余程すっきりする。(そう願いたい閣僚が2名ほどいますね)。

 これら法案の実行の為にもまだまだ政権続行して頂かねば、「美しい国」を見ぬ内に、またみっともない日本に逆戻りしてしまう。その為、微力ながら私なりに活動を続けています。「日本の未来」「地球の未来」のために。
 安部首相でなければ出来なかった事のもう一つは、前回に書いた北朝鮮に対する「拉致問題解決」要求の毅然さ。北の核保有がらみで現在拉致問題は進展していませんが、安部首相で解決出来なかったら、誰が総理になっても無理でしょう。前小泉首相が初めて北朝鮮に訪問した時(これも初めて、手弁当で)、安部総理は副官房長官として同行し、小泉首相は金正日に拉致問題解決を迫りましたが進展せず、一旦休憩昼食。(当事)安部副官房は、拉致を認めなければ「このまま日本に帰りましょう」、と進言、昼食中の会話でしたが、全て盗聴されている事を知っての言葉だったとか。案の定、昼食後の再会談で金正日は「拉致を認め」、以降の(一部)拉致被害者帰国実現となっていったのです。
それまで、この拉致問題を「日本のでっちあげ」とさんざん日本を罵っていたのに、(社民党なども同じ様な事を言っていた)あの頃、よほど日本の物資の支援を必要としていたのでしょう。「拉致問題解決なくして、経済制裁解除なし」という姿勢を貫く方法でしか、あの国(金正日)が一歩踏み出すことはないでしょう。
 だから、安部総理にまたまだ頑張って貰わねばならないのです。(安部総理以前、どれだけ北朝鮮にお米等を含めた支援をして来たことか。それでも拉致の「ら」の字も認めなかった事を、忘れないようにと念います)そして、小泉前首相の靖国神社参拝にみる、「脱」従属国路線の継承も安部総理にしか出来ないでしょう。下記に引用の如くの長年の自虐意識をやっと覆し、中国の圧力を振り払った小泉前首相。
 報道によれば小泉前首相の靖国神社参拝のこだわりは、鹿児島の記念館で見た「特攻隊の遺書」だったとか。私も最近産経新聞に掲載されこのページにも引用掲載していますが、その中の志願兵言葉『
われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう民族の誇りに・・・』が特に印象深く、最近折にふれとみに「民族の誇り」を反趨してしまっている自分に気付きます。『その死』を無駄にさせては申し訳ない、と思うのです。これから以降、日本に小泉前首相の様な政治家は現れない、命懸けでやり通したことだったでしょう。
 安部首相は小泉前首相のようにエネルギッシュが表面に出るタイプではないが、内面は一徹さを持ち合わせた人でしょう。でなければ、これまで北朝鮮に毅然と一歩も譲歩しない姿勢を貫ける筈がありません。日本の貴重な人材だと思います。
                  ★
以下は引用文です。
 黄文雄氏・池田憲彦氏著
『日本がつくったアジアの歴史』<7つの視点>より、「第6の視点・植民地主義の真実」に「日本人は何故中国の脅しに怯(ひる)むのか」と問う。日本が何故植民地に進出したか、結果何をもたらしたか。過去の事実をきちんと洗い直すことなく中国政府は日本に対し「侵略した」一点張りでゆさぶりをかけ、それに対し日本はきちんと対応せず、ひるみ、よって中国はこれ幸いと益々居丈高になり、戦後の日本はどっちを向いてもビクビクしながら、謝ってばかりて、しまいには言われもしないうちから謝ってしまう。中国の政治戦略の心理戦、中国が被害者と主張し続ける限り、日本に対し免罪符を手に入れる事が出来る。
 
 中国の主張は「植民地主義は悪だ」ではなく、「日本の植民地主義は悪だ」という勝手な論理。漢民族自体は古代から一貫して植民地主義国家だった。現在も東トルキスタ、チベット、内モンゴルで進行している事は一切不問にしている。それらを正当化するのが、大中華民族主義である。
 これに近似するスローガンは旧ソ連にもあった。ソ連圏内では、ソ連を長兄とする社会主義兄弟関係と言って来た。つまでもこういうご都合主義に振り回されず、今こそ日本の植民地で果たした役割、その功罪を冷静に吟味する必要がある。


 「第7の視点・中華帝国の復活か、日本の自立か」『中国の戦略的属国になり下がった日本』
には、戦後の日中関係はマクロ的に見てみると日本は既に中華帝国の「戦略的属国に堕ちている。その証拠に日本の第一権力の座のマスコミが、いつ間にか中華言論統制体系の一環に組み込まれているではないか。
 教科書問題も、中国が日本の教科書の内容に干渉してくると、日本は唯々諾々と受け入れている。スポーツの競技会に外国首脳を招待するのにわざわざ中国政府に許可を貰いに行ったり・・・・・。中国政府は
日本の政治、外交、情報、言論、文化、教育、経済、司法などあらゆる面に口を出し、既にその実績を積み上げ、許認可権を持つに至った
といえる。しかも日本の安保問題にも関与し、日本国内の様々な「平和団体」や「反体制」の諸勢力と呼応して長年に至り圧力を加えてきている。

 『新たな黒船は台湾に』には、日本は戦後50年(当時で)の一国平和主義に安住していた結果で、アメリカ軍の安保の下で鎖国体制にこもって安心しきり、これだけ情報が流入していながら、外の動きが見えず遅滞現象そのもの、日本人自身に戦略的属国になっている自覚がないという事は、外から処方を施さない限り、このまま待っていても治る可能性はない。黒船のようなショック療法が必要である。その黒船になる可能性が高いのは台湾問題だろう、それは台湾自身にあるのではなく、(台湾2000万人の意志つまり、自分達の将来は自分達で決定するという意思表示をした時)、北京政府はどう対応するか。その時こそ中華帝国にとって自己変革が迫られる時となる。)

 日本人一人ひとりが21世紀に向けて真の独立とは、自立した国家とはと言う問題を真剣に考えなくてはならない。自分に自立心がないから、他者の自立にも理解する事が出来なくなっている。自立意識は、自信に裏づけられた妥当な歴史認識を有するところから生まれてくるものと考えるのは自然だろう

<あとがき>に、自国の歴史を自虐的にしか見る事が出来ない人々は、心理的に革命史観への憧憬があることに気付いていないのではないか。革命史観の立場に立つと、現場の分析は楽である。それが目指す革命にとって、必要か、不必要かの観点から解釈し、裁けばいいから不都合は捨て、都合のいいものだけを記録すればいいのだ。そうして出来上がった記録は既に、歴史の持つ生命は失せている。生命のない歴史を、我々日本人は半世紀以上の長きに亘り、自国の歴史だと信じて、祖先の営みを裁いてきたのです。
 しかし、そういう見方と無縁なところで、自国の歴史、とりわけ近現代史を考える時期に来ている。何故なら生きている限り、歴史は他所事ではなく、自己の生命と結びついているからです。平成10年6月吉日 池田憲彦氏。  以上。
          ★
2007年7月29日 4:24:


2007/7/16

   まれびと・ 前橋汀子クリック前橋汀子コーナーへ   
 ペーパーマガジンもbP01号です。    
そしてこの七月八日は私にとっては忘れられない衝撃
的音楽、前橋汀子さんの「スラブ舞曲」をNHKFM
で聴いてから、丸十年の日でもあります。     

  
”感動の 器の素地は 悲しみが       
      ほりて深き 芸術を 容れ ”    

  ”悲しみが ある日突然 襲うよに      

      喜びにも また 見舞うる心 ”   

当時の詠首ですが、又♪歌詞の「あなたは愛」「まれ
びと」他にも書いている如く、究極の感動感は生きた
人生の悲虚に比例していると想う。そしてこれ以降の
自身の♪「誰のために・地球の未来に」の活動の経過
に思至すれば、この事の為に「五十年の負の過去」を
背負わされたのでは、と十年後の今振り返って考えて
います。その約一年後初めてのコンサートに行った。
   (平成十年六月二十六日)         
 
”木の化身 濡る緑なる 衣裳着て       
    バイオリニスト オーラにあらわる ”  

          ★

    金 字 塔        
 ”杯満つり ローエングリーンは 失いし    
    無限の距離の 星 舞い来たりて ”   
  私は、山頂で待っていた あの何億光年彼方の 
 天空の星を ただ その輝きに 魅せられて   
 ずーっと 諦めという 無限の中で それは   
 ある意味で 永遠だった───幻を見た     
 あの星が 直ぐ其処に 真前に 緑色の輝きを  
 放っていた 遠さ そのままを 近くに 見ている
 という位 輝きは一致した───幻は消えた。  
  でも昨日と 明日が すっぽり重なる日々の中で
 あの幻の一夜は 別世界の 其処だけ 切り取った
 絵のように 燦然と輝く 私の心の 金字塔と  
 なった────  私は 山頂を降りるだろう  
 私は 登り切ってしまった もう降りるしかない 
 今も 天空の輝きは あそこにあるけれど    
 変わらず あるだろう・・・・         

     『郷 愁』          
 充分な 青い空 でも             
 もっと もっと 碧い空が・・・        
 充分な 青い海 でも             
 もっと もっと 透明な 深海が・・・     
 見たことは ない けれど────       
 し っ て い る
 
 (以上、詩歌集夢幻より)

────────────────────────
 地球温暖化抑制の為、ネオンの照度低下を!
──────────────────────
───────────

月二十九日 参議院選挙

 焦点が年金に絞られそうな今度の選挙ですが、
一時のパニック的状態も鎮まり年金支払い額の客観的
判断をする第三者委員会も発足しました。     
 今回の事態をを回避する為、政府は「社会保障カー
」を作り自宅のパソコンで払い込み額や受給額が確
認出来る様にし、平成23年度中に健保と介護保を統
合すると明言。《提言。一層の事、納税も含めた「国
民背番号制」にすれば良いでしょう。万一国民のプラ
イバシーを洩らした場合、罰則を懲役刑とすればいい
のでは?》                   
 元はと言えば今回の年金記録漏れは、社保庁解体が
決まった事で社保庁職員が「発表」したようなもの。
どうせ事務引継ぎ時には「発覚」する事。ならば労組
の支持政党の選挙「応援」に使えば「生き残れる」と
「自爆テロ」に及んだのでは?自民党は二年後社保庁
職員を解雇しますが、民主党はそのまま温存します。
。十年前に統合が決まってから、今まで何を仕事にし
ていたのか?と呆れるばかりの職員。これを就任一年
にもならない安部首相の責任云々というのは酷でしょ
う。/産経新聞
『やばいぞ日本』〔没落が始まった〕
米国でのこの十三年間の自然科学系の博士号を取得
したアジア人留学生の数がグラフで表されている年平
均で【トップが中国の2500人、かなり離れて韓国
、インド、台湾が続き、
日本は中国の十分の一の僅か
200人でグラフの底を這いそうである。(略)  

 東大法卒の若手官僚は優秀な人材で将来を嘱望され
欧州の大学に研修留学して現地語はすぐ身につけた。
しかし、数学力不足から経済理論がこなせず、哲学の
基礎を学ばないから論理的文章が書けない。一年後に
教授から呼び出され、学業不振で退学処分になった。
 日本は「ゆとり教育」が行き渡って受験科目を絞る
大学が多く、数学を受験しなくても法学部や経済学部
に入学出来る。
国際的にこれが通用しない。】   

 
安倍首相は「教育基本法改正を成立させ(この法
案も民主党は反対でした)「ゆとり教育」の見直し
全国一律の学力テストも実施された)、不適格教師
把握、研修を兼ねた免許更新制度の導入、又(将来モ
ラルのない親とならない為)小学校での道徳教育の推
進等これまでの日教組に楔を打つ如くの改革が期待さ
れます。その他実績として、就任直ぐの民主国家結束
の為のNATO訪問、最近のドイツサミットでは地球
環境の為の「美しい星」構想でリーダーシップ発揮し
ました。北朝鮮に対する毅然とした経済制裁は朝鮮総
連建物の差押えへと波及し、日本の元公安のトップの
逮捕や日弁連のトップの関与迄炙り出した。防衛庁も
「省」となり、談合断絶の為「公務員改革法案」も決
議され、就任時に掲げた「美しい国」が築かれつつ
ります。それをこそ評価し、益々期待したいもの。 


     『永らくの戦後教育』          
 久間防衛大臣が第2次世界大戦時のアメリカ軍の原爆
 投下を「しょうがなかった」と発言し辞任した。「北朝           
鮮核廃棄」が至上であるこの時に、全くモーロクしてい          
るとしか言いようのない発言だった。                     
寸時おかずの国民、又「野党」の抗議が辞任を促したと         
言えるが、しかし、顧みれば戦後教育の永らくの教え方        
(GHQの遺産)は戦争終決の為には「しょうがなかっ       

た」であった
。その意味では日本人は既にアメリカ(G          
HQ)の呪縛から脱していたのだと認識できた。だから          

あの広島の『あやまちはくり返しませぬから』という碑           
文の原爆碑を撤去するか、内容を変えなければならない。                           
「過ち」は誰にもあるが、その原爆投下という「大き 
な過ち」を犯したのは「アメリカ」である。
 

 久間「元」防衛大臣もどうせ言うなら『日本の不幸は          <天皇制存続の降伏条件>を提示した米の当時の大統領   

ルーズベルトが急死した事
である。後を継いだトルーマ         
ン大統領はその「提示を撤回」、よって日本も<降伏を          
撤回>し一億総玉砕を決意、結果として原爆投下(実験         
)となった』と、国民にその実際を話せばよかった。                         
     『同盟国とは?
 アメリカの下院で「慰安婦問題」が大差で決議された 
ようである。第2次世界大戦でのアメリカによる戦時法         
違反(民間人を殺戮)原爆投下のみならず、東京、大      
阪への大空襲の無差別殺戮を昭和27年独立後も日本は
     
一切糾弾、抗弁せず現在に至ってきた。それはアメリカ       
は日本の同盟国である事に重きを措いているから故。
 しかし、アメリカは日本をどう捉えているのかと訝りたく 
なるのが、アメリカ下院での「慰安婦問題」への余りの 
熱の入れ方である。
 議会が「法廷」でないにしても、片一方だけ(慰安婦)の
人間の言い分を取り入れて、
日本側の言い分も聞かず、それで「決議」とは民主国家の名 
が泣きますよ
。最近、日本の有志が米ワシントンポスト 
紙にこの件の「意見広告」を掲載した。
この人達の「意見」を一応聞いてみる位の度量がありませんか。
アメリカ議会はこの件で何か調査したのでしょうか?     

 日本国民として、アメリカの国民に訴えたい。『無差別殺戮を、
日本はアメリカから
一度も謝罪された事がない』。                       
 最近亡くなられた宮沢喜一首相当時の河野洋平官房長 
官の「慰安婦発言」から端を発し、末代の日本の汚点に 
なりかねないこの件。河野氏は慰安婦のこの件で何等調 
査もせず「発言」し、その後当時の石原副官房長官が「 
調査の結果政府関与の証拠なし」と公言した。
「同時期」の
内閣の発言である、という事は韓国側の「言い分」 
全て呑んでやったのが河野氏であり、その事実の実際が 
石原氏の発言だったと解釈すべきなのである。日本人の 
曖昧さ、と言われる所以だが理解されたし、と願うものである。                     ★            
       〇〇〇〇〇〇             

    『蓮(はす)の花が咲く』          

 死ねば、その人生の一冊の本が自ずと出来上がる。  
その刻、「決定された一生」となる。         
 変容、変節を経て、「歴史の証人」となる。     
それは、この時代に生きたわたしにしか、出来ないこと 
。生き継ぐべきは、それしかないではないか。     

 死ぬ時は何も要らぬ。               
「六文銭」(現在の貨幣で100円位)あればいいと言 
う。三途の川の渡り賃。               
なんと身軽なことだろう。   しかし、       
 その河がドブ河でない事を願う。          
 澄んだ自分を映してくれる河である事を、希う。   
                          
 そこに、蓮の花が咲く。              

      〇〇〇〇〇〇              

 
『求めよ!さすれば得られん。知力』                          
 誰でも「玄関」という表から見てもその内はわからない。
実際は何も知らないのに知らぬ間に聞かされ、教えられた事は
固定観念となる。

例えば『満州』という言葉から受けるのは「日本が侵略した国」
ではないだろうか?本の『扉』を開けて中に入ってみる。 
観念がだんだん退いてゆく。

第一に「満州」がドイツとフランスを合わせた面積だっ 
た事に先ず驚く。緯度も同位置にある。                                      ◆                    
 台湾生まれの黄文雄(こうぶんゆう)氏著の『満州の遺産』
                   ★            
 『日本のODA、中国の民主化運動者を救出に寄与』 
 平成19年6月18日付産経新聞に、中国の民主化運動を弾圧した
「天安門事件(1989年)」直後、反体制天文物理学者、
方励之博士夫婦が
米大使館に保護され 
中国は米大使館を武装兵で固め夫妻の引渡しを要求、米 
中の政治対立に発展した。当時この中国の弾圧に対し世 
界的に「経済制裁」が課せられていた。この時夫妻の中 
国脱出に寄与したのが円借款を武器にした日本の駐中橋 
本大使の対中交渉の結果だった。世銀融資も凍結解除さ 
れた。1年後の6月夫妻は米空軍機で出国し「病気治療 
の為」と発表された。                
 事情を知らない方氏は米国移住後「日本の対中制裁解 
除」を批判する発言をしている。これは当時駐中国米大 
使だったジェームズ・リリー氏の回想として掲載されて 
いる。                       
              ★
  『言葉の石つぶて「侵略国日本」
 学生時代は勉強嫌いで「社会」も勿論嫌いだった。以 
前にも記したが、私が「歴史」それも近代を識ろうとい 
う気になったのは育ててきた甥子2人がアトランタ五輪 
の折(平成8年)アメリカの星条旗は識っているのに「 
日の丸」を日本の旗と知らなかったからである。
「ほんまに、ほんまに、知らんの?」重ねて聞き返した記憶が 
ある。冗談ではない、自分の国の旗を知らない?    
 いつからだろう?祝祭日の日、私達子供の頃によく見 
掛けた各家の玄関に掲げられていた「日の丸」を見かけ 
なくなったのは。                  
 そういえば平成11年「国旗国歌法案」が国会で採択 
される迄、知らぬ間に学校という教育現場から「日の丸 
」が取り除かれていた訳だ。             
 結局、「敗戦した日本」を弱い者いじめする如くに、 
言葉の石つぶて「侵略国日本」と投げつけられ、それに 
加担したのが日本の左翼、教育界の人間(日教組)だっ 
た、というのが「永らの日本」だった。
                  
6/25(月)「教科書修正付与して左遷」 に異議ありは<クリック>
ずっと下りて、5/13「赤ちゃんの運命」の下です。
5/21(月) 『死生観』
 下記5/12付『京都と私』他の時の写真【私のフォトスケッチ】、
<核心の 炎あらわに しだれきに>
裸木の枝垂れ桜と創作花をパチリ掲載しています。是非ご覧下さい。
 昨日テレビで出演している人の何気ない言葉「自殺をこれまで一度も考えた事がない」に、やはり人の人生はそれぞれ、私など10年以上前から「死」を見据えて生きてきたのでその「差」に暫く落ち込んだ。
それを人は「運命」と片付けてしまう問題だけれど、少し考えてみたい。
 私本詩歌集「夢幻」に掲載の、『自死に』
【桂枝雀さんのこと・・・自死を決行しして入院中だった落語家が、死んだそうな。「それはおめでとう!」と喜んでやらねば・・。決意して、決行した、その勇気を踏みにじってはいけません。無責任な群集よ、若し「生還」しても、その人間の、人生を背負える筈が、そんな事−−出来る筈もなかったのに−−−。】(平成11年4月 記)
          ★
やはり私本詩歌集「夢幻」より、『景色』
【車窓は流れる 美しい景色(もの)も
そうでないものも /列車が 走っているのやら 景色が 走っているのやら 結局それは 定かでない/ ただ 流れているのだけは 間違い無い/ 「人」として生まれ 叶うるなら 「美しい景色」の「刻(とき)」に「停止」することが−−最上と−− 】(平成10年9月 記)
私の死生観です。今も変わりませんが、既に時を逸したと思っています。
          ★
17(日) 「赤ちゃんの『運命』」
  ”川柳に 「赤ちゃんポスト」 取り上げられ”

 産経新聞「川柳コーナー」の来週の募集テーマが『赤ちゃんポスト』を見て
なんとも言えない気持ちになった。「軽く」考えればコインロッカーに捨てるより
マシ、という事になるだろう。しかし、コインロッカーに捨てられて「殺され」ようが、
「赤ちゃんポスト」に捨てられて「生き永らえ」ようが、
【その子】にとっては親に捨てられた事に、変わりはない。
その運命を、先ず両親がいないという境遇を生きていかなければならないのだ。
運よく良い「両親に」恵まれれば「幸せ」かも知れない。これの趣旨は結局それに
尽きるだろうとは思う。しかし、人の「寿命」がどうしようもないように、人間の希い
通りにはならないのが世の中。
 人生を生きていくという重みを考えた場合に、「水子」の運命に流してやったほうが
自然なのではと思う。犬や猫のように「食べて」さえいれば良い、といかないのが人間であれば。
 各自一度、それでも生まれたいか?と自分自身に問うてみることだ。
この事にははっきり反対というのではない、とだけは言っておきたいけれど。
「運良く」の可能性は、すてられない。

 子供をつくるという事の重み、その行為の神聖さをこそもっと教育すべき。
「援助交際」という言葉は誰が(マスコミか?)つくったか知らないが、ゴマカシと
キレイごとの誘発言葉である。何故はっきり「売春行為」で罰せられる行為だと
断罪しないのか。コンドームというゴムを着ければ「問題ない」という問題でもない。
 心と体は分離してはならない。現に実際の事としてそんな事出来ないでしょ?。
心と体を分離させてその「行為」を為す事を「屈辱」と感じるのが真ともな神経。
本当に「愛」する人とだけ交わること、心と体はひとつ、それが本当に「二人」は
ひとつになるということです。その愛に出会うまでは、自身を「汚しては」ならない。
誇りをもつこと。それを忘れないで。
 必然的にその「行為」には「結果」が伴うことがある可能性を考えれば、責任を持てる
時迄その「行為」は為さない。若者達がこの事を真摯に考えれば、万分の1でも
「赤ちゃんポスト」の被害が抑えられるでしょう。2007年5月13日 18:57:
6/25(月「教科書修正付与して左遷」 に異議あり
 下記の文章は平成19年6月25日に沖縄県知事と県議会にメール送信したものです。
又それ以前の6/22にも安部内閣のメールマガジンHPから文科省宛にも
内容は違いますがこの件の異議申し立てのメールを送信しています。
(一部以前掲載分と重複しています)
 
『沖縄戦、集団自決』教科書記述に関して「修正」意見を付与された
検定企画官が
7月1日付を以て外郭団体に移動される、という新聞
報道がありました。余りにお気の毒、又余りに議会の方々の軽率な抗議活動に
異議を唱えたく県外の者ですがメール送信させて頂きました。
先ず今回の県議会の「抗議」行動はどんな見識の下に為されたのか?
又抗議している住民はその直接の
利害関係者なのか、と言うことです
 元々、この「軍命令」の下地となったのはGHQ(アメリカ占領軍)統治下、
昭和23年創立の沖縄タイムズ社から昭和25年
出版された「鉄の暴風」と言う戦記本から。(後の岩波書店発行の
大江健三郎氏の「沖縄ノート」はその表現にこの本の踏襲
をみるという)今回のこの「集団自決」は、曽野綾子氏が現地取材の基、
纏められたその著書「渡嘉敷集団自決の真実」(「ある神話の背景」という
題名でも出版あり)に詳しい。    
   下記は、 曽野綾子氏著渡嘉敷島、集団自決の真実」より 
【『鉄の暴風』は、まだ戦傷癒えぬGHQ統治下の昭和23年創立の
沖縄タイムズ社から昭和25年に企画、出版されたものだった。
当時政府に勤めていた太田良博氏は沖縄タイムズ社理事豊平良顕氏から
その手伝いを乞われた。
 取材に行くといっても当時使えたのはトラックを改造した物だけで、
バスさえもなかった時代である。
「そんな時に渡嘉敷島へ、どうしていらっしゃいました」私は驚いて尋ねた。
「漁船も碌にありませんでしたでしょう」
「いや、とても考えられませんでしたね、定期便もないし」
「どうしていらっしゃました?」
「いや、向うから来て貰ったんですよ」
「何に乗って来ておもらいになったんですか
「何に乗ってきましたかねぇ」
  困難な時代であった。直接生きる為に必要なもの以外の事に、既にこうして
働き始めていた人があるという事は、私には
信じられないくらいだった。太田氏が辛うじて捕えた証言者は二人だった。
当時の座間味村助役であり、現在沖縄テレビ
社長である山城安次郎氏と、南方からの復員兵だった宮平栄治氏であった。
勿論二人共、渡嘉敷の話は人から詳しく
聞いていたが,直接の経験者ではなかった(尤も宮平氏はその様な取材を
受けた記憶はないという)、太田氏は僅か
3人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を3ヶ月で調べ、3ヶ月で執筆したのである。
 
 太田氏によれば、この『鉄の暴風』戦記は当時の空気を反映していると
いう。当時の社会事情は、
アメリカ側をヒューマニスティックに扱い、日本側の旧悪を暴くという空気が
濃厚であった。
  『時代が違うと、見方が違う』と、太田氏は言う。
 
 いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは
この様に新聞社に依って、やっと捕えた直接体験者ではない二人から、
むしろ伝聞証拠という形で、固定されたのであった
。】
          
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この本の最後「解説」(石川水穂産経新聞論説委員)座間味島の集団自決から
32年後の命日(三十三回忌にあたる
昭和52年3月26日、生き残った元女子青団員は娘に「梅沢隊長の
自決命令はなかった」と告白
した。
 梅沢少佐の元に玉砕の為の弾薬を貰いに行ったが帰された事や、遺族が
援護法に基づく年金を受け取れるように、事実と違う証言をした事も打ち明けた。                             
又、昭和62年3月、集団自決した助役の弟が梅沢氏に対し「集団自決は
兄の命令で行なわれた、私は遺族が援護法の為、止むを得ず隊長命令
厚生省に)申請した」と証言
した。これらの事実は神戸新聞社が伝えている。                                                                    
     集団自決から60年後の平成17年8月、赤松氏の遺族と梅沢氏は
大江健三郎氏と岩波書店を相手取り名誉毀損罪
大阪地裁に訴訟を起こした。                                
   「旧軍」の命令で渡嘉敷島と座間味島の住民自決したとする従来の
<定説>は、曽野綾子氏の検証取材や、その後の学問的調査により、
ほぼ否定されたといえる
。 しかし、現在の日本の中、高校で使われている
歴史教科書には依然として旧態の侭掲載されている。
いずれも文部科学省の
検定をパスした記述だ。軍命令の有無は国の名誉に関わる問題、
少なくとも教科書の誤りは正すべきである。】 以上。 
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 座間味島での梅沢隊長の「軍命令はなかった」と、後の島民の良心の呵責に
耐えかねての証言であるこの他の機関「自由主義史観研究会」の現地調査等でも
同じくそれが明らか。今や「軍の強制、命令」説は修正されて然るべき時に来ている。
 その意味では今回の審議官職員が平成20年度の高校の社会教科書に
この部分に関して『沖縄戦を誤解するおそれがある』という「修正」意見を
付与したのは妥当な判断
だったと思います。
でも今回この「修正」見直しを付与した事によってこの職員が左遷されるという
事態に発展
しました。この職員に落ち度があったでしょうか?
あの座間味島の住民の証言は「嘘」だったのですか?
良心からのこの証言が後に発せられたという状況下、その「修正」付与は
間違っていたか、をこそ問題にし、その左遷なるものも伏せて見直されるべきと
進言致します

 
「遺族年金援護法」という特別法は「軍の強制」の証明が必要で、当時の
座間味島の梅沢隊長、渡嘉敷島の赤松隊長は遺族の為「嘘」の証明した。
この事は沖縄が日本に返還された折赤松氏本人が沖縄へ赴きメディアの
質問にその主旨のことを述べている(曽野綾子氏の同本参照)。
 この各隊長にも家族がおられた。それでも沖縄の方々の為、敢えて汚名を着た。
その心を汲んで上げて頂きたいと思うのです。
援護法という特別法は、一度決定された事は覆る事はないとか。そうであるならば
当時の生存者が存命の間にその「事実」を話して欲しいと願います。
それはお二人の、又日本の名誉回復にも繋がるものといえるからです
 
『  その「時」を逸すれば、事実が闇の中で窒息死する。
  それは希望にも繋がりえたかもしれないのに・・・・、
   闇の中に、光は死ぬだろう。            』
 
 私は大阪の戦後生まれですが、戦後毎日のように親からアメリカの
B29による大阪大空襲の恐怖を聞かされた。
それは(ホームページにも書いている通り)亡母との記憶はそれしかないと
言いたくなる程の、強烈な「恐怖感」だった。
約2年前母を亡くし、今は忘れたくない記憶として心に保存しています。
 爆撃という空からの恐怖と、日本で唯一地上戦が行われたという
沖縄の人達の恐怖。その恐怖はどちらも同じと思います。
ただ沖縄の場合は『生け捕り』される恐怖があった。それ故「集団自決」の
悲劇が発生した。         
 戦時下の日本は、大阪のみならず東京大空襲、広島、長崎への原爆投下により
日本人の総勢が亡くなりました。
 
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 公立学校等は国民の税金で運営され将来の国を担う人材を育てる」という事を
教育目標にしなければならないのに、公立の学校に限って「何処の国の未来を
担う為?」と言いたくなるような近隣国と同じ反日指向がある。
 これもいま大問題の社保庁の「5000万件年金未統合」という10年間放置の
職務怠慢と比肩する職務逸脱行為だと思います。
労働者の権利を主張する
組合は必要なものとは思いますが、国民の損失を招くだけの「公務員の労組」は、
公けの精神を離れた『肥大権利』を行使している様にしか映らない。
この職務怠慢と職務逸脱行為は、この労組があってのものとおもえてなりません。
                              ★
 日本の戦後教育は「被虐史観」と言われる位、全部日本(軍部)が悪いの一点張りの
言ってみれば著しい「偏向教育」でした。
それはGHQによる「東京裁判」でのインドのパール判事(博士)「戦犯全員無罪」主張や、
世界法典の大家が異議を唱えてくれた事後法の糾弾を、昭和26年独立後速やかに
国民に知らせず、又教えなかった事から始まった
と思います。私等も教えて貰わなかった。
 
 日本は敗戦したがドイツのような「無条件降伏」ではなく、基本的人権・
言論の自由の尊重、戦争犯罪人の裁判、国土の制限等の受諾書
「ポツダム宣言」に署名して降伏したのである
。そこには下記に触れているが
特攻隊員の存在が『大』だったことでしょう。しかし、メディアはいつも「無条件降伏」と
放送している。(統治実態が無条件降伏と同じであったにしても「検閲等」)
故意か、無知か、こういう些細に思えるひとつひとつの積み重ねが、やがて定着し、
歴史の中の真実となる。 
 
 日本も戦後62年、還暦も過ぎやっと「正史観」を辿り、公表出来得る国になりつつある。
現にその類いの書籍が書店に並びという事は買う人も多いという事で、学校では、
教えて貰えない「歴史観」を国民は吸収しつつある。
こういう事が引いては学校不信に繋がっている。

  現在アメリカ下院でマイクホンダ議員により決議されそうな『慰安婦の軍関与
』問題の発端は、当時の河野洋平官房長官(現衆議院議長)が、韓国の要人に
迎合して発言したもの。(石原官房副長官は調査の結果、政府関与は認められ
なかったと語った)最近アメリカワシントンポスト紙に気骨ある著名人、
一部政治家等が『慰安婦の軍関与否定』の意見広告を掲載
されました。
 敗戦気風の中だけで生きて来た日本人も、小泉前総理の「靖国参拝」という
一志貫徹から、安部総理の道徳教育導入を掲げた「美しい国」再生政策と、
真の独立国としてのプライドを取り戻しつつあります。
 その意味で゛も、今回の『修正意見付与』の検定企画官は、旧弊に一石投じる、
勇気ある判断
だったと思います。こういう気鋭ある人達の『芽』を摘み取らない為にも、
日本の未来の為、この職員の方の処遇「左遷」撤回の為の行動をよろしく

お願い致します。                                 
                                  ★
  産経新聞の平成19年6月18日付の【死を考える・特攻という「生き方」に、
山岡壮八のルポの『最後の従軍』によれば、山岡は昭和20年戦況悪化の中、
海軍の報道班員として鹿児島県の鹿屋基地に赴任した。そこは人間爆弾『桜花』の
部隊が出撃を控えていた。彼等は学生や大卒の『学鷲』と呼ばれる志願兵だった。
すでに動揺期を過ぎた彼等は無性に明るく、
その姿は『離れがたい美しさを秘めていた』という。(略)その一人、西田高光中尉は
こう答えたという。『学鷲は一応インテリです。簡単に勝てるとはおもっていません。
しかし負けたとしてもその後はどうなるのです・・・おわかりでしょう。
われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。
そう民族の誇りに・・・
 彼等の死は60年後の平和な日本に突きつけられた刃でもある。(後略)】以上。
                                  ★ 
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・           
            『マサダの自決』
・(略)・・・・・・・日本人とユダヤ人の大きな違いは、マサダの自決をどう評価するかに
おいて見る事が出来る。イスラエルでは 、これを非人間性や好戦性犠牲者として見る
どころか、その自決した960人の人々をユダヤ人の魂の強さと、高貴さとして高く評価した。
「マサダ」は現在、イスラエル国家の精神の発生の地として一つの聖地になっている。
新兵の誓約も、此処で行なわれ、国賓も此処に案内される。                                                    
しかし、沖縄では、集団自決の悲劇は、軍や国家の誤っ>た教育によって強制されたもので、
死者たちがその死によって名誉を贖ったとは全く考えて貰えなかった。                            
   そう考える方が死者たちが喜んだのか、どうか、私には結論づける根拠はない。】                           (曽野綾子氏著「渡嘉敷島、集団自決の真実」中『マサダの自決』より) 
 
以上、長々と書き連ねましたが、よろしく善処されますよう、沖縄の青い海と空を信じて。
  

2007/5/12(土)墓「京都」と「私」
 現在携帯モードでも見る事が出来る様にしていますが、容量(bk)を減らす為
画像を削除して編集し終え、サーバーに流す状態に迄したのに、リンクが全部
外れた。それに始まってファイルが保存出来なくなり、ホームページソフトのメーカーに
電話して解決した。「勝手」に仕様が変わるという事で、相も変わらぬ「コンピュータ
ーウイルス」のストーカーにはお手上げですわ。
 他にもパスワードが使用できなくなる、という状態にもなってブロバイタに電話して
「初期化」して貰いました。
 気分転換がてら、昨日5/11午後からいつもの京都へ墓参してきました。
   
  ”五月晴れに 誘われて 墓参り”  新緑を【パチリ】(私のフォトスケッチへ)
  今回初めて「五条坂」まで、四条駅からバスを使い墓参した。最近のパソコン疲れから、
五条駅を降りてからの道程は辛いな、と思っていたら特急停車駅七条で降りるのをうっかりして
乗り過ごしてしまい、四条駅で降り駅員さんにバスの乗り場を聞いて乗り3つ目の停留所が
「五条坂」だった。そこからは上がりの坂道だが、半分程の距離の徒歩が省けたのでいつもより
ずっと楽だった。いつもは観光バスや人の群れでごったがえしている五条坂も金曜日の平日
(電車が空いてると思って敢えて)なので閑散としていたが、
清水参拝道は神奈川県中学校の学生(修学旅行か)等の姿も見えそれなりの賑わいがあった。
 墓のある寺の境内に入ると3月に行った頃と打って変わっての「溢れ若葉」、数枚【パチリ】
したので後日【私のフォトスケッチ】
をご覧下さい。
 墓所の画内に足を踏み入れても供花のある墓はなく、あっても連休からの枯れたのが
あるのが目に付くだけ。(今年のゴールデンウイークは先日書いた如くでしたが、
下の甥子がずっとクラブがあり、休みだった5/6は「雨」で結局墓参には行かず仕舞)
そんな墓所の中、墓を洗って花を活けて、真後から墓に被さる如く生命漲らせる楓の
若葉
共々私も命を「新しく」する事が出来ました

  ”墓石あらい 生命あらたか 新緑や”
  
  ”「六人の家族」ありたる 墓の中”

  ”ただひとり 墓石あらえば カラスなく”
 
 母が産んだ子供6人の内、現在生存は私と嫁いでいる一番下の妹のみ。
結局「日高」で残ったのは私だけとなった。
 亡き母が生前に京都のこの地に墓を造ったのは、私が京都を好きだっただけの理由。
結果として今もこうして私が最後の人間として墓参をしている。
 昭和52年造墓時は弟妹も健在で父のみ(昭和40年死亡)亡くなっていた。だから、
母としては(順番からすれば先に自分が亡くなると思っていただろうから)全ての子供に
墓参を願った筈。その場所を決めるただそのキッカケだった「京都」と「私」だったのに。
 人間が人生途上、ある結果地点に到着した時、それはその結果は予め「約束された」
ことに思える。端緒のその時は誰にも分からない。
 例えば人間が何気なく言った言葉が、その結果を示唆していた、という事がある様に・・・・
 
  ”お盆に まいる墓参は 「三人」で”
と「告げて」墓を後にしました。

 帰路の五条坂は少し「押され気味」に下りて行く。
下りきった所の信号を渡ると又「懐かしい」あの『玄関戸』に出合う。
当時の私の家のそれは、大きなガラス部分には白い貼り物があり中を見えなくしていたが、
(その家には【歴史的保存建物】という表示がある)約50年前・・・歴史的・・・
瞬間私は「歴史的、少女」になる<笑>。京都があって本当によかった、と想う。
都会では駆逐されてしまう「古さ」を、「時の宝物」として大切に保持していて
くれるから。
 しかし、平日に行くのも考えものである。五条駅から普通電車に乗り四条駅で乗換え、
特急に乗ったが枚方市駅に停まらないとのアナウンス。仕方なく丹波橋駅で又急行に
乗り換えたが、混んでいて立ち通し枚方市駅でやっと座れた。下車した香里園駅の改札を
出ると空を染めた夕焼けが出迎えてくれた。デジカメのタイムを見るとキッカリ7時だった。
それにしても、疲れたー、それだけです。
 階段を降り、駅前のスーパーに寄り夕御飯用に普段は買うこともない「お弁当」を買って
帰りました。
             2007年5月12日 18:32:


5/7(月)金がない「黄金週間 
連休、俗に言うゴールデンウイークも終わりました。無職の私は毎日連休の様な
もので(と言っても決して黄金の日々ではありません、金がない<笑>)いつもの
生活でした。おまけに今年は下の甥子のクラブの休みが昨日だけだったのに
生憎の雨で、墓参にも行かず仕舞いでした。いつか平日にでも墓洗いに行ってきます。
 食材を買いに行く途上の其処此処では「♪還りゃんせ、通りゃんせ」の若葉みち、
その瑞々しさ
をくぐり抜けるだけで若返る様な気になります。生命の新たな芽生えの中、
私達も何かを生み出したいですね。


2007
/5/2(火)                                                                     
   『「100号」記念号』                                                            
 (2000年)平成12年7月に創刊したこのペーパーマガジンも
この号で100号となりました。
これまでを思い返す意味でも、当初掲載していた                                          
発行の主旨とも言える「にゃこリン憲章」(当初は「にゃこリンの
夢現シリーズ」)及び5号、21号、23号を再掲載します。                                   
             ★
       「にゃこリン:憲章」

にゃこリンの夢現シリーズ』は詩歌集夢現シリーズ(夢現・夢                                 
弦・夢幻)に掲載の、俳句短歌、詩、散文、エッセー、音楽詞<H                               
Pに歌を公開>、「にゃこリンスペース」です。日本の文化的遺産                               
俳句短歌)と西洋の文化的遺産(クラシック音楽)感動感とい                            
う物質的指向と相反するものの位置観から、その生態性に必然なバ     
ランス感覚、この自然界の、地球の生業に立ち還らずにはおれません。
そして、その「聲」を聴く事が出来た者は、それを伝えなけれ                               
はなりません。それが此の時代に生まれて来た者の「使命」だと思                            
っています。これが「夢現」シリーズの根本的骨格です                                                        
                ★
以上ですが、直ぐに「インパクトニュース」を加え現在では政治関                               
連の事が多くスペースを占めています。書かずにおれない!事が頻                            
発するからで、お蔭で歴史に学ぶべく(若い頃の様に)又本を                              
読む様になり市の図書館を利用させて頂いています。これからも                              
地球の未来」「日本の未来」
の為、微力乍ら力を尽くしたく思って                              
いますので宜しくお願い致します。                                                                 
 
4月29日は昭和の日です。此れ迄の祝日「みどりの日                                                   
」が今年から改められました。「昭和」は、戦前の人達にとっては                                                   
戦争と敗戦それに伴うはじめての被占領経験という時代、戦後世代                                                   
にとっては、その親達の国の復興に邁進するエネルギーを糧に、坂                                                   
道の向うに希望を繋いでいた時代と言えるでしょうか。                                                        
 今回は百号記念に以前掲載分を。                                                                 

            ★

   (5号『日本の道』                                                                
 雨が降った後など、未だぬかるみが残っている道が多かった少女                                                   
の頃。アスファルトぉの道はキレイかったなぁ。足跡も残らず、石                                                   
ころに躓くこともなく、水溜まりもなく、汚れる事もない。雨上り                                                   
等は洗い流された様で、気持ちがよかった。自転車で走っても、ペ                                                   
ダルは軽く滑って行くようだった。 何も遺さない道。                                                        
 あれから、少しづつ道幅も拡く、拡くなって行き、建物の高さも                                                   
だんだん伸びて行った。それと引き換えに拡がる程に、減少してい                                                   
った「もの」がある。高くなる程、だんだん見下ろしていく眼。                                                    
最初に感じたアスファルトの綺麗さ!その涯てが「現代」だった、                                                   
だなんて。昭和21年生まれの私は或る意味で、日本の「戦後」そ                                                   
のものだ。一緒に大きくなってきた………。…                                                            

              ★                                               
(21号) 『恥を知る』

テレビから映画か何かの声が聞こえます。『いいか、あの「黒い                                                   
」のを「白」と言え!』その代わり金をやるからな』と男の声。次                                                   
々「白」「白」と聞こえてきます。その度にチュー、チューと何処 
からか、にゃこりんの好きなネズ公の声。何人かの後「黒」と言う                                                   
声が、ハッキリ聞こえました。『何!もう一回言ってみろ!』、そ                                                   
れでもやぱり「黒!」。チュー」と言う代わりに思わずねずみも飛                                                   
び出して来て、テレビの画面を喰い入るように見ています。                                                      
にゃこりんに食べられるかも知れないのに……。                                                           
自分の心の声を聴く事を知っているのを、「恥を知る」と言うん 
 やなぁ。「恥」と言う字を見たら、よう解るのに、にゃん。 

           ★

(23号)『自己責任』
”梅が咲く チルチル(散る) ミチル 春が来る”     
メディアは「毒」薬だ。それは自分が「毒」だからだ。‘     
メディアは「良」薬だ。それは自分が「良」だからだ。     
何故なら、チャンネルに合わせるのは自分自身だからだ     
。殺人シーン、馬鹿さを人気者にしている番組、そうい     
う類を、今日観て、明日も観て、そうこうしている内に     
、その害毒が自分自身に浸透して、身体がそんなもんだ     
と憶え込む。自分を創るのは自分自身。                                     
テレビのせいだ、社会のせいだ、果てはこの国のせいだ                              
、と言う前に、選択しているのは自分自身である事を知                              
るべきです。「自分自身のために」。                                      

           ★

     「基礎学力は、土台」                                        
 日本の技術力は素晴らしい。【送電の直流を交流に変換                              
出来る<サイリスタ>という半導体デバイスを開発した                              
。これを使えば交流で200qの送電距離を10000                              
qまで延ばせる。電線を40%太くすると北極から南極                              
の距離20000q送れ、石油を使う必要がなくなる。                              
】そんな技術力の基礎を学ばせる教育の現状は、【国か                              
らの「理科」の交付金が各自治体のどこかで「ネコババ                              
」されて学校に届かず、教師の自費で試験官やビーカー                              
が買われている。又その授業時間は「図工」より少ない                              
。日本の未来は危ない、議員は何をしているのか。】                              
最近43年振りに全国学力テストが実施されましたが、
学校名と順位も公表すべき、それでなければ学力の程度が                             
把握出来ないでしょう。ゆとり教育の弊害も如実に露呈                             
される。競争原理が働かない処に向上はありえない。
基礎学力は、土台
である。
 現に学習塾があり競争している。 
塾に行っている者と、行かない者との学力差は顕著で 
あると言う。私は戦後生まれだが、私の子供の頃は学習 
塾等なかった。勿論学力テストはあったが教育供給の「 
格差」はなく、その意味では「公平」だったと言えるだ 
ろう。
                       
【子供達の学ぶ意欲に任せた「日教組の教育方針」ゆと 
り教育が近年の学力低下を招いた。明治5年学制発布の 
近代教育の体系システムを壊した為、個々の教員はかっ 
ては「役者」だけやっておればよかったが、今や脚本家 
や演出家の役割迄求められ、酷で無理なこと。今取り組 
むべきは「ゆとり教育」で壊された近代教育のシステム 
を再構築し、個々の教員を支えること。】1万円札の顔 
、福沢諭吉が学んだ「適塾」の教育方法に【親に孝行、 
朋友の信誼、礼儀を失わざる様…又、席順は学業の優劣 
により…】【子供は2、3才から6、7才の資質が純粋 
で、その脳は無垢である。この頃が性情を薫陶し品行を 
養成する最上の時期で、教育を誤れば頑固な愚か者とな 
る…
】以上、【】部分産経新聞「正論」他より引用、
『 イイトコ取り』しました。              

 外国人から日本人の言葉は曖昧で意志疎通がし難い、 
と言うことを新聞等で見聞きする。はっきり断言すれば 
人間関係もそれっきりで切れる、その「アイマイ」さは 
、中和的言葉でもある。又「暗黙の信頼」の伴う場合も 
ある(悪いようにはしないだろう、という)。しかし、 
それが機能していたのは日本人が道義心を持っていたか 
ら。そこまではしないだろう、という通念を裏切ったの 
が、拝金主義の象徴「耐震偽装」事件。        

科学が人間を支配する時代
になろうとしている。ヒト 
ゲノム、ナノゲノムと、自身では識覚知出来ない技術が 
現実に存在する。しかしその事を証拠立て出来ない限り 
「法律」外の事である。「稼ぐが勝ち」と言った人間が 
以前、法の盲点をつき大量の株式を取得した。法律に触 
れなければ何をしても良い、というのがアメリカ式合理 
精神だろうが、それもむべなるかな、戦後の日本はアメ 
リカ占領軍作成の憲法の下で生きてきたのだ。
     
            *             
 戦争に敗けた日本、白洲次郎氏の言を借りれば
「この国のこんな破産状態を一日も早く脱 
し、自分達が死ぬ迄に我々の愛する子孫達の負担がいく 
らかでも軽くなっている様、ここで本当に腰を入れてや 
ろうではないか、やるっきゃないだろ!」、

 『日本復興』の為、国民が一丸となって一つの坂道を駆け上がっていた。
映画「三丁目の夕陽」に象徴される昭和三十年代の十才位の
その頃私は大阪市内の野田阪神駅前に住んでいた。その家の 
前でよく遊んだ坂道、坂道の向うには「未来」があった 
。坂道を越えれば違う次の道へ進んで行ける、大人にな 
ると言うのは、自由な大きさの様にその当時の私は思っ 
ていた。それが坂道を越えると言う事だった。現在の若 
い人達に日本の「過去」の「昭和三十年代」が人気という。
 
 4月7日付新聞に【国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)は 
地球温暖化が進んでいる事を明確にし、水不足による被害が今後数 
億人に及ぶと予測
した第4次報告書を採択した。】と掲載されてい 
たが、これが日本のみならず世界の人類全世代の「未来」である。 
この共通の閉塞感と郷愁から私達は「昭和三十年代」がなつかしい。 

そして月光仮面がなつかしい。                
 例の「おふくろさん」騒動の作詞家が月光仮面の作家だと聞けば 
本当に「正義の味方」をしたくなる。白黒画面だったテレビの草創 
期、上から下迄真っ白い頭巾装束にオートバイで悪漢を追跡して行 
く。「白さ」が際立ち、その映像センスは秀逸だった。      
あの正義の味方を私達はどれだけ心強く思った事だろう。きっと、 
私も「正義」を信じて生きて来たと、想う。 
                                        
 あの「おふくろさん」の歌詞は川内康範氏のご母堂がモデルだと                  
言う。やはり「戦前の人」は素晴らしい。
            
             ★
  一丸となった日本人が復興を果たしたと思われる東京オリンピッ                         
クがあった昭和39年。
これ以降に日本は目指すべき新たな方向性           
 を明示すべきだった。金や物ではない、それは戦後に捨て去ったも                    
のというより、GHQから捨てさせられたもの、「美しい日本のか                         
 たち」。日本の恵まれた四季の中何事も受容し、モラルと利他心、                         
寛容の精神富む美しい日本人。それはトロイの遺跡発掘で有名な                    
シュリーマンが、清国の次に訪れた幕末の江戸の清潔さと、武士が賄 
賂を一切受け取らない事に感激し、日本人に「関心を持った」如くの。 
                            
