第一部

つくば建設にまつわる伝説

「つくば」、東京より離れること北東に約50キロに位置する。ここに国立大学2、研究機関45が存在する「研究学園都市」

この町に来て誰もが思う疑問、それは「なぜこの様な田舎にこの様なものを建築したのか?」と言うことである。

それについては、幾つかの説がある。

其の壱・「東京への一極集中を避けるため。」と言う説。

つくばの人口はたったの16万人、東京の人口1千200万に比べれば、1.3〜1.4%ほどである。

たったこれほどの人口が東京から他方に移ったって、一極集中を回避したことにはならない。

大体官公庁や、一部上場企業などは全く移転していないのである。「東京への一極集中を避ける」と言うのなら、これらの一つや二つは移転していてもよさそうなものである。

大体、距離的にもつくばは東京から50キロしか離れていないのである、茅ヶ崎や高崎よりも近いのである、このようなところに移転したって、一極集中を避けることにはならない。一極集中を避けるのならば、少なくとも東京から200キロほど離れるべきであろう。いや、関東平野から脱出するはずである。

よって、一極集中を避けるためと言うのは間違いである。

 

其の弐「多摩ニュータウンのような大規模ベッドタウンを建造するための中核にするため」と言う説

つくばは、東京からの距離は約50キロ。周りには膨大な土地がある。また多摩ニュータウンとほぼ正反対にもう一つのニュータウンを建設すれば、東京を中心に均衡にくまなく人口が分散する。そうすれば、人口密集、地域格差、土地不足の解決などにもつながる。そのためにつくばは建設された。

一見この説も正しいように思われる。

多摩ニュータウンを造成した時は、鉄道建設も同時に行われている。(小田急多摩線、東急田園都市線、など)また、最近になって、つくばに直通する「常磐新線」を建設している。

しかし、これは余りにも遅すぎるのではないだろうか。

つくばが建設された。60年代後半から70年代前半のほうが、土地もまだまだ安かったのである、もしつくばを中心に、千葉、茨城南部にまたがるニュータウンを建設する気ならば、もっと前に建設が始まっており、今ごろはとっくに開通していなければおかしい。しかし、実際は今ごろて建設に着手しているのである。余りにも遅すぎるではないか。

大体、常磐線沿線にだって、まだまだ土地が余っているのである。もし、千葉、茨城に渡るニュータウンを作るなら、常磐線沿線に建設するはぜである。

よって、この説も間違いである。

 

其の参「科学者を何も無い田舎に閉じ込めて、

研究に没頭させるため」と言う説

この説もなんとなく正しいような気がする。確かに最近は別にして、少し前までは、つくばにはほとんど娯楽が無かった。

しかし、この反動で、一時研究者の自殺が相次ぎ、「つくば病」などと言う言葉も生まれたくらいである。これでは本末転倒である。

「つくば病」の発生は予測できなかったにしても、どうせ田舎に閉じ込めるのならば、もっと、徹底的な田舎に閉じ込めたほうが良いではないか。大体、なぜ、大学まで移転したのだろうか。大学を移転させる必然性が、この説では説明できない。

よってこの説も間違いである。

ではなぜ、何のため、つくばは建設されたのか。

次の項ではそれを説明しよう。

 

つくばの真の目的