鎌倉33観音巡礼
豆横道33観音を調べている時に、たまたま鎌倉33所寺めぐりという観音巡礼があることを知った。又、mixiに鎌倉33観音のコミュがあることも見つけて、早速調べてみた。伊豆の巡礼は、宿の問題や日程のことなどあり、なかなか実現できないので、まずは鎌倉を廻ることにした。季節は春、桜には遅かったが、花々に迎えられた巡礼となった。
倉の33所の成立は、昭和になってからのことである。江戸時代に観音巡礼が盛んだった頃に、鎌倉郡33ヶ所というのがあったらしいが、明治の廃仏毀釈などの変遷をたどり、鎌倉市内にすっぽりと収まった鎌倉33ヶ所が新たに誕生したようである。
光地鎌倉にはいろいろな宗派のお寺があり、特に日蓮宗のお寺が多いと感じていたが、33ヶ所に加わっているのは、臨済宗、時宗、真言宗などの寺である。お寺の規模も大小さまざま、巡礼者に対する扱いもさまざまであった。

<<<第1巻>>>

2009.4.15日(水) 8:30〜15:30 約29000歩
7時半ごろの電車に乗り、鎌倉へは8:30前に着いた。若宮大路へ出て、中央の咲ききってしまった桜並木の下を歩いた。坂東の時は八幡宮にお参りしてからスタートしたのだが、今日は、そのまま金沢街道を進んだ。鎌倉十橋の一つ、うたの橋を渡り、さてもう少しだったかなと思う間もなく、左手に階段が現れた。

第一番札所 大蔵山杉本寺 (天台宗、十一面観世音菩薩)
         

 階段下では、なにやら工事を始めるらしい仕度をしている人が2,3人、その横をすり抜けて、狭い石段を登る。手前に受付があるが、まだ無人。石段は途中から左の方へ迂回するように導かれる。直進の段は余りに磨り減って、危険なようだ。
 本堂前で、まずは身支度を整えた。とは言っても、今回は袖なしの白衣に輪袈裟だけ。白衣は、西国の時に着用したものである。
 本堂内にて、般若心経、観音経普門品第25、十句観音経、回向文など、読経をすると、気持ちがきりっとしてきた。これから観音詣での巡礼をするのだという気持ちが湧いてきた。
 堂内で納経帳を買い、朱印を貰う。一般用の納経帳があったので、伊豆のことも考えてもう1冊購入した。
 堂前に出ると、それらしき姿の人がおり、声を掛けると、これからバスで坂東を回るのだという。自分たちは電車の方が近いので、先回りをしてお寺に来たのだと。暫く、坂東や四国の話をしているうちに、バスが着いたようなので、先に失礼をした。

天平年間(734年)に行基菩薩が開基したとされる鎌倉で最も古いお寺である。本尊十一面観音は三体あり、火災の時に、自ら杉の木の下に身を避けたと吾妻鏡に書かれている。寺名の由来である。現在の堂宇は1677年の再建。
   
参道の階段、鐘楼、工事の埃除けをかぶった仁王様、大蔵弁天

第十番札所 功臣山報国寺 (臨済宗、聖観世音菩薩)


 杉本寺を出て、街道を右側に渡り、暫く行くと、右に入る道がある。この道は、宅間が谷といわれ、昔、絵師の宅間法眼が住んでいた。この先に報国寺がある。門前には小さな駐車場があり、入り口は狭い感じがする。
 足の不自由なお年寄りもお参りに来ていた。入り口から、落ち着いた雰囲気のお寺である。観光客のお目当ては、この寺は竹の庭が有名だから、そのお庭でゆっくりと寛ごうということらしい。
 読経後に朱印を貰おうと思ったら、お庭を見ている間にやっときますとのこと。拝観料を払ってお庭に入った。さほど広くないが、落ち着いた庭で、一回りするだけならあっという間である。





創建は1334年、開山は仏乗禅師、開基は足利家時(尊氏の祖父)とされる。本尊は宅間法眼作の釈迦如来で聖観世音菩薩は国宝館に保管されているのだそうだ。休耕庵という塔頭の後に孟宗竹が生え、現在の竹の庭になった。
   
ゆるいスロープの入り口、鐘楼、竹の庭、裏庭

第九番札所 稲荷山浄妙寺 (臨済宗、聖観世音菩薩)


 報国寺から再び金沢街道へ出て、今度は左側を少し進むと、浄明寺のバス停がある。
角に駐車場があり、折りしも、杉本寺から戻ってきた人たちがバスに乗り込もうとしていた。細い路地を奥に進んだ所に思ったよりも明るい感じでお寺がある。
 しかし、鎌倉五山の第5位の、以前の面影はまったくない。
 
 納経が済んでから、案内に従って裏に廻ってみた。そこは広い墓場で、近くにいた女性に尋ねると、足利貞氏(尊氏の父)の墓を教えてくれた。






1188年、頼朝の臣であった足利義兼が創建。開山は退耕行勇律師で、当時は密教系の寺院であったが、建長寺の僧が住職となってから臨済宗となった。中興の開基は貞氏で没後当寺に葬られた。
  
