:445のページ今日という日 【無断転載禁止・引用は可】 著作日高よし子
(2度と昇らぬ今日の日は)更新2008年3月16日 4:41:03
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ご感想。
1/10(月・祝)「お歳暮宅送アルバイト」 『招福えべっさん』 『地球受難年?』 「夜の川」 『日本語の縦書き文明』 |
2/4立春 2/7北方領土の日 2/9ためいきばかり 2/12インプットされた愛 |
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11/25(木)生命の証 他2件 | 12/29 スマトラ沖地震 |
11/13(土)秋彩 |
9/22(水)神々の美の世界 | 10/23(土)「矢倉緑地」の夕焼け 10/15(金)ディゼル排ガス規制を |
7/16(金)木の精神性 | 8/31(火) 「アテネオリンピック 閉幕」 8/21(土)「日本バンザーイ!!!」 8/17(水)夏休み「オリンピック」 「墓参寺」 (画挿入) 『七彩の虹』 「嵐山・桂川」 |
5/25(火)受けて返して 5/24(月)死という総決算 |
6/29(火)『高貴な日本人』 6/23(水)『見知らぬあなたへ』 6/1(火)『私の本質』 6/6(日)『疲れの根因』 6/12(土)『何故?ナシのツブテ』 6/13(日) 『最近の甥子達』 6/11(金)『花のフォトスケッチ』 |
3/31(水)追加分『島は動く』 3/27 ニュースを疑え 3/28 星と月 3/24 トラウマの戦後憲法 初緑の草 「未来」の為の広報活動 3/2卒業式に思うこと 3/3 『無心の笑い』 |
4/30 『富士山を世界遺産に』 4/27『芸術家の宿命』 4/26『進化 という「美」』 4/21 『新緑の季節 4/8(木) 日本の「害(外)務省」 4/6(火)『彫 画 展』 4/4(日)『保育所の同窓会』 |
1/31 『猫のにゃこりん死ぬ』 1/29 『風邪で家族(母以外)総崩れ』 1/21(水)『自転車で転倒』 1/16『夢でも夢』 1/8『未明道』 2004/1/2『墓参と露店』 |
2/4 『新たな「立春」』 2/1 『詩 『新たな「立春」』 ・猫のにゃこりんに寄せて』 |
![]() 12/26 『竹久夢二追想展』 |
11月23日(日)のこと 同窓会 車がレッカー移動 そしてフォークコンサート 『夢の遊園地』 『福祉国家の手本』 |
10/31私の誕生日 10/12国民が英断すべき時 9/21『小泉首相大勝 』9/18命懸けで |
8/25『夏の思い出』 7/22(火)『たこの足(8本)が欲しい』 7/5(土)『時間の彫刻』 |
5/30(金)『2006年人類滅亡?』 5/8(木)『無力感』 5/5(月)『端午の節句』 5/1(木)「察知能力」 |
<6/18、19、23、24>日の 『六 月』という月 6/1(日)『手のひらには?』 |
3/30(日)『いっぱい咲く「私」』 3/25(火 『ひがんなり』 3/21(金) 『とうとうイラク戦』 3/19(水)インディーズ応募 3/16(日) 『慣 れ』という塵 3/14(金) 『くじ運はなし』 3/12(水) 『お好み焼』 のこと 3/8(土) 『教育の風穴』 3/7(金) 『あの時』 3/5(水) 『山にならい』を 3/3(月)『雛まつり』 3/2(日) 『ミキシング出来ない!』 |
4/18(金)『昼月から燈月』 4/16(木 )『目も口も満腹』 4/13(日) 『桜の通り抜け』 4/11(金『犬とこの道』 4/2(水)『花見』 |
/30(木)『人間の存在意義』 1/29(水) 『寒さには上がある』 1/28(火)『可能性の 全てを「花」』 1/27(月) 『「朗読」の録音』 1/25(土)『甥子のスキー合宿』 1/24(金) 『犬は「毒をも喰らう」?』 1/23(木)『靴の「呼び水」』 1/22(水) 『我家の「BGM」』 1/19(日)【やっと445のページ】 1/13(月)【コンサートへ】&温故知新 1/8 生命の礼節 2002/12/15『トキコとコンサート』 |
2/26(水)『愛』について 2/20(木) 『右利きの不思議』 2/18(火) 『リンクのお知らせ』 2/16(日) 『新コーナー』 2/14(金) 『幸福の感性』 2/11(火) 『春「一」輪』 2/9(日) 『新コーナー』のこと 2/7(金) 『北方領土の日』 2/5(水) 『甥子の風邪』 2/4(火) 『甥子 修学旅行』 2/3(月) 「節分夜」 2/2(日) 『昭和39年の修学旅行』 2/1(土) 「見栄えはいいけど空疎 |
2006/1/23 『母永眠&回想記』 昨年9月のbX7号から4ヵ月振りの発行が私の母の死亡報告となり ました。平均気温が「戦後一番の寒さ」だったという昨年12月の1日 午後12時4分に私の母が入院後3日目、心不全で逝去、満84才(享 年85才)でした。 ”12月 戦後一番 寒さらし 「寒気の目」となり 母は先逝く ” 市営葬儀社と住職の都合から葬儀は12月4日、通夜は3日に執り行 いましたが、その4日の寒かったこと。あの日がそれ以後の寒さの始ま りと言えます。それにも拘らず通夜、葬儀に際し寿町自治会役員の皆様 には大変お世話になり加えて町内会、及び倫理宏正会(朝起会)の方々 にも多数御参列頂き誠に有難う御座いました。 本当に通夜は予想外に沢山の方に弔問して頂き、死出の旅の母への何 よりの花向けとなりました。感謝申し上げます。 普段はご無沙汰ばかりの親戚の方々にも、数々の花輪で会場を色彩り 又、多大な御心遣いを頂きました。誠に有難うございます。 事が事とは申しましても何かと行き届かない事ばかりで申し訳ござい ませんでした。 * 現在では当たり前の空調整備の室温を前提の事だったのでしょうが、 自宅に帰った時から葬儀、火葬場迄、母の遺体にはドライアイスが敷き 詰められていた。病院で死化粧して貰って綺麗な母の顔からは今にも笑 みがこぼれそうで、氷の彫刻の様だった。本当に固い氷、人間の皮膚が あんな風になるとは。でもその綺麗なのも2日間自宅に「在た」時迄で 、公民館での通夜が終わった時には、すっかり顔が「変化」していまし た。目の周りにクマが出来たようになり、とても前日迄の母とは思えな いものでした。普段私の家では余程の寒さでない限り暖房は炬燵だけ。 だから本当はドライアイスも要らなかったでしょう。公民館では勿論の 事、空調設備があり室温も上がる。その極端な温度差があの変化となっ たのかも知れません。次の日の葬儀後の棺に花を手向けた時の母の顔は もっとひどいものだった。 常々、眉毛の薄いのを気にして「死んだら眉毛書いてや」と言ってい た母なので、最後の最後迄、母が可哀相だった。 ”母の在ない 寒さに加え 寒気団 ドライアイスの 母の寒さか ” ────────────────── 以下は去年の<亡母の回想>です。 ”今の年は(平成17年) 逝って40年の 亡き父や その40年後に 母も逝くなり ” 父の13回忌に造った墓石に朱色で刻銘した院号にも「宏正院釈尼栄 久」とした程、生前の母は朝起会(倫理宏正会)一筋に生きた人でした。それも毎朝「 一番」に行くのを信条とし、5時からの開始なのに3時位には家を出て いました。一番最初脳梗塞で入院した平成2年12月迄一度も寝込む事 無く元気だったのは、その「生きがい」があったからだと思います。当 時3ヵ月後に退院してからは毎日香里園駅前でシルバーカーに座り朝起 会の本「倫風」の頒布をしていました。居眠っている事が多かった様で すが(笑)………。 2度目の入院は平成10年のやはり12月。この 当時の事は詩歌集第3集「夢幻」第2部『母・天の川途上』に書いてい ますが、この時の3ヵ月で退院以降は以前の様に毎日出掛けると言う事 もなくなり、又駅前にも居れなくなった様で、ダイエー通り商店街の中 程のベンチに座って頒布をしていました。帰りにはサンディ香里店やア ートタウン香里迄行っていた母も、2回目の入院後は徐々に行けなくな り、シルバーカーの上に迄積んでいた買物量も(嫁いでいる4女宅の分 も含まれていた)自ずと減少していきました。 そんな帰り掛け(家の 近くで良かったと思います)、足から崩れた様で地べたに尻餅ちをつき 、周辺の人達に抱えて貰って立ち上がり帰って来た事がありました。そ れ以降は出掛けるのも週1回程になり、昨年になってからはコワイと言 って出掛ける事もなくなりました。それでもトイレは1時間毎、物や手 摺りに掴まり乍ら自分で行っていました。 そんな状態になり車椅子を 貸与して貰い、浴槽入浴補助具の事で市の高齢介護室に相談に行きまし たが適当なのがなく、介護センターのディ入浴サービスを受ける手続き をしました。車椅子を借りたもののそれに乗って外に出ることを拒み、 結局半年程で返却しました。あれだけ外に出掛けていた母なのに、そん な姿を人に見られるのが嫌だったのでしょう。介護認定が下りた3月か らは、週一回のディサービスを本当に楽しみにしていました。朝10時 頃に迎えに来るのに、7時頃から着替えを始め、手伝ってと言うので、 忙しく甥子の弁当を作っている私はよく憤慨していました。 ディで教えて貰った折紙を暫らくは毎日の様にそれこそ一心不乱、そ ればかりしていた事もありました。「ディサービスで皆カラオケ上手に 唄ってるけど、歌忘れてしもた」と言いながらも思い出そうとしていた のでしょうか、歌など唄うこともなかった母ですが(昔は別として)、 機嫌の良い時は朝から一人で唄っている事がありました。 