 以下は経新聞3/23付、私の投稿掲載分より。
     『「道徳教科書」作成に賛同』
【3/7付市村真一・京都大学名誉教授の「正論」『教育改革は「 
道徳教科書」作成から』に心から賛同する。学校現場では、偏った 
法律知識を身につけ生徒が「体罰の出来ない」先生に暴力をふるう 
事があるという。親が給食費を支払わないという問題も起きている 
。1/7付「正論」では藤原正彦・お茶の水女子大学教授が若い人 
たちに向けて「法律は最小限で、人々が道徳や倫理により自らの行 
動を自己規制する国が高尚な国なのです」と書いておられた。子供 
の頃から道徳の基本(現在連載の「吉田松陰・ひとすじの蛍火」に 
もある、仁<情愛>義<廉恥>礼<謙譲>智<知恵>)を教える事 
で法律を超えた善悪の判断が身につけられるのではないか。3/8 
の朝刊には、日本の小学生は中国や韓国に比べ、家庭で注意を受け 
る事が際立って低く「先生・親の言うことを聞きなさい」とよく言 
われる子供が2割前後しかいなかったという調査結果が載っていた 
。漢字も算数も教えられて覚える。善悪も同じではないか。    
教科書できちんと教える事が必要だ。】             
 小椋佳氏の歌 『山河』「潮騒」等のこと

4/8(日)午後NHKTVの番組で小椋佳氏の特集があった。 
その中に安部首相の「美しい国」のテーマソングとも云える様な歌があった。『山河』という題名で、詞を一部引用すると、     
   作詞  小椋佳                     
♪人は皆 山河に生まれ 抱かれ 挑み             
 人は皆 山河を信じ  和み 愛する             
 そこに 生命を継ぎ  生命を刻み              
 そして 終には  山河に 還る               
   顧みて 恥じることない 足跡を 山に残したろうか    
   永遠の 水面の光 増す夢を 川に浮かべたろうか 
    
   愛する人の瞳(め)に 愛する人の瞳(め)に       
   俺の山河は 美しいかと 美しいかと           

 小椋佳氏の歌は団塊の世代の支持者が多いとか、私等もその世代ギリギリの処だが、立ち止まり見遣れば、「来し方」より「行く方 
」の路はずっと短く、この生命が引き継ぐべきは、美しき山河が  
美しき日本人が実在したことの証言。正直、実直、率直、誠実、慈 
悲心。それは自身の親であり(教育勅語世代)、その又親であり、 
ずっと遡った「親」である。          
             ★
      追記:『歌を作る意義』
 小椋佳さんの初期の歌に「潮騒」というのがある。その東大出の歌手という事とこの歌のイメージから、さぞかし「教育ママ」に育てられたのだろうと思っていた。が、もっと以前にやはりテレビで正反対の母上のイメージを語られていた。当番組中の歌「甘いカレー、甘いオムレツ」♪知性、教養、理屈を嫌い・・・♪を聴き重ねて納得した次第。この歌にもうひとつ印象的な歌詞♪溜息なんか おつきじゃないよ・・・♪という部分がある。私などどれほど「ためいき」をついて生きて来たか分からない、以前に「ためいきで出来た『溜め池』」という詩を書いたこともある位だ。だからこの歌詞を聴くたび苦笑いし、こういう母上に育てられたら「溜め息」もつかなかったのかなと、思ったりする。
どちらにしても、現在の東大出はいざ知らず、昔の東大出のイメージをずっと小椋氏に持ったままだったかも知れず、「甘いカレー、甘いオムレツ」を聴き、それは完全に覆った。例えば、100人中99人がそうであったとしても、1人は「そうではない」かも知れないという事を色んな場合に念頭に措いておかなくてはならない、という当たり前の考えに戻る事が出来たのは収穫でした。
 同じくその歌詞に♪25歳母を亡くしてた・・・♪の部分では、慰められた。一昨年私も母(84才)を亡くしたが その当時私は59才だった。25才で亡くした人もいたと想えば、よく長生きしてくれたと思う。『歌を作る意義』はこういう処にあるでしょうね。                     ★                    


 
『 変えよう憲法9条 』   

5月3日は憲法記念日です。(昭和22年施行)        

”六十年 日本国憲法 還暦や ”             
 
 ”敗戦の 煙の中から 生まれたり             
     アメリカの為の 占領憲法 ”            

 ”誤魔化すな アメリカ軍                 
     ありてこその 「平和憲法」 ”
           

<かくの如くして、この敗戦最露出の憲法は生る。「今に見ていろ 
」と言う気持ち抑え切れず。秘かに涙す
>これは占領下の憲法制定 
に携わった白洲次郎の言葉です。                
又著書「プリンシプルのない日本人」の中で同氏は『憲法調査会の 
報告書の第1章は、「この憲法は占領軍によって強制せられたもの 
である」と明示すべきであった。歴史上の事実が後年ごまかしと信 
じられる様な時がくれば、それは本当に一大事であると同時に重大 
な罪悪であると考える』と記しています。            
 <終戦後設置された米英ソに依る極東委員会は日本へのアメリカ 
占領政策が『占領者は占領地の現行法律を尊重し……』と言う案文 
があるバーグ条約等に違反していないか、チェックしようとしてい 
た。その為日本側は、2昼夜徹夜を強いられマッカーサー草案の「 
日本国憲法」の翻訳を為した(日本側の草案却下)。これはマイジ 
ャパンと豪語していたマッカーサーやホイットニー等「自分達の為 
の憲法」
だった。><終戦後六、七年の間小学校の子供に迄軍備を 
持つ事は罪悪だと教え込んだ今日、無防備でいる事は自殺行為だな 
んて言ったって誰も納得しない。人間の癖も六、七年かかってつい 
た癖は一年や二年でぬけるものではない。殊更否応言わさず強制的 
につけた癖に於いてをやである。>この後、日本は経済復興を遂げ 
白洲次郎は憲法九条に肯定的となる。それは米との安保条約があっ 
たからであり、半永久的に見えた米ソの冷戦下所以だろう。現在ソ 
連は崩壊しロシアとなり、中国の著しい軍備増強、北朝鮮の核保持 
に対するアメリカの弱腰には、白洲次郎が生きていれば、無防備状 
態とならない為の「憲法改正」の必要性を唱えた事でしょう。   
<スイス人に聞いて見るがいい。永世中立を守る為、内外ともに中 
立性の実際が厳然たる事実であるスイスに於いて、どれだけの予算 
を割いて国家の防備
に当たっているかを>同、白洲次郎。     
(以上<>部分は北康利氏著「占領を背負った男」より)     

 憲法改正の為の「国民投票法案」は衆議院で可決され      
たが、有権者年齢を18才にすると先に民主党の案を与      
党に呑ませた上に、五年前から議論をして来たこの法案      
民主党は採決の段階になって「公務員の政治活動への      
罰則規定を外せ」等の条件を出した。やり方がキタナイ      
ではないか。与党の強行採決も致し方なしである。        
      2007/5/2/17:14  

07/4/23(月)  am2:00
   人間には人間の
 携帯電話の画面で見やすいように編集中です。一部【今日という日】【マイポエム
全てではありませんが見ることが出来ますので。
 もう昨日になる日曜日は雨でしたが、最近の陽気はもうすっかり初夏。
”花の色は 移りにけりないたずらに・・・・(小野小町)”この和歌の如く
桜の花は一掃され初々しい緑葉が季節の模様替えに精をだしています。
花の香も一瞬なら、この若葉色もほんの一時(ひととき)のもの。<美しい!>心が歓声上げています。
やはり、自然界のものには適わないとつくづく思います。一年に一度、毎年あのように「美しさ」を
産み出せるのですから。花には花の、人間には人間の、与えられる事が出来る「美しさ」がある筈です。
もう少し書こうと思っていましたが、現在午前2時眠たいので又、次回にします。


07/4/18(水)am 1:50 
 「再選前の長崎市長銃撃さる」

 アメリカのバージニア工科大学で銃乱射事件があったニュースに驚いていたら、
もう前夜になる8時頃、此方日本の長崎市で市長が暴力団の組長代行に銃撃され、心肺停止で手術中というニュース。手術の成功をお祈り致します。
その後の「報道ステーション」で、この犯人の男から2、3日前公共工事絡みで市長に恨みを持った爆破予告書がテレ朝に届いていたとか。それはそれとして、その後に何故か以前右翼に自宅を放火された加藤紘一議員のコメントが流れ「暴力で発言を封じる事があってはならない」と言っていた。
 まず未だ市長に再選されたわけではない、選挙遊説最中に何故この事件が
行われたのか、という事に一番疑問を感じる。

07/4/16(月)am3:53            
      『パソコン修復』
昨年の11月からパソコン故障の為インターネットに流せ 
ませんでしたが、つい最近、「駄目元」で電源を入れてみたらナント「続行」出来たのです。約5ケ月間の間に「ウイル 
ス君」も自滅したのでしょうか?             
兎に角10/20以降から分(ペーパーマガジンには掲載し 
ていますが)すべてを流します。             
             *              
        「憲法のこと」             
 国民に憲法改正の是否を問う、国民投票法案が衆参議会で 
やっと決議されそうです。思えば昭和22年5月3日施行の 
現「憲法」は、未だ占領軍GHQに日本が占領されていた当 
時、日本案は全て破棄されGHQマッカーサー元帥の法案を 
日本語訳にして作成された物である。それはマッカーサーが 
「マイジャパン」と豪語していたまさに日本占領法案だった 
。【<かくの如くして、この敗戦最露出の憲法は生まる。「 
いまに見ていろ」と言う気持ち押さえ切れず。秘かに涙す> 
〔外務省文書「白洲手記・3/7付」最終部分より〕<終戦 
後6、7年間小学校の子供に迄軍備を持つ事まで罪悪だと教 
え込んだ今日、無防備でいる事は自殺行為だと言ったって誰 
も納得しない。人間の癖でも6、7年かかってついた癖はそ 
う1年や2年で抜けるものではない。殊更否応言わさず強制 
的につけた癖に於てを
やである。>白洲次郎「東北巡り」よ 
り】【戦後日本の不幸は、この白洲の悔しさを共感出来ない 
ことにあった】(以上。青柳恵介氏著「風の男」より)   

 この白洲次郎でさえ、後年米ソ冷戦下の日米安保堅固な頃 
にはあの憲法の肯定論者になって行きます。「堅固」な防衛 
力とはアメリカ、ソ連(現ロシア)の拮抗した軍事力です。 
 しかし、現在の状勢(核保持3カ国に囲まれ、特に無頼 
国家北朝鮮の核保持)を見れば速やかな憲法改正論をホエル 
事でしょう。
                      
────────────────────────────
2007/3/21                   
                      
さくら子供のころ平成十七年 四月 記                                                    
 春は、ソワソワ、ゴソゴソ 落ち着かない。                        
だって、全ての生きものが、冬の眠りから覚めて、                   
準備体操を始めるから。                                                               
太陽の動きが(と言っても太陽は、いつも動いて                    
 いるんだけど)お互いを近付かせるように、                       
 みんなを 「ピクニック」に 誘う。                                                          
 毎年、初恋のようなときめき!                               
その予感の中、触れ合った、手と手、花弁と花弁。                   
そんな気分も束の間。                                                   春が満溢になると、空間が狭くなる。最初の羞いも                  
 どこへ、桜の花弁も、お互い押し合い、へし合い、                   
絡み合って、温かそう、というより、熱そう?                                                     
「今年も、桜が本当に綺麗ねぇ!」                            
 「「ホント、この日の為に一年間土の中で、おめかしの                             準備 してたんやわ」  「私、又 白髪が増えて」「いや、私も皺の動きが                    目立ってきた」「そやのに、桜はいつも同じ真っ新 な花弁やなぁ」「木自体は、古く、汚れて見えるの                 になぁ」「あ、花弁が散った、雪みたい!」                         「ボトンと落ちんと、舞うようや。散る 最後の時も                    キレイなぁ」「土の上に落ち着いて、けど風が吹い                    たら、あ、溝にはまってしもた。ゴミ溜めの中に、                     混ざってしもてるのもあるわ」「咲いてるうちが花                     とは、よく言うたもんや。後は野となれ山となれ、                     とも言うわ」「あ、あの一枚の花びら、木の幹に                      貼り着いたみたいに動かへん」                               
「おもいが残んのかなぁ」                                   「この大きな桜の木の枝が いっぱい花を開かせてる                  けど、私らの祖先から 枝分かれした人達も、                       何処かで こんな風に いっぱい居てるかも                        知れんな、知らんだけで」「知らんと好きおうたり                      してるかも ね
どちらにしても、元(はじまり)は、 一本の木からや」                                                        
「喉が渇いた、ジュース買ってくるわ」                            「あ―美味しい!これ濃縮ジュースみたいや」                       「桜を含めた、花の生命は短いけど、濃縮した命を                   
生きてるから あんなにキレイなんかなぁ」                        
「その期間が短い程、濃縮度が深いという事か」                    
「人間も<子供の頃>に死んでたら、濃縮された時間               
を終えたと言える?」「そやな、子供の頃から以降は                  知らんでええ事の方が多かったな」
子供の頃って、輝きそのものやもんな!
「私は、大きなったら桜になりたいと思っててん」「子供の頃、花見行ったん?」  
「ううん、花見したことは、ないけどな」。   了                                                    

   不実な「河野談話                       核を保持した北朝鮮の脅威の対処を「同盟国」アメ                リカに依存する我国だが、最近の六ヵ国協議にしても               対日本への軸足のゆらぎを感じる。最近アメリカの下                 院は中国寄りの民主党が過半数を制した。そして何故                 かこの時期に【その民主党のマイク・ホンダ議員が「                  軍に依る慰安婦の強制連行」を取り上げ日本側の謝罪                 を要求している。同議員への06年の政治献金の全体                の0%は中国系の反日系団体が占めた。又米CNN                の世論調査では70%余りの国民が「日本は再謝罪し               なくてよい」と答えた】然り【オランダ人の元慰安婦                  
の証言により敗戦後の軍法会議でその日本兵はB級戦               犯として死刑、懲役刑20年で処罰されたのだ。これ               
は日本軍の方針に逆らった末端の将兵の違反行為だっ              註「河野談話」の強制連行というのはこの事)、               発覚後すぐに日本軍自身により慰安所は閉鎖された】              。テレビで桜井よしこ氏が各方面への取材を通じ発言                
をされていた。日本側ははっきり言えばよい、再謝罪                と言うなら「処刑された人間を生き返らせてくれ」と                                              
又産経新聞にも桜井氏の論説がある【2/15の下
院公聴会の証言者の一人、韓国人女性は「従いていっ
た男は慰安所の所有者だった」と日本政府や軍の関与
は語られていない。又当時の宮沢喜一政権は全力を挙
げて調査したが強制の事実は特定できず、石原副官房
韓国政府の強い要請を受け十六人の証言を聞いた
が裏付け調査、質問も許されず全資料は今も未公開だ
。にもかかわらず河野洋平当時官房長官は談話を発表
したのだ。/又第二次世界大戦時でもその種(慰安所
)の制度、仕組みをを持った国々がある。外交に失敗
する国は滅びる。日本の名誉を不当に傷つけ、国民の
精神の萎縮を招かない為にも、慰安婦問題の『強制の
事実はなかった』この点を主張しなければ真の解決な
どあり得ない。】──【 】の箇所は産経新聞引用。

 日曜日のTV「そこまで言って委員会」で台湾の金
美齢氏は「戦争時十一才だったが「日本軍の強制」と
いう事は囲りの誰からも聞いたことがない」、又元ジ
ャーナリストの三宅氏は「占領軍はどの国でも慰安所
を置いた。強姦の多発を抑制する為で、戦後日本もア
メリカ軍占領下の横須賀で一ヵ月に二万人もの日本人
の被害者が出、慰安所が置かれた」の発言があった。
 当時の河野洋平官房長官の発言、事実関係をはっき
り説明しないままの言葉がひとり歩きし、国際社会で
の日本のイメージを著しく損っている。例えばアメリ
カにもホンダ議員の様な人がいる、その類いの人が現
参議院議長という日本の実状が、これまでの日本の
政治外交形態を如実に物語っていると言えるだろう。
早速、待ってました!とばかり北朝鮮が嬉々としてこ    
「過去」完了の事を取り上げ、日本を糾弾していた。    
拉致問題はまだ現在完了していないんです。        

    『春に』            
 二〇〇七年のが来た。               
 風に跨がった 雲雀が 春の風を ついばんで      
 春の歌を 唄っている                 
 風と同じ様に 浪路も変わった             
 船を 乗り換えねばならない              
 敗戦国 日本を引きずった様な 投降した侭の      
 旗印の無い船から 「戦後民主主義」という船から    
 東方の水平線から 真っ赤な太陽「日の丸」が昇る    
 私の体内にも あるもの                

 何故青地ではなく 「白地」を峻別したか        
 純白を それは日本人の精神性の 潔白さ!       
 日本人だから持ち得た その「真白」をいま       
 もう一度 見直さねば                 
 船を乗り換えねばならない               
 末尾から沈没しそうな船から              
 旗印「日の丸を掲げた船に。          

   (詩歌集夢幻『1999年の春』より)       


  何故?国民投票法案の阻止    
 現在安全保障担当の首相補佐官佐々淳行氏の講演会   
「国家綜合危機管理について」がこの3月14日中ノ島であ 
った。赤軍派に依る「浅間山荘事件」で陣頭指揮、逮捕し  
た事で有名な方でもあり会場は立見迄満席だった。最近   
の北朝鮮核保持した事からの国民の危機意識の高まりも   
関連しているだろう。しかし、殆どが壮々たる男性で女   
性は私を含めて何人いたかと思う。日本の女も温泉やグ   
ルメばかりにうつつを吐かさず、もっと政治に関心を持   
つ様になれば「国力」と成り得る。それは選挙権の行使 
者であるから。この北朝鮮の核は、日本にとって最大の 
脅威である。そして北朝鮮のこれまでの外貨稼ぎは麻薬 
、偽札造り、武器輸出(だからテロがなくならない)で 
ありこれに核加わる。という事はこれから益々核保有 
国は増えて行くだろう。6ヵ国協議の結果に見るように 
同盟国アメリカがイラン、イラクで手一杯になった時の 
日本の「有事」に、日本はどうなるのか?どうするのか 
?なにが出来るのか?と言う事の対応策を持って措かな 
ければならない。防衛時の「交戦権」が必要である。そ 
れには、佐々氏の言葉にもあったが憲法改正を要する。 
そしてその前の段階として国民に是否を問う「国民投票 
法案を今国会で決議すべき。しかし【今回の修正案等 
論外である。公職選挙法が公務員や教育者に課している 
いくつかのルールが削られ、又同地位を利用した国民投 
票運動(60日から180日間ある)は禁じたが「罰則 
」は削除され、又「メディア規制」も削除された。共に 
民主党の修正案である。そして民主、公明党の要望で同 
法が成立、公布されても「呑気なことに」3年間凍結す 
る案もある。罰則のない「禁止」事項等なんの効力があ 
るのか?又『項目毎選択』というのも案件に加えられた 
様だ】が、国民は国会議員にその行使権を負託している 
のだら、議員の数を大幅に削減するのと併せて問うべき 
である。衆参の間接議会制民主主義を考え直すのですか 
な?それなら尚更「憲法改正」が必要でしょう?    

 野党の方々、速やか現在の公職選挙法準拠して、 
現憲法に定められた「国民投票法案を採択し国民が 
投票出来るようにして下さい            
           *
 日本は軍事費を削減している時ではない。近隣状勢、 
中国、北朝鮮のミサイルは日本を全射程に入れている。 
そして中国は軍事衛星も持ち、破壊衛星をつい最近使い 
それでも平和利用と仰言る。勿論年々軍事費は増加一方 
。中立国スイスは軍事費の占める割合も多いが国民の各 
家庭には核シェルターがあるという。日本人も本当の「 
危機管理意識」に目覚めるべきだろう。        
だが【犯罪から市民を守り、外敵の進攻から国民の身体 
、生命、財産を守ること。この国家観を持つ】佐々淳行 
氏が安部内閣の補佐官を務めておられるのは心強い限り 
である。【】内は産経新聞より引用。         
            *
 「危機管理意識」と言えば、最近オウム真理教(現ア 
ーレフ)の上裕派が解散して出直すと報道があったが、 
十二年前このオウムが地下鉄サリン事件(死者十二人負 
傷者五百人)を起こした後、何故、破防法で 
解体させなかったのか!治安の不穏であると共に、 
有能な若者が又この教団に引き込まれ、人生を狂わせて 
しまうかも知れないのに。              

2007/2/25
      『 存  在 ( 詩歌集「夢幻」P69 より  

   私は 書く書く 私は 創る創る 私は 詠う詠う
   一杯 私を────ペンを走らせる 手が見える 

   朝起きる 「オハヨウ」「おはよう」「おはよう」
  (上の)甥子 (下の)甥子 私の母註 生前時
   ────眼が 言葉が 返る          
   私と 皆の牛乳 コーヒーを入れている     
   手許が 見える                
   パン ヨーグルトを テーブルに 運んで いる 
   足元が 見える でも 見えない 部分が ある 
   ────私は 透明人間のようだ        
   頭から 爪先まで 姿の鮮明な みんなと 朝食を
   食べる 私は コーヒーを 飲む        
   いや 正確に 言うと 飲んでいるようだ    
   「ちょっと、苦すぎたかナ」 それだけが    
   自身の 実在感  一番存在している筈の 私が 
   一番「不在」───「私」と言う「手触り」の為 
   私は 「書く」 「創る」 「詠う」────  
   いっぱい わたしを───           

        影          

    他人、他物は、はっきり、見える。      
   「私」は、鏡を通して見る時でも、       
    他物を通してしか 確かめられない。     
  唯一の『私』は、太陽が在る時の 『影』。    
  他者とも 区別がつかない 「影」にだけ ある。 
  「私」という、自我はこんなに強いのに、私は、何処
  にあるのだろう? 「他」を、見て、聴いて、感じて
   私は こんなに「存在」しているのに、     
   私は 「私」を 知らない。 私は、何だろう? 
   しかし、他者は、よく見える。         
   私は、他者を見る為に 「在る」のだろうか?  
   してみるに、肉体は、幻想だろうか?      
        (以上は 平成十一年七月 記)   

                 

   こののようなという存在の 「あなた」 を 
   私も見ている 昨日を すっかり通り過ぎ 明日へ
   向かう 今日の あなた。決して知ることのない 
   又 決して戻れない 昨日という「過去」    
   現在も 「過去」の進行形である。       
   あなたの善行「大砂僅粒」 悪行「針小棒大」。 
    『だが いつも 「私」は善人である。筈だ。』
   「人間」は 「昨日」を持っている。ゆえに   
   「 」 も。             


      『後           
   人間は後悔する。「後悔」という言葉を     
   造った人間は、後悔ばかり してきた。     
   動物は後悔しない(だろう) 決して      
   後悔するような事を しないから。       
   動物は 生きるために 食べる。        
   人間は 食べるために 生きている。      
   そして、その食欲には 際限がない。      
   遂に 地球の資源も 危うくなった。      
   それは、人間が「後悔」しなくなったから。   
   動物は 次の食物の生育のため 、       
   根こそぎ 食べてしまわない。         
    人間の 「存在」価値は?          
    動物より 劣るではないか。         
                          
    『忘れもの』の未来   
   地球温暖化の影響で冬眠しない(出来ない)熊が民
  家に出没し捕獲された。一年で一番底冷えの2月もあ
  と三間で終わろうというのに、このまま春に突入しそ
  うで何か「忘れもの」した様な又、年々それが遠去か
  って行くような予感を覚えます。         
  熊達冬眠動物は地球の風土に適応してその身体の構造
  を進化させて生き延びてきました。それは永い永い年
  月を掛けて獲得した機能だったに違いありません。 
  「忘れもの」をしたままになったなら、冬眠出来ない
  事による身体面の異変はないのでしょうか?    
   いま人間が考えなければならないのは、この永い永
  い年月を掛けて構築した人類のシステムをこのままの
  流れに負かせて破綻させてしまうのか、それとも人間
  の素晴らしい脳の働きを展開させ「破綻」した状態を
  仮定して(という事は0に戻って)構築し直す事。 
  そこにはコンピューターなる物は勿論、文明の機器は
  除外されているだろう。それでも「生活」して来たの
  がこれまでの人類だった。            

    ”「忙しい」 「満員電車」が 走り出す   
       百年前の 漱石 「それから」 ”   

   明治時代のこの「満員電車」は一輛編成の路面電車
  ですが、文明の利器の「時間割」に乗り合う人間の忙
  しさを書いた夏目漱石は、西洋文明導入前の幕末に生
  まれその過渡期を生きた文豪だった。       

    ”見過ごせぬ 列車の窓から 護味捨てる   
           「三四郎」の 広田先生 ”  

    ”桃実 くい 新聞紙くるみ 種皮を     
     列車の窓あり 捨て さる 日本 ”    

   時代の趨勢から「近代国家」確立の為西洋模倣の道
  を突き進むしかなかった日本。その「列車」に乗って
  しまった全ての日本人は魂の墓穴を巣喰わせてしまっ
  た。広田先生は言うのである、日本は「滅びるね」。

    ”漱石は十九、わたしは二十世紀に 産まれ  
     次世紀に 生きて 郷愁の うみ ”    



    『要は危機意識』      
  まもなく卒業式のシーズンですが、「♪蛍の光 窓の
 雪・・・」という歌を知らない人はいないでしょう。 
 【スコットランド民謡の曲に付けた歌詞は3,4番迄有
 ったが、昭和二十一年GHQ占領軍によって省かれた。

 3筑紫のきわみ みちのおく 海山とおくへだつとも 
  その真心は へだてなく ひとつに尽くせ 国のため
 
4千島のおくも 沖縄も 八州(やしま)のうちの  
  まもりなり 至らんくに いさおしく       
  つとめよわがせ つつがなく           
 
明治十四年(1880年)に作られた「蛍の光」、この
 3・4番には当時の領土意識がにじんでいる。    
 日本がロシアと樺太、千島交換条約を締結し、千島列島
 が日本の領土下に置かれたのは明治8年。明治十二年に
 は清国ともめていた琉球に沖縄県を設置した。    
 歌はそのときの国情や世相を映す鏡である。いたずらに
 カットせず、時代背景まで教えるのが教育というものだ
 。】以上。(【】部分は扶桑社「教科書から消えた唱歌
 ・童謡」横田憲一郎著より)            
  帝国主義(植民地主義)台頭の時代、1840年イギ
 リスと清国(現中国)の阿片戦争が始まり勝利したイギ
 リスは中国5港での租借権を得る。アメリカ、ペリーの
 黒船が日本の浦賀に寄港し開港を迫ったのが1853年
 、隣国清の事を既知していた坂本竜馬をはじめとする日
 本の下級武士達はいち早く「危機意識を持ち」維新に立
 ち上がった。それにより1867年徳川慶喜の大政奉還
 が為され、明治時代となった。以後1894年日清戦争
 、1904年日露戦争勝利と日本は急速な近代国家確立
 を成した。こういう歴史過程を背景にして「蛍の光」 
 3、4番の歌詞は作られたのです。         
   
”「剣呑」は 漱石 死後(語)の 老人語   
      けんのん 日本国は 呑気けんのん ”     
  
『日の丸の値打ち』     
  世界中の何処にもない「日本国憲法第9条」所謂は、
 半植民地憲法であるのにおめでたい方々が「平和憲法」
 と崇め奉っている。お笑いの世界の人間等はその第9条
 を「世界遺産」にとかほざき、まさに爆笑問題ですわ。
 米国軍(安保)も一緒に「世界遺産」に申請するんです
 かな?それでなければ国の防衛は?と問われて、どう返
 答するのか。何度もこの欄に書いている通り、敗戦後の
 日本に於てはGHQが日本を占領しその期限などは若し
 かしたら半永久的だったかも知れなかった。だから、軍
 隊など不要だったわけだ。ソ連というアメリカと敵対す
 る国の存在のお蔭で(日本の共産化を防ぐ為)日本に独
 立を与える代わりに米軍が日本に常駐する事を条件とし
 た(安保条約締結)をし、日本をアメリカの管理下に置
 いたと言うことだ。講和条約締結後「独立国」となり、
 昭和27年、戦後初めて日の丸を日本の国に揚げる事が
 出来た。当時の人間は涙を流して見上げたそうである
 それを知れば国旗の値打ちも分ろうというもの。日の丸
 を揚げることが出来なかった、その事は肝に銘じておき
 たいものである。2006年10月20日HP掲載分より   
  
『日本独自の防衛構想(核保持迄)を』  
  中国が議長国だった北京での六ヵ国協議。「茶番劇」
 が終わっただけのものでした。核実験した結果、北朝鮮
 は拉致もテロと言って制裁していた米から金融制裁解除
 という「実」を得、日本は拉致問題は置いてけぼりの侭
 で北の核破棄させる為の費用とかいう名分で費用の負担
 を強いられた。以前、前米クリントン大統領との約束も
 反古にしその間に結局は核実験に迄至った北朝鮮。米は
 この愚を又繰返す様ですぞ。現在共和党のアメリカの大
 統領が次期は民主党に変われば日本への対応はもっと悪
 く(鈍く)なる。ロシア、中国、北朝鮮と核持つ3国に
 囲まれた日本の現状を踏まえ、石頭な綺麗事などでなく
 日本独自の防衛構想(核保持迄)を考えるべき。核被爆
 国だからこそ世界世論にも納得させる事が出来る。  

   平成19年 
1月4日(木)    『 「煩わしさ」の伝統 』                       
 正月3ケ日が過ぎ、今日は重箱を新聞紙(平成19年1月3日付)に包み  
元の場所に直した。日高家代々の伝統だったこの「煩わしさ」を無事終えた。 
今年はもう、いいか、という想いを覆えさせたのは「私で最後」だからである 
。一昨年の12月に母が亡くなりその暮のお節は母への想いを重ねる為だけに 
煮炊きした、が重箱は自分では出した積りだったが、昨年末取り出した重箱を   包んでいた新聞紙の年月日を見ると平成17年1月の侭であった。
 今年も出さなかったら、母は死んでも「生きてる」、と思える物を
死んだままにするところだった。                                       
1/5(金)                                       
私の子供の頃、母は家業(八百屋)から帰った後、夜を徹する如くお節料理    を煮炊きしていた。家族8人分に加えて使用人の分迄だから相当な量だったと  思う。冷ました順に重箱に盛っていた。
 現在我家にあるのとは違う全体に深い容器で陶器製だった。
それ等はすべて当時の家を引っ越す時に処分したと思う。それでも容器は変わっても、又時代という容器は変わってもその行為は引き継がれて来た。
 自慢ではないが我が家は一度もお節料理を買ったことがない。         
(運んだ事はある、平成16年末配送のアルバイトした時、お節の運搬は特別   に気も遣う分特別手当が付いた)
 この身体には今では簡単な言葉で言える遺伝子が祖先から連綿と繋がっている。しかしそれは目には見えない、目に見えるもの、それが伝統、文化的行為である。そこで私達は間違いなく祖先と重なり 、一体となり、祖先そのものとなる
その時に浮遊物ではない、「地に足の着いた」自分を発見する。           現代というメディア文明により世界各国の食風習を観るに付け、この恵まれた  風土故に冬期にあっても冬野菜を使っての「お節料理」が、その容れ物は三段  重を一体とした紋様、喜寿絵柄が新年の祝膳を彩る。まさに日本に生まれ、
日本人である事の幸福を倍感する。世界各国の文明、文化は、現代の文明以前だからこそ編み出されたもの。先ず風土に依る「素材」だけだった。
四季ある日本は花鳥風月の中、その移ろう時季に独自の感受性が養われ、一例を上げれば草木染から始まる着物文化を発展させた。重箱の紋様然り。  それ等は、現代文明に慣らされた者にはすべて「煩わしさ」を伴うものである。                                                      
         『元旦墓参』
 この正月は1日元旦に京都へ墓参りに行った以外は「寝正月」だった。      正月の墓参を欠かした事をないが、昨年の正月は「母の死」が重く私の体に横   臥り、とてもではないが墓参の気持にはなれなかった。               今年の墓参は1日が母の月命日なので、亡くなって丸1年1ヵ月、絶対にこの   日に行くと決めていた。多分これまでは年末、大晦日の疲れも取れた3日の日  位に行っていたので、元旦の墓参は初めてではないかと思う。                 
   ”落葉除け 元旦の清しさ 墓参おえ ”                       
 墓の奥楓の木の葉がすっかり落とされ、我が墓の処々の隙間に重なり合っ  ていた。綺麗に取り除き、上の甥子と墓石を洗った後、墓石の清々しさを共有した。下の甥子は友人との初詣を優先し、来なかった。
これも初めての事であった。墓所を出た後は、三年坂を下れば四条方面に至る
八坂神社、上がれば清水寺、どちらに参拝しようかと迷ったが、何故か「下がり」たくなく結局清水寺参拝道を急いだ。暮れ掛かっていたからである。境内に入った時には夜景が冬の冴えた空気に燦めいていた。その先の清水の舞台正面から見える林は金色にライトアップされ、幽玄さを浮かび上がらせていた。おみくじを引いた。甥子が末吉で、私は末小吉だった。<このみくじの人は中年以降が良い・・・  >という箇所があった。中年それ以前に比べれば、そうかも知れないが…、これ以降はこれからの推移による事になるだろう。                     
 舞台を下って行くと今度は舞台下の組格子を真正面に見る位置に出る。やはりライトアップされていてよーく見える。この巨大で堅丈な基礎部分が数百年の風波を支えてきた事を納得する。                         
一昨年来の「耐震偽装事件」関係者にこそ、この建築物を見ろ!と言いたい 。日本人の基礎部分が確かに壊れ始めているのを如実に示した事件
だった。          
 《その元旦の夜、NHKテレビのアーカイブという番組中の「代々薬師寺創建
の宮大工」
の人は、4才から親の跡を継ぐべく育てられ、高校も「農学校」ヘ    行かされたが、それは建築の基本は「土」を識る事、そして木の質を識る事であるから。木は風を受けるとそれに反発する力を発揮し、その方向にうねる。それを見極めて使う事で強度を増す最良の工法を確立させた。          
クレーンも何もない古の建築物と、現代の(高層階のを含めた)建築物は、
どれほどの年数を生き延びるのだろう?》 
 
 其処の階段を降りれば音羽の滝三水の前、すっかり暮れた中それでも居並んでいる人々がある。甥子にその気はなく通り過ぎ出口方面へ急ぐ。その手前辺り茶店は全部閉まっていたが、今日来なかった高校2年生の下の甥子が未だ3才位の時、私の妹(甥子達の母親)も健在で私と一緒に夫婦でこの様に墓参に来て清水寺に寄った。そしてこの辺りの茶店でぜんざいを食べたが、注文したのがきた時、この甥子が「オシッコ」と言い、私がトイレを探して連れて行った事を思い出した。お蔭であったかーいぜんざいも冷めてしまっていた筈だ…。その甥子にもガールフレンドが出来てこの正月は独自に出掛け、行動を共にすることもなかった。3日の日はクラブの皆と食事。交友関係のある事は喜ぶべきこと。気持ちはもう自立していってると思う。他人事と思っていた「家族の経緯」の只中にあると想う昨今、この正月であった。                    
1/6(土)                                       
 「四季ある日本」に住んでいるという事は、【ゆく川の流れはたえずして、   
さらにもとの水にあらず……「方丈記」】の古文にある如く、その流れを受け入れ   無常感という諦念の中に、この身の<空>を悟ったのが日本人であろう。     その感性が、(食物連鎖という)あらゆる生きものの命に等しく<神>を見出    だした八百万の神信仰に繋がる。宗教戦争という言葉があるが、その意味では  多神教の日本人は元来、平和民族であると思う。私等も仏教徒であるが、
<断食儀式>をもつイスラム教、<完全なる者などいない>と説くキリスト教にも崇意を抱く。しかし宗教に「境界線」等不要と思う。それは権力志向と変わら    ない。宗教の内、人類の為に善なるものは全て受け容れたい、
「善なるもの」とは利他心を根本に据えるものである。                                      
             *********                   
産経新聞元旦付に曽野綾子氏と三浦朱門氏御夫妻の新春対談特集記事があった。その中の曽野綾子氏の言葉に「50才を過ぎてから初めて、人生に頭を下げるような楽しさを味わった、それは海外邦人宣教者活動援助後援会の代表としてアフリカのサハラ砂漠を横断した時。何もないサハラを見て価値観が根本  から覆され、サハラで生きるにはどうしたらいいかと、謙虚にならざるを得ず、そこから第2の人生を歩かせてもらった。ああ日本ではなくてこちらに人生がある。マラリアとか泥棒とか、ゲリラみたいなものがいる。下痢なんかも当    たり前。それを納得してバーチャルじゃない世界へ行ったから、私の面白かった人生がある。物が溢れている日本では、それの反対を子供達にやらせている気がする」。以上 産経新聞より。
 
 この記事を見て曽野綾子氏の、地に足の着いた発言の真髄に触れた気がした。並みの人ではないですわ。                              
             *********          
 
 2007/1/6 (ペーパーマガジンより)                            
パソコン故障、ホームページは十月二十日更新分迄掲載。         
パソコン故障を筆頭に我が家は満身 創痍。家が古いのでベランダの防水が効かなくなり雨水が下に浸透して玄関の真上の壁が剥落、その玄関前に置いてい 
る軽四輪の車は車検切れで昨年2月からずっと「動かせぬ」と言う事は、やは 
り故障車の如き。私の愛用エレクトーンは十年の疲れの所為か出ない音がある 
。球を替えても蛍光灯が点かない、ガスコンロの一つが自動点火しなくなって 
久しい。その中でやはり故障した甥子のゲーム用のテレビだけは本人が買い替 
えたばかり、十四型で約八千円也だった。                 

 ”甥子に扶養されて                          
     嬉しくもあり 悲しくもあり ”  
              
の現状であってみれば致し方なく、感謝こそすべきと暮らす日々のこの一年で 
した。又、一昨年に母が亡くなり、冬から春夏秋冬「むなしきわむなしむなし 
」、空虚の奥にまだ空虚があることを知り、その空虚と共に過ごした一年でも 
あった。それは誰もが一度は通らねばならない「通過儀式」だったと想ってい 
ます。                                 

  すべてに 時はあり という                     
  かの日 我に 時はありて                        
  我が身細胞 すべて 花となりたり                    
  されど そののちに 時はなし                      
  されど 何故 実となり 糧とならぬ                   
  朽ちゆくばかりの 時なして                       
  あとわ 朽ちゆくばかりなり                       

 昨年も春辺り、パソコンで作った私のオリジナルソングのCDタイトル『還りゃんせ』(全8曲収編)をレコード会社数社に送付しましたが、これ迄のご多分に漏れず「ナシノツブテ」でした。
今年は亥年、猪に倣って夢の果てまで再度猛進と行きましょう!                                      
”夢の果て 猪突猛進 無限まで ”

いつかこの紙面で良い報告が出来ますよう、応援して下さい。                          
新たな試みとしてこのCD還りゃんせ』(全8曲収編)を不特定の方に 
聴いて頂きアンケートをお願いしようかと思っています。                    
商品価値があるという結果を得たなら出資者を募り、商品化しようかとそんな事を現在考えています。       
その節はよろしくお願いします。                             <4月現在アンケートは終了しています。結果としてCD商品化は見送る事にしました。 アンケートにご協力いただいた方、有難う御座いました。>             ******
 1月3日NHKテレビのやはり対談番組【よく生き、よく死ぬために】
五木寛之氏と塩野七生氏が出演していた。その中で「仏教国ブータン(産経新聞にも以前、昔の日本の様な国として取り上げられていたが)は、子供の頃からの   仏教の教えが国民に養われ、物質文明を否定し清貧思想を尊い、人間の幸福と する精神が浸透し、政治自体が拝金主義を否定している」と五木寛之氏が話し  ていたのが印象的だった。                        
 私も読みたいと思っている「ローマ人の物語」善15巻を書き上た塩野七生 
氏の言葉に「戦争は欲望の単純化されたもの」「自殺は戦争の代償」があった 
。絶えず何かが欲しい人間、戦争下ならそれは唯一「命」の生のみという事だ 
。マヤ文明史に太陽神へ人間の子供を生贄として献上する儀式があるが、それ 
等は代償行為の原点かも知れないと思う。                 
「ローマは一日にして成らず」と言うが建国迄に700年間要し、以降1200年間
ローマ帝国として君臨した。それを可能にしたのは、寛容の精神、多神教と一神教(サポートと強制)、平和な時代はパクスローマの200年間。
全ゆる国への社会資本(水道等インフラ)残存していないが(治安の安全、平和 
、税制)の充実があったと説く。文化(言葉)文明は各自独自とし、ルールだ 
けを共通とした等。                           
 温故知新、人間の普遍性を思えば歴史の中から最良の手法を学びたいもの。 
            2007/1/6 18:08


成18年12月7日(木) 
    「母の1周忌法要」と写真
 朝から曇っていたが、午後から雨になった。  
昨年12月1日に亡くなった母の告別式の日12月4日も雨だった。前日まで 
と打って変わって冷たい雨のいち日だった。1日から4日と日があいたのは
3日の日は住職と市営葬儀の空き時間がかみ合わなかった為。            思えば、4日は行く積もりだった私の小学校のクラス同窓会の日でもあった。  又この日いち日というか前夜から、どうした分か我が家の電話は呼び出し音が  鳴り受話器を取るとブワーンという音だけの状態が翌日迄続き、実質使用不能   だった。その約20日後、戦後一番の大寒波が襲来した。当たり前の如くに市   の葬儀担当者が亡母の体の囲りに当てがったドライアイス、あの時(葬儀申し   込み時)我が家の空調のない暖房状態を考慮してくれていたらドライアイスは不要だったのではと思う。
あの寒波の折、亡母がそんなドライアイスの冷たさを分からしめる為の様な気がした。                    
 先月の11月26日私の妹の仕事休みの日曜日母の1周忌法要をした。   
親戚の人にも声掛けだけはしたが、皆さんご高齢なことでもあり、身体の処々 
ご不調の様で無理なご出席をお願いしなかった。              
1周忌も終わり、黒枠の額縁から普通の額に亡母の写真も入れ替え、生前母の 
座っていた位置の真上の壁面に掛けた。あの写真を見上げながら、良い写真が 
残っていたとつくづく懐う。私が子供の頃からずっと(亡くなる約1年前、シ 
ルバーカーを押して出掛けなくなる迄)母の素顔を殆ど見た事がない位いつも 
綺麗にお化粧をしていた。だから母が亡くなった時、遺影を母の通っていたデ 
ィサービスの誕生会で撮って貰ったのにしようかと思っていたが、ごく最近の 
で化粧っ気もなく眉毛を描いているだけのものだ。             
仮通夜の時、朝起会の人が持っている写真を見せて下さりその中の一枚の方が 
元気な頃の(と言っても脳梗塞を患った後、杖を使っていた10年位前のだろ 
うか)母の顔だった。(あれから同じ写真を母の遺品に見付けた)      
あの頃毎日朝、昼と2回宏正会の本を持ちシルバーカーを押して京阪香里園駅 
前に行きシルバーカーの上に座って頒布していた。左身側に若干の障害が残っ 
ていたものの、張り切ってイキイキとしていた頃の母である。
だから、あの写真を使って一番喜んでいるのは亡母だろう
、ねェかあさん。         
 頭の中の記憶は日々薄れていく。褪せない記憶の固定化を為した写真技術に 
今改めて感慨を覚える。それは、その写真に依って、確かに存在したその時が 
が蘇るからである。人間は忘れる為に日々生きているといってよい。     
良いことばかりではない世の中、忘れたいことの方が多いかもしれない。   
その中で時々、良い事だけを思い出せる様に人間は創られた。        
敢えてシャッターに刻んだその瞬間は、一番保存したい思い出の「時」だろう 
 母が亡くなったこの1年は、<むなしきわ むなし むなし>空虚の奥にま 
だ空虚がある事を知り、その空虚と共に過ごした1年だった
。        
(後に追加)                                           平成18年12月8日  17:28                   
            
        『美感
 今日のニュースで【70才の女性が79才の男性にストーカー行為】という 
のがあった。私などは50才位から世捨て人的気持ちで生きているので、「元 
気な人やなぁ」と笑ってしまったが、「その50にして天命を知った」頃から 
人間の表面的な美しさには全然興味がなくなった。
平成9年に創った『いまだから』という歌にはその頃の心象を明晰している。
それは本当の「美しさ」を 得たということだった。
やっと「美の森」に辿り着いた。          
   <美感生 そこがはじめの 彼岸生>                
この一句に全てを凝縮させた。                      

 「やっと」だったか、どうかは正確ではない。それ程切実に「美」を求めて生 
きてきた分ではないから。ただ若い頃(20代の初め頃か)、ある女性雑誌に 
「人間は美しさを知らなければ、云々・・・」という美術関係の人の発言があ 
り、何度も「美」という言葉が出てきた。その時に「美とは、感性とは、何か 
?」と考えたけれど、解らず、どうしたら解るだろうか?と思った。それは数 
学問題を解く、というものでは勿論ないから、決して答には辿り着けない、幾 
重層の壁が立ちはだかっている如きだった。(答という結果に辿り着いた時、 
公式と成り得る)その若さの時点では、各自の「美」が観念である限り、それ 
を解明し表現する事ができないが、到達した時「逆算」が出来るだろうと思う
 。                                   
 それでも、確かにこころに引っ掛かった。それから約30年後に「美」を感 
得した。それは美知識ではなく、美感識であるということ。         
 <放してみれば 物か 想いか 思いの丈 掴んでいるものを>      
「いまだから」の3番の歌詞の一部だが、この「放す」という行為の基は「彼 
岸生」である。その結果<いまだから 歩ける道がある>          
<心を空っぽの 野原にして 行けば 扉が開く 美の森>         
<心が溢れて 川になる・・>「放して」「空っぽにして」<心が溢れ>川を 
うみだし、道を見出だした。                       

 小川洋子氏著の「博士の愛した数式」文中に博士が【「実生活の役に立たな 
いからこそ、数学の秩序は美しいのだ」(略)「直線を引く……とりあえずの 
線分を(一枚の紙に限りがあるし)本物と了解しあっているに過ぎないんだ。 
どんなに鋭利なナイフで入念に尖らせたとしても、鉛筆の芯には太さがある。 
よってここにある直線には幅が生じている、面積がある。つまり現実の紙に本 
物の直線を描くことは不可能なのだ。真実の直線は……(胸に手を当てた) 
こにしかない永遠の真実は、目には見えないのだ。数学はその姿を解明し表 現する事ができる。」P158〜より。】                 
          2006/12/8 17:54                   
 
同書の中に、有名な数学式<オイラーの公式>がある。          
       πi +1=0                           
色んな解釈の出来る数式である。                    
しかし、この数式を美しいと感じられるのは、加算〔1〕しているのに〔0〕 
となるから。
                              
 〔1〕という数を〔+〕して〔0〕にするには、〔+〕される数がこの場合 
〔−1〕、〔−〕でなければならないから。
 この〔0〕の〔無〕と、〔1〕の 〔有〕は隔宙と言える位、隔然としている。
しかし、量的には変わりはない。 
量の移動、時間の経過があっただけ、元の〔0〕に戻る。
 
 〔0〕というのは「 目には捉えられない」が、途方もない量数である。
0に、永遠の、瞬間の、美 がある。
                                
 あの公式の初めの部分は、〔−0.9〕でも〔−1.1〕でも駄目で、   
 〔−1〕
でなければ〔1〕を〔+〕しても、〔0〕にはならない。     

 〔−1〕エネルギーで分解された状態→ 〔1〕生(有)体 ■      
 〔0〕死(無)体→ 〔−1〕エネルギーで分解された状態 →      
 〔1〕生(有)体 →〔0〕死(無)体 →・・・・・・         

以前に【10才頃に思考した「夢と現実」の事、その事を憶えている事の不思 
議】を書いたが、この「美」のことも同じように、不思議に想う。      
            2006/12/9  0:02                
 私達は、時代を背景にした出来上がった社会の枠組みの中に生まれ、先ず両 
親の持つ「価値観」を当然とする。もう決まっていたのだ。         
〔追加〕分 2006/12/17 2:08               