参道の突き当たりにある山門、花塚、貞氏の墓、ささやかな宝篋印塔だ。

第八番札所 飯盛山明王院 (真言宗、十一面観世音菩薩)


 金沢街道を進むと、泉水橋の先に左へカーブして行く道がある。その入り口辺りで、歴史散歩でもしているらしい一行に出会った。先生が盛んに正面に見える山の説明をしていた。
 ずっと右手にあった滑川に架かる小さな橋を渡ると、そこはもう参道で、先には小さなくぐり戸のような門があり、本堂の前に出る。
残念なことに境内は撮影禁止。宝形の茅葺の本堂は古ぼけたいい味があるお堂だった。読経をしているうちに、例の一行が後から入ってきて、何となく落ち着かない雰囲気になってしまった。


 



1235年、5代将軍藤原頼経の開基。鶴岡八幡宮の別当定豪の開山。鎌倉の鬼門よけの祈願寺として建てられたが、その後衰退、17世紀には火災にあって堂宇は焼失した。
  参道と裏山

第七番札所 岩蔵山光触寺 (時宗、聖観世音菩薩)


 金沢街道をだらだらと登っていき、一番東にあるのが当寺である。
山門前には頬焼阿弥陀の石塔が立っている。境内に入って左の方、丁度八重桜が咲いている向こうに本堂があり、その境内を一人の僧が掃き掃除をしていた。構わずに、荷を降ろし、読経を済ませて、さて、どこで納経をするのかとその僧に尋ねると、その方が住職であった。納経帳を渡し、暫く待っている間、ふと箒に目が行ったので、本堂前の落ち葉を掃くことにした。
 閉まっていた扉を開けてくれたので、堂内も拝見することが出来たし、納経帳を返してくれる時に読経もしてもらった。掃除を手伝ってくれた人は初めてだと、言われた。掃除の手を止めさせてしまったので、と答え、そこからいろいろと話が弾んだ。腰痛がひどくて、座っているよりも立って掃除でもしていた方が楽なのだというので、お大事にと言って辞した。
 


阿弥陀仏が罪を犯した僧の代わりに頬に焼印を押されたという故事があり、寺を建ててこの阿弥陀仏を本尊にしたという伝えがある。開山は作阿上人で、真言僧だったが、一遍上人に帰依し、時宗に改めた。塩なめ地蔵とは、六浦で製塩した塩をお供えすると地蔵様がなめてしまうという言い伝えがある地蔵尊で、その昔、六浦の海から見つかりこの寺に収められたとのことである。
  
山門、左側に石柱がある、塩なめ地蔵の前で追ってきた一行と出会う、お庭

案内書に拠れば、鎌倉街道を雪の下の岐れ道という所まで戻り、鎌倉宮の前を通って、次の六番へ向かうのがルートらしいが、敢えて、調べておいた山道を辿ることにした。途中には浄明寺の団地があった。ふと、思いついて、目に止まった町内の地図を見ると、なんと、この団地には、先年、亡くなった旧友の家があった。これは、観音様のお導きであろうと、心経を唱えながら歩いた。
ここから下った所に、護良親王の墓があり、誰もいないので、少し石段を登ってみた。清涼たる森の中だった。
        親王墓碑

第六番札所 錦屏山瑞泉寺 (臨済宗、千手観世音菩薩)


護良親王の墓から突き当たった辺りが永福寺跡である。更に緩やかな上り坂、紅葉谷を進むと、広い山寺の下に出る。
受付を通ると、吉田松陰の碑が立っていて、どういうつながりなのかと、疑問に思いつつ、新旧二つの階段のうち、古い方を上った。(松陰の叔父が住職だった)
夢窓国師の作ったお寺ということで、その庭園に興味もあった。観光の人たちも歩いていたが、静かな雰囲気は保たれていた。さして大きくない本堂だが、扉も開放してあり、本堂前でゆっくりと読経し、後で、本堂裏の方へも回ってみた。庭の印象としては、少し樹木が多すぎる感じもあり、池越しに見る天女洞をもっと間近に廻れたら、印象が違っていたかも知れないと残念であった。四季を通じて、花々が庭を飾っているようだ。





1327年、夢窓国師によって建立、創建された。後に鎌倉公方足利家の菩提所となった。鎌倉五山に次ぐ関東十刹の筆頭という寺格を持っている。
   
本堂内、鐘楼、天女洞、庚申塔

瑞泉寺を出た所で、もみじやという小さな食堂を見つけたので、うどんと混ぜご飯の定食を食べた。
五番札所へ向かう途中、鎌倉宮へ立ち寄り、参拝する。

第五番札所 満光山来迎寺 (時宗、如意輪観世音菩薩)