それにしても病院嫌いの母の為、快く訪宅診察して頂いた寝屋川M病院 、ディサービスの皆様本当にお世話になり有難うございました。 それ以外の毎日の楽しみは午後のテレビ「暴れん坊将軍」を観る事と 「食べる」事。お菓子か飴、絶えず何か口に入れていた様に思う。 母の日課の乾いた洗濯物の折畳みの丁寧な事。 仏壇への読経は毎朝夕、欠かさず30分は拝んでいた。命日のある日は もっと長かった。母の面白い処は自分の実家の人間(名前を朗唱後)の 時は真言宗、常時は浄土真宗と2種のお経を唱えていた事。明治時代の 先祖から知人迄、よくあんなにと思える位沢山の人間の名前を朗唱して いた。朝はその後仏壇にお供えのお茶沸かし(と言っても3リットルの 茶)をしてくれていた。しかし、それも昨年の夏位、ベッドの辺りで座 りこんだ事があり(私一人では立ち上がらせる事が出来ず甥子の帰りを 待った)、以降台所には用心の為行かなくなった。 同時にそれからは幾度かトイレに行く途中座り込む事があって、母の椅 子の側、夜はベッドの側にポータブルトイレを置くようにした。 この頃時によってはポータブル迄行くのにも介添えが必要な事があり 昼間、夜中問わず「よっちゃーん!」と私の名前を呼んだ。 だから、夜中だけはリハビリパンツを履かせていたが、それでも呼んで いた。私が無視、又は気付かない時は、母の居る居間の真上が甥子の部 屋なので私より甥子の方が目覚め母の介添えをする事が多かった。 この上の甥子(求職中)は、身軽にすぐ動き、今時の20才にしては素 直な祖母孝行者に育ち、赤ちゃん、幼児の頃ほとんど祖母に育てられた 恩返しが出来たというもの。 母は夕御飯の後の9時前後に就寝し、起床は朝起会に行っていた頃の 様に午前1時頃だったが、昨年頃から午後11時〜午前12時には居間 の椅子に座って居眠っていた。「もっと横になっとかんと身体にいいこ とないで」と何度も促したが効き目がなかった。 * ”人間とは 後悔をつくりたき いきものなり ” そういう状況下の昨年11月15日、突然 「胸が苦しい」と訴え、 死にたない!」とも言っていた。救急車を呼ぼうとしたが「病院には行 きたない」と突っ張ねた。この一週間、2回便秘薬服用するも(前夜も 服用)便意はあるらしいがポータブルに座っても排便されずトイレット ペーパーに若干の便液が付着のみ。食事は普段の母とは違い、昼は常の 3分の2、夜は4分の1−程お茶もいつもの様には飲用しなかった。そ れでも30分、10分毎の便尿意に座らせても排出されていない。その 度の介助は大変だった。そして、その深夜、日付は1/16になってい たがやはり「胸が苦しい、救急車を呼んで!」と言い、未だか未だかと 急かす程だった。主治医の病院に電話後、救急車で搬送して貰い、心電 図、血圧は異常ナシ、浣腸をして貰ってスッキリした様だった。だが念 の為腹部等のレントゲン撮影の為、又検温で37.7度あった事もあり 病院泊(入院)する(個室しか空いてなくて高くついたが)。その午前 の胸、腹部、血液、各検査の結果は異常ナシ。だが38度の熱があり退 院を見送った。病名は便秘症と気管支炎。 11/18に解熱したので母は退院。自宅に到着後車から降りる母の 両脇を私と上の甥子で支えたが、重い母を支え切れず母は地面にへたり 込んでしまった。二人で立ち上がらせようとしてもこの時の母はビクと もしない。「誰か来て貰い」、母の言う通りに近所の人と思ったが皆仕 事に行ってる時間帯である、仕方なく建築関係の人を見掛けたので事情 を話し自宅前迄来て貰った。驚いた事に一人で母を抱え上げその侭一直 線に母の椅子迄運んで下さった。40才前後の男の人だったが怪力その もの、驚嘆と共に感謝のみ。 帰宅後は直ぐに自宅への介護ベッド搬入をケアマネに依頼、無理を言 ってその翌日に段取りして貰った。が、しかしその2段ベッド上の物が 沢山あり、思った様に片付かない。とてもではないが翌日迄には無理と 判断、ケアマネに断りの電話入れたが本当に申し訳ないことをした。 それにしてもこの母の使っていた2段ベッドを解体しその場所に居間 の棚家具、仏壇を移動させ、居間に介護ベッドを置く為の2段ベッド上 段、棚2棹の片付けは物が多すぎて予想外に時間を要した。 その間も母は、隣の部屋に居るのに私の名前を呼ぶ。「側にいて欲しい 」「死ぬかわからんから側に居って」と言っていた。 「うるさい!もういい加減にして」と何度言ったか知れない。今想えば 、何かの不安感があったのかもと贖罪感に苛まれるが、その頃はそんな 心の余裕等微塵もなかった。 片付け中は母は居間で寝ていたが夜中に「椅子に座らせて」又「横臥 になる」と言う。ズボン寸法はLL寸の母の重さ、昼間でも私一人では 座らせる事は出来ない、その度に上の甥子と二人掛かりでするが、夜中 などは甥子一人で座らせている。一人でよくと感心した。「足が痛い」 「苦しい」と訴えてもいた。 だが受診は頑なに拒んだ。 11/18退院以降の食欲に関しては、以前の面影ナシ。 あれだけ好きな御飯もおにぎりにしないと食べない。それでも朝はパン 、牛乳、或いはコーヒー、昼食はおにぎり(梅干し入り)1個、味噌汁 (豆腐、さつま芋入り)、夕食は食べず飲み物だけの時もあり。 この頃の日課は、朝は顔、手、身体を拭いてやり(ポータブルトイレ も使えなくなっていたので)おむつを換え清拭をする。11/24の朝 に左胸全体に拡がる痣(あざ)を発見。「診て貰わんと」と言うと「オ ロナイン塗って」と言う。病院は一切拒否だった。そんな物でと思いな がらも気休めに母の言う通りに塗ってやった。 11/23(水)はディサービスに行く日だったが、足が痛いからと行 かず。前日に全介助の段取りで迎えに来て貰うように電話したのに、朝 の電話に断る。足の痛い箇所は時によって違う、前日は両足付け根が痛 いと言っていた。今朝は左足膝辺り、と昔からの旧処の痛みを訴えてい た。 11/25(金)だったと思うが、夜テレビの天海祐希主演の「越路吹 雪物語」を観ていて炬燵に入っていた私がCMの時横になってウトウト した。すると母が私に「よっちゃん!眠たらアカン」と大きな声で起こ した。その声に私が目を開けると「あー良かったな、これで生きてられ る。これからは苦しいことも、足が痛いという事もないわ」と言う。何 か自分の事を私に置き換えて言っているのかと思ったが、今でもあの時 の母の顔が忘れられない。 最近よく熱い、寒いを繰り返す。 11/26(土)思いながらも延び延びになっていた母の髪の毛を切っ やったら、スッキリした顔で鏡を見ていた。電話しようと思っていた時 に介護ベッドの搬入の件でケアマネから電話あり。長さが190cmの ベッドは月曜日には無理で水曜日になるとの事(母のディサービスの日 でもある)だった。甥子2人に解体して貰った2段ベッドのあった所に 棚家具と仏壇を置こうと思っていたが、結局仏壇は向きを変えて位置を ずらせば居間に置いても介護ベッドが入りそうなので1棹棚の家具と並 べて置き、もう1棹の棚家具だけを隣の部屋に運んだ。 ディスクトップのパソコンは本体と共に2階の私の部屋に運んだ。 11/27(日)この朝はお腹が減ったと言っていたのに、椅子に座っ て居眠っている。結局昼前にその朝食のレーズンパン1個とミルクコー ヒーを飲食。作った昼食には手を付けず、やたら「苦しいから死なせて 」「死にたい」を繰り返す。「顔見とかな死ぬで」と言ったので四女の 家に(私にとっては妹)電話する。(11/18の退院後に電話では母 が入院していた事を伝えていたのだが、妹も風邪を引いていると言って いた)夕方に妹来る。昼のうどん豆腐入りの味噌汁と、白菜人参のポン 酢かけの食事介助してくれた。好きなタラコ入りのおにぎりは手を付け ず。「明日死ぬから」と私達に言い、妹に「長生きでけんでゴメンな」 、私に「仲良うしてな」と言っていた。「死ぬ」と言う言葉はいつもの 事なので、それを聞いても勿論本気にしていなかった。 11/28(月)レーズン入り食パン半切れ、牛乳、お茶。好きな蜜柑 は食べず。暑い寒いの繰り返し。座っているとお尻が痛いと体位変換す る。(因みに座敷から椅子への移動要求はこの頃の常だったが) 昼食はお茶のみ。左胸の痣が消えない侭なのでケアマネに電話、暫らく して来訪、水曜日のディの時に診察との事。今日も「死にたい」を連発 。ケアマネが帰った後の夕方、妹昨日に続けて来る。グレープフルーツ ゼリーを介助食して貰う。その前に小豆最中1個と少し、ミルクコーヒ ー、ポカリスエット250cc。夕食は食べず。 暑いというので、検温36度。 11/29(火)朝食のクロワッサン食べず。ポカリスエットを180 ccを2回飲む。寒い寒いと訴えるが胸が苦しい様で布団を除ける。 受診拒み、死んでもいいと言うが………ケアマネに電話し、ポカリ以外 口にしない事、左胸の痣が消えない事を告げ、病院からの迎えを待つ。 その時には母は病院に行く事を拒まなかった。 母を搬送後、心電図検査の時に私が「苦しいらしいです」と検査の人 に言うと、「甘えてるだけや」と母は言っていた。 担当医ではない女医の診察では、不整脈による圧迫感、一週間ほどの入 院との事だった。それが午前11時頃だったか、兎に角午後3時頃にベ ッドが空くとの事なので私は一度帰宅した。 午後5時頃、私は再度病院へ。入浴の事を聞かれたので「状況をみて お願いします」と答えた。病室に入ると食事の前にリンゴジュースが欲 しいと言うので買ってくると、「ナント美味しい!」