006/11/27(月)   「教育問題」                    │
 11/10から少しずつワープロに打ち込んでいた文章が殆ど消去されてし│
まい(原因が解らず)、思い出しつつ再入力している処です。                                          │
 云っておきたい事はこれから地方分権化されても、国の教育、防衛、外交、│
この3つは地方に権限を移譲すべきではない。               教育問題に関して先日の国会中継で伊吹文科大臣が答弁されていた如く、そ│
れまで教育委員会委員は都道府県知事の権限で任命、「文部省が承認」してい│
たのを、平成11年以降、地方分権推進の意味から現在「都道府県知事が承認│
」している。文科省に教育委員会への是正、指導の権限が及ばないのにどうし│
てが責任を追及されるのか責任経路に一貫性がない。いじめ問題の隠蔽はこう│
いう「なぁなぁ」の体質の中での事だろうし、未履修問題も同じくである。 │
大学入試科目云々より、全国統一実力テストを文科省が行なうようにすれば、│
履修度が把握出来ることだろう。                    │
 現在の教育の現場の状況を改善させるには、先ず現在の制度を廃止し、  │
「文科省に権限」を与え、政府が一丸となって取り組まなければならない。 │
                                   │
           「幼児期教育を」                │
 「教育」は幼児期にこそ。藤原正彦氏の「国家の品格」という本がベストセ│
ラーとなり、最近「社会のマナー」類いの本が売れているようだが、現在の
日本人は自分自身の欠落している部分に気が付き始めた様な気がする。不況と言われても世界第2位の経済大国である。
「物」では補えない「生き方」を求めているという事
だろう。
 この「マナー」等は幼児期に教えられれば自然と身につくもの。「万物の命を頂く」故に<いただきます>、「命を頂いたが故に」
<ごちそうさま>。この<いただきます><ごちそうさま>も前講釈は後年に教えても良い。
幼児期ならば、親や大人に言われればなんでもその通りと受け│
取る。「ゴミはごみ箱へ捨てる」、これも同じ、そんなもんだと思って「成長│
する
」。教えられなければ「ゴミをそこらに捨てる」。          │
そしていずれ、その事に「社会のマナー」「人間のマナー(武士道精神)」を│
教えられた事に成長してから感謝の念を抱くだろう。わざわざ、「マナーの本│
」を買わなくても済むのだから。                    │
 戦前の「教育勅語」によって身に付けた「徳性」が、結果として海外の人々から讃えられる日本人とあらしめた。                  │
                                   │
 現在の戦後教育の中で育った親にはこの「家庭教育」は荷が重すぎるという│
か、出来ないだろうから妊婦を含めた「母親教室」によって、それから幼稚園│
、保育所、学校現場での重ねての教育を取り入れる。           │
これらは戦前にはあって、戦後にはなくなったものだろう。        │
                 *                 │
 大分以前の産経新聞「五輪語録」より、                │
             『日本精神』                │
【1984年ロサンゼルス五輪の「柔道」の試合でエジプトのラシュワン選手│
は、相手の弱点を攻めてまで金メダルは欲しくない、正々堂々と闘いたかった│
と、日本のヤマシタ選手の痛めた右足を攻めず、結果は銀メダルだった。しか│
し、国際フェアープレー委員会よりフェアープレー賞を受賞、同氏の武士道精│
神が国内外で喝采を浴びた】「正々堂々」これぞ武士道精神、「心の金メダル│
」です。さすが日本の国技、柔道ならでは。今から22年前の事、現在もこの│
国際フェアープレー委員会は存在するのでしょうか?           │
                *                  │
          『細胞(サイボー)の闘い』            │
 私達の身体の中の細胞一粒一粒も闘っている。この生命維持を毀損、破壊し│
ようとするものを壊滅させる為。危機時、目の前の「敵」と闘う様に。これが│
「正義」と「悪」の定義付けの元だと思う。               │
村上教授の論の如く、サムシング・グレートがそういう仕組みを成した事を飛│
躍させて考えればその時代、時代の最大の「悪」(人類の敵)は何であるかを│
見極め得る人間をも、きっと「創って」いる筈である。生命体というのが究極│
の目的である、この地球の存続の為に。                 │
 現在の脳科学が解明した脳構造。ロボット等は人間の全機能が解明された故│
により高度化された物だろう。ヒトゲノム解析出来た事により、人間の過去、│
心、タイムトラベルも可能となり、予言者も頻出される。それを知っている者と、知らない者、それを行使出来る者と、出来ない者の、決して「フェァ」で│
はない「格差社会」
。近年の「異常気象、気候」。地下で蠢いている足音に気│
付くべき。科学者はもっと情報を開示すべきである現在の科学の状況から、本来「正」の為に考えられたものが、「負」(悪)に応用される可能性を。 │
           2006/11/28 1:07                 │
──────────────────────────────────11/28(火)    「地球は、宇宙の縮図」                      今朝の産経新聞にフレアが数百万度の高温になる仕組みの解明を目指している太陽観測衛星「ひので」(可視光・磁場望遠鏡)が撮影した写真が掲載され│
ていた。黒点の周辺の爆発により数万度のガスが上空2万キロ迄噴き上がり、│やがて冷やされて内部に戻る、その写真は燦ざめく真夏の太陽の下咲く向日葵│の花の様です。この写真に見る「ひまわり」の原型が「太陽」とするなら、こ│
の地上の数限りない種類の花々の原型も、宇宙の一つひとつの星に当てはまるのではないかと思えてきました。ならば人間各自も符号する星々があるのでは? 地球は、宇宙の縮図ですね。                    │
      2006/11/28 23:25                     │
─────────────────────────────────
11/29(水)       「教育改革」                    
 安部晋三首相か教育改革に掲げている「教育バウチャー制度」(学校選択制
にして国民に教育券を発行)に関して、伊吹文部科学大臣が「深呼吸して少し
考えたい」と新聞に掲載されていた。「教育は市場原理になじまない」とも付│
言されているが、現在の私学を選ぶというのも市場原理の「学校選択」である│
と思う。経済的理由で私学へ行く事が出来ない者は決められた校区の公立学校│
へしか行けない。その弊害をなくす為の国民にとっては歓迎すべき制度である│
。 例として大分以前<2004/3/13号>ペーパーマガジンbV1号に│
掲載した産経新聞「正論」欄から引用の【日本や世界の礎を築く、真のエリー│
トをつくる事を目標としている茨城県の私立中学・高等学校は、偏差値を30│
台から70台にアップさせた。1に困難克服、根気、意志の強さ。2に人間的
情愛(感性の育み)。3に豊かな知識の向上。これを以て『人格を磨けば学力
は向上する』を学校の基本方針とした学校長の命懸けのリーダーシップの賜で│
ある。】この様な理想的な学校がある。しかし私立である。いや私立だからこ│
こまで思い切った教育が行なえたとも言えるだろう。これを公立にそのまま出│
来る様にすればいいわけで、少子化の現在、これからだこそ、学校側の意識改│
革を促進させ得ると思う。                       │
 『自由』と絶えず云っておかないと自由でなくなる。と教えられているのが│
近年の公立の高校生である。<護憲派の常套文句の様ですね>       │
そんな学校だから教室にはゴミが散乱していた。そんな事も指導出来ないんで│
すわ。人間としての基本的な事を教えず『自由』だけを教えている典型でしょ│
う?2年前卒業した甥子の高校のことです。               │
 ほぼこれが公立学校の現状ではないでしょうか。公立学校日教組の膠着した│
指導体系、教育方針の改革は民間から淘汰されなけば、成し得ないでしょう。│
         2006/11/29 18:24     

2006/11/27(月)
 
 
「70兆分の1の存在」   
 5〜6年前位、人類のヒトゲノム(遺伝設計図)が  
全解析された頃、テレビでアメリカの科学者だったか  
「人間は神になった」という発言をしていた。人間の  
言動はすべて「脳」が司っている、というのを知らな  
い人はないでしょうが、以前のNHKのスペシャル番  
組で、障害者の手や足や視覚等の各機能を司る脳の部  
分に、マイクロコンピューターを繋げると手足が動き  
、目が見えた状態になっていた(ビデオカメラが捉え  
た映像をコンピューターが脳に送る)。        
 その脳には海馬という記憶場所があって個人の生誕  
から現在迄の情報が蓄えられているらしい。例えば血  
液、体液、髪の毛、爪等から遺伝子を抽出させれば他  
人の「過去」やその他身体の情報も把握出来る。  
 平成16年7月付産経新聞正論欄の筑波大学村上名
誉教授の言葉【生命科学は進歩したが、世界の学者を
総動員しても木の葉一枚、細胞一つを元から創れない
。又両親の染色体の組み合せから生まれる子供の可能
性は70兆分の1である。私達の一人一人は70兆分
の1の存在なのだ。一個の受精卵から僅か38週間で
数十兆の細胞からなる新生児のプログラムを書いたの
は、人間ではない。各自のプログラムも偶然ではなく
必然のもの。万巻の書物に匹敵する情報を極微の空間
に書き込み、その暗号通りに動かしている不思議な働
きは人間業ではなく、大自然の偉大な働き。科学者も
一般の人も、一刻も休みなく動かしているサムシング
・グレートの前に謙虚になるべきであろう】。「神に
なった」と豪語出来るのは「悪魔になった」の同義語
の意味に於いてだろう。人間は祖先の様々な因果質を
もつ。先ず神(道徳)を教えられて、その存在に出会
。環境下によって目を覚ます因果質、悪い因果質の
芽を閉じさせ得るのは、人間としてのモラルを与えら
れてこそ、神の道へ向かうだろう。        
              ★
個々の世界は個々の中心を因果の交差点に据えて、
 分相応の円周を右に画し、左に画す】 
      
          夏目漱石「虞美人草」より
────────────────────────
生きるとは 歩くも               
走るも 地球丸                 
一周の果て                   
元の 生土に                  
                        
うまれ堕ち 生きて               
登った その穴の                
型が 己れの                  
還る 穴なり               以上、   よし子
             ★
   日本人の の遺産』    
 今回の教育基本法改正案には『家庭教育の必要性』に
言及があるようだが、この戦後の教育の中で育った親世
代はその家庭教育の仕方を知らないのではないか?  
この親世代こそ民主主義の自分勝手流『自由』を教えら
れてきただろう。民主主義を日本に「輸入」したアメリ
カにあって日本にないもの、それは宗教心「キリスト」
である。私は仏教徒であるけれど、その宗教がなんであ
れ『神』を絶えず自分の心の内部に持って良心の平衡感
覚を崩さないように心懸けてこそ、人間はなんとか「人
間らしく」生きてゆける、と思う。         
 先程の『いじめ』問題。             
弱肉強食、強いものが弱いものを食べる、動物、人間共
通に。しかし、人間は強いものが弱いものを『いじめる
』、動物はそんな不要なことはしない。だから人間は動
物より「劣っている」部分を持っているのだ。だから、
そんな「いじめ」等は人間として恥ずかしいことなのだ
、と教える事が必要。日本には戦前に「道徳教育」なる
ものがあったとか。日本が戦争に敗けた為にその「戦前
のもの」は全て間違っていたと排除された。戦争に敗け
たのは明らかな「軍力の差」の所為だったからなのに「
戦前すべてが悪」というほっかぶりをされた。この事は
以前の白洲次郎の項で記したが、白洲は戦争前から日本
が戦争に突入し敗戦を知らぬ日本はとことん戦うが敗れ
ると予見した、何故なら余りに戦力に差があり過ぎた、
と明言している。物事を考える時にはキチンと捉えなく
てはならない。「戦前」の中で『良かったもの』もあっ
た筈である。それは日本人の心の遺産かも知れない。 
前号にも触れたトロイの遺跡発掘のシュリーマンが賄賂
を受け取らない日本人の廉恥心に『関心』をもった如く
、アインシュタイン、チャップリンも「日本人」のいる
日本を愛した。                  
              ★
     「日本人伝説」       
 産経新聞の平成18年8月28日付にウズベキスタン
の「日本人抑留者伝説」というのが掲載された。【敗戦
後ソ連軍に満州からシベリアへ連行された日本人の内、
25000人がウズベスクに強制移送され、13の収容
所に分けられ苛酷な労働を強いられた。「日本人伝説」
のシンボルがその内の約500人の抑留者が捕虜という
厳しい環境下タシケント市に2年がかりで建設したナボ
イ劇場。1966年の大地震で多くの建造物が倒壊した
中ビクともせず「日本人の建物は堅固だ、建築技術が高
い」という評価が定着した。            
壮麗なナボイ劇場には日本人抑留者の功績を顕彰したプ
レートが掲げられ、日本人に対する尊敬と感謝の思いが
名実ともに歴史にとどめられている。        
 日本人抑留者の「遺産」は他にも水力発電所、運河、
道路など国内の至る所に残り現在もウズベスクのインフ
ラを支えている。当時の水力発電所を仕切った元現場監
督は「真面目に、懸命に汗を流していた日本人抑留者達
」の思い出を涙ながらに語った。】以上。      
               ★
     「人道的判断」         
 以下は、佐藤優氏著「国家の罠」より。
戦時中、杉原千畝(ちうね)当時リトアニア領事代理 
は人道的観点からユダヤ系亡命者に日本の通過査証(ビ 
ザ)を与え6000名の生命を救った。鈴木宗男(当時 
外務政務次官)はこの史実に大きな感銘を受け外務省幹 
部の反対を押し切り杉原夫人を外務省飯倉公館に招き、 
謝罪した。外務本省は訓令違反をし外務省を退職した外 
交官を褒め讃える鈴木の言動に当惑し、この話題がラン 
ズベルギス・リトアリア大統領との会談提起される事を 
警戒した。ランズベルギス大統領の父親は親ナチスでユ 
ダヤ人弾圧に手を貸した経緯があった事から「杉原問題 
」を提起に反対した。が鈴木は「佐藤さん、ランズベル 
ギス大統領はソ連共産全体主義体制と徹底的に闘って、 
リトアニアに自由と民主主義をもたらした人物である。 
それであるならば、杉原さんの人道主義を理解する事が 
出来る。一流の政治家とはそういうものだ」と言った。 
鈴木はランズベルギスとの会談で杉原問題を提起した。 
ランズベルギス「命のビザ」の話に感銘を受け、カウナ 
ス市の旧日本領事館視察日程を組み込む様に同席してい 
た外務省儀典長に指示すると共に、ビリニュス通りを「 
杉原通り」に改名するととを約束した。私は一流の政治 
家が大所高所の原理で動く姿を目の当たりにし、少し興 
奮した。この話は、イスラエルやユダヤ人団体ではよく 
知られている。内閣官房副長官時代の鈴木が小淵総理訪 
米に同行した時、シカゴの商工会議所会頭が「杉原ビザ 
」の写しを示し「私はこのビザで救われました。あなた 
がその杉原さんの名誉回復をしてくれたのですね」と話 
し掛けてきたとのエピソードを鈴木が私に語ったことが 
あるが、イスラエルの外交官、学者が鈴木をユダヤ人に 
紹介する際には「鈴木宗男さんがスギハラの名誉を回復 
しました」といつも初めに述べるのが印象的だった。  
鈴木のイスラエル、ユダヤ人社会における高い評価は、 
私達がテルアビブ大学との関係を深める際にも大飯に役 
に立った。佐藤優氏著「国家の罠」中<『世界』現下の 
所感(02年6月22日付)>より                

 外国の人から讃えられた、これ等戦前の「日本人」は
日本の誇り、と言えます。 

─────────────────────────
        いガラス                 
 よそ見して歩いとったからやなぁ、ガツンと、          郵便ポストやない(なつかしいなァ、赤い郵便   
  ポスト)何かの看板にぶつかった。血だらけ?            
  (オーバーやなぁ)そやけど手に乗ってるのん   
  は、青いガラスの破片や、痛かったやろな。    
  身体でも、心でも傷ついたら、痛いの当たり前   
  や。        ▼                           
  「お母ちゃん、お母ちゃん!」<ん、私、子供   
  おらへんで>「うち学校行きたないねん、隣り   
  の席に気の強い、先生の言うことも聞かへん子   
  がおって、うちにいけずするねん、辛いねん」            
  『・・・』『手、血だらけやん、青い血…』    
   この看板が悪いねん。                      
  『あんた、大きな声でよう歌、唄とったのに唱   
  わへんなったぁ。小学1年2年生の時は先生に            
  呼ばれて先生のオルガンの横でよう唱とったの                             
  に…』「自分を意識するようになってん」                               
  『小学3年生でか?・・・』                                     
   心の傷口に刺さった侭やった、このギザギザ                             
  の青いガラス、看板にぶつかったショックで                              
  剥がされた、けど傷の入口は思い出せても、                              
  その奥は深い、深いから思い出されへん。                               
  『その青いガラス、どうすんの?』                                  
  「この看板から貰ったんやから、この看板に                              
  返す、此処に貼り付けとく。」                                    
 「未来の子の、進入禁止になるように」。                              
            ▲                                     ★
       「いじめ撲滅に賛同」
              
  学校における先生の存在は物凄く大きい。小学校                            
 の1、2年生の担任は私の歌唱を「認めて」くれた                            
 が、3年生になってそれは反転してしまった。先生                            
 が「いじめ」を目にして何故「席替え」をしなかっ                            
 たのか?この1年間の事は、それしか憶えていない。                           
 先生の指導力で、子供は救える。(約50年前の私の                           体験です)                                               
             *                         現在の学校は、私達の頃よりいじめが陰湿なのか、                            
みんなかけがえのない命を途絶えさせている。                               
その中で【遺書】に苛めた生徒の名前を書いて死んだ中                           
学生がいたが、そこまで追い詰めた奴の名前を学校も公                           
表すればいい。【死】を決行するまでにどれ位苦しんだ                           
のだろう?それを想えば苛めた奴らは【死刑】に価する                           
。刃物で人を傷つければ傷害罪、殺せば死刑である。                            
ならば【言葉の暴力】で人の「心」を傷つけ魂の血を限                           
りなく流させ、その果てに死に追い込んで、それで何故                           
罰せられないのか?                                           
 名前を公表された者が、今度は苛めにあってもそれは                           
仕方ない、その苛めた者も又、次に苛められる、という                           
構図になる事が分かれば「しなくなる」だろう。キレイ                           
事では何事も収拾がつかない。                                      
又それでも、いじめがなくならないなら、【苛め殺人罪                           
】的な法を制定して罰するべきである。次から次といじ                           
め自殺等は異常事態で、真剣に一歩踏み出さなければな                           
らない時にきている。                                       ★
     
文科省も学校長や先生の査定を『いじめに対処しなか 
った場合(隠蔽等)は、教育者の資格なし』と免職にす 
べきである。その上で学校内に「投書箱」を据え学校内 
の「いじめ」(本人又はそれを見た者)の告発をさせる 
。そしてクラスに於いていじめを告発された者と、いじ 
められた者両方に発言させ打開を諮る。 それでも「い 
じめ」が改まらなかった場合は、いじめた者は停学とそ 
の親から罰金徴収とする。              
 産経新聞に府下の中学校で「いじめ撲滅に賛同」と親 
と子供が著名し、生徒会がそのいじめ相談の窓口となっ 
昼休や休み時間に校内を巡回し効果があるようで、こ 
のモデルを取り入れる学校が増えているそうである。生 
徒自身が立ち上がった、一番理想的なかたち、陰ながら 
応援しています、カンバッテ!            

 いじめっ子、いじめて、自分の言動で人を死なせ  
た、その事は自分自身に生涯付きまとう。もう元には  
戻せない。死なせた事に対してずっと負い目を背負っ  
て生きてゆくのは当然。そして、せめてもの罪の償い  
として、【人に親切】を心がけること。それでも、   
いじめた事は、消えない。それを忘れないように。                    ****           
  教育基本法改正案が与党単独で衆議院を通過した。                            
この改正案が取り上げられてからこれまで相当な日数を                           
費やし、時間にして100時間という。この内閣の前の                           
小泉首相時の国会では時間切れとなったが民主党は与党                           
より良い条文を提出していたのに、何故それを再度この                           
議案として採決を試みなかったのか。あの「心を涵養し                           
」という部分に関しては「態度を養う」より与党の人間                           
も賛同していた者が居たとか。民主党を含めた野党一斉                           
に国会欠席、議決放棄とはその与党の議案に「反対」で                           
もないということですかね?反対ならちゃんと出席して                           
「反対」の意思表示をすべきでしょう?                                  
普通選挙で国民が投票権を放棄して投票に行かないのは                           
現状(現政権)を容認しているのと同義だと解釈出来る                           
と思うが、それと同じですね。 
   
2006/10/19(木)〜20(金)
        「日本も言論弾圧国家?」
 北朝鮮が核実験を行った。早速国連安保理での制裁決議が為され
国連憲章に基づく制裁が決定した。日本もこれを受けて国会で「周辺事態法」適用とされた。
しかし、北朝鮮は第2回の核実験を行うようである。
こういう情勢の最中、テレビ番組又、国会中継に於いて中川昭一政調会長、麻生外務大臣が
『「日本の非核3原則」を踏まえて』と断った上で「日本核議論」発言をした事に対して、
野党や一部メディアの状況をとんと呑み込めぬと思える「能天気」な、その発言に対する
毎度同じみの揚げ足取り攻勢である。
 日本はいつから言論弾圧国家になったのでしょうね。 
いま重要な事は「北朝鮮の核を廃棄」させることであるなら、それには何が一番効果的かと言えば
全世界が一丸となって制裁を為すしかない。
世界の国々と危機感を共有する事を最大の防御力とする為
一番脅威を受ける我国が率先してそれを訴えなければ遠国には他人事になってしまう可能性も
否定出来ない。そうなれば拉致問題進展等ものぞむべくもなくなる。
 北朝鮮のエネルギーから食糧迄、一番依存度が高い中国が「決断」をすれば北朝鮮の核を廃棄
させる事が可能だろう。その為には万一北朝鮮が核を「廃棄しなかったら」日本も核をもつ、という
事を仄めかせ、議論している、と知らしめる事が必要だろう。なぜならそれを、「日本の核」を一番
封じたいのは中国だろうから
こんな分った事を我が国の一部国会議員は一丸となって対応しようとせず、発言の揚足取って政権奪取
しか頭にない、国民の安全よりはそれが優先としかみえない。
危機管理のシュミレーション、いろんな場合を想定して法制化をしておく、という事に野党も石頭を揉みほぐして
協力してください。日本国民のため

                           ★
         『核とサイバー攻撃』
 安部新総理の就任前の言葉に「憲法改正」がありました。
戦後61年経過しましたが、その間には日米安保、米ソ冷戦、ソ連自壊、中国市場経済導入
大きな変遷を遂げています。いまや外貨準備高は日本を抜いて中国はトップです。そして、
その「財力」で以って軍事衛星迄成功させました。
 産経新聞の朝刊に<近未来小説>SHOWDOWN(対決)ジェドバビン/エドワード・ティムワーレーク共著が
掲載されています。下記に引用します。
 2006/10/18付<3>の一部、【「米国は動かない」横田基地・米第5空軍司令部 2009年7月8日未明、
『最大限10基の中国のミサイルが日本上空を通過するのを、横田基地からオバノン空軍中佐は双眼鏡で捉え
ため息をついた。』『中国人民解放軍の秘密機関「サイバー戦争本部」は広東省の遠隔地の地下深くに設置されていた。
司令官は報告した。「主席のかねての指示通り、まず東京証券取引所のコンピューターを特殊ウイルスで麻痺させ、
この余波は欧米の証券、金融のシステム全体へと広がります。次に日本の軍事防衛の通信ネットワークを崩壊させます。
さらに命令次第で日本の配電網を瓦解出来ます。日本国全体が機能を停止し、闇の中で孤立することになります。
わが衛星攻撃兵器が米国や、欧州の通信衛星、航空誘導衛星を破壊します。欧米の人工衛星が使えなくなれば、
日本はまったくの無防備となり、孤立するわけです。」「なにも日本を侵略して征服する必要はない。日本でも他国でも
もし中国に逆らえば瞬時に服従させることが出来るということなのだ。米国大統領は中国の能力を知れば、米国は
日本を救うためには、動かない。司令官、持ち場に戻り準備を進めなさい」
(抄訳=ワシントン駐在編集特別委員、古森義久氏)】
 
 中国が軍事衛星を成功させた事は知っていましたが、それがどんな脅威なのかということを、この<近未来小説>
から知る事ができました。これは2009年を設定してのことでしょうが、国家の「危機管理」とはあらゆる事態の想定を
しての万全な防御策、防衛力の完備です。『核とサイバー攻撃』、この21世紀は確かに軍拡という新たな局面
入っています。顕著な上昇経済のロシアの動向も気になるところです。
 政治家の方々、頭を切り換えて対応してくださいますよう、くれぐれもお願い致します。
                  ★
 「蛍の光」という歌を知らない人はいないでしょう。
♪ 1. ほたるの光 窓の雪 ふみよむ月日 重ねつつ
     いつしか年は 過ぎのとを 明けてぞ今朝は 別れゆく ♪
 この歌はスコットランド民謡の曲に歌詞をつけたものです。
2番迄と思っている人が多いでしょうが、(私もつい最近まで)実際は4番まであったのです。
3,4番の歌詞は昭和21年GHQ占領軍によって省かれ、以降現在に至っているようです。

 明治14年に作られた「蛍の光」、
【 3.筑紫のきわみ みちのおく 海山とおくへだつとも
   その真心は へだてなく ひとつに尽くせ 国のため
  4.千島のおくも 沖縄も 八州(やしま)のうちの まもりなり
   至らんくにに いさおしく つとめよわがせ つつがなく

この3、4番には当時の領土意識がにじんでいる。日本が樺太千島交換条約を締結し、
千島列島が日本の領土下に置かれたのは明治8年。
明治12年には清国ともめていた琉球に沖縄県を設置した。
 歌はそのときの国情や世相を映す鏡である。
いたずらにカットせず、時代背景まで教えるのが教育というものだ
】以上、
【】部分は(「教科書から消えた唱歌・童謡」横田憲一郎著より)

 帝国主義(植民地主義)台頭の時代、1840年イギリスと清国(現中国)の阿片戦争が始まり、
2年後勝利したイギリスは中国5港での租借権(自由貿易権利)を得る。
 アメリカ、ペリーの黒船が日本の浦賀に寄港し開港を迫ったのが1853年、
隣国清の事を既知していた日本の下級武士達はいち早く「危機意識を持ち」
維新に立ち上がった
。それにより、
1867年徳川慶喜の大政奉還が為され、明治時代となった。
以後1894年日清戦争、1904年日露戦争勝利と日本は急速な近代国家確立を成した。
こういう歴史過程を背景にして「蛍の光」3、4番の歌詞は作られたのです。
                     ★
           「日の丸の値打ち」
 世界中の何処にもない「日本国憲法第9条」所謂は半植民地憲法であるのに、
おめでたい方々が「平和憲法」と崇め奉っている。お笑いの世界の人間等はその第9条を
「世界遺産」にとかほさ゜き、まさに爆笑問題ですわ。米国軍(安保)も一緒に「世界遺産」に
申請するんですかな?それでなければ国の防衛は?と問われて、どう返答するのか。
 敗戦後の日本に於いては何度もこの欄に書いている通り、GHQが日本を占領しその期限などは
若しかしたら半永久的だったかも知れなかった。だから、軍隊など不要だったわけだ。
 ソ連というアメリカと敵対する国の存在のお蔭で、(日本の共産化を防ぐ為)日本に独立を与える
代わりに米軍が日本に常駐する事を条件とした(安保条約締結)をし、日本をアメリカの管理下に
置いたと言うことだ。講和条約締結後「独立国」となり、昭和27年戦後初めて日の丸を日本の国に
揚げる事が出来た。当時の人間は涙を流して見上げたそうである。それを知れば国旗の値打ちも
分ろうというもの。日の丸を揚げることが出来なかった、その事は肝に銘じておきたいものである。
                2006年10月20日 17:22

2006/10/10(火)                      
      生きる教育     
                               
  ”勝因(松蔭)に 生きる教育  美し日本(くに)                        大和魂  安部新総裁  ”               

 新総理大臣に安部晋三元官房長官が就任されました。 
 吉田松蔭主宰の松下村塾で学んだ伊藤博文を初めとし 
て、幕末長州藩(現山口県)出身8人目の総理大臣誕生          
ということです。真に「教育」の賜(たまもの)でした 
。                         
 その吉田松蔭の有名な一首に、                    
  【武蔵野の 野辺にこの身は 朽ちるとも     
    とどめおきまじ 大和魂】  
                 
 
があります。「大和魂」イコール「武士道精神」です          
。                                  
 安部新総理の掲げる「美しい国」。それは日本の美し                           
い自然、文化、歴史に思いを馳せ、この風土に培われた                           
元来の美しい日本人の心を取り戻そう、ということでし                           
ょう。戦後61年日本も還暦を過ぎ、日本の原点に戻る                           
べき時なのです。                                            
物質的欲求のみがもたらした人間の精神の荒廃をくい止                           
め、科学文明の未来に予測される事態、地球環境破壊の                           
みならず、(ロボット化を含め)「人間の尊厳、命の軽                           
視」に対処する。それは幼少時より廉恥心「恥を知る心                           
」を養う事が肝要。                                                        *                                      
 最近読んだ本「渡嘉敷島、集団自決の真実」の作者、                           
曽野綾子氏はクリスチャンだが、子供の頃から自分を律                           
する「神」をもつと言う事に良い意味で考えさせられる                           
ものがあった。所詮人間など「環境に造られる生きもの                           
」であるから、真っ白な幼少時から絶えず「神様に見ら                           
れている」と生活する事で、少なくとも「神様を知らな                           
い」よりはマシな人間になると思える。                                  
             *                                      
 『渡嘉敷島、集団自決の真実』
曽野綾子著より抜粋 
                           
【他人が要求し、答えさせ得る人間の「責任」は、職業                           
や法律の範囲にとどまるだけである。それ以前の神の前                           
の人間としての高度な、或いは複雑な道徳や責任は、厳                           
密に言えば、神を認めぬ人にはどの様な形で存在するで                           
あろうか。】                           
 これは「沖縄渡嘉敷島、集団自決の真実」の一部分ですが、
世の中にはこの曽野綾子氏の様に絶えず物                           
事を真摯に捉え生きている人がいるのです。曽野氏は                           
れ以前の「感性」を持ち合わせておられる。加えて「キ                           
リスト」をもたれていることが、文章の中にも謙虚さを                           
感じさせるのだと思う。                                         
下記にその本から一部紹介します。【 】の部分です。                                     *                            
概略は、第2次世界大戦時の昭和20年3月に起きた 
「沖縄渡嘉敷島、集団自決事件」、米軍の沖縄諸島攻撃 
激化の中、渡嘉敷島住民300人余りが集団自決した。 
敗戦後にこの事を巡って当時の渡嘉敷島に配属(と言っ 
ても特攻舟艇の隊隊長しての配属だったが舟艇が故障し 
、島を死守することとなる)された赤松隊長(当時24 
才)による集団自決命令に依ってのことだったとされて 
きた。                       
 先ず結論から言えば赤松隊長による集団自決命令は                           
、<なかった>である。それは【沖縄が日本に返還され                           
た年に訪れた赤松元大尉(赤松帰れ!等非難轟々だった                           
本人が明言又当時の下士官達の証言でもはっきり否定                           
された。そして、諸々な風評も島の人達の遺族年金に関                           
わることなので反論しなかった。】それでは何故『赤松                           
隊長による集団自決命令』説が定着したか。言論統制下                           
の【GHQ占領下の昭和23年創立の沖縄タイムズ社か                           
昭和25年企画出版された「鉄の暴風」によってであ                           
る。取材したT氏、0氏(本には実名記載あり)が直接                           
の経験者ではない証言者2人から得た中から書いた物だ                           
った。(尤もその内の一人M氏(同)はそんな取材を受                           
けた記憶はないと言う)O氏によれば、この戦記は当時                           
の空気を反映している、当時の社会事情はアメリカ側を                           
ヒューマニスティックに、日本側の旧悪を暴くという空                           
気が濃厚だった。「時代が違うと、見方が違う」とO氏                           
は言う。いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初                           
の資料と思われるものはこの様に、新聞社に依ってやっ                           
と捕らえた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証                           
拠という形で固定されたのであった。】                                  
【赤松神話は第1歩から、この最も根源的な要素に欠け                           
ていた「鉄の暴風」編纂時に若し一人でも直接の体験者                           
が加わっていたら、問題はもっと素朴に、本質的な点に                           
絞られて来たかもしれない。】と指摘している。                              
 本書「渡嘉敷島、集団自決の真実」は有名な赤松大尉                           
による沖縄戦、集団自決の真実を、当時を知る人々への                           
取材を重ねつつ書かれている。                                      
 金城牧師はインタービューされた後日曽野綾子氏へ「                           
手記」を寄せ【[3月31日、自決場へ集結せしめられ                           
てから、死の命令の出るまでの数時間は極めて重く感ぜ                           
られた。<略>(本には記載あり)                                    
死の不安と混乱の中、悲壮な決意と涙の中にも婦人達が                           
、髪を整え、身仕度する美しい姿。家族や親戚が泣きな                           
がら死の会話を交わすのだった。死には自ら順番が決ま                           
っていく。(中略)弱い老婦女、子供達を残して死んで                           
行く非人情な者は、一人もいなかった。父親や男の若者                           
達は自分の手で肉親や身内の者の命を断ち、死を見届け                           
てから死んでいく。この様にして、死は愛する者、かわ                           
いい者から始められたのである。                                     
あのような号泣は、私が生きている限り、再びないであ                           
ろう。]】と綴られてあった。                                      

【ある部外者からの解説『南方に出征した兵士達が帰島                           
した時に、家族ほとんどが自決して死んでいた。しかし                           
全滅ではなく、何故自分の両親や妻子だけが死んでしま                           
ったのか、ということになる。そう問い詰められた人達                           
も辛い。k牧師(本には実名記載)は冷静な方だから、
あの時「村民の間に一種の陶酔が充満していた。             
肉親も殺し、自分も死ぬという異状な雰囲気があった」                           
と言われたそうだが、                           
そんな事を聞いても家族にとっては納得出来ない、そこで                           
どう説明したらいいかということになると、「命令だっ                           
た」と言う事が一番はっきり、わかって貰い易い。』】                           
ともある。曽野綾子氏の同書のまえがきに【神と違って                           
誰も完全な真相を知る事が出来ない。(略)私は直接の                           
取材から「赤松氏が自決命令を出した」と証言し、証明                           
出来た当事者に一人も出会わなかった、と言うより他な                           
】と書かれている。
赤松大尉が軍人としての「責任」                          
」(ただひとつ「命令」を守り抜き、島を死守し出来る                           
だけ敵の戦力を引き付けておく事)
に於いては「住民に                           
対して後ろめたい気持ちはひとつもない」という赤松氏                           
の発言も
妥当性のあるものになってくる。】しかし、と                           
曽野氏は言う【「責任」の本質は実はそこから始まるも                           
のなのである。<それは>あの一つの島であれだけの事                           
が起きてしまった、その現場に居合わせた事は、確かに                           
赤松氏の不運であった。しかし、そこで起きた現実の前                           
改めて人間として感ずべきものが本来の「責任」なの                           
である。この「責任」は他人が「感じろ!」と強いる事                           
が出来ないものである。赤松氏だけではない、あの事件                           
多かれ、少なかれ戦争責任の雛型を感じたものは、誰                           
に問い詰められなくても、それぞれの内面でその答を出                           
して行くのである貧しく、利己的な精神風土故に、人                           
生を深く感じる恩恵をも得なかった、ということで既に                           
、自ら罰せられているというほかない。(略)                               
 他人が要求し、答えさせ得る人間の「責任」は、職業                           
や法律の範囲にとどまるだけである。それ以前の神の前                           
の人間としての高度な、或いは複雑な道徳や責任は、厳                           
密に言えば、神を認めぬ人にはどの様な形で存在するで                           
あろうか。】                         
                     
  『マサダの集団自決』                              
 同本より───(Y・ヤディン著)                                   
【有史初の集団自決事件「マサダの集団自決事件」は紀                           
元70年は、ユダヤ人が対ローマ反乱の最後の拠点とな                           
った死海西岸のマサダの要塞に立て篭ったことだった。                           
<降伏か死か>のいずれかのみということになった時、                           
人々は「栄光の死は、屈辱の生に勝るものであり、自由                           
を失ってなお生き永らえるという考えを軽蔑することこ                           
そ、最も偉大な決意である」と考えた。彼らは辱めを受                           
ける前に妻達を死なせること、奴隷の体験をさせる前に                           
子供達を死なせることを選んだ。彼らはローマ人達に、                           
我々は最初からの決意により、奴隷になるよりは死を選                           
んだ。要塞に火を放つが糧食は残して行き、必需品欠乏                           
の為負けたのではない事を証明した。それから彼らは籤                           
を引いて順番に・・・・(以下略同書には掲載)最後の                           
者は剣で自決した。こうした事が全て明るみに出たのは                           
、二人の夫人と5人の子供達だけが地下の洞窟に隠れて                           
この悲劇を生き延びたから。                                       
 日本人とユダヤ人の大きな違いは、マサダの自決をど                           
う評価するかにおいて見る事が出来る。イスラエルでは                           
、これを非人間性や好戦性犠牲者として見るどころか、                           
その自決した960人の人々をユダヤ人の魂の強さと、                           
高貴さとして高く評価した。「マサダ」は現在、イスラ                           
エル国家の精神の発生の地として一つの聖地になってい                           
る。新兵の誓約も、此処で行なわれ、国賓も此処に案内                           
される。                                                
しかし、沖縄では、集団自決の悲劇は、軍や国家の誤っ                           
た教育によって強制されたもので、死者たちがその死に                           
よって名誉を贖ったとは全く考えて貰えなかった。                             
そう考える方が死者たちが喜んだのか、どうか、私には                           
結論づける根拠はない。】                                        

 この本の最後「解説」(石川水穂産経新聞論説委員)                           
座間味島の集団自決から32年後の命日(三十三回忌                           
にあたる昭和52年3月26日、生き残った元女子青                           
年団員は娘に「梅沢隊長の自決命令はなかった」と告白                           
した。梅沢少佐の元に玉砕の為の弾薬を貰いに行ったが                           
帰された事や、遺族が援護法基づく年金を受け取れる                           
ように、事実と違う証言をした事も打ち明けた。                              
又、昭和62年3月、集団自決した助役の弟が梅沢氏に                           
対し「集団自決は兄の命令で行なわれた、私は遺族が援                           
護法の為、止むを得ず隊長命令として(旧厚生省に)申                           
請した」と証言した。これらの事実は神戸新聞社が伝え                           
ている。                                                

 集団自決から60年後の平成17年8月、赤松氏の遺                           
族と梅沢氏は大江健三郎氏と岩波書店を相手取り名誉毀                           
損罪で大阪地裁に訴訟を起こした。                                    

 「旧軍」の命令で渡嘉敷島と座間味島の住民自決した 
とする従来の<定説>は、曽野綾子氏の検証取材や、そ 
の後の学問的調査により、ほぼ否定されたといえる。  
しかし、現在の日本の中、高校で使われている歴史教科 
書には依然として旧態の侭掲載されている。いずれも文 
部科学省の検定をパスした記述だ。軍命令の有無は国の 
名誉に関わる問題、少なくとも教科書の誤りは正すべき 
である。】以上、(曽野綾子氏著「渡嘉敷島、集団自決 
の真実」より)                   
             *            
       『精神構造の自壊』          
 佐藤優氏著の「自壊する帝国」は、1991年にソビ 
エト社会主義共和国連邦が「自壊」し、国名も民主主義 
国家ロシアに変わった。その旧ソ連の崩壊過程を現在の 
日本の政治家、「官僚機構」に重ね合わせ、日本を自壊 
させないよう、強固な骨組みの「日本精神」の再構築の 
必要性を喚起している。下記に一部を。【ソ連共産党中 
央委員会は絶大な権限を持つが、絶対責任を負わない。 
例えば同国際部が指示を出した事で成果が上がればと国 
際部と外務省で分配するが、外務省が失敗すれば国際部 
はその責を外務省に帰す徹底的な無責任体制が敷かれて 
いた。 東京に帰り、外務本省勤務をはじめてこの無責 
任体制が霞が関にも深く浸透している事に気付いた。私 
だけではなく、ソ連崩壊前後にモスクワ勤務した経験を 
持つ幹部外交官や若手キャリア外交官も同じ危機意識を 
共有していた。こうした外交官達は、冷戦終結後の日本 
外交を日米同盟の基礎の上で、日米中露4ケ国が真にバ 
ランスを取ってアジア太平洋地域に新秩序を構築する地 
政学的発想によって進めようとした。その試みは日露間 
の懸案、北方領土に対する新たなアプローチというかた 
ちで具体化した。日本国家が生き残る為に、今後国力を 
増強し自己主張を強める中国を牽制する必要がある。そ 
の為の地政学的発想がかのロシアとの関係改善だった。 
この考えは、橋本、小淵、森の3代の首相に支持されそ 
の影響が拡大した。しかし、一方ではこれを危惧する外 
務官僚も存在した。路線と人事を巡る抗争が水面が様々 
に駆け引きが行なわれた。 2001年小泉政権誕生後 
田中真紀子外務大臣就任によりこの路線は迷走し始め 
、外務省内部の権力闘争がこれ迄の枠組みを超えた「仁 
義なき戦い」となった。そのことにより対露新外交戦略 
は、内側から崩壊してしまった。】          
【2005年末の日本の「耐震強度偽装問題」に、ソ連 
崩壊のシナリオを書いた当時のソ連国務長官ブルブリス 
の言った「ソ連帝国は自壊したのだ。あのクーデター未 
遂事件は政治的チェルノブイリ<原発事故>だ」の言葉 
が甦ってきた。耐震強度偽装したマンションは広く、快 
適で、見た目もきれいだが、内側の最も重要な部分がス 
カスカになっている。ちょっとした地震で内部から崩れ 
るかもしれない。ソ連国さながら、日本国そのものが耐 
震偽装したマンションのようになっているのではないか 
という印象が、私の頭から離れないのである。】    
            *             
 その通りである。日本の精神構造の所以。それを考え 
ねばならぬ、戦後の61年だろう。          
            *             
【「改造又は革新の必要は、国民的生命の衰弱、退廃か 
ら生まれる。善なるものの力弱り、悪なのものの横行 
跋扈することによる。これを改造する為には、国民的生 
命の内に潜む偉大なるもの、高貴なものを認識し、これ 
を復興せしむることによって
、現に横行しつつある邪悪 
を打倒しなくてはならない。善をもって、悪を討つこと 
でなければならぬ」。同本より            
(大川周明著第一書房1939年より】        

【61年前、大日本帝国は崩壊し、日本国土は廃墟と化 
した。日本という国民国家を形成する共通意識は残り、 
戦後それを発展させて日本人は国家と社会を再建し、世 
界第2位の経済大国となった。しかし、現在の日本がガ 
ラガラと崩れて行っても、もはや内側から復興の核とな 
る原理は見つからないだろう。おそらく日本人の大部分 
は、日本が崩壊する筈がないと思っているだろうが、 
家というのは、ある日突然崩壊することもあるのだ。】 
以上、(佐藤優氏著の「自壊する帝国」より【 】部分 
。           *             
内側の核 戦前にはあって、戦後にはなくしたもの 
       戦後にあって、戦前にはなかったもの  
      の、考察が要。             
            *             
                                 
  21世紀の〔非常識〕    
20世紀の常識は、21世紀の〔非常識〕】この言葉
を20世紀の終末頃に聞き大変印象に残った。    
 1865年にメンデルが遺伝の法則を発見して以降、
生物に続いて人間のDNAも解析され、今年『青いバラ
』も創生された。いまやレーザー光線で地中の遺跡物迄
、空中から特定出来る。ナノゲノムの技術は1ミリの百
万分の1ミリ(勿論肉眼では見えない)の世界を可能に
した。平成16年11月付の産経新聞正論欄に【21世
紀の「技術文明は『エンタングルメント』思考こそが本
」、<エンタングル>と言う言葉は「絡み合う」とい
う意味で、最近「情報を運ぶ光子のペアを半導体から生
成した」という。この光子のペアが「量子もつれ」にな
っていれば離れた2ヵ所が瞬時に影響し合うエンタング
ルメント現象(テレポーーテーションともいう)が起こ
る。インターネット的「情報ネットワーク」でエンタン
グルメント同様の思考モデルが原理的には誕生している
。やがて、「パラレル・リアリティ」「キュービタル」
時代への移行が始まるだろう。】これが掲載されたのは
2年前、もっと進歩していることでしょうね。    

 茂木健一郎氏著の「脳と仮想」に、人間のすべての思 
考、行動は『脳空間』の電気信号に表れる。「死んだ家 
族」も、心に思い出せば生きている人間の脳の電気信号 
に「存在」する、とあった。それは脳の視界部に特定の 
、例えば「猫」の電気信号を送れば「猫が見える」とい 
う事でもあるだろう。                
 『エンタングルメント』は『脳空間』の双子的なもの 
でしょうか?知らぬ間に「双子化」されたら「著作権」 
等は、どうなるのでしょうね?            
(飛躍するが、以前テレビで観た『量子学的には、この 
宇宙と同じ宇宙がもうひとつ存在する』というのを思い 
出してしまいました。)               
 特定の者だけが持っていたのを(コンピューターも戦 
時の暗号解読の為のものだった)商業消費の為いづれは 
商品化されるでしょう。しかし私達にしてみれば、   
<そんなこと、どうでもええ>というのが実感ですワ。 
それより【特定の者だけ】にならない様な防衛策、もっ 
と情報公開して貰いたいもの。これは、コンピューター 
ウイルスどころではありませんな。          

 『人間が、人間らしく生きる、           
  そんな世の中をこそ、目指したい』        
   (還るしかないでしょう?)       