鎌倉宮を出てから右折する道をどうするか考えながら歩いていると、良さげな道があり、清泉女学院の前を通った。子供たちの書いた道しるべを見て、真直ぐ、これが横浜国大の敷地だというところまで直進。ここから住宅地の中を暫く行く。
右手の小道の先がもう参道というか、寺の入り口になっていて、2段上がった所が本堂になっていた。
何の飾り気もない新らしめの境内だが、八重桜が咲いていた。

      
一遍上人が鎌倉にいた頃に開山されたと言われる。近くには頼朝らの墓があり、頼朝の持仏堂には如意輪観音が安置されていたが、現在、この観音様が当寺に安置されている。

第二番札所 金龍山宝戒寺 (天台宗、准胝観世音菩薩)


来迎寺から真直ぐ元来た道を下り、金沢街道に出る。八幡宮前に曲がる交差点の東側に入り口がある。入り口には、観光客の外人さん達もうろうろしていた。
街中の割には大きな境内を持っており、住職と話をして、昨年の今頃は四国を歩いていたと言うと、昨年は雨が降らず、萩の寺の名が泣くようなことがないようにするために水遣りが大変だったとのことだった。それでも生育が悪かったと残念そうな口ぶりだった。
仲秋の頃、白い萩で境内が埋め尽くされると言う。
境内には歓喜天堂、太子堂がある。







1205年に北条義時が屋敷を構えてから、ずっと執権屋敷があったところである。北条が滅びてから、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて、一門の菩提を弔うために、ここに宝戒寺を建てた。開山は慈威和上。七堂伽藍が整っていたが、1538年の火災で焼失。

  

  
上段、堂内、鐘楼、お堂。 下段、参道、参道にある古い墓石、境内のお地蔵様。

第三番札所 祇園山安養院田代寺 (浄土宗、千手観世音菩薩)


 宝戒寺の門前の小町通を真直ぐ南下する。左手に、日蓮上人辻説法跡があり、
更に進むと、右手に大きな寺、日蓮宗本覚寺がある。橋を渡って、左手には比企氏の邸宅跡に建った妙本寺、更に下ると、大町の四つ角に出る。
この四つ角を逗子方面に右折すると、すぐに安養院である。この寺は、坂東33観音にも列せられ、つつじの名所として知られている。
 北条政子ゆかりの寺でもあるが、この地に落ち着くまでに、いろいろな変遷があったと言われる。境内には、政子の墓という宝篋印塔もあるが、当初の安養院から移設したと言われている。本堂前には、立派な槙の大木がある。木の下にある日限地蔵尊は弘法大師の作と伝わっている。
 ちなみに、安養院というのは、政子の「安養院殿如実妙観大禅定尼」という、すごい法号に由来している。



頼朝の家臣田代信綱が千手観音に深く帰依し、報恩のために1192年、尊乗上人を開祖として創建した。鎌倉時代より、坂東第三番札所として敬愛されていた。一方、1225年、政子が頼朝の菩提を弔うために長楽寺を建立したが、政子もすぐに亡くなったので、この寺に葬られた。幕府滅亡の際に長楽寺が消失、善導寺と合併して安養院となったが、江戸時代、再び焼け、田代寺をここに移設したものである。
  本堂内と山門

第十三番札所 稲荷山別願寺 (時宗、魚籃観世音菩薩)


 安養院のすぐ隣と分っていなければ、通り過ぎてしまいそうなお寺。
以前は、もっと民家風の小堂だったそうだが、現在でも、十分民家風だ。
民家の玄関先といった風情のところで、読経し、そこの備えてあった朱印を頂いて来た。
勿論、お布施は置いてきたが、無用心なことだ。










元来真言宗の寺であったが、1282年に時宗に改宗、足利三代の菩提寺として栄え、家康も寺領を寄進している。その後、何故か、荒廃してしまった。

第十一番札所 帰命山延命寺 (浄土宗、聖観世音菩薩)


 別願寺前の大町通りを西へ向かう。横須賀線の踏切を渡るとすぐ左側に延命寺がある。道から続いているような舗装された境内の左手に本堂がある。


 本堂内

以前は地蔵堂であったが、昌誉上人が中興開山し、延命寺となった。

第十二番札所 中座山教恩寺 (時宗、聖観世音菩薩)


 大町通りを少し戻り、大町の四つ角交差点の手前を左に入る。門前では、なにやら人が立ち話。ほぼ同時に、大きなカメラを持った人も門内に。
 本堂前で読経する私のすぐ後ろでは、写真にも写っている花を、盛んに写していた。
右手の奥の方には墓地があって、お参りに来ている人もいた。








北条氏康の開基。知阿上人の開山である。何年の創建かは不明で、当時は光明寺の境内にあったものを1678年、当地に移設した。

 山門と境内の庭

                                                             
 第一日目はここで終了、15時30分頃。鎌倉駅から大船経由で熱海に戻った。所要時間7時間、総歩行数2万9千歩。

2日目に続く