と言い飲んだ。 余程喉が乾いていたのだろう。 夕食の玉子入りお粥は全食、バナナ半切、服薬、お茶。 家と同じように「足が痛い、死にたい」と言う。それでもいつも肌身に 着けている「お守」の在る処を聞く。右腕上部にある事を教えてやる。 右手には点滴をしていた。食事後、私は帰る。 11/30(水)母が入院していた時、私は12時の昼食時と、6時の 夕食時に病院へ行っていた。朝食はお粥のみ全食だったそうだ。昼食は 鯖をむしり潰してお粥に混ぜてやったが、噛み切れない様で鯖のみ口か ら出した。お粥半食、バナナ半切、味噌汁全食。夕食はお粥、味噌汁、 ローリー全食、軟卵少し食。尿管を通していた。両膝を伸ばそうとした が痛いと言う。もう1着は外の薬局で価格の検討をしようと思うので、 病院のオムツカバー1着買う。それと共に、布オムツではなく、紙のオ ムツ使用したい旨を聞くが病院の規定だと言われる。 パジャマの下を着替えさせ、床に置いてあったおむつカバーと共に持っ て帰る。帰宅後、明日持って行けるように直ぐに洗って干しておいた。 12/1(木)2階の窓を開けて空を見ながら、もう少ししたら母の病 院へ行こうと思っていた10時半頃、「容体急変に付きすぐに病院へ」 という電話が入る。たまたまこの日に休みを取っていて母の見舞いにも 今日行くと言っていた私の妹にも電話を掛け、甥子と共に妹宅へ寄り一 緒に病院へ向かう。 病室では看護士(婦)2人が蘇生の為の処置中で、母は既に死んでい た。正確に言えば脳死状態だった。2人が交互で酸素吸入と心臓蘇生を していたが効がなく手を休めた。驚くことにそれでも心拍モニターの波 状は波打ち数字が、例えば68、35,80,20,急に110になっ たかと思えば0になり波状も横棒線のみになる。処が又波状が波打つ、 又棒状と、それを繰り返していた。2人とも蘇生を止めているのにであ る。母の生への執念、生へ葛藤のようだった。昔の母の口癖「百歳迄生 きる」と言っていた様に(全介助になってからは、死にたいと言う母だ ったが){もっと生きたかった!}と、あのモニターの波数が訴えてい た。高校生の下の甥子、妹の主人も到着していた。その状態の中午後1 2時04分、母の心臓は停止した。死因心不全。 脳死状態でも、皆に囲まれているのが伝わったから頑張ったのだろう と、思いたい!。母の生前中、願望として遠い将来に母が逝く時は自宅 にて皆で看取ってやりたいと、ずーっと想っていたから……… 死後の母の身体の清拭の時、私と妹も手伝ったが、母の身体を横向き (右を下)にした時、鼻から血が多量に溢れ、白いシーツを真っ赤に染 めた。 * 生前時々、居間の椅子に座っていて胸が締めつけられる圧迫感を訴え た事はあった。それでも暫らくすると治まるようだった。だが先述の1 1/15の苦しい、はこれ迄とは違って悲痛感、切迫感があった。この 時から数えれば死ぬ迄2週間少し、本当に風雲急、母は風の如く逝って しまった。何かの間違い、夢を見ている様な出来事である。 11/29再入院してから食事も摂りだしたのだから………。 よくなって貰いたいから、あんなに病院を嫌がった母も、よくなりた いから、の入院だったのに残念でならない。 本当に一寸先は闇、としか言いようがない。 * 母が生きている時は、あんなにつっけんどんにして、碌な会話も交わ さなかったのに今、母の言葉一つ一つが生き生きと蘇る。 私が母に発した幾多の無造作な言葉。 死出の旅に旅立つ人に<飾る言葉>で送る事が出来たのに、それさえも 出来なかった。 「母の死」などこの身が滅する迄、在り得ないと思っていた。 阪神大震災のあった平成7年の夏の詩作「一瞬の」。 ♪人の一生 花火の一瞬 燃えてしまうなら 消えてしまうなら……… 誰のためにかいたのだろう、とおもう。 * 死とは、肉体の死なり。 思い出と言う、精神に生きていても、 見つめて欲しい目、聴いて欲しい耳、握りあいたい手 それらは、永久に失われた。 これが「死」の 現実なり。 * 何度も私の名前を呼び側に居てと言う、母の「甘え」と、 それを快く受け容れられない、私の「甘え」。 昨々年、1年余り勤めたことのある介護ヘルパーの仕事としてなら 容認して、当たり前の事として受け容れたであろう事々。 「甘さ」と「甘さ」が絡み合えば、癇(甘)癪になる。 その果てに、母の死という、とんだシッペ返しを喰ってしまった。 * 結局に人間の言動を含めた行為は、人に「喜ばれる事」をすれば、後 の人生に於て「自身を讃える」事が出来るし、反対に「悲しませる事」 をすれば「悔恨の沼」から脱けられない。全て自分自身の心の中にその 責を負う。 私等は幾多の後悔を重ね乍ら、対母に対して又後悔を心に巣くわせて しまった。全て私の心の狭さの所業です。 ”精神の 臍(へそ)の緒 切れし 母逝きて 本当に 独り 立つしかない ” * 【マイポエム】より ☆「星の輝き」 死して 光る 涙なり☆ 「死んだ人間は星になる」 確かに実感する 死んでしまったから 無限の距離の 星となり 輝き出した。 母の生きている時の 存在感とは 何だっただろう? 月並みな言葉だが 「空気」としか 言いようがない 在って当たり前 失くして……気付く。 亡くなる一週間程前から、今想えばきっと死の影に怯えていたのだろ う、「寂しい、寂しい」と言っていた母。 生きていた頃より今の方が、「母さん母さんと慕ってくれて」と、 満足かも知れない………。 * * * * ”引き潮の 母の生 海はなくなり ” (病院からの危篤の報せに駆けつけた病室の母の顔を 見た時、「在り得ない事が起こってしまった」「終わ ってしまった」───一瞬にして私の身体から母が抉<えぐ> り取られ、永遠に切り離された) * あの時、ひとつの海が なくなった 干潮だけとなった 海は 二度と 満ちることはない。 それは 私の血であり 肉であり 骨であり 髪の毛であり 皮膚であり 目 耳 鼻 口 私の 全てを形成した 原(みなもと)である 私は そのうみから うまれた 瞬流に 永遠の彼方へ 満ちた潮 追い駆ける 私の号泣の潮も 届かない。 そのあとに 一つ 海が 出来た 陸とは 相交わることのない 海で 見る 母のすべて 言葉のそれら 一粒 一粒は 真珠であり 姿 そのものは 金色に 光り 輝いている ひとつの 海を なくして 一つの 海を 知った 喪くさなければ 得ることが 出来ない 人間とは 悲しい 生きものです。 (平成17年12月16日) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ☆ 「母と わたし」 ☆ ☆ 私が 母から 産まれたこと ☆ ☆ 私の「母」が 亡くなったこと ☆ ☆ 生涯 ただ一度の こと ☆ ☆ 産まれた わたし ☆ ☆ 母を 見送った 私 ☆ ☆ ☆ ☆ 一人が 二人になって ☆ ☆ ふたりが ひとりに なって ☆ ☆ 「生」「死」に 泣く ☆ ☆ (平成17年12月27日 記) ☆ ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆─ * 12/24(土)世間では、そして、いつもなら我が家でも今日はクリ スマスイブ。この1日に母を亡くした我が家は、クリスマス正月も関係 ない。しかしながら、我が家の犬「コスモス」には、イブのプレゼント として犬小屋を作ってやりました。 例の亡き母の2段ベッドを解体した時に強化板に使っていた合板を鋸で 切って、布のガムテープで貼り合わせた物です。現在の段ボールよりは ずっとマシと思います。 この合板ベニヤは平成6年に我が家の1階2間を改装した時に余った壁 材である。その以前から母は春夏秋冬に関わらず、天井から「誰かに」 水鉄砲(後年はスプレーと言っていた)を掛けられ「冷たい」と言って いた。だからこの改装時に気休めになるだろうと元の天井の上からもう 一枚板を打って貰った。それでも変わりがなく、2段ベッドの自分の使 っている下段の周りをカーテンで囲い前後部分はそれに加えて内側から 板を打ち付け、それ以外出入りする所を除いた箇所は段ボールを当てて いた。それでも「顔にかけられる」と顔に新聞紙を掛けて寝ていた様で ある。内側の段ボールが剥がれては、ガムテープで貼ったり、自分で出 来ない時は甥子にさせていた。 今日犬小屋作りにそのガムテープを使っていて、そんな母を思い出し 悲しかった。(だから普段居間の椅子に座っている時も「水除け」に帽 子を被っていた)死ぬ前日も病室の母の側を離れようとしたら「顔にテ ィッシュを掛けて」と言った。その後の「バイバイ」と共にそれが、私 が母から聴いた<最後の言葉>となった。この「顔にティッシュを掛け て」と言った時、私は母に「顔にティッシュなんか掛けたら死んだみた いやんか」と答えて言った通りにしたが、それが私の「バイバイ」と共 に、母が私から聞いた<最後の言葉>である。 冗談で何気なく言った言葉が、「縁起でもない」言葉となってしまった 。 母の人生の晩年、この「冷たい」10数年と、死ぬ前一ヵ月程の日々 。思い返せば「可哀相」としか、言いようがない。 母は、嘘の付けない「馬鹿」のつく位、真正直な「善人」だった。 だから、やり切れなくなる。本当に、やり切れない。 12/31(土)大晦日。晴れ。午前中、午後と買いそびれた買物をし 掃除後夕方より、例年の如くお節料理を作る。ほんの少しだけ、重箱も 出さず仕舞い。妹宅の分も取り置く。 お節は一番母への想いに繋がる年末の習慣事。同じ事を同じように、私 がしてきた。