2006/9/17(日)
亡母 納骨』                  

  ”ながらくに 生前法名 朱(しゅ)生きて             
       墓に「享年」 母は 死にたり ”            
        (八十四才)                     

   ”母納骨 浄土道先案内を                    
        亡き妹の 祥月命日 ”  
              
                                   
 昨年(平成17年)の十二月一日に亡くなった私の母          
の納骨を八月二十日に済ませました。本当はお盆にと思          
っていたが墓のあるお寺の都合もあったりで、十三年前          
のこの日に亡くなった私のすぐ下(甥子達の母親)の妹          
の命日の日に行ないました。                      
 亡父の13回忌の昭和五十二年にこの墓を造った母は          
その時自身の生前法名も墓標に朱刻字していました。           
が、その名の下の年令欄は当然、空白でした。              
ですから、死んではいても、墓石に於いては納骨、字の          
朱脱、亡くなった年令を入れる迄は「死に切れて」いな          
かったという事になります。やっと私も気持ちのふんぎ          
りがついて、納骨を終え、その後の安堵感は亡母と共有          
されたものという気がします。自分の造った墓にやっと          
落ち着けた、そう思っていることでしょう。
               
           *              
   母 逝きて 去年こぞは暮れたり                我が心柱 か細くなりて                       
 虚しさは かさ かさ かさ なるなし むなし このうえむなし             
 八月の 空をみやれば               

 その冬過ぎ 春過ぎ いま 夏終わりぬ                    
  先の日 二十日(はつか) 母造りし墓に       納骨終えん  院号も (納)骨袋紋様も       「宏正(こうせい)」に それだけでいい        生涯へ おもいかへして まつり縫い。   
                                                                                                        
 生前の 母は朝起会(宏正)は毎朝一番に行く事(勿論                  梗塞になるまで)、朝夕の読経と、自分で決めた事は                  貫徹した人でした。その読経というのも面白く、普段は                         
「浄土真宗」、命日の人が自分の実家の親兄弟の日は「                         
真言宗」と両方のお経を唱えていました。それはなにが                         
なんでも拝むというもので、毎朝夕、欠かした事があり                         
ませんでした。あの「おもい」はどこから来るのかと考                         
えると、死んだ人間には通じている(聴こえている)、                         
それが何よりの供養だと信じていたからと思います。                          
ですから母の死後、命日の「一日」だけは住職に来て貰                         
って仏壇に読経をお願いしています。                                 
でも、肉体をもたなくなっても、母のあの「おもい」の                         
「霊」は朝起会に行き、家では朝夕読経しているかも知                         
れません。そんな事はあり得ない、と誰が断言できるで                         
しょう?だって、こころも目に見えるものではないのだ                         
から。                                                
母は男兄弟の中の女子一人だったので、母の父親から                         
大事に育てられた、と言っていました(その点は私とは                         
大違い)。その温室育ちと血筋のお蔭で、母は本当に大                         
がつく「善人」でした。お人好しとも言うでしょうか。                          
素直で、率直、正直、単純、人を疑う事を知らない、子                          
供がそのまま大人になった、そんな人。                                 
自分を鏡として他人を見る、のが人間という事。                             
その「大人」が、私達子供6人を産み、育てたのですか                          
ら……(現在生存は私と末妹の、ふたりだけ)。                             
それでも母を一人の人間としてみた場合、これほど純粋                         
に生きた人はいないと思う。その行為は家族の為であり                         
、世の為、人の為という発心であった。                                
それは朝起会の教えそのものを実行していたと言う事だ                         
ろう。私が子供の頃、母は朝起会以前に、弁天様を信心                         
していた。一回り下の末の妹が産まれた頃、母が詣って                         
いる間私も子守の為茨木まで一緒に行った。何を念じて                         
いたのか「お百度」参りもしていた。その当時の母の心                         
情は分からないが、祈る事が「救い」だったのだろうと                         
思う。思い出すのは、その頃急に食事前に母が「一粒の                         
米にも万人の力が加わっております、有難くいただきま                         
す」と言うようになった事。私が今もその事を憶えてい                         
るのは、その言葉の響きが新鮮だったから。                              
  悠久親王御誕生「伝統の力」    
   
かさまれり 悠仁(ひさひと)親王 御誕生  
       恩師 喜寿に わたし 還暦 ”    

                          
後年というか近年「いただきます」の語源の事を自分なり           
 に考えた。「万物の生命をいただく」それはイタミを                         
共有し、自分のこの生命の継続の為に、犠牲となった生                         
きものへの感謝の詞と
思惟した。それが心臓の前で手を                         
わせる行為となった。その「手を合わせた」状態は「                         
山」の神と同形。我々の食前に上る迄には万人の力(米                         
を作る人、運ぶ人)も欠かせない。自分ひとりで何が作                         
れる?と考えて、「自分一人から」の時代に遡ってみた                         
い、歴史が作れるヨ。                                        
でもそんな遥かな時が確かにあり、現在がある。                            
                                          
 その恵み育む太陽神、天照大神(アマテラス)に感謝                         
を捧げる斎主(国民の代表)が天皇です。 
                              
その辿った歴史の始めには神武天皇がおわします。                           
日本国建国の祖です。今から二六〇〇年以上も前の事、                         
その連綿なる彼方(あなた)からの万世一系の血筋を受                         
け継がれた御親王が昨日(九月六日)誕生されました。                         
日本国民として心よりお喜び申し上げます。                              
 今年の初旬頃、国会中継中に紀子様ご懐妊の「メモ」                                           
を示された時の小泉首相の表情を忘れる事が出来ません。                                         
それは「皇室典範改正」がまさに国会の議題となろう                                            
としていた時期でした。この流れを押し返したのが、

目には見えぬ「伝統の力」です。                                   
世界の何処にもない、誇れる日本文化の最たるもの
。                                                                 
  縄文以降の弥生時代から外来文明を取り入れた日本で                         
も、適性なる取捨選択を為して来た。                                 
多くの支那文化移入の中、人間性を無視した「纏足(て                         
んそく)、宦官制度」等は取り入れなかった。                             
 しかし、明治から又先の大戦の敗戦以降日本は合理性                         
の名の下、西洋文明に凌駕され、家屋様式は言うに及ば                       
ず、数多くの日本文化を捨てて来た。私もその西洋文明                       
の異文化を自分のものとして生きてきた戦後生まれであ                       
る。だが、オモチャ箱の並んだ様な家並み、美麗な三層                         
住宅ばかりが増えて行く中、昔の甍の様な瓦葺き住宅を                     
探している自分に気付く。あれは「通過点」だった、西                         
洋をくぐり抜け「日本」に戻っているのだと思う。それ                      
は脈々と受け継ぎ息づく私の遺伝子の為せる業だろう
。                       
壊す事はいつでも簡単に出来る。家屋なら又、元に建                         
て替える事も出来る。                                        
 しかし、積み上げること、一年、二年ならいざ知らず
2600年という途方もない年月の積み重ねは途切れ 
させればそれで終わる、又一からの始算となる。    
その年月の中に私達祖先があり、それが日本民族である 
。理屈ではない。それが敗戦迄一度として他国から侵略 
された事のない国柄とならしめてきた。        
 途切れさせなかったその年月の「重み」が、第二次世 
界大戦で敗戦した日本にあっても、天皇家を存続ならし 
めた。
アメリカ占領軍の容易なる日本統治の為、それが 
白洲次郎にマッカーサーを天才と言わせた所以でしょう 
振り返れれば難事、難事を乗り切った日本国の、この 
度の親王様の御誕生でした。
             

 昭和21年生まれの私は今年10月31日で満60 
才になる。赤ちゃんに戻るいう謂れから、赤い帽子とチ 
ャンチャンコを着て還暦を祝う風習が日本にはある。「 
その時」には私も赤ちゃんになって、「オギャー!」と 
生まれ変わり、親王様と同じ歳を生きて行きましょう( 
笑)。                       

 現在の又、これからの科学文明を考えれば「男女産み 
分」も可能とか聞く。時代は「日本存続」の為、推移し 
つつある。憂慮するなかれ、「いいものは取り入れる」 
賢き先人に倣い。                                                 2006/9/8 13:00                                      ──────────────────────────            

    生命の咆哮』                                       (「獣が吠える」という意)                         
     「心の貧乏人」 

 愛媛県今治市で中学一年男子が苛めを苦に自殺した。                           
クラスメイトから「貧乏」「泥棒」と言う言葉を浴びせ                           
られた果ての決行だった様だ。可哀相になぁ。                               
 いじめられて、殺された、と同一であり「いじめた人                           
間は殺人犯だ」。それで何故誰も捕らえられず、罰せら                           
れないのか?おかしいんちゃうか!                                    
 大体「貧乏」はその子のせいか?自分が大人になって                           
貧乏で自分の子供が同じ様にそう言われたいんか?                             
それに貧しい子を見たら、自分は恵まれていて幸福と、                           
なんで思われへんねん。それを、本当の貧乏と言うの、                           
心の貧乏人。「貧乏」の定義には、物をもたない貧乏と                           
、心をもたない貧乏、と二通りある。それは自分がどう                           
思うかであり、他人が一々言う事ではない。                                
 人に「貧乏」と言う時は、自分は「心の貧乏人や」と                           
言うてんのと一緒や、と覚えとけ。                                    
 悪い事して儲けた「金持ち」より、「貧しく」ても心                           
正しく生きているのを、すばらしい人間という。                              
 これが、日本人の道徳観。                                       
 そして、有名な言葉がある。『お金をどう儲けたかと                           
言う事より、お金をどう使ったか、が評価される』                             


「いじめ」が無くなる様に、「いじめた人間は殺人犯だ                           
」という責任を自覚させる意味で、苛めた側が未成年の                           
場合でも、その者の名前を公表する。殺人者に制裁を加                           
えない事自体、尋常ではない。責任を問われないから、                           
いじめが無くならないのだ。 
          *                           
           *                                        
 先日の女子高生がクラブの教室で殺され、同高の男子                           
生徒が「指名手配」されたが青いバイク以外何の情報も                           
開示されず、少年法の不備が犯人少年の居場所(遺体)                           
発見をも遅らせた結果となった。いじめ事件、この事件                           
を踏まえて「少年法」の見直しを提言する。                                

            *
  ”中国 「大地の咆哮」 農民へ                           「草の根無償資金協力」 ”                                                             
   ”日中の 友好祈念に 絶筆や                             病魔が抉(えぐ)る  生命の咆哮 ”  
                                                              
  先頃亡くなった杉本信行氏の「大地の咆哮」を読んだ 
。昨年「国を売る事を出来ない」という遺書を残して自 
殺した上海領事館の上司にあたる人だが、杉本氏もその 
部下が亡くなった2004年に一時帰国した折の検査で 
自身のガン病巣が発見され、この本は【抗がん剤の副作 
用で頭が朦朧とする中、痛みを抑えながらも家族、友人 
、関係者に後押しされ乍ら……「あとがき」より】   
そのガンと闘いながら「日中友好」を祈念して書き上げ 
られた。 
                     
 氏の精力的な行動の一つを紹介すると、ランドローバ 
ーを駆使して中国を走り抜け必ず現地を見る。(特に貧 
困地帯への出張を重ね)その上で現地の人の要望を聴く 
。氏が北京経済公使として赴任して以降の「草の根無償 
資金協力」は、【それまで中央政府を通じ出されていた 
要望の案件を地方政府から直接要請出来る様にした。  
既に500件以上実績を持ち、それぞれ地元の人達から 
大変喜ばれ、地元政府が進んで大きな石碑やモニュメン 
トを立ててくれ、その効果は絶大だった。     
  
 
    「中国農民の実態」
 これらは一件に付1000万円迄のプロジェクトであ 
る。10億円以上の大プロジェクトより広報浸透度から                  えばこの「草の根無償資金協力」を中国全土に拡散し                 た方が良いのではないか。(100件分になる)】                                                                         円借款」にしても無償資金協力同様、案件の選択権                 を中国側から日本政府の意向が反映するロングリスト方                 式(地方政府の要請を主とした)に変更してから自主的                に『これは日本政府の円借款によるプロジェクトである                  』という看板が設置されるになった。                             
例として、地方の小学校建設要請、現地を見ると電灯              もない様なところが殆ど。中には校舎に天井が無く空が 
見えて、いつ崩落してもおかしくない学校もあった。               
此処では1000万円でコンクリート製の立派な3階建              校舎が建設出来た
。これらの要請時にはいつも、『日中               友好』の看板を付けるなら優先します、と呼び掛ける様                 にしている。(これまで300校建設)
 医療施設も同じで「『日中友好』を付けて下さい」と                   頼むと素直に名称を変えてくれる所もある。豊かな都会 
とは違い、政府の搾取に難儀している地方の農村が快く 
要請に応じてくれるのは、我々の励みになっている。  
そしてプロジェクトが完成する度、中国のマスコミを連 
れて行き報道してくれる努力も怠らなかった。
】    

『 現地農民と日本、両方の利益向上に与した手法は、誠 
にお見事でした。この杉本氏の現場主義は全ての官僚、 
公務員が見習わなければならない。』          

外貨準備高世界一となっている中国なのに、地方に回 
れば簡易浄化設備すらないのはおかしいと訴えれば、中 
国の軍事費配分等の予算優先度を変えさせる力(呼び水 

)となるだろう。一件何十億円の無償プロジェクトを止 
めてでも、中国が本来やるべき事を怠けている分野、  
例えば初等教育、環境保全、医療分野、貧困対策に1件 
1000万円迄の日本からの「草の根無償資金協力」を 
拡大させるべきである。これを中国全土に拡げて行く事 
で初めて中国が反論出来ない問題提起が出来る。環境対 
策も待ったなしで、「日本の環境問題」として対処しな 
ければならない。酸性雨、土壌汚染、ゴミ問題………】 

人口の7割が農民と言われる中国に於いて、地方の農 
民は戸籍上から都市住民とは差別され「農民戸口」の農 
民は社会保障の恩恵は何ら受けられず、それでも税金は 
徴収される。
                    
もっとひどいのは農地を手放しお金が底を尽いた農民は 
都市の上海へ出てくるが、その扱いは暫留許可証を持つ 
「外地人」となる。難民扱いである。学校等も掘ったて 
小屋に裸電球ひとつという教室で90人が授業を受けて 
いる。それでも誰もが行けるわけではない。
      
上海市の公立学校と比較すると、言葉を失う程の情況で 
、この子供達の色んな意味の格差は将来恐ろしい社会問 
題として浮上してくる様な気がしてならない】 
    

    『文革は「失われた教育」の10年』     
【「農民に学べ」とスローガンを掲げた文化大革命を実 
行した毛沢東は農民出身だったが、農民に対して愚民政 
策(農民に知識を与える事で彼らが蜂起するのを恐れた 
)という、生かさぬよう、殺さぬよう管理した
。故に  
農民の教育が切り捨てられているのは、共産党が毛沢東 
の精神を連綿と受け継いでいる証といえる。】     

 この文革に関して、                
「文化大革命」時代の遼寧大学は「勉強は机上空論、 
真の勉強は労働者の身となって学ぶべき」と工場、農村 
実習をすること
だった。「白紙答案」思想の馬鹿な方針 
のお蔭で学生は勉強をせず、文革は「失われた教育」の 
10年間でもあった。まともな教育を受けなかった人達 
その後各方面で本当に使いものにならなかった。   
 例えば、現在の中国大使、王穀は10年上くらいの上 
司を飛び超え大使になっている。全分野で文革教育世代 
の人達が排除されており、文革は中国にとって大損失だ 
った。】                      
 以上、【 】内「大地の咆哮」から引用した。    
            *             
『 その文章を読みつつ、故人となった作者故に却ってそ 
れは生きた鼓動の如く波打つ。そして、杉本氏の外交官 
としての使命感以上に、虐げられた人々への熱い想い、 
正義感が伝わってくる
。こういう人こそ、もっと生きて 
然るべきなのに寿命というのは、なんと無慈悲であるか 
。もっと生きて、中国の大地に「草の根」を殖やすこと 
が出来れば、本当の日中友好が築けたかも知れない。  
かけがえのない、惜しい人を失くしました。      
 杉本信行氏の御冥福心よりお祈り致します。合掌。 』 
             *            
『 毎日農民による暴動が発生している中国の実態。その 
不満のはけ口の為、「抗日教育」を導入したのが江沢民 
政権に続く現在の胡錦涛政権。最近の報道によると南京 
虐殺館に加えて又新たに100数ヶ所に抗日館を造る計 
画だとか。そんなごまかしで中国農民の「生活」の改善 
が促進出来るものではないでしょうに。 
 』      
     2006/9/9 18:55              
──────────────────────────
 中比較論(明治天皇と光緒帝)        

 「紫禁城の黄昏」の作者R・Fジョンストンは、 
清朝皇帝溥儀(のちに宣統帝)の家庭教師を務めた人物 
だがその著書の中の溥儀の父親、光緒帝に関して。   
【光緒帝は1870年に誕生し5才で皇帝継承。19才 
で結婚した1889年から「1898年」の9年間は西 
太后の「干渉」を受けながらも事実上の清国シナの統治 
者だった。この干渉の悲劇は日清戦争に至る迄の諸事件 
に関するもの、この戦争に於いてのシナの脆弱さを世界 
中に露呈させた。                  
「1898年」光緒帝は、近代の賢人と言われる康有為 
(後に死ぬまで西太后に命を狙われる)を後盾に紫禁城 
の内務府の改革に取り組んだ
。全て満州人で占められて 
いた宦官中心の内務府は<王朝の生き血を吸う吸血鬼> 
といわれ、既得権益を守る事が存在目的で10人で1人 
分の仕事をし、20人分の給料をふんだくっていた。  
まさに王朝崩壊の最も深刻な要因だった。
(我が国の「 
官」も思い当るところがあるのでは?)        
 しかし、袁世凱(えんせいがい)の裏切り等から改革が発覚
以降から光緒帝は38才で死ぬ1908年迄西太后に紫禁城内に 
幽閉された侭、その生涯を終えた
。          
 若し改造計画が成功していたら、以後の義和団事件も 
発生せず、シナ国民にとっても繁栄と進歩の時代として 
シナ史の記録にその名を留め、同時代の傑出した日本人 
に匹敵する様な名声を残せたかも知れない。      
 その日本人とはその治世下日本が素晴らしい改革と発 
展の時代を迎えた明治天皇である。日本の「明治時代」 
は、シナの光緒帝が龍の玉座に即位する僅か7年前に始 
まり、皇帝が哀れな最期を遂げてから4年後に終焉され 
た。】(以上、「紫禁城の黄昏」訳中山理氏、監修渡部 
昇一氏より)                    

 先程の杉本信行氏著の「大地の咆哮」に、【トロイの 
遺跡発掘で有名なドイツのハインリッヒ・シュリーマン   
は1860年代に清代の北京、上海に続き幕末の日本を 
訪れ「シュリーマン旅行記」を記した。        
1800年初頭の中国は世界のGDPの30%を占め、 
1860年当時も我国のGDPの数十倍あったと推察さ 
れる。処が中国に入って感じたのは「不潔さ」、何もか 
もが汚く触りたくない
。北京の故宮も手入れが悪くひど 
い有様だったという。                
 日本に着くと、日本人は清潔好きで風呂好き、毎日着 
替え、道路は掃除が行き届き、家畜までもが綺麗で中国 
とはまったく異なる。
武家屋敷は手入れが行き届き、日 
本庭園の素晴らしさ、文化水準の高さに舌を巻いたと書 
き連ねている。又、官吏の賄賂「袖の下」のことに関し 
てもどこでも一切拒み
、「むしろ彼らはお金に換算され 
る事が、自分達の行為を汚された様に受け取っていた
よ 
うだ」と述懐し、彼らが公務に忠実である事に誇りを持 
っていることに、シュリーマンは驚き非常に関心を示し 
た。            *           
 中国の環境、衛生、官吏の「質」等の問題は、単に現 
在の中国共産党の体質によるものではなく、根深いもの 
があるという事を、このシュリーマンの日中比較論は示 
唆していると思う。】                

「お金に換算される事が、自分達の行為を汚された様に 
受け取っていた」「彼らが公務に忠実である事に誇り」を感じ 
、日本人のこの行いにシュリーマンは驚き非常に関心を 
示したのは、その行為の源は何処にと思わせたからでし 
ょう。結局教育、その頃なら「武士道」という教えを子 
供の頃から身に付けさせた事。            
 昭和の初め頃も「日本人は貧しいが、高貴だ」とフラ 
ンスの詩人が言った。 
               

 戦後の日本人はどうだろう?以降のレッテルは「エコ 
ノミックアニマル」の集団、経済大国と言われて現在に 
至っている。近年の外国からの観光客は日本人を見て「 
眉をひそめる」
と報道されていた。「こんな日本に誰が 
した」です。どの辺から間違ってきたのか、一度戦後の 
歩みを振り返る事が必要でしょう
。          

 先程の日中比較に関して、その時の国の状況「豊かさ 
」に差がある。先述の「不潔だ」と言われた「1860 
年代の清のGDPは我国の数十倍だったと推察される」 
とある。儒教発祥の地であっても、その頃の清は既に「 
美徳心」が失われていたと言うことだろう。      

 しかし、国柄とも思える。陳舜臣著の「空海求法伝・ 
曼陀羅の人
」の中に、【唐代の徳宗帝治世下(797年 
<名は宮市なれど、其の実は之れを奪うなり>と史書 
も評している略奪といえる「宮市」なる制度があった。 
「宮市」は「白望」(無料を表す意)
とも呼ばれ、内侍 
者の宦官が宮市使に任命され長安の東西の市で宮中で必 
要な物を提供させた。当時両市に数百人の「白望」を置 
いていたという。】「宮中で必要」という名目の下、宦 
官私物流用もあったろうし人民の生活は貧苦を極めた。 

 部分部分で拾う各時代の中国を知れば、末端の人民はい 
つも捨て措かれるという印象を強くする。       
「広大な国の治世者の悪徳智慧」としたら、なんと不幸 
な中国人民でしょう。 
               
             * 

       「挨拶用語」           
 この現在にも世界には物が無い国がある。そんな国の 
人の方が「分け与える」事を知っている。物のない「痛 
み」を知っているからその事を共有出来るのだ。    
思いやり、慎み、いたわり等は、そんな生活上に芽生え 
た感情だろう
。私は仏教徒だが、その意味でイスラム教 
の断食儀式は生の原点を忘れさせない素晴らしいものと 
思う。人間は決して「忘れてはならないもの」を持つべ 
きなのだ。それほどに、人間は愚かだから。      
都合の悪い事はすぐ忘れてしまう。          
 しかし、その物の無い「痛み」は太古の原始時代、人 
類の祖先誰もが体感したことだろう。         
日本の「いただきます」は「忘れてはならないもの」の 
原点の行為
である。                 

 基本的な「挨拶用語」おはよう、おやすみ、いってき 
ます、ただいま、それ等は言う相手が居て成り立つ。
  
それが当たり前になると、一人の時にはそれが言えない 
、言う相手がいない事に、気づく。そんな時相手の「存 
在の大きさ」を知るだろう。家族関係の基本、まずこん 
なところにあるのではないか、と想う。        

9/12(火)「三つ子の魂百まで」(三才迄に教えら 
れたことは、百才になっても忘れない)という諺がある 
様に幼少の頃からの躾は、それが「当たり前」として育 
つ。「挨拶・感謝用語」も意味が解らなくても、それが 
身に着き、自身の「体」(態)となる
。「痛み」が遠い 
国の如き現在の我が国であれば、又あればこそ「挨拶・ 
感謝用語」「礼儀」「公徳心」の基本を取り入れる教育 
を導入(母子手帳にそれらを列挙する等)すればと思う 
。何にもしないよりは、マシだろう。         
このみっともない、醜くなった日本を少しでも昔の「美 
しい日本」にしたいものだ。
             

 その後の小学年になれば、「公徳心」を第一義に据え 
る教育を行なう。簡単に言えば、自分のゴミはごみ箱へ 
捨てるのは当たり前等、個人の行いが及ぼす迷惑行為を 
排除させる為、それが人間として恥ずかしい事なのだと 
いう意識を啓育する
。(自由を履き違えた「自分勝手」 
というのは、それら最低の社会生活上のルールを守って 
こそ享受されるものである事。)           
 
          『親日の台湾』

9/14(木)今朝の産経新聞に「日本と教育と私」が掲載されている。  
この9月の訪日が延期になった台湾の李登輝前総統がその時の講演の為の原稿の内容である。今日が第一回で、その中に【四百年以上の歴史を持つ台湾 
でも、自分の政府もなければ、自分の国を持っていない悲哀を持った民族で 
ある。その人生で二十二年間の日本の教育、戦後の中国の大学教育、又留学 
でのアメリカ教育の内、日本教育に依って己れの生命と魂を救う基本的な考 
え方を得る事ができた
。日本という国の植民地でありながら、台湾は(世界 
でも例のない)日本人と同じ教育を与えられたが故に非常に近代化した文明社会が作り上げられた。武士道精神に根ざした実践躬行の日本精神を日本人本来の価値観として今一度想起してほしい。               
 日本文化の優れた精神性と美学的情緒を何とか外国人や、若き日本人に伝えたい。「日本の若者、そして国づくりのためにお役に立ちたい」】とその 
真意が掲げられている。                        

 中国の介入と思われる妨害のお蔭で台湾李登輝氏の訪日がままならない。中国は大きな国なのに、なんと肝っ玉の小さいことでしょうね。泰然と構え て見過ごせば、世界も中国という国に一目置くでしょうに、中国はただの弾 
圧国家でしかない。だから台湾に「一緒になるのはイヤ」と言われるのです 
よ。なんにも解っていない。いや、わかっちゃいるけどヤメラレネーですか 
?やはり中国は「お呼びじゃない」でーす。  
             
     
      
 「犬が去って豚が来た」
 先述の「大地の咆哮」の中にも台湾の記述がある。           
杉本氏は1993年から3年間財団法人交流協会台北事務所の総務部長とし 
て赴任している。その中に【どの赴任地より台湾ほど親日的な場所はない。 
日本統治50年に依る文化的繋がりが深く、日本の風俗、習慣が浸透している。台湾はスペイン、オランダ、鄭成功(明の遺臣)に支配され、その清朝 
が版図に入れ開発を試みようとしたが10年も経たずに日清戦争が勃発し、 
1895年勝利した日本に割譲された。その時台湾人には、日本の統治下に 
入るか、中国大陸に戻るか、の選択の自由に依り大半は台湾に残り「日本人 
」になったが、元々には中国から渡った人が多かった。          
 台湾は、中国から「化外の土地」として見捨てられていた島に、日本がゼ 
ロから近代都市を建設した。
(土地開拓、ダム、潅漑、インフラ、学校建設 
農場等、日本からその指導者をどんどん送り込んだ)就学率は0から70% 
以上となった。】                           

【「犬が去って豚が来た」1945年日本が敗戦し、「祖国復帰」という事 
で台湾統治する国民党軍の上陸をドラや太鼓で歓迎した。しかし、中華民国 
の兵隊は敗残兵に近く、鍋釜を背負い靴ではなく草履を履いて貧弱な武器装 
備だった。                              
 規律正しく近代化されていた日本軍とは逆に、彼等には教養が無く規律も乱れ、台湾人の財産を没収するなど、略奪の限りを尽くし幻滅した。    
その不満が2年後、闇煙草<2・28>事件(闇煙草売りの老婆を摘発隊が 
殴打し、それを群衆が抗議、その群衆に隊が発砲、死傷者が出た。     
これをきっかけに28日暴動が発生した。                
これを取り締まる軍隊が投入され、その後全島で大学教授、医師、弁護士等 
の知識分子を中心に本省人約28000人が虐殺されたとされる。     
 本省人は、日本統治時代から、中華民国になった事を「犬が去って豚が来 
た」
と気持ちを表現し、犬はキャンキャン吠えて煩わしいが家を守ってくれ 
る、豚は何もしないで、ただ食べ散らかし周りを汚し回るというわけだ。  
           
            「台湾人の悲哀」 
               
 その後1949年大陸から台湾に亡命して来た蒋介石の国民党政府は全島 に戒厳令を布告し、翌年には大陸反攻を目指し国内内乱を平定するとして動員戦乱臨時条款で憲法で保障される、すべての人権を国民から奪った。   
これにより、所謂「白色テロの時代」が30年間、1980年代迄続き
台湾を支配した
。そうした事実、李登輝前総統が言った「台湾人の悲哀」
大陸の人々は知らされていないし、認識しようとしない。そこに大きなギャッ 
プが横たわっている一因がある。統一するなら「自由、民主、均富」が大前 
提である
。】                             
そして杉本氏は忠告する。【日本教育を受けた70才以上の本省人は日本に 
親近感をもっている。しかし、戦後は外省人による中国人意識を植え付ける 
教育、日本と繋がりを断つ反日教育が行なわれ、戦前世代と比べてそれほど 
親日的とは言い難い。日本の台湾への反応に依っては若い世代の日本に対するイメージが悪化する要素を含んでいる。】              

 こうして見てみると、中国が台湾を統一と言った処で、元々中国が「化外 
の地」とし見捨てていた島。そこにゼロから日本が全てを築き上げた。   
中国政府は何か台湾に寄与した事があるのか、なのに統一する権利があるのか?と問いたい。台湾の人が統一を望むならいざ知らず、そうでないなら、台湾を独立国と認めていいのではないですか。
              
             2006/9/16 0:45               


 2006/8/15(火) 『小泉首相、靖国神社参拝』
 昨日に続いての「NHKスペシャル『日本のこれから』」があり、私も夕食の支度が終わった8時過ぎから観た。インターネット上でアンケート調査がある事を知り、夕食を食べながらアクセスし、真っ先に「靖国神社参拝」の件でメール文を打ち込んでいたが、途中で画面がフリーズ状態になり、電源をダウンさせて再度やり直そうとした。が今度はパソコンの電源が入らなくなり、コンセントを抜いて再々度やり直す。電源が入っても又フリーズとなり、結局メッセージを流せぬままだった。以前からよく私のパソコンはこういう状態になっていたが、今日の事でパソコンウイルスの発信元は「反日」の人間と確信した。因みにそのNHKのアンケートに打ち込んでいた内容は【靖国神社参拝に賛成です。小泉首相の自民党の総裁就任時、何があっても絶対に8/15に参拝すると言う公約を果たしたのですから。】という内容です。(続けると)
そして、それ以降の衆・参院議員選挙で自民党は圧倒的多数を獲得し、その靖国神社参拝の民意をも得ました。
今日参拝後の小泉首相の言葉にあった様に「いつ行っても文句を言われる」、結局は【こうなるべくして、なった】8/15に参拝という原点に立ち返らせたのは、近隣国が小泉首相の心配り、心遣いを無視した故の必然的結果でした。
8月15日というのは終戦記念日であり、国の行事として千鳥が淵無縁墓地、武道館では戦没者追悼式典があり、勿論小泉総理大臣も参加されています。又、全国各地の神社等で追悼集会が行なわれています。
 戦後ずっと、当たり前の事として歴代の総理大臣は靖国神社を参拝していた。

     ”A級戦犯”が合祀後参拝も中国大歓迎』
(<註>靖国神社のA級戦犯合祀は昭和53年10月)

 以下は、博識で世界情勢分析確かな桜井よしこ氏の産経新聞平成18年5月21日付『首相を選ぶのは誰か』欄より、
 【靖国神社にいわゆる”A級戦犯”が合祀された後、
大平政芳首相がその年の靖国神社の春と秋の例大祭、次年の春の例大祭に
参拝した。国内のメディアは合祀と参拝について執拗に報じた。
そして、昭和54年12月、首相は夫人を伴って訪中した。その時、中国政府は、熱烈大歓迎したのだ。12月7日の「共同新聞発表」には大平・華国峰両首脳会談が「極めて友好的な雰囲気の下に行なわれた(略)」「満足」「友好」「高い評価」「深い感謝」などの言葉が散りばめられた新聞発表は、大平訪中への中国の熱烈歓迎振りを手に取るように伝えている。】

 このように、中国は政権に依って一変する。だから靖国神社参拝反対はただの方策に過ぎない。この小泉首相が示した日本の毅然さが、やがては中国側に「面子を潰されるマイナス効果だけ」という事を認識させる事でしょう。

 続けて同じく産経新聞平成18年8月10日付桜井よしこ氏の『小泉首相に申す』欄より【日本の国家としての成立は、キリスト教文化圏のヨーロッパがイスラム教圏と対峙する形で誕生したように、中国と対峙する形で始まった。(中略)中国は対中武器輸出の最先端を走るロシアと冷戦の再来を想起させる対米対立軸構築中である、昨年7月の上海協力機構の首脳会談で中央アジアからの米軍基地撤退を求めた。
 新たな冷戦の兆しは海洋、日本周辺海域での中国膨張ももたらしている。中国が東シナ界の日中中間線付近の白樺(中国名春暁)ガス田で、いつでも全面的な生産開始に踏み切る事が出来る現実状況にある。
 中国の実質的支配は日本海にも広がりつつある。
北朝鮮の最北の港、羅津の50年にわたる租借権の入手。
中国は日本海への出口を得た、必ず自国の内海としようとするだろう。
真っ正面から日米を分断し、日本の孤立化をはかる
日本の打つ手はただひとつ。中国との対立の中で国家のとしての基盤を確立した遠い祖先の知恵と勇気を想い起こしてほしい。
指導者が対立を恐れ自身を喪失するとき、国民は支柱を失い、国家は確実に滅びていく
。(略)
 小泉首相8月15日、全き形で靖国神社参拝を果たしてほしい。
そうして初めて国家の基盤を堅固ならしめた首相として歴史に名を残すことになる
。】
 以上、抜粋。

 本当に実質的【自民党の解体】【不良債権処理】【郵政解散】と共に、
今日【8月15日靖国神社参拝】は歴史に小泉首相の名を留めました。
 のちのち国民が小泉首相を想い起こす時、【信念貫徹の人】と仰がれることでしょう。

 桜井よしこ氏指摘の先人の知恵と勇気、に関して私見、
聖徳大使の【和を以て貴しと為す】の精神を、近隣国に訴えたい。
和を重んじるには、お互いを尊重しあわなければならない。お互いの国の文化を。そして、韓国、中国は、日韓、日中国交回復文書をもう一度よく見直してその原点に戻る事。国交回復するという事は、紛れもなく過去を清算した事を了承して成り立った、のである。そして、「A級戦犯」が処刑された「東京裁判」を日本が受諾した講和会議参加の署名30数ケ国に、中国、韓国は含まれていない。(署名国以外はこの件に口出し出来ない、という条項がある)
 以降の総理大臣も小泉首相を見習って、
同じく聖徳大使の【日出る国の天子より、日沈む国の天子へ】の、気構えで国の法を改め国民に国家意識を覚醒(この欠如が戦後教育を受けてきた現在の経済界の中枢を占める人物達の「国家利益より企業」優先意識を育んだ。)させ、靖国神社参拝継続は勿論、北方領土返還を実現して頂きたい。

あの戦争」が示した事のもうひとつは、ロシア(旧ソ連)が日ソ中立条約を
破ろうが、何をしようが勝てば看過され、許されているという事。

ロシア人はその事を知って北方四島を返還しないと言い張っているのか。
満州から40万人の日本人がシベリアに連行され、極寒の地で強制労働に
従事させられた事も。

 こういう事を世界的に提示すれば、きっと許される筈がないと想う。
子供達に「約束は破るもの」と教えろ、と言うのか。

 日本の戦後「復興」は、まだ終わってはいない。
 
      2006/8/16 5:00

8/16(水)『「日中史観」等の見直しを』

 メディアもこれまで靖国神社やA級戦犯は取り上げてきたが、「東京裁判」を取り上げ出したのは、つい最近の事と思う。この不当裁判から「日中史観」の見直しをする為にも是非、「東京裁判」の件では、講和会議時の署名文は<accsept the jadgments>「諸判決受諾」としているのに、日本では「裁判受諾」と明らかな【誤訳?】をしてきたという事を指摘された上智大学名誉教授渡部昇一氏や、「南京虐殺はなかった」という著者の東中野修造氏をテレビに招聘して、その真相の実態に迫るべきです。
 この「東京裁判」をうやむやにしてきた事が、戦後史の間違いの始まりと思うからです。
       2006/8/16 11:30

2006/08/14 「NHKスペシャル『日中戦争』を観て」
 昨夜8時からのNHKテレビ「NHKスペシャル『日中戦争』、途中からだが観た。
テレビの映りが悪く中国語のの日本語訳字幕スーパーが見る事が出来なくて
残念だったが、「南京陥落」時の欧米人の安全委員会の場面は、事実に反する。
是非とも亜細亜大学東中野教授の【欧米人の安全委員会から「砲弾を使わなかった」事の
感謝の書面を日本軍へ贈った事】の言及が欲しかった。。
 それにしても、「日本軍が南京に入城した時、中国軍の軍服が道路に脱ぎ捨ててあった。」
「民間人の服を着て民間人に混ざっていた」のは、日本兵を油断させる為、だけだろうか?
軍閥割拠するなか蒋介石軍がソ連、アメリカの応援を得たい為の「日本軍の悪行」宣伝の為と言えなくもない。
現にこの先の結果的に,戦時法における「(軍服を脱いだ兵隊)民間人殺戮」=
南京虐殺となった。
しかし、その数は6634人とある。
GHQの占領下のラジオ放送「真相はこうだ」の中の
南京虐殺者数は2万人だった。
現在中国はその数一桁増やし、勝手に「数字は踊る」
である。

 【戦時法とは、国と国の戦争における殺人については、その責は問わない】
なのに、日本軍の南京虐殺だけが問題にされてきた。
そのお蔭でアメリカの【原爆投下行為】は、全然問題にされて来なかった。
民間人殺戮という大虐殺者数などは、その比ではなかったのに。

 日本軍の【満州国建国】に関しては、イギリスのジョンストン氏の著書「紫禁城の黄昏」を見れば、
清朝最後の皇帝溥儀(宣統帝)が憑玉祥軍(クリスチャン将軍)に追われ、日本の公使館に助けを求めるため
奔走したのがこの著者である。天津でのこの7年後に満州国は日本の支援の下、建国されるが、
この件に関して、白州次郎氏の著書の中に【日本語の話せる満州人の満州国建国希望を全満州人の
総意と思い込んでしまった、と外務省の要人の言葉】に言及した箇所がある。
 このように何事も「軍独走」で物事が運んだのではないのだ。

 この種の放送で気を付けなければならないのは、自分達の知り得ない事だからこそ、
数多くの書籍、文献等を読み解き、その両極端になるかも知れない歴史観をも取り上げる事。
そして、敗戦国の日本故にこれまで封印された言葉、おもいを紹介して欲しい。

【力が正義】である。勝ったものが歴史を作る。
これまでも、これからもそうである。
「歴史に学ぶ」のは、それのみ、残念なことに。

話は変わって、例の「富田メモ」の検証の為、それに関する全資料の開示を日本経済新聞社に
要求する署名運動をインターネット上でやっている団体があります。
私も一票投じましたよ。
        2006年8月14日 17:33:04


2006/8/9(水)                        
   『大阪大空襲』
 
”雲が飛ぶ B29(戦闘機)の 夏しらず ”            

 昨日、ペーパーマガジンbX2号をワープロで打ち           
込んでいて、牛乳のないのを思い出し急遽自転車で出           
掛ける。夕空には雲がポツ、ポツと点在し、見ように           
よっては小型飛行機に見えなくもない。                 
 いまから61年前の夏、大阪にも大空襲があったと           
いう。「恐かった!恐かった!」と戦後の一時期、            
よく母から聞かされた。                        
  ”母逝くも 食事の度の 戦 窮 話 ”              

 そんな事を想像出来ないような現在でも、その頃の           
母の切実な戦争感は、私から離れることはない。             
いや亡くなって、却って、極端に言うと母の思い出は           
それしかない、と言える程のものとなった。               

 昭和40年に亡くなった父からは戦争の話を聞いた           
事がない。(会話らしい会話を交わしたことがないか           
ら)しかし、父は防空壕にも逃げなかった、と母から           
聞いた事で、「父の想い」を想像出来る気がする。            
 当時の、両親、日本人すべて、                    
  ”張り裂けそうな空 敗戦の哀しみ”                
           *                       
  度許すまじ原爆を』                
 61年前の8月6日に広島、同9日は長崎にアメリ           
カ軍から原爆が投下されました。以前テレビでその時           
の情況を語っていた人の言葉が忘れられない。【元安 
川は真っ赤な血の色となり、数えきれない被爆者の死 
体が次から次へ流れて来て凄惨を極めた。しかし、同 
じ状態に終いには見慣れてしまった】。       
 人間の<慣れ>の恐さの典型。          
メディアからの情報は<慣れ>を助長させる。    
事件報道の<慣れ>が、犯罪者の罪悪意識を薄弱にし 
ている。子供と一緒にテレビを観る時は「殺人」関連 
の番組は見ない様、親が気を付けたいものです。   
           *             
 戦後に流行った歌 ♪ああ、許すまじ原爆を!   
三度(みたび)許すまじ原爆を! われらの国に♪  

 8/8の石原慎太郎氏の「日本よ」に【北京五輪以 
降の中国経済が破綻した時、中国は日本に軍事行動を 
起こす】という様な内容の記事が掲載されていた。中 
国首脳部の靖国神社参拝説より、軍事行動の方がずっ           
と可能性大だろう。その為の近年の中国の軍拡とも言           
えよう。                               
 三度、許すまじ原爆を!の為には、日本はどうして
おくべきか?万一の備えだけは、           
国家の責任に於いて、為して置いて下さい。                    
            *                      
 『何故?教えぬ「東京裁判」』            

 ”A級の戦犯 靖国神社 知り                    
       「東京裁判」知らぬ 日本人 ”             

 ”日本人 全員無罪と 主張せり                   
     「東京裁判」 パール.判事 ”                 

 ”国際法 違反の 「東京裁判」で                  
      絞首刑さる A級戦犯”                  

 ”「侵略」と 「A級」処刑の マッカーサー             
  「自衛戦争」と のちに 証言                  
                                       
”きょうの青(せい) 史実おおいて 紛(まが)いくも ”           
            *                      
 8/7「タケシのテレビタックル」で「東京裁判」 
を知っているか?
のアンケートに、゜
【知らない】70%の内、20代が90%を占めていた。       
この様に戦後教育というのはGHQの置土産その侭を 
後生大事に伝達して来た。だからあの広島の原爆慰霊 
碑文になる分だ。                 
            *            
 「GHQの占領政策」    
【占領軍が東京入りした時、日本人の間には戦争贖罪 
意識は全く存在しなかった。驚いたGHQは日本人に 
戦争の罪悪感を植え付けるための宣伝計画を開始
、  
「真相はこうだ」というラジオ番組を放送させた。  
南京虐殺「2万人」と放送したがその内容は「グロテ 
スクでおどろおどろしく、子供だましという印象」だ 
った                       
。「台本はエール大学出身の将校が書いた。この番組 
に対する日本人の抵抗が予想以上に激しく大きかった 
(20週放送予定が10週で打切り)のを見て、私は 
日本人の愛国心に頼もしさを覚えた」元NHKの小篠 
輝雄氏、春日由三氏の証言。この失敗に、その翌週の 
昭和21年2月から新番組「真相箱」をスタートさせ 
た。ドラマ形式のソフトに洗練させた手法で昭和23 
年迄続き、GHQ史観は深く静かに国民に染み込んで 
行った。それは一部の「軍国主義者」の侵略責任と  
日本人民には責任がない、という内容。       
 その他【映画】、【全新聞】でも徹底された。   

 GHQの検閲は歴史問題に迄及んだ。       
論文【欧州各国の植民地支配】(姉崎正治「東と西」 
)は『西洋を冒涜している』と一部削除。米排日移民 
法に関するのは「合衆国批判」として掲載不許可とな 
った。日本の封建制度に一定の評価を与えた座談会は 
「国家主義的」として削除された。】        
            *            
 【昭和22年米誌「ニューズウイーク」に「新憲法は、 
今は『押し付けられた』という言い方をされているが 
、その内必ず尊重を受けるだろう」「教育によって、 
日本人は米国の理想に適応し、自らの手で諸改革を実 
行出来る。勿論、改革が実行を結ぶには数世代を要す 
る」と外信部長ハリー・カーンは予言を掲載した。】 
            *            
     「上海事変」
旧ソ連解体後に公開された文書に依り【あの中国で 
の盧溝橋事件(シナ事変)は、コミンテルンの師事を 
受けた中国の共産党の仕業だった】。又、実質日中戦 
争の始まりはそれから約40日後の昭和12年8月1 
3日の上海事変から
だった。以下は産経新聞の正論欄 
、渡部昇一氏より【シナ軍の爆撃機が日本の領事館や 
軍艦、船舶等に爆弾を投下したほか、フランス租界地 
市街も爆撃した。シナ民衆の娯楽センター「大世界」 
にも命中して4人以上が死亡、イギリス人経営のパレ 
スホテル等にも命中し、外国人を含めて200人以上 
が死亡した
。この事は『シブミ(shibumi)』 
という小説でトレヴェニアンという作家のベストセラ 
ー小説にあり、又今評判の『マオ』という上巻343 
ページ辺りにもその記述がある。          
「東京裁判」で東条英機は「シナ事変以来、日本は常 
に受け身であった」という趣旨の事を述べ、検事との 
応答ではいつも元首相が勝っているという印象があり 
、この時ばかりは東条嫌いの人達の間でも評価が上が 
ったという。】
 (【 】の部分、産経新聞からの引用です。)

       2006.8/9 11:45 
2006/8/6(日)                       
今回分はペーパーマガジンbX1号に掲載しているものです。
尚、<朗読>「ハートの鏡」を流しています。
               
『何故?修学旅行に「南京大虐殺記念館」』
 同7/26付には日本学生の修学旅行のコースに中国          
の「南京大虐殺記念館」が入っていて、館内を観た学生          
は凄惨な展示内容に絶句し贖罪意識を植え付けられると          
いう。なのに、自民党の古賀誠は最近此処を訪れ「(過          
去を忘れず未来を大事にするという)中国側の姿勢に心          
の豊かさを感じた」と語った、とある。凄惨なものを見          
せ付けられて、異義も唱えず「心の豊かさ」を感じたと          
発言する氏には日本の国会議員である資格がない。            
 
     【南京事件はナカッタ】             
 昨年、東中野修道亜細亜大学教授は「大虐殺」の証拠          
とされる物、写真等を検証した結果、当時発行の本2冊          
を源流としていて立証性のあるものではなかった、と明          
言されている(下記に再掲載)。
こういう記事又、本も出版されているのに、
何故その事の言及をしないのか。そして、先ず言い          
たいのは、何故に日本の学生の修学旅行にその場所をワ          
ザワザ選ぶのか、という事。自民党が政権党であり乍ら          
何と言う体たらく、もっと関与して指導、是正させるべ          
きでしょう。文部省と外務省は内閣直属にすればよい。

   
     「南京の史実5」東中野修道氏著
 以下は産経新聞平成11年12月14日付亜細亜大学教授、東中野修道氏著「南京の史実5」より─────

【昭和12年12月13日の朝、南京に入城して日本兵が見たものは散乱する軍服や小銃であり人影の全く絶えたゴーストタウンであった。南京防衛軍の司令官唐生智の命令と、国際委員会の努力で、ほぼすべての住民が安全地帯に避難を終えていたからである。
ドイツ大使のシャルヘンベルクも「安全地帯の外の道路は人影がない」と記述している。 ところが中国系アメリカ人、アイリス・チャン氏の「ザ・レイプ・オブ・南京」は入城した日本軍は小グループに分かれ、酒に酔い、市民や婦女子、負傷兵に対し手当たり次第に残虐の限りをつくした、と目を背けたくなるようなシーンの記述を列挙している。
 実はこうした行為は、当時の中国軍の戦い方であった。各地に軍閥が割拠し、それぞれが私兵を抱えていた。李鴻章の軍隊も軍費は現地調達、つまり報酬代わりの略奪が認められていた。1930年代の中国機関も「略奪機関」であった。
 
しかし、日本軍は西洋型の正規兵であり、軍律は厳し 
かった。しかも、開戦当初の理想は高く、これから統 
治しようとする場所での軍紀違反は、懲役や死刑を覚 
悟しなければならなかった。 
           

  「南京」に関する第5の史実として16人の欧米人によって組織された「南京安全地帯国際委員会」の第1号文書を最後に上げたい。南京が陥落した翌日の12月14日、日本軍に提出されたものだが、それは次の様な書出で始まっている。「貴軍の野砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事なやり方に感謝する為、われわれは筆をとっております」
              
 この国際委員会の文書は、南京陥落から1年半後「南京安全地帯の記録」と題して出版された。もし陥落後に、日本軍の残虐行為が繰り広げられたのであれば、その一年半後に、この感謝の言葉など削除されて当然であった。
 
 繰り返して言いたい。南京で不運な戦死者は生じたが、虐殺を証明する資料はいまもってみつかっていない。従って賠償請求などに応じる必要があるかないか自明であろう。】
 そして日本人はどう対処すればいいかという方法として【南京事件を裁いた「極東軍事裁判所」(註・東京裁判)に南京事件で処刑された戦犯やご遺族の方が原告となり「再審」の訴えを起こすことだが、裁判所そのものが消失している以上無理な提言であろう。
 だから内外に向かって私たち日本人が「南京」に関する事を、根気よく訴えていくしかない。

1.市町村議員から国会議員に至るまで外圧には毅然として対処するよう求める事。 政治家が事の真相を理解して日本の名誉を守る姿勢を打ち出さない限り、この国の舵取りは変わらない。又国際社会での孤立も避けようがなくなる。
2.事実が何も証明されていないような不適切な記述を、いまだに無反省に掲載し続けている教科書を学校で使わせないこと、教育委員会が採択しないよう、強く働きかけようではないか。
3.アイリス・チャン氏に公開討論に応じるように求め、論戦を挑んで根拠のない中傷を払いのけたい。

【米国人のマギー牧師 が16ミリフイルムで当時の 
南京の様子を撮っており米国立公文書館に所蔵されて 
いるが、虐殺シーンは写っていない】
 

私たちの子孫が「野蛮人の末裔」」として国際社会で辱めを受ける事を許してはならない
。】
以上が約7年前の記事の内容です。
 (
当時切り取って保存しておいたのを、著者には無断ですが、今日の産経新聞の記事に 矢も楯もたまらず取り上げさせて頂きました)

  
約10年前朱容基首相が「10年もしたら日本という国等なくなっている」と公言せしめた「国家戦略」のある国と、敗戦後、戦略等持ちようのない「国家」をもたなくなった国。このままだとどこかの国の、まさに「思う壷」になりそうだとは思いませんか?


