第二部

つくば建設の真の目的

つくばの位置は東京から北東に50キロ

この位置は実は重要な意味がある。

つくばが建設されたのは、60年代後半から70年代前半にかけて、そう、ちょうど冷戦の真っ只中である。

アメリカはベトナムで戦争をしており、いつ第三次世界大戦が起こるのか、本気で心配されていた頃である。当然日本も仮想敵国「ソビエト連邦」の脅威にさらされていた時である。

そして、仮想敵国であったソ連は、日本の北方に位置する。万が一ソ連と交戦状態になれば、ソ連は、北海道に上陸し、そこから、北海道、青森、宮城、と占拠しながら、南下し東京に迫ってくるものと考えられていた。

首都東京の防衛そして何よりも日本の防衛は、国家にとっても最大の課題であった.。

当時の日本の防衛戦略は、「水際阻止」、「ソ連を上陸前にたたく」を建前にしていた。水際阻止は一見戦略的に正しいように思える。

しかし、どんな戦争でも、開戦当初は、勢いがあり、また気を引き締めている。そう、いわば一番強い状態なのである。一番強い時に戦うのは、賢い戦法とは言えない。また、またもしソ連が奇襲を仕掛けてきたらどうするのだろうか?奇襲を食らっては、「水際阻止」も「上陸前にたたく」もくそも無い。つまり作戦としては、水際阻止は余り賢い作戦とはいえないのである。

では一番良い方法は何か?敵が一番弱りきった時を狙う、もしくは、相手の油断、慢心をつく方法である。

北海道に上陸し、東北地方を占拠しつつ首都に迫るソ連。首都に迫り来る頃にはソ連兵の間には「日本は弱い。」と日本を侮るようになる。そう、ソ連兵の間に慢心と油断が生まれるのである。当然開戦当初の緊張感は消えうせている。ソ連兵の間には油断と慢心が覆うようになる。また、故郷から遠く離れたソ連兵の間には厭戦気分すら高まる。

また、占領した地域の治安維持、ゲリラ活動の抑止のため余計な戦力を割かなければならず最前線に兵力を集中できない。また、補給線も長大なものになってしまう。補給線が延びれば、自然物資の補給は滞りがちになる。

中国のことわざに、「弩の末」と言うことわざがある。「どんなに勢いが良くても、最後のほうには衰える。」と言うような意味である。東京間際に迫ったソ連は、油断、慢心、厭戦気分が満ち、物資も不足がちになっている。まさに「弩の末」の状態である。そう、一番弱く倒しやすい状態になっているのである。

逆にこの状態を日本側から見てみよう。

北海道、東北を占拠され、首都間際まで敵を近づけると、一見非常に不利なように思える。しかし北海道、東北には、工業地帯などはほとんど無い、日本の経済、産業などに重要な施設は、皆、関東以西に存在する。言い方を変えれば、関東以西さえ死守すれば、日本の国家は何とか保っていられるのである。

首都の間際に敵が近づけば、日本人の間には危機意識が高まり兵士たちの「戦意」「士気」も高まる。また、敵は自国の懐深くに誘い込まれているのである。戦う所は勝手知ったる我が家も同じ日本の土地である。そう、この時の日本は一番強い状態なのである。この状態で温存していた兵力を弱体化したソ連軍にたたきつけたらどうなるか?

そう、当時の日本の対ソ戦略は、水際阻止ではなく、小出しに抗戦し、首都、東京間際懐深くまでソ連を誘い込み、補給線を延ばし、ソ連の油断、慢心、厭戦気分を誘う。そして補給線が延びきり、ソ連軍がだらけきった所で、補給戦を切断、ソ連の物資が枯渇した所で今まで温存していた兵力を投入、一気に反撃に転じソ連を叩き潰す。と言うものだったのではないだろうか。

この「わざと敗走して、敵を自国の懐深くに誘い込み補給線を伸ばし、油断させて、弱体化したところを叩き潰す。」と言う戦略をもっとも得意としたのは、実は、仮想敵国であるソ連である。ナポレオンと戦った時、そして第二次世界大戦ナチスと戦った時、この戦法を取ったのである。

わざと思いっきりよく退却し、ナポレオンを、そしてナチスドイツを、自国の懐深くモスクワの間近まで誘い込む。補給線が伸び補給が滞り、敵に油断、慢心、厭戦気分が高まった所で温存していた戦力を投入し、反撃に出て侵入した敵を完膚なきまでに叩き潰し勝利を勝ち取ったのである。

当時の日本の上層部が、これを教訓に、対ソ戦略を考えたことは想像に難くない。

そこで当時の日本の上層部は、利根川を対ソ戦の時の「最終防衛ライン」として、そこでの一大反撃戦を想定した。また、万が一奇襲を食らっても、敵がここまで来る間には、反撃、抗戦の体制を整えることができる。そしてその際の防衛反撃戦の拠点になるべき場所の建設を考えたのである。

そう、「つくば」は冷戦下ソ連への恐怖が生んだ、「最終防衛ライン」の「拠点都市」なのである。

次の項では、なぜ都市一つを新設したのか?について説明しよう。

なぜ新たに都市を建設したのか?