母が亡くなったので今年は作らない積もりだったが、母の 想いに重ねる様に、作った。そこには、母が在る。 以前のペーマガにも書いたが、母を遡るこの伝統も私で途切れる。 日高家の血筋を引くものは甥子2人のみであるから。 紅白が終わる頃に妹夫婦が来て、晦日蕎麦を食べる。下の甥子のお年玉 だけではなく、私にもくれた。亡き母の代りに?ありがとう。 ”母亡くし 大晦日から お正月 当たり前の 日でない かなしみ ” * 平成18年 1月1日(日)晴れ 寒さ少し和らぐ。 母が亡くなって丸1ヵ月の日。母が亡くなったという現実を毎日突き 付けられた1ヵ月だった。本当に我が生涯に於て、あれほどの悲しみを 知らない。 ”母亡くし 一番 悲しき お正月 我生涯の 産ぶ聲なりや” 昼頃起きて甥子2人と共に「3人」でお雑煮、おせち料理を食べる。 ”新年を 迎えて とも(供)に お雑煮を 夢より遠き 亡き母を呼ぶ ” * ”今年わ 還暦の 戌年 なり ” 「夢の架け橋」は、諦めた時に失う。 いつか自分の作品の著作権で生活の糧 をと関係方面に打診してきましたが、依然反応ナシ。 風雲急の如く逝ってしまった母を想えば、人の命など ホントに「一瞬」のもの。万一、死んだ後で私の作品が 認められたとしても、嬉しくもない。 私は生命保険にも入らないし、死後の著作権などは 放棄する。 昨々年の11月迄1年余り、ホームヘルパーの仕事を してきた。がその後の就職活動は年齢から言って思うに 任せず。好きな創作、音楽物が認められるよう、幸運の 女神、又亡き母に祈るのみです。 1/2も 晴れて、寒穏。昨日と同じように起床は正午頃。思えば昨年 母の死んだ時刻の4分前と言うことになる。 この日は、家事以外の時間、ずっとテレビの「徳川三代の陰謀」を観 ていた。自由と自分勝手は同義語で、物は溢れ「肥大した生」の如き現 在の日本人と、まるっきり正反対の、忠義に生き、戒律を重んじた江戸 時代の日本人の「スリムな生」。時代背景がつくりだした人間の両極端 。醜さと、美しさ。「日本人とは?」武士である、と再認識。 その後は、書初めをした。 【母夢遠天在】─── 「夢には架け橋あり 幾百 幾千の 橋を懸けても 届かぬ 天界に 亡き母はあり」 【母命生】───「母の命を生きる」 1/4(水)曇り。亡母の五七の日だが住職の都合で1/5に行なう。 1/5(木)晴れ、寒い。昨年の母の葬儀の日から日本列島は寒波に襲 われ、昨年12の平均気温は戦後「一番」の寒さだったとか。同日付産 経新聞のその欄の横には「琵琶湖飛来のコハクチョウに南下異変」とあ る。 ”「母」の じ が 活字のむれから 我が眼引く ” (字・磁) ”日増すたび 「母」は 悲しき 言葉なり ” 1/15(日)母の満中陰。(本当は1/18なのだが、日曜日のこの 日に行なった)晴れ。葬儀の時が雨だったので、安堵。 いつもの親戚の方々が来て下さり、本当に有難うございました。 ”「七彩の虹」 渡り切り 母 雲の中 寒穏 晴れて 満中陰(平成18年1月15日)” ─────────────────────────────── ■俳句短歌 (十二月四日・告別式) ”「今日は雨」 呼びかけたい 母は亡く ” ”悲しみは 並べるお碗 3つとなり ” ”母は空気 在りて当たり前 亡くして気づく ” ”人間とは 後悔をつくりたき 生きものなり” ”空をゆく 母の棺か 白い雲 ” ”屹立と 燃えて 崩れる 線香や ” ”冥界より はなたる霰(あられ) 雪 螢 ” ”夢の中 幻のよに 母の声「よっちゃーん!」 ” ”また ふいに 涙こみあぐ 母こいし ” ”母逝きし 妹既嫁し 日高家は 我 ひとり なり 戸籍謄本 ” ”悔恨を 涙うすめて クリスマス ” ”満中陰 涙涸れるまでの 四十九日 ” * * * * 平成16年10月26日「母の満83才の誕生日に寄せて」作った歌・ 「母さんの 匂い」 作詞曲日高よし子 (1,2番は略) 3.子供一人 育てる事が出来ない 現在の親 六人の子を育て 働き詰めだった 明日という 鏡を見る暇もなく かあさん 進めてく 白いシーツの針の先 今日が終わる その側に 居るだけで フワッとする 雲の中 「母さんの 匂い」
(平成17年9月15日 追記) 『北方領土返還と拉致被害者帰還を国民の声に!』 2005/9/10 『祈 9.11 再び 小泉総理大臣に』 9/9(金)5時45分から少し遅れて寝屋川市駅前で自民党、竹中 平蔵大臣に依る12区選出の北川ともかつ氏の応援演説があり、 不良債権処理実行者ならではの自信に充ちた演説は迫力ものでした。 途中強雨に見舞われましたが、「自衛隊員より多い、26万人の郵政職 員なんですよ!」雨になど流されることのない印象的な熱弁でした。 選挙合戦最中、今週は私の「地球の未来の為」広報カーを駆使して 小泉自民党応援の為、9月8日には兵庫県立美術館の「シルクロード展」の帰り 三宮迄車を走らせ、帰路は往路の国道ではなく住宅街を走り応援広報してきま した。その前日は寝屋川周辺のやはり住宅街、今日は枚方から門真古川 橋、守口と走って来ましたよ。私のこの行動が、日本の未来の為に少し でもお役に立つ事を願っています。 bW6前号に書いた選挙短歌2首に加えて以後3首詠いました。 ”反対は 支持基盤に しがみつき 総理の座はなし 小泉首相 ” ”民営化 いづれはと 民主党 解散前に 言うべきだった ” ”信念を 貫いてこそ 国は立つ ふらつく柱じゃ 国こける ” 民主党が国会であれだけ郵政民営化反対といっていたのに、衆議院解 散後の小泉自民党への国民の支持風に、急拠「いづれは」と言い出した 。1年後も「いづれ」だし、「10年後」もいづれ、ですわ。 結局郵政改革はする気ナシ、と看做した方がよい。 * 大阪市職員の厚遇問題だけではなく、公務員の不祥事が目に余る。 すべてコンピュター処理出来る現在、役所等の人員は過剰なのではない か、一度民間機関に試算させればと思う。が支持基盤が市職員労組の 民主党ではようしない。そして、民主党のマニフェストを見て気になる のが12月にはイラクから自衛隊の撤退、沖縄普天間基地のアメリカ軍 の国外移転を掲げているが、民主党の一方的な見当だろう。すぐ近くの 尖閣諸島海域に【中国海軍の軍艦5隻が航行。春暁ガス田周辺を時計回 りに周回した。9/10付 産経新聞より】こんな状況の折、余りにも 無責任な公約と思える。靖国神社には参拝しない、靖国の代替施設を造 る等、すべて中国の「命令」通りに従うという事は、あの言論の自由も ない一党独裁国家に隷属する分ですか。(勿論、民主「選挙」などあり ませんよ、一党しかないのだから) 私達はご免蒙りたい。まだ民主主義のアメリカの方がマシですわ。 * これまでの政権が10年間以上もほっておいて膨大な額に膨れ上がっ た不良債権の処理、道路公団解体し民営化の方向付け、今度の郵政民営 化。小泉首相でなければ誰も手を付けないものでした。 明日の選挙で自民党、公明党で過半数取れなければ小泉首相は退任しま す。これ以降誰も郵政民営化を行なう者はなく、もっと先にどうしても 民営化しなければならない時には国民の負担はずっと大きなものとなる 。それが分かっているから、小泉首相は国民に選択を仰いだのです。 この選挙に勝っても小泉首相の得るものは、現在の総理の座です。 解散せずに残り1年の任期を極端に言えば漫然と全うしてもよかったの に、だから誰も解散等しないと思っていたと思います。 「すごい人やなぁ」と思った。これこそ信念を貫くと言うのだと、 思い知らされた。今の世の中にこんな人がいますか? いや、これ迄にもいなかった。 だから私は、それを意気に感じ応援してきたのです。 依ってどこから検討しても、明日は「小泉自民党」に投票する。 ”再びに 総理大臣として 小泉さん 必勝 お祈りしています ” * 2005/8/9〜8/11 『祝・発行5周年』 早いもので本ペーパーマガジン【445のページ】(旧にゃこリン夢 現シリーズ)も2005年7月1日で発行から丸5年となりました。当 初月4回から2回、最近は月1回程度の発行ですがこの間は、もう止め ようと思うことも暫々、でも書かずにはおれない事柄に遭遇するので続 けて来たというのが実状です。予算の都合上ごく僅かな部数を配布して いますがインターネットでご覧頂いたらと思います。暑い夏がもっと熱 くなった政治の世界。今回は4年前の小泉旋風を彷彿させる「郵政解散 」を中心に掲載します。 [言いたいほうだい]には、『誰の、過ち?』 『歴史に学ぶ』とは?を 掲載しています。 ───────────────────────────────── 「本当に「自民党をぶっ壊した!」小泉首相」 ”国民の 支持なくば 退陣と 小泉総理 郵政解散 ” 改革に反対したら「自民党をぶっ壊す!」と言って いた小泉総理大臣が公約遂行の為衆議院を解散しまし た。4年前、自民党総裁に就任して、すぐの参議院選 挙で圧倒的大差で勝利し、総理大臣に選出された小泉 首相。その時の自民党参議員にその郵政法案を否決さ れ、とんだシッペ返しを喰らった小泉首相の心中は如 何ばかりでしょう。あの4年前のそれ迄の自民党政治 に嫌気が差していた国民の心を掴んだのが、構造改革 断行しようとする小泉首相の心意気でした。 まさに自民党にとって救世主だったでしょう。 今度の衆議院解散という事態の前に、各自が4年前 のその流れ、そしてそれ故選ばれた責任というものを 自覚すべきだったと思います。だから小泉首相は解散 して国民に審判を仰ぐという事です。 この選挙で民意が判明すれば、再度否決される事はあ りえません。