 200
6/8/1(火)朗読コーナーの「ハートの鏡」パソコンの具合が悪く流せませんが
  改善次第流しますので。
           『国家戦略のない日本』          

 産経新聞7/28付『領土よりビジネス』という欄に、ロシアの知日派を 
育成する為の日本の出資に依るモスクワの日本センター(1994年設立) 
では「日露」の発展には北方領土よりビジネスを優先させるべきで、露の一              
番利益に結びつく「日露合弁事業」設立を勧める内容の日本語授業が行なわ 
れているとあった。(ソ連崩壊後「日露合弁事業」の9割以上がロシア側に 
乗っ取られて失敗した)当センターは文化的事業で生け花書道等もある。昨 
年度の日本からの拠出金は約7億円。                  

 政府が「北方領土返還」という事を戦後の日本の宿願として来たなら、日 
本の北方領土が奪われた経緯をロシアの若者に伝える好機の地道な活動の一 
端となり得ただろう。それを想えばこの12年間の徒費に、国家戦略のない 
日本を痛切に感じる。                         
 3年前、【言いたいほうだい】コーナーの2003/2/12付「歴史の 
捏造」に書いた、外務省からの予算で設立された「国際基金セミナー」なる 
ものも、謂れない賠償請求の為の「反日者側の為の」セミナーだった。   

 敗戦後のサンフランシスコ平和条約締結後、独立国家となったのに、以降 
「国家」という骨組みの再構築を怠った、怠って来たという事が、日本をこ 
んな弛緩国にしてしまった。占領政策下のGHQの日本人の洗脳を拭い、あ 
の戦争の実際の経緯と、「東京裁判」の不実を国民に説明すべきであった。 
 だが、この事は当時の人間はよく理解していたかも知れない。でなければ 
平和条約締結後、執行未刑囚の戦犯釈放の為の4000万人の署名が為され 
る筈がなかっただろうし、後のA級戦犯靖国神社合祀もあり得なかったと思 
われる。                               
 しかし、GHQ占領下では「パール判事の全員無罪の意見書は日本タイム 
ス、以外一部しか報じなかった」、このパール判事全員無罪の意見書を、 
日本が独立後に全ての報道機関が掲載したかと、言う事。でなければ時間の 
風化と共に、現在ほどに「A級戦犯」が問題視されることはなかったと思う 
。「東京裁判」の不実が日本国民に定着しなかった事が、野党系(自民党に 
も居るが)に付け入る隙を与えてしまった。               
 そして、下記にも引用しているがパール判事の【時が熱狂と偏見をやわら 
げた暁には、また理性が虚偽からその仮面をはぎとった暁には、そのときこ そ、正義の女神は、そのはかりを平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、 そのところを変えることを要求するだろう】という、「正義の女神は過去 
の賞罰のそのところを変えることを要求するだろう」が日本に於いて未だに 
果されていないのではないか?処刑されたA級戦犯の名誉は回復された筈で 
あるのに、又日本人が世界の誰よりそれを為さなければならないのに、近隣 
国に迎合して靖国神社のA級戦犯分祀等と言うタワゴトが聞かれる。おまけ 
に国立戦没者施設建設等までも。                    
       
         『マッカーサーの証言』

昭和26年5月、米上院軍事外交合同委員会で事実上東京裁判の実行責任者だったGHQのマッカーサー総司令官は「日本が戦争に突入した目的は、大部分が安全保障上の必要に迫られてのことだった」と証言し、先の戦争は 
日本にとり「自衛戦争」だったとの認識を明らかにした。】(産経新聞より) 

 この証言だけで、パール判事の「過去の賞罰のそのところを変えて」言 
ったように『全員無罪』としていいのではないか?           
侵略した、と裁いた事を「自衛戦争」だったと、当の責任者が覆した証言 
したのだから。
                            
 A級戦犯と言われて処刑された東条元首相は「・・・私は最後までこの戦 
争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主 
張する」又「敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任である 
。衷心より進んでこれを負荷せんことを希望するものである。」と語ってい 
る。                                 

敗戦の責任」は日本人の問題。「A級戦犯」なども存在しない。     
ここに掲載したこの内容、又
マッカーサーの証言、これを以てして、何を根 
拠にA級戦犯という呼称を用い、靖国神社参拝反対と言えるのか?     
先ず、日本の中でこのことをキッチリ認識しておく事。勿論、教科書に於い 
ても。日本人が一丸となってこの問題を捉えておけば、贖罪意識に付け込みたい近隣国に太刀打ち出来ます。
                    
                  *                
       検証 東京裁判のこと』       

註】戦時国際法という戦争裁判の法律の条文には【国と国の戦争時における殺人に於いては、個人は裁かれない(責任を問われない)】事。 

【■戦時国際法とは何か
 戦時国際法(国と国の争いに於いて)、戦争は合法とされる。
ハーグ陸戦法規によれば、交戦者が交戦者を殺す事は合法で、それがどんなに悲惨な方法でも戦争である限り非難出来ない。しかし、丸腰の非戦闘員(市民)や武器を捨てて投降してきた敵兵を交戦者が攻撃して殺す事は重大な戦時法国際法違反であった。都市を無差別に爆撃することも重大な違反行為だった。従って、アメリカ軍が広島や長崎に投下した原爆や、東京、大阪への無差別大空襲は、空前絶後の戦時国際法違反であった。(日本軍を裁いた東京裁判でインドのパール判事が訴えたのはこの事である。裁く資格がない国が裁いていると<445>)
 南京で問題となるのは、日本軍の行なった支那軍正規兵の処刑であろう。
しかし、「交戦者」とは何なのか、ということである。

 ◎「交戦者の資格」 (現代文風に記す<445>)
@部下の為に責任を負う者がその頭にあること。
A遠方より認識される固着の特殊徽章を有すること。
B公然兵器を携帯すること。  
C其の動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること。】   
 以上「祥伝社刊『藤岡信勝、東中野修道氏著の「ザ・レイプ・オブ・南京(アイリス・チャン著)」の研究」より。 
                 *                 
 ドイツの【無条件降伏】は、その罪状通りの無条件降伏であり、「平和に 
対する罪」及び「人道に対する罪」で裁かれた。             

 日本の【ポツダム宣言受諾】は、降伏条件、受諾文書が明示されそれを受 
諾した。それには国際法の「捕虜虐待」「戦争法規違反」(一般にB級C級 
戦犯と言っている)のみとある。「A級戦犯」の罪状<平和を犯した罪>は 
このポツダム宣言書にもなく、戦時国際法にもない法律で、この「東京裁判 
」時に作られたもの。故に政治的報復裁判と言われた。          
(日本人28名がA級戦犯とされ、東条英機他6名が絞首刑で処刑された。 
その他の者は、先述した如く、独立後戦犯赦免要求の日本国民4000万人 
の署名が為され国会決議を経て釈放された。生存者は「名誉を回復」し、A 
級戦犯だった重光葵は外相として、加入を許された国連に出席した。)   
                 *                 
 だから、事後法で裁いた事への当裁判への批判は多数あった。      
日本が受諾した【ポツダム宣言】には、「言論、宗教、思想の自由、そして 
基本的人権が確立されねばならない」とあるにもかかわらず、GHQのマッ 
カーサー総司令官は昭和20年9月10日、「報道、思想の自由」に関する 
指令を発令し、新聞、ラジオその他のメディア検閲に乗り出した。     
東京裁判の「一切の一般的批判」も厳しく削除、発行禁止処分を行なった。 
 昭和21年11月14日、パール判事の全員無罪の意見書は日本タイ 
ムス、以外一部しか報じなかった。                   

又【ポツダム宣言】とは、1945年7月26日、トルーマン米大統領、チ 
ャーチル英首相、対日参戦前のスターリン・ソ連首相、がドイツのベルリン 
郊外のポツダムで協定した対日降伏勧告文書。後に蒋介石・中国総統(後の 
台湾の総統)の同意を経て、4主要連合国の宣言となり、日本は8月14日 
これを受諾した。                           
                *                  
 『インドのパール判事(国際法専門家)の日本での講演』      
     (平成17年8月1日付産経新聞より)            
 東京裁判の判事で日本の「戦犯」全員を無罪と主張したインドのパール氏 
は、昭和27年、日本での大阪、広島弁護士会の各講演で下記の演説を行な 
っている。                              
【戦勝国は敗戦国に対して、憐憫から復讐までどんなものでも施し得る立場 
にある。しかし、戦勝国が敗戦国に与えることの出来ない一つのものは正義 
である。少なくとも、もし裁判所が法に反し、政治に根ざすものであるなら 
ば、その形や体裁はどう繕っても、正当な裁判とは言えない】       
【アメリカは原子爆弾を投下すべき何の理由があったろうか。日本はすでに 
降伏すべき準備が出来ていた。(中略)これを投下した処の国から、いまだ 
かって真実味のある懺悔の言葉を聞いたことがない。(同年の広島での世界 
連邦アジア会議での演説)】。このパール判事の演説が広島であったのに、 
以前にも触れたが何故広島の原爆慰霊碑に「やすらかに おねむりください 
。過ちは繰り返しませぬから」等という碑文を入れたのか。ほんとに「だれ 
のあやまち?」と問いたい。                      
【もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが、いまだに戦争におい 
て違法であるならば、太平洋戦争に於いてはこの原子爆弾使用の決定が、第 
一次世界大戦中におけるドイツ皇帝の(無差別殺人の)指令、及び第二次世 
界大戦中におけるナチスドイツ指導者たちの指令に近似した唯一のものであ 
る】【本件の被告の場合は、ヒトラー(などの独裁者)のいずれの場合とも 
同一視することはできない。日本の憲法は機能していた。今次行なわれた戦 
争は、まさに日本という国の戦いだった。これらの人々は、なんら権力を逸 
奪したものではなく、国際的に承認された日本国の機構を運営したに過ぎな 
かった】                               
【1950年の英国の国際事情調査局の発表によると、東京裁判は結論だけ 
で、理由も証拠もないと書いてある。私は無罪の理由と証拠を微細に説明し 
た、しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠もなんら説明していないので 
ある。おそらく明確に出来ないのではないか】              
【この軍事裁判を他の国の学者が重大問題として取り上げているのに、肝心 
の日本に於いて、これが一向に問題視されないというのはどうしたことか。 
これは敗戦の副産物ではないかと思う。米国の巧妙なる占領政策と、戦時宣 
伝、心理作戦に災いされて、過去の一切が誤りであったという罪悪感に陥り 
、バックボーンを抜かれて無気力になってしまった】           
                 *                 
 東京裁判の公判第5日の昭和21年5月14日、米国人のブレイクニー弁 
護人の弁論途中から日本語に通訳されないという珍事が起きた。実はブレイ 
クニー氏が原爆投下に言及したため、通訳が止められたもの。「戦争は合法 
的だから、戦争での殺人は罪にならない」と指摘。そのうえで「(訴因の一 
つの)真珠湾攻撃による米軍人の死が殺人罪になるならば、われわれは広島 
に原爆を投下した者の名を挙げることができる。(中略)何の罪科で、いか 
なる証拠で、戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この 
計画を計画し、その実行を命じ、これを黙認した者がいる。その人たちが、 
裁いている!」と訴えた。                       
                 *                 
【ウエッブ裁判長(オーストラリア)も「平和に対する罪は事後法であるか 
ら、これだけで死刑にはならない」と意見を述べている。】        
                 *                 
    ”水のいし 広田弘毅 抗弁せず                
          時代断罪 「落日燃ゆ」 ”  よし子      
 城山三郎氏の「落日燃ゆ」でも取り上げられた文官広田弘毅もA級戦犯と 
して処刑された(絞首刑の判決後、助命嘆願の署名が10万人を超えた)。 
 この小説全体は現在日本に定着している軍国主義的な捉え方であるが、そ 
れ故尚一層、一貫した平和主義者広田弘毅への断罪には東京裁判の不当性が 
際立つ。広田弘毅が処刑された日の重光葵(A級戦犯、後に赦免)の句、  
     ”黙々と 殺されて行くや 霜の夜 ”(「落日燃ゆ」より)  
                 *                 
 《その他、東京裁判とその判決に批判した海外識者ら》の
言葉
    
【ハンキー卿(英国枢密院国際法の権威)】「・・・公平な中立国の判事を 
参加させず、・・・パール氏の主張を正しいことを、全然疑わない」    

【ウイロビー将軍(GHQ参謀第2部長)】「この裁判は最悪の偽善だった 
。・・・日本が置かれていた情況と同じ状況に置かれたならば、米国も日本 
と同様に戦争に訴えていたに違いないと思う」              

【シーボルトGHQ外交局長】裁判をやった事自体が誤りであったと感じ 
た。国際法に照らして犯罪ではなかったような行為のために」       

【ケナン国務省政策企画部初代部長(米国)】「勝利者が敗戦国の指導者を             
個人的に制裁する権利がないというのではない。しかし、そういう制裁は戦 
争行為の一部として為されるべきであり正義と関係ない。又、そういう制裁 
をいかさまな法手続きで装飾すべきではない。」             

【ダグラス連邦最高裁判所判事(米国)】「・・・パール判事が陳べた様に 
同裁判所は司法的な法廷ではなかった。それは、政治権力の道具に過ぎなか 
った。」                               

【プライス陸軍法務局(米国)】「・・・訴追する米国に明らかに責任があ 
る。ソ連は日ソ中立条約を破って参戦したが、これはスターリンだけの責任 
ではなく(ヤルタ会談で)戦後に千島、樺太を譲る事を条件として日本攻撃 
を依頼し、共同謀議をしたもので、やはり侵略であるから、日本を侵略者呼 
ばわりして懲罰しても精神的効果はない。」               

【コリナ駐米大使(メキシコ)】「・・・法なければ罪なく、法なければ罰 
なしという近代文明の最も重要な原則、世界の全文明諸国の刑法典に採用されている原則と調和しない
と、われわれは信じる。」           
                 *                 
 最後に、パール判事の時が熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が 
虚偽からその仮面をはぎとった暁には、そのときこそ、正義の女神は、その 
はかりを平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えること 
を要求するだろう
という<パール判決文>の言葉を掲げたい。      
         (以上引用 産経新聞平成17年8月1日付より)   


7/20(金)〜7/24(月)
今回も白州次郎を中心に掲載しています。7/16付の「白州次郎という人」と
併せてご覧下さい。” 日本人 「白州次郎を」 目標に ”

7/20(金)     素晴らしい人間という目標
 前夜といっても午後11時55分からのテレビ、「明石家さんまの特番、白洲次郎に会いにいく」は、外務省に保存してある資料にGHQ作成の憲法発効後の白洲次郎の文章がある『………コンチクショウ、いまにみていろ』秘かに涙す。が印象的だった。
 しかし、宮沢喜一氏へのインタビューでも感じたが、さんまさんは、白洲次郎氏関連の本を読むとかの予備知識がなかったのでは?1時間半弱の時間内ではとうてい白洲次郎氏の全容は伝えられないだろうが、さんまさんが白洲次郎氏のどの部分に一番魅かれたのか?という事も興味があったのに。

 辻井喬氏(堤清二氏)の「白洲次郎は、認められたいとかの名誉欲を卑しいと軽蔑した」の言葉に、一瞬自身ギクッとした。
 私は名誉は兎も角も、世間には認められたいと思っているから。生活の手段のために。勿論、白洲次郎氏の主旨は別のものであると、理解している。
                  
 私が「白洲次郎」という人に興味をもったのは、つい最近新聞で白洲正子さんのご主人、又「占領を背負った男」であるという事を知ったからで、それ迄全然知らない人だった。これ程の人を何故今迄知らなかったのか、と残念に思う。先陣の風になった人だ。白洲次郎がいなければ、戦後復興はもっと遅れていただろう。「風の男・白洲次郎」をみれば、よく分かる。        
「戦後復興貢献者」として学校の教本にでも載せるべき人物である。
 こういう立派な日本人がいた、それを教えていくだけでも道徳教育になる。「戦後教育」というのは、ダメな日本人ばかりを教えてきたではないか。
 誰を見習って、どのように生きて行けば良いか?という目標、理想があってこそ、素晴らしい人間になれるのだ。以下に、その「素晴らしい人間」のつづき引用掲載します。
                *
 先日のつづき (「風の男・白洲次郎」 青柳恵介氏著より<新潮社>)        (《 》の部分は、私記)
 「風の男」の第1章の冒頭は、                     
<軍人辰巳栄一に向かって白洲次郎は「軍人は戦争のことをだけを考えてりゃいいじゃないか、軍が政治や経済にまで口出すなんていうのは、とんでも ない話だ」。男は日本人離れした風貌、1メートル80センチを越す長身、右側の上唇をややつり上げて大きな声で思っていることをまくしたてる。
34、5歳か、言葉は乱暴だが、目は澄んでいて微塵も悪意が感じられない。その年(昭和11年)2月に発生した皇道派青年将校の暴走「2・26事件」に芯から怒っているようであった。辰巳はこの男はただものではないと直感した。男の名は白洲次郎といった>  
 この文章から始まっている。

 辰巳栄一は昭和14年12月に三度目の駐英武官となってロンドンに赴任。昭和17年9月に交換船で帰国早々、東部軍参謀長に補せられ、帝都防衛責任者の訓示を受ける。シンガポール陥落の翌日、ロンドン大使館に軟禁されていた際の、ラジオから流れてきたチャーチル首相の声が鮮明に残っている。
「日本最大の弱点は、木と紙で出来ている都市にある。本格的爆撃を加えれば都市は壊滅して戦争継続の能力を失うであろう」と国民に訴えていた。日本の防空兵力は戦闘機が50数機、高射砲が60数門しかない。ロンドンの防空兵力とは雲泥の差である。遠からず東京は爆撃される。辰巳は会う人ごとに実情を説明したが、軍の中枢部には帝都が爆撃される等と真剣に考えている人は皆無のように思われた。以後昭和20年3月迄、辰巳は灯火管制の指導、防空壕の設備、防空戦備問題、学童疎開に始まる一般市民の疎開と、忙殺される日々を送る。

 この頃の(敗けた事がない)勝者の奢り的日本軍部の「鈍感」さ。
  大敗北を喫したのに、現在の日本政府の「鈍感」さ》


 昭和19年、20年になると次第に食糧事情が苦しくなってきた。その頃よく白洲は鶴川村で開拓して獲れた野菜を新聞紙で乱暴にくるみ、ドサッと辰巳宅の玄関に放り込み、そのまま立ち去って行った。
(友人の河上徹太郎や、今日出海も鶴川村へ疎開させている)

 白洲次郎という人には、困っている人、苦しんでいる人を見れば、助けずにはいられない強い感情が流れていたようだ。その助け方は、ぶっきらぼうさが常につき纏っていただろう。

 白洲次郎は終戦連絡事務局次長として、辰巳栄一は日本の(マッカーサーの指令による)再軍備計画(警察予備隊、自衛隊創設)の中心人物として敗戦国の再建に力を尽くした。その二人の間には一種暗黙の内に通じ合うものがあったようである。それは英国において得たところの教養を土台とした広い視野というものであったろう。また、信念の強さも共通するものであったろう。

 <印象的箇処>
 【誉めた人物】
(白洲次郎の後年の言葉)「役人はすぐアメ公側につくんですよ、楽だもの。これは日本人だな、と思って僕ら気を強くしたのは、内務省の役人でしたね。若い人で『殺されてもいやだ』というやつがいましたよ。いちばんだらしなかったのは外務省の役人、いちばん馬鹿だったのは文部省の役人なんだ、いまでもだいたいそうでしょう。」(昭和政治経済史への証言・下)
 その内務省若い人の一人、小林與三次氏(読売新聞社長)は終戦当時内務省行政課の事務官としてGHQの選挙制度改正に措ける追放令と闘っていた。
小林與三次氏は「終戦直後はとにかく占領軍を利用して儲けようという連中がいっぱいいたんです。次郎が耐えられなかったのは、そういう連中でしょう。無理難題をふっかけてくる占領軍に対して、私達は抵抗したんですから、立場は簡単です」と語った。
 当時の人間で、口の悪い白洲次郎が誉めた他の人物に、石橋湛山と東畑精一の二人がいる。石橋湛山は占領軍に対して一歩も退かずに平気でものを言った。「まさか殺すとは言わんじゃろ」。【石橋湛山大蔵大臣はGHQを向こうに回して激論しているのを何度か見た。石橋さんも案の定飛ばされた。<「プリンシプルのない日本」白洲次郎著より】
 東畑精一は、自身が三重県の有数な地主であるのに、農地改革を積極的に推し進めた。私心のない行動、信念をもって己れを投げ出すことのできる人間、そういう行動、そういう人間のみを白洲次郎は信じたのである。

 【白洲次郎の涙】
 
 昭和26年9月8日サンフランシスコでの講和会議、及び日本安全保障条約締結調印式出席全権団一行6名の内に白洲次郎も加わる。
講和会議の演説原稿を吉田首相は見たかと白洲次郎に聞いた。「外務省の人間は文句を言うと思ったのでしょうね、しぶしぶ持って来た。それを見ると癪にさわったね。第一英語なんです。占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打合せてやってるんです。」白洲次郎は外務省の随員に書き直せと、草稿をひったくった。改稿すると言い渡し、草稿の英文も生かしつつ日本語の原稿に改めた。そこには以前の原稿では一言も触れられていなかった沖縄返還を盛り込ませた。なるべく早期に沖縄を返して貰いたい、と。2日後吉田首相は、巻紙(アメリカ側の人間が、あれはトイレットペーパーか?言ったとか)に書き記された日本文を読み上げた。(演説の草稿は白洲が英語で書き、それを日本語に直して演説したのだ。イヤホーン放送の同時通訳はその草稿の英文だった)
 白洲は吉田茂を「昔の人」と言い、その「堂々とした」「一徹」さに改めて感動を催している。(調印の時も、演説の時も総理は本当に立派だった。『昔の人』は我々と違って出るべきところに出ると、堂々と風格を出したものだ。各国全権のうち「備え付けのペン」を使わなかったのは総理だけだったので、大変反響を呼んだ。「プリンシプルのない日本」同より)         
 その晩、宮沢喜一は白洲次郎の涙を初めて見たと言う。白洲次郎のその晩の涙の半分は占領終結に対する涙であったろうが、半分は、吉田という「昔の人」に対する涙であったのではなかろうか。国際舞台に出て堂々と自分の信念と流儀を貫いた吉田の姿に、白洲は打たれたのだと思う。
           2006/7/20 3:05

 《宮沢喜一氏へひと言。一時期白洲次郎氏を側で見て来られたにしては、
  宮沢喜一氏が遂行して来た政策は、余りにも日本人の気概の感じられない  事ばかり。近隣諸国条項などは、その最たるもの。
  「ナニヤッテ来たんだ!」白洲次郎氏が言っておられますヨ。

 東北電力会長の昭和28年頃、白洲は(ダム工事)現場を訪れる時には、現場で働く家族のために必ずチョコレートやキャンディなどの土産を持参し、夜は人夫達と酒をのみ、その苦労話にしばしば涙を流した

 又、若い頃からスキーが得意だったので、東北電力スキー大会を催すことを提案し、そのスキー大会の時の白洲は日頃の仏頂面とはうってかわって、連山や松岡が悔しがるほどに、機嫌のいい顔をしていた。
彼らが今でも不思議だったと語るのは、小さな子供がすぐに白洲になつくことだ。一言、二言話しかけるだけで、田舎の人見知りする子も、じきに白洲の膝の上に乗ってしまう。

 東北電力の株主総会時、アメリカなどでは”Your company”と司会者が言うのだと、すべて壇を取り払い、一般席と同じ高さにしつらえ直させた。又、仕事中は禁煙、女子社員がお茶を配ることは廃止、煙草は喫煙室、お茶を飲みたい者は自分で用意するように徹底させた会長である。

 【ロビン・ビングとの交流】
 次郎はケンブリッジ在学中にその後に繋がりを持つ人々と友情を結ぶが、中でもロビン・ビングとの友情は生涯に渉る格別なものであった。ロビン・ビングは7世のストラッフォード伯爵の称号を持つ貴族であった。
正子夫人はロビンについて「地味な人柄で、目立つことを極力避けていた。
すべての英国流の思想の源は、ロビンにあるといっても過言ではない。」又「身ごなしといい、教養といい、古きよき時代の英国紳士の典型といえよう」と書いている。
 友情のきっかけは、一説によるとロビンは喧嘩に弱く、売られた喧嘩に往生しているのを次郎が見かねて買って出て、ロビンを窮地から救ったことに端を発する。何事にも控え目なロビンと、闘志をムキ出しにする次郎とは不思議に馬が合った。
 1925〜1926次郎とロビンは11泊の冬のヨーロッパ大陸の(ベントレー3■車で)自動車旅行を敢行。

外資導入の段取り
 白洲会長は「一寸出かけてくる」と言って、一週間程の欧米旅行に度々出かけた。首相特使として派遣されただけでも、1951年(昭和27年)11月、28年の3月の2回。「昭和27年の渡米目的はアイゼンハワー元帥新政権の首脳者に独立日本が当面している困難な実情を伝えて、従来通りの援助を要請するとともに、新政権下の極東情勢に打診を行なうものとみられる。又、米財界筋とも電源開発などへの外資導入についても話し合う予定である。」(昭和27年11月9日毎日新聞夕刊)
 又、昭和28年の欧州諸国の視察を終えた談話では「ヨーロッパ諸国の復興ぶりはめざましい。日本の復興が表面的であるのに比べて、ドイツ、イタリアなどは本質的な基礎をしっかり作り上げている点で、日本もこれにならわなければいけないと思った」(昭和28年3月20日毎日新聞朝刊)

 東北電力の会長の職にありつつ、白洲は吉田首相の特使として欧米に渡り、各国首脳陣と会っては外資導入の段取りをつけてくる。

 ロビンの息子ジュリアン・ビングの回想によれば、昭和27年ロンドンに到着した折、白洲がロビンと共に、兄トーマスと一緒にジュリアンが学んでいるイートン校を訪れた。白洲は「トミー?ジュリアン?」と声をかけた。
トーマスはしっかりとした口調で「何か私に出来ることがあれば何なりとお申し付け下さい」と答えた。もう一度「トミー?ジュリアン?」と呼びかけると、二人の年若き英国紳士は「ジロー!」と応えて、父の最も親しい友人に抱きついたという。その時、白洲の目には涙が溢れていたはずである。
 白洲の二人への土産は、サケを釣るための日本製の素晴らしい釣り竿だった。ジュリアンは今でもその釣り竿を大事にしているという。

カントリー・ジェントルマンとなっても】
 昭和34年4月10日、白洲は東北電力の会長から退く。時に57才。只見川の電源開発も一段落した。吉田茂が政界から引退したことも、白洲にとってカトリー・ジェントルマンに戻る誘惑となっただろう。鶴川村の農夫に立ちかえったのである。
 それでも、エネルギー問題に関心がなくなったわけではなく、中東の石油資本の情勢には常に関心を持ち、シェルグループの会長、ジョン・H・ラウンドからシェルの経営顧問を依頼され、シェル石油と昭和石油の合併にも尽力している。今回ラウンドから寄せられた手紙の一部には、「・・・白洲氏は外国企業が日本への投資を成功させるにはどうしたらよいか、明確な考え方を持っておられました。我々には英国人の共通の友人が数多くあり、ますます親交を深めることになりました・・・・」
【サー・シグモンド・ウォーバーグ】
 フランス大統領ミッテランのブレーンと言われ、欧州復興開発銀行の総裁だったジャク・アタリの著書には、<シグモンド・ウォーバーグは、彼の創設したマーチャント・バンク「S・G・ウォーバーグ」を短期間の内にロンドン第一の証券会社に育て上げた手腕の持ち主であるだけでなく、その経済的見識は欧州の金融界において高く評価されているという。当時、ヨーロッパにおいては日本の債券などに関心を持つ者がいない状況の中で───日本経済が信用を
回復するには50年かかるだろうと一般に考えられていた
───シグモンド・
ウォーバーグは日本経済に大きな期待をかけた。
 ウォーバーグは日本を訪れ白洲次郎と出会い意気投合し、白洲の紹介で野村証券の社長に会い、積極的に日本に投資することになるのである。
 白洲は「S・G・ウォーバーグ」の顧問(個人的なアドバイザー)になる。「S・G・ウォーバーグ」の変わった社風には、大学で経済や政治を専攻した者を採用せず、歴史や文学を学んだ者を採用する習いがあるそうである。
ウォーバーグが日本経済の将来に期待をかけたのも、単なる経済的見通しではなく、日本の歴史、日本人の精神性を高く評価した故のことであるという。

「S・G・ウォーバーグ」スタッフのマーチン・ゴードンの思い出の記には「白洲氏、ウォーバーグ氏及び「S・G・ウォーバーグ」社の同僚との何年にも亘る交友関係の間に、白洲氏やそのサークルの目を通して日本を見てきた。
その結果、過去25年間に日本が経済大国になる原因となった多くの注目すべき資質を見る事が出来た・・・」
 白洲次郎が亡くなり、その名をケンブリッジにとどめるため「S・G・ウォーバーグ」では白洲ライブラリーの名を冠し、東洋及び日本関係の膨大な図書をケンブリッジに寄贈した。又、その東京事務所ではサー・シグモンドの肖像画と並んで白洲の肖像画を掲げている。

【軽井沢ゴルフ倶楽部】
 老年期を迎えた白洲が最も情熱を傾けたのは「軽井沢ゴルフ倶楽部」の運営だった。白洲次郎はイギリス時代からゴルフに親しみ、ゴルフは彼の最も愛したスポーツであった。同クラブは古くからのメンバーであり、昭和27年から理事を経て、昭和57年理事長となる。
 白洲はプレーについてもうるさく、マッチ棒や煙草の吸い殻を捨てている人を見ると、その人の目の前に行ってそれを拾う。プラスチック製のティは地面に残って腐らないからという理由で禁止する。ゴルフがうまい奴がいばることを許さない。賭けゴルフを許さない。クラブハウスで若い者が行儀の悪いふるまいをしていると、怒鳴りつける。
 晩年の白洲は7、8月、毎日のようにクラブに通い、自身はもうプーレーすることをせず、フォークで雑草取りをしたり、雨が降ると長靴を履いて水溜まりの場所を確認し、排水計画を立てるといった活躍ぶりであった。

 「ゴルフ場入会に総理大臣が推薦人となるようなことは感心しないね」と当時のS首相に忠告した。
総理大臣に限らず、権力者はおしなべて、その権力ゆえに、言動に節度を忘れてはならないという彼のプリンシプルである。

 私が、取材のために「軽井沢ゴルフ倶楽部」を訪れ、キャディさんに集まって貰い白洲の思い出話を聞くと、皆下を向き「本当に優しい方だった」と言葉を洩らし、全員が涙をこらえるばかりで話は聞けなかった。

小林秀雄の死】
 終戦直後、白洲が終戦連絡事務局次長の頃のこと。
旧知の河上徹太郎から電話が入り、「小林秀雄が是非会いたいと言ってる」
───────小林秀雄は、吉田満という人が『戦艦大和の最期』という原稿
を書いた。是れは是非出版しなければならない本だが、戦争文学だから進駐軍が許可してくれない、何とか出版出来るように進駐軍に話して貰いたい、吉田という青年の目が異常に澄んでいること等、小林はいささかの私心もなく、かつ尋常ではない迫力で喋りまくった。白洲はたちまちに小林秀雄という人物を諒解した。図書ははじめ雑誌「創元」に掲載しようとして司令部の検閲によって全文不許可になったが、小林や白洲の尽力にり昭和24年に出版される。(しかし、文語体の原文のままではなく、削除部分が多く、原文のままの公刊は講和条約の発効した昭和27年をまたねばならなかった)。
 小林と白洲のつき合いはここに始まる。

 昭和58年3月1日に小林秀雄が亡くなった際の白洲の落胆ぶりは傍目にも痛々しかった。病院へも通夜にも行かず、一人で酒をのんでいたという。
その日、昼食を共にした証券会社「S・G・ウォーバーグ」のクリストファー・バービスは、余りにいつもと違う白洲の様子に驚き、そのまま別れるのを
危ぶみ、夕食を済ますまで一緒に居たという。

【終 章】
 白洲は、ポルシェ911を分解してトヨタのソアラを作る時の参考にしたまえと言って、愛車を提供した。昭和61年のニュー・ソアラ発表の前年11月28日、白洲次郎はこの世から去っていた。白洲の一周忌に豊田章一郎他は完成したニューソアラに打ち乗り兵庫県の三田にある白洲家の実家の墓参りをし、白洲次郎の墓前にその車を横づけして、完成報告をした。

【正子夫人の回想】
 11月16日から、白洲夫婦は京都に旅行した。嵐山「吉兆」での様子。
<その時、神戸の花隈の話が出た。昔、花隈に「現長」という鰻屋さんがあり、そこのおかみさんに次郎は子供のころ非常に可愛がられたという。「80年も経って、今、ふっと思い出した。不思議だね」だが、もっと驚いたのは、主人の徳岡さんである。「いやぁ、そのおかみはん、吉兆の親父はんの実のお母はんどす。お家はんいうて、90いくつで亡くなるまで、ここ(嵐山)においやしたんどっせ不思議な御縁どすなぁ
大阪の吉兆とは戦前からの付合いだのに、そんな話は一度も出たためしはない。あの時、現長のおかみさんは、次郎を迎えに来て下さったのだ。私はそう思う。そういう空気が一座にただよっていた。病気をした時、何日も抱いて看病して貰ったとか、必ず「坊に」といって、おいしい鰻をとどけて下さったとか、とても綺麗で、男勝りのおかみさんだったとか、涙ながらに次郎は語った。仏壇でお線香をあげた時は、位牌を抱いたままいつまでも離さず、5、6歳の子供の頃に還った様に見えた。>

 旅から帰って4、5日たった11月26日の夕方、食事の支度ができたことをお手伝いの長坂そのが報せると、白洲次郎は返事をしたが、なかなか2階の部屋から降りて来ない。その時、永山からの電話を報せると「具合が悪いから、後でと答えてくれ」という。すぐに正子夫人に知らせ、東京の病院の手配をした。

<お腹がはるというので、レントゲンをとってみると、胃潰瘍がひどく、心臓は肥大して脈拍は乱れ、その上腎臓まで冒されていた。先生は、一両日が山だと言われた。一病息災というけれども、あまりに身体が頑健過ぎたために、限度まで持ちこたえたのであろう。ベッドへ入る前に、看護婦さんが「白洲さんは右利きですか」と問うと、「右利きです。でも、夜は左……」と答えたが、看護婦さんには通じなかった。その言を最後に、気持ちよさそうに眠りに落ち、そのまま2日後に亡くなった。いかにも白洲次郎らしい単純明快な最期であった。遺言により、葬式は行なわず、遺族だけで集まって酒盛をした。>

 翌日、昭和60年11月29日の新聞は一斉にその死を載せた。
 若い友人の堤清二は語る。「私利私欲をもってつき合おうとする人間を白洲ほど敏感に見抜き、それに対し厳しい反応を示した人を他に知らない。そして、そういう人間は白洲を怖い人と思うだろう。白洲が晩年に至るまで、仲良く付き合っていた人に共通した性格があった。私心のない人、大所、高所ら立って、自分の考えや行動すらも客観的に捉えられる人、本当の愛情のある人。 ・・・・白洲次郎に、もしわがままな所があったとすれば、「イヤシイ奴」とは決してつき合おうとしなかったことだろう……」。以上 「風の男・白洲次郎」より。
              ☆ ☆ ☆
          
    『「昭和天皇のお言葉」メモのこと』

 故富田宮内庁長官の「昭和天皇のお言葉」のメモなるものが一斉にメディアに取り上げられている。来月8月15日に小泉首相が靖国神社参拝が濃厚となってきた折、これを阻止する為やっと見付けだし、故人の意向を無視して公開したと考えられる程の絶妙のタイミングである。
 私が一昨日このニュースをテレビで観た時思った事は、昭和天皇が戦争責任を、「A級」戦犯といわれる人達に負わせる筈がない、と言う事。
 最終的には昭和天皇の御意によって、開戦された。故に、敗戦後マッカーサー将軍に「戦争の責任はすべて自分にある」と自身の処断を仰いだのだ。
 この「メモ」の検証はされるべき、と思うが、それだからと言って靖国問題(A級戦犯合祀)が左右される分けがない。その事は(当コーナー「日本の中のポチとミケ」参照)戦争経験者達の判断の下、為されたものであり年月が経つほど事実は遠のく。戦争経験者達も年々亡くなっている中でこの問題を蒸返した処で、何等信用出来ない。
 靖国神社(A級戦犯合祀)云々を論議するより、何故他国が日本国内の事を干渉するのか。その対処法を詮議する方が、時間の徒費とならない
 ただ日本人として「歪められた戦後史観」から脱却しなくてはならないと思う。          2006/07/23 17:31
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「白洲次郎」の本3冊読み終え
 「白洲次郎」の本3冊読み終え(プリンシキルのない日本・白洲次郎の流儀・風の男)、今年まで生きていて良かったと、思う。こんな日本人が在た事がウレシイ。「無私な心」で日本の戦後復興に邁進した人。
 昭和20年の敗戦から昭和45年日本万博を経済復興の頂点とするなら、25年で戦後復興を成し遂げたと言える。
「風の男」にもあるように、日本の戦後復興は50年かかると外国の人間からは思われていたようであるから、25年短縮した分である。だが、若し白洲次郎氏がいなかったら50年要したかもしれない。
 (若年時に英国留学等含めて)まるでこの日本のその時を見越して、「誰か」が氏を配置した如くである。まさに日本には、大事の節目に特異な人材が輩出され、難事を乗り切って来た。

 今年は戦後61年、何度も出てくる白洲次郎氏の言葉「敗戦の惨めさ」をくぐり抜け、得た現在の繁栄、それは平和であってこそのもの。
国土が攻撃、侵犯されないこと、それが基本です。
 「まあまあ」という日本人の言い草への言及箇処がある。<日本人は、よく「まあまあ」って言う。原則がはっきりしてる処に妥協という事が出来るんで、日本人のは妥協じゃない、ただの頬かぶりですよ。問題を先へやっとこう、臭いものには蓋をしろ、と言う。いつか始末しなけりゃならないんだから、外へ出したらいいんだ。そういう事は、教育の問題だと思うね。>(「プリンシプルのない日本」白洲次郎より)

 同「プリンシプルのない日本」に、『コウモリガサをさす』という件りがある。<雨の日に他人が濡れないようにカサをさしてやるという意味だが、カサをさしてやった相手が手ぶらで金儲けしたのでは、さした奴は余り愉快ではないだろう。この安保廃止、改正など米国人が言いそうな事を日本人が叫んでいるのは、不思議な事のように思える>
又<………スイスに行ってスイス人に聞いて見るがいい。永年永世中立を守る内外ともに中立性の実際が厳然たる事実であるスイスに於いて、どれだけの予算を割いて国家の防備に当たっているかを>。

 日本経済の驚異的な短期間の復興は防衛をアメリカに委ねていた、という事も大きな要因だった。現在の原油高を背景のロシアの軍事力の増大、中国も然り、つい最近の北朝鮮は言わずもがな、徐々にではあるが世界の勢力地図は変わりつつある。防衛力を全面的にアメリカに依存している日本であれば、より強固な同盟関係とすべき時にきている。例えば、ミサイルが北朝鮮からアメリカに発射されたとして、日本側でそれを迎撃する、という事位出来る態勢にしてこそ本当の同盟国と言えるのではないだろうか。それが出来ずに真の「信頼関係」が築かれるか?国連憲章でも認められている「集団的安全自衛権」、日本では「権利」はあるけれど「行使」出来ないと、分の解らぬ説明で現在に至っている。
 これなども白洲のいう「まあまあ」の部類だろう。
「集団的自衛権」位行使出来るよう、早急な法改正が必要。

           「教科書のこと」
 平成18年7月23日付、産経新聞朝刊に来春から使用される高校教科書の「公民」を通覧した高崎経済大学教授、八木秀次氏の記事が掲載されている。 その中に【憲法制定】に関して、<鈴木安蔵ら社会主義・共産主義者による憲法研究会の主張が制定に影響を与えたかのように書く政治経済の教科書も多い。これは現行憲法が自前であると考えたい護憲派の方便に過ぎない>とある。へーこんなこと、初めて知った。という驚くべき内容だ。
が、この憲法制定に携わった白洲次郎の記述がある。
 憲法制定前の<調査会の報告で、報告の第1章は、この憲法は占領軍によって強制せられたものである、と明示すべきであった。歴史上の事実が、後年ごまかしであると信じられる様な時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える>、「プリンシプルのない日本」より。
 GHQ作成の憲法発効後の『………コンチクショウ、いまにみていろ、秘かに涙す。
又「風の男・白洲次郎」には、その時の情況が詳しく書かれてある。    
(P106〜P140参照されたし)

 八木秀次氏のその他の指摘として、【明治憲法・天皇制絶対主義】【靖国神社参拝に関して(違憲判決のみ)】【ジェンダーフリー(夫婦別姓の肯定)】【従軍慰安婦問題(保障すべし)】【永住外国人の地方参政権(付与すべし)】【住民投票の推奨】と記載されているとある。
 この内容を見れば何処かの国の思うままと思える。
 
 この教科書等は、特定思想集団の押しつけ思想以外のなにものでもない。
( )の如く、一方の主張のみを書いてい。靖国神社参拝に関しては『合憲判決もあった』こと、ジェンダーフリー『教育の弊害』の大なこと、従軍慰安婦問題は『日韓国交回復時に日本から賠償金が支払われてい』ること、永住外国人の地方参政権は『憲法条文の日本国籍取得』を基本とすること、、住民投票『するなら議員が不要となる』議会制民主主義の根幹的問題となる。

 この民主主義の日本に於いて、それもこれからの日本の未来を担う子供達に、こんな教科書を与えて、国会議員は、何故この分野にもっと踏み込んで是正させないのか。【民主主義】とは偏向的ではないこと、押しつけではないこと、それが基本でしょう。
ならば、思想の自由の基礎となるべき知識をもっと「相反」するものから、吸収させるように努めるべきです。いまのままでは、選択肢がない。
 戦前史、戦後史の見直しもすべきです。

 教育分野から特定の思想団体の専横を排除すること、検定委員の見直しも含めて政府一丸となって、取り組んで頂きたい。【民主主義】を守る為に。

 現在の出版界の変化に気付くべきです。「戦後教育」の化けの皮が剥がされている。
         2006/7/24 18:45
 
 (2006/7/7〜7/16迄を掲載)            
      【お知らせ】          
  電話回線を基本料の安いKDDIに変えたのでイン 
 ターネットもメタルネットプラスになりました。   
 ですから(平成18年4月30日号bW9)迄の分は 
 これまで通りのBIGLOBEで、今回発行(信)分以降は 
 DIONのホームアドレスにアクセスして下さい。  
            ★             
      『七 夕』         
  「七夕」も過ぎましたがペーパーマ  
 ガジン発行からこの7月で6年
経ちま 
 した。原点に立返り、著しい科学の進歩が人間の未来 
 に及ぼす影響を想像力で提示した、以前の「ハートの 
 鏡」、俳句短歌を掲載します。           
            ★

      『ハートの鏡』  【マイポエム】より       
   
   いつかの七夕の日、にゃこリンは七夕の    
   笹飾りを流しに行った河原で、ハート型の鏡   
   を拾いました。その鏡は、人の心臓の辺りに   
   かざすと不思議な事に、その人の「心の中」   
   がすっかり「見える」のです。そして、     
   「見たい」と思っていたものが「見えて」、   
   「見たい」という「心」を失くしてしまった   
   ことに気付きました。             
    あの河原、いまはもう、草の一本も生えて   
   いません。    
              

       ★ ★  ★ ★            

    ”天の川 流れる笹(ふね)は 万華鏡 ”   
                          
    ”天の川 過去と 未来を 渡し船 ”    
                          
    ”平等院 コンピューターで 極彩色     
      末法なる世の 再現絵 ”        
                          
    ”ヒトゲノム 境(鏡)界線に 閻魔大王”   
                          

  以上<にゃこリン夢現シリーズbR1号他より  


       ★ ★  ★ ★           

  『明日の神話』除幕式     

   ” 天の川 「明日の神話」の 除幕式     
     太郎と 敏子の 七夕や ”        
 七夕の日、故岡本太郎の絵画「明日の神話」の除幕  
式のテレビ放映があった。35年前にメキシコのホテ  
ルオーナーが五輪に合わせて故岡本太郎画伯に     
壁画を依頼し、完成したものの五輪開催前にそのオーナー会社は倒産、
その後この壁画は行方知れず。              
太郎死後、宿命的使命感で以って養女の敏子さんが           
メキシコの倉庫等200箇所以上を探し続け、やっと           
発見する事が出来た。だが、その航空便が到着したそ           
の今年4月20日に敏子さんは急死されたそうだ。            
敏子さんの甥子の方がメキシコから日本迄壁画を運ぶ           
間、日本で待つ敏子さんだったが「魂」はずっと壁画           
に付き添い、日本に着いた事で精魂を使い果し、その           
安堵感と共に太郎さんの元へ召されたのでは、と願想           
しました。それほどにこのおふたりの「魂が熱い」。           
「わが身を生贄として絵をかいた」太郎と、「その絵           
を後世に遺す為」生涯を捧げた敏子さん。      
                     *                        
敗戦後の日本の「焼け野原」が原点、原動力だった           
と語る岡本太郎が命を削って訴えたかったのは、核戦争          
の悲惨さ
、いつの時代にも存在した人類普遍のテーマ。           
修復終えた「明日の神話」の壁画が明日から無料公           
開されるようですが、「芸術は呪術」と言った太郎氏           
と加えて敏子さんのエネルギーがこの絵から溢散され           
世界中に届く事を願って止みません。(特に最近7発           
のミサイルを発射した国に)                       
縄文時代の火焔花器の素晴らしさに最初にスポット           
を当てたのは岡本太郎氏でした。確かにあの土器から           
は素朴さと荒削りの生命感が感じられる。                 
又、あの岡本太郎氏の噴熱の如き生き方と、逼迫感           
を見ていると、呼吸口を厚いアスファルトに塞がれた           
道路下の土の憤怒の形相に置き代わります。               
時々思う、「いつまで我慢してくれるんやろ?」と。           
 『文明は、美しい顔をした、化物』。  7/10(月)                 
           
    『日本の発言はもっと尊重されても』
 アメリカの金融制裁が効いてきたということでしょうが、北朝鮮の日本海に7発のミサイル発射には驚きました。真っ先に思ったのは、ミサイルが日本に飛んで来たら国民はどうするのか?という万全な「有事対策」の事。最小限に被害をくい止めるという「有事法制」を国家の責任に於いて尽くして下さい。遅滞ない防衛システムの完備を。それが毅然とした国家の必須条件です。偽札(ドル円)、麻薬、武器輸出があの国の「主幹産業」 なのだから、アメリカのブッシュ大統領が「悪の枢軸」と非難し制裁を加えるのは当然な事。根本的に国の政策の立直し、開放経済、産業を導入しの商人」から足を洗わないと世界中の国から支援される事はないで  しょう本も、北朝鮮からの万峰号の6ヵ月間入港禁止処置等の制裁を  発令しました。拉致問題に埒があかない日本とすれば遅きに逸した感は否  めませんが、願ってもないタイミングでした。国連への北朝鮮制裁決議案  も日本が提出し、今夜(7/10)には決議される筈です。報道によれば  、常任安保理事国5カ国中3ヵ国、その他日本を含めた非常任安保理国(  10カ国)全ては制裁賛成の予想で、安保理国のロシアと中国が反対に回  るかも知れない。ロシアは今年のサミット主催国であり微妙な処、北朝鮮  と軍事同盟を結んでいる中国は確実に反対に回る。中国の「拒否権発動」  故に制裁しない事になれば、中国は以降の北朝鮮の動向に対して応分の責  任を負わなければならない。万一、それでもミサイル乱発し近隣国、又世  界を不安に陥れ、北朝鮮を抑止させる事が出来ないなら、中国自体の安保  理国の資格を問わなければならないだろう。国際連合同盟こと、国連は世  界の平和を目指す為に第2次世界大戦後、その戦勝国5カ国の安全保障理  事国を幹として創設された。5カ国中、一国でも反対決議となれば、その  案は履行されない。                          
 しかし、その5カ国のいずれかの国が「平和」を望まない国であっても  、安全保障理事国としての地位は未来永劫保障されるのか、という事だ。  国連分担金の負担上位国10カ国を安全保障理事国とする、と改正をすべきではないか。世界第2位の国連供出金を負担し、又戦争放棄という平和憲法を「護持」し、武器の製造、輸出もしない、日本の発言はもっと尊重されて良いのではないか。以降の経過によっては、国連の存在意義を問題とすべき。                              
2006/7/11(火)                      
 結局、国連への北朝鮮制裁決議案の中国の選択は「国連議長声明」でし 
た。実質「拒否権の発動」といえるもの。中国(ロシアも?)の意向によ 
って制裁決議にならなかったのだから、先述の如く応分の責任をを負うべ  きでしょう。仕方がないので暫らくは中国の「お力」拝見としましょう。  

          『基本という不変』
  子供の頃、そろばんを習っていたので数字はよく書いてきた。     
しかし、それだからと言って算数とか数学は好きではなく、大がつく程嫌  
いだった。勉強すべてかな。それでも、映画は観ていないが、つい最近小川洋子氏の「博士の愛した数式」を読んだ。昨年に【自然は数学の言葉で  
書かれた聖書】と言ったニュートンをはじめとして9人の数学者を取り上  
げた藤原正彦氏の「天才の栄光と挫折」読み、その延長線上の興味から。  
私自身のノートに控えた「天才の栄光と挫折」の他の印象箇所は【数学と  
詩は、同じ想像力の上に立ち、数学の目指す真と、詩の目指す美とは同一  
物の二側面である。(w・ロウアン・ハミルトン)】、それは「博士の愛  
した数式」の中の【正解を得た時に感じるのは、喜びや解放ではなく
「静けさ」だった。あるべきものがあるべき場所に納まり、一切手を加えたり 
 、削ったりする余地などなく、昔からずっと変わらずそうであった様に、  
そしてこれからも、永遠にそうであり続ける確信に満ちた状態、博士は  
それを愛していた。】それこそ「調和」という、成立つ宇宙そのものの   
かたち。

 私本「夢幻」の中の【人間界の公式】にも書いた如く、1+2=3は、誰が発見したか、この単純な数、数式から今のこの宇宙の解明は為された。単純を語るものは無論、複雑を語る、それはその者がどの時代に配置されたか、というだけの事。
数の最初の概念の元は?物の分配の為か、  公平な。必要は発明の母というから、そんなもんでしょ。          
しかし、今のこの時代に生きていると、真実というか裏切らないものは、 
この数、数式という不変のもの、に思える。
それは、現代人が明確な生き方「基本」を見失ってしまった故でしょう
。  
「プリンシプル」(原則、基本的)という英語の言葉も、白洲次郎氏という人物、
その率直明快な発言と共に初めて知った。              
 物事を語る時に、例えば「靖国神社問題」にしても、A級、B級、C級の区別も知らずに参拝反対と言う。「言葉を消化」させる癖がついていない、というか先ず消化させる以前の「言葉の栄養」を摂取しようとしない、基本がなっていないからだ。
他人の身体の如くである。
地に足の着いていないクラゲのような浮遊物体ばかりになりそうな
未来を想えば、暗澹たる気持ちになる。                 
「靖国神社問題」を語るなら戦前、戦後史を知ることから始めなければ。 

 「紫禁城の黄昏」という旧満州を舞台にした実録本がある。(日本語訳中山理氏)下記にその一部を引用する。                
 作者はイギリス人でR・F・ジョンストン(1874〜1938)オッ 
クスフォド大学卒。シナ(現中国)に関する著書多数。香港英国領事館に 
着任後、香港総督秘書を経て、1919年皇帝溥儀(当時13才)の帝師 
に就任。1925年辞任、1930年英国に帰国(1年後再訪)。その後 
ロンドン大学主任教授を務める。                   

 本書は、「皇帝陛下溥儀」に捧げられている。又1931年の9月付で 
出版に際しての溥儀(宣統帝)からも序文が寄せられている。      
それには【甲子の年(1924年)の10月、叔父の醇親王邸宅を後にし 
日本公使館に避難した、私を危険から救ってくれた立役者はわが師ジョン 
ストンであった。私の代理として日本公使の芳沢と最後に会見したのも彼 
であり、その後芳沢は私を温かく迎え入れ、乱暴な軍隊(憑玉祥)から身 
を守る為公使館を避難場所とする事を許してくれた。1925年2月活動 
を再開し居を天津に移した。それは7年前の事で、ジョンストンは最初か 
ら最後迄、北京でも、その後は天津でも13年間という期間私に同行した 
。この真実の記録は身を以ての体験と観察に基づいているだけに、あの時 
代の悲哀や秩序撹乱を回想するものにとって、すこぶる価値あるものとな 
ろう。】とある。(一部割愛)                    
 