「信念」遂行の為に総理大臣という地位 を投げ捨てた小泉首相には、濁流の中を一筋流れる、 清(勢)流を感じさせます。 ”信念を 貫く人は 潔ぎよし 私心なき 小泉総理 ” 政治家の公約は破られるものと思っていたが、小泉 首相は着実に実行してきた。歴代の総理が先送りして きたお蔭で膨大な金額に膨れ上がった「不良債権処理 」に、なんのしがらみもない竹中平蔵氏を起用して銀 行の合併の又合併という再再編を断行する事が出来た 。現在景気は「踊り場」脱却宣言となりました。 この事は最大に評価されていい事だと思います。 次にやはり族議員の牙城だった「道路改革」の為、 やはり民間の作家、猪瀬直樹氏を改革委員に抜擢して 風穴を開け、完全ではなくても民営化の方向付けをし た。そして、改革の本丸が今回の「郵政民営化」です 。この流れが次の社会保険庁改革等に繋がっていくの です。「老人大国」となる将来の日本を見据えれば、 社会保障費関連は増大こそすれ減少する事はない。 比例して少子化の状況。「民間で出来る事は民間で」 と言う小泉首相の改革スローガンは、取りもなおさず 国民に負担を強いる安易な増税の前に、 優先順位は歳出削減が先である言 う当たり前の論理からである。 厚遇問題が表面化した大阪市の職員待遇の内状を暴 露出来たのは、民間人大平光代氏を助役に抜擢した大 阪市の関市長の改革意志だった。 長年のこの悪弊を民主党は支持基盤が労組である事か ら指摘、糾弾しなかった。結局今回の郵政改革も同じ 様な事で、支持基盤を失いたくないので反対に回った というのが、実状だろう。 ”反対派 支持基盤に しがみつき 総理大臣はなし 小泉さん” バブルが弾けて以降の「失われた十年」で、民間は リストラにつぐリストラで出来得る限りの合理化に依 り、生き存(ながら)えてきた。不況で自殺者が最高 記録を更新していた時にも、他人事の様に公務員は 血税を当たり前の如く喰い尽くしていた。 公務員の「労働組合とは、何だろう? 」と想う。あの極不況時、一時的にでも労組が自分達 の待遇低下を申言していたら、労組の機能を果たして いたと言えるだろう。 私達子供の頃は、公務員とは薄給でそれでも国民、 市民の為に働く崇高な人達だと思っていた。今、その 原点に立ち還る必要がある。その「市民の為」という 心意気のある人を採用する。現在の上級公務員等の試 験は何をテストするのか?常識的、一般的知識、プラ ス職種による必要知識があり、ボランティア精神(薄 給)でやれる人に任せれば、ここでも歳出が省かれる 。いまや、公務員は国民、市民の為に働いているとい うのは幻想で、負荷でしかなくなった。是非民間で出 来る事は民間に移行し、職員削減による大幅な歳出削 減を要望したい。郵政民営化実現、そこを切り崩せば 改革は一気に呵成されるだろう。その事に依る法人税 増収がプラスされ、国民への増税押し付けも不要と期 待できる。 その為にも今度の9月11日の衆議院選 挙は、改革反対の支持基盤層ばかりの票とならないよ う、これ迄選挙に行かなかった人達も生活に 直結していると考えて、改革断行の 為の1票を投じようではないか。 私も受信している丸4年となった「小泉メールマガジ ン」を通じ国民の声を汲み上げ、政治を国民の身近なも のにした内閣は小泉首相が初めてでしょう。 今回の選挙で守旧派を駆逐して小泉自民党が勝利出来 れば、自民党が本当に一新され、「小泉後」も政権党と して国民の支持を得る事が出来るでしょう。 │ まさに、自民党結成50周年にふさわしい慶事となる。 2005年8月13日 16:01 2005/6/18〜6/23迄記載分です。 『水無月みなづき』 此処近畿地方は梅雨入りしてから碌に雨も降らぬ侭 近所の紫陽花は短い命を閉じていました。折角の六月 だったのに本当に「水無月」です。昨日も今日も、た まに薄日を覗かせてもすっきりしない空模様です。 【一杯に 扇子拡げて 今日は夏至】 一杯の日の長さも、夏至が過ぎればすぼんで(短く) いくだけ………これからが夏本番ですが、暦の上では 真夏を下っているのです。 甥子の部屋以外は扇風機も未だ出さず、手動扇風機 の、うちわ及び扇子(せんす)を使っています。 扇風機を出してしまえば「使わずにおれない」、それ が人間というものだから、もう少しこの侭で過ごしま す。 今年もまもなく半年が過ぎようとしているのに私は 職も決まらず、増えるのは白髪と返送された履歴書。 上の甥子の僅かな収入でなんとか生計を維持していま すが、先行き本当に心細い限りです。色んな所、人に 私の創作物をアプローチし、著作権で生計をと希って きましたが、すべて夢泡(むほう)です。 『日本の中の ポチとミケ』 世界中の人を唖然とさせた、この間の中国の若者による反日暴動、暴 挙。中国という国も「豊か」になったもので、日本人店に「卵」を投げ 付ける、窓ガラス類を壊す、それを警官群がただ見ているだけで制止も しない。なんであれ「暴力行為」を黙認するなど野蛮国家でなくて何だ ろう。国家の意志として反日教育を為し、暴動を煽った中国政府の今回 の目的は、その勢いで尖閣諸島を自領だと日本に屈服させる事だっただ ろう。 2年前の産経新聞「オピニオンプラザ」欄に1980年代からフィリ ピン、ベトナムを軍事制圧して行った中国が南沙、西沙諸島を実行支配 し軍事用滑走路迄を造っている、一党独裁国家の決定から実行迄の即断 力への危惧が掲載されていた。 それにしても、中国の「反日教育」と 日本国内の教育のそれと全く同じと思いませんか?「親子関係」のよう な。結局の処、反日教育推進の日本の野党は中国をバックボーンに、与 党自民党はアメリカをという構図でしょう。 (与党がアメリカの【ポチ】なら、野党は中国の【ミケ】? <犬と猫ちゃん、こんなのに喩えてゴメンネ>) 他国の利益の為の反日を日本の子供に刷り込んで、それで 日本人とは恥を知れです。自分達の政権奪取の為国民を利用している。 自由な言論を弾圧された中国人は皆アメリカへ亡命して中国の実態を暴 露し、日本に来る中国人は中国政府を美化すると新聞にあった。 国民として肝心な事は民主国家を継続したいか、弾圧国家を受け容れ るかという事の選択です。 「日ソ中立条約」をキチンと守った日本のお蔭でロシア(旧ソ連)は 対ドイツ戦に勝利出来た(当時同盟を結んでいたドイツに日本は加担し なかった)。「日ソ中立条約」を破ったロシア(旧ソ連)のお蔭で日本 は満州にいる日本人はシベリアに連行され、北方4島は奪われた。戦勝 国の裁いた「東京裁判」は、そのことには触れず仕舞いである。それは 当時のアメリカ大統領ルーズベルトとソ連のスターリン間の有名なヤル タ会談で<日本を裏切る事>は密約だったからである。 その「東京裁判」で罪状<平和を犯した罪>で一方的に裁かれ処刑さ れた日本人を祀っているのが靖国神社である。 若し裁判が当時のインドのパール判事が唱えた中立裁判だったら処刑の 内容も違ったものになっていただろう。 アメリカ軍の東京、大阪への大空襲、広島、長崎への原爆投下は無差 別殺戮として裁かれるべきもの。日本に依る真珠湾攻撃はアメリカ空軍 基地を爆撃したが、その日本が戦争に至った過程までも検証されるべき だっただろう。 『東京裁判?とは』 産経新聞平成17年6月18日付「正論」欄の上智大学名誉教授渡部 昇一氏の論文を要約すると、ロッキード裁判で鑑定証人をした時の証拠 文書の扱いの杜撰さ、一例として<midday>は正午から15分前 後迄を指すのに、日本の検察官、裁判官は午後4時をも<midday >と翻訳した。先に結論ありき(被告を有罪)であった。 サンフランシスコ平和条約第11条の「戦争裁判の受諾」英語では< accsepts the jadgments>である。 【jadgments】は裁判ではなく、判決それもsがあるので諸判 決とすべきである。だから【東京「裁判」】ではなく「諸判決」を受諾 と翻訳すべき。諸判決とは絞首刑、終身禁固刑、禁固刑でありサンフラ ンシスコ平和条約締結以降、絞首刑された東条英樹他6名以外の禁固刑 者計17名は正当な国際的、国内的手続きを経て釈放された。 「靖国神社」に祀られているA級戦犯なる人達(絞首刑された東条英樹 他6名)は昭和27年アメリカとの平和条約締結時迄に処刑された人達 である。平和条約締結以後の昭和33年に3000万人の日本国民の赦 免署名活動及び国会決議によりA級戦犯なる人も釈放され(現にその中 の賀屋興宣氏は後に法務大臣、重光葵氏は外務大臣を務め、日本が国連 加盟を承認された第11回国連総会に日本代表として出席した)、日本 国民の平和の為に死んでいきます、という遺書を遺してA級戦犯で処刑 された人達も靖国神社に合祀された。(以上、産経新聞「正論」欄より ) 赦免署名活動こそ当時の戦争経験者の日本国民の総意である。それを 年々風化していくのをいい事に、「現在」の人間が分祀等と発言するの は、余りに無知、無見識な暴言である。アメリカとは安保条約も結び以 降の日本との関係は良好である。そして、段々風化してくる程に「靖国 神社参拝反対・A級分祀」が声高に叫ばれているのである。中国の反日 戦略の一貫として日本政府要人による「靖国神社参拝反対」。昭和54 年元総理の中曽根首相が「公式参拝」と明言し、それに日本の野党が異 議を唱え国会の争点となった。それまで日本の総理の靖国神社参拝には 全然無関心だった中国が「その時」から急に異議を唱えだし、現在に至 っている。これでも分かるように中国にとって靖国神社参拝云々は本当 はどうでもよく日本を屈伏させるカードが必要なだけである。