その書の原文が掲載され、又、ジョンストンが英国帰国に際しての最後 
の贈物「扇」には、皇帝溥儀直筆の古いシナの惜別の詩が書かれ、写真撮 
影されたのが裏表紙を飾っている。 
                 
 訳されたその一部【(略)あの風雪の日に われらは この地で別れ  
わが友は去る 河を渡り 同行したくても 流れは深く 橋もなし    
ああ、われらが ひとつのつがいの鷺ならば              
ともに 故郷へ 帰れるものを】                   

 少し前の映画「ラストエンペラー」で皇帝溥儀にいつも寄り添っていた 
黒い衣裳を来た西洋人が、ジョンストン氏。              

 以下は、本書の監修者渡部昇一氏の文章より。            
 前書きの一部【「紫禁城の黄昏」が東京裁判に証拠書類として採用され 
ていたなら、あの様な裁判は成立しなかっただろう。(略)満州は元来、 
満州族の土地であり、その満州族の偉い酋長(ヌルハチ)が1616年に  シナ本土を征服して清朝を建てたが1911年に革命(辛亥)が起こった 
後、最後の清朝皇帝は憑玉祥軍進攻の北京から逃げ出し、日本の援助で父親の土地で満州国を建設し、そこの初代皇帝となった。「万里の長城」の北の地域がシナ民族の領土であるわけはない。それは戦後のどさくさに中国軍が侵略した土地であるのは明白である。】                    

 「紫禁城の黄昏」の岩波文庫版(入江曜子・春名徹共訳)は、原書の   第1章から第10章迄と、第16章を全部省略している。
主観的色彩の強い 前史的部分という理由からだが、清国を建国したのが満州族であることの 
どこが、主観的なのか。又、同文庫では序章の一部を虫で喰った様に省略 
している。そこを原本で当たってみると、それは溥儀に忠義だった人の名 
前の出てくるところであるから、重要部分を勝手に削除した非良心的な刊 
本であり、岩波文庫の名誉を害するものと言ってよい。(原書450ペー 
ジ、文庫本437ページ。                      

 又、明らかな誤訳として、(英語原文掲載有り)           
原文は【皇帝が庇護を求める場合、誰に頼るとしても世界中でこの人達に 
は絶対頼りたくないのが、蒋介石と張学良だ】という内容だが、     
岩波文庫版は【皇帝が庇護を求めるとすれば、世界中で一番最後に頼る人 
物が蒋介石と張学良であることは、あらためていうまでもない】とある。 
以上。

 この訳文の差、そのままが日本の戦前史、戦後史となった。      
以降の日本の言論界、教育もこの「岩波史観」となったと言うことで、  
「先に結論ありき」だったのだ。 
                  
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『白洲次郎という人』
 白洲次郎氏は昭和60年に83才で亡くなっているが、最近氏の著作『 
プリンシプルのない日本人』を読んだ。下記に引用文を。         
 日本の敗戦後の占領下で唯一GHQに主張を曲げず、日本の戦後復興に 
貢献した人。ぶっきら棒で、単刀直入、余分な文言は用いず、道理的合理 
的言葉で相手を圧倒する。当時のGHQの参謀の一人から、「白洲次郎は 
立派な人物だ」とも称えられた人物。当時の吉田茂首相のブーレーンとし 
て、ワンマンの吉田茂を思う様に動かしている「白洲三百人力」とたたか 
れた程の政治力の持っていた。                    
 先ず、白洲次郎氏の特異性は既に先の戦争前の言動にも窺える。    
 戦争敗戦の予言───日独伊の防共協定(のちの3国同盟)の日本加盟 
の反対、英米との歴然たる戦力の差から日本の開戦にも強く反対していた 
。だが、いづれ日本は戦争に突入し、必ず敗北し敗戦経験のない日本は飽 
くまで抗戦して東京は焼野原になるだろうと言っていた。        
 昭和15年、予想どおり日本は開戦、白洲は敗ければ食糧難に陥るだろ 
うと、購入していた鶴川村に疎開、農業に精を出し食料増産を心懸けた。 
                *                 
 【対談】                             
白洲───戦争が始まった原因だって、軍人だけではなく外の人にも責任 
がある。外国の事を知らないね、ひどいもんだ。アメリカの生産能力をほ 
んとに知ってる人が日本の中枢に一人おったら、いや3人おったら戦争は 
起こらなかったよ。アメリカへ行った技術者が、アメリカから学ぶ事はあ 
りません、なんて報告をすると日本は世界の水準に達している、我々偉い 
もんだと思って喜ぶんだね。本当の事を報告すると、怒られるんだよ。  
 いまは逆でね、何でもかんでも感心して帰ってくるんだ。       

河上───次郎を偉いと思ったのは開戦直後にアメリカは2年後2000 
万トンの造船能力を備えるに至ると言った。そして、日本の海軍はそれを 
信用しなかった、そんなに出来るわけがないって。           
                *                 
 日本の敗戦後のGHQの占領行政のやり方は、建前としては日本政府が 
やり、重要なことはGHQから最高司令官の名に於いて指令し、外のこと 
はGHQが助言すると言う事であった。然し、事実は事こまかに、あらゆ 
ることに人事に至る迄GHQが指示したり干渉した。ヘイヘイと言わない 
奴、無条件降伏を地で行かぬ連中は、無能だとか難癖をつけられて現職か 
ら飛ばされ、排除された。占領当初は日本の役人にも仲々芯の強いのがい 
て殺されても嫌だなんていう頼もしいのもいた。一人飛ばされ、二人飛ば 
され、段々と稀になってしまった。私もGHQの民放局の首脳者に一番嫌 
がられた一人だが─────。                    
                *                 
 アメリカから日本への食料補給の実現、吉田内閣時、GHQ最高司令長 
官マッカーサーの直々の名指しで貿易庁長官に任ぜられる。白洲が就任前 
の貿易庁は、国際的にも「ボーエキチョー」は汚職の代名詞と言われる位 
の商工省の外局だった。就任後白洲は汚職蔓延の貿易庁を廃止し、通商産 
業省設置に尽力する。アメリカのジョセフドッジ氏に依る「ドッジライン 
」と言われる敗戦後の日本の経済的自立を促す為の政策導入(単一為替レ 
ートの設定と、超均衡予算の実施の2つの課題が提示された)以前に、そ 
のことを見越しての通商産業省の誕生だった。             
 又、電力事業の民営化、セメント、造船、農業の分野にも合理的精神を 
拓いた。発電所建設の件P46〜に「昔のコチコチの資本主義華やかなり 
し時代の様に、発電所を建設して出来た電気はみんな大都会に持っていく 
。地元、先祖代々水を利用しておこした電気であるのに、何の恩恵にも浴 
さない。昔ながらの石油ランプを唯一の灯火としている村落は数多ある。 
水利は国家の資源である。                      
それを利用する事によっては、先ず地元の人々、その県の人々、その地方 
の人々がその恩恵に与するべきと信じる。」これは『プリンシプルのない 
日本人』の昭和27年記の「東北一廻り」の部分だが「弱気を助け、強気 
を挫く」、権力に敢然と立ち向かった、白洲次郎氏の一面を如実に物語っ 
た箇処である。                           
 この戦後の姿勢の根底に「この国をこんな破産状態に陥れたのも我々の 
時代だ。死ぬ迄に、我々の愛する子孫の負担がいくらかでも軽くなってい 
る様に、ここで本当に腰を入れてやろうではないか。現実を直視して、勇 
気と信念を以て。」(昭和29年記)                 
 政治家の方々、少子化の現在、この言葉このまま、お受け取り下さい。 
 他に印象的言葉として「弱い奴が強い奴に抑え付けられるのは世の常で 
致し方なしと諦めもするが、言うことだけは正しい事を堂々と言って欲し 
い。その後で言い分が通らなくても、何をか言わんやだ。そのときのくや 
しさも又、忘れぬがよい。力が足らんからなのだ。力をつくって今に見て 
いろという、気魄を皆で持とうではないか。」(これは昭和27年イギリ 
ス艦隊乗組員2名が日本のタクシー運転手から金員を強奪し、外交問題に 
発展した件に関して。同書より)                   
【タフトとパールの正義感「東京裁判判決に際して」         
 【註】(当裁判で処刑された人間を祀っているのが「靖国神社」)   
「・・・是等一切の所謂世論なるものも、いつか冷静を取り戻し、正常  
に復する時も来よう。是時始めて、神の法廷に於いて正義の判決が下され 
よう」────戦犯容疑者として出頭当日の1945年12月16日未明 
自殺した近衛文麿の遺書。その決心の全てを語っている。        
「犯罪」のあった後で、「犯罪」の前にはなかった「法律」を、「勝てば 
官軍式」にデッチ上げての不当な裁判に対する彼の最後の抗議だっただろ 
う。                                
 我が国の真珠湾の攻撃の不意打ちが、わが国の歴史の恥辱の1ページで あったなら、この戦争裁判なる化物は、戦勝国たる連合軍、ことさらその 
主動的立場にあったアメリカ史上最大の汚点であったと思う。      
                                  
 有名なタフト氏『ニューディール政策に反対し、1947年「タフト・ 
ハートリー法」(労資の責任平等化をはかった法律成立の立役者)』は、 
東京裁判の不正義性を強調し、これは勝者の敗者に対する復讐心以外のな 
にものでもないと断定した。彼にはこの恥ずべき行為をアメリカの歴史に 
残すにはしのびなかったのだろう。又、インドのパール氏『戦争に措ける 
個人の責任の否定などを論拠に長大な意見書(パル判決書)を提出し、  
被告全員の無罪を主張した』が、同様趣旨の意見を述べて他の判事連に対 
抗しているが、この正義の暗黒期においてすら、2人の正義の士がいたこ 
とは、せめてものなぐさめであったと考える。             
                *                 
「プリンシプルのない日本人」(昭和44年記)           
 日本も国際社会の一員となり、西洋人と付き合うにはすべての言動に、 
プリンシプル(原則)がはっきりしている事は絶対必要である。     
 明治維新迄の武士階級は、朱子学を徹底的にたたき込まれた様だ。    
残念乍ら現在の日本人の日常はプリンシプル不在の言動の連続である様に 
思われる。                             
    ────────────────────────      

 以下は<青柳恵介氏著 「白洲次郎の流儀」より>           

       「個人主義、自由主義」                
 自立した物の考え方があった。2人(白洲次郎と妻白洲正子)に共通し 
たものは、言ってみれば自分の目で見た事に立脚し、自分の頭で考え、自 
分が人に話した事にはきっちりと責任をとるという、個人主義、自由主義 
であった。                             
 白洲次郎は、強く激しく、攻撃的だが、その目は少年の目の清澄を失っ 
ていない。                             
 「あなたは何者ですか?」という問には、白洲次郎は「農民だ」としか 
答えなかった。                           

──────────────────────────────────
  白洲次郎 【略年譜】 (「風の男」青柳恵介氏著より)    
明治35年2月17日、兵庫県芦屋に生まれる。父文平は綿の貿易で産を
成した富豪。「傍若無人な人」だったという。            
大正8年、神戸一中を卒業。学校では乱暴者、ベイジ・グレンバックを乗
り回す「驕慢」な中学生。まるで「島流し」にされる如く英国に渡り、 
ケンブリッジ大学クレアーカレッジに入学。             
大正14年 ケンブリッジ大学卒業。7世ストラッフォード伯のロビン・ビ
ングとの終生の交わりを結ぶ。                   
昭和3年年 大学院で歴史を学び学者になろうとしていたが、自家の「白洲
商店」が倒産したために帰国。                   
昭和4年 樺山正子と出会い結婚。「ジャパン・アドヴァタイザー」という
新聞社の記者となる。その後、「セールス・フレーザー商会」という商社
の取締役に就任。                         
昭和12年 「日本食料工業」のちの日本水産(株)の取締役に就任。一年
の大半を外国で暮らす。吉田茂と親しく付き合い、英国大使館が白洲の常
宿となる。                            
昭和15年 この頃仕事から退き、日本が戦争に突入すれば食糧不足になる
事を予見し、鶴川村に土地を求め農業に専念する。一方吉田茂のいわゆる
「ヨハンセングループ」の一員として「昭和の鞍馬天狗」的活躍を始める
。                                
昭和20年 吉田茂に請われ「終戦連絡事務局」参与に就任。GHQを向こ
うに回し、八面六臂の活躍が始まる。                
昭和21年 日本国憲法誕生の現場に立ち会う。「終戦連絡事務局」次長に
就任。                              
昭和22年 「終戦連絡事務局」次長を退任。             
昭和23年 初代の貿易庁長官に就任。商工省を改組し通産省を誕生させる
立案者の中心的存在であった。                   
昭和26年 電力再編成の分割民営化をすすめ、東北電力会長に就任。  
サカフランシスコ講和条約締結の全権委員団に「同行」。       
昭和34年 東北電力会長を退任。以後、荒川水力発電会長、大沢商会会長 等を歴任し、大洋漁業、日本テレビの社外役員、「ウォバーグ」顧問等を  つとめる。80才の頃まで自らポルシェを乗り回し、軽井沢のゴルフクラ  ブの理事長としてその運営に力を注いだ。                昭和60年11月28日逝去。                     
           ★  ★  ★                 
 この「風の男」の第1章の冒頭は、                 
<軍人辰巳栄一に向かって白洲次郎は「軍人は戦争のことをだけを考えてりゃいいじゃないか、軍が政治や経済にまで口出すなんていうのは、とんでも ない話だ」(昭和11年2月に発生した皇道派青年将校の暴走「2・26事 件」に芯から怒っているようであった。)>                
この内容から始まっている。今読んでいる途上なので又、後日にでもご紹介しましょう。                            ───────────────────────────────────
         『読後記』                    
「プリンシプルのない日本人」読んでいた時期。昨日の6/21(水)は 
晴れ、夏至だった。今朝の新聞でそれを見るまで気付かぬ侭、今日は雨で 
、これから一日一日、日が短くなって行く。夏本番前だが、熱い!熱い! 
「白洲次郎」が熱い。今日読んだページは、氏が経済界の人間から「ホエ 
ル君」と揶揄されていた部分があり、笑ってしまった。         
この頃余程氏は、怒って吠えていた様だ。               
   ”「ホエル君」 夏至の紫陽花に カエル君 ” よし子     

 「戦争時代」を生きた氏の、敗戦国となり、経済破産、空腹者ばかりを 
抱えた日本としてしまった責任感から、再復興への祈りを、言論、実行力 
に於いて貫き、同時代の人間の牽引役を担った人物と言える。      
 現在、GDP世界第2位と言われる経済大国日本の、礎石となった人物 
であるのは、間違いない。                      
──────────────────────────────────
    「年代表示を見ながら」
 座談会の部分は、昭和25年から昭和44年迄の右ページ下の年代表示 
を見ながら読んだ。                          
この頃(昭和26年)5才だった………(昭和44年)23才だったと、 
自身の幼少の頃から、青年時代を背景にして。             
現在は失くなってしまった大阪野田阪神駅前の坂道辺りに居住していた頃 
が頂度昭和31年、10才頃。                    
現在からその時代を俯瞰すれば、確かに貧しかった日本、何度も出てくる 
言葉「敗戦の惨めさ中で……」、昭和29年の論説にもその言葉があり、 
当時の日本人は皆、こういう感情を抱いていたのかと、初めて知った。  
その頃私は小学2年生だったから、若し両親や囲りの人間がその類いの会 
話をしていても解らなかっただろう。やはり、いつの時代も「子供の頃」 
は素晴らしい。無邪気な頃の私が、そのページの上で石蹴りをしている。 
 家の前の、よく遊んだ坂道、坂道を越えれば違う次の道へ進んで行ける 
。大人になると言うのは、自由な大きさの様に、その当時の私は思ってい 
た。それが、坂道を越えるという事だった。              

 そして、坂道を越えた結果は────                
「子供」でなくなっただけ、だった。                

                  *               
     「敗けた」愚を、「惨めさ」を
昭和21年生まれの私は戦争を知らない。だが、その年代の者の共通項 
として親から繰り返し聞かされた言葉がある。空襲警報、B29戦闘機 
、焼夷弾投下、防空壕、貧しい配給、「戦争は厭や!」。毎日食事の度に 
聞かされた。昨年に母が亡くなり、何故かその言葉が鮮やかによく蘇る。 
それは経験者でなければ語れない、切実さを憶えている。        
 そして、次々にその時代の人間が鬼籍に入っていくに付け、その想いは 
受け継いで行かなければと思っている。                
                  *               
 先日の北朝鮮ミサイル発射の件で、万一日本がミサイル攻撃を受けても 
なんら対抗手段はない、という日本側の発言ほど無責任なものはない。  
以前に日本上空を超えて同じ北朝鮮からのデボドン1号の発射があったの 
に、あれから万一に備えての方策がなんら講じられていないのは、政治の 
怠慢としかいいようがない。国民の身体と財産を護るのが国家の義務であ 
れば、「万一」がなければ幸い、でも「その時」にはどのようにして国民 
を危険から護るのかと言う事を考えるのは当然の事でしょう。      
政治家はなんのために、存在するのか。                
 「万一」があってからでは、オソイのです。             
                                  
 戦力が劣っていて「敗けた」愚を、「惨めさ」を、繰り返させないよう 
日本の未来の為、切にお願い申し上げます。              

                  *               
 その北朝鮮への国連審議は中国提案の制裁条項を省いた「非難決議案」 
が浮上し、足並みの乱れが懸念される。大体制裁決議のない決議など、そ 
もそも何の意味があるのか。「悪の商人」国家をこのままで存続させる事 
の世界への悪影響を、日本はもっと訴えるべき。            
 アメリカもイスラエルへの非難決議案に拒否権を行使した状況となった 
が、発端はレバノン側の人間がイスラエル兵2名を拉致した事にあり、そ 
れに対してイスラエル軍がレバノンを爆撃したのだから、拒否権行使は最 
もであると言える。北朝鮮の場合は、元々自分から原因をつくっている。 
先にも書いている偽ドル造り、麻薬、武器輸出など。根本に問題がある。 
それに対するアメリカの金融制裁だったのだ。              
             ★                  

 最後に、先述の本の題名の(小川洋子氏著書)「博士の愛した数式」は、          

 でした。

         2006/07/15 15:40          
   ───────────────────    
7/16(日)    『ジダン選手は立派』
 サッカーワールドカップが終わりイタリアが優勝となりましたが、なんと後味の悪い結果な事でしょう。フランスのジダン選手の「頭突き」行為は確かに暴力でしょうが、ならば何故それが誘発されたかと言うことを問わないのでしょう?そして、何故「言葉の暴力」行為は是認されるのか。言葉には言葉で、と冷静時には思ったり、言えても、体を極限状態に駆使している時には、体による反発行為となり易いでしょう。その「言葉の内容」が事実であれば、それを発したイタリアの選手こそ責められるべきだと思う。明らかに、それは相手の弱点であり、それを挑発する意図があった。家族を侮辱するその言葉は重ねて3回も発せられ、暴力沙汰となり、ジダン選手最後の試合だったのに余りに惨めで、気の毒でなりません。我が国では家族の崩壊と言う言葉を使いたくなる様な事件が多発する中で、家族の名誉の為に憤慨したその行為は、美徳とも言いたくなります。重ねて言うけれど、その「言葉」の「暴力」がなければ、フランスが優勝した可能性は充分あった。こういう悪い手本が後々のサッカーの「勝利の法」とならない様、再試合で決着つけるべきではないでしょうか。 又、今大会は特にサポーターからの「人種差別」的発言が多く見られた様で、ジダン選手はスタンドに向かってそれへの戒めを呼び掛けていたとか。
 ジダン選手は、立派な選手でした

         2006/7/16 (日) 23:53

──────────────────────────             7/5(水)   『北朝鮮も開放経済導入を』
今朝はメディアすべてが北朝鮮のミサイル発射報道でした。
夜のテレビのニュースで発射位置を見てみると、テボドン2号以外は大陸沿岸沿いに「うまく」並べて落下させている。2国間対話を拒否しているアメリカの経済制裁解除を目論む、前回のテボドン1号の時と同じ手法なのでは。
それにしては射程距離の違ういろんな名称の陳列の如くですが。
 6発目の後、日本も万峰号の6ヶ月間寄港禁止等の制裁発令を発表しました。当然の処置でしょうし、拉致問題が進展しない現状を思えば遅きに逸した感も免れません。今回のこのミサイル発射によって北朝鮮は益々自国を
追い詰めてゆくことになるでしょう。、北朝鮮に偽ドルを大量に造られ流通させられていたのですからアメリカの経済制裁は当然の処置で、先ず北朝鮮は6カ国協議のテーブルに着いてその事の謝罪、核査察の受入れに応ずるしか途はないでしょう。そして根本的に先の偽札造り(これまで日本の1万円札もあった)麻薬、武器の密売等、又拉致問題の未解決然り、「悪の枢軸」と言われない様な産業と経済の構築に取り掛かり、国の建て直しを計るべき
です。
 「悪の商人」の国の存続を世界のどの国も支援する筈がない。
     2006年7月6日 0:05:55        

 (3/21〜3/28迄掲載。又【マイポエム】「朝蜘蛛」【マイメルヘン】「夢の中」笑話「復活」掲載)       
 
3/24(金)『彼岸の墓参』(後の後まで)
<私のフォトスケッチへ> クリック            
 3/21(祝)春分の日の当日、午後1時迄の仕事を終えた上の甥子と 
墓参に向った。丁度テレビで野球のWBC決勝戦を観ていたので後髪引 
かれる思いを残し………。花は前日に買っておいたので駅まで一直線。い 
つもは車で行くのだが、車検が切れていて、廃車にするか状況を勘案しな 
がら決めようと家の前に置いた侭にしている。             
午後2時2分発の準急に乗り枚方で特急に乗換え2時40分前後には五条 
駅に到着。車だといつも五条通りが混んでいて2時間位掛かる時がザラ。 
帰路空いていて1時間位。それに比べたら電車は速い、速い。      

   ”車より 京阪特急 速かったー ”              

 五条駅を降りてからはデジカメを手に持ち裸木の街路樹、通り沿いの家の端麗な鉢植え等をパチリ、パチリ。ある家のガラスケースの中にはサボテ 
ンが幾つか並べられてあった。こういう扱いを見たのは初めてなので又パ 
チリ。待っている甥子が気になるので花を持たせて先に墓へ向かわせる。 
車で来た時ならさあっと俯瞰する如くに行き過ぎる所が、歩いて見るとそ 
れはミクロの発見の如くに思える。(これはこの日一日の全行程を通して 
言えた事だが)何か、初めて京都へ訪れた旅行者の気分。        
          「舞妓はん」
そう思っている処へ五条坂を上りはじめて少し、絶好のシャッターチャン 
ス、絵の様に小寺の入口辺りに立つ舞妓さん2人と遭遇する。      

   ”五条坂 舞妓はん 撮り 歩き得 ”             
                                  
   ”舞妓はん 「祇園小唄」の だらり帯 ”  
         
                                  
 思わず「祇園小唄」口ずさんでいた。京都をこよなく愛した吉井勇氏作 
詞の歌だが、故宮川泰氏の漸新な編曲でザ・ピーナッツが歌っていたので 
憶えている。(宮川泰氏の事は後述)それにしても昔の歌は歌詞の比喩が 
豊かで、聞き流すのではなく「妙味な歌(詩)の味わい」を堪能出来る。 

 五条坂の突当り七味屋の看板が視界入った辺り、裸木の桜の「彫刻」を 
パチリして、その七味屋のある清水寺の参拝道に入り墓参の時たまに寄る店で「八つ橋」と「おたべ」を買い、七味屋さん前迄戻り三年坂を下る。  
いつも乍ら人で混み合っている。すぐに墓参寺辺り、地図の目印の如く鮮 
やかな桃色の花が目を引く。階段を下りきるとやはり興正寺の入口に今日 
が最後の艶やかさというばかりに桃の花がこぼれそうに咲いていた。   

   ”春分れ いまが満開 桃の花 ”               

パチリした後境内を急ぐ。墓参段の天辺を見上げると、先に墓を洗うでも 
ない甥子が待ちぼうけている。                    

   ”彼岸段 明けき裸木の 含羞や ” 
             
                                  
 いつも階段上を鬱蒼と覆っている葉をすっかり落とした裸木が、羞かし 
気にその身を晒している階段を上がり切ると、             


   
”墓参段 上がり 天から 枝垂れ梅 ”            
                                  
 本当に今日はいい時に来たと思える程、この白梅、隣の紅梅も満満開。 

   ”亡き母は 白梅一りん 慎ましく 忍ぶ寒中 一番の花 ” 
  
                                  
 白梅の美しさは、日本女性それも戦前の、と思う。          

 昨年12月1日に母が亡くなり、毎年欠かさないお正月の墓参も来れず 
墓は汚れが放題にこびりついていた。本当に参ってこその墓と思う。   
当日、いつもは来る下の甥子は高校のクラブがあり来なかったが、上の甥 
子にこの状態を示しながら「私の後(のち)」の事を言い含めておく。  

   ”汚れつき 参ってこその 墓石なり              
         甥子に つげて 念入れ 洗う ”         
                                  
   ”生きている 時のままの 墓石なり              
           亡き母建立 朱文字の法名 ” 
         
                                  
 以前にも書いた事があるが、この京都に墓を造ったのは私が若い頃よく 
京都へ行っていたので、父の13回忌の年(昭和52年)に母は「母の後 
」を思い此処に決めたと、生前に言っていた。その折に墓石の祖父母、伯 
父、父と各俗名と法名が並ぶ父の隣に、母は生前法名と俗名を「朱色」で 
彫字した(今年1/23付にも書いたが)。死んだ者とのもう一つの違い 
は「年令」の欄が空白なこと。現実には残念乍ら「84才」と確定してし 
まった。                              

 未だ未だ若いが唯一日高家の血筋引く甥子2人。「その後の後」までを 
切に願う。                             

 この墓の奥、葉が茂っている季(とき)は突き当りに見える楓の枝の間 
から、実際は実在している家々が下方に見える。            
買ったばかりの八つ橋とおたべ花をお墓にお供し母の死を報告。     
今度参る時は母の納骨になるだろうか。                
その頃は楓の葉が一杯に行き止まりの通せんぼをしている事だろう。   

          「ねねの道」
 墓寺を出てからは甥子に「五条駅からやったら特急に乗換えなアカンか 
ら四条駅迄歩こか」と言って、四条方面に石畳の道を下った。      
 土産物店の立ち並ぶ中、何が欲しいわけでもないが興味津々、次々の店 
に目だけ停まらせ乍ら進む。寒いけどソフトクリームを食べてる人を見て 
欲しくなり、私は抹茶、甥子はきな粉を買い、食べながら歩いた。    
食べ終わった頃、店頭に小さいが山辺を流れて来る水を絶えず循環させて 
いる様な置物や、フクロウの形をした灯りとり等の置いてある雑貨店で足 
を止め「全品1050円」の表示に興味を持ち店内に入る。       
置物の他に、人形、時計、バッグ、暖簾等なんでもござれという位並んで 
いた。甥子の姿が見えないので探す内に続き間の様な入口をくぐると、詩 
と俳画のコーナーで、色紙や葉書、湯呑みコップ等に書かれた作品を見て 
いるだけで気持ちが爽かになる。同じように甥子もやって来て一巡した後 
店を出た。結局何も買わなかった。                  

 高台寺辺りで若者達のダンスショーがあり、結構練習を積んだものと思 
わせた。だがショータイムの終盤近かった様で直ぐに終わった。     
其の仮設舞台の後方には桜色の梅の花?が満開(寒桜かも知れません)その上には高台寺の鐘楼が見えた。
「ねねの道」に行き遇い一瞬、時代が逆戻りして「ねね」さんが(豊臣秀吉の奥さん。秀吉死後の晩年の住処が高台寺)鐘を撞き、ひとりその道を歩いて来そうだった。 
私が350年後を予測出来ない様に、当時のねねさんからは想像も出来な 
い現代の賑わいの中、当時の静寂さをたぐり寄せた。          
     ”鐘の音 ただそれだけの ねねの道 ”          
 今度ひとりで高台寺に来よう。                   

 ほどなく円山公園に着いた様だった。電車を降りてから3時間、ひと休 
みを兼ね湯気のたっている店で肉まんを買い、店前のベンチの空いた所に 
素早く座り甥子と共に食べた。飲物は墓供のお下がりの缶コーヒーと缶ジ 
ュース。よく歩いて美味しかった!                  
 其処を発った後はうぐいす廊下で有名な智恩院前迄来てしまった。車が走り抜ける道路があっ 
たが、道を戻り車の走らない路を折れて歩を進めると円山公園地下駐車場 
入口辺りに出た。頂度「花灯路」の灯が点り、その先は八坂神社を仰ぐ四 
条通りだった。念の為、道行く人に確認がてら京阪の四条駅を聞く。   

3/27(月) (3/21つづき)                 
 墓参に来てたまに嵐山へ向う時は、この四条通りを一直線に車を走らせ 
る。その時には車のスピーカーから京都がらみ又は環境問題を含めた日本 
、地球の未来の為のPRを流している。自分では良い事をやっている積も 
りだが、京都の皆さんはどう思っているだろうか、と四条通りを歩き乍ら 
思った。【七彩】という看板の画材具店がある。ずっと先にも何屋さんか 
分からないがやはり【七彩】という看板があり、もう少し先に【サンコー 
ル】という会社もある。それをヒントに【七彩の虹】というメルヘンを書 
いた。私のオリジナルのBGMと朗読の作品に仕上げ(若い頃に聴いた浅 
川マキさんの「赤い橋」という歌も私の唱で挿入)この四条通りでも流し 
た事がある。                            
浅川マキさんに連絡が取れれば、ご一緒にイベントをやりたいですネー。 
                 * 
             「古(いにしえ)の息遣い」 
 大通りを車で走り抜けたのでは分からない、歩いて感じた京都の肌触り 
。それは古(いにしえ)のたゆまぬ息遣い。              
鈴虫の音色が雑音に聴こえるだけではなくアメリカ人は桜の花も美しさよ 
り、散った後の汚さの方を強調すると先日のテレビで出演者が言っていた 
が、生まれ育った環境の違いで「人間」にも歴然たる差がうまれる。   
日本民族は根底に風土が培った「美意識」を持っている。故に前回分でも 
触れた自然崇拝主義(アミニズム)、大自然の中に神をみる。      
それは日本に生きた故に「与えられた」ものなのに、明治以降の日々の近 
代化の「影」としてしまい、第2次世界大戦の敗戦でそれは致命的となっ 
た。クラシック音楽、絵画等外国文化も素晴らしい。芸術から受ける感動 
は世界共有のもの。加えて日本人は「虫や花」から感じる繊細な感性を有 
する。温暖化が地球を水没させる未来を忌避出来るのは「影」にしてしま 
ったものを再発見する事、その足掛かりが京都の古(いにしえ)中にある 
。                                 
 1600年の関が原の戦いで徳川が政権を獲る迄はずっと奈良、京都が 
日本の中枢だった。その歴史の重みが、第2次世界大戦時の日本全土壊滅の爆撃からこの京都、奈良を救った。それは芸術の国フランスのアメリカ 
への進言に依ると、新聞か何かで見た事がある。日本で唯二心臓の止まっ 
たことのない都市。「歴史の中へ入って行ける所」があって「日本」とい 
う国を再認識出来る。消却と消費が文明度の高さの如く跋扈する現代、そ 
して未来。京都を「後(のち)の後(のち)まで」という、京都の人達の 
使命感が「日本」を、「やまとごころ」を保たせている。        
            2006/3/28 13:00               
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3/23(木)  「WBC日本優勝」(日本精神)     
                                  
    ”ミスジャッジ 公正なる 「天」の判定           
            WBC   日本優勝 ” 
         
 アメリカの決めたルールのお蔭で日本は浮上しWBC優勝という結果が 
もたらされた。選手の皆様おめでとう、そしてお疲れさまでした。     韓国第2戦で敗北し自力での日本の準決勝出場が不可能となった後、イ 
チロー選手曰く「屈辱感で最低の酒を味わい」、その後「優勝して最高の 
酒を味わえた」。それは日本が次のメキシコ戦に勝ち、アメリカがメキシ 
コに敗け同勝敗乍ら失点率の低かった日本が準決勝進出権を得た。韓国との第3戦となる準決勝では6ー0で雪辱を果し、決勝のキューバ戦に勝ち 
優勝した。まさに「止まった心臓が動いた」というこの激動の展開の実感 
の言葉。                              
 アメリカとの試合で日本は塁審の判定を主審が覆し前代未聞の得点抹消 
され、結果として日本は逆転負けを喫した。              
振り返って思う事は、日本の勝因はあのアメリカ戦、あのミスジャッジか 
ら始まった。「捨てる神あれば、拾う神あり」という諺がある。<その為 
に、あの時捨てられた>。翌日以降の海外のメディアはあの判定にアメリ 
カブーイングを書き立てた。その気配に<気紛れな神様>も真摯に状況を 
見守った。そして、魂の汗(祈り)を一番多く流した(捧げた)チームに 
神の判定は下されたのだ。                      
 韓国第2戦敗退後日本ベンチの選手はすぐに立ち去らず、呆然と韓国選 
手団を見詰め、その信じられない状況に対する思いがヒシヒシと伝わって 
きた。特にイチロー選手の吠える野獣の如き顔相は、日本選手団の象徴に 
思えた。「一度死にましたから、恐いもの等何もない」王監督の言葉の如 
く(ダメモトの気持ち)「守り」ではなく「攻め」だけに徹する事程強い 
ものはなく、優勝は必然だった。                   
 「念ずれば、通ずる」これぞ、日本精神です。ニッポンバンザーイ!  

 王監督の統率力は勿論だが、イチロー選手の存在は日本優勝の大きな一因だろう。「念ずる」と言う信念の以前に選手に自信を持たせる、それが 
試合前の「30年間云々」の言葉だった。そして、あの気迫、執念それが 
天に通じたのだ。「世界の王」監督に恥をかかせたくない、と言う言葉も 
印象的、「男」の言葉だった。                    

 各国の代表選手団が集った今回のWBC。さぞかし、メジャーからの触 
手が多いのでは?                          

3/23(木) 『青春の彩り・宮川音楽(ザ・ピーナッツ)』      

 3/21(火)に作曲家の宮川泰(ひろし)氏が亡くなられた。     
3/22のその日は朝刊を未だ見ていなくて、皮肉にもそれを知ったのは  
テレビのワイドショーで、日本チームがWBC優勝特集のその後に取り上  
げられた。歓喜のあと、悲底に落とされた。子供の頃の「私」が、WBC  
日本優勝を喜び、宮川氏死去で若い頃の「私」が悲しみに沈んだ。何故な  
ら、子供の頃の少女時代は野球大好きで、長嶋選手一色だった。      
  若い頃の青春時代は、ザ・ピーナッツ一色だった。          

  ”渇いたる 青春道に 清水の音                  
        澄んだ歌声 ああ「可愛い花」 ”
 (「夢現」より)  
                                   
 宮川泰氏と言えばザ・ピーナッツを発掘、育てた人である。       
当初は作曲家というより、編曲家として卓越していた。ザ・ピーナッツの  
歌った外来音楽の編曲は全て氏に依った。ザ・ピーナッツの歌が魅力的だ ったと言うことは宮川泰氏の音楽センスの賜。              
 ザ・ピーナッツは約30年前に引退したが、宮川泰氏の存在は私の青春  
回帰の拠り所だった気がする。最近は余りテレビでも見掛けなくなり寂し  
く思っていたが、報道に依ると前夜も元気に缶チューハイを買って帰り、  
翌朝に死亡、虚血性心不全という突然の死だったとか。          

今朝にはご自宅に弔電が届いた事と存じますが、改めて宮川泰様の御冥福を心よりお祈り致します。と共にご家族、渡辺プロ関係者の方々には謹ん  
でお悔み申し上げます。合掌。                     

  ”我が青春を 彩りし 宮川音楽(ザ・ピーナッツ)”  
     
2006年3月28日 21:33


 (2006/2/14(火)〜3/6 及び2005/11/15分を
掲載。又<マイポエム>「土と老人も書き込んでいます。)                                  *
        『目が覚めた?』              
 昨年の今頃だったライブドアの時間外取引によるニッポン放送の株買占│
め、あれが「日本狂走」の魁けの如「勝ち組、負け組」なる言葉が闊歩し、戦後からの拝金主義に拍車がかかった。              
                                 
 頂度堀江氏が選挙出馬した日だったか、読売テレビのワイドショーで5
月のラジオの放送での同氏の録音が流れた。「政治には興味ない、政治家
になる人はアホではないですか」「なるなら金で総理の椅子を狙いますよ
」と明言していた。これでは小泉首相の改革から逆戻りの金権政治の復活
ではないか。                           
 同氏の言動には一貫して異を唱えて来た。それは日本の未来を憂えればこその想いから。公認こそしなかったが自民党推薦での立候補に、私は自
民党を応援するのを躊躇した。昨年の3月の445のヘージに掲載の「夢
も希望もない」にも書いている通り「メディアを殺す」「金で心は買える
」の如き大放言の輩を認知した事はその後の国民の志向を決定づけたと言える。若し、堀江氏を「公認」していたら、私はあれ程の自民党応援は控
えただろう。小泉首相の政治家としての志にも疑問を抱いたと思う。  
                                 
 今年ライブドア堀江元社長他幹部の逮捕後、テレビのコメンテーナーの
「現政権の(9月迄)権力衰退の顕現です」という言葉が一番印象的だった。ならば小泉首相がもっと政権の座に「在れば」、あの一連の「風説の
流布」「偽計」「粉飾決算」「マネーロンダリング」等の犯罪行為がずっ
と見過ごされていたかも知れないと言う事ですか?         
「政権」とは恐いですね。                     
あの選挙の頃、日本人皆が魔の風に翻弄される様に「改革」を支援した。
それがこの堀江被告を野放しにした規制緩和政策である。規制緩和それ自体は市場開放という意味で良しとしても、罰則をきつくすべきだった。ア
メリカでもエンロンゃウインドコム等同種の事件があったのだから(以降
アメリカは罰則を強化した)、アメリカの真似をするならトコトン見倣え
と言う事。その意味であれだけ巨大な資産「時価総額」を膨らませた企業
の、「時価総額」という「まやかし」の部分を何故金融庁、証券監視委員
会、東京証券取引所が疑惑を持たなかったのか?先ず粉飾決算に。   
                                 
 あれから1年経って、堀江氏は堀江被告となり「隠し金」も暴かれる。
だがそれは自業自得というもの。でも気の毒に一番の被害者は株主でしょ
う。でもこういう事態となって、良かった。             
あの狂奔が「止まった」。そしてなにか「目が覚めた」というのが実際の
処はないでしょうか?「悪い事をしないとあんなに儲ける事は出来ない
」のです。そしてそれは「犯罪行為であり裁かれる」のです。     
「なんでもお金で買えない」から刑務所に収監されているのです。 
 これが分かっただけでも、良かったでしょう?           
                *
       『天皇制という「日本の象(かたち)」』
 現在何故、小泉自民党を応援したか、と改めて自問すれば、解散という
「死んで、生きよう」としたその心意気にであり、積年の不良債権処理を
断行、そして自民党員が郵政民営化を最初から掲げていた人を総裁、総に選出しておき乍ら郵政民営化反対という反旗を翻したからである。  
 だが堀江被告事件、又耐震偽装事件等を知るに付け戦後の拝金主義に依
って、アメリカナイズされた日本人ばかりとなった「日本」には失望と絶
望しか見出だせず、そんな折の女性、女系天皇を認める「皇室典範改正」
強行状況に日本の瓦壊、日本丸の沈没も遠くないと危惧し、最後の砦が天
皇制だろうと想った。それは「理屈」ではない。理屈で言えば女性、女系
でもよいだろう(現に私は一連のこの事件が起きる迄それを肯定していた
)。しかし、そのこれまでの制度こそが日本という「国柄」、「美しい日
本人」(無私な、恥を知る)が在た日本国なのだと想う。美しさは、理屈
ではない。                            
 そこに紀子様の「ご懐妊」の朗報だった。国会中継中、小泉首相がその
メモを見た時の様子は質問者の声も耳に入らぬ様だった。       
                                 
 まだ皇太子妃雅子様もご懐妊される可能性があるのに、今国会での皇室
典範改正なる拙速が忌避された事は、小泉首相にとっても後の名声に傷が
付かずなによりでした。                      
                                 
 余談になるけれど、日本人の神仏両方を拝する多神教的信仰心は(春夏
秋冬の四季への受容体)を持っている事。又「天皇」を頂天に崇めている
が故の伝統は(四季ある故の穀物の変わらぬ実りへの感謝と祈念、その代
表者の天皇<祭祀主>の祭礼行事)日本人特有なものだろう。     
 「日本人とは?」イコール、自然崇拝民族<その万物の内に八百万の神
(やおろずのかみ)がおわします>であり、(この事は2004/3/28
『星と月』も触れています。)その代表者が天皇だった。    
                                 
 誰もが「血筋」、犬までも「血統」を優位する。その純血純粋な「父系」という血統をずっと維持して来られたのが「万世一系」の天皇家です。
世界に類例がない制度を2600年以上保持されたというのは、神武天皇
からの日本の建国(独立国)の誇りの継承心であろうかと推範します。 
                                 
 私達日本国民はこの天皇制を保持してきた事こそ、誇りに思って良いと
思います。この風土もつ日本という国の、美しい自然の象徴が富士の山な
ら、日本人の精神性の象徴が天皇だった。(それは、明治以降の「現人神
<あらひとがみ>ではない)それ等の統合が「日本の象(かたち)」です
。壊したり、潰したりするのは簡単、でもその形を2600年以上保持し
てきたという、その先人の積み重ねにこそ敬意を払いたいものです。  
 いま一度、万物を滋しんで来た「日本人の心」を蘇生させましょう。 
                                
 2005/3/18付『日本は天国』にも書いている通り、イスラムの
人が伊勢神宮境内の樹木の緑を見て「日本は天国」と驚嘆した事を、忘れ
ずにいたいものです。                       
                                 
 今回の「皇室典範改正」論議のお蔭で女性、女系天皇の違いを理解出来
ました。ついこの間の国会中継中「愛子様のお子が男子でも(天皇として
)認めないと言う事ですか?それでいいんですか」と小泉首相が発言され
ていましたが、「それを」論議している分ですよね。愛子様が「女性天皇
」になれば、そのお子はどちらにしても「女系天皇」となるという事を。
                                 
 この1年位で結論を出し法案提出寸前だった?「皇室典範改正」論議、
この件に関しては急がなくても「どうしてもそうしなければならない時」
で良いのではないでしょうか。                   
         2006/2/16  18:50                
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2/18(土)     『功名は「巧妙」に』                     
 どう収拾するのか注目していますが、民主党議員による「元ライブドア
の堀江氏は社員へのメールで自民党の武部幹事長の2男宛に3000万円
を振込む指示をしていた」という国会での発言。そのメールの写し、黒塗
り部分の多い「紙切れ一枚」であれだけ具体的に明言しても、それをどう
すれば信用出来るか、という事です。昨日の国会中継で自民党の逢沢議員
が尤もな反論を述べられていたが、せめて、「3000万円振込みの事実
」位を立証しなくては、話になりませんわ。             
 民主党の方々、ライブドア堀江氏の悪事をどんどん暴いてくれるのはい
いですが「勇み足」されませんように。もっと「詰めて」からでも遅くな
かったのでは? <功名は「巧妙」でこそ、もたらされる>      
               
         『ウィルスストーカーにお手上げ』
 話は全く変わって、この2月になってから3回、私のパソコンをリカバ
リしました。作業途中で画面が「フリーズ」したり、「ダウン」、関係な
いアプリケーションが「展開されたり」、カーソルが思うように「動かず
」(直ぐ上をクリックしたいのに、カーソルが反対方向に動く時もある)
、スイッチを入れてから独特な起動音が続き、すぐにパソコンが「起ち上
がらない」。                           
                                
 3/5(日)これに打込んでインターネットに流さない侭2週間過ぎまし
た。そして、性懲りもなく又、パソコンをリカバリしました。     
 先月にずっと使っているセキュリティソフト「ウイルスバスター200
6」を又新に買ってパソコンのドライブに入れたのに起動せず、仕方なく
製造元に電話して代替品と交換して貰ったが、大して効果上がらず。 
加えて、インターネットに繋いで【windous MediaPlay
er8】のダウンロードした時に、又【ウイルス】に侵入された。起動時
間が又やたら長くなってしまったのです。              
もうリカバリするのも疲れたので【ウイルスくん】と気長に付き合います
わ。例の(直ぐ上をクリックしたいのに、カーソルが反対方向に動く時も
ある)は、パソコンの<ユーザー補助>でマウスを使わなくてもキーボー
ドで動かせる方法を見付けたので、なんとかイライラは<イランちゃん>
に出来そうです。                         
                 *   
          『価千金の金メダル』     
 この僅か2週間の間には濃密な出来事がありました。        
先ずなんと言っても<トリノ五輪>フィギュアスケートでの荒川選手の【
金メダル】受賞。ホント文句なしの「金」の演技で、思わず「丹頂鶴のし
なやかな舞」を彷彿させました。勝因はエンターティナーであったこと。
あの一躍有名となった「イナバウア」は採点には勘案されないのに敢え
て、自身の最高のアピールになる演技を披露した。それがあの唯一の観客
のスタンベーションという熱狂を導き、「金メダル」の結果をもたらした
と思いました。今大会の日本で唯一のメダル、そして日本では勿論、アジ
アでも初めてのフィギュアスケート「金」でした。まさに価千金(あたい
せんきん)です。                         
 それにしても結果として4位だった村主選手はミスもなくメダルを貰っ
ても良い演技だったのに、1回転倒のロシア、又2回転倒したアメリカの
選手が各銀、銅メダルだったのは、この分野での審査に未だ未だ偏見があ
るのではと思わせました。                     
 今日4時からのテレビの「06’シアターオンアイス」も観ましたが、
改めて荒川選手のあの感激を新にしました。それにしても、プロの人達の
アイスショーも見応えありましたね。「サーカス」と言える演技、女装の
男性2人の片方がスケート靴の侭もう一方の人の肩の上に乗る、又片方の
手をもう一人の片方の頭に踏張らせて逆立ちをする等、スケート靴を履い
ていなくても並みの人間には無理な演技でしょう。そうかと思えば8本の
フラフープを身体に絡ませての女性フィギュアの演技も凄かったですよ。
前回転、後回転ありで「プロフェッショナル」の演技が数多く、充実した
時間を過ごす事が出来ました。                   
                 *               
3/6(月)このトリノの最中には前述の「堀江メール」問題を、馬鹿み
たいにどのテレビでも取り上げ結果は、「偽メール」で民主党、又永田議
員が謝罪、「懲罰動議」の裁定を仰ぐとか。「4点セット」で意気込んで
いた民主党は自滅して衆議院の予算委員会は終了。          
それで「これで得をしたのは誰?」、だけでした。国会は何の為のもの?
そんな疑惑は司法に任しておけばよかったものを。          
                 *      
      『撤廃を、PSE法』          
イ【100万円の罰金、1年以下の懲役】              
ロ【50万円の罰金】                       
 なんの事だか分かりますか?                   
 イは、来月から施行されるPSE法により、この<PSE>マークのな
い商品の再販(リサイクル)禁止に違反した場合の罰則です。     
 ロは、あの姉歯事件で有名な建築基準法に違反した場合の罰則です。 
決して、イ【100万円の罰金、1年以下の懲役】と、ロ【50万円の罰
金】の記述を間違えた分ではありません。              
 どちらが被害が甚大か、一目瞭然でしょう。            
                                 
 現在政府は、地球温暖化抑制の為3R(リサイクル、リュウズ、リデュ−ス )運動を推進中です。昨年ノーベル平和賞を受賞し、日本にも来日し
たアフリカの女性が日本語の【もったいない】は素晴らしい言葉だと、世
界に拡めるべく【もったいない】を持って帰ってくれた。       
 世界中の誰もが地球温暖化抑制を緊々の問題と捉えている折、この「P
SE法」はそれこそ無駄なエネルギー使用の抑制から逆行させる。   
(一つの商品を造る為にはエネルギーが消費される。それを再使用させれ
ばそのエネルギーは不要である)                  
                                 
 現在私は、5年程前にリサイクルセンターで買った電子レンジ(200
0円)、ステレオ(2万円)を使用している。電子レンジは未だ元気に働
いてくれている。ステレオはCDプレヤーが作動しなくなったが、マイク
録音等に使っている。要は何かあった時の責任の所在さえ明確に理解させ
ておけば良い分で(リサイクル業者と購入者間で)、わざわざ【PSE法
】で国民を縛る程のものではない。                 
 価格面で新しい物を買う事を出来ず、リサイクル品を購入したい者迄を
排除するだけの、この法律の見直し廃止を要望する。         
                                 
今日の国会でも「格差社会」を取り上げていましたが、        
 政治とは、誰のためのものですか?                
               *                 
 前述の如く書いたついでに、我家の実状を。            
まず玄関戸の真上、ベランダの下辺りの壁が剥がれて、いつそれが落下
るかが一番の心配の種。玄関を入ればその真上の天井も今にも落ちそう。
ベランダは床の防水機能劣化の為、豪雨の時真下の台所ガスレンジに雨漏
りし、それ以降ベランダの床部分に青いビニールシートを敷いている。 
 その雨の所為ではなく、それ以前からガスレンジは2個のバーナーの内
1個がPUSH点火せず、マッチで(もしくはその類で)点火しなければ
ならない。又、点火をする方は小さい種火にすると消えてしまう。不便で
すわ。 電化製品は、エレクトーンの第3音階の【ラ】がでなくなった。
このワープロの漢字変換機能が悪くなって、最近は度を増した。    
パソコンは前述の通りである。                   
 家、備品共、満身創痍でございまーす。              
下には下がある。皆さんの生活状況もこれよりマシと思えるでしょ?  
 何卒、私の作品を認めてくださーい。               
                *   
         『建物内部検査にレーザーを』 
 <違反50万円>耐震偽装問題の建築確認に関して、民間業者とは利益を追求するのを至上とする。商売第一である。それを踏まえれば、今回の様にその建築基準法違反行為後の被害は想像に難くない検査を、民間に任せるには無理がある。このような機関こそ公が担うべきだし、民間に移行した時にもっと厳罰化の違反罰にすべきだった。(罰金1億円、懲役10年等)   リストラすべきはリストラし、補充すべきは補充すべし。                                   
 建物検査に関しては、柱、壁内部等目視出来ない物は、レーザー】を
使用する様にすればいいのではないか。現在アフリカエジプトの未発掘地
帯の遺蹟等は、地上からのレーザー機能を使用した結果の発見物が多いと
か。                               
            2006/03/06 18:02    
       
 (昨年2005年分です。 ) 
ジェンダー(性差)について 
 
 昨年の私の誕生日(10月31日)の59才を経過後、この49才時からの
約10年を振り返り、まさに「50にして天命をしる」年代だった感慨に浸った。
(その事は詩歌集「夢現シリーズ」に記した通りである)
それは我流乍らエレクトーンをやり始めた事が全ての初まりだった。それはやがてFM放送のクラシック音楽を聴き、感動感を知る回路口となった。
その意味で10年後の未来の為、何かをやりたい、未知なる自分をディスカバリーしたい、そして倦んだ日々、停滞した様な現在の自身のスランプ状態からの脱却を図る。そんな思いから寝屋川市の表現講座『演劇ワークショップ・「日常の問題をドラマにしよう!』に申込み、参加した。自身の演劇には興味がなかった、それ故受講したと言える。自身の可能性を測るとは、そういうことだろう。
 しかし、参加したものの自意識が脱け切れないし、集団の中に入ると言うことに本当に疲れた。集団に馴染むと言うのは「個」を殺す事でしかないから、私には無理だ。そう思いながらも興味があって回を重ねたが、その時点で止めればよかったと想う。下記の文章は、その最初の時だったか「ジェンダー」の取り上げがあり次回の宿題的なものとして纏めたのだが、この「ジェンダー」思想が根底にあり、それの指向的ドラマ作りだったから。
結果として続けての参加は、11月16日私の母の入院で取り止めにしたのだが。11/19(日)がそのドラマの発表日だったと思う、観に行ければと思っていたが、母の事が気掛かりでよう行かなかった。12月1日に母が亡くなり、現在、これらの事を思い返えせば、すべてが空しい。
          2006/03/06 23:

                    *                                                      「ジェンダーについて」
 感情(情緒)面に於いて情緒的に走る傾向にあるのは女性と思われるが、これはこの社会の仕組みに依ってつくられたものか?  それとも、男性とは際立った差異である出産出来る体を持った事による構造的なものか?(以前新聞で男と女の脳の構造にも若干の差異があると見た様に思う)
男性優位に依る意志決定権の蓄積がそういう脳構造にさせた?  
 これまでの男性優位社会は「力」によって抑圧してきたというのも確かだろうが、現在のように少子ではなかった頃、たえず女性はお腹を膨らませて子供を出産し子育てに負われていた。その結果からだろうか? 
 授乳を含めた「子育て」が女性の社会進出を阻んできたのは間違いない。しかし、日本の政治家等の職業は自民党の小池百合子氏の様に勇気のある人もいるが、まだまだ女性は「花」であるか「破壊者」でしかない。イギリスのサッチャー首相等も稀な女性だろう。
 若しこれまでの社会がまるっきり正反対だったら、つまり女性優位だったら(勿論適合者)、汚職関連の犯罪、公費の無駄遣い等極端に少なかっただろう(女性は色欲に溺れることはない)。

 しかし、昔は「子育て」故に能力を発揮出来なかったであろう音楽家に於いては、現在のソリストは皆女性の方が素晴らしい。バイオリニストの前橋汀子、ピアニストのアルゲリッチ、チェリストの故ジャクリーヌ・デュプレ。歌謡界なら故美空ひばり。      先ず独自性(個性といえる)に卓越している。それは勿論技術が前提であるのは言うまでもない。感情の起伏の如き表現力が豊かである。私の実感として、それは皆女性ならではのものと、思わせる。故ジャクリーヌ・デュプレは知らないが、何故か他の3人は確か子供がいない(出産していない)と思う 
。芸一筋、男のように仕事一筋と言う事か。     

 男女同画社会、ジェンダフリー結構な事である。  
憲法の基本理念、機会の均等に適合するし、私も女性の一人として、女性が認められる社会になろうとしている事を喜ばしく思う。 その為には同等の権利を主張するからには、女性である事の甘えは真っ先に「捨てちゃえ」でなければならないし、性源的な部分「情緒」過多による判断力の狭小さを問われない職業に依っては、それは可能だろうと思う。          
 そして、極端に言えば女が外で働いて男性が子育て、家事をする事も賛成。しかし、女性の社会進出ばかりが素晴らしいとは思わない。各自には何事も向き不向きがある。
 私達も親に育てられた様に、子供を育てるという事程一番難しく、重い責任を伴うものはない。  
解り切った事、私達亡き後日本の未来を担う人間にしなければならないのだから。(例を上げれば公徳心を基本に)

 女性、男性ホルモンの差で皮膚ひとつとっても女性はすべすべ潤いあり、片や男性はごつごつ粗目の如く、凡そ美しさとはほど遠い(稀には美しい男性もいるが)。だから、強いて女性がズボンを履くことで男性と対等と意気がることもなく、一番美しいと思える服装を纏えば良いと思う。「美しい人」はより美しく。「美しい人」には気品が漂う。女性でも男性でも美しい人は、芸術品。
 この感動は何処から来るのかと、おもう。
 そして、歳と共に美しさの感覚も変わる。

 太古、人は人とのコミニュケーションの為言葉という「概念」を発明した。そして完全に「人間」となった。 
 この世のすべては概念で成り立っている。      
古い概念を覆した処で又、新たな概念(もしかしたら知らないだけで古いものかも)構築するだけのもの。             
人の営みとは、結局その繰り返しだろう。
        平成17年11月5日


 2006/1/23            
  『母永眠&回想記』          
 昨年9月のbX7号から4ヵ月振りの発行が私の母の死亡報告となり 
ました。平均気温が「戦後一番の寒さ」だったという昨年12月の1日              
午後12時4分に私の母が入院後3日目、心不全で逝去、満84才(享 
年85才)でした。                        
                                 
  ”12月 戦後一番 寒さらし                 
     「寒気の目」となり 母は先逝く ”           
                                 
 市営葬儀社と住職の都合から葬儀は12月4日、通夜は3日に執り行 
いましたが、その4日の寒かったこと。あの日がそれ以後の寒さの始ま 
りと言えます。それにも拘らず通夜、葬儀に際し寿町自治会役員の皆様 
には大変お世話になり加えて町内会、及び倫理宏正会(朝起会)の方々 
にも多数御参列頂き誠に有難う御座いました。            
 本当に通夜は予想外に沢山の方に弔問して頂き、死出の旅の母への何 
よりの花向けとなりました。感謝申し上げます。           
 普段はご無沙汰ばかりの親戚の方々にも、数々の花輪で会場を色彩り 
又、多大な御心遣いを頂きました。誠に有難うございます。      
 事が事とは申しましても何かと行き届かない事ばかりで申し訳ござい 
ませんでした。                          
              *                  
 現在では当たり前の空調整備の室温を前提の事だったのでしょうが、 
自宅に帰った時から葬儀、火葬場迄、母の遺体にはドライアイスが敷き 
詰められていた。病院で死化粧して貰って綺麗な母の顔からは今にも笑 
みがこぼれそうで、氷の彫刻の様だった。本当に固い氷、人間の皮膚が 
あんな風になるとは。でもその綺麗なのも2日間自宅に「在た」時迄で 
、公民館での通夜が終わった時には、すっかり顔が「変化」していまし 
た。目の周りにクマが出来たようになり、とても前日迄の母とは思えな 
いものでした。普段私の家では余程の寒さでない限り暖房は炬燵だけ。 
だから本当はドライアイスも要らなかったでしょう。公民館では勿論の 
事、空調設備があり室温も上がる。その極端な温度差があの変化となっ 
たのかも知れません。次の日の葬儀後の棺に花を手向けた時の母の顔は 
もっとひどいものだった。                     
 常々、眉毛の薄いのを気にして「死んだら眉毛書いてや」と言ってい 
た母なので、最後の最後迄、母が可哀相だった。           

  ”母の在ない 寒さに加え 寒気団               
         ドライアイスの 母の寒さか ”         
       ──────────────────        
 以下は去年の<亡母の回想>です。                

  ”今の年は(平成17年) 逝って40年の 亡き父や      
       その40年後に 母も逝くなり ”     
     

 父の13回忌に造った墓石に朱色で刻銘した院号にも「宏正院釈尼栄 
久」とした程、生前の母は朝起会(倫理宏正会)一筋に生きた人でした。それも毎朝「 
一番」に行くのを信条とし、5時からの開始なのに3時位には家を出て 
いました。一番最初脳梗塞で入院した平成2年12月迄一度も寝込む事 
無く元気だったのは、その「生きがい」があったからだと思います。当 
時3ヵ月後に退院してからは毎日香里園駅前でシルバーカーに座り朝起 
会の本「倫風」の頒布をしていました。居眠っている事が多かった様で 
すが(笑)………。 2度目の入院は平成10年のやはり12月。この 
当時の事は詩歌集第3集「夢幻」第2部『母・天の川途上』に書いてい 
ますが、この時の3ヵ月で退院以降は以前の様に毎日出掛けると言う事 
もなくなり、又駅前にも居れなくなった様で、ダイエー通り商店街の中 
程のベンチに座って頒布をしていました。帰りにはサンディ香里店やア 
ートタウン香里迄行っていた母も、2回目の入院後は徐々に行けなくな 
り、シルバーカーの上に迄積んでいた買物量も(嫁いでいる4女宅の分 
も含まれていた)自ずと減少していきました。 そんな帰り掛け(家の 
近くで良かったと思います)、足から崩れた様で地べたに尻餅ちをつき 
、周辺の人達に抱えて貰って立ち上がり帰って来た事がありました。そ 
れ以降は出掛けるのも週1回程になり、昨年になってからはコワイと言 
って出掛ける事もなくなりました。それでもトイレは1時間毎、物や手 
摺りに掴まり乍ら自分で行っていました。 そんな状態になり車椅子を 
貸与して貰い、浴槽入浴補助具の事で市の高齢介護室に相談に行きまし 
たが適当なのがなく、介護センターのディ入浴サービスを受ける手続き 
をしました。車椅子を借りたもののそれに乗って外に出ることを拒み、 
結局半年程で返却しました。あれだけ外に出掛けていた母なのに、そん 
な姿を人に見られるのが嫌だったのでしょう。介護認定が下りた3月か 
らは、週一回のディサービスを本当に楽しみにしていました。朝10時 
頃に迎えに来るのに、7時頃から着替えを始め、手伝ってと言うので、 
忙しく甥子の弁当を作っている私はよく憤慨していました。      

 ディで教えて貰った折紙を暫らくは毎日の様にそれこそ一心不乱、そ 
ればかりしていた事もありました。「ディサービスで皆カラオケ上手に 
唄ってるけど、歌忘れてしもた」と言いながらも思い出そうとしていた 
のでしょうか、歌など唄うこともなかった母ですが(昔は別として)、 
機嫌の良い時は朝から一人で唄っている事がありました。       
それにしても病院嫌いの母の為、快く訪宅診察して頂いた寝屋川M病院 
、ディサービスの皆様本当にお世話になり有難うございました。    
 それ以外の毎日の楽しみは午後のテレビ「暴れん坊将軍」を観る事と 
「食べる」事。お菓子か飴、絶えず何か口に入れていた様に思う。   

 母の日課の乾いた洗濯物の折畳みの丁寧な事。           
仏壇への読経は毎朝夕、欠かさず30分は拝んでいた。命日のある日は 
もっと長かった。母の面白い処は自分の実家の人間(名前を朗唱後)の 
時は真言宗、常時は浄土真宗と2種のお経を唱えていた事。明治時代の 
先祖から知人迄、よくあんなにと思える位沢山の人間の名前を朗唱して 
いた。朝はその後仏壇にお供えのお茶沸かし(と言っても3リットルの 
茶)をしてくれていた。しかし、それも昨年の夏位、ベッドの辺りで座 
りこんだ事があり(私一人では立ち上がらせる事が出来ず甥子の帰りを 
待った)、以降台所には用心の為行かなくなった。          
同時にそれからは幾度かトイレに行く途中座り込む事があって、母の椅 
子の側、夜はベッドの側にポータブルトイレを置くようにした。    
 この頃時によってはポータブル迄行くのにも介添えが必要な事があり 
昼間、夜中問わず「よっちゃーん!」と私の名前を呼んだ。      
だから、夜中だけはリハビリパンツを履かせていたが、それでも呼んで 
いた。私が無視、又は気付かない時は、母の居る居間の真上が甥子の部 
屋なので私より甥子の方が目覚め母の介添えをする事が多かった。   
この上の甥子(求職中)は、身軽にすぐ動き、今時の20才にしては素 
直な祖母孝行者に育ち、赤ちゃん、幼児の頃ほとんど祖母に育てられた 
恩返しが出来たというもの。                    
 母は夕御飯の後の9時前後に就寝し、起床は朝起会に行っていた頃の 
様に午前1時頃だったが、昨年頃から午後11時〜午前12時には居間 
の椅子に座って居眠っていた。「もっと横になっとかんと身体にいいこ 
とないで」と何度も促したが効き目がなかった。           
              *                  
  ”人間とは 後悔をつくりたき いきものなり ”        
 そういう状況下の昨年11月15日、突然 「胸が苦しい」と訴え、 
死にたない!」とも言っていた。救急車を呼ぼうとしたが「病院には行 
きたない」と突っ張ねた。この一週間、2回便秘薬服用するも(前夜も 
服用)便意はあるらしいがポータブルに座っても排便されずトイレット 
ペーパーに若干の便液が付着のみ。食事は普段の母とは違い、昼は常の 
3分の2、夜は4分の1−程お茶もいつもの様には飲用しなかった。そ 
れでも30分、10分毎の便尿意に座らせても排出されていない。その 
度の介助は大変だった。そして、その深夜、日付は1/16になってい 
たがやはり「胸が苦しい、救急車を呼んで!」と言い、未だか未だかと 
急かす程だった。主治医の病院に電話後、救急車で搬送して貰い、心電 
図、血圧は異常ナシ、浣腸をして貰ってスッキリした様だった。だが念 
の為腹部等のレントゲン撮影の為、又検温で37.7度あった事もあり 
病院泊(入院)する(個室しか空いてなくて高くついたが)。その午前 
の胸、腹部、血液、各検査の結果は異常ナシ。だが38度の熱があり退 
院を見送った。病名は便秘症と気管支炎。              
 11/18に解熱したので母は退院。自宅に到着後車から降りる母の 
両脇を私と上の甥子で支えたが、重い母を支え切れず母は地面にへたり 
込んでしまった。二人で立ち上がらせようとしてもこの時の母はビクと 
もしない。「誰か来て貰い」、母の言う通りに近所の人と思ったが皆仕 
事に行ってる時間帯である、仕方なく建築関係の人を見掛けたので事情 
を話し自宅前迄来て貰った。驚いた事に一人で母を抱え上げその侭一直 
線に母の椅子迄運んで下さった。40才前後の男の人だったが怪力その 
もの、驚嘆と共に感謝のみ。                    
 帰宅後は直ぐに自宅への介護ベッド搬入をケアマネに依頼、無理を言 
ってその翌日に段取りして貰った。が、しかしその2段ベッド上の物が 
沢山あり、思った様に片付かない。とてもではないが翌日迄には無理と 
判断、ケアマネに断りの電話入れたが本当に申し訳ないことをした。  

 それにしてもこの母の使っていた2段ベッドを解体しその場所に居間 
の棚家具、仏壇を移動させ、居間に介護ベッドを置く為の2段ベッド上 
段、棚2棹の片付けは物が多すぎて予想外に時間を要した。      
その間も母は、隣の部屋に居るのに私の名前を呼ぶ。「側にいて欲しい 
」「死ぬかわからんから側に居って」と言っていた。         
「うるさい!もういい加減にして」と何度言ったか知れない。今想えば 
、何かの不安感があったのかもと贖罪感に苛まれるが、その頃はそんな 
心の余裕等微塵もなかった。                    
 片付け中は母は居間で寝ていたが夜中に「椅子に座らせて」又「横臥 
になる」と言う。ズボン寸法はLL寸の母の重さ、昼間でも私一人では 
座らせる事は出来ない、その度に上の甥子と二人掛かりでするが、夜中 
などは甥子一人で座らせている。一人でよくと感心した。「足が痛い」 
「苦しい」と訴えてもいた。 だが受診は頑なに拒んだ。       

 11/18退院以降の食欲に関しては、以前の面影ナシ。      
あれだけ好きな御飯もおにぎりにしないと食べない。それでも朝はパン 
、牛乳、或いはコーヒー、昼食はおにぎり(梅干し入り)1個、味噌汁 
(豆腐、さつま芋入り)、夕食は食べず飲み物だけの時もあり。    

 この頃の日課は、朝は顔、手、身体を拭いてやり(ポータブルトイレ 
も使えなくなっていたので)おむつを換え清拭をする。11/24の朝 
に左胸全体に拡がる痣(あざ)を発見。「診て貰わんと」と言うと「オ 
ロナイン塗って」と言う。病院は一切拒否だった。そんな物でと思いな 
がらも気休めに母の言う通りに塗ってやった。            

11/23(水)はディサービスに行く日だったが、足が痛いからと行 
かず。前日に全介助の段取りで迎えに来て貰うように電話したのに、朝 
の電話に断る。足の痛い箇所は時によって違う、前日は両足付け根が痛 
いと言っていた。今朝は左足膝辺り、と昔からの旧処の痛みを訴えてい 
た。                               

11/25(金)だったと思うが、夜テレビの天海祐希主演の「越路吹 
雪物語」を観ていて炬燵に入っていた私がCMの時横になってウトウト 
した。すると母が私に「よっちゃん!眠たらアカン」と大きな声で起こ 
した。その声に私が目を開けると「あー良かったな、これで生きてられ 
る。これからは苦しいことも、足が痛いという事もないわ」と言う。何 
か自分の事を私に置き換えて言っているのかと思ったが、今でもあの時 
の母の顔が忘れられない。                     
 最近よく熱い、寒いを繰り返す。                 

11/26(土)思いながらも延び延びになっていた母の髪の毛を切っ 
やったら、スッキリした顔で鏡を見ていた。電話しようと思っていた時 
に介護ベッドの搬入の件でケアマネから電話あり。長さが190cmの 
ベッドは月曜日には無理で水曜日になるとの事(母のディサービスの日 
でもある)だった。甥子2人に解体して貰った2段ベッドのあった所に 
棚家具と仏壇を置こうと思っていたが、結局仏壇は向きを変えて位置を 
ずらせば居間に置いても介護ベッドが入りそうなので1棹棚の家具と並 
べて置き、もう1棹の棚家具だけを隣の部屋に運んだ。        
 ディスクトップのパソコンは本体と共に2階の私の部屋に運んだ。  

11/27(日)この朝はお腹が減ったと言っていたのに、椅子に座っ 
て居眠っている。結局昼前にその朝食のレーズンパン1個とミルクコー 
ヒーを飲食。作った昼食には手を付けず、やたら「苦しいから死なせて 
」「死にたい」を繰り返す。「顔見とかな死ぬで」と言ったので四女の 
家に(私にとっては妹)電話する。(11/18の退院後に電話では母 
が入院していた事を伝えていたのだが、妹も風邪を引いていると言って 
いた)夕方に妹来る。昼のうどん豆腐入りの味噌汁と、白菜人参のポン 
酢かけの食事介助してくれた。好きなタラコ入りのおにぎりは手を付け 
ず。「明日死ぬから」と私達に言い、妹に「長生きでけんでゴメンな」 
、私に「仲良うしてな」と言っていた。「死ぬ」と言う言葉はいつもの 
事なので、それを聞いても勿論本気にしていなかった。        

11/28(月)レーズン入り食パン半切れ、牛乳、お茶。好きな蜜柑 
は食べず。暑い寒いの繰り返し。座っているとお尻が痛いと体位変換す 
る。(因みに座敷から椅子への移動要求はこの頃の常だったが)    
昼食はお茶のみ。左胸の痣が消えない侭なのでケアマネに電話、暫らく 
して来訪、水曜日のディの時に診察との事。今日も「死にたい」を連発 
。ケアマネが帰った後の夕方、妹昨日に続けて来る。グレープフルーツ 
ゼリーを介助食して貰う。その前に小豆最中1個と少し、ミルクコーヒ 
ー、ポカリスエット250cc。夕食は食べず。           
暑いというので、検温36度。                   
11/29(火)朝食のクロワッサン食べず。ポカリスエットを180 
ccを2回飲む。寒い寒いと訴えるが胸が苦しい様で布団を除ける。  
受診拒み、死んでもいいと言うが………ケアマネに電話し、ポカリ以外 
口にしない事、左胸の痣が消えない事を告げ、病院からの迎えを待つ。 
その時には母は病院に行く事を拒まなかった。            
 母を搬送後、心電図検査の時に私が「苦しいらしいです」と検査の人 
に言うと、「甘えてるだけや」と母は言っていた。          
担当医ではない女医の診察では、不整脈による圧迫感、一週間ほどの入 
院との事だった。それが午前11時頃だったか、兎に角午後3時頃にベ 
ッドが空くとの事なので私は一度帰宅した。             
 午後5時頃、私は再度病院へ。入浴の事を聞かれたので「状況をみて 
お願いします」と答えた。病室に入ると食事の前にリンゴジュースが欲 
しいと言うので買ってくると、「ナント美味しい!」と言い飲んだ。  
余程喉が乾いていたのだろう。                   
 夕食の玉子入りお粥は全食、バナナ半切、服薬、お茶。       
家と同じように「足が痛い、死にたい」と言う。それでもいつも肌身に 
着けている「お守」の在る処を聞く。右腕上部にある事を教えてやる。 
右手には点滴をしていた。食事後、私は帰る。            

11/30(水)母が入院していた時、私は12時の昼食時と、6時の 
夕食時に病院へ行っていた。朝食はお粥のみ全食だったそうだ。昼食は 
鯖をむしり潰してお粥に混ぜてやったが、噛み切れない様で鯖のみ口か 
ら出した。お粥半食、バナナ半切、味噌汁全食。夕食はお粥、味噌汁、 
ローリー全食、軟卵少し食。尿管を通していた。両膝を伸ばそうとした 
が痛いと言う。もう1着は外の薬局で価格の検討をしようと思うので、 
病院のオムツカバー1着買う。それと共に、布オムツではなく、紙のオ 
ムツ使用したい旨を聞くが病院の規定だと言われる。         
パジャマの下を着替えさせ、床に置いてあったおむつカバーと共に持っ 
て帰る。帰宅後、明日持って行けるように直ぐに洗って干しておいた。 

12/1(木)2階の窓を開けて空を見ながら、もう少ししたら母の病 
院へ行こうと思っていた10時半頃、「容体急変に付きすぐに病院へ」 
という電話が入る。たまたまこの日に休みを取っていて母の見舞いにも 
今日行くと言っていた私の妹にも電話を掛け、甥子と共に妹宅へ寄り一 
緒に病院へ向かう。                        
 病室では看護士(婦)2人が蘇生の為の処置中で、母は既に死んでい 
た。正確に言えば脳死状態だった。2人が交互で酸素吸入と心臓蘇生を 
していたが効がなく手を休めた。驚くことにそれでも心拍モニターの波 
状は波打ち数字が、例えば68、35,80,20,急に110になっ 
たかと思えば0になり波状も横棒線のみになる。処が又波状が波打つ、 
又棒状と、それを繰り返していた。2人とも蘇生を止めているのにであ 
る。母の生への執念、生へ葛藤のようだった。昔の母の口癖「百歳迄生 
きる」と言っていた様に(全介助になってからは、死にたいと言う母だ 
ったが){もっと生きたかった!}と、あのモニターの波数が訴えてい 
た。高校生の下の甥子、妹の主人も到着していた。その状態の中午後1 
2時04分、母の心臓は停止した。死因心不全。           
 脳死状態でも、皆に囲まれているのが伝わったから頑張ったのだろう 
と、思いたい!。母の生前中、願望として遠い将来に母が逝く時は自宅 
にて皆で看取ってやりたいと、ずーっと想っていたから………     
 死後の母の身体の清拭の時、私と妹も手伝ったが、母の身体を横向き 
(右を下)にした時、鼻から血が多量に溢れ、白いシーツを真っ赤に染 
めた。                              
                *                
 生前時々、居間の椅子に座っていて胸が締めつけられる圧迫感を訴え 
た事はあった。それでも暫らくすると治まるようだった。だが先述の1 
1/15の苦しい、はこれ迄とは違って悲痛感、切迫感があった。この 
時から数えれば死ぬ迄2週間少し、本当に風雲急、母は風の如く逝って 
しまった。何かの間違い、夢を見ている様な出来事である。      
11/29再入院してから食事も摂りだしたのだから………。     

 よくなって貰いたいから、あんなに病院を嫌がった母も、よくなりた 
いから、の入院だったのに残念でならない。             
本当に一寸先は闇、としか言いようがない。             
                *                
 母が生きている時は、あんなにつっけんどんにして、碌な会話も交わ 
さなかったのに今、母の言葉一つ一つが生き生きと蘇る。       

 私が母に発した幾多の無造作な言葉。               
死出の旅に旅立つ人に<飾る言葉>で送る事が出来たのに、それさえも 
出来なかった。                          
「母の死」などこの身が滅する迄、在り得ないと思っていた。     

阪神大震災のあった平成7年の夏の詩作「一瞬の」。         
♪人の一生 花火の一瞬 燃えてしまうなら 消えてしまうなら……… 
 誰のためにかいたのだろう、とおもう。              
               *                 
  死とは、肉体の死なり。                    
 思い出と言う、精神に生きていても、               
 見つめて欲しい目、聴いて欲しい耳、握りあいたい手        
 それらは、永久に失われた。                   
  これが「死」の 現実なり。                  
               *      
           
  何度も私の名前を呼び側に居てと言う、母の「甘え」と、     
  それを快く受け容れられない、私の「甘え」。          
  昨々年、1年余り勤めたことのある介護ヘルパーの仕事としてなら  
  容認して、当たり前の事として受け容れたであろう事々。     

  「甘さ」と「甘さ」が絡み合えば、癇(甘)癪になる。      
  その果てに、母の死という、とんだシッペ返しを喰ってしまった。  
               *                 
 結局に人間の言動を含めた行為は、人に「喜ばれる事」をすれば、後 
の人生に於て「自身を讃える」事が出来るし、反対に「悲しませる事」 
をすれば「悔恨の沼」から脱けられない。全て自分自身の心の中にその 
責を負う。                            
 私等は幾多の後悔を重ね乍ら、対母に対して又後悔を心に巣くわせて 
しまった。全て私の心の狭さの所業です。              

   ”精神の 臍(へそ)の緒 切れし 母逝きて         
        本当に 独り 立つしかない ”  
        
               *                 
 【マイポエム】より                       
  ☆「星の輝き」 死して 光る 涙なり☆          
                                 
  「死んだ人間は星になる」                   
  確かに実感する                        
  死んでしまったから 無限の距離の 星となり          
  輝き出した。                         
   母の生きている時の 存在感とは               
   何だっただろう?                      
  月並みな言葉だが 「空気」としか 言いようがない       
  在って当たり前  失くして……気付く。            

 亡くなる一週間程前から、今想えばきっと死の影に怯えていたのだろ 
う、「寂しい、寂しい」と言っていた母。              
 生きていた頃より今の方が、「母さん母さんと慕ってくれて」と、  
満足かも知れない………。                     
         * * * *                 
    ”引き潮の 母の生 海はなくなり ”           

 (病院からの危篤の報せに駆けつけた病室の母の顔を        
 見た時、「在り得ない事が起こってしまった」「終わ        
 ってしまった」───一瞬にして私の身体から母が抉<えぐ>    
 り取られ、永遠に切り離された)                 
          *                      
   あの時、ひとつの海が なくなった              
  干潮だけとなった 海は 二度と                
  満ちることはない。                      

  それは 私の血であり 肉であり 骨であり           
  髪の毛であり 皮膚であり 目 耳 鼻 口           
  私の 全てを形成した 原(みなもと)である                                                            
   私は そのうみから うまれた                
  瞬流に 永遠の彼方へ 満ちた潮                
  追い駆ける 私の号泣の潮も 届かない。            

   そのあとに 一つ 海が 出来た               
  陸とは 相交わることのない 海で 見る            
   母のすべて                         
  言葉のそれら 一粒 一粒は 真珠であり            
  姿 そのものは  金色に 光り 輝いている          

   ひとつの 海を なくして                  
   一つの 海を 知った                    
  喪くさなければ 得ることが 出来ない             
  人間とは 悲しい 生きものです。 
              
            (平成17年12月16日)        
 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆         
 ☆   「母と わたし」  ☆         
 ☆ 私が 母から 産まれたこと       ☆         
 ☆ 私の「母」が 亡くなったこと      ☆         
 ☆  生涯 ただ一度の こと        ☆         
 ☆ 産まれた わたし            ☆         
 ☆ 母を 見送った 私           ☆         
 ☆                     ☆         
 ☆ 一人が 二人になって          ☆         
 ☆ ふたりが ひとりに なって       ☆         
 ☆ 「生」「死」に 泣く   
       ☆         
 ☆     (平成17年12月27日 記) ☆         
 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆─        
                *                
12/24(土)世間では、そして、いつもなら我が家でも今日はクリ 
スマスイブ。この1日に母を亡くした我が家は、クリスマス正月も関係 
ない。しかしながら、我が家の犬「コスモス」には、イブのプレゼント 
として犬小屋を作ってやりました。                 
例の亡き母の2段ベッドを解体した時に強化板に使っていた合板を鋸で 
切って、布のガムテープで貼り合わせた物です。現在の段ボールよりは 
ずっとマシと思います。                      
この合板ベニヤは平成6年に我が家の1階2間を改装した時に余った壁 
材である。その以前から母は春夏秋冬に関わらず、天井から「誰かに」 
水鉄砲(後年はスプレーと言っていた)を掛けられ「冷たい」と言って 
いた。だからこの改装時に気休めになるだろうと元の天井の上からもう 
一枚板を打って貰った。それでも変わりがなく、2段ベッドの自分の使 
っている下段の周りをカーテンで囲い前後部分はそれに加えて内側から 
板を打ち付け、それ以外出入りする所を除いた箇所は段ボールを当てて 
いた。それでも「顔にかけられる」と顔に新聞紙を掛けて寝ていた様で 
ある。内側の段ボールが剥がれては、ガムテープで貼ったり、自分で出 
来ない時は甥子にさせていた。                   
 今日犬小屋作りにそのガムテープを使っていて、そんな母を思い出し 
悲しかった。(だから普段居間の椅子に座っている時も「水除け」に帽 
子を被っていた)死ぬ前日も病室の母の側を離れようとしたら「顔にテ 
ィッシュを掛けて」と言った。その後の「バイバイ」と共にそれが、私 
が母から聴いた<最後の言葉>となった。この「顔にティッシュを掛け 
て」と言った時、私は母に「顔にティッシュなんか掛けたら死んだみた 
いやんか」と答えて言った通りにしたが、それが私の「バイバイ」と共 
に、母が私から聞いた<最後の言葉>である。            
冗談で何気なく言った言葉が、「縁起でもない」言葉となってしまった 
。                                
 母の人生の晩年、この「冷たい」10数年と、死ぬ前一ヵ月程の日々 
。思い返せば「可哀相」としか、言いようがない。          

 母は、嘘の付けない「馬鹿」のつく位、真正直な「善人」だった。  
だから、やり切れなくなる。本当に、やり切れない。         

12/31(土)大晦日。晴れ。午前中、午後と買いそびれた買物をし 
掃除後夕方より、例年の如くお節料理を作る。ほんの少しだけ、重箱も 
出さず仕舞い。妹宅の分も取り置く。                
お節は一番母への想いに繋がる年末の習慣事。同じ事を同じように、私 
がしてきた。母が亡くなったので今年は作らない積もりだったが、母の 
想いに重ねる様に、作った。そこには、母が在る。          
 以前のペーマガにも書いたが、母を遡るこの伝統も私で途切れる。  
日高家の血筋を引くものは甥子2人のみであるから。         
紅白が終わる頃に妹夫婦が来て、晦日蕎麦を食べる。下の甥子のお年玉 
だけではなく、私にもくれた。亡き母の代りに?ありがとう。     

   ”母亡くし 大晦日から お正月               
         当たり前の 日でない かなしみ ”       
               *                 
 平成18年                      
1月1日(日)晴れ  寒さ少し和らぐ。              
 母が亡くなって丸1ヵ月の日。母が亡くなったという現実を毎日突き 
付けられた1ヵ月だった。本当に我が生涯に於て、あれほどの悲しみを 
知らない。                            

  ”母亡くし 一番 悲しき お正月 我生涯の 産ぶ聲なりや”  
                                 
 昼頃起きて甥子2人と共に「3人」でお雑煮、おせち料理を食べる。 

  ”新年を 迎えて とも(供)に お雑煮を           
       夢より遠き 亡き母を呼ぶ ” 
           
               *                 
     ”今年わ 還暦の 戌年 なり ”          

   「夢の架け橋」は、諦めた時に失う。             
  いつか自分の作品の著作権で生活の糧      
  をと関係方面に打診してきましたが、依然反応ナシ。      
   風雲急の如く逝ってしまった母を想えば、人の命など      
  ホントに「一瞬」のもの。万一、死んだ後で私の作品が      
  認められたとしても、嬉しくもない。              

   私は生命保険にも入らないし、死後の著作権などは       
   放棄する。                         
                     
            
   昨々年の11月迄1年余り、ホームヘルパーの仕事を      
  してきた。がその後の就職活動は年齢から言って思うに      
  任せず。好きな創作、音楽物が認められるよう、幸運の      
  女神、又亡き母に祈るのみです。                

1/2も 晴れて、寒穏。昨日と同じように起床は正午頃。思えば昨年 
母の死んだ時刻の4分前と言うことになる。             
 この日は、家事以外の時間、ずっとテレビの「徳川三代の陰謀」を観 
ていた。自由と自分勝手は同義語で、物は溢れ「肥大した生」の如き現 
在の日本人と、まるっきり正反対の、忠義に生き、戒律を重んじた江戸 
時代の日本人の「スリムな生」。時代背景がつくりだした人間の両極端 
。醜さと、美しさ。「日本人とは?」武士である、と再認識。     

 その後は、書初めをした。                    
    【母夢遠天在】───                   
     「夢には架け橋あり 幾百 幾千の 橋を懸けても     
      届かぬ 天界に 亡き母はあり」            

    【母命生】───「母の命を生きる」    
        

1/4(水)曇り。亡母の五七の日だが住職の都合で1/5に行なう。 

1/5(木)晴れ、寒い。昨年の母の葬儀の日から日本列島は寒波に襲 
われ、昨年12の平均気温は戦後「一番」の寒さだったとか。同日付産 
経新聞のその欄の横には「琵琶湖飛来のコハクチョウに南下異変」とあ 
る。                               
  ”「母」の じ が 活字のむれから 我が眼引く ”      
      (字・磁)                       

  ”日増すたび 「母」は 悲しき 言葉なり ”
         

1/15(日)母の満中陰。(本当は1/18なのだが、日曜日のこの 
日に行なった)晴れ。葬儀の時が雨だったので、安堵。        
いつもの親戚の方々が来て下さり、本当に有難うございました。    

  ”「七彩の虹」 渡り切り 母 雲の中             
        寒穏 晴れて 満中陰
(平成18年1月15日)”  
 ─────────────────────────────── 
■俳句短歌                            

   (十二月四日・告別式)                   
  ”「今日は雨」 呼びかけたい 母は亡く ”          
                                 
  ”悲しみは 並べるお碗 3つとなり ”            
                                 
  ”母は空気 在りて当たり前 亡くして気づく ”        
                                 
  ”人間とは 後悔をつくりたき  生きものなり”        
                                 
  ”空をゆく 母の棺か 白い雲 ”               
                                 
  ”屹立と 燃えて 崩れる 線香や ”             
                                 
  ”冥界より はなたる霰(あられ) 雪 螢 ”         
                                 
  ”夢の中 幻のよに 母の声「よっちゃーん!」 ”       
                                 
  ”また ふいに 涙こみあぐ 母こいし ”           
                                 
  ”母逝きし 妹既嫁し 日高家は                
       我 ひとり なり 戸籍謄本 ”           
                                 
  ”悔恨を 涙うすめて クリスマス ”             
                                 
  ”満中陰 涙涸れるまでの  四十九日 ” 
          

      *  *   *   *                                                                 
平成16年10月26日「母の満83才の誕生日に寄せて」作った歌・                                                            
    「母さんの 匂い」 
作詞曲日高よし子 
    (1,2番は略)                                                                      
  3.子供一人 育てる事が出来ない 現在の親                                                                
    六人の子を育て 働き詰めだった                                                                     
    明日という 鏡を見る暇もなく
     かあさん                                                                  
    進めてく 白いシーツの針の先 今日が終わる                                                             
    その側に 居るだけで フワッとする 雲の中                                                               
     「母さんの 匂い」                                                                                                                                   

2005/10/17
      「日本人の神髄」
 朝刊に中国政府の対日本への姿勢が軟化しそうであるとあった。急に、又、何故?と気味悪く思っていたら、今朝の小泉首相「靖国神社参拝」で理解出来た。
事前に「今日」の事が知れていたのだろう。元々軟化する気など毛頭ないものを、小泉首相が靖国神社参拝したから軟化政策はしない、とそれを前面に強調する。今朝の新聞のそれはその為の単なる「小道具」だった。今の時点の私の見解だが「予想通り」にならない事を祈る。

 10時過ぎ、小泉首相が靖国神社に参拝した。これまでのように本殿には上がらず、又参拝道を歩き平服のまま、一般人と同じ場所でポケットからお金を取出し賽銭箱に投げ入れ合掌し終えられた。最近の高裁での「靖国神社参拝」違憲判決の所為か、近隣国に気を遣ってか、なんと威厳のない、なんと淋しい今回の参拝であったことか。

 元々靖国神社は国家神道として別格な神社だった。それが敗戦後占領軍によって解体され、一般の神社と同列となった。英霊を祀っている靖国神社は他の神社と違うのは明らか。   
靖国神社を戦前の状態に戻し、又憲法解釈で合憲、違憲判決となると言う事を是正し、総理大臣として堂々と礼服で本殿に参拝出来るように憲法改正すべきである。
 国家の為に命を捧げた人を慰霊する為の行いを、他国人にとやかく言われる筋合いなどない。問題視するA級、B級戦犯等も日本人にとって、皆すべて、同じ英霊である。bW6号にも書いたが、その当時の合祀に賛同した国民の総意こそ尊重すべきである。
 学校に於てその教育こそを為すべきなのだ。そうすればこの事が現在の国民の総意となる。ならば近隣国も文句を言うまい。何かにつけて近隣国にお窺いをたてなければならない状況に追いやったのは「戦後教育の成果」である。反日教育で「日本人か悪かった」等と教えられるから近隣国の「言い掛り」にも諦観してしまう国民性を造り上げてしまった。
 
 今こそ、歴史観の見直しをしなければ益々風化する歴史が、偏向的歴史観の侭定着してしまう。
 
  今年ジャカルタでの小泉首相の声明の中に「日本の侵略のお詫び」的
言葉があったが、どれだけの検証を為したのかと思う。あれを耳にすれば本当に日本は侵略国だったと、その当時等知らない全世界の人々が、改めて確識する。東仲野修造氏の「南京虐殺は無かった」という検証本を、日本の歴史教科書に掲載すべきではないか。中国軍の自国民に対する略奪、暴虐等の後始末を日本軍が為した事に対する感謝の書状が当時の欧米委員会から送付されている(後に「南京安全地帯の記録」として出版された)。
 日露戦争当時の世界は、人種差別というものが当然に存在していたと言う事を、先ず知っておかなければならない。阿片戦争で中国を支配したイギリス人が領地の柵に「犬、猫、中国人入るべからず」と看板を立てたように、有色人種に対する偏見はそんな具合だったのだ。
当然の如くに(良く言えば悪意もなく)有色人種は劣等と思い込んでいた。だからこの世界は白人が支配しなければならないと。中国から更に南下して日本へという当時の大国ロシアを、喰い止める為に戦ったのが、日露戦争だった。9・999に0・001の割合、そんな奇跡的な勝利だった。革命前、国民意識もバラバラで纏っていず、はなから小国日本と嘲っていた漫然たるロシアと、日本の命運を掛け、死に物狂いで一丸となった国民戦意の差が奇跡を呼び込んだと言える。この「神がかり」で勝利した事は、後の日本人を催眠術状態に置いたと言える、絶対に負ける事はない、と言う。こういう風に考えるのも又、人間の必然だろう。誰であっても当時の流れならそう思う。
 戦前、戦時と日本に協力的だったアメリカは、勝利した日本に対し一転、変転する。
イギリスに日本との同盟を破棄させ、日本を孤立化させて行く。経済封鎖、「日ソ中立条約」ヤルタ会談、ハルノート(アメリカからの最後通牒「日本に対し日露戦争「前」の状態に戻れ」という内容の文書)、日本はこれを蹴って「真珠湾攻撃」となる。
 この時期東南アジアはイギリス、フランス、オランダ等の白人の植民地下になっていた。
アジアが一団となって白人の支配からの脱却、東南アジア各国の独立を掲げたのが日本の大東亜圏構想なるもの。故に日本が敗戦後も欧米諸国はアジア各国の独立を認めざるをえなかったのだ。
 第2次世界大戦に於て当時の軍首脳部は、日本国民から負けた責任というものは問われるべきと思っていたが所詮戦後産まれの私見。それより先程も述べた、あの日露戦争を経過すれば、いづれは「負ける」迄戦ったかも知れない、誰であってもと想う。
 という事は現在の日本人は、戦えば「負ける」と知っている、嫌という程知らされた。
しかし、日本人の心の髄までは他国人に侵されたくない。
 まさしく其処は、神髄なのである。

 「日本の教育界」は悪い日本、日本人しか教えず、例えば最近テレビ放映されたナチスドイツから逃れる為のビザをユダヤ人の為発給した「杉原千畝」。数年前に助けられたその子孫が日本を訪問した事等(その数約2万人の内の一部)、私は産経新聞新聞を購読しているから知っていたが、同居の甥子2人等は学校では教えられず、今回テレビで初めて知ったとの事だった。
「聖徳太子は存在しなかった」と宣い、その当時の人間を出せ!と言いたくなる事はきっちり教えるのに。わざわざプリントするなら「百人斬り」ではなく、拉致問題にすべきである。
 大体、国家観を持たない教育とは、結局個人にしか帰属せず、自分をどれだけ肥大させるかしか眼中にない人間を造り上げる。おまけに日本という土壌に根(心)を据えないのだから、クラゲのようにフワフワ浮いて漂い、どこへ流れ着くのやら。
 当時の迫害されたユダヤ民族か一時どうして世界の中の嫌われ民族だったか?
 「国」を持たない民族の悲劇を見据えよ。
        2005/10/17 17:20    

 (平成17年9月15日 追記)                 
        『水』 (純粋)                    
            (朱に混じれば、赤くなる………と言う)  

 ────純粋に 純粋から 産まれたから             
       純粋に 還りたい。                   

     人は 本当は その為にだけ               
     生きていきたかったのに                 

     不純を 身に つけてしまった。             

     だから 純粋に あらわれて               
     純粋に かえりたい ─────
             
                     
  人は 人と混じり  汚れ               
  人は 人の生き方に 汚れを 洗う            
                
            *
                
    『自民党大勝利』             

    ”純粋に 改革一途 小泉さん               
         新生 自民党の 大勝利 ”           

    ”4年前 この一票から 始まった             
         改革 見届ける 一票です ”          


 何が幸いするか、参議院での郵政法案否決に依っての衆議院解散に伴 
う今回の衆議院議員選挙は、痛快なほど自民党の大躍進とりました。  
 既にイギリス等が導入している「落下傘」候補を擁立してのこれも「 
改革」と言える今回の選挙戦でした。都市部が特に強かったのは、民営 
化後の不便さも関係ないのが一因かと思ったりします。        
これだけの支持、期待を背負うのですから、やりがいがある事でしょう 
。郵政民営化可決後は、自民党結成50周年の約束事、憲法改正、教育 
基本法改正の法案化
に取り掛かって下さい。郵政民営化賛成、反対の「 
ふるい分」に依って無所属等で落選した人の中には、惜しい人材がいる 
。人権擁護法案に反対していた安部派の城内実氏、他に衛藤成一氏、松 
下忠洋氏等。これからの日本の前途に必要な人達ばかりである。    
 
 人材というのは、百人にも叶わぬ一人がいる。
           
小泉首相などもその中に入る人だと思っている。今回の選挙は選択肢が 
一つしかなかったから、小泉首相とは違う「信念」を貫いた人が国会の 
場から去った。                          
 この責は小泉自民党が負うべきである。              
この人達の意志を引き継がなければならない。これまで私達はこの人達 
のいる、ひっくるめての自民党支持だったのですから。        
               *
    
      の 雲                 
   ”秋さわり 風の変わり目 かんじいる ”            
   
   ”新しい 空気のような 空冴えて”              
   
   ”巡る秋 シャワーの温度 2度上げて ”           
  
 熱かった選挙が終われば秋の空、過ぎてしまえば 少し前の夏の空、 
 雲のかたちもなつかしく………                  
  
 窓を開ける 洗顔後 いつも窓を開ける                                                        
やっと 昨日から 今日の空気へ 入れ換わる
 
 夏などは 思い切り 全開したいが 
 窓にウインドクーラーを 取り付けているので 
 ささやかに35cm程しか開かない  

 真前の 2階家の屋根瓦上の空が 真っ先に目に入る
 小さい空 今は夏だから 雲が空の心紋様を伝えてくれる     
 
 私の考えが 刻々と 巡っていくように      
 雲の形も とどまっていない 

 先程などは 北海道の知床半島 北方領土の国後島の様な雲が 
 今にも汲っ着きそうに 見えた      

 窓から 顔を出して 見れば、 
 それは 大きな北海道と 小さな島の様だった 
 その先は 視界に 届かない  
 
 室内の この僅かな空間から拾う 日本地図  
 ちょっと窓から 顔を出せば 少し拡がる地図空間     

 もっと広い もっともっと広い 広場や 海で見る
 世界地図 地球地図  
 
右、左の基準のない世界観は 宇宙観から発信される
 

 かけがえのない国 「日本」
 日本の花で ありたい。     
 
  ”人間も 仮染めの 雲のかたち”               
                 *

 『北方領土返還と拉致被害者帰還を国民の声に!』        
 北朝鮮工作員を養成する国策の一貫として、或る時期の北朝鮮に数多 
くの日本人が拉致された。拉致するのは誰でもよかった、その私達の代 
わりに拉致されたのが現在未だ北朝鮮から日本へ帰還出来ない拉致被害 
者の方々です。

    『異国の丘』      作詞曲 吉田 正 
今日も暮れゆく 異国の丘に 友よ 辛かろ 切なかろ 
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ還る日が来る 朝が来る 

今日も 昨日も 異国の丘に 寒い冬空 雨 嵐
挫けちゃならない 祖国の土に 
還り着くまで その日まで 

 この「異国の丘」の歌詞はシベリア抑留を経験された作曲家、故吉 
田正さんの作品です。未だロシア(旧ソ連)から返還されない北方領土 
に思いを募らせていたら、昔、歌手の三浦洸一さんが歌っていたこの「 
異国の丘」を思い出しました。そして、この歌を口ずさんでいる内に現 
在、北朝鮮に拉致されている拉致被害者にその侭この想いが、置き代わ 
ったのです。
 言えば、シベリアで死んで逝った人達の叫声の如く。  
望郷の願い叶わず、死んで逝ったのだぞ!拉致被害者も同じこの想い 
が、分からんのか!
」と。                     
   
      「或る日、突然に!」                       

 或る日 突然に それ等は 奪われた。              

  私達の領土 北方四島                     
  私達の同胞(はらから) 拉致された日本人。          

 共産社会主義国家だった (旧ソ連)ロシアに           
 共産社会主義国家の 北朝鮮に                  

 奪ったもの 掠った人間を 返すのは 当たり前でしょう!     