だから、 靖国で日本が引けば、何か代わりを全面に出してくるだけの事。 両極端 (教科書問題) 6/21(火)ソウルで日韓首脳会談が行なわれた。 共同骨子発表には、竹島問題は触れず仕舞いで、共同で「歴史研究」を 為し教科書に反映させる云々……とあるが、この教科書というのは日韓 のでしょうね。現在黄文雄氏著書の「日韓併合が韓国を救った」という のが発行されている様に韓国側の教科書も反日ばかりではない記述に改 める様な姿勢がなければ、日本国民としては納得出来るものではない。 本当に「友好関係」を築きたいのなら一方的ではない歴史及び現状認識 が必要です。他国と「歴史認識」等共有出来る筈がない。戦争等の動機 も互いに違う。相互理解という見地が必要である。この事は中国にも言 える事ですが。 教科書問題に関しては、あくまで日本国の未来を担う人間を育成する為 の教本である。例えば、元は同じ中国人でも台湾は「好日」の人が多い 。李登輝氏前首相等、特に昔の人達程日本贔屓で短歌の愛好者もいる。 片や中国の「反日」。この極端は何故か?なんでもない、国の方針(教 育)、政策の差だけ。この様に「教えられる」内容に依って極端な「対 日感」になるのである。 終戦60年という「還暦」の年 戦後の占領軍の「教育」その侭をお守りの様に 伝来してきた我が日本の教育界。今年は終戦60年という「還暦」の年 。人間の「還暦」の時は、当人が「赤い帽子とちゃんちゃんこ」を着て 皆がお祝いする。その時から又「赤ちゃん」に戻るという謂れから、新 たな命を生きるという事である。もう充分でしょう「被虐史観」。 近隣国は党、国民が一丸となって「反日」と言っているのに、我が国に は一丸となって正史観を訴える人間がいないどころか、近隣国と同じ様 な「反日者」がゾロゾロ(ゴキブリ?)一杯。♪こんな日本に誰がした ♪ですよ。この終戦60年の「還暦」を機に占領軍の呪縛、近隣国と同 じ反日史観から脱却して、勝者が一方的に裁いた「東京裁判」の再点検 に政府は着手して下さい。 「日ソ中立条約」を死守した様に日本は「義を重んじる」国柄である。 依って占領軍の作った「戦後憲法(教育基本法)」もその真面目さでも ってお題目にしてきた。が、教育は国民を骨抜きにし、謝罪外交は全然 効力が無かった。反対にそれが近隣国を益々増長させる結果と相成った 。謝れば謝るほど近隣国は「強く」なるだけである。こんな近隣国とは 東アジア共同体構想等土題無理。軸足は日本を「友好国」としてくれる 国々に置く(勿論経済も)、それに依って近隣国にも「変化」が表れる でしょう。 。東中野修造氏の「南京虐殺は無かった」(関連文書 「言いたいほうだい」の 2003年2/12付 『歴史の捏造』へ)という本は、当時の資料をひ とつひとつ精査結果の集大成である。これまでの歴史教科書は何を根拠 に「南京虐殺」なる事を記載したのか?これ等も「両極端」の類である 。社会の教科書は「新しい歴史教科書」とこれ迄の「歴史教科書」の2 種類を採用するようにして、何故これ程までに違いがあるのか?と言う 事を含めた「勉強」をすればいいのではないか。 中国、韓国と同じ反日教科書を採択使用していたこれ迄の日本教育界 の盲点こそ着目しなければならない。 韓国大統領の「靖国神社参拝反対」に関連しての新施設建設要求は、 失礼ではないですか?立派な内政干渉です。誰の為の物でしょう?誰が 詣るのか、外国要人の為ですか?ならば国立千鳥が淵の無縁者墓地にで もお参りして下さい。ブッシュ大統領は来日した折「靖国神社参拝」を 希望したのにいつもの外務省が近隣国に気を使って「明治神宮」にして もらったとか。あの時に靖国神社に参拝して貰っていたら、以降の近隣 国の反応も変わったでしょうに。やはり害のある「害務省」ですわ。い りまへん。 最近の韓国を見ていると北朝鮮化(同列に中国化)され、 共産主義(一党独裁国家)の一国の如きに見えます。相も変わらぬ「靖 国神社参拝反対」は日本の平和憲法を教えられていないから軍国主義復 活とイコールされる故のものです。 2005/5/2(月) ” デシカメを ともない 2日 さくら酔い ” ” 4月は8日は守口、9日は近所の田井西公園に行き満開の桜を デジカメスケッチして来ました。ホント、桜の花にどっぷり浸か って、桜酔いというところです。 ” 桜花 レースのカーテン 絨毯に ” その4日後、同公園に行くと、月が欠ける如く、満開だった桜 も綻びはじめ、地面は桜色の絨毯に装われていました。 そしてもう5月、新緑が瑞々しい陽光に輝いています。 すべてが生まれかわり、はじまった。 車で新緑の中を走り抜け乍ら、人間も毎年このようにみずみずし くなることが出来ればどんなに素晴らしいだろうと思っていまし た。 * 『社会の変革とは?』 (JR尼崎列車脱線事故) 「地獄絵図」乗客の発言が物語る<4/25(月)の JR尼崎列車脱線事故。一両目に乗っていた人が我慢し ていたトイレを利用する為伊丹駅で下車し、同時にど っと乗り込む乗客との「明と暗」、車で送って行くと いう息子さんに「電車の方が安全で渋滞もない」と亡 くなられた人・人・人・・・・──── 亡くなられた方々の御冥福、心よりお祈り致します。 突発的な死を見聞きする度、人間の持って生まれた 「寿命」というものに思惟せずにはおれません。 外国メディアも取り上げた、今回の事故を【現代社会 の仕組み、自分達にも責任がある】と身内を亡くした に拘らずまさに的を得た発言だった。それは今回の被 害家族の誰もの悲願、「二度とこんな事がないように 」の祈りを込めた、その根本的原因の現代社会のスピ ード優位感への戒めでしょう。今回のJR福知山線は 競合する阪急電車より同区間「6分」速く到着し、運 賃が高いに関わらず利用客が増加したとか。 【25年前の京阪枚方での置き石による脱線事故は7 両編成急行電車が半径400メートル右カーブで脱線 し、1両目が民家に突っ込み2両目は横転した。50 0人の乗客中104人が重軽傷を負った。以上産経新 聞より】速度は分かりませんが当時と現在の車両では 重さが雲泥の差でしょう。その差が、25年前のは【 104人重軽傷】のみ、今回【106人死亡、負傷者 461人】と膨大な差となった。これを機に、利用者 も意識を変えていく、ことが「社会の変革」に繋がる ではないでしょうか? 速くなくても、安全を優先するか、 安全面のリスク覚悟で、速さを選択するか。 需要があってこその、消費社会です。どちらにしても 「絶対に安全」という事はありえません。 。 新幹線もスピードアップの為、益々軽量化されシス テムは全てコンピュータ化されている。今回の事故車 両は軽量化されているのに制御装置は旧式のままだっ たという事は(故意に万一事故の場合の被害考察を怠 った)、国の指導を含めて看過出来ない重大な過失で ある。 * 「何故、五重の塔は地震に強いか?」 をNHKテレビで観た。二十メートルの高さの塔の中心を心柱が貫 き、例えば地震で一階が左に揺れた時、二階は右に揺 れるようにと言う具合に、階層毎が一定の傾度を越さ ない様バランスを保つ為、交互に「遊び」が設けら れていた(二年掛かりで造った薬師寺五重の塔の縮小 実物で実証)。千年以上も前の建造物の技法が、現代 にやっと解明されたという事。その当時「国造り」 に未来を視野に据えていた全ゆる人の気概を感じる。 近年は、この工法が用いられている高層建物も多い らしいが、現代の建物は合理的な華麗さ、より速く、 より高く(鳥ではない)のみの追求で、基本的に未来 への視野は狭窄(問題にしなかった)だったと言える 。消費促進の為の買い替え、建て替え等、使い捨て時 代に生きる、現代人の精神基盤ゆえの………。 3/20 『卒業の実り』 ♪卒業式今日の別れ (略) 別れは 悲しいけれど その別れの 積み重なりが 皆を大人に 変えた… ♪ 三月十四日は左の「私の歌」の♪心の積木♪に歌っている下の甥子の 中学校の卒業式でした。(右の歌詞はその甥子の小学校卒業時に 作った一部分です)少し遅れてしまって「君が代」斎唱は終わっていま した。私自身、憶えている「卒業式」は何故か小学校のだけ。式次の始 めに会場内の日の丸が君が代と共に下から上に揚がって行き、終わりに は又、同じ様に降りて行く。太陽の昇降の如く。始まりと終わり。その 「君が代」斎唱と国旗掲揚の厳(おごそ)かさ。 「君が代」はテンポがゆっくりで――― 甥子は言いますが、それは「 生きている時代」の相違故のもの。私達がその頃聴いたバラード、ブル ース調の歌謡曲。現在の歌のアップテンポに慣れた甥子世代。このスピ ードアップされた現在の時の流れの中で、それだけではない、ゆるやか な時に触れたのは、意義深い事でした。それこそ「この生」に連なる 先人の時代への一瞬のタイムスリップと言えるでしょう。 間違いなく言える事は、遥か彼方からの「刻」の積み重ねによって、 「いま」があるということです。 ────────────────────────────────┤ 『日本は天国』 産経新聞3/18付曽野綾子氏の「透明な歳月の光」に、日本の民主 主義を理解して貰う為にサマワから招聘した宗教指導者や女性教師たち は伊勢神宮の境内に入って息をのんだそうです。テロリスト達は聖戦と いう自殺テロで死ねば天国で流れる清らかな水と、緑溢れる茂みの傍で 憩う事が出来ると教えられているからです。「日本は天国」、これまで 世界百二十カ国の発展途上国の実情を見て来た氏は折りにふれ述べられ ている。 昨年10月22日の同氏の同欄には「台風」と題した中に、17日間 アフリカ旅行の間に日本に台風が襲来していて、帰宅後のテレビはその ニュースばかりだったが、避難した学校で行政から支給される新しい毛 布、弁当、それらは当事者が自分で準備しておく位の「教育」をしてお くべきだ、という指摘があった。 「アフリカの地域では何度も停電があり、又点いていても電圧が安定し ていないので、すっと電灯が暗くなる」「嵐でも東京の明るさは微動だ にしない。この事実に少しも感動もせず、感謝もしない日本人が、私は 不気味だった。」 曽野綾子氏の言葉です。 今日の新聞に『北極海の氷面積が縮小』、アメリカの雪氷データーセ ンターの人工衛星の観測結果として、夏場の氷の縮小が数年続いている 北極海で、冬場にも十分に氷が回復しない異変が起きている。 地球温暖化の影響を特に受けやすい北極海は、この傾向から今世紀中に 夏場の氷が全面消滅する恐れがあると掲載されていた。 先程の電灯もままならず生活しているアフリカの人達には、この地球 温暖化の責は露ほどもありません。すべて文明国、あり余る科学文明迄 を使い放題にしている私達文明人の所為です。 生活の縮小を、各自が自覚する事。少し前の日本人の生活を思い出し て下さい。テレビは1台で観る。使わない部屋の電気、エアコンは消す 。出来る範囲で実行しましょう。以前にも書いたけれど、一日の電気使 用量の制限が国民に割り当てられるようにならないとは限らない、この ままでは。 改めて、「豊かさ」とは何か?「日本は天国」と言える曽野綾子氏は 豊かさを「知って」いる。貧しい国、貧しい人と比較すれば「それより マシ」と思える。自分の状況をどう「思えるか?」 どんなに物質的に恵まれていても、自分で「豊かだ」と思えなければ 「豊かではない」。要は「精神」が豊かであるか、どうかという事。 2005年3月21日 2:29:11 2005/2/4より2/12迄掲載しています。 2/4 『立 春』 ”寒の「鬼は外」 あけて今日 立春や” 三寒四温といいますが今日は立春、前日三日間の寒かった事、朝起き ると車の上に雪が残っている日もありました。と言っても地震のあった 新潟の小地谷等は積雪が3メートルにおよび家が崩壊、又除雪中の屋根 から転落死した人の事などがテレビに映し出されていました。又高速道 のインター入口の上部も大雪が積もり、雪下ろした雪を捨てる為トラッ クが往復しているが2台では直ぐに一杯になる、と地元の人の不満の声 が上がっていました。想像を絶する状況です。 この地域こそ本当の「立春」が来る事をお祈りします。 * 2/7 「北方領土の日」 2月7日は日露間の国境を定めた日魯通好条約署名から150年の日 です。今年ロシアのプーチン大統領が来日するそうですが「おみやげ」 として4島一括返還するのかと思ったら、「2島」返還を返答して来ま した。産経新聞の朝刊「正論」欄にその2島というのは4島の合計面積 のたった7%でしかないとあった。どちらにしても、フザケルナ!です よ。この事は当マガシンbV2及びbV3号にも掲載していますが、日 ソ不可侵条約を一方的に破り、戦後の日本の北方四島を占領掠奪した旧 ソ連、おまけに満州から日本に帰れると思った日本人をシベリアに連行 し強制労働に従事させた(60万人の内死亡5万人余り)。これ等の事 を以てして何ひとつ日本が譲歩しなければならない因はない。反対に4 島プラス、シベリア抑留者の労働対価をロシアに請求してもいい位だ。 現在のロシアと日本のパイプライン敷設には日本の投資金額は莫大であ る。に関わらず中国にも「油」を供給するそうである。 くれぐれも話の【つめ】だけはきっちり着けておくように。そして日本 は「絶対4島返還」のアドバルーンを下ろさない事。この機を逃せば一 括返還はいつになる事やら、と思います。日本の資金が欲しい今だから 出来るのです、絶対押し通す事。国民もロシアが一方的に占拠している 北方四島返還要求を唱え続ける事。国土から200カイリという漁業権 にも及ぶ、蟹やニシン、鮭、鰯等の漁獲が日本のものとなる(戻るとい う事だが)、私達の生活にも密着している事なのだから。 うまくいけば儲けものと、最初に無理難題を吹っかける、これが全ゆ る「社会主義国」の常套手段です。 北方領土四島返還が決まれば、日本にとって歴史的「立春」となるこ とでしょう。 先に述べた戦前の「日ソ不可侵条約」。 「条約」なるものの頼りなさ、それは平和時のものである事を、歴史に 学ぶべき。いつ破棄されるか分からない。それ故、日本はどうあるべき か? 日米安保条約の「傘の下」にある現在だが、他国依存の頼りなさ 。(死文化していると言う、国連憲章の中の「日本・敵国条項」も即刻 削除要求を) ◆ ◆ ◆ □私のエコライフ□(塵も積もれば山となる) 顔を洗う時は給湯を使いますが(因に台所にはなし)、少し湯を出し た後、湯温計のスイッチを消しても未だ湯が残っているので、湯栓はそ の侭にして洗っています。 いづれ水になりますがそれも気持ちが良いし、肌にもいいようです。 2/9(水) 『ためいきばかり』 出るのは、溜息ばかり………。 1月が終ってはや2月になり、今日はもう9日。仕事が決まらない日々 だけが過ぎていきます。私と同じように上の甥子も昨年でアルバイトが 終わり、それでも最近、短期短時間のバイトが決まって行っていますが 、私の場合は年令制限という大きな壁に立ち塞がれ、思うに負かせず、 先を想えば鬱蒼たる気持ちです。昨年11月位に胃の状態が平常ではな くなり(痛いとまではいかないがそれに近い)1日3杯は飲んでいたコ ーヒーを3週間程止め胃腸薬を服薬してなんとか治癒しましたが、それ に囚われると、ストレスから同じようにならないとは限らず極力無考状 態でいる現状です。時間があればしたいと思う事が一杯あったのに、( 詩歌集第4集を仕上げる事【仮題「無限」】、他、創作関連)気持ちが 前へ進まず、というのも結局それらは生活の糧のなんの足しにもならな い、それどころではないからです。 しかし………・・・フゥー(タメイキです)。 これまでの著作物を歌や朗読でCDを作っているので、新たなビジネ ス展開を一考しようと思ってはいますが。世の中キビシイよ。 * 2/11(金) 打ち込んだのを(先にワープロ打ちするので)流そうと思っていたの に、昨日一日風邪気味で寝込んでしまった。食事の用意だけは他にする 者がいないので仕方なく作り、食べそれ以外はずっと寝ていた。その前 日2/9(水)夜は日本対北朝鮮のサッカーをテレビで観ていてロスト タイム3分での日本の決勝点に大いに歓声を上げ、溜飲を下げたのに、 その後寝る前位ちょっと風邪っぽいなと思いながら、薬を飲まずに寝た ら案の定、この顛末だった。 。今日は建国記念日の休日だったが、寝呆けの所為か今日を2/18の (金)と何故か思い違いをしたまま下の甥子の弁当を作り、ほぼ終る頃 、バイトへ行く上の甥子が建国記念日である事を教えてくれたので弁当 箱に詰めずに済んだ。朝食を食べた後も、アイスノンをして寝たが、昨 日は気持ち良かった冷たさが、今回はちょっと冷たいかなと思えた。 昼は朝に作った料理を食べた後、テレビを観て、気分がすっきりしな い乍らも部屋の掃除していない事が気になっていたので、取り掛かり終 えた後、これを打ち込んでいます。夕食はかやく御飯をしようと思って 、先に牛蒡を削いで水に浸け、蒟蒻を茹いておいた。これからかかりま す。 2005/2/11 (金) 18:25 2/12(土) 『インプットされた愛』 昨夜のかやく御飯は最上級ではないけれど、美味しかった! 炊飯を「標準」にすれば良かったのに、「早炊き」にした分、少し御飯 が固かった。その後はテレビで映画「イレーサー」を観て、入浴後直ぐ 就寝した。 今日は午後から魚類、野菜、肉等の買物をして来ました。風邪はなん とかよそへ引っ越ししてくれたようです、メデタシ、メデタシ。 映画と言えば、今夜のテレビで「シックス・ディ」というのが放映さ れていた。所謂クローン人間の物語だったが、最愛の者を失くした時、 若しもクローンで再生する事が出来たらどうするか、生命の重さ、一稀 性を思えば考えさせられる映画だった。(死ぬ側の立場になれば再生さ れたくはないが) 2/10の食事時、途中からだったがテレビ「アンビリーバーボウ」で 「人間は1000歳迄生きられる」というのがあった。悪くなった身体 の部分を取り換えて行けば未来には1000歳迄生存が可能になるとい う内容だった。「部品」を交換していくのだからロボットと同じような 物?「死」というものを見据えなくなった人間は、感性の滅んでしまっ た、ただの「動く物」という存在でしょう。 それより、そんなに永く地球が持つか? このままだと50年後には地球温暖化等の所為で地球が水没するかも知 れないと言われているのに。 ロボットと言えば少し前、やはりテレビで「A・I」という映画を観 た。AI(人口知能)で作られたロボットは人間よりも優秀で、持ち場 を奪われた人間がロボット狩りをしてスクラップにしているシーンがあ った。又、そんな壊され損いのロボットが、欠如した部分を他のスクラ ップの部品をあてがって自分ではめ込み再生していた。まるで先の10 00歳の人間のようです………(笑) この映画の主人公は母親に愛される事をインプットされた「子供」ロ ボットで、子供の急死した家に買われて行く。可愛がられていたが、そ の後の家庭内事情からやがて捨てられる。