 ずっと泥棒のままの 国家がある                 
 (旧ソ連)ロシアと 北朝鮮。                  

 日本の国家主権を 侵した国に 改めて訴える           
  人権という言葉を 知っているなら               
  人間の心を 持っているなら                  

 直ぐに 返してください                     
  我等の領土 北方四島                     
  拉致した 日本人を!                     

 9/11(日)の衆議院選挙で明らかな様に、一票の力の集結が小泉 
自民党を支える大きな力となりました。同じように、国民一人一人が北 
朝鮮拉致被害者救済、又北方四島返還に関心を持ち、それを訴える事で 
帰還、返還という悲願成就の大きなうねり
と成り得るのではないでしょ 
うか。                              
「北朝鮮拉致被害者救済、北方四島返還を国民の声にしましょう!」  
             *                   
         『甦れ「聖徳太子」』           
 【日出る国の天子より、日沈む国の天子へ】という有名な書を、当時 
の強国隋に送った、十七ヵ条憲法制定した廐戸の皇子こと聖徳太子。  
ずっと一万円札の顔だった太子が現在の歴史教科書から消えてしまった 
ようだ。例えばその「聖徳太子」が存在したという事を、現在の人間が 
立証出来ない様に、存在しなかったという事も同じくである。     
それは現在以外の「歴史」全てに言える事。             
  
  ”歴史など 時代の中の 振子(ふりこ)なり ”        
である。その「聖徳太子」はその一時代の象徴の人として捉えておけば 
いいのだから、今更「実在した、しなかった」「他の人だった」等の主 
張等、可笑しく、ではそれを「誰が証明するの?」である。      
こんな愚かしい事は自重して下さいよ。               
 そして「聖徳太子」を甦らせて下さい。              
こんな立派な日本人を「抹消」しないで貰いたい。           
             *                   
       『学校区制撤廃を』           
 敗戦後、アメリカ占領軍から押し付けられた教育基本法からやっと脱 
皮して「新しい歴史教科書」推進者の方々の尽力により、偏向的ではな 
い歴史観が開示されつつある。だが学校現場では日教組等の強制的指導 
(歪んだ歴史観をプリントしての教育)が行なわれていた(寝屋川市の 
公立高校】。以前にも提言した学校区撤廃を行い、市民が学校を選び選 
択の幅を拡げる事から始めてはどうか。現在の日教組の膠着状態を抜け 
出す事が教育改革の必須条件と思う。       
   2005年9月18日 3:21


2005/9/10                 
    『祈 9.11 再び 小泉総理大臣に』
 9/9(金)5時45分から少し遅れて寝屋川市駅前で自民党、竹中 
平蔵大臣に依る12区選出の北川ともかつ氏の応援演説があり、 
不良債権処理実行者ならではの自信に充ちた演説は迫力ものでした。
途中強雨に見舞われましたが、「自衛隊員より多い、26万人の郵政職 
員なんですよ!」雨になど流されることのない印象的な熱弁でした。  

 選挙合戦最中、今週は私の「地球の未来の為」広報カーを駆使して
小泉自民党応援の為、9月8日には兵庫県立美術館の「シルクロード展」の帰り
三宮迄車を走らせ、帰路は往路の国道ではなく住宅街を走り応援広報してきま 
した。その前日は寝屋川周辺のやはり住宅街、今日は枚方から門真古川 
橋、守口と走って来ましたよ。私のこの行動が、日本の未来の為に少し 
でもお役に立つ事を願っています。                 

 bW6前号に書いた選挙短歌2首に加えて以後3首詠いました。     

  ”反対は 支持基盤に しがみつき               
       総理の座はなし 小泉首相 ”            
                                 
  ”民営化 いづれはと 民主党                 
       解散前に 言うべきだった ”            
                                 
  ”信念を 貫いてこそ 国は立つ                
       ふらつく柱じゃ 国こける ”  
          

 民主党が国会であれだけ郵政民営化反対といっていたのに、衆議院解 
散後の小泉自民党への国民の支持風に、急拠「いづれは」と言い出した 
。1年後も「いづれ」だし、「10年後」もいづれ、ですわ。     
結局郵政改革はする気ナシ、と看做した方がよい。          
               *                 
 大阪市職員の厚遇問題だけではなく、公務員の不祥事が目に余る。  
すべてコンピュター処理出来る現在、役所等の人員は過剰なのではない 
か、一度民間機関に試算させればと思う。が支持基盤が市職員労組の  
民主党ではようしない。そして、民主党のマニフェストを見て気になる 
のが12月にはイラクから自衛隊の撤退、沖縄普天間基地のアメリカ軍 
の国外移転を掲げているが、民主党の一方的な見当だろう。すぐ近くの 
尖閣諸島海域に【中国海軍の軍艦5隻が航行。春暁ガス田周辺を時計回 
りに周回した。9/10付 産経新聞より】こんな状況の折、余りにも 
無責任な公約と思える。靖国神社には参拝しない、靖国の代替施設を造 
る等、すべて中国の「命令」通りに従うという事は、あの言論の自由も 
ない一党独裁国家に隷属する分ですか。(勿論、民主「選挙」などあり 
ませんよ、一党しかないのだから)                 
 私達はご免蒙りたい。まだ民主主義のアメリカの方がマシですわ。  
               *                 
 これまでの政権が10年間以上もほっておいて膨大な額に膨れ上がっ 
た不良債権の処理、道路公団解体し民営化の方向付け、今度の郵政民営 
化。小泉首相でなければ誰も手を付けないものでした。        

 明日の選挙で自民党、公明党で過半数取れなければ小泉首相は退任しま 
す。
これ以降誰も郵政民営化を行なう者はなく、もっと先にどうしても 
民営化しなければならない時には国民の負担はずっと大きなものとなる 
。それが分かっているから、小泉首相は国民に選択を仰いだのです。  

 この選挙に勝っても小泉首相の得るものは、現在の総理の座です。  
解散せずに残り1年の任期を極端に言えば漫然と全うしてもよかったの 
に、だから誰も解散等しないと思っていたと思います。        

 「すごい人やなぁ」と思った。これこそ信念を貫くと言うのだと、  
思い知らされた。今の世の中にこんな人がいますか?         
いや、これ迄にもいなかった。                   
 だから私は、それを意気に感じ応援してきたのです。        

 依ってどこから検討しても、明日は「小泉自民党」に投票する。   

   ”再びに 総理大臣として 小泉さん             
          必勝 お祈りしています ”        
                                 
               *               

005/8/9〜8/11              
   『祝・発行5周年』         
 早いもので本ペーパーマガジン【445のページ】(旧にゃこリン夢 
現シリーズ)も2005年7月1日で発行から丸5年となりました。当 
初月4回から2回、最近は月1回程度の発行ですがこの間は、もう止め 
ようと思うことも暫々、でも書かずにはおれない事柄に遭遇するので続 
けて来たというのが実状です。予算の都合上ごく僅かな部数を配布して 
いますがインターネットでご覧頂いたらと思います。暑い夏がもっと熱 
くなった政治の世界。今回は4年前の小泉旋風を彷彿させる「郵政解散 
」を中心に掲載します。                      
[言いたいほうだい]には、『誰の、過ち?』  『歴史に学ぶ』とは?を
掲載しています。
   
             
─────────────────────────────────
  「本当に「自民党をぶっ壊した!」小泉首相」 

   ”国民の 支持なくば 退陣と        
        小泉総理 郵政解散 ”    
  
 
  改革に反対したら「自民党をぶっ壊す!」と言って
 いた小泉総理大臣が公約遂行の為衆議院を解散しまし
 た
。4年前、自民党総裁に就任して、すぐの参議院選
 挙で圧倒的大差で勝利し、総理大臣に選出された小泉
 首相。その時の自民党参議員にその郵政法案を否決さ
 れ、とんだシッペ返しを喰らった小泉首相の心中は如
 何ばかりでしょう。あの4年前のそれ迄の自民党政治
 に嫌気が差していた国民の心を掴んだのが、構造改革
 断行しようとする小泉首相の心意気でした。    
 まさに自民党にとって救世主だったでしょう。   

  今度の衆議院解散という事態の前に、各自が4年前
 のその流れ、そしてそれ故選ばれた責任というものを
 自覚すべきだったと思います。だから小泉首相は解散
 して国民に審判を仰ぐという事です。       
 この選挙で民意が判明すれば、再度否決される事はあ
 りえません。「信念」遂行の為に総理大臣という地位
 を投げ捨てた小泉首相には、濁流の中を一筋流れる、
 清(勢)流を感じさせます。           
   
 ”信念を 貫く人は 潔ぎよし       

         私心なき 小泉総理 ”  
   
  

  政治家の公約は破られるものと思っていたが、小泉
 首相は着実に実行してきた。歴代の総理が先送りして
 きたお蔭で膨大な金額に膨れ上がった「不良債権処理
 」に、なんのしがらみもない竹中平蔵氏を起用して銀
 行の合併の又合併という再再編を断行する事が出来た
 。現在景気は「踊り場」脱却宣言となりました。  
  この事は最大に評価されていい事だと思います。 
                                                 
 次にやはり族議員の牙城だった「道路改革」の為、                           
やはり民間の作家、猪瀬直樹氏を改革委員に抜擢して                           
風穴を開け、
完全ではなくても民営化の方向付けをし                           
た。そして、改革の本丸が今回の「郵政民営化」です                           
。この流れが次の社会保険庁改革等に繋がっていくの                           
です。「老人大国」となる将来の日本を見据えれば、                           
社会保障費関連は増大こそすれ減少する事はない。                            
比例して少子化の状況。「民間で出来る事は民間で」                           
と言う小泉首相の改革スローガンは、取りもなおさず                           
国民に負担を強いる安易な増税の前に、                           
優先順位は歳出削減が先である言                           
う当たり前の論理からである。                                     

 厚遇問題が表面化した大阪市の職員待遇の内状を暴                           
露出来たのは、民間人大平光代氏を助役に抜擢した大                           
阪市の関市長の改革意志だった。                                    
長年のこの悪弊を民主党は支持基盤が労組である事か                           
ら指摘、糾弾しなかった。結局今回の郵政改革も同じ                           
様な事で、支持基盤を失いたくないので反対に回った                           
というのが、実状だろう。                                       
                                                   
  ”反対派 支持基盤に しがみつき  
       総理大臣はなし 小泉さん”


 バブルが弾けて以降の「失われた十年」で、民間は                           
リストラにつぐリストラで出来得る限りの合理化に依                           
り、生き存(ながら)えてきた。不況で自殺者が最高                           
記録を更新していた時にも、他人事の様に公務員は
血税を当たり前の如く喰い尽くしていた。
公務員
の「労働組合とは、何だろう?
                           
」と想う。あの極不況時、一時的にでも労組が自分達                           
の待遇低下を申言していたら、労組の機能を果たして                           
いたと言えるだろう。                                         

 私達子供の頃は、公務員とは薄給でそれでも国民、                           
市民の為に働く崇高な人達だと思っていた。今、その                           
原点に立ち還る必要がある。その「市民の為」という                           
心意気のある人を採用する。現在の上級公務員等の試                           
験は何をテストするのか?常識的、一般的知識、プラ                           
ス職種による必要知識があり、ボランティア精神(薄                           
給)でやれる人に任せれば、ここでも歳出が省かれる                           
。いまや、公務員は国民、市民の為に働いているとい                           
うのは幻想で、負荷でしかなくなった。是非民間で出                           
来る事は民間に移行し、職員削減による大幅な歳出削                           
減を要望したい。郵政民営化実現、そこを切り崩せば                           
改革は一気に呵成されるだろう。その事に依る法人税                           
増収がプラスされ、国民への増税押し付けも不要と期                           
待できる。                                              

 その為にも今度の9月11日の衆議院選                           
挙は
、改革反対の支持基盤層ばかりの票とならないよ                           
う、これ迄選挙に行かなかった人達も
生活に                            
直結し
ていると考えて、改革断行の                            
為の1票
を投じようではないか。                                

 私も受信している丸4年となった「小泉メールマガジ                           
ン」を通じ国民の声を汲み上げ、政治を国民の身近なも                           
のにした内閣は小泉首相が初めてでしょう。                                
 今回の選挙で守旧派を駆逐して小泉自民党が勝利出来                           
れば、自民党が本当に一新され、「小泉後」も政権党と                           
して国民の支持を得る事が出来るでしょう。                               │
まさに、自民党結成50周年にふさわしい慶事となる。
  2005年8月13日 16:01

2005/6/18〜6/23迄記載分です。
   『水無月みなづき』     
 此処近畿地方は梅雨入りしてから碌に雨も降らぬ侭
近所の紫陽花は短い命を閉じていました。折角の六月
だったのに本当に「水無月」です。昨日も今日も、た
まに薄日を覗かせてもすっきりしない空模様です。 
  
  【一杯に 扇子拡げて 今日は夏至】     
 一杯の日の長さも、夏至が過ぎればすぼんで(短く)
いくだけ………これからが夏本番ですが、暦の上では
真夏を下っているのです。            
 甥子の部屋以外は扇風機も未だ出さず、手動扇風機
の、うちわ及び扇子(せんす)を使っています。  
扇風機を出してしまえば「使わずにおれない」、それ
が人間というものだから、もう少しこの侭で過ごしま
す。                      
 今年もまもなく半年が過ぎようとしているのに私は
職も決まらず、増えるのは白髪と返送された履歴書。
上の甥子の僅かな収入でなんとか生計を維持していま
すが、先行き本当に心細い限りです。色んな所、人に
私の創作物をアプローチし、著作権で生計をと希って
きましたが、すべて夢泡(むほう)です。     

  日本の中の ポチとミケ  
 世界中の人を唖然とさせた、この間の中国の若者による反日暴動、暴 
挙。中国という国も「豊か」になったもので、日本人店に「卵」を投げ 
付ける、窓ガラス類を壊す、それを警官群がただ見ているだけで制止も 
しない。なんであれ「暴力行為」を黙認するなど野蛮国家でなくて何だ    
ろう。国家の意志として反日教育を為し、暴動を煽った中国政府の今回    
の目的は、その勢いで尖閣諸島を自領だと日本に屈服させる事だっただ    
ろう。                              
 2年前の産経新聞「オピニオンプラザ」欄に1980年代からフィリ 
ピン、ベトナムを軍事制圧して行った中国が南沙、西沙諸島を実行支配     
し軍事用滑走路迄を造っている、一党独裁国家の決定から実行迄の即断     
力への危惧が掲載されていた。 それにしても、中国の「反日教育」と          
日本国内の教育のそれと全く同じと思いませんか?「親子関係」のよう    
な。結局の処、反日教育推進の日本の野党は中国をバックボーンに、与    
党自民党はアメリカをという構図でしょう。
(与党がアメリカの【ポチ】なら、野党は中国の【ミケ】? 
<犬と猫ちゃん、こんなのに喩えてゴメンネ>)
他国の利益の為の反日を日本の子供に刷り込んで、それで    
日本人とは恥を知れです。自分達の政権奪取の為国民を利用している。    
自由な言論を弾圧された中国人は皆アメリカへ亡命して中国の実態を暴    
露し、日本に来る中国人は中国政府を美化すると新聞にあった。       

 国民として肝心な事は民主国家を継続したいか、弾圧国家を受け容れ    
るかという事の選択です
。                        

 「日ソ中立条約」をキチンと守った日本のお蔭でロシア(旧ソ連)は    
対ドイツ戦に勝利出来た(当時同盟を結んでいたドイツに日本は加担し    
なかった)。「日ソ中立条約」を破ったロシア(旧ソ連)のお蔭で日本    
は満州にいる日本人はシベリアに連行され、北方4島は奪われた。戦勝    
国の裁いた「東京裁判」は、そのことには触れず仕舞いである。
それは    
当時のアメリカ大統領ルーズベルトとソ連のスターリン間の有名なヤル 
タ会談で<日本を裏切る事>は密約だったからである。        
 その「東京裁判」で罪状<平和を犯した罪>で一方的に裁かれ処刑さ 
れた日本人を祀っているのが靖国神社である。            
若し裁判が当時のインドのパール判事が唱えた中立裁判だったら処刑の 
内容も違ったものになっていただろう。               
 アメリカ軍の東京、大阪への大空襲、広島、長崎への原爆投下は無差 
別殺戮として裁かれるべきもの。日本に依る真珠湾攻撃はアメリカ空軍 
基地を爆撃したが、その日本が戦争に至った過程までも検証されるべき 
だっただろう。                          

     『東京裁判?とは』
 産経新聞平成17年6月18日付「正論」欄の上智大学名誉教授渡部 
昇一氏の論文を要約すると、ロッキード裁判で鑑定証人をした時の証拠 
文書の扱いの杜撰さ、一例として<midday>は正午から15分前 
後迄を指すのに、日本の検察官、裁判官は午後4時をも<midday 
>と翻訳した。先に結論ありき(被告を有罪)であった。       
 サンフランシスコ平和条約第11条の「戦争裁判の受諾」英語では< 
accsepts the jadgments>である。
      
【jadgments】は裁判ではなく、判決それもsがあるので諸判 
決とすべきである。だから【東京「裁判」】ではなく「諸判決」を受諾 
と翻訳すべき。
諸判決とは絞首刑、終身禁固刑、禁固刑でありサンフラ 
ンシスコ平和条約締結以降、絞首刑された東条英樹他6名以外の禁固刑 
者計17名は正当な国際的、国内的手続きを経て釈放された。     
「靖国神社」に祀られているA級戦犯なる人達(絞首刑された東条英樹 
他6名)は昭和27年アメリカとの平和条約締結時迄に処刑された人達 
である。平和条約締結以後の昭和33年に3000万人の日本国民の赦 
免署名活動及び国会決議によりA級戦犯なる人も釈放され(現にその中 
の賀屋興宣氏は後に法務大臣、重光葵氏は外務大臣を務め、日本が国連 
加盟を承認された第11回国連総会に日本代表として出席した)、日本 
国民の平和の為に死んでいきます、という遺書を遺してA級戦犯で処刑 
された人達も靖国神社に合祀された。
(以上、産経新聞「正論」欄より 
)                                
 赦免署名活動こそ当時の戦争経験者の日本国民の総意である。それを 
年々風化していくのをいい事に、「現在」の人間が分祀等と発言するの 
は、余りに無知、無見識な暴言である
。アメリカとは安保条約も結び以 
降の日本との関係は良好である。そして、段々風化してくる程に「靖国 
神社参拝反対・A級分祀」が声高に叫ばれているのである。中国の反日 
戦略の一貫として日本政府要人による「靖国神社参拝反対」。昭和54 
年元総理の中曽根首相が「公式参拝」と明言し、それに日本の野党が異 
議を唱え国会の争点となった。それまで日本の総理の靖国神社参拝には 
全然無関心だった中国が「その時」から急に異議を唱えだし、現在に至 
っている。これでも分かるように中国にとって靖国神社参拝云々は本当 
はどうでもよく日本を屈伏させるカードが必要なだけである。だから、 
靖国で日本が引けば、何か代わりを全面に出してくるだけの事。    
                    
            両極端 (教科書問題)              

 6/21(火)ソウルで日韓首脳会談が行なわれた。 
共同骨子発表には、竹島問題は触れず仕舞いで、共同で「歴史研究」を 
為し教科書に反映させる云々……とあるが、この教科書というのは日韓 
のでしょうね。現在黄文雄氏著書の「日韓併合が韓国を救った」という 
のが発行されている様に韓国側の教科書も反日ばかりではない記述に改 
める様な姿勢がなければ、日本国民としては納得出来るものではない。 
本当に「友好関係」を築きたいのなら一方的ではない歴史及び現状認識 
が必要です。他国と「歴史認識」等共有出来る筈がない。戦争等の動機 
も互いに違う。相互理解という見地が必要である。この事は中国にも言 
える事ですが。      
   
 
教科書問題に関しては、あくまで日本国の未来を担う人間を育成する為 
の教本である
。例えば、元は同じ中国人でも台湾は「好日」の人が多い 
。李登輝氏前首相等、特に昔の人達程日本贔屓で短歌の愛好者もいる。 
片や中国の「反日」。この極端は何故か?なんでもない、国の方針(教 
育)、政策の差だけ。この様に「教えられる」内容に依って極端な「対 
日感」になるのである。

 終戦60年という
「還暦」の年

 戦後の占領軍の「教育」その侭をお守りの様に 
伝来してきた我が日本の教育界。今年は終戦60年という「還暦」の年 
。人間の「還暦」の時は、当人が「赤い帽子とちゃんちゃんこ」を着て 
皆がお祝いする。その時から又「赤ちゃん」に戻るという謂れから、新 
たな命を生きるという事である。もう充分でしょう「被虐史観」。   
近隣国は党、国民が一丸となって「反日」と言っているのに、我が国に 
は一丸となって正史観を訴える人間がいないどころか、近隣国と同じ様 
な「反日者」がゾロゾロ(ゴキブリ?)一杯。♪こんな日本に誰がした 
♪ですよ。この終戦60年の「還暦」を機に占領軍の呪縛、近隣国と同 
じ反日史観から脱却して、勝者が一方的に裁いた「東京裁判」の再点検 
に政府は着手して下さい。                     

「日ソ中立条約」を死守した様に日本は「義を重んじる」国柄
である。 
依って占領軍の作った「戦後憲法(教育基本法)」もその真面目さでも 
ってお題目にしてきた。が、教育は国民を骨抜きにし、謝罪外交は全然 
効力が無かった。反対にそれが近隣国を益々増長させる結果と相成った 
。謝れば謝るほど近隣国は「強く」なるだけである
。こんな近隣国とは 
東アジア共同体構想等土題無理。軸足は日本を「友好国」としてくれる 
国々に置く(勿論経済も)、それに依って近隣国にも「変化」が表れる 
でしょう。                            

東中野修造氏の「南京虐殺は無かった」
(関連文書 「言いたいほうだい」の
2003年2/12付 『歴史の捏造』へ
)という本は、当時の資料をひ 
とつひとつ精査結果の集大成である。これまでの歴史教科書は何を根拠 
に「南京虐殺」なる事を記載したのか?これ等も「両極端」の類である 
社会の教科書は「新しい歴史教科書」とこれ迄の「歴史教科書」の2 
種類を採用するようにして、何故これ程までに違いがあるのか?と言う 
事を含めた「勉強」をすればいいのではないか。 
          
 中国、韓国と同じ反日教科書を採択使用していたこれ迄の日本教育界 
の盲点こそ着目しなければならない。                

 韓国大統領の「靖国神社参拝反対」に関連しての新施設建設要求は、 
失礼ではないですか?立派な内政干渉です。誰の為の物でしょう?誰が 
詣るのか、外国要人の為ですか?ならば国立千鳥が淵の無縁者墓地にで 
もお参りして下さい。ブッシュ大統領は来日した折「靖国神社参拝」を 
希望したのにいつもの外務省が近隣国に気を使って「明治神宮」にして 
もらったとか。あの時に靖国神社に参拝して貰っていたら、以降の近隣 
国の反応も変わったでしょうに。
やはり害のある「害務省」ですわ。い 
りまへん。 最近の韓国を見ていると北朝鮮化(同列に中国化)され、 
共産主義(一党独裁国家)の一国の如きに見えます。相も変わらぬ「靖 
国神社参拝反対」は日本の平和憲法を教えられていないから軍国主義復 
活とイコールされる故のものです。  
               
 


 2005/5/2(月)           

 ” デシカメを ともない 2日 さくら酔い ”      
                       ”      
 4月は8日は守口、9日は近所の田井西公園に行き満開の桜を 
デジカメスケッチして来ました。ホント、桜の花にどっぷり浸か 
って、桜酔いというところです。               

 
” 桜花 レースのカーテン 絨毯に ”          

 その4日後、同公園に行くと、月が欠ける如く、満開だった桜 
も綻びはじめ、地面は桜色の絨毯に装われていました。     

 そしてもう5月、新緑が瑞々しい陽光に輝いています。    
すべてが生まれかわり、はじまった。             
車で新緑の中を走り抜け乍ら、人間も毎年このようにみずみずし 
くなることが出来ればどんなに素晴らしいだろうと思っていまし 
た。                            

                              
  『社会の変革とは?』           
  
 (JR尼崎列車脱線事故)                
「地獄絵図」乗客の発言が物語る<4/25(月)の         
JR尼崎列車脱線事故。一両目に乗っていた人が我慢し        
ていたトイレを利用する為伊丹駅で下車し、同時にど         
っと乗り込む乗客との「明と」、車で送って行くと         
いう息子さんに「電車の方が安全で渋滞もない」と亡         
くなられた人・人・人・・・・────               
亡くなられた方々の御冥福、心よりお祈り致します。         
 突発的な死を見聞きする度、人間の持って生まれた         
「寿命」というものに思惟せずにはおれません。           
外国メディアも取り上げた、今回の事故を【現代社会         
の仕組み、自分達にも責任がある】と身内を亡くした         
に拘らずまさに的を得た発言だった。それは今回の被         
害家族の誰もの悲願、「二度とこんな事がないように         
」の祈りを込めた、その根本的原因の現代社会のスピ         
ード優位感への戒めでしょう。今回のJR福知山線は         
競合する阪急電車より同区間「6分」速く到着し、運         
賃が高いに関わらず利用客が増加したとか。             
【25年前の京阪枚方での置き石による脱線事故は7         
両編成急行電車が半径400メートル右カーブで脱線         
し、1両目が民家に突っ込み2両目は横転した。50         
0人の乗客中104人が重軽傷を負った。以上産経新         
聞より】速度は分かりませんが当時と現在の車両では         
重さが雲泥の差でしょう。その差が、25年前のは【         
104人重軽傷】のみ、今回【106人死亡、負傷者         
461人】と膨大な差となった。これを機に、利用者         
も意識を変えていく、ことが「社会の変革」に繋がる                                             
ではないでしょうか?                                                               
 
 速くなくても、安全を優先するか、                                                        
 安全面のリスク覚悟で、速さを選択するか。                                                      
需要があってこその、消費社会です。どちらにしても                                             
「絶対に安全」という事はありえません。   。                                                 
 
 新幹線もスピードアップの為、益々軽量化されシス                                             
テムは全てコンピュータ化されている。今回の事故車                                            
両は軽量化されているのに制御装置は旧式のままだっ                                           
たという事は(故意に万一事故の場合の被害考察を怠                                           
った)、国の指導を含めて看過出来ない重大な過失で                                            
ある。                                                                                       
         *                                                 
 「何故五重の塔は地震に強いか?」
をNHKテレビで観た。二十メートルの高さの塔の中心を心柱が貫                                           
き、例えば地震で一階が左に揺れた時、二階は右に揺                                           
れるようにと言う具合に、階層毎が一定の傾度を越さ                                            
ない様バランスを保つ為、交互に「遊び」が設けら                                              
れていた(二年掛かりで造った薬師寺五重の塔の縮小                                           
実物で実証)。千年以上も前の建造物の技法が、現代                                          
にやっと解明されたという事。その当時「国造り」                                               
に未来を視野に据えていた全ゆる人の気概を感じる。                                             
近年は、この工法が用いられている高層建物も多い                                           
らしいが、現代の建物は合理的な華麗さ、より速く、                                             
より高く(鳥ではない)のみの追求で、基本的に未来      
への視野は狭窄(問題にしなかった)だったと言える                                             
。消費促進の為の買い替え、建て替え等、使い捨て時                                           
代に生きる、現代人の精神基盤ゆえの………。                                                                      



3/20      『卒業の実り』             
 
♪卒業式今日の別れ (略) 別れは 悲しいけれど       
  その別れの 積み重なりが 皆を大人に 変えた… ♪     
 
 三月十四日は左の「私の歌」の♪心の積木♪に歌っている下の甥子の
中学校の卒業式でした。(右の歌詞はその甥子の小学校卒業時に
作った一部分です)少し遅れてしまって「君が代」斎唱は終わっていま
した。私自身、憶えている「卒業式」は何故か小学校のだけ。式次の始
めに会場内の日の丸が君が代と共に下から上に揚がって行き、終わりに
は又、同じ様に降りて行く。太陽の昇降の如く。始まりと終わり。その
「君が代」斎唱と国旗掲揚の厳(おごそ)かさ。          
「君が代」はテンポがゆっくりで――― 甥子は言いますが、それは「
生きている時代」の相違故のもの。私達がその頃聴いたバラード、ブル
ース調の歌謡曲。現在の歌のアップテンポに慣れた甥子世代。このスピ
ードアップされた現在の時の流れの中で、それだけではない、ゆるやか
な時に触れたのは、意義深い事でした。それこそ「この生」に連なる 
先人の時代への一瞬のタイムスリップと言えるでしょう。      
 間違いなく言える事は、遥か彼方からの「刻」の積み重ねによって、
「いま」があるということです。                 
────────────────────────────────┤
         
『日本は天国』            
 産経新聞3/18付曽野綾子氏の「透明な歳月の光」に、日本の民主
主義を理解して貰う為にサマワから招聘した宗教指導者や女性教師たち
は伊勢神宮の境内に入って息をのんだそうです。テロリスト達は聖戦と
いう自殺テロで死ねば天国で流れる清らかな水と、緑溢れる茂みの傍で
憩う事が出来ると教えられているからです。「日本は天国」、これまで
世界百二十カ国の発展途上国の実情を見て来た氏は折りにふれ述べられ
ている。                            
 昨年10月22日の同氏の同欄には「台風」と題した中に、17日間
アフリカ旅行の間に日本に台風が襲来していて、帰宅後のテレビはその
ニュースばかりだったが、避難した学校で行政から支給される新しい毛
布、弁当、それらは当事者が自分で準備しておく位の「教育」をしてお
くべきだ、という指摘があった。                 
「アフリカの地域では何度も停電があり、又点いていても電圧が安定し
ていないので、すっと電灯が暗くなる」「嵐でも東京の明るさは微動だ
にしない。この事実に少しも感動もせず、感謝もしない日本人が、私は
不気味だった。」 曽野綾子氏の言葉です。             
 今日の新聞に『北極海の氷面積が縮小』、アメリカの雪氷データーセ
ンターの人工衛星の観測結果として、夏場の氷の縮小が数年続いている
北極海で、冬場にも十分に氷が回復しない異変が起きている。    
地球温暖化の影響を特に受けやすい北極海は、この傾向から今世紀中に
夏場の氷が全面消滅する恐れがあると掲載されていた。       
 先程の電灯もままならず生活しているアフリカの人達には、この地球
温暖化の責は露ほどもありません。すべて文明国、あり余る科学文明迄
を使い放題にしている私達文明人の所為です。           
 生活の縮小を、各自が自覚する事。少し前の日本人の生活を思い出し
て下さい。テレビは1台で観る。使わない部屋の電気、エアコンは消す
。出来る範囲で実行しましょう。以前にも書いたけれど、一日の電気使
用量の制限が国民に割り当てられるようにならないとは限らない、この
ままでは。                           
 改めて、「豊かさ」とは何か?「日本は天国」と言える曽野綾子氏は
豊かさを「知って」いる。貧しい国、貧しい人と比較すれば「それより
マシ」と思える。自分の状況をどう「思えるか?」         
 どんなに物質的に恵まれていても、自分で「豊かだ」と思えなければ
「豊かではない」。要は「精神」が豊かであるか、どうかという事。

2005年3月21日 2:29:11

  2005/2/4より2/12迄掲載しています。           
                       
2/4   『立 春』                 
     ”寒の「鬼は外」 あけて今日 立春や”         
 三寒四温といいますが今日は立春、前日三日間の寒かった事、朝起き 
ると車の上に雪が残っている日もありました。と言っても地震のあった 
新潟の小地谷等は積雪が3メートルにおよび家が崩壊、又除雪中の屋根 
から転落死した人の事などがテレビに映し出されていました。又高速道 
のインター入口の上部も大雪が積もり、雪下ろした雪を捨てる為トラッ 
クが往復しているが2台では直ぐに一杯になる、と地元の人の不満の声 
が上がっていました。想像を絶する状況です。            
 この地域こそ本当の「立春」が来る事をお祈りします。       
            *                    
2/7   「北方領土の日」           
 2月7日は日露間の国境を定めた日魯通好条約署名から150年の日 
です。今年ロシアのプーチン大統領が来日するそうですが「おみやげ」 
として4島一括返還するのかと思ったら、「2島」返還を返答して来ま 
した。産経新聞の朝刊「正論」欄にその2島というのは4島の合計面積 
のたった7%でしかないとあった。どちらにしても、フザケルナ!です 
よ。この事は当マガシンbV2及びbV3号にも掲載していますが、日 
ソ不可侵条約を一方的に破り、戦後の日本の北方四島を占領掠奪した旧 
ソ連、おまけに満州から日本に帰れると思った日本人をシベリアに連行 
し強制労働に従事させた(60万人の内死亡5万人余り)。これ等の事 
を以てして何ひとつ日本が譲歩しなければならない因はない。反対に4 
島プラス、シベリア抑留者の労働対価をロシアに請求してもいい位だ。 
現在のロシアと日本のパイプライン敷設には日本の投資金額は莫大であ 
る。に関わらず中国にも「油」を供給するそうである。        
くれぐれも話の【つめ】だけはきっちり着けておくように。そして日本 
は「絶対4島返還」のアドバルーンを下ろさない事。この機を逃せば一 
括返還はいつになる事やら、と思います。日本の資金が欲しい今だから 
出来るのです、絶対押し通す事。国民もロシアが一方的に占拠している 
北方四島返還要求を唱え続ける事。国土から200カイリという漁業権 
にも及ぶ、蟹やニシン、鮭、鰯等の漁獲が日本のものとなる(戻るとい 
う事だが)、私達の生活にも密着している事なのだから。       
 うまくいけば儲けものと、最初に無理難題を吹っかける、これが全ゆ 
る「社会主義国」の常套手段です。                 
 北方領土四島返還が決まれば、日本にとって歴史的「立春」となるこ 
とでしょう。                           
 先に述べた戦前の「日ソ不可侵条約」。              
「条約」なるものの頼りなさ、それは平和時のものである事を、歴史に 
学ぶべき。いつ破棄されるか分からない。それ故、日本はどうあるべき 
か? 日米安保条約の「傘の下」にある現在だが、他国依存の頼りなさ 
。(死文化していると言う、国連憲章の中の「日本・敵国条項」も即刻 
削除要求を)                           
         ◆  ◆  ◆                 
私のエコライフ(塵も積もれば山となる)            
 顔を洗う時は給湯を使いますが(因に台所にはなし)、少し湯を出し 
た後、湯温計のスイッチを消しても未だ湯が残っているので、湯栓はそ 
の侭にして洗っています。                     
 いづれ水になりますがそれも気持ちが良いし、肌にもいいようです。 

              
2/9(水)    『ためいきばかり』                       
 出るのは、溜息ばかり………。                  
1月が終ってはや2月になり、今日はもう9日。仕事が決まらない日々 
だけが過ぎていきます。私と同じように上の甥子も昨年でアルバイトが 
終わり、それでも最近、短期短時間のバイトが決まって行っていますが 
、私の場合は年令制限という大きな壁に立ち塞がれ、思うに負かせず、 
先を想えば鬱蒼たる気持ちです。昨年11月位に胃の状態が平常ではな 
くなり(痛いとまではいかないがそれに近い)1日3杯は飲んでいたコ 
ーヒーを3週間程止め胃腸薬を服薬してなんとか治癒しましたが、それ 
に囚われると、ストレスから同じようにならないとは限らず極力無考状 
態でいる現状です。時間があればしたいと思う事が一杯あったのに、( 
詩歌集第4集を仕上げる事【仮題「無限」】、他、創作関連)気持ちが 
前へ進まず、というのも結局それらは生活の糧のなんの足しにもならな 
い、それどころではないからです。                 
 しかし………・・・フゥー(タメイキです)。           
 これまでの著作物を歌や朗読でCDを作っているので、新たなビジネ 
ス展開を一考しようと思ってはいますが。世の中キビシイよ。     
                 *               
2/11(金)                          
 打ち込んだのを(先にワープロ打ちするので)流そうと思っていたの 
に、昨日一日風邪気味で寝込んでしまった。食事の用意だけは他にする 
者がいないので仕方なく作り、食べそれ以外はずっと寝ていた。その前 
日2/9(水)夜は日本対北朝鮮のサッカーをテレビで観ていてロスト 
タイム3分での日本の決勝点に大いに歓声を上げ、溜飲を下げたのに、 
その後寝る前位ちょっと風邪っぽいなと思いながら、薬を飲まずに寝た 
ら案の定、この顛末だった。                    
。今日は建国記念日の休日だったが、寝呆けの所為か今日を2/18の 
(金)と何故か思い違いをしたまま下の甥子の弁当を作り、ほぼ終る頃 
、バイトへ行く上の甥子が建国記念日である事を教えてくれたので弁当 
箱に詰めずに済んだ。朝食を食べた後も、アイスノンをして寝たが、昨 
日は気持ち良かった冷たさが、今回はちょっと冷たいかなと思えた。  
 昼は朝に作った料理を食べた後、テレビを観て、気分がすっきりしな 
い乍らも部屋の掃除していない事が気になっていたので、取り掛かり終 
えた後、これを打ち込んでいます。夕食はかやく御飯をしようと思って 
、先に牛蒡を削いで水に浸け、蒟蒻を茹いておいた。これからかかりま 
す。       2005/2/11 (金) 18:25               

2/12(土)      『インプットされた愛』                    
 昨夜のかやく御飯は最上級ではないけれど、美味しかった!     
炊飯を「標準」にすれば良かったのに、「早炊き」にした分、少し御飯 
が固かった。その後はテレビで映画「イレーサー」を観て、入浴後直ぐ 
就寝した。                            
 今日は午後から魚類、野菜、肉等の買物をして来ました。風邪はなん 
とかよそへ引っ越ししてくれたようです、メデタシ、メデタシ。    
 映画と言えば、今夜のテレビで「シックス・ディ」というのが放映さ 
れていた。所謂クローン人間の物語だったが、最愛の者を失くした時、 
若しもクローンで再生する事が出来たらどうするか、生命の重さ、一稀 
性を思えば考えさせられる映画だった。(死ぬ側の立場になれば再生さ 
れたくはないが)                         
2/10の食事時、途中からだったがテレビ「アンビリーバーボウ」で 
「人間は1000歳迄生きられる」というのがあった。悪くなった身体 
の部分を取り換えて行けば未来には1000歳迄生存が可能になるとい 
う内容だった。「部品」を交換していくのだからロボットと同じような 
物?「死」というものを見据えなくなった人間は、感性の滅んでしまっ 
た、ただの「動く物」という存在でしょう。             
それより、そんなに永く地球が持つか?               
このままだと50年後には地球温暖化等の所為で地球が水没するかも知 
れないと言われているのに。                    
 ロボットと言えば少し前、やはりテレビで「A・I」という映画を観 
た。AI(人口知能)で作られたロボットは人間よりも優秀で、持ち場 
を奪われた人間がロボット狩りをしてスクラップにしているシーンがあ 
った。又、そんな壊され損いのロボットが、欠如した部分を他のスクラ 
ップの部品をあてがって自分ではめ込み再生していた。まるで先の10 
00歳の人間のようです………(笑)                
 この映画の主人公は母親に愛される事をインプットされた「子供」ロ 
ボットで、子供の急死した家に買われて行く。可愛がられていたが、そ 
の後の家庭内事情からやがて捨てられる。それでも「母親」にあいたい 
、スクラップにされそうになったりしながらも、スクラップ崩れと知り 
合い「愛の女神」に出会える場所を教えられ、結局自分の製作者に辿り 
着く。「プロミング以上の事をやってのけた」進化した、と博士は子供 
ロボットを絶賛する。                       
 2000年後?人類が滅亡した地球上に、宇宙人が降りて来て、子供 
ロボットに言う。タイムカプセルで「一日だけ好きな人に会える」、  
「24時間でその人は消える」と念押しされ、「母親」と再会する。  
やがてベッドに「母親」と共に横たわり、子供ロボットは2度と目を覚 
ます事はなかった………。ヨカッタ。2度目の進化でしょう?。    
 「愛」と共に永遠の眠りに就くのは誰もの理想ですね。       
そして、100歳、200歳、クローンで生まれ変わりと言った処で、 
人間というのは、周りの人間、「愛」で支えられてこその長寿願望と思 
われます。                            
         2005/2/13 2:38


平成17年(2005)
 新年明けまして                    
      お目出度うございます。 
今年もよろしくお願い致します。
 
【平成16年12/29〜平成17年1/10までを掲載しています】
【13のリンクのトップページ刷新しました。如何でしょう?】

1/9(日)「お歳暮の宅送アルバイト」
 昨年の11月25日に流して以降、今年初めての発信 
です。昨年の反動という分けではないですが、とにかく寝正月でし 
た。昨年末は初めてお歳暮の宅送アルバイトをやり、それはそれで 
配達の仕事の苦労を実感できました。表札の分かりにくい家、番地 
近くに同じ氏の家があり氏名で確認することの大切さ、ビルの中の 
所在で何度も人に尋ね結局分からず仕舞いだったり、配達物の伝票 
番号の見間違い、最初等違う家に届けてしまっていた事がありまし 
た。兎に角、自分なりに配達順序を決めておかないと数を捌けない 
。自分の車持ち込みの委託配送だったのでガソリン代も自分負担、 
それでも留守の場合は2度3度と伺います。あと1個だけという時 
もありました。配達途上、時折私のペーパーマガジンを投函したの 
で、このページにアクセスして頂いているでしょうか?      
 お蔭で私担当の界隈は大体の番地の把握が出来ました。     
住んで18年目の我が家界隈より熟知出来ていると思います。   
私の質として必要と思わないと意識に留まらないので―――。   
 平池町はホームヘルパー時、自転車で走った事があったのでマシ 
かなと思っていましたが、町内は広く知らない所だらけでした。  
道も狭い所が多く缶ビールの詰合せ等の重たい物の時は、車を家前 
迄バックで着けました。                    
 それでも戦災の消失を免れた様な由緒ある家が多く、江戸時代の 
面影を見るような家並みが遺っていて、<私のフォトスケッチ>に 
掲載したくなるような【日本の家】ばかりでした。出来る限り「日 
本の面影」をとどめておいて頂きたいと切望します。       
 私達の遺伝子の中には、この100年程の文明より、もっと根深 
いものが眠っている。何故〈癒し系〉等が必要なのか?      
それは、本当の自身の求めているものに目と耳と心を塞いでしまっ 
ているからだ。大きくて、速いのだけが素晴らしいのではない。  
この消費社会に流されて呑み込まれないよう、心はあのインド洋の 
大津波の只中かもしれない。                  
         2005/1/9 19:00               
1/10(月祝) 『招福祈願えべっさんへ』                      
 本恵比寿の今日が祝日のお蔭で(と言っても人間の都合で変える 
現在の祝日法に賛意している分けではありません)初めて甥子2人 
と共に野田の「えべっさん」へ行って来ました。商売繁昌ではない 
けれど、求職満願への景気付けの為。              
 昔住んでいた野田阪神駅前が再開発されてJRの野田に近い野田 
恵比寿神社へ行くのに少し迷ってしまいましたが、人に尋ねて行き 
着きました。車を停めた位置は神社の丁度裏側でした。裏神社から 
表神社入口を出て露店を通り抜け車の通りに出てやっと、子供の頃 
の神社の「入口」に立つ事が出来ました。それにしても子供の頃も 
っと長いと思っていた露店の並びも、神社境内の広さも、短く狭く 
感じ、自分が巨人の「ガリバー」になったようでした。      
 境内では地車のコンチキチンが景気づけの如く鳴り響いていまし 
たが、路上駐車しているのが気になるので早々に車に戻りました。 
 元来た道を走り乍ら脳の中の記憶の地図を拡げる。野田阪神には 
昔で言う都市銀行全てが集結していたのに「今風」の合併銀行に皆 
変わってしまった。今走っているこの道路も元は新橋筋商店街だっ 
た所。改めて「変わっていく」のが当たり前の世の中にあって、「 
変わらずにあるもの」が珠玉に輝く。今日の『「えべっさん」と露 
店』、記憶という「過去」と「現在」が合わせ鏡のように合致して 
、それは現実に甦った。又訪れるが事が出来る所としてあるのが何 
より嬉しい。                         

 今年は表玄関上に注連縄を掛け、えべっさんに御参りして福笹を 
買い、(1/3京都の八坂神社で破魔矢も買った)今年こそ「福」 
が降福して幸福となるよう例年とは違う事をしてみました。    
 今年は下の甥子が高校受験、上は再就職探し(私も同じく)と何 
がなんでも福の神に降りて貰わないと駄目な状況なのです。    
おまけに私の創作物が世の中に認められれば、目出たし、目出たし 
の年になるのですが………。今年を乞うご期待。         
              2005/1/11 0:20
───────────────────────────────
(平成17(2005)年1月7日ペーパーマガジン発行分)
   『地球受難年?』                                                                        
一段と厳しい冷たさで明けた今年。3日に京都            
へ墓参りと初詣した以外は寝正月でしたが、気分            
を一新して仕事捜しをせねばと思っている処です            
。しかし、齢五十八才仲々厳しい状況です。              
 思えば昨年は元旦から仕事(ヘルパー)で明け 
大晦日も仕事で暮れた一年でした、そんなんでこ            
のペーマガ発行、発信も少し間が空いてしまいま         
した。                            

  ”大晦日 初雪 お節宅送アルバイト”   

 お歳暮配達のアルバイトをしていた昨年の年末 
。朝雨の後、雪になった大晦日は降りしきる雪の 
中それでなくても初めてのお節料理の宅送、無事 
全部終えた時には心底ホッとしました。皮肉なも 
のでその時には雪も止んでいました。住宅地以外 
の通りでは「にゃこリン夢現シリーズ」広報カー 
から私の歌や朗読を流して走っていましたが、【 
地球の未来の為】の私のメッセージ僅かでも心に 
留めていただける事を希っています。又、CDも 
自分で作っています。一人でも多くの人に聴いて 
頂きたいので、ほぼ実費でお分けします。上記迄 
TELもしくはメールで申し込んで下さい。     
 
 昨年の猛暑、台風の多発、天災のとどめの如き                     
年末のインド洋の大津波の被害は現時点で十五万 
人の死者加えてマラリア、コレラ蔓延でその倍の 
死者が予想されると言う。この不気味な地球の活 
動には誰もが「いつ自身の身に何が起こるか分か 
らない」危機感を持たせた事でしょう。資源又、                              
地球環境の対応して車等はハイブリットカーが主 
流になろうとしているのに、プラズマテレビ等の 
大型テレビは節電設計と言っても消費電力300 
ワットで(因に私の家のテレビは25型で消費電 
力100ワット〈節電選択可能〉です)時代と逆 
流していると思えるのですが………。又、夜の煌 
びやかなネオンサインも何故あんなに煌々と油の 
火を撒き散らかせなければならないのか、もう少 
し照度をダウンさせてもいいのでは(効果はダウ 
ンしない)と思います。                                                
 二酸化炭素排出削減を数値で定めた京都議定書                                     
が今年5月に発効されます。                                              
景気促進となる新製品開発は必要であっても、政                                     
府が関与して消費電力を上限値で規制する事が必                                     
要な情勢なのではないでしょうか?                                           
          *                                                
  『夜の川』詩歌集夢幻P46より)                                     
 “天の川 往く灯 還る灯 信号停                                          
      転じて光の 川の只中” 
                                          
「天の川」(地名)の信号停から、その先、大阪                                     
方面道は少し上向きの勾配になっていて、両車線                                     
の車の流れが見通せる。人が夜の中の存在の様に                                     
、何れは訪れづる「自身」の完全な抹殺の予知を                                     
見る様な、車の白いヘッドランプ今のその「抹                                     
殺」故に、夜の魔物に刃向かい燃え挑む、真っ赤                                     
なテールランプ。―――になると、流れ出す川                                     
がある―――太陽がいなくなるのを待っていた盗                                     
人の様な、繁栄の象徴の「文明の灯」が我がもの                                     
顔に威張り始める。それは「蛍」火の様な命火の                                     
初めから、順に点って来た灯。ゆっくり、ゆっく                                     
りと……。いつからか「消費」が走りだした。                                      
 夜が明るく明るくなって来た。原色の度合いを                                     
増して………それと共に、その川の流れも、早く                                     
成ってゆく「蛍火」等、クラクションで、蹴散ら                                     
して「夜」になると、流れ出す川がある―――                                      
 木々の緑の眠った後、文明の灯が、燃え栄る。                                     
          *                                                
  「天 国」作詞曲 日■よし子                                      
♪”色んな事が あったけれど 色んなものに                                      
  出会ったけれど 天の川 車の昼と                                         
 夜の流れ暗闇が もたらす 真っ赤な        
 テールランプヘットライトの 白い行列    
  朝が 地上を 照らしている        
  ああ 視界に 自分を 見付ける      
   きっと 此れが 天国   ” ♪    
           *
 
 『日本文字の縦書き文明』    
    
 このペーパーマガジンも刷新してこのbW1号         
から縦書き編集に変えました。                 

”山河あり 東洋の日本 雨が降る               
      言葉の梯子 降りて 昇りて”   
        

 文字が象徴する、日本の縦書きと欧米の横           
書き文化。緯度の温度感(四季感)と、経度の時           
間・距離感に通ずる感覚。雨と風が産ませた           
ものでしょう。過多の文明に覆われて見失っ           
てしまった日本という風土の身丈にピッタリ           
合った縦書き文字。「なんで、縦書きやった           
んやろ?」と考えてみるだけで昔の日本人と出会         
えるのではないでしょうか。  2005/1/7                

【Email:nyakorin@hotmail.com】    このページトップへ戻る
著作 日高よし子【無断転載禁止】