それでも「母親」にあいたい 、スクラップにされそうになったりしながらも、スクラップ崩れと知り 合い「愛の女神」に出会える場所を教えられ、結局自分の製作者に辿り 着く。「プロミング以上の事をやってのけた」進化した、と博士は子供 ロボットを絶賛する。 2000年後?人類が滅亡した地球上に、宇宙人が降りて来て、子供 ロボットに言う。タイムカプセルで「一日だけ好きな人に会える」、 「24時間でその人は消える」と念押しされ、「母親」と再会する。 やがてベッドに「母親」と共に横たわり、子供ロボットは2度と目を覚 ます事はなかった………。ヨカッタ。2度目の進化でしょう?。 「愛」と共に永遠の眠りに就くのは誰もの理想ですね。 そして、100歳、200歳、クローンで生まれ変わりと言った処で、 人間というのは、周りの人間、「愛」で支えられてこその長寿願望と思 われます。 2005/2/13 2:38 平成17年(2005) 新年明けまして お目出度うございます。 今年もよろしくお願い致します。 【平成16年12/29〜平成17年1/10までを掲載しています】 【13のリンクのトップページ刷新しました。如何でしょう?】 1/9(日)「お歳暮の宅送アルバイト」 昨年の11月25日に流して以降、今年初めての発信 です。昨年の反動という分けではないですが、とにかく寝正月でし た。昨年末は初めてお歳暮の宅送アルバイトをやり、それはそれで 配達の仕事の苦労を実感できました。表札の分かりにくい家、番地 近くに同じ氏の家があり氏名で確認することの大切さ、ビルの中の 所在で何度も人に尋ね結局分からず仕舞いだったり、配達物の伝票 番号の見間違い、最初等違う家に届けてしまっていた事がありまし た。兎に角、自分なりに配達順序を決めておかないと数を捌けない 。自分の車持ち込みの委託配送だったのでガソリン代も自分負担、 それでも留守の場合は2度3度と伺います。あと1個だけという時 もありました。配達途上、時折私のペーパーマガジンを投函したの で、このページにアクセスして頂いているでしょうか? お蔭で私担当の界隈は大体の番地の把握が出来ました。 住んで18年目の我が家界隈より熟知出来ていると思います。 私の質として必要と思わないと意識に留まらないので―――。 平池町はホームヘルパー時、自転車で走った事があったのでマシ かなと思っていましたが、町内は広く知らない所だらけでした。 道も狭い所が多く缶ビールの詰合せ等の重たい物の時は、車を家前 迄バックで着けました。 それでも戦災の消失を免れた様な由緒ある家が多く、江戸時代の 面影を見るような家並みが遺っていて、<私のフォトスケッチ>に 掲載したくなるような【日本の家】ばかりでした。出来る限り「日 本の面影」をとどめておいて頂きたいと切望します。 私達の遺伝子の中には、この100年程の文明より、もっと根深 いものが眠っている。何故〈癒し系〉等が必要なのか? それは、本当の自身の求めているものに目と耳と心を塞いでしまっ ているからだ。大きくて、速いのだけが素晴らしいのではない。 この消費社会に流されて呑み込まれないよう、心はあのインド洋の 大津波の只中かもしれない。 2005/1/9 19:00 1/10(月祝) 『招福祈願えべっさんへ』 本恵比寿の今日が祝日のお蔭で(と言っても人間の都合で変える 現在の祝日法に賛意している分けではありません)初めて甥子2人 と共に野田の「えべっさん」へ行って来ました。商売繁昌ではない けれど、求職満願への景気付けの為。 昔住んでいた野田阪神駅前が再開発されてJRの野田に近い野田 恵比寿神社へ行くのに少し迷ってしまいましたが、人に尋ねて行き 着きました。車を停めた位置は神社の丁度裏側でした。裏神社から 表神社入口を出て露店を通り抜け車の通りに出てやっと、子供の頃 の神社の「入口」に立つ事が出来ました。それにしても子供の頃も っと長いと思っていた露店の並びも、神社境内の広さも、短く狭く 感じ、自分が巨人の「ガリバー」になったようでした。 境内では地車のコンチキチンが景気づけの如く鳴り響いていまし たが、路上駐車しているのが気になるので早々に車に戻りました。 元来た道を走り乍ら脳の中の記憶の地図を拡げる。野田阪神には 昔で言う都市銀行全てが集結していたのに「今風」の合併銀行に皆 変わってしまった。今走っているこの道路も元は新橋筋商店街だっ た所。改めて「変わっていく」のが当たり前の世の中にあって、「 変わらずにあるもの」が珠玉に輝く。今日の『「えべっさん」と露 店』、記憶という「過去」と「現在」が合わせ鏡のように合致して 、それは現実に甦った。又訪れるが事が出来る所としてあるのが何 より嬉しい。 今年は表玄関上に注連縄を掛け、えべっさんに御参りして福笹を 買い、(1/3京都の八坂神社で破魔矢も買った)今年こそ「福」 が降福して幸福となるよう例年とは違う事をしてみました。 今年は下の甥子が高校受験、上は再就職探し(私も同じく)と何 がなんでも福の神に降りて貰わないと駄目な状況なのです。 おまけに私の創作物が世の中に認められれば、目出たし、目出たし の年になるのですが………。今年を乞うご期待。 2005/1/11 0:20 ─────────────────────────────── (平成17(2005)年1月7日ペーパーマガジン発行分) 『地球受難年?』 一段と厳しい冷たさで明けた今年。3日に京都 へ墓参りと初詣した以外は寝正月でしたが、気分 を一新して仕事捜しをせねばと思っている処です 。しかし、齢五十八才仲々厳しい状況です。 思えば昨年は元旦から仕事(ヘルパー)で明け 大晦日も仕事で暮れた一年でした、そんなんでこ のペーマガ発行、発信も少し間が空いてしまいま した。 ”大晦日 初雪 お節宅送アルバイト” お歳暮配達のアルバイトをしていた昨年の年末 。朝雨の後、雪になった大晦日は降りしきる雪の 中それでなくても初めてのお節料理の宅送、無事 全部終えた時には心底ホッとしました。皮肉なも のでその時には雪も止んでいました。住宅地以外 の通りでは「にゃこリン夢現シリーズ」広報カー から私の歌や朗読を流して走っていましたが、【 地球の未来の為】の私のメッセージ僅かでも心に 留めていただける事を希っています。又、CDも 自分で作っています。一人でも多くの人に聴いて 頂きたいので、ほぼ実費でお分けします。上記迄 TELもしくはメールで申し込んで下さい。 昨年の猛暑、台風の多発、天災のとどめの如き 年末のインド洋の大津波の被害は現時点で十五万 人の死者加えてマラリア、コレラ蔓延でその倍の 死者が予想されると言う。この不気味な地球の活 動には誰もが「いつ自身の身に何が起こるか分か らない」危機感を持たせた事でしょう。資源又、 地球環境の対応して車等はハイブリットカーが主 流になろうとしているのに、プラズマテレビ等の 大型テレビは節電設計と言っても消費電力300 ワットで(因に私の家のテレビは25型で消費電 力100ワット〈節電選択可能〉です)時代と逆 流していると思えるのですが………。又、夜の煌 びやかなネオンサインも何故あんなに煌々と油の 火を撒き散らかせなければならないのか、もう少 し照度をダウンさせてもいいのでは(効果はダウ ンしない)と思います。 二酸化炭素排出削減を数値で定めた京都議定書 が今年5月に発効されます。 景気促進となる新製品開発は必要であっても、政 府が関与して消費電力を上限値で規制する事が必 要な情勢なのではないでしょうか? * 『夜の川』(詩歌集夢幻P46より) “天の川 往く灯 還る灯 信号停 転じて光の 川の只中” 「天の川」(地名)の信号停から、その先、大阪 方面道は少し上向きの勾配になっていて、両車線 の車の流れが見通せる。人が夜の中の存在の様に 、何れは訪れづる「自身」の完全な抹殺の予知を 見る様な、車の白いヘッドランプ今のその「抹 殺」故に、夜の魔物に刃向かい燃え挑む、真っ赤 なテールランプ。―――夜になると、流れ出す川 がある―――太陽がいなくなるのを待っていた盗 人の様な、繁栄の象徴の「文明の灯」が我がもの 顔に威張り始める。それは「蛍」火の様な命火の 初めから、順に点って来た灯。ゆっくり、ゆっく りと……。いつからか「消費」が走りだした。 夜が明るく明るくなって来た。原色の度合いを 増して………それと共に、その川の流れも、早く 成ってゆく「蛍火」等、クラクションで、蹴散ら して「夜」になると、流れ出す川がある――― 木々の緑の眠った後、文明の灯が、燃え栄る。 * 「天 国」作詞曲 日■よし子 ♪”色んな事が あったけれど 色んなものに 出会ったけれど 天の川 車の昼と 夜の流れ暗闇が もたらす 真っ赤な テールランプヘットライトの 白い行列 朝が 地上を 照らしている ああ 視界に 自分を 見付ける きっと 此れが 天国 ” ♪ * 『日本文字の縦書き文明』 このペーパーマガジンも刷新してこのbW1号 から縦書き編集に変えました。 ”山河あり 東洋の日本 雨が降る 言葉の梯子 降りて 昇りて” 文字が象徴する、日本の縦書きと欧米の横 書き文化。緯度の温度感(四季感)と、経度の時 間・距離感に通ずる感覚。雨と風が産ませた ものでしょう。過多の文明に覆われて見失っ てしまった日本という風土の身丈にピッタリ 合った縦書き文字。「なんで、縦書きやった んやろ?」と考えてみるだけで昔の日本人と出会 えるのではないでしょうか。 2005/1/7 【E 著作 日高よし子【無断転